日本独自の卒業式が生まれた背景と「歌」の役割

文学部 有本 真紀教授

2023/03/06

研究活動と教授陣

OVERVIEW

共に歌い、涙し、別れを惜しむ。こうした「感動的」な卒業式は、実は日本独自の文化だといいます。現在の形に至った経緯と、そこから見えてくる学校教育の姿や人々の心情について、歴史社会学・音楽科教育を専門とする文学部の有本真紀教授に伺いました。

「涙の卒業式」が定着した理由

写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロ

「涙」や「感動」、「別れ」のイメージがある卒業式ですが、これは世界でも珍しい日本特有の学校文化です。海外では義務教育段階の卒業に際して特別なセレモニーがない国も多く、あったとしても希望に満ちた「新たなスタート」の場であることが大半です。

では、なぜ日本で「涙の卒業式」が定着したのでしょうか。そもそも歴史をたどると、日本初の卒業式の記録は1876(明治9)年。陸軍戸山学校で始まり、他の高等教育機関にも普及していきました。当初は教育の成果発表という側面が強く、体操や弁論などが行われていたようです。

※1 陸軍戸山学校:1873(明治6)年に、現在の東京都新宿区に開校した大日本帝国陸軍の軍学校。

明治20年代になると、小学校でも卒業式が導入され始めます。1890(明治23)年に「教育勅語」が発布されて以降、数々の学校儀式が新設され、儀式を通した感情教育の重要性が意識されるようになります。卒業式においても「ふさわしい感情や振る舞いを教えよう」という風潮が次第に高まっていきました。加えて、明治の終わりから1947(昭和22)年まで義務教育は6年間しかなく、小学校卒業が人生の分岐点でした。必然的に卒業式は「別れ」を強く意識する場となり、より感動的な式を目指す方向へとシフトしていったのです。

「感動」に不可欠な歌と演出

その過程で大きな役割を果たしたのが歌や演出です。1893(明治26)年に、儀式唱歌が定められたのですが、共に歌うことで生じる一体感は特に卒業式に最適だったのでしょう。初期にはさまざまな曲が歌われましたが、徐々に『蛍の光』が主流になっていきました。

また、現在では「楽しかった運動会!」のような呼び掛けも行われていますが、これが普及したきっかけは、1950年代に群馬県にある小学校の校長を務めた斎藤喜博氏※2の取り組みです。セリフを交え、多彩な演出を凝らした卒業式の台本を書籍として出版したことで、全国の学校に浸透していきました。

※2 斎藤喜博(さいとうきはく・1911~1981):昭和時代の教育者、歌人。子供の可能性を伸ばす教育実践を追求。

※有本教授の資料から作成。

さらに1960年代に入ると、歌のレパートリーが多様化し始めます(表参照)。中でも影響を与えたのが、海援隊の『贈る言葉』のヒット。以降、卒業ソングが数多く誕生し、最初は謝恩会などで歌われ、次第に式本番でも採用されるようになりました。感動を生む演出を追求する中で、難解な古い歌ではなく、感情移入しやすい新たな歌が求められるようになったのです。

コロナ禍を経て「回帰」へ

近年は芸能人の登壇などサプライズ的な演出が増え、今なお進化を続ける卒業式。コロナ禍では出席者を制限し、歌をなくすなど規模が縮小されましたが、この流れが加速することはなく、今後はむしろ「共に歌い、感動する卒業式」に回帰するのではないでしょうか。歴史の中で形成されてきた、みんなで涙を流すことが美徳とされる特別な時間。それを経験したい、経験させたいという欲求が、やはり多くの人の心の根底にあるのだろうと思います。

有本教授の3つの視点

  1. 明治期の小学校で「涙の卒業式」の原型が誕生
  2. 心に残る卒業式を目指す上で「歌」や「演出」が大きな役割を担った
  3. コロナ禍で卒業式は縮小したが今後は回帰へ向かう


プロフィール

PROFILE

有本 真紀

文学部
教育学科 教授

東京藝術大学大学院音楽研究科音楽教育専攻修了。修士(音楽)。1996年立教大学着任、2005年より現職。小学校音楽科の指導法の研究のほか、近代日本の学校教育について歴史社会学の視点から考察している。著書に『卒業式の歴史学』(講談社選書メチエ、2013年)など。

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