音楽という“自由研究„に没頭した立教時代——変幻自在な旅の始まり

音楽家 細野 晴臣さん

2020/10/14

立教卒業生のWork & Life

OVERVIEW

「はっぴいえんど」「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」の一員として活躍、ソロ活動のほか数々の楽曲提供やプロデュースも手掛け、日本の音楽シーンに新たな風を吹き込んできた細野晴臣さん。立教大学在学中にデビューし、2019年に50周年を迎えた。一つの場所にとどまることなく、常に革新的な音楽を生み出し続けた半世紀。しかし当の細野さんは、「好きなことをわがままにやってきただけです」と淡々とほほ笑む。

フォークグループを組んでいた高校時代

音楽への目覚めは幼少の頃。多くのSPレコードに囲まれて育ち、「ジャズバンドのリズムが楽しくて、よくかけていました」。中学からバンド活動を始めた細野少年が埼玉県新座市にある立教高等学校へ進学したのは、当時大ヒットした映画『ベン・ハー』がきっかけだったという。

「キリストの生涯を織り交ぜて描かれた物語に感動し、キリスト教系の高校に行こうと思ったのです」

のどかな郊外の風景の中で、立教高校のモダンな校舎はひときわ目を引いた。「まるでアメリカのよう。級友たちもおしゃれでちょっと気後れした」と苦笑いするが、「香炉で焚かれた乳香が立ち込める朝のチャペルが好きで、礼拝を重んじる聖公会系の学校に入れて良かった。『ベン・ハー』のおかげです」と振り返る。

部活動は音楽部に所属。クラスメートを誘い、「パンプキンズ・フォー」という4人組のフォークグループを組んだこともある。

「文化祭に出て賞をもらいました。そのときが初舞台だったのですが、MCで笑いをとったのも初めてでしたね」

60年代、時代の大きなうねりとともに、音楽も新時代が幕を開けようとしていた。フォークからロックへ——細野さんは、一層音楽にのめり込んでいく。

「フォークブームのさなかにダミ声で荒っぽく歌うボブ・ディランが現れ、衝撃を受けたのです。次々に登場する新しい音楽に圧倒される日々でした」

後に伝説となる出会いと音楽の道への「就職」

大学時代、自宅近くにて

立教大学では社会学部産業関係学科に進学。大学の音楽サークル「PEEP」に参加し、バンド活動を通じて学内外の人々と交流を深めた。このとき知り合った中に、後に「はっぴいえんど」を組む大瀧詠一さんや松本隆さん、鈴木茂さん、演奏・プロデュース集団「キャラメル・ママ」のメンバーなどがいる。

「正門近くのベンチでよく待ち合わせをしていて、そこで音楽仲間を紹介されたことも。ツタの絡まる校舎や、第一食堂の独特な佇まいが好きでしたね」

プロになりたいという明確な思いがあったわけではない。「ただ人一倍音楽が好きだっただけ」という細野さんの前に、思いがけない道が開ける。

「卒業間近に学内の就職窓口を訪ねたらすでに受付期間が終わっていて。自ら留年し、1年の猶予の間に何をやるか決めようとしました。そこへプロのバンドの友人から誘いがあり、結果的にそれが自分の就職になったのです」

69年、「エイプリル・フール」のベーシストとしてデビュー。解散後の70年に「はっぴいえんど」を結成、音楽活動が多忙を極める中で卒業を迎えることになった。そんな大学時代を、こう振り返る。

ロックの新境地に挑んだ「はっぴいえんど」

「音楽という〝自由研究〞に没頭する時間と場所を与えられたという意味で、大事な5年間でした。立教はギスギスしていなくて、居心地が良かったですしね。でも、大学生として模範になることも、カッコいいこともしてこなかった。いまの真面目な立教生の皆さんには、反面教師にしてもらいたいですね(笑)」

ロックのサウンドに日本語の歌詞を融合させた〝日本語ロック〞を確立した「はっぴいえんど」は、いまなお名盤として語り継がれる2枚のアルバムをリリースした後、「燃焼しきったので」72年に解散。その後ソロ活動を経て、78年に31歳で「YMO」を結成、テクノポップの旗手として、国内外で社会現象になるほどの熱狂を巻き起こした。

「30歳の頃、ロックに飽きたんです。全部知ったつもりになって、ちょっと傲慢だったのかもしれない。やめるか続けるかをYMOで試したのですが、結果、やめるわけにはいかないほど売れてしまいました」

変化とは時間そのもの—記憶と知識の蓄積に他ならない

年齢を重ねたからこそたどり着いた地平

83年の「YMO」〝散開〞後、音の世界を旅するように、さまざまなジャンルの音楽を変幻自在に生み出してきた細野さん。活動における転機を聞くと、このような答えが返ってきた。

「自分が生まれた40年代から現在に至るまで、ほぼ10年ごとに音楽を含めたカルチャーや世界の様相が変わってきた。それぞれの時代の変化が、全て転機だったと思います」

特に近年は海外でソロとしての評価が改めて高まり、18年に台北、香港、ロンドンでソロ初の海外公演を実施。50周年イヤーの19年にはアメリカツアーを成功させた。

「誰に聞かせるともなく地味に続けてきたことが世界の音楽好きに知られるようになったのも、情報がネットを駆け巡る時代ゆえですね」

細野さんは、現代の若い世代のアーティストにも大きな影響を与えている。19年には、リスペクトを公言する小山田圭吾さん、星野源さんの選曲によるベストアルバムが発売された。こうした現象を、どう捉えているのだろうか。

「自分の音楽は同時代には響かないものだと思いつつ、これまでの数十年という月日を過ごしてきました。その集大成をいまも聴くことができるから、若い世代に届いたのだと思います」

さらに、こう続ける。

「音楽はその時代の空気や精神を含んだ音響として記録されます。消えずに残ってしまうという点では、ある意味恐ろしいね」

現在73歳。「この10年間は、ロックという枠組みを逸脱したいと試行錯誤してきた」という細野さんは、いまも〝変わらず〞に変わり続けている。

「長らくロックの呪縛から逃れられませんでしたが、歳をとるとそれが自然にできるようになったのです。ポップスは若者だけのものではなく、老練の境地というものもある。つまり、変化とは時間そのものであり、記憶と知識が蓄積されていくことなのです」

歳を重ねたからこそ生まれる音楽がある。比類なき音楽家の旅は、これからも続いていく。

「今後は残された時間でできることをやるだけ。黙々と自分の内面を掘っていくのみです。そうすればまた、女神がほほ笑むでしょう」

プロフィール

PROFILE

細野 晴臣

音楽家

1966年 立教高等学校卒業
1971年 立教大学社会学部産業関係学科卒業

1947年東京生まれ。69年「エイプリル・フール」でデビュー。70年「はっぴいえんど」結成。73年ソロ活動を開始、同時に「ティン・パン・アレー」としても活動。78年「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」を結成、歌謡界での楽曲提供を手掛けプロデューサー、レーベル主宰者としても活動。YMO散開後は、ワールドミュージック、アンビエント、エレクトロニカを探求、作曲・プロデュース・映画音楽など多岐にわたり活動。

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