2021年度チャプレンからの今週の言葉チャペル

2022.3.23

2021年度立教大学卒業礼拝(新座)奨励
立教大学チャプレン 中川 英樹

 「そこに愛はあるんか」
ある、大手金融会社のキャッチコピーです。このフレーズがはじめてCMで放映されたのは、2018年のことでした。この年は、とくに、「森友学園」に関する財務省の文書改ざんが大きな問題となった年でした。連日、財務大臣はじめ、財務省関係者が、真実を追究され、けれどその態度からは、「明らかに何かを隠している」、「誰か守ろうとしている」様が見て取れ、ついには、改ざんを指示された財務局職員が自死するに至りました。「そこに愛はあるんか」との、その言葉は、わたしたちが向き合っている現実に「愛がない」ことを、まるで云いあてたかのように響きました。

 「そこに愛はあるんか」
大人たちが平気で偽りを語る、それがまかり通るということが赦された2018年という年に、この春、卒業する皆さんの多くが、この立教大学に入学されました。皆さんが立教で過ごされた時間、皆さんを取り巻く社会の現状は、「そこに愛はあるんか」・・・・・、そんな「愛の不在」を嘆かざるを得ないようなことがたくさんあったと想います。
 とくに、ここ2年は、新型コロナウイルス感染症の蔓延、それによる人びとの間に生じた懐疑と分断、また今は、ウクライナで多くの人のいのちが傷つけられる、そんな愛のない現実が支配しています。「そこに愛はあるんか」・・・・・、すべてに愛が足りていません。
 そのような中で迎える今日のこの卒業礼拝、皆さんと分かち合いたいと想って選んだ聖書の箇所は、まさに、わたしたちに「愛」についてを語ります。聖書が語る愛についてのメッセージは、素朴です。それは、「互いに愛し合え」ということです。

 20世紀に活躍したユダヤ系宗教哲学者で、マルティン・ブーバーという人がいますが、彼は主著である『我と汝』の中で、「愛は生ずるものである。人間は、その愛の中に住まなければならない、生きなければならない・・・・・愛とは、〈われとなんじ〉の〈間〉にある」と語っています。
 つまり、愛とは、心の中の「所有物」ではなくて、〈わたし〉と〈あなた〉の〈間〉に生ずるもの、その生じた愛の中に、人は住む/生きなければならない・・・・・そのように、ブーバーの愛についての理解を咀嚼することができます。それを聖書のメッセージに重ねるならば、人と人とが互いに愛し合う、現実そのものが「愛」であるということです。
 愛はどこにある?・・・・・ 愛はわたしたちの「間」にあります。

 ところで、皆さんは、立教大学の建学以来のMissionが何か知っていますか。それは、「神の愛に倣う人」、すなわち「愛のある人を創造する」ということです。そして、その立教で学ぶ皆さんのMissionは、「愛のある人になる」ということです。皆さんが立教を巣立って往くその先は、「そこに愛はあるんか」と嘆かざるを得ない、そんな「愛が足りていない」現実の直中(ただなか)なのかもしれません。
 しかし、皆さんはここ立教で、「愛」について確かに学んだのです。立教を卒業する皆さんのMissionは、これから「愛のある人になる」ことから、「愛のある人を生きる」ことへと変わって往きます。「愛の不在」を嘆くのではなく、皆さんが愛を創るんです。この先出会う多くの人たちとの、その「間」で愛を生き、愛を創ることが、皆さんの新しいMissionとなります。

 「そこに愛はあるんか」 じゃあ、愛とは何か・・・・・
むかし、ある雑誌に、「金属の性質」について書かれているものを見つけ、興味を持って読んだことがあります。それは、金属は固体にも液体にも変化するということです。誰でも知っている当たり前のことですが、その固体にも液体にもなる金属の現象学的なアプローチに、すごく考えさせられました。金属は、さまざまな異なる分子によって構成されていて、その分子が規則正しく整列している状態を「固体」、逆に、その分子がバラバラに、でも一つ一つ壊れず緩やかにつながっている状態を「液体」と呼ぶのだそうです。金属は、固体のままでは他を受け入れることができない・・・・・でも、液体になると、他のものを受け容れることができる。溶け合って、他と結びついて、違う物質に自らを変えることさえできると云うのです。
 「愛」というありようも、どこか金属に似ていて、ギュッと固まってしまうと誰かを追い出してしまったり、逆に閉じ込めてしまったり、でも、ユルッと溶けたときには、人を迎え入れることが容易にできたりして、そのつながりを、全体を、もっと豊かに変えることさえできる。
 けれど、液体は冷えるとすぐ固まってしまう。だから、溶けている状態を維持するためには、いつも熱い火で熱せられている必要がある。全てを溶かし、でも、それぞれの価値をそのままに保つために互いが溶けて、溶かし続けていなかければならない、そのために、また「愛」が必要になる。その愛だけが、互いに溶け合って、結びついて、「愛」というカタチを維持してくれるのだとわたしは信じていたいのです。
 この雑誌のその小さな一文は、そんなことを考え、イメージさせてくれるものでした。そのことに想いを拡げられて、もう一つ想うことは、液体は下に向かって流れるということです。
 「自分は独りなのではないか」
 「こんなわたしを助けてくれる人なんて誰も居ない」
そんな嘆きが聴かれる深い心の底へ、誰かに愛されることを心底必要としている人の処へ、その低みへと、愛は流れて往く。溶けながら、でもつながって、自分を変えながら・・・・・。そんな「愛」の中に生きる者でありたいと想うのです。
 溶けるのは、混ざり合って、この「わたし」という存在が消えてなくなってしまうためではなく、誰かとつながって、このわたしが「わたし」として生きるためです。「愛」の流れ着くところは、この「わたし」であり、「あなた」なんだと信じます。

 あと、もう数日すれば、たくさんの想い出の詰まったこの立教大学から、それぞれ選んだ道へと踏み出して往く皆さんへ、心から「おめでとう」と云いたい、そして「ありがとう」を伝えたいと想っています。
 どうか、愛に辿り着いてください。そして、その愛に生きてください。その愛を生きることで、愛の流れ出す泉となってください。立教を卒業する皆さん一人ひとりの中に、神からの愛が豊かに流れ込みますようにと祈りつつ、この卒業礼拝での奨励とさせていただきます。
 ご卒業、まことにおめでとうございます。

2022年3月23日
2022.3.7

ウクライナのための祈り
ウクライナのための祈りについて

2月27日(日)にカンタベリー大主教とヨーク大主教から、ウクライナとロシアのために、そして平和のために祈るようにキリスト者に呼びかけられました。また3月2日の「灰の水曜日」には、フランシスコ教皇が「世界平和祈願・断食の日」を守るように呼びかけています。Thy Kingdom Comeのホームページや英国聖公会のホームページでも、世界の平和のための祈りへの参加が呼びかけられています。
また、WCCやNCCでも声明が発信され、祈りの呼びかけがなされています。

以下に、カンタベリー大主教とヨーク大主教の連名で作成された祈りの日本語訳をお届けいたしますので、大斎始日の礼拝や主日の礼拝の中で用いてくだされば幸いです。

日本聖公会
正義と平和委員長  主教 上原榮正
管区事務所宣教主事 司祭 卓 志雄

———————————————
ウクライナのための祈り

正義と平和の神よ、
わたしたちは今日、ウクライナの人々のために祈ります。
またわたしたちは平和のために、そして武器が置かれますよう祈ります。
明日を恐れるすべての人々に、あなたの慰めの霊が寄り添ってくださいますように。
平和や戦争を支配する力を持つ人々が、知恵と見識と思いやりによって、み旨に適う決断へと導かれますように。
そして何よりも、危険にさらされ、恐怖の中にいるあなたの大切な子どもたちを、あなたが抱き守ってくださいますように。
平和の君、主イエス・キリストによってお願いいたします。
アーメン。

ジャスティン・ウェルビー大主教
スティーブン・コットレル大主教
2022.1.24

「ところが主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
(コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章9節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

使徒聖パウロ回心日を覚えて

 11年前、東日本大震災発生後、卒業式・入学式が中止されました。2年前、新型コロナウイルス感染症拡大により、卒業式・入学式が中止されました。努力してみても、願ってみても、どうにもならない状況に揺さぶられながら、わたしたちはその都度、助け合いながら、思いを寄せ合いながら、何とかこの時代を生きてきました。年度末と次年度を見据えた今も不安の渦中であり、心が壊れないようにするので精一杯かもしれません。
 「聖パウロ」の名をいただく立教大学・立教学院(St. Paul’s School)は、聖パウロ回心日(1月25日)を大切に覚えます。パウロの「回心」とは、価値観もライフスタイルも真反対にひっくり返すこと-キリストの迫害者から伝道者へ—です。そしてパウロは、ひたすら旅を続け、出会ったこと、伝えられたこと、考えたことを語り続けました。それが幾度も否定され、軽んじられ、怒ってしまったり、失敗や挫折もあったでしょう。そんなパウロに想いを寄せて、12年前に書き留めていた言葉を今、読み直しています。これからも、人生の旅を続ける皆さんと共に、この拙い気づきを巡らしたいと思って、冒頭のパウロの言葉に併せて贈ります。共に、今のこの時代を生きてゆきましょう。

パウロは壊れた人〔聖パウロ回心日〕(2010年1月25日)
 パウロは壊れた人だ
 ダマスコ途上で、壊れた / いや、それ前から、壊れていた
   ただ、パウロ自身は、壊れているとは思っていなかった。
 積み上げられている途上と思っていた / 何を積み上げようとしていたのか
 バベルの塔を神はくずされた / バベルの塔は壊されなければならない
   建築中に 言葉、思いは 壊れていた。
 何を積み上げるべきか? / 「天に富を積みなさい」と? 
   そうか、何も積み上げなくてよいのか
   壊しては建て、壊しては建て、をくりかえさなくてよいのか…
 パウロは壊れた人だ
 自分で自分を建てなかった / 建てられないほど壊れた
 けれど、建てなくてよいことを / パウロは気付いた。
   自分の家を建てなくてよい、と
   本当の安息の家に身を寄せられる ということを、知ったのだから。

2022年1月24日
2022.1.17

起きよ、光を放て。
あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。
(イザヤ書 60章1節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

 新たな2022年に入りました。今年も皆様の上に、祝福された1年であるようお祈りします。一昨年からの新型コロナウイルスの感染拡大は一時収まりつつあるかと思いましたが、再び急増傾向となっています。日本でも死者数は現在、1万8千人を超えています。人口が日本の約半分の英国では死者数が15万人を超えました。世界の回復を希求します。

 冒頭の聖句は、10年前の聖句目標でした。前年の東日本大震災がもたらした課題を踏まえ取り上げましたが、今年に入り改めてこの聖句が響いてきます。このイザヤ60章1~6節は、顕現日(1月6日)の旧約聖書朗読個所であり、力強い励ましを受けます。特に「輝く」という表現に注目したいのです。「輝き出る」とした方が良いように思いますが、1節から3節にそれぞれ「輝く」という言葉が出てきます。1節「主の栄光はあなたの上に輝く」、2節でも「あなたの上に主が輝き出る」、3節にも若干訳しにくいところですが「輝き」が出てきます。

〔イザヤ書〕(新共同訳)
60:1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。
  2 見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。
  3 国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。

 イザヤ60章1節から3節のモチーフが何かと言えば、「主の栄光」であります。こうした栄光がシオン(エルサレムの愛称)に現れるという、まさにシオンの復興というものが、60章から62章に語られてきます。旧約の民は、紀元前587年の国家滅亡、神殿崩壊さらに多くの者が敵の地に捕らえ移されるバビロン捕囚という苦境を生き抜きます。
 この60章は、そうした捕囚から解放され、再び祖国に戻り、荒廃と混乱の中にあっても、まさに希望が見えない状況の中にあっても、この地に神の栄光が現れるのだ、そう告げられて行く文脈であります。捕囚によって離散した民が戻り、故郷のシオンが回復される、そこにシャローム(平和)が満ちるというのであります。
 今や苦境の中にある人々の中に光が昇り、主の栄光が輝く、こうした希望を見出していく新たな年でありたいのです。

2022年1月17日
2021.12.20

神に向かってわたしは声をあげ、助けを求めて叫びます。
神を思い続けて呻き、わたしの霊は悩んでなえ果てます。
心は騒ぎますが、わたしは語りません。
(詩編 77編2、4、5節)
立教大学チャプレン トーマス・プラント

 かつて、戦闘衛生兵の訓練で学んだ一番重要な教訓は「トリアージ」でした。負傷者搬送の訓練では、大きい声で叫んでいる負傷者ではなくて、声を出すことのできない負傷者を優先するようにと教わりました。大声を出せる人は、出せない人より重症度が低いからです。
 降臨節では、洗礼者ヨハネに焦点が当たります。聖アウグスティヌスは聖ヨハネを、「言」に先立つ「声」と呼びました。「声」としての聖ヨハネも、「言」としての主イエスも、はじめは、話すことのできない赤ん坊の姿をとって生まれました。
 身ごもった聖母マリアが親類のエリザベトを訪ねたとき、マリアの胎内の主イエスの神聖な存在を認識して、エリザベトの胎内の聖ヨハネは「おどった」と記されています。これに対して、胎児のイエスは静かに「黙って」いました。実に、人生の最初の30年の間、12歳の神殿の出来事以来、イエスは、その口から一言も話されることはありませんでした。30年後、ピラトの前に立ったときもイエスは黙っておられました。「言」は、大きな声で語ることを好まないようです。たとえ語られるときでも、言は、例え話に意味を隠して静かに語られました。
 けれど、降臨節における、キリストからのメッセージは、はっきりと「目を覚ませ」というのです。近年、英語圏の若者たちの間で「woke/目覚め」という言葉が流行っています。これは、今、現実におきている、人種差別やジェンダー差別などの社会課題に目を覚まさせようとするものです。
 間違いなく、かつて黙らせられた人たちの声が今、聞こえるようになってきました。しかし、未だに大きな声の人たちによって、とくに、自分では声を発することのできない胎児や認知症などで虐待される高齢者たちの叫びが黙らせられる危険性があります。教会の大事な務めは、声を発することができない人たち、黙らされた人たちの声を聴くことです。
 言はベツレヘム(ヘブライ語で「パンの家」)で生まれました。今年の降臨節、声を発することができない人たち、黙らされた人々、また動物や自然、そして、とくに、祭壇に献げられた沈黙のパンの内に、神の沈黙の声を聞いてみましょう。

2021年12月20日
2021.12.13

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
(ヨハネによる福音書 15章16節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「ユダのモデル」

 レオナルド・ダビンチの「最後の晩餐」は、イタリア・ミラノにある、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として描かれました。とても有名な絵画で、知らない人はほとんどいないはずです。「最後の晩餐」は1498年に完成したと云われています。500年以上も昔の作品ということになります。

 さて、ダビンチが、この「最後の晩餐」を描いていたときの様子を伝える、古くから伝承されて来た話があります。

 ダビンチは、ピエトリ・バンディネッリという魅力的な青年をキリストのモデルに選びました。絵の完成には何年もかかりました。最後に、イエスを裏切ったユダの部分が残りました。ダビンチは町のあちこちをユダのモデルを捜して歩き、そして、やっと、ユダのモデルにぴったりの男を見つけました。その男は人生の全てを諦めきって疲れた表情をしていました。絵を描き始めてしばらくしたころ、ダビンチは、どうもその男に見覚えがあるように思ったので、どこかで会ったことがあるか、と訊ねました。すると、男はバンディネッリと名乗りました。

 実証のない言い伝えではありますが、キリストのモデルと、ユダのモデルが同一人物だったコトに深い意味を覚えます。絵画の中で、救い主であるイエスが、裏切りのユダになった、ということ・・・・・ ここに神の救いの神秘を思います。イエスは自らがユダになることで、ユダを裏切りの淵から救おうとされたのではないか。イエスは自らがユダになることで、ユダの「過ち」を赦そうとしたのではないか。そのような救いの神秘に想い至ります。
 神の救いは、イエスが一緒に苦しんで深く傷ついてくれるところで実現します。神は、イエスと共にわたしたちの哀しみや悔しさ、諦めを知っています。イエスがそっと傍らに寄り添ってくれる、だから、わたしたちは、また顔を上げることができたりするんだと思います。

 クリスマスは、その神の御子イエス・キリストの誕生を感謝する祝祭です。

2021年12月13日
2021.12.6

私は耐えて主に望みを置いた。
すると主は私に向かって身を乗り出し/私の叫びを聞いてくださった。
私の口に新しい歌を/我らの神への賛美を授けてくださった。
(詩編 40編2、4節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 肌寒い日が続き、街中がクリスマスムードに包まれています。11月の半ばから、イルミネーションが灯され、クリスマス・キャロルがいたるところで聞こえ、もうクリスマスが「来てしまった」かのようです。私はそれがちょっとだけもったいなく感じます。なぜもったいないかというと、クリスマスのお祝いの日が近づいてくるワクワク感、今年はどのようなクリスマスになるのか想像を膨らませるドキドキ感、そんなふうに楽しみに待っている時間を手放してしまっているように思えることです。

 行列のできる飲食店では、舌鼓を打つためにたくさんの人が待っています。テーマパークでは、数分間のアトラクションを楽しむために何時間も並ぶことがあります。きっとそれらの人は並んで待っている間、イライラ、ソワソワしながらも、ワクワクして待つ時を過ごしていることでしょう。その時間が、手に入れる美味しさや喜び、楽しみを大きくします。希望と期待を膨らませて待っていたからです。

 クリスマスは、キリストが生まれた出来事に想いをきたす時ですが、それはあと少し先です。ムードや雰囲気などだけで楽しみを先取りしてしまわず、今はまだ、近づいているけれどまだ来ていないクリスマスに期待していたいのです。

 「あなたは愛されている、だから安心していきなさい。」
命を生かすメッセージを伝え続けるキリストが私たちと共にある、
そのキリストが生まれたことをみんなで「おめでとう」「ありがとう」と喜び合う、
恵みの時は、もうそこまでやってきています。

 でもあとちょっと、もう少しだけ、このワクワクを味わったままにしておきましょう。
私たちが真の喜びに与るために。

2021年12月6日
2021.11.29

これを子孫に隠すことなく
主の誉れと力を
主がなされた奇しき業を
後の世代に語り伝えよう。
(詩編 78編4節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

未来の私への手紙を書いておこう!

 学生キリスト教団体(チャペル団体)各部は、次年度のスタッフ(役職)を決める時期です。そのために、どのような役割、職務を担うのかについて、「振り分け(分担)」や「引き継ぎ」において、苦心している状況が見られます。
 実は、「振り分け(分担)」も「引き継ぎ」も、十全に職務を遂行するためには、高いスキルや経験を要するものだと私は思います。やることを「振り分け」たいけれど、それを担った部署が機能停止になるよりは、「私がやってしまった方が手っ取り早い」と抱えてしまうことがあります。また、「引き継ぎ」のためには、前年度の記録や「マニュアル」を丁寧に確認しながら遂行するべきなのですが、「自分のやり方」で進めて、結果、立ち行かなくなったり、その年度限りの出来事になってしまったり…、と自戒を込めて思っています。
 それでも学生たちは、「引き継ぎ」にも真剣に取り組んでいますが、「マニュアル」を受け継いで、実践し、更新して、増補、改正して引き渡す、ということの大きな困難に直面しています。昨年度からの「コロナ禍」2年間により、それ以前の「マニュアル」の実践、更新、増補、改正の無いものを引き継いで、遂行しなければならないからです。大学4年間、中学高校なら各3年、小学校6年の、心身ともに濃密な経験を積む時期の「2年間」という「停止」や「制限」は、大きな「ダメージ」であることは、悔しいけれども事実です。その「空白」や「ほころび」を補うことはできません。もはや、コロナ禍前のマニュアルに戻せれば収束するわけでもありません。
 だからこそ、この「ダメージ」を経験にしてゆくしかありません。この間の出来事や経験からの思い、その時の思いを、できる限り正直に、克明に、素直に記録しておくこと、それが後世への歴史的「引き継ぎ」にもなるはずです。たとえば、未来の私へ、今の私の思いを報告する、そんな「数年後の私への手紙」を書いておくのも良いかもしれません。

2021年11月29日
2021.11.22

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
(ヨハネによる福音書 3章16節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

アドベントと神の冒険-降臨節に向けて-

 今週は降臨節前主日に入り、教会暦では1年の最後の週となります。来週はいよいよ1年の始まりである降臨節(アドベント)に入ります。今月末にはイルミネーションも点灯し、クリスマスが近づきつつあります。この時期私たちは年末も重なり、何か慌しさもあります。しかしそうした中にあっても、大切なものを心に留めながらこの時を過ごしたいと願います。
 さて近づくクリスマスにあたり、神は大変な冒険をしました。聖書によれば、「神はその独り子をお与えになった」とあります。
 アドベントと似た言葉に、アドベンチャーという言葉があります。アドベンチャーは、冒険であります。この二つの言葉は、一つのラテン語の動詞、アドベニーレに由来していると指摘されます。この動詞は、何かが起こってくる、ある事件が起こってくる、思いがけないことが自分の前に立ち現れてくる、という意味を持っています。そこでこのアドベントとアドベンチャーを結び付けますと、アドベントは何かを待つという時だけではなく、むしろ神が冒険をする、神が思いがけずに私たちの前に立ち現れてくる時としての意味が秘められてきます。神が冒険するのです。まさに冒険する神であります。冒険する神の姿は、アブラハムやモーセなどを通して旧約聖書の中に見ることができます。そしてその究極はイエスキリストの誕生に集約されます。
 この誕生の出来事には、神の一大決心があります。この決断は、大きな愛を示した神の冒険と言ってよいかと思います。この神の愛は、まさに冒険の愛であり、犠牲の愛であります。アドベントが始まろうとしていますが、私たちは目を覚ましつつ、その独り子を世にたまわった神の大きな冒険・犠牲を心に受け止めていきたいのであります。

2021年11月22日
2021.11.15

そこで、子たちは皆血と肉とを持っているので、イエスもまた同じように、これらのものをお持ちになりました。それは、ご自分の死によって、死の力を持つ者、つまり悪魔を無力にし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた人々を解放されるためでした。
(ヘブライ人への手紙 2章14~15節)
立教大学チャプレン トーマス・プラント

 世界中のスーパーマーケットの倉庫には、誰も必要としない黒やオレンジ色のプラスチック製のガラクタが溢れています。ハロウィーンからの残り物です。
 私の母国イギリスでは、ハロウィーンはクリスマスに次いで、イースターよりも人気のある「お祭り」になってきました。とはいえ、残念ながら、ほとんどのイギリス人にとっては、クリスマスといえばサンタ、イースターといえばチョコ・エッグ程度の意味しかありません。そもそも、クリスマスが「キリストの誕生のためのミサ」を行うこと、イースターがキリストの死からの復活を祝うことだということを知らない人も多くなってしまいました。だから、人々がハロウィーンの意味を知らないのも無理はないでしょう。
 ハロウィーンは本来、キリスト教の祭礼に由来しています。名前にそのヒントがあります。"Hallow "は古い英語で "saint "を意味します。"E'en "は "evening "の略です。クリスマス・イブはクリスマス・デーの前夜、イースター・イブはイースター・サンデーの前夜と同じように、ハロウィーンはAll Hallows Eveの略で、つまり諸聖節の前夜なのです。
 しかし、ハロウィーンがキリスト教会のすべての聖人の記念日ならば、なぜ悪魔やオバケのような格好をするのでしょうか?実はこれは、悪魔を笑うという、キリスト教の古い伝統に由来しています。悪魔はプライドが高いので、人々にどうしても真剣に受け止められたいと思っています。でも、悪魔がキリストの十字架によって打ち倒されたから、私たちは悪魔を笑うことができるのです。この世でどんなに悪が力を持っているように見えても、最後には必ず負けます。
 もしハロウィーンが邪悪なものを祝うものになってしまったら、それは大いに問題だと思いますが、悪魔をからかうという意味で行うのなら、クリスチャンも、すべての聖徒たちと一緒に、楽しく参加しても良いと思います。
プラスチック製のガラクタは、どうでもいいですけど。

2021年11月15日
2021.11.8

あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。
彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。
(ヘブライ人への手紙 13章7節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「かけがえのなさ」

 キリストに結ばれた教会にとっての11月は、1日の「諸聖徒日」、2日の「諸魂日」を記念することからはじまります。諸聖徒日には、キリスト教会の歴史の歩みを支え導いた諸聖人たちが覚えられ、諸魂日には、先に、主の御国へと召された、すべての信仰者たちが想い起こされます。
 
 仏教では、亡くなった日のコトを、「命日(めいにち)」と呼びます。最近は、教会でも、帰天の日、逝去の日を「命日」と呼ぶようになっています。命日は、「命(いのち)の日」と書きます。キリスト者にとっての命日とは、キリストの復活のいのちに結ばれて、新しいいのちを得た日のことです。その意味で、「諸聖徒日」、そして「諸魂日」は、世を去りしすべての信仰者たちの「命(いのち)の日」、今も世に在るわたしたちにとっては、その「かけがえのなさ」を想う日と云えるのかもしれません。

 わたしたちには、各々に「かけがえのない」人が居ます。
 「かけがえのない」を、辞書で引くと、そこには、他に代わりになるものがない、唯一無二のモノ、とあります。そうした「かけがえのなさ」とは、それを失ってはじめて気づかされることが多いように想うのですが、実は、「かけがえのない」モノとは、どんなに状況が変わろうとも、たとえ、「死」という現実が、その間を引き裂くことがあったとしても、ずっと同じ、そのままで、何も変わることなく、在り続けてきたのであって、失ってはじめて「かけがえのない」存在になったのではないと想うのです。

 「かけがえのなさ」は、人と人とのつながりの中に生まれます。
 11月・・・・・ キリストの教会は、世を去りし一人一人をすべて「かけがえのない」人として覚えます。忘れないのです。教会は、この自らの営みのうちに、永遠のいのち、終わることのないつながりを確信します。

2021年11月8日
2021.10.25

なぜなら、「私は恵みの時に、あなたに応え/救いの日に、あなたを助けた」
と神は言っておられるからです。今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。
(コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章2節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 秋の風に吹かれ、肌寒さを感じる気候になりました。急に季節の移り変わりを感じると、あっという間に、気付かないうちに時間ばかりが過ぎてしまうような感覚になります。

 でも、子どもたちの豊かな心は少し別の感覚のようです。私が働く教会には併設の幼稚園があります。園児たちは、秋になり園庭の樹木の葉が少しずつ紅葉していくのを見て、「寒くなったから木も秋のお洋服にかわっていくんだよ」と物知り顔で周りの子たちに教えたり、葉が次々に落ちる様子を見て、「この間までは若い人だったのに、ウチのおじいちゃんみたいに(髪が薄く)なってきた」と言って微笑み合ったり…。子どもたちは時の流れの中で、その日、その時を感じ、見つめています。知らない間に、気が付かないうちに過ぎてしまうのではなく、移っていく時をちゃんと過ごしています。

 何も変わらず、何となく時間が過ぎていっているのではなく、今日という日を私たちは過ごし、新しい毎日を積み重ねています。嬉しいこともそうでないこともあるけれど、日々新しさの中へと歩みだしているのです。
 キャンパスに学生の姿が増え景色が変わってきました。まるでキャンバスにたくさんの色彩が重ねられていくようで、嬉しくなります。その日という景色を、みなさんはどのように感じ、どのように見つめておられるでしょうか。

2021年10月25日
2021.10.18

イエスはお答えになった。「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時のしるしは見分けることができないのか。」
(マタイによる福音書 16章2~3節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

積極的な受動態で

 対面するときはマスクを装着していたので、オンライン画面越しで「マスクを外したあなたの顔を初めて見ました」と言われ、そうなのかと思ったことが最近ありました。今年度、知り合った人でした。教室での授業が回復しつつある今、マスク越しの対面は当分続きそうですが、同じ空気の中で(ただし、風通しを良くして!)、互いの息づかいを感じ合えることの尊さを満喫いたしましょう。
 昨年来、新型コロナウイルスの感染者数や重症者数の増減に、日々翻弄されてきた人類ですが、遠からず免疫や治療薬を獲得するでしょう。個々のウイルスに対して、人類はそれを克服することができるのです。しかし、「空模様」(天候)はどうでしょう。「空模様を見分けること」はできますが、人類にそれを変えることはできません。明日雨が降るならば、そのための対応が人類にできることです。つまり人類は、「時のしるし」を見分けることはできても、それを変えることはできないという限界の中で、どう生き抜くかの知恵をつけてきたのです。それが人類の進化とも言えるでしょう。元来、人類は、天地万物の事象に対しては、どうしたって受け身(受動態)なのです。であればこそ、「積極的な受動態」でありたいと思います。主イエスの言葉は、今の時をもしっかりと見分けて、対策して、共に生き抜くための知恵を、鼓舞しているように聞こえます。

マスクをしたときの祈り
(2020年9月、リチャード・ボット;カナダ合同教会 総会議長による)
 造り主なる神よ、世に出て行く備えとして、この布を着けて聖奠/秘跡(サクラメント)に与る私を助けてください。これこそ「内なる恵みの外なるしるし」であり、隣人を自分のように愛するという、愛を生きるための、具体的で目に見える仕方です。
 キリストよ、私の唇は覆われていますが、心の覆いを取り除いてください。人は私の笑顔を見るでしょう、目の周りのしわにおいて。また、声がこもるので、はっきりと話すのを助けてください。私の言葉だけでなく、私の行動においても。
 聖霊よ、弾力性のあるもの(ゴム)が耳に触れていますので、人の言葉を、注意深く聞くことができるように、私の心を開いてください。今日、出会うすべての人に心を配り、この素朴で小さな布が、盾(シールド)と旗印(サイン)になりますように。
 これによって守り合う各々の息が、あなたの愛で満たされますように。
 主の御名によって、そして、主の愛によって祈ります。アーメン、アーメン。

2021年10月18日
2021.10.4

二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」
(ルカによる福音書 24章32節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

この聖書(よいほん)のことばを
うちがわからみいりたいものだ
ひとつひとつのことばを
わたしのからだの手や足や
鼻や耳やそして眼のように
        かんじたいものだ
ことばのうちがわへはいりこみたい
          (八木重吉)

 この詩には、聖書を読もうとする私たちの心構えが述べられている。
 15年前、北関東教区聖職養成神学塾の講師に、速水敏彦司祭をお招きした。初回の講義の時、先生はこの八木重吉の詩を配布された。聴講生は、原稿用紙に手書きで大きく書かれたこの詩を口ずさんだ。そしてこう語られた。「わたしたちは聖書の各文書が書かれた事実を学ぶことが必要ですが、何よりも『心を込めて学ぶ』ということ、つまり、そこに記されている言葉、特に、イエスさまと心を通わせて学ぶことが大切です。単に知性と感性をもって学ぶだけでなく、心を開き、心を通わせて学ぶことです。また『深く味わう』ことが大事です・・・」と。あらためて詩の「ことばのうちがわへはいりこみたい」が響いてくる。
 速水司祭は、本学チャプレン、文学部キリスト教学科教授、退職後はチャプレン長、院長を歴任し、2008年に逝去された。逝去される直前まで聖書の学びに力を注ぎ、最期は何か神に抱きかかえられるかのように、安らかに天に帰られた。3年前の2018年10月6日、逝去10周年記念式をチャペルで行い、しなやかに生きられた先生を偲んだ。ふと13年前を振り返る、今週である。

2021年10月4日
2021.9.27

「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」
(ルカによる福音書 8章16~17節)
立教大学チャプレン トーマス・プラント

 広く知られているとおり、韓国はキリスト教徒が多い国です。その理由は、今月の聖人の一人から明らかになります。

 数世紀の間、日本と同じように、韓国は鎖国されていました。海外から宣教師が入国することが禁止されていたのです。しかし、18世紀に、北京の大使館を通じて、韓国人の貴族の方々がキリスト教のことを知るようになりました。キリスト教についての本を読んだりキリスト教宣教師と話したりして、洗礼を受け、キリスト教の信仰を自分の国に広め始めました。

 それはもちろん禁止でした。19世紀の間に、中国人とフランス人の司祭たちを含めて、1万人以上のキリスト教信徒が政府に殺されたのです。

 毎年9月20日に、教会は聖アンデレ・キム・テゴン(金大建)神父を記念します。キム神父は韓国人で初めての司祭でした。マカオでひそかに牧師として学び、1845年に韓国に帰国、その翌年、政府に殺されたのです。当時、男性、女性、そして子供たちも含む103人の韓国人殉教者が、皆、国に殺されました。その人たちの死を無駄にしないように、韓国人のクリスチャンたちは自分の信仰を守っているのでしょう。

 教会暦では、殉教者の色は赤です。赤はやっぱり血の色を表していますが、聖霊の火も表している色です。その韓国人の殉教者は自分の信仰を秘密に行わなければならなくて、「灯火を器で隠した」のですが、今は、彼らの光が天国から韓国の教会を照らしているのです。聖アンデレ・キム・テゴンたちの力は誰にとっても素晴らしい証だと思います。

 秋学期が始まるこの時期、紅葉を見ると、その殉教者のことを思い出しませんか。

 「聖アンデレ・キム・テゴンよ、苦しみと心配の中で、私たちにあなたの勇気の一部を与えるように、主イエスにお祈りください。アーメン。」

2021年9月27日
2021.9.20

今や、恵みの時、今こそ、救いの日。
(コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章2節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「たった一度の出会いの」

 去る9月4日、那覇市小禄の修道院で、一人の老神父が、静かに、その90年という生涯を閉じられました。ラサール・パーソンズ神父。1958年カプチン・フランシスコ修道会沖縄地区の宣教師として派遣され、来沖して以来、半世紀以上に亘って、沖縄の地でのキリストの福音の宣教に献身され、また沖縄における反戦平和運動を積極的に推進された方でした。ラサール神父逝去の報は、沖縄タイムス、琉球新報などにも記載され、そこからも、沖縄にとって、ラサール神父が大切な存在であったことが判ります。

 わたしがラサール神父とお会いし、言葉を交わしたのは、沖縄に暮らす友人を介して、食事をご一緒した、その一度だけです。たった一度の出会いでしたが、ラサール神父はわたしの心の中に留まり、わたしの記憶に遺る人となりました。わたしは、沖縄を訪ねた際は「巡礼」と称して、一人で沖縄の戦跡などを廻ることを続けているのですが、人生の大半を沖縄で過ごし、沖縄の人と共に沖縄の過去を見つめ、沖縄の平和を希求し、ときには、言葉にはできないような辛苦を散々重ねてきたであろう、そのラサール神父が、しわをたくさん刻んだ、その顔で、ときにユーモアを交えて語る言葉の一つ一つには、好きなときに沖縄に来て、それを「巡礼」と称して語る者への「戒め」のようなものがありました。自分が恥ずかしくなったことをハッキリ覚えています。そんな、たった一度限りのラサール神父との出会いは、わたしの沖縄への想いをまた新たにするときでもありました。

 ラサール神父の逝去のことを先の友人に聞き、少し、神父のことを調べてみました。ラサール神父を応援するブログの中に、こんな神父自身の言葉を見つけました。「6.23は戦争犠牲者を慰霊する日だけではなく、沖縄のウガンジュ、つまり『祈る心』が焼き払われた日です。」 ラサール神父にとって、沖縄でキリストの福音を生きるということは、平和を実現することであり、焼き払われた祈りを回復することだったのではないか・・・・・。今、神父の魂の平安を祈りつつ、そんなことを想い巡らしています。
 ラサール・パーソンズ神父。そのように生き抜かれた、一人の神父が沖縄に確かに居た、ということを、わたしはこの先も忘れないでいたいと想っています。

2021年9月20日
2021.7.19

弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
(ヨハネによる福音書 20章19節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 with コロナ、after コロナ、コロナ禍、コロナ時代…。
 「今」を表すたくさんの言葉が語られていますが、わたしたちはどこを生きて、どこに向かっているのでしょうか。早く収束してほしいと願いながら、日々の生活ではたくさんのことに気をつけていつも緊張している、だけど、それほどすぐに収まることでないとどこかで理解していて嘆息する、その繰り返しです。できるだけ出かけないように、人に会わないように、談笑したり会食したりしないように努めているけど収束という結果は見えてこない、この現実に深いところで「疲れた」と感じていることに気づかされます。みんなが疲れている、いったい誰がこの笑えない現実を想像していたでしょうか。

 家の中にいて、誰にも会わず、誰とも関わらないことが、こんなにもつまらないものとは思わなかった、との声を耳にします。初めはそれが楽だと感じたこともあったかもしれないけれど、やはりひとつの場所に留まらないで外に出て、誰かと会って話をして、何かを食べたり飲んだりして、そこに楽しさが生まれていくこと、笑える現実を創造していくことが、わたしたちに必要な「遊び」だったのではないでしょうか。その遊びは戸が内側から思い切り開放されるところ、まさに「心置きなく」解放されるところでこそ、本当の楽しみが生まれていくのです。

 まだ、わたしたちはつまらない現実を突きつけられることから自由になっていません。「家の中」にいながら、自身の心に不安と心配を抱え、たくさんの人を想って祈る日々はもう少し続いていきます。だけど人に会い「あなたに会いたかった」「あなたに会えてよかった」と互いの存在を祝福し合う日が必ずやってくるのです。その日を待ち望みながら誰かを想う日々は、たとえ戸を閉めていても心に「平和」を創り出すときとなるのではないでしょうか。

2021年7月19日
2021.7.12

「私はあなたを大いなる国民とし、祝福し
あなたの名を大いなるものとする。
あなたは祝福の基となる。」
(創世記 12章2節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

あなたが「祝福」となる

 今、わたしたちにとって必要な言葉は何でしょう。今、この時、あなたがかけてほしい言葉は何でしょうか。
 イヤな言葉、余計な言葉は、つい口をついて出てしまいますが、イイ言葉、必要な言葉は、なかなか言い出しにくいようです。
 「疲れたー」「ダメだー」「引くわー」「ムカつく-」「残念…」「がっかり…」等、自分に対してだけでなく、他者についての批判、愚痴、苛立ちなどが、つい口をついて出てしまうほど、これらは言葉化しやすい感情なのでしょう。
 けれども、「イイね」「スゴイね」「よかったね」といった共感や賛同、さらには称賛の言葉を、わたしたちは、心のどこかで絶えず求めているようです。たとえお世辞だとわかっていても、過分な言葉だ、大げさだと感じていても、言われたら嬉しくなることがあります。それで良いのです。イイ気分になって、それを自分の励み、やる気にすれば良いのです。
 「離れてください」、「集まらないでください」、「出歩かないでください」、「黙ってください」といった禁止指示に囲まれた今、「ご協力ありがとうございます」の一言があるかどうかで、印象が変わります。まだ協力していなければ、協力しようと思えます。「ありがとう」の一言が効いているのです。「ありがとう」、これは、今、かけてほしい言葉、必要な言葉の一つだと言えましょう。
 小学生の頃、「たいへんよくできました」というハンコをノートにもらってイイ気分になったことを思い出します。このハンコのような言葉も、今、皆が欲しがっているように感じます。でも、まだその途上なのです。この長引く危機に振り回される中で、繰り返し押し寄せる波に揉まれる中で、それを乗り越えた後の「たいへんよくできました」という太鼓判を早く押してほしい。その日を誰もが待ち望んでいる途上なのです。そのような今、この時、一番、かけてほしい言葉は何なのでしょう。
 イスラエル・ユダヤの父祖アブラハムが、神から言われた言葉を手がかりにしましょう。
「私はあなたを大いなる国民とし、祝福し/あなたの名を大いなるものとする。
あなたは祝福の基となる。」(創世記第12章2節)
 「祝福の基」は、「祝福の源」という訳もあります。直訳すれば「あなたが祝福となれ」です。「祝福」とは、聖書では「救いに満ちた力を与える」という意味で使われます。再び立ち上がり、歩き続けてゆく、その勇気が湧いてくるような言葉、モチベーションが上がってくる言葉、それが「祝福」です。今、わたしたちに必要な言葉の一番は、「祝福」だと思います。誰もが、「祝福」の言葉を必要としています。だからこそ、「あなたが祝福となれ」という言葉に喚起されて、「祝福の源」、そして「基」に、一人一人がなることを、日常の小さな瞬間から、始めてみましょう。
 今、この時、かけてほしい「祝福」の言葉は何でしょう。わたしがかけてほしい「祝福」の言葉を贈ります。
 「あなたは、よくがんばっています。どうか、気をつけて。」
 「神さまの御守りと祝福が、あなたに、常にありますように。」

2021年7月12日
2021.7.5

「主はわが光」
(詩編 27編1節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

 「光」という言葉に注目したいのです。光と言えば様々な事柄を連想するでしょう。
 聖書を読みますとき、いくつかの鍵となる言葉が出てきます。その基調語ともいうべき言葉に、「光」があります。ヨハネによる福音書は、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った」(1章1‐3節)という荘重な出だしで、私たちに語りかけてきます。そして具体的な記述になりますと、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(4節)とあります。まさにこの命こそ、イエス・キリストであり、人間を照らす光であります。

 聖書の最初の本が、創世記です。「初めに神は天と地を創造された」(1章1節)から始まります。そして具体的な創造の第1番目が「光」でした。「神は言われた。『光あれ。』すると光があった」(3節)。これが神の最初の言葉でもありました。
 創造の原点が「光」です。被造物、造られたものは、この光を求めていきます。植物は、光に向かって伸びていきます。胎児、お腹の中の赤ちゃんも光を求めて誕生します。そして、この光の中で、神と触れあっていくわけです。しかし「光あれ」との言葉は、旧約の民の苦難の歴史を踏まえたうえでの言葉として理解してよいでしょう。旧約の民は、紀元前587年の国家滅亡、神殿崩壊さらに多くの者が敵の地に捕らえ移されるバビロン捕囚という苦境を生き抜きます。捕囚の地で50年間を過ごさざるをえませんでした。そういう苦境の体験を経ながらも、闇の向こうの中に光を感じ取ります。神の「光あれ」という言葉の中に、新たな創造・希望が私たちに指し示されています。

 さて旧約の民にとり、日没は新たな始まりとなります。「夕べがあり、朝があった」と。創造の業は、夕闇の向こうに朝日の明かりを感じ取ります。そこには、光があります。彼らは悲劇的な体験を担いつつも、闇の向こうに光を見ます。そうした積極的な姿勢が聖書の民の中にあるのです。逆境の中にあっても、嘆きの中にあっても、「主はわが光、わが救い」(詩編27編1節)と告白します。

 この詩編の「主はわが光」、この言葉は聖書の中で、ここにしか出てきません。この「主はわが光」という言葉は、英国のオックスフォード大学の標語(ラテン語でドミヌス・イルミナチオ・メア)となっています。この光は、聖書の民にとりまして、単なる人間をおびやかすような灼熱の太陽ではありません。また自然崇拝の対象となります太陽でもありません。「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず・・・主があなたのとこしえの光となり」とイザヤ(60章19節)は語ります。

 「光」は、神がもたらした救いの象徴であり、闇としばしば対比されます。イエスの誕生も、まさにこの光と闇の中からの出来事となります。暗闇に住む民は大きな「光」を見るのです(イザヤ9章1節、マタイ4章16節)。
 イエスご自身も、「わたしは世の光である」(ヨハネ8章12節)と語られます。ここに「世」が出てきます。聖書、特に旧約では、この世とはまさに神の創造のもとにある「天と地」であります。天から地上に降り、家畜小屋の中に生まれたイエスの生涯は、暗闇から光に導きます。まさに「主はわが光、わが救い」です。光の原点を見つめつつ、神のみ言葉に心を通わせていきたいのです。

2021年7月5日
2021.6.28

「目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、目が悪ければ、全身も暗い。だから、あなたの中にある光が暗ければ、その暗さはどれほどであろう。」
(マタイによる福音書 6章22~23節)
立教大学チャプレン トーマス・プラント

 今、みんながマスクをする時代になって、前よりもお互いの目を見るようになったと思いませんか?

 私たちは、最も大切にしているものに対して、しもべ、あるいは奴隷になります。お金は天国に持っていくことはできませんから、それを得ることに集中して人生を過ごすのは、時間の無駄であり、愛や友情という目に見えない大切なものを無視することになります。お金はたやすく無くなりますが、その見えないものは永遠に続きます。お金を失うと、あとには何も残りません。しかし、もし神への信仰を自分の宝とすれば、金持ちであろうと貧乏であろうと関係ありません。イエスは、お金が悪いものと言っているのではなく、お金に執着することが悪いと言っているのです。神様と隣人への愛のために、お金を正しく使わなければなりません。この世でも天国でも、目に見えない豊かさと溢れる愛を持つことができるのです。

 私たちは、目は映像を受け取るものだと思っていますが、主イエスは、目は伝えるものだと語っています。マスクの時代にこそ、そのことがよくわかるかもしれません。目はその人の性格や気分、時には秘密をも表します。優しい目、笑っている目、思いやりのある目、残酷な目、あざ笑う目などがあります。そして、欲張りな目もあります。
 池袋キャンパスの第一食堂の扉の上には“Appetitus rationi obediant.”と書かれています。 このラテン語の言葉は、聖書ではなく、ローマの弁護士でプラトン派哲学者キケロの言葉です。意味は、「欲望は理性に従え」ということです。食堂のドアには「食べ過ぎないように」とジョークとして書かれていますが、この言葉には深い哲学的な意味があります。プラトンは、私たちの魂は二頭の馬を乗せた戦車のようなものだと言いました。二頭の馬とは、欲望と感情のことです。どちらかに主導権を握られてしまうと、私たちは道を踏み外してしまいます。欲望は理性に従わなければならず、その逆はありません。逆なら、困ります。“Appetitus rationi obediant.”今度、第一食堂を通りかかったら、見てみてください。

 私たちは、お金のような過ぎ去ってしまうものではなく、善、真実、美、永遠、だと思うものに向かって欲望を駆り立てなければなりません。私たちの目は、自分の真の欲望を伝えます。
 瞑想をしながら、キリストの目を想像してみてください。どんなキリストの感情が見えますか?キリストの目は、今日、あなたに、何を伝えようとしているのでしょうか?
 私たちがキリストの心を持ち、私たちの目がキリストの目に似たものとなりますように、祈りましょう。

2021年6月28日
2021.6.21

イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。
盲人は、「先生、また見えるようになることです」と言った。
(マルコによる福音書 10章51節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「イエスの『コミュ力』」

 イエスは盲人バルティマイに訊ねます、「何をして欲しいのか。」すると、バルティマイは応えます、「先生、また見えるようになることです。」 一見すると、何の変哲もない、対話に聴こえます。
しかし、ここに、イエスの大切なメッセージを聴くように想うのです。

 バルティマイは「盲人」で、「物乞い」であったと、聖書は記します。バルティマイは、皆から、見捨てられるようにして、孤立を噛み締めながら、空腹を抱えながら、土埃舞う、道端に、毎日、座っていたのだと想います。その彼が、イエスを呼び止めた。

 誰もが、盲人バルティマイの願いは、「目が見えるようになること」だと考えます。けれど、本当にそうなのでしょうか?。目が見えるようになることだけが彼の願いなのでしょうか?。長い時間、目が見えず、深い孤立のうちに生きてきた者の、その願いとは、もしかしたら、誰かとつながることかもしれないし、誰かと一緒に食事をすることかもしれない。 あるいは、誰かに手を引かれて、神殿での礼拝に加わることかもしれないし、その手を引いてくれる人の「顔」をジッと見ることかもしれない・・・・・ 決して、彼の願いが、「目が見えるようになること」だけとは限らない・・・・・。 だから、イエスは、それを確認するのです。「何をして欲しいのか」と・・・・・。 そして、バルティマイの「また見えるようになることです」との想いを、その言葉を聴くのです。

 コミュニケーション能力とは、「語り合う場を立ち上げる力」のことだと云われます。話上手なことだけが「コミュ力」が高いと想われがちだけど、語り倦ねている人の声を引き出し、語り合う場に誘うことこそが、本来のコミュニケーション能力なのだと想います。その意味で、イエスはめちゃくちゃコミュニケーション能力の高い人だったと云えます。わたしたちは、イエスのようには生きられないけど、日々、出会う人びとの中で、自分が語るよりも、まず、現前の、その人の「声」を引き出させる人、そして、その「声」を聴くことのできる人で在りたい、と願います。

2021年6月21日
2021.6.14

いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。
あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。
(詩編 84編6、11節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 「ヤマアラシのジレンマ」という言葉をご存知でしょうか。ヤマアラシは仲間と近しく生きていきたいと思うけれども、身体中に棘が生えていることで、身を寄せ合うことができないというジレンマです。新型コロナの感染拡大が心配される中で、私たちには自分や周りの人の感染を心配し、いつも拭いきれない警戒心があり、そのことのゆえに、身を寄せ合うことができない。自分も周りの人も守るために、身を寄せ合うことができない寂しさに耐えている。私たちはまさにヤマアラシのジレンマを抱えている、そのようにいうことができるのかもしれません。ですが、私たちには喜びがまったくないかといえば、そういうわけでもありません。深いストレスの中、見過ごしてしまいがちですが、私たちの周りには、小さな喜びが散りばめられているのです。
 
 私は働いている教会の前の歩道を、毎朝決まった時間に掃除します。ある時、通りかかった方から「おはよう」と声をかけられました。「おはようございます」と挨拶を返しましたが、その方がどなたなのか、私にはわかりません。次の日も、その次の日も、その方は通りかかるたびに「おはよう」と声をかけてくださいました。ある日、いつものようにその方が通りかかる時、足をとめ「おはよう」とおっしゃり、続けて「毎朝、通勤の道が綺麗になっていて、気持ちよく一日が始められます。ありがとう」とおっしゃってくださいました。私はただ教会の前をきれいにしようと思っただけのことでしたが、それを喜びとして受け取ってくださる方がいる、誰かが心地よいと思ってくださる、そのことが私にとって静かな喜びとなりました。

 詩編84編の作者は、おそらく苦しく厳しい状況にあって、エルサレム神殿に巡礼するその日を思い描きながら、この詩を読んだと言われています。神殿への巡礼は生涯に一度は経験したい大きな憧れでした。それはいつ叶うかわからない夢であったかもしれませんが、しかしこの作者は、神を力とし、神を広い道として心に置く人、その日々は幸いだと言います。神を心に置くとは、私たちの毎日が神によって祝福されている喜びを静かに心に留めることです。神を心に置くその日その時が、神の庭で過ごす一日となり、それは他の千日にもまさる幸いの日であると語られています。

 今の私たちは文字通り身を寄せ合うことはできませんが、いつかそのような日常が回復されることを心から願います。いつになるかは分かりませんが、その日その時まで、私たちは静かな喜びを心に置き、幸いな者として歩んでいたいと思うのです。喜びを携えて日々を歩むその時が、私たちにとって千日にもまさる一日となるかもしれません。
 「おはよう、おやすみ、ありがとう、また明日ね」。毎日交わす何気ない挨拶も、私たちが誰かに思われ、祝福のうちにその時を生きていることの証です。その静かな喜びのうちにある「わたし」、祝福のうちにある毎日を大切に、日々をご一緒に歩んでいきましょう。

2021年6月14日
2021.6.7

実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。
(ローマの信徒への手紙 8章22節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

今を思い出の情景に

 「こども時代のいちばんの思い出は?」。こう聞かれて、思い出すことを、誰かに伝えるつもりで考えてみてください。ただし、「何かを買ってもらったこと」と「どこかへ連れて行ってもらったこと」を除きます。買い物、イベント以外で、「こども時代のいちばんの思い出」を考えてみてください。
 これは、翻訳家で児童文学研究者の清水眞砂子さんが、ご自身の大学講義等で受講生に出したレポート課題です。これを私も借用して、「愛について」というキリスト教倫理の講義でこの課題を出しています。
 買い物やイベントを除く「こども時代のいちばんの思い出」を考えると、何げない日常の光景、その時の思いなどが、いくつも出てきます。良い思い出、楽しい思い出だけではなく、悲しかった、残念だった思い出も湧き起こってきたりもします。その中で「いちばんの思い出」として、どれかを拾い上げて、言葉化する、その心の作業には、少しエネルギーが要ります。人に話せること、話したいことばかりではなく、話せないこと、まだ自分の心で受け止めきれていないことも湧き出してしまうからです。
 そこで、今、このとき、2021年に「こども時代」を過ごしている人たちは、どんな「思い出」を掴んでゆくのだろうか、と思いました。今、これからを生きる、こどもたちの「日常」はどんなだろうと思います。街へ出るときは「マスク」、食事の前には「アルコール」手指消毒、人と会うなら「ソーシャルディスタンシング」(距離をとって)、といった「日常」の「光景」から、どのような「思い出」の「情景」が刻まれてゆくのか…。幼いこどもたちの心に任せるしかないことではありますが、おとなの責任ある行動、態度も、決して怠ってはならないでしょう。
 冒頭の言葉を含めた「ローマの信徒への手紙」8章(特に18節以下)は、今がつらいとき、しんどいとき、先が見えないときに、支えとなるところです。今はまさに、産みの苦しみのときなのだ。世界中、すべてのものが共に呻いているときなのだ。でも、ここから新しく生まれてくる何かが確かにあるのだ、という希望を持つ勇気が与えられます。
 「こども時代の思い出」の中には、親から聞いた自分の幼少期のエピソードでも、いつしか心の中で映像化して記憶されていることがあります。自分の目では見てはいないけれど、話を聞いて、思い出の情景として記憶されていることがあるのです。今、これからを生きてゆくこどもたちのためにも、「呻き」、「産みの苦しみ」に向きあっているおとなたちの今の姿、その「日常」を、こどもたちの心に語り継いでいけるような生き方、姿勢を心にかけていたいと思います。命を守り合うための行動を、世界中が心がけていた時代がどんな思い出を生み出すのかという希望を抱いて、今を生き抜いてゆきましょう。

2021年6月7日
2021.5.31

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
(ヘブライ人への手紙 13章8節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

 築地居留地の一角に「立教学校」が誕生したのは1874年、今から147年前です。立教学校は、聖書と英語を教える小さな私塾でありました。創立者ウィリアムズ主教は、学校のみならず日本聖公会という教会の礎を築いた人です。その生涯は、「道を伝えて己を伝えず」と称され、出会った人々はその謙虚さと高潔な人格に感銘を受けてきました。

 やがて1907年には専門学校令による大学ができますが、学生数の増加もあり今後の立教の未来を見据え、築地の校舎から大学の池袋移転となります。これが1918年、今から103年前になります。翌年には本館、旧図書館、チャペル等のレンガ校舎群が完成していきます。そして今日の池袋キャンパス、新座キャンパスへと発展していきます。大学令による「立教大学」の誕生は1922年、来年で100周年を迎えることになります。

 立教の歴史を振り返るとき、今日の立教学院の礎は多くの先達者によって、困難な時代も乗り越え、築かれてきたことを思います。

 「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ人への手紙13章7~8節)

 「永遠に変わらない方」と共に歩む、これが創立者ウィリアムズの思い(心)でありました。学院の草創期に尽力された方々も、こうしたキリストを土台とし、そこに立つ教育を志してきました。そしてこのキリストという土台は、その歴史の中にあって、様々に揺れ動く社会状況の中にあっても、しっかりと勇気をもって歩みだしていくことを可能にしてきます。なぜなら「変わることのないお方」が、「私たちといつも共におられる」からであります。この確信に私たちが導かれることをお祈りします。

2021年5月31日
2021.5.24

人とは何者か、なぜ、これにみ心を留められるのか
なぜ、人の子を顧みられるのか
(日本聖公会祈祷書 詩編 8編4節)
立教大学チャプレン トーマス・プラント

「真実の物語」

 「スマスリク」という言葉をご存知ですか?ご存知なら、びっくりします。私が作った言葉だからです。「スマスリク」というのは、逆から書いた「クリスマス」です。それは先週お祝いした「昇天日」の意味です。すなわち、昇天日はクリスマスの逆です。簡単にいうと、クリスマスは主イエスの生まれた日なので、神が天国から降って人間になったことであり、昇天日はその反対に、人間になった神がまた天国に昇ったということです。

 立教大学の皆様、初めまして。英国国教会から参りました大学チャプレンのプラント・トーマスと申します。最初に、少し自己紹介させていただきます。ウスターソースで有名なイギリスのウスター市で生まれて、基本的に無宗教の家庭で育ちました。小さい時から宗教にあまり興味がありませんでしたが、中学生の頃から本当に宗教に、特にキリスト教に反対になりました。大学では、神学ではなくて、ラテン語とギリシャ語の言葉と文法を勉強しました。また、合気道をやっていたため、日本にすごく行きたかったので、卒業してから、文部科学省のJET Programにより、2003年に日本に来て、高知市の高知商業高校で英語の副教師として働きました。

 その無宗教のイギリス人がどうやって神を信じるようになって、聖公会に洗礼と按手されて、結局、日本聖公会で働くことになったのでしょうか?その話は長すぎると思いますが、要するに、日本に住んでいた時、日本人の信仰に感動したのです。どの信仰だと思いますか?日本人はよく「日本は無宗教な国」だと言いますが、いつも神社やお寺に行った時、お祈りしている人々がいて、たくさんの絵馬がかけられています。そして、神社は街の中にも、山の上にもあります。イギリスと比べると、神秘的なところが多いので、この国は本当に「無宗教」と言えるだろうか、と考えていました。そして、たくさんの日本人が、他の国の人々のように、この世を超越する何かを信じているのは、本当に違うのだろうかと。美しくて、平安な雰囲気があるお寺、神社などを見て、多分宗教にある程度の価値があるのではないかな、と考えるようになってきました。
 イギリスに帰国して、英国国教会のエクセター大聖堂学校でラテン語の教師になりました。そこで、儀式の時に聖歌隊の子供達の面倒を見る役目がありました。夕の祈りやミサに行って、日本にいた時の仏教と神道の経験を思い出して、新しい立場でキリスト教を見るようになりました。キリスト教の教えをもっと真面目に勉強して、洗礼を受けようと決めました。

 でも、なぜキリスト教だったのでしょう?仏教と神道を心から尊敬しています。実は、親鸞聖人と聖ディオニシアスの考えの比較は私の博士論文のテーマでした。しかし、私にとって、キリスト教の信仰を信じることはただ「郷にいれば、郷に従う」ということではなく、むしろ、「真実の物語」のことだと思います。
 「真実の物語」とは私が作った表現ではありません。皆さんは多分C.S.ルイスのことをご存知でしょう。オックスフォード大学教授で作家の、『ナルニア国物語』という子供に人気の小説を書いた方です。『ナルニア国物語』はキリスト教から大きな影響を受けていますが、若い時、ルイスは神の存在を全然信じませんでした。しかし、オックスフォードで、他の有名な教授と仲間になりました。その教授は、『指輪物語』の作者J.R.R.トールキンでした。2人はキリスト教についてよくパブで話しました。ルイスは無宗教でしたが、トールキンはカトリック信徒。2人とも昔の物語に興味がありました。トールキンは、聖書の語りも物語だと言いましたが、キリストは歴史に存在した人間だったので、キリスト信仰を「真実の物語」と呼びました。キリストの「真実の物語」を信じられるようになれば、その他の宗教、伝統、文化の物語の真実も分かるようになると言いました。トールキンのお陰で、ルイスは聖公会の信徒になり、たくさんの大事な神学的な作品と小説を書きました。ルイスとトールキンは2人とも、キリストの「真実の物語」に基づいて、新しい物語を作りました。

 昇天日の話にもどりましょう。要するに、クリスマスと昇天日はキリスト信仰の「物語」です。聖アタナシオスは次のように説明しました。「神が人間になった目的は、人間が神になれるようになる為だ」。というのは、クリスマスから、神様は私たちの人間らしさ、すなわち人間の体、人間の苦しみ、人間の喜びを経験し始めました。昇天日に、主イエスは私たちの人間らしさを全てのものの源である父に戻しました。

 「人とは何者か、なぜ、これにみ心を留められるのか/なぜ、人の子を顧みられるのか?」これは、詩編第8編の質問です。キリスト教信仰からの答えは、神様がこの世に降って昇ったから、この世の全てのものに価値があると知っています。すなわち、「クリスマス」の逆である「昇天日」の真実の物語を考えれば、神の立場からこの世の価値を悟って、全てのものを大事にし始められると思います。

2021年5月24日
2021.5.17

バビロンの川のほとり/そこに座り、私たちは泣いた/シオンを思い出しながら。
そこにあるポプラの木々に琴を掛けた。
(詩編 137編1~2節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「それでも、希望を諦めない」

 旧約聖書には、いつ終わるとも知れない不安と困難の生活を送った信仰の先達たちの物語がいくつも記されていますが、その中でも、バビロニアに捕囚されたユダヤの民の物語は、コロナ禍に疲れ果てた、今のわたしたちと重なるように思います。ユダヤの民がバビロニアで送った捕囚の日々は実に50年にも及ぶものでした。いつになったら、この生活は終わるのか、いつになったら、あのときのような暮らしに戻ることができるのか・・・・・先の見通しが立たない中で、重い時間だけがそこでは過ぎていきます。

 このバビロン捕囚の状況を詠ったのが詩編137編です。この詩は、「バビロンの川のほとり/ そこに座り、私たちは泣いた。シオンを思い出しながら」と始まります。何の心配もなく行き交うことができたシオンでの日々、何の不自由もなく人と語り合うことのできた、そんなシオンでの日常が奪われてしまったことを悲しむ様がここには描かれています。そして、この詩は「そこにあるポプラの木々に/ 琴を掛けた」と綴られていきます。琴とは神を賛美するための楽器です。その楽器を、ポプラの木に掛けた、とは、神への賛美ができなくなったことを伝えています。自由に行動することも、人と会うことも、神を賛美することも制限される、ここに詠われていることは、まさに、今のわたしたちと同じです。ユダヤの人びとは、そんなバビロンでの苦悩の日々を50年も過ごしたのです。その疲労とストレスがどれほどのものであったか、今のわたしたちには容易に想像することができます。

 わたしたちのこの苦悩と忍耐の日々があとどれぐらい続くのかは判りません。ほんとうに50年もかかってしまうかもしれません。「疲れたなぁ」・・・・・ ほんとうにそうなのです。わたしたちは、この一年、ほんとうに辛抱して、我慢して、多くの配慮を重ねながら日々を過ごしてきました。十分過ぎるほど頑張ってきたのです。疲れるのも当然です。そのような、わたしたちの、この頑張りを、そして、この疲れを、神が見て見ぬふりをすることは絶対にない、というのが聖書の信仰です。必ず神の救いの御手は、わたしたちの、この疲れに触れられるのだ、と信じます。なぜなら、神こそが希望だからです。

2021年5月17日
2021.5.10

光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。
(ヨハネによる福音書 1章5節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 私たちが生きている世の中、そして私たちの日常には、楽しいこと、嬉しいことがたくさんある一方、辛いこと、苦しいことも確かに存在します。それを私たちは光と闇、光と影と呼ぶことがあります。いつも光に照らされていたいとも思いますが、そうもいきません。突如、ふとした時に、拳を握りしめる悔しさがあり、膝をガックリと落とす落胆があり、受けた痛み、その悲しさに涙することもあります。それを闇や影というならば、私たちは誰しも、闇や影を抱えていると言えるのかもしれません。しかしあえて、その闇や影に対して、別の見方をしてみたいと思うのです。

 私はかつて群馬県の山の中にある教会に勤務していました。日中でもとても静かで、夜になれば街灯も少なくとても暗い所でした。当初それがとても寂しく感じました。
 ある朝、家の周りを歩く鳥たちの足音で目が覚め、そして庭の桜の花びらが散って地面に落ちる音が家の中で聞こえ、桜の蜜を吸いにきているミツバチの羽音がすぐそこで聞こえてきました。それらは都会では聞いたことのない音でした。また夜になれば、見たことがない数の星が空に見え、外に出れば月の光が明るく、月明かりで自分の影ができるほどでした。そんな影は今まで見たこともありませんでした。何もない静けさの中、どこまでも深い闇の中であればこその音と光に、私は感動しました。

 聖書は、「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」と伝えます。街の明るさの中では小さな星の瞬きに感動することはなく、都会の喧騒の中では小さな命の営みの音が心に響き渡ることはないのです。暗いからこそ、静かな影だからこそ、そこに奥深い光と喜びの音を受け取ることができるのです。それと同じように、私たちに闇や影があるからこそ、感じられる喜びがあり、受け取れる慰めや励ましの声があるのではないでしょうか。闇は光に勝るものではなく、闇は光を飲み込むものではありません。むしろ、闇は光の輝きをよりはっきりとさせ、影は照らされている部分の輪郭を確かなものにする。闇や影は私たちの「大切な場所」でもあるのです。
 時に闇の中に立ち、影を抱えながら生きる。しかしそこでしか見えない光、そこでしか聞こえない喜びの音が、私たちにはあるのです。

2021年5月10日
2021.4.26

「事は成った。私はアルファであり、オメガである。
初めであり、終わりである。
渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。」
(ヨハネの黙示録 21章6節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

命を潤す時間を

 新年度、何はともあれ、確かにスタートし、「新しい顔」と日々対面できたことは大きな喜びです。昨年度入学した人も「新しい顔」です。皆、マスクで半分しか見えないけれども、めいっぱい目と目で、立ち振る舞いで、思いを正直に伝え合おうとするこの時が、どうか失われないように、早く回復できるようにと願わずにはいられません。
 思えば、これまでの一年間(2020年度)、長かったのか短かったのか、判別もつきません。あっという間のようでもあり、長い道のりのようでもあり…。一生懸命に「学びを止めない」でがんばってきたし、躍進的にオンライン授業も上達したし、辛抱もしてきた、とも言えるけれども、だから何が実った?と問えば、「いや、とりたてて何も…」と答えが返ります。まだ何も達成も、解決も、収束もできていないからです。それでも、この一年は決して「無為な時間」ではありません。「“何もしないをすること”や、“動かないという行動”を学ぼうとした時間」であり、「ひとり」で自分の心と向き合う時間にも囲まれていたはずだからです。
 聖書の巻末の書「ヨハネの黙示録」終盤には、「新しい天地」の到来についてのヴィジョンが記されています。冒頭に挙げた一節に私は、あらゆる時間が、大きくて本当に大切なものごとか何ものかに、すっぽりと覆い包まれていることを想います。そして、疲れて、渇きをおぼえたときは、この大きな時間の中に、実は「命の水」が泉のように湧き出していて、無尽蔵に渇きを潤すことができる、という希望の励ましが告げられるのです。
 俳優・志尊淳の発案で昨年5月の自粛期間に配信された歌『きぼうのあしおと』(作詞・作曲:宮﨑歩)の中に、このような言葉があります。「奪われた大切な瞬間 思い悩んでしまうけど/乗り越えたら 笑い合えるから 今 生きていこう」、「できないこと数えながら夜を過ごすよりも/これからもっとできること 愛する人に伝えよう」、「たとえ今が試される時間でも負けない/ふさぎ込んだ弱さだって悪いことじゃないさ」と。
 私はこの歌を抱えながら、あと少し、あと少しの辛抱、と鼓舞して、結局今に至ってしまいましたが、それらの時間もまた、「奪われた大切な瞬間」ではないのです。「できないことを数える」のでもなく、「今が試される時間」、いや、それを超えて、すべての時に、命を潤す水があふれる泉のような時間が確かにあると信じたい。そう、今、この時の日々に「渇き」を感じたら、その時間の中に「命の水の泉」はあります。とにかく今は腰を落ち着けて、泉のように「命を潤す時間」を浴びることにいたしましょう。

2021年4月26日
2021.4.19

「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。」
(イザヤ書 40章8節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

「神の言葉はとこしえに立つ」

 私は、近年、年度初めに聖句目標を定め、その1年を過ごしています。一昨年は「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ書40章8節 聖書協会共同訳 2018年11月発行)でした。
 1955年発行の口語訳は、「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉は、とこしえに変ることはない」。1987年発行で現在も多くの教会で用いられている新共同訳は、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。翻訳も微妙に異なります。

 さて「草は枯れ、花はしぼむ」は、野の草を人生の比喩として描きますが、はかなさが強調され悲観的な思いが表現されています。類似表現は詩編にもよく見られます。「人は朝に萌え出づる草のよう。朝には咲き誇り・・・夕べにはしおれ、枯れ果てる」(90:5,6)。荒野に咲く草花が東風の熱風で一瞬にして枯れる。こうした自然の現象と共に、人間の栄枯盛衰が示されます。

 しかしです。その後半箇所は「しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」です。まさにこの転換の接続詞「しかし」の一句が千鈞の重みをもちます。そこに人類のすべての希望がかかります。「神の言葉はとこしえに立つ」からです。
 立教の公的な楯のロゴマークをみますと、その中心には本、つまり聖書が開かれております。そしてこの本の上に、「立」という言葉があります。これは聖書の上に、聖書を土台として立教は存在することを示唆しています。

 近年、再び回復しなければならないのが、聖書に沈潜して生きることであることを、あらためて感じています。

2021年4月19日
2021.4.12

イエスは言われた。「私は復活であり、命である。」
(ヨハネによる福音書 11章25節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「立ち上がる」

 4月4日、世界中のキリストに結ばれた教会たちは、イエス・キリストの復活、イースターを喜び祝いました。今からおよそ2000年前、十字架の上に死に、3日目によみがえったとされる、イエス・キリストの復活のデキゴトは、教会に集う者たちにとっては、希望と光、励ましと勇気を与える大切なデキゴトとして、今もずっと覚え続けられています。

 「復活」とは、一度、死んだ人が息を吹き返すことではありません。新約聖書は、ギリシャ語で書かれましたが、「復活」と訳された言葉の、もともとの意味は、「立ち上がる」ということです。新しく立ち上がる、再び立ち上がる・・・・・ その「力」強さを、表現する言葉が、「復活」という言葉なのです。聖書は、イエスは「生き返った」とは書きません。「復活した」と記します。

 イエスは復活した・・・・・ 立ち上がった・・・・・ ここに、後に、教会と呼ばれる共同体のはじまりの、小さな信仰の泉が湧き出ました。この信仰の泉に、すべてのキリストに結ばれた教会の信仰はつながっています。もちろん、キリスト教信仰を教学の基に置く、立教大学も、この「立ち上がり」の信仰に結ばれています。

 この春、新しく立教大学の学生となられた皆さんを心から歓迎します。大学生活はきっと楽しいものとなるはずです。学びも、仲間との出会いも、いろいろなことに、自分が拓かれていく経験を、その喜びを、重ねていくことと想います。ときに、壁にぶつかることもあるかもしれません。傷つけられることもあるかもしれません。逃げ出したくなることもきっとあるでしょう。そんなときは、頑張らなくても大丈夫です。恐くなったらうずくまっても大丈夫です。大切なことは、そのあと、どう新しく立ち上がっていくか、どう再び歩き出すかです。

 立ち上がれるかどうか・・・・・ それ自体も心配しなくて大丈夫です。
 イエスは、自らを復活・・・・・「立ち上がり」だと語ります。それは、イエスの、わたしたち一人ひとりを、「立ち上がらせる」という力強い宣言でもあるからです。

2021年4月12日

お使いのブラウザ「Internet Explorer」は閲覧推奨環境ではありません。
ウェブサイトが正しく表示されない、動作しない等の現象が起こる場合がありますのであらかじめご了承ください。
ChromeまたはEdgeブラウザのご利用をおすすめいたします。