2016年度 チャプレンからの今週の言葉チャペル

2017.1.23
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケの信徒への手紙I 5章16-18節) 
立教大学チャプレン 中川 英樹

「ありがたし」

 昨年末、所用で車を運転していたときのこと。後方から救急車のサイレンが聞こえてきた。「道を空けてください、緊急車両が通ります」との、救急隊員の訴えの声に、車を道路の左側に寄せ止めた。すると、救急車は「ありがとうございます」との声を届けながら、わたしの車の横を通り過ぎていった。緊急車両に道を譲ることはよくあるけれど、「ありがとうございます」と云われたのははじめてだった。どこか新鮮な想いがしたのは、緊急車両は、いつも譲ってもらうのが当たり前のごとく、無言で通り過ぎて往くものだと、勝手に想ってきたから。「ありがとう」を云われるなんて、ひとつも期待していなかった。

 「ありがとう」の語源である、「有り難し(ありがたし)」は、「有る(ある)こと」が「難い(がたい)」という意味で、「めったにないことに巡り合う」ということを表すらしい。「めったにないこと」が身に起きた・・・・・だからこそ、「ありがたし/ありがたい」となる。

 この「ありがとう」の反対語が「当たり前」だと云われる。わたしたちは、日々、たくさんの「当たり前」に囲まれて生きている。誰もが、今日と同じ日が、明日も繰り返されると想っている。太陽が毎朝昇るのが当たり前。毎朝目覚めるのが当たり前。今日も食事ができることが当たり前。家族がいることが当たり前。学校行くことが当たり前。友達といつも会えるのが当たり前。帰る家があるのが当たり前。生きていることが当たり前。でも、こんな「当たり前」だと想うことが、本当は「有ること」が「難い」ことの連続だということに、わたしたちはちっとも気を配れていない。「有り難し」の連続、それは奇跡にも似たことだからこそ、「ありがたし」を云わなきゃならないのに。大事な人と、今、逢えていることが「有り難し」。今日を生きていることが「有り難し」。だから今日を、今を、喜んで、祈りつつ、感謝して、わたしたちは「ありがたし/ありがたい」と生きて往こう。

2017年1月23日
2017.01.11
『受けるよりは与える方が幸いである』(使徒言行録 20:35)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 私にはとても優しい祖父がいた。子どもの頃、何かにつけてプレゼントをくれたり、時におこずかいをくれたり、そしていつも優しい笑顔をたたえながら温かい手で頭をなで、愛情いっぱいに接してくれる祖父だった。私はその祖父が大好きだった。
 ある年の敬老の日、祖父のために何かプレゼントをしたいと思いたち、貯金箱を開いて買い物に出かけた。どんなものをあげれば祖父が喜ぶか、一生懸命考えながら、いくつものお店を見て回った。色々な商品を目にするたびに、それを笑顔で受け取ってくれるだろう祖父を思い浮かべながら、とても幸せな時間を過ごした。その幸せの始まりはきっと、祖父から受けている喜びだったのだと思う。受け取っている喜びを、今度は人の喜びのために使いたい、格好良く言えば、そんな思いだったのかもしれない。

人からプレゼントをもらったり、優しさをもらったり、励ましをもらったりした時、私たちの心は喜びという大きな力を受ける。人の気持ちを受けるということが、豊かな栄養となる。そしてその栄養を誰かに注ぐことで、芳醇な「喜び」という名の果実を結んでいく。受けることの喜びを知っているのならば、誰かにもその喜びを受けてもらいたいという想いを生み出していくということにつながっていくと思う。
もっと受けたい、もっと欲しい、もっと自分を喜ばせたいと願うのが私たちの常かもしれないが、そのようにして得られるものには限りがある。むしろ欲深い思いにかられ、受けている喜びが半減していってしまうかもしれない。受けている喜びを与えることや差し出すことで、人を喜ばせる、笑顔にするという栄養をまた受けることができるのだと思う。
私たちは誰かを想って、受けているものを差し出し与えることで、また喜びを受けるのだ。

2017年1月11日
2016.12.19
あなたがたは世の光である。(マタイによる福音書5章14a節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

カッコつけなくてもカッコいい

 私は、尊敬できる人を「カッコいいなぁ」と感じます(正しい日本語表現は「格好良い」ですが、ここではお目こぼしを願います)。恩師、先輩、後輩、同僚、友人、学生であっても、「カッコいいなぁ」と感じます。それは、決して「カッコつけなくてもカッコいい」のです。無論それは、決して「見た目」「外見」からではありません。
 翻って私自身は、中学生の頃、衣服や髪型(部分脱色してみたり)や持ち物(学生鞄をつぶしてみたり)で、それなりに「流行り」を追従しつつも、抗ってみたりもしていました。そして、自分の容姿を人と比べてみたり、あげくには人の姿を冷笑すらしていました。また、人の前で「カッコいいこと」を言おうとしてみたり、「カッコいいところ」見せようと密かに企んだりしていました。他人からどう見られるか、「カッコ悪く」はないか、ということばかりが気になっていたのだと思い出し、ただ恥じ入るばかりです…。
 でも、やはり中味が勝負(…いや、勝ち負けではないのですが)なのであって、輝いている人、味わいがあるなと思える人は、その人のそのままで「カッコいい」のです。私が尊敬できる「カッコいい」人を、思いつくままに七つ(幸運の数?)挙げてみます。1・信じている物事に対してひたむきになれる人、2・自分の立ち位置、役割、タスクに誠実に向き合っている人、3・喜怒哀楽をしっかり持っている人。だから不正への怒りも持ち続けている人、4・新しい経験や価値との出会いに対して開かれている人。だから無邪気に驚き、喜ぶことのできる人、5・相手と同じ目線に立って、聞いて、語ってくれる人、6・素直に「ごめんなさい」が言える人。自らの誤りや失敗をも認めて正せる、取り繕いやごまかしをしない人、7・他者を祝福する人。つまり、敬意をもって鼓舞してくれる人。…結局私は、「カッコつけよう」と意図していない人の姿に、「カッコいい」と感じているのかもしれません。
 ヨハネによる福音書において「わたしは世の光」(ヨハネ8・12)と語るキリストが、マタイによる福音書では「あなたがたは世の光」(マタイ5・14)と語ります。あなたは「カッコつけなくてもカッコいい」、輝いている、味わいがある「地の塩」(マタイ5・13)だ、と言ってくださいます。そうやって、わたしたちを祝福してくださるキリストの光に照らし出されているから、一人一人は皆、「カッコつけなくてもカッコいい」存在であるはず。そのことに気づき合う世界の夜明けが、キリストの祭=クリスマスChristmasです。いつまでも、いつも、喜び祝い続けましょう!メリー・クリスマス!

2016年12月19日
2016.12.12
「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイによる福音書2:11)
立教大学チャプレン 金 大原(キム デウォン)

クリスマスとプレゼント

子供時代、12月になると浮ついた気持ちでサンタ・クロスを待っていた。もらいたいプレゼントのリストを作成して祈ったこともある。今は12月になると悩みが始まる。子供たちの気に入るプレゼントを探すのはちょっとやそっとの苦労ではないからである。プレゼントに込められた想いが大事であり、もらうより与える時の喜びが大きいと言われるが、実際にはそうでもない。がっかりしたり気に入らないような目をしたりする子供たちの様子を見るのは苦しいことである。実は子供だけの話ではないだろう。わたしたちの心の中でプレゼントの本当の意味は消え去り、物質的な価値だけが残っているのではないか省みよう。
 クリスマスという言葉は、「Christ(キリスト)」と「Mass(礼拝)」の組み合わせであって、神が赤ん坊の姿をしてこの世に来られたことを記念する日である。愛と分かち合い、配慮と犠牲の生涯を送られたイエスの誕生を覚える日なのだ。
 最初のクリスマスプレゼントであった赤ん坊のイエスが、人類に与えられた本来の意味が忘れられているようで悲しい。今度のクリスマスには、表面的な華やかさではなく、ベツレヘムのみすぼらしい馬小屋に生まれた赤ん坊を覚えてみよう。子供たちにプレゼントをする伝説で親密なサンタ・クロス、実は彼も密かに慈善を施した4世紀小アジアの聖者であるセント・ニコラスから由来した。毎年迎えるクリスマスであるが、今年だけは少し違う形で過ごしてみようではないか。

2016年12月12日
2016.12.05 
「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。(エゼキエル書3章3節)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

イエス・キリストのお誕生を迎える準備をキリスト教会では4週間行いますが、その第2週目を「聖書の日曜日」として、聖書がわたしたちに与えられたことを感謝し、聖書に記されているメッセージを読み、聴き、イエスの誕生を喜んで迎えようとします。今年は12月4日(日)がその日となります。

イエスによって、この上なく愛された弟子たち(参照:ヨハネ13章1節)は大いに喜び、イエスのように生きることを決断します。その生き方こそが真実の生き方であり、人生を輝かせて生きることが出来ると確信します。そして多くの人たちにも、このことを知ってほしいと願います。イエスは弟子たちをそれぞれの個性にあったように愛してくださったので、イエスの愛を記す伝え方も人それぞれです。マルコはマルコらしく、マタイはマタイらしく、ルカはルカらしく、ヨハネはヨハネらしく表現しています。同じ出来事であっても違った受け止め方で表現していますので、その違いがイエスのメッセージの広さ、高さ、深さを示しています。

とにかく聖書を読んでみよう。まるで食べるように体の中に、心の中にいっぱいに受け入れてみようとして聖書を読むとき、イエスのメッセージはまるで密のように甘く、喜びに満たされるのではないでしょうか。

2016年12月 5日
2016.11.28 
主はアブラムに言われた。 「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。」(創世記第12章1節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「この街が好き」

 先日、一人暮らしをしている、ある学生と話しをしていたときのこと。
 わたしなら、どうせ一人で暮らすなら、キャンパスの近くの方が楽、と安易に想うところ、その学生は、電車で通う、キャンパスからは少し距離のあるところに暮らすことを選んだのだそうです。「なんでその街に住むことに決めたの?」と尋ねると、その学生は、「この街が気に入ってるんです」と明るく応えてくれました。親元を離れて、はじめて一人で住み暮らすことになって、そして、実際に暮らしてみて、その「街」のことを「気に入っている」と語った、この学生の言葉は、透き通っていて、すごく新鮮な響きをもって、わたしの耳に届きました。自分の暮らす街を「気に入っている」って云えること、それって、すごく素敵なことだなって想ったのです。

 誰でも、愛着がある生まれ故郷を離れることには多くの不安があります。新しく住む街の雰囲気だとか、そこに暮らす人びととの関係だとか、そこで生きていくこと・・・・・そのすべてが未知のことだらけで・・・・・。家も家族も、たくさんの友だちも居て、それなりに楽しく生活してきた訳だから、そういうところから離れるって、それがたとえ、大学入学、新しい生活のはじまりであったとしても、すごく勇気の要るはずのこと。

 ユダヤ教、キリスト教の枠を超えて、「多くの国民の父」と称されるアブラハム。彼は、「祝福の源となるように」との神の言葉に導かれて、住み慣れた、安定した土地を離れて、新しい出会いに向けての第一歩を踏み出しました。そして、「カナン」という地を神によって与えられ、その地は「アブラハムの地」となりました。この地では多くの旧約聖書の物語が紡がれました。「祝福の源となるように」 この神の言葉は、アブラハムがその地に住み、その地を愛し、その地に生きる人びとから愛され、互いに祝福し、祝福されたことに、その言葉の内実をみるように想います。

 「この街が好き」って云えること。それはその街のことを、そこに暮らす人たちを信頼すること、そして祝福すること。その信頼と祝福があるから、そこから、いろいろなものが見えたり、そこに暮らす人びとの想いに気づいたりしはじめて往くんだろうって想うし、そして、そこに新しい、互いの物語が紡がれていくんだって信じます。
 おそらくは数年しか住み暮らさないであろう、その街のことを、「この街が気に入っている」って、そう云える、この学生のことを、少しうらやましく想うのでした。

2016年11月28日
2016.11.21 
兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。(ローマの信徒への手紙 12:10)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 子どもの頃のある日、兄とキャッチボールをしようと思い立ったけれど、兄は、「お前では相手にならないから」と言い、応じてくれませんでした。次に父を誘ってみたけれど、「四十肩で肩を痛めているから」と言い、相手をしてくれませんでした。仕方なく私は家の前の壁に向かって独りで壁当てをすることにしましたが、無機質な壁から返ってくるボールはやはり無機質で、つまらなく感じ長くは続けられませんでした。ただキャッチボールがしたいと思っただけなのに、受け取って投げ返してくれる相手がいないというだけで、こんなにもつまらなくなるものかと感じたことをおぼえています。

 私たちの間の「キャッチボール」はどうでしょう。
 嬉しかったり、楽しかったり、そのような気持ちでボールを投げたとき、相手が無機質な壁のようだと、味気ない壁当てのように思います。また反対に、私たちがボールを投げられた時、自分の都合や気持ちのありようで、硬く冷たい壁のように振る舞ってしまうことがあります。

 でも私たちの「キャッチボール」で本当に大切なことは、自分のどのような想いを乗せているボールか、また相手のどのような願いが込められているボールかを、自分なりに考えて投げたり受け取ったりすることなのではないかと思うのです。そうでないとキャッチボールは、独りでする壁当てのように味気ないものになってしまうでしょう。
投げたり、取ったり、また投げ返したり…。そのやり取りが私たちの間に嬉しさ、楽しさを生み出します。

 想いを込めたボールを大切に投げ、想いが乗せられているボールを大切に受け取る。
そうやって心と想いのやり取りをする相手がいる。そう、私たちにはちゃんと相手がいるのです。

2016年11月21日
2016.11.14 
すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(マタイによる福音書8章8節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

 

言ってほしいことを言ってあげたい

 霊感の強い、ある神父さんからこんな話を聞きました。「手相や運勢を見てくれ、と言われることがあるけれど、ボクが『いいですけど、あなたの秘密をわたしが知ることになりますが、よろしいですか?』とたずねると、『じゃ、いいや』と去ってゆくのです。占いとか運勢って、ほとんどの場合、ご自分が知っていることなのです」と。なるほど、実は私も、その類のもの(占いとか運勢とか)をわりと気にする方でしたが、自分の知っていること、自分がそうありたいと願っていること、そうなるかもしれないこと、などに触れる言葉を見て、「うゎ、当たってる」と歓喜、安心しているのかもしれないなと思いました。
 人は誰でも、「今はこう言ってほしい」、「こういう言葉をかけてほしい」という期待、願望があるのでしょう。それなりに努力したとき、「よく頑張ったね」と言われたら、やはり嬉しいでしょう。ツラいとき、「大丈夫?」と信頼できる人に声をかけられたならば、「大丈夫じゃないんです…」と、悩みを打ち明けたくもなるでしょう。自分が言ってほしい言葉を、言ってもらえたとき、自分が聞きたい言葉を聞けたとき、安心し、また解き放たれ、勇気と力が再興するでしょう。わたしたちは、その「ひと言」が聞きたいのです。そして、その「ひと言」を差し上げられる人でありたいと思います。
 「百人隊長」は、病で苦しんでいる自分の僕を助けたい一心で、イエスに会いに来ました。そして百人隊長の僕の家に出向こうとしたイエスを、「お迎えできるような者ではありません」と止めて、「ただ、ひと言おっしゃってください」と願いました。百人隊長の聞きたかった「ひと言」は、彼の願っていることに触れる言葉です。決して、「医者ではないからわかりません」とか、「知らない人のこと聞かれても無理です」というものではありません。イエスが返した「ひと言」は、「あなたが信じたとおりになるように」という祈りでした。「あなたの願いがかなうことを、わたしも確信して、一緒にそう願い続けています」という、相手の心に寄り添う言葉、そんな優しさの行き交う、素直な会話ができる世界を、ごく身近な人とのかかわりから、わたしも始めたいなと思います。

2016年11月14日
2016.11.14 
これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。(マルコによる福音書6章37節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

 

あなたのためのお弁当

 「お母さんの作ったお弁当って、どうしておいしいんでしょうね」と、一人暮らしをしているある学生が言いました。高校生の頃までは、「お母さんのお弁当」をほとんど毎日、持たせられていたけれど、実家から離れた今、その味が少し恋しくなっているようでした。最近はコンビニエンスストアのお弁当でも、種類も豊富でかなりおいしいのですが、毎日それらを食べるとなると、どうしても飽きてしまうナ、と思います。私がわりと好きな、ファーストフードのハンバーガーでも、週に二回も食べると、しばらくは興味が湧かなくなります。ところが、「お母さんのお弁当」は、毎日食べても、決して飽きないのです。
 「どうしておいしいんでしょうね」という、何気ないけれども、何だか幸せなこの問いを、ほのぼのと思いめぐらしていたら、イエスさまが「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われた情景に行き当たりました。イエスさまのもとに五千人以上の大群衆が集まってしまったとき、弟子たちは心配になって、「人々を解散させましょう。そうすれば自分で食べ物を買いに行くでしょうから」と言いました。腹ごしらえは自己責任で自己調達させよう、という提案です。それに対してイエスさまは、「あなたがたが彼らに食べ物を」と言われたのです。でも、こんなに大勢の人「みんなに食べさせる」ことなんて不可能だ、と弟子たちは応えました。
 どうも私には、イエスさまの言葉は、「みんなに食べさせる」ことよりも、「あなたに食べさせる」用意をする心を求めていたのではないかなと思えてきました。「あなたが」が、「あなた」と呼ぶだれかのために食べ物を用意することを指示していたのではないかと…。
 市販されているお弁当は、「みんなに食べさせる」ために、「みんな」がおいしいと思えるような味付けをします。でも、「お母さんのお弁当」は、「あなたに食べさせる」ために作られたものです。これが、毎日食べても不思議と飽きない、おいしさの秘訣なのかもしれません。
 何事においても、「あなたに」という特定の方向性をもっていることが重要なのだと思います。「みんなに」向けて発信した情報は、だれの心にも届いていないことがあります。「みんなのため」は、だれのためでもないことがあります。「あなたに」伝えたいことや、「あなたのため」に用意することが、人と世界を豊かに養ってゆくのです。

2016年11月14日
2016.11.07 
あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、內側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。(マタイによる福音書 23章27節)
立教大学チャプレン 金 大原(キム デウォン)

ハロウィン断想

 ハロウィンはもう西欧の祝日ではなく世界中の人々が楽しむ祭りのようになっている。その起源は明確ではないが、紀元後1世紀から北ヨーロッパのケルト族によって始まったというのが衆論である。その後、ヨーロッパ全土に広まったキリスト教の影響により、「Halloween」と名付けられたのだ。でも、このような起源とは関係なく、今日のハロウィンは「ハロウィンコスチューム」と言って、どれほど奇抜で怪しい仮装をするのかに焦点があわせられている。仮面をかぶるなど装いをして楽しむ日になっているのだ。
 仮面には何かを隠す属性がある。仮面をかぶると、素顔ではしにくい行動をたやすくしてしまうこともある。悪い言い方をすれば、仮面というのは、人間の本能的欲求の発散を正当化する一時的な手段であって、現実を「ウソ遊び」に変える仕組みなのだ。だからといって、せっかくのストレス解消のための遊び文化にケチをつけるつもりではない。ただ、仮面をかぶり、扮装をしている人たちを見て考えさせられたことを一つだけ申し上げたい。それは仮面をはぐことである。
 しばしの楽しみのためではなく、誰かによって仮面をかぶせられ、印象づけられた人たちの本来の姿をあらわにしなければならない。「汚い、醜い、危ない」ということで周辺化された人たちの中の美しさを捜し出そうということである。また、仮面をかぶって自分の醜悪な姿を隠している人たちの素顔をあらわにしなければならない。それは恥をかかせるためではなく、失われた人間の顔を取り戻すためのことである。
 抽象的かもしれないが、自分を探し、真実を探しに旅に出ようということなのだ。

2016年11月 7日
2016.10.24 
主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる。(詩編139編1~5節)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

 この聖書の言葉を読むたびに、わたしは安心感と今を引受ける励ましを与えられます。少し、頑張らねばならないときに思い出すのがこの詩編の言葉です。わたしたちは自分のこととなると、些細なことにも敏感に反応して落ち込み、ぐずぐずしたり、心配したり、扱いにくい存在です。でも、神は、わたしがひと言も語らぬさきにすべてを知っていてくださると信じるとき、肩の力を緩めることができます。神は、わたしが座るのも立つのも、歩くのも伏すのも、わたしのことをすべて知っていてくださり、わたしの前からも後ろからもわたしを囲んで、わたしの体に手を触れて祝福してくださる。この神の姿から安心と力が与えられる思いがします。
  聖書には多くの励ましの言葉がありますが、わたしの思い出すもう一つの言葉は聖パウロがフィリピの信徒へ書き送った手紙です。パウロはキリストの愛を宣べ伝えたので捕えられ牢獄に入れられます。2千年前の牢獄での扱いは理不尽という言葉を超えるものがあったろうと想像します。そのような中にあってパウロは神の御手に気付き、励まされて、同じような困難な中にいるフィリピの仲間たちに手紙を書き送っています。
「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(1章29節)
  わたしたちは生まれるときも、様々に人生体験しているときも、死ぬときにも、常に変わらず、神に見つめられ、祝福を与え続けられている。この神の眼差しと愛を嬉しく思います。

2016年10月24日
2016.10.17 
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、 イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。 実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書第17章20-21節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「神の国はあなたがたの間に」

 今週、10月18日は、福音記者聖ルカを記念する教会の祝日です。聖ルカは、紀元80年頃、今、わたしたちが手にしているような形で一つの福音書を纏め上げました。

 ルカによる福音書の一つの特徴はイエスを「旅人」として描いている点にあると云われます。福音記者ルカは、そのイエスの旅を、故郷ガリラヤ・ナザレから始まって、エルサレムへ、そして、そのエルサレムから十字架の死を経て、天の御国へと進んでいく「旅」として描きます。イエスの、その旅は、実際的な距離を往く旅である以上に、人びとの直中に「神の国」を創ること、そのような創造的な「旅」でもありました。

 あるとき、イエスは、ユダヤ教・ファリサイ派の人たちに訊ねられます。
 「神の国はいつ来るのか」と。 するとイエスは応えました。
 「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
 実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
 イエスは、神の国とは、「あなたがたの間に在る」と云うのです。このイエスの言葉は、ルカ福音書だけが書き遺しているものです。神の国とは、神と共に生きる、その人の生き方のことです。神が人を愛すように、人を愛する・・・・・。神が人を見つめるように、人を見つめる・・・・・。
神が人を想うように、人を想う・・・・・。 そういう人の「生き方」のことです。神の国・・・・・それは、人の「生き方」であるが故に、人と人との「間」に実現すると、イエスは云うのです。

 神の国に生きる人は、何ができるか/できないか、何を持って居るか/居ないか、そういう「条件付き」でしか、人が評価されない、そんな今の社会の世相とは、全く違う仕方で、人を見つめること、人を想うことが求められます。イエスという人は、真剣に、本気で、その生き方が、すべての人びとの生き方となるように生き働きました。聖ルカは、今のわたしたちに、そのイエスの姿を生き生きと伝えます。イエスの息遣いが、その鼓動が聞こえるようにです。
 福音書記者聖ルカを記念する日、わたしたちは、これまでの価値の枠組みから抜け出て、神がされるように、人を見つめ、人を想う生き方を、共に学びたいと想います。そして、わたしたちの「間」に、神の国を創る、そんな生き方をはじめたいと願います。

2016年10月17日
2016.10.10 
「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書 17:20、21)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 時々、生活の中の便利なものについて、ふと考える時があります。
 Faxは、手書きの文書などをすぐに相手に届けることができ、ポストに手紙を投函するよりも早く思いを届けることができます。メールは、同時にたくさんの人に用件を伝えておくことができ、また文書や写真、資料も添付できます。携帯電話は、どこにいても連絡が取れるし、スマートフォンは、ポケットにしまえるパソコンのようなツールです。
 これらは便利なもののほんの一部ですが、今やほとんどの人が利用していると言えるでしょう。
 そしてこれらのものが私たちの生活にもたらしたのは、時間の短縮です。

 先日、用事があってある人にメールを送りました。その数時間後に返信をいただいたのですが、そこには「返信が遅くなって申し訳ありません」と記されていました。私もよく使うその言葉を見ながら、いろいろなことが短縮された私たちの「便利な」生活は、時間に追われる感覚をも受け取るものになっていると、感じていました。ひとつのことにかかる時間が短くなったということは、一日の中にたくさんのことを「詰め込める」ようになったと言えます。その結果、ひとつのことをじっくりと見つめてみる、思い巡らしてみるという時間まで短縮してしまっている部分があるのではないでしょうか。

 DVDやCDのプレーヤーには、倍速再生機能が付いています。でも、映画をいつも早送りで観る人、また音楽をいつも倍速で聴く人を、私は知りません。楽しむということは、そういうことではないからです。私たちが日々を楽しもうと思うのなら、短縮できる時間を、あえて短縮しないで味わってみることがあってもよいのかもしれません。たとえそれが合理的でなくても、遠回りになっても、豊かな時間の使い方をすることでしか得られない楽しみがあるのではないでしょうか。

2016年10月10日
2016.10.03 
すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(マタイによる福音書8章8節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

 

言ってほしいことを言ってあげたい

 霊感の強い、ある神父さんからこんな話を聞きました。「手相や運勢を見てくれ、と言われることがあるけれど、ボクが『いいですけど、あなたの秘密をわたしが知ることになりますが、よろしいですか?』とたずねると、『じゃ、いいや』と去ってゆくのです。占いとか運勢って、ほとんどの場合、ご自分が知っていることなのです」と。なるほど、実は私も、その類のもの(占いとか運勢とか)をわりと気にする方でしたが、自分の知っていること、自分がそうありたいと願っていること、そうなるかもしれないこと、などに触れる言葉を見て、「うゎ、当たってる」と歓喜、安心しているのかもしれないなと思いました。
 人は誰でも、「今はこう言ってほしい」、「こういう言葉をかけてほしい」という期待、願望があるのでしょう。それなりに努力したとき、「よく頑張ったね」と言われたら、やはり嬉しいでしょう。ツラいとき、「大丈夫?」と信頼できる人に声をかけられたならば、「大丈夫じゃないんです…」と、悩みを打ち明けたくもなるでしょう。自分が言ってほしい言葉を、言ってもらえたとき、自分が聞きたい言葉を聞けたとき、安心し、また解き放たれ、勇気と力が再興するでしょう。わたしたちは、その「ひと言」が聞きたいのです。そして、その「ひと言」を差し上げられる人でありたいと思います。
 「百人隊長」は、病で苦しんでいる自分の僕を助けたい一心で、イエスに会いに来ました。そして百人隊長の僕の家に出向こうとしたイエスを、「お迎えできるような者ではありません」と止めて、「ただ、ひと言おっしゃってください」と願いました。百人隊長の聞きたかった「ひと言」は、彼の願っていることに触れる言葉です。決して、「医者ではないからわかりません」とか、「知らない人のこと聞かれても無理です」というものではありません。イエスが返した「ひと言」は、「あなたが信じたとおりになるように」という祈りでした。「あなたの願いがかなうことを、わたしも確信して、一緒にそう願い続けています」という、相手の心に寄り添う言葉、そんな優しさの行き交う、素直な会話ができる世界を、ごく身近な人とのかかわりから、わたしも始めたいなと思います。

2016年10月 3日
2016.09.26 
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(ルカによる福音書 14章11節)
立教大学チャプレン 金 大原(キム デウォン)

謙 遜

 人間という言葉と謙遜という言葉の関連性が面白い。英語の「human」と「humility」はラテン語から始まった言葉で、その語源が一緒である。ラテン語では「humanus」、「humilitas」と言うが、二つとも「humus」という言葉、日本語で「土」という言葉から派生した。何の価値もない、最も低いところを埋めているだけの「土」が二つの言葉の語源なのだ。かなり意味深長ではないか。
 聖書には、人間は土で作られたとなっている。神が土で人を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられて、人間となったとある。土と神の息、この二つが人間という存在の根なのだ。もちろんこれは象徴的な記しであって、土は人間の卑しさを、神の息は人間の尊さを意味するのであろう。すなわち、キリスト教に置いて謙遜というのは、人間の存在の一つの根が土(卑しさ)にあるのを認めることを意味する。このような謙遜は、もう一つの根幹である「神(尊さ)」という属性を崩すのではなく、むしろもっと見栄え良くしてくれる、というのがイエスの言葉の意味なのだ。
 秋になり、黄金色に輝く稲畑を見ると、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざが思い浮かぶ。自然までも私たちに謙遜を教えているのだ。この思索の秋に、教養を深め、謙虚な姿勢を学んで欲しい。

2016年9月26日
2016.07.18 
見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください(ルカによる福音書15章6節)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

 聖書には喜びが与えられる話がたくさんあります。その一つが「見失った羊を見つけた」物語です。 羊は集団行動をして青草を食べます。下を向いて地面に生える青草を食べますので、中には食べているうちに気が付くと仲間の羊から離れてしまうこともあるのでしょう。羊にもそれぞれ個性がありますので、同じ羊たちが迷うのだろうと考えられます。
英語にブラック・シープ(黒い羊)という言葉があります。それはわが家の困り者、わがグループのやっかい者という意味もあります。
何かが起これば、「また、あいつがやったのか。」といわれる者が確かにいます。悩みの種といわれてしまう人がいます。
でも母親が子供を愛して、愛し抜き、見失った子を見つけたならば、きつく抱きしめて、涙しながら良かった良かったと言うように、イエス・キリストもわたしたち一人一人を愛し抜いてくださっている。イエスは見失った羊を見つけ出した時には、嬉しくて、嬉しくて、人々に一緒に喜んでくださいという程にわたしたちを愛してくださっている。
やっかい者が多くの人に迷惑をかけていることは確かです。でも、いつまでもやっかい者、困り者と言わないでください、わたしが愛し抜いている羊(人)なんですから、とイエスは言われているのではないでしょうか。
印象的な聖画があります。見失った黒い羊を見つけ出したイエスが笑顔でその羊を肩に担ぎ、仲間の羊のもとに連れ帰る絵です。

2016年7月18日
2016.07.11 
あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。 彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。(ヘブライ人への手紙第13章7節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「レクイエム」

 母へのレクイエムとして想いを記します。
 母が逝去して1年が経ちました。わたしにとっての、この1年は特別、喪に服してきた訳ではないですが、ゆっくり母のことを想い過ごす1年でした。

 キリスト教の司祭/牧師として、多くの人の最期に立ち会い、その死を看取ってきました。
 しかし実際、母の臨終の際、わたしは母のために祈ることができませんでした。平静を装いつつ、心はうろたえ続けていました。母が最後に通っていた教会の牧師に連絡をし、危篤であることを告げ、祈ってくれるよう求めました。 駆けつけてくれた、その牧師は、母のために祈りました。わたしのためにも祈ってくれました。それから、しばらく何の言葉も交わされないICUで、モニターに映し出された心電図の波形を凝視したまま、ピッピッという音だけを聞き続けながら時をやり過ごし、やがて心電図の音の間隔が徐々に徐々に長くなり、そして、モニターの心電図が直線となる・・・・・。 医師の宣告を待つまでもなく、母が逝ったことは明らかで、すると、また牧師は母のために祈りました。不思議と哀しくなかったのは、動じず、ぶれずに、そこに居てくれる人の存在があったからです。この人の祈りに導かれて、母は神の御国に迎え容れたのだ、という確信がそこにはありました。

 危篤の病室を訪問し、祈りのときを一緒に過ごし、臨終を見届け、「安らかにいきない」と神の御許に送る。家族の哀しみに寄り添いながら、葬儀の準備をし、別れのときを、家族がしっかり哀しめるときを整える。家族の「うろたえ」の中で、岩のように動じず「大丈夫な存在」で在り続ける。それらは、これまで自分が牧師/司祭として、大切な働きとして受け止め、為してきたことでした。

 母が最期のときに、わたしは、今まで自分が牧師として為してきた、それらのことを、「してもらう」という経験をはじめてしました。そのとき、神の処に帰って往く、母の声が聴こえたように想うのです。「あなたの仕事は尊いのだ」と。母はわたしの仕事を祝福して逝ったのだと信じます。この母からの無言の言葉を、母の遺言、そして、母からのエールとして、もう少し、この司祭としての働きをさせてもらいたいと希います。私事ですみませんでした。

2016年7月11日
2016.07.04 
神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。 今や、恵みの時、今こそ、救いの日。(コリントの信徒への手紙Ⅱ 6:1、2)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 

親子の笑顔と、アジサイとかたつむり

 一日の中で雨が降ったりやんだりする季節、梅雨。晴天の中で陽の光を浴びながら活動することを好む私にとって、梅雨は何だか気分が乗らない季節です。自転車やバイクに乗って出かけることや、公園を散歩すること、洗濯物を干すことなど、梅雨には「あれもできない、これもできない」と思わされることが多いからです。色々なことが「できない」と思うと、ゼンゼン嬉しくない!
そんな思いから心までジメジメしてきます。

 ある雨の日の朝、傘を差しながら足元を濡らして、自宅から仕事に向かっていました。
「今日も雨か…」と、どこか憂いをもって一日が始まり、なんだか重い気分です。
すると、道に立ち止まっているお母さんと小さな男の子が目に留まりました。
どうやらそこに咲いているアジサイを見ています。
「おかあさんみて!アジサイにかたつむりがいるよ!」と元気な声で男の子が言いました。
「すごく楽しそうだよ!きっと雨がふっているからだね!」そう続けて話す男の子のはじけるような笑顔と、愛おしく見つめ返すお母さんの笑顔。それは何も特別ではなく、何も飾られていない、ごくありふれた日常だったのですが、とても優しく心に残りました。

 それからというもの、雨の日に、なんとなくその親子の笑顔を思い出すことがあります。
すると、気分の重い雨の日、「できない」ことが多い雨の日、でも、あの優しい日常が流れた日と思い、少し心が軽くなってくるのです。雨の日もそんなに悪くない、そう思えるようになりました。

 今日は雨が降っているけど、まぁいいか。
だって、この雨をアジサイやかたつむりが楽しんでいるのかも、
あの親子の笑顔が今日も交わされているのかも、
雨の日だからこその、優しい日常が流れているのかもしれないのだから。

 そんな優しい恵みをいただいた、梅雨の日でした。

2016年7月 4日
2016.06.27 
村人はイエスを歓迎しなかった。 イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。(ルカによる福音書9章53節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

 

気づき続けるイエス

 「気づき」という言葉遣いが、わりと「キリスト教の人」が多用するものであるのだということを、最近、学生からの指摘によって「気づき」ました。八木谷涼子著『なんでもわかるキリスト教大事典』(朝日文庫)によれば、「気づき」とは、「発見。とくに、真理に近づくような覚醒」とあり、“そうそう、ソレなー”という感じです。そして、「キリスト教の人」たちの「気づき」の大先輩は(と言うにはあまりにもおこがましいのですが)、イエス・キリストなのだと、これもごく最近、「気づき」ました。今ごろかよ、と思われるかもしれませんが、私にはそうなのです。誰も発見したことがないことを見つけるのが「気づき」なのではなく、すでにあったもの、「初めからあったもの」(ヨハネの手紙一1:1)を知ること、実感するように納得すること、それがまさしく「真理に近づくような覚醒」なのです。
 聖書の中でイエスは、エルサレムを目的地として旅をしていました。彼には、エルサレムで遂げる死をもって、「神の国」という「真理」を成就する「キリスト(=救世主)」としての、一世一代の使命があったからです。エルサレムへの道すがら、「サマリア人の村」に入りました。でも、村人はイエスを歓迎しません。「サマリア人」は、ユダヤ人社会において排外され、蔑まれた「被差別民」でしたから、当然のようにユダヤ人であるイエスを拒否したのでしょうか。ところが、聖書は「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたから」との理由を添えます。そもそもユダヤ人がサマリア人の村に立ち入ること自体が異例でしたので、排除された人々と関わり続けるイエスの姿勢として、あえてその村を通ったと考えられます。「ユダヤ人のあなたが、サマリア人の村に来てくださるとは」と驚きの声もあがりそうなものです。でも村人たちは、イエスに何も期待しなかったし、何も求めませんでした、「エルサレムを目指して進んでおられたから」。イエスが目指していたのは、「誰とでも共に生きる世界」の実現、そのために首都エルサレムで完遂しようと「決意を固められ」ていました(ルカ9:51)。でもこの村において、「イエスよ、わたしらとは共に生きるつもりはないのかい?」とのサマリア人たちの無言のつぶやきが、イエス自身の心の内からこだましたのかもしれません。この出来事は、イエスにとっての「気づき」となったのかもしれません。「誰とでも共に生きる世界」=「神の国」は、今、そこにいる人を見過ごさないこと。今、そこにいる人に気づくこと。今、そこにいる人と出会うこと。そこから始まっているのだ、と。私はイエスが「気づき」の大先輩だと思ったら、何だか嬉しくなりました。「気づき続けるイエス」に自分が気づくとき、イエスは生きているのだと思えました。

2016年6月27日
2016.06.20 
救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。(コリントの信徒への手紙二 2章15節)
立教大学チャプレン 金 大原(キム デウォン)

 香りに対する関心がより高まっている。店の売り上げを上げるため性別や特定の年齢層に好まれる香りを使うのが一般的になり、アトピーなどの治療のため使われることもある。音もせず色もないが、周りを爽やかにし新たにすることがあり、逆に雰囲気を害し不愉快にすることもあるのが香りなのだ。
 匂いと関連して笑わざるをえないエピソードが一つある。アメリカに留学していた友達の経験談である。留学初期、道を歩くと犬たちがついてくることが多くて困っていたそうだ。おかしいと思っていたある日、何回か美味しく食べていた肉缶詰が実は犬用であったことことが分かり、犬に近づけられたのは自分からその餌の臭いがしたからだろう、という面白い話を聞いたことがある。
 極端な例だが、わたしたちはそれぞれ自分なりの香りを持っている。2千年前の使徒パウロも、自分たちをキリストによる香りと表現していたのだ。自分はどんな香りが好きであり、どんな香りを漂わして、周りにどのような影響を与えているのか考えてみよう。皆から愛と平和と喜びによる香りが満ち溢れるようにと祈る。

2016年6月20日
2016.06.13 
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイによる福音書11章30節)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

イエスの時代に農業は牛の手助けによって行われていましたし、今でも世界各地で牛が大切な農作業をしていることをわたしたちも知っています。この日常的に目にする出来事を用いて、イエスは大切なことを人々に伝えようとして譬を用いて話しています。
軛(くびき)、これは農作業をする二頭の牛を横に並べて、木製の横棒を牛の首にかけて、二頭をつなぐものです。これにより二頭は一緒に、歩調を合わせて、同じ方向に向かって進むこととなります。その横棒は牛にとって負担のないように首に合せて削られているとのことです。
軛は負いやすく整えられている。ですから荷は重く感じることが無い、とイエスは言われます。「わたしの軛」とイエスが言われるとき、その軛の一方にはイエスがつながれているので、もう一方に、あなたに来てほしい、と招いている軛です。
軛によってイエスに繋がれ、同じ方向に進んで行く道は楽しい道行になるのではないでしょうか。もしも疲れて前に進めないとき、イエスはわたしたちの分まで担って前に進み続けてくださる。イエスを信じる生き方とはイエスと軛を共にする生き方と言えますでしょう。

2016年6月13日
2016.06.06 
そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。(マタイによる福音書第8章7節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「手当て」

 聖書には「癒やし」という表現がたくさん出てきます。もともとギリシャ語で書かれた聖書では、癒やしには文字通り「癒やす/Iaomai」という語が使われますが、イエス自らが、誰かを癒やすことを「買って出る」、あるいは「申し出る」ときだけは、「手当する/Therapeuo」という意味の言葉が使われます。「手当て」・・・・・。

 昔、お腹が痛くなると、親がお腹に手を当てて摩ってくれました。すると不思議に痛いのが治ったように感じたり。泣きじゃくって、まったく寝付かない子どもでも、添い寝してトントンと手を当てて優しく叩くと不思議と寝入ってしまったり。打撲や捻挫をして、その痛みのあるところに手を当ててもらうと、何故かその痛みが和らいだような気がしたり。死を目前にした人の身体に、家族がいろいろな想いを込めて話し掛けながら、手を当てて、ゆっくり摩る。その手の温もりの中で、ほんとうに安らかに召されていく、そういう人の死に何度か立ち会ったコトがあります。「手当て」・・・・・。

 わたしたちが「手を当てる」とき、いつも掌、手の内側を当てます。人間以外の霊長類は、異物、もしくは、他の個体に触れるときには、掌ではなく手の甲で、それに触れるのだそうです。つまり、人間だけが他に触れるとき、掌でそれに触れるというのです。手の内側は、ゴツゴツした堅い手の甲とは反対に、プヨプヨして柔らかく、自身の最も弱々しい部分の一つといえるかもしれません。「手当て」とは、相手の身体に、その自らの弱々しい部分を当てることです。でも、その自らの曝け出された「弱さ」が、掌を通して、相手の痛みであったり、哀しみに触れるときに、それらを和らげていくことを、わたしたちは経験的に知っています。「手当て」・・・・・。

 祈るとき・・・・・ 人は手を当てる、掌を合わせます。合わせた自らの掌の中で、誰かの無事を、誰かの帰還を、誰かの回復を、深く強く想います。「手当て」とは他者を想う、心からの祈りなのかもしれません。「手当て」・・・・・。

 大切な誰かを笑顔にしたい、大切な誰かに立ち直ってもらいたい、大切な誰かに生きて欲しい・・・・・ そう願う、あなたの掌には、癒やしの力が確かに必ずあります。どうか恐れないで、その掌をあなたの大切な誰かに当ててあげてみてください。

2016年6月 6日
2016.05.30 
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ信徒への手紙 8 :28)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 

苦さという味

 私たちの歩む道のりには、嬉しいこと楽しいことがたくさんあります。楽しい記憶、嬉しい記憶は次にまた楽しみや、嬉しさを味わうための原動力となっていきます。
 しかし時に私たちの道のりには、悔しかったこと、後悔が伴っている出来事があります。程度の大小はありますが、悔しかった記憶、後悔している記憶を思い起こすと、何とも言えない苦さが心によみがえります。

 私には悔やんでいることがあるのです。それは私が高校三年生だった時の出来事です。野球部員として臨んだ最後の夏の大会で敗退した日、敗退の悔しさ、引退の悲しさを抱え、なかなかユニフォームを脱ぐことができずに神宮球場のロッカールームで泣き崩れるチームメートを横目に、私は涙ひとつこぼさず、さっさと着替えて帰り支度をしました。本当は悔しかったはず、悲しかったはずだけれども、そういう自分の気持ちと向き合おうとをしなかった、仲間の前で感情を表さないように無理をしたのだと思います。でも後になって、一緒の時を過ごしてきた仲間と思いを分かち合うこと、悔しさも悲しさも分け合うような自分でいればよかったと思っています。私は高校野球引退の時、ちゃんと悔しがって、ちゃんと悲しんで、仲間と一緒に「ピリオド」を打つことができませんでした。ちゃんと悔しがらなかった私の引退には、どこか消化不良な部分があります。その時を、素直に生きればよかったと後悔しているのです。それから20年近くたった今でも、当時を思い出すと、少し苦い記憶がよみがえるのです。

 でも、時によみがえるその苦い記憶は、私にとって日々を歩む上でひとつの鍵になっています。一緒に時を共有している人と喜びや悲しさ、楽しさや悔しさを分け合うこと、また自分の気持ちや心の想いに素直に、誠実にいようと努められる、それはあの苦い記憶があるからです。その苦い記憶が鍵となって、戸を開いていく時があるのです。苦さはマイナスの記憶かもしれません。でもそのマイナスが、これから何かを生みだしていく鍵になっていくこともあるのではないでしょうか。
 私たちにとって、悔しさもひとつの大切な記憶。
 苦さもまた、私たちに奥行きを与える、ひとつの大切な味なのだと思います。

2016年5月30日
2016.05.23 
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。(創世記2章24節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

 

信頼の余地を知ること

 十数年前、子どもが初めてひとりで小学校へ登校する日、玄関先で「いってらっしゃい」と送り出した後でこっそり尾行して、電柱の陰から、商店街の雑踏に小さくなってゆくランドセルをしばらく見ていたことがありました(その日一度だけです)。幼い子が親の目の届かないところへ出て行くことは、最初は心配でした(すぐに馴れましたが)。誘拐されないだろうか、事故に遭わないだろうか、転ばないだろうか、いじめられないだろうか、…と心配し始めたらキリがありません。心配するのが煩わしいなら、子どもを外に出さないで、四六時中、一緒にいればいいのです(ほとんど「監禁」です)。でもそれは、子の人生を認めず、親が私物化、所有化する自己満足。子が自由意志をもった人格として生きること、命を育むことを阻む以外の何ものでもありません。
 人は誰でも、いつかは親の庇護から離れて、他者と出会い、友を知り、親とは別の愛する人と一緒にいたいと切望します。「父母を離れて…二人は一体となる」ことを激しく求める生き物です。しかし、それでもなお、愛する二人であっても完全な一体化はできません。「激しい一体化への望み、相手を知り尽くし、自分のものとしたいという望みが、所詮決して叶えられないことに気づくから」、「愛はそれが純粋であればあるほど、苦しみを伴う」と渡辺和子シスターは、その著書『美しい人に』(PHP研究所)の中で記しました。「苦しみたくなかったら、ほどほどに愛したらいいのだ」とも。でも、「他者との距離を認めて、それに耐えることで、愛は証明される。耐えてゆくために信頼が必要」と教えます。距離が「信頼」の余地をつくります。「離れる」ことで、「信頼」の地盤が据えられ、そこに愛が築かれるのです。確かに、「あなたを信頼している」という言葉が、どれほど、まともに生きようとする気持ちを奮い立たせるでしょう。信頼されているから、それを裏切るようなマネはしたくない、と思えます(プレッシャーでもあるけれど)。
 とりわけ、裏切られても裏切られても、なおも信頼することをやめないでいてくれる、まるで「究極のお人好し」のような生きざま。それを聖書は、イエス・キリストによって示された神の「愛」として描き、私たち皆に、その愛を身に着けるように勧めているのです。(神から)人間への飽くなき「信頼」をもって。

2016年5月23日
2016.05.16 
あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。(テモテへの手紙一 4章12節)
立教大学チャプレン 金 大原(キム デウォン)

 チャペルの前には一本の「アーモンドの木」が立っている。花を咲かせる時期があまりにも早く、その花が桜にそっくりで、初めて見ると皆驚くのだ。その時期になるとニコス・カザンザキスの話が思い出される。
 まだ冬なのにアーモンドの木に花が満開になると、周りの木々が一斉にアーモンドの虚栄心を嘲笑ってこう言った。「傲慢だね。あの木はそうやって自分で春を早めることができると思うのか。」アーモンドの木は恥ずかしくて顔を赤らめて言った。「赦してください。決して私は花を咲かせたくはなかったですが、急に胸の中に優しい春の風を感じたのです。」木石でない限り春の風に心が躍り出すだろう。
 入学シーズンが終わり、キャンパスは生き生きとしている。フレッシャーズの元気な姿のためだろう。目は好奇心に溢れ、笑い声は済んだ鐘の音のようだ。彼らの顔には新しい門を押し開く人の期待感がある。その門がぜひ希望の門であるように、と祈らせられる。
 希望に向けて歩いていく彼らに、長い行軍に耐える足を与えてくださるよう、どんなに堪えがたい試練にあっても倒れない丈夫な基礎が心の中に作られるよう、また現実の論理に支配されず人生の主体として立つことができるように、と願うのである。

2016年5月16日
2016.05.09 
イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。(マタイによる福音書8章14節~15節)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

 イエスは人を愛し、常に見守っておられるからでしょうか、人の様子の変化を敏感に感じ取れるのでしょう。
あるとき行動を共にしていた十二弟子の一人であるペトロの実家を訪ねましたところ、ペトロのしゅうとめが熱を出して寝込んでいることに気付きます。すぐに近寄り、しゅうとめの手を持ち、優しく声をかけたのでしょう。大丈夫ですよ、すぐに良くなりますよ、などと励ましの言葉をかけたのではないでしょうか。
娘婿が大切にしている先生イエスが我が家に来てくれた。たくさんの人たちを励まし、愛し、希望を与えているあのイエスがわたしのもとに来てくれた。しかも手を取って励ましの言葉を下さった。彼女は嬉しかったのでしょう。その喜びが体に力を取り戻し、立ち上がり、お客さんにお茶を出す程に振る舞うことができました。
わたしはこの度の熊本地震による被災者を思い起こしました。あの人の家が全壊した、この人の家が半壊した、その人は車中泊をしているなどと聞いています。
聖公会の九州教区の人たちは翌日熊本に集まり、被災者を訪問し、その翌日に「被災者援助室」を立ち上げました。「被災者を孤立させない」を活動のキーワードにして活動が始められました。小さな働きであっても一人一人を覚えて、訪問し、声をかけ、手をもって励まし、祈る。被災した熊本聖三一教会の牧師は「沢山の人たちから声をかけられて嬉しいです。力を与えられています。」と電話口で話してくださいました。
人の様子の変化に気付くこと、その人に寄り添うことが愛の行いであり、力となることを今週の言葉を読んで知らされました。

2016年5月 9日
2016.04.25 
彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、 その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。(ヨブ記第2章13節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「沈黙する」

 4月14日21時26分、熊本地方を震源とする大地震が発生しました。しかし、その揺れは、翌々日の16日1時25分に起きる本震の前震だったと発表されたとき、さらなる不安が人びとの中で大きく揺れました。その本震の前後、余震とは思えないほどの大きな揺れが襲い続け、前震・本震で脆弱になった土地は崩れ、傷ついた建物は徐々に倒壊をはじめました。さらに、その揺れは大分地方まで延伸し、被害は波紋のように日を増す毎に深刻化しています。多くの大切な人たちが失われ、人びとの間に哀しみと怒りが増えました。5年前の東日本大震災のときもそうであったように、そう表現するかは別として、「神はどこに居るのか」そんな問いを、再び、多くの人たちが抱くことになりました。

 冒頭の聖書は、災難に襲われたヨブを見舞いに来た3人の友人たちの初動について記したものです。彼ら3人は襲った災禍のあまりの悲惨さのゆえに、姿まで変わり果てたヨブを見て、ただただ沈黙の中を7日間、ヨブと共に地面に座っていた、とあります。沈黙すること。傷ついた人の哀しみに心を寄せながら、一緒に座って、その哀しみを想うときを黙して過ごすこと。そういう拠り添いの形もあるということを、この聖書のことばは教えているように想います。

 「喪に服す」という言葉があります。「喪」の作業とは、哀しみを哀しみとして受け止めること、あるいは、その哀しみに黙し立ち尽くす、喪失体験の後には必要な作業だと云われます。大きな「災害」が起こると、たくさんの人たちが失われます。人が失われると哀しみが溢れます。ほんとうは、大切な人を喪失した事実なんて認めたくないし、その哀しみから哀し過ぎて動けない筈なのに、しかし大災害はそれをゆるしてはくれなかったりする。5年前もそう、今回もそのように想います。熊本の被災地を映すテレビ画像の中の、大切な人を失った人びとの姿に、ほんとうは哀しみに立ち尽くし、黙して過ごしたいだろうに、との想いが去来します。被災地に暮らす人たちがちゃんと、「喪に服す」ことができるために、今何ができるのだろうかと考えます。でもその一方で、できることは何かを己に問うことも確かに大事だけれど、今は敢えて沈黙することを大切にしてもいいのかもしれないとも想うのです。哀しみを抱えた人の、その哀しみの深さは判るものではないけれど、にもかかわらず想いを重ねながら、その哀しみを想うときを黙して過ごす、そんな拠り添いの形があってもいいと想うのです。

2016年4月25日
2016.04.18 
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。(ヨハネによる福音書 20 :19~20)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

新年度を迎えました。新しい環境の中で、いろいろな出来事や仲間に出会っていく、私たちはそのような時を過ごしています。
私は子どもの頃、引っ越しが多い環境でした。新しい土地に行くと、新しい仲間や新しい出来事との出会いがあり、たくさんの恵みがありました。でも、それは結果的に思い出すとそうなのであって、引っ越しをする前は「新しいところで楽しく過ごせるだろうか」、「友だちはできるだろうか」と不安が心にあったことも事実です。
ある土地に引っ越した時のこと、私は周りに出来上がっている輪の雰囲気をつかみ取ることができずに、戸惑い、焦っていました。「友だちができるだろうか」という不安が大きくなって、どんどん焦ります。そんな時いわゆる「ガキ大将」のような子が、学校が終わったら一緒に公園で遊ぼうと声をかけてくれました。私はまだ公園までの道も分かりませんでしたし、その土地特有の遊びもそのルールも知りませんでした。でも遊ぼうと声をかけてくれた子は、公園までの道を一緒に歩いてくれましたし、遊びのルールも優しく教えてくれました。その日は10人くらいで「缶けり」のような遊びをしたのですが、みんなそれぞれオニに見つからないように藪の中、木の上、すべり台の裏、いろいろな所に隠れます。そして陽が傾いてくるまで、いっぱい遊びました。解散しようとした時、お互いの手足を見ると、藪や木の枝でひっかいてしまったのか、みんなが傷だらけでした。「なんかヒリヒリするね」そんなことを言いながら笑って傷を見せ合ったことが思い出されます。一緒に遊んで一緒に傷つき、それを笑いながら見せ合った、その出来事が私の心の不安を消し、その不安よりも大きな喜びを生みだしました。

復活したイエスの体には、十字架に磔(はりつけ)にされた時の傷がはっきりと残っていました。そしてイエスはその傷を、不安と恐怖を抱え家に閉じこもっていた弟子たちの前で示します。十字架の痛みや苦しみの証である傷をもって復活したイエスは、その傷を見せながら「恐れずに生きていこう!」と励ましているように、私には感じられます。
傷を負わない人生、痛みが伴わない人生、不安のない人生を送る人は、ほとんどいません。それなのにいつでも私たちは、「平気です」、「大丈夫です」という顔をして、抱えている傷や不安を隠し、平静を装うことが強いこと、格好良いことのように過ごしているのではないでしょうか。
確かに傷や不安を人に見せることは容易ではありません。勇気が要ることですし、自分の弱さをさらすような気がして、見せたくないものです。無理に見せる必要はないでしょう。でも私たちがある時に、互いの傷に目を向けること、信頼をもって不安や恐れを見せ合うことで、互いの不安が和らいでいく、痛みの中にもある何かに気が付いていく、あるいは誰かとの間に深い交わりが結ばれていく、そんなこともあるのではないかと思うのです。
傷をもち不安を抱えていることは、弱いことでも格好悪いことでもありません。平気な顔をしていられることが強いこと、格好良いことでもありません。なぜなら、その傷や不安は、ちゃんと「私」を生きてきた、そして生きている証なのですから。復活したイエスの体の傷は、そんな風に私たちに語りかけているのではないでしょうか。

2016年4月18日
2016.04.11 
わたしにつまずかない人は幸いである。(マタイによる福音書11章6節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

 

「つまずく」ことを恐れずに!

 約半世紀前(1964年発行)の「立教大学宗教団体の栞」に、当時のチャプレン竹田鐡三師の「アンチ・クリスト者出でよ」と題した巻頭文があります。その頃の若い人たちの間では「関係ないです」という言葉が流行していたようで、竹田チャプレンは、「キリスト教は『関係ないです』ナドと云う者には特に関係がある」と打って出て、「宗教に無関心な学生諸君に接したい。更に、キリスト教に反対の人があるならば、そう云う人々と友達になって大いに語りたい」と呼びかけました。数年前にも、「そんなの関係ねぇ」という流行語があったように、時が流れても「無関心」のメンタリティは脈々と受け継がれているのかとも感じます。その一方で、「キリスト教に反対の人」、「アンチ・クリスト者」はめっきり影を潜めているように感じます。自分にとって「利得のある」、「ためになる」学びや経験ばかりに興味と関心を寄せなければならない(と思わせる)現代のせわしさが、それ以外のことに関係する余裕を無くしているのでしょうか。
 確かに、私が受けてきた学校教育も少なからず、「いかに迅速に正解を導き出し、効率的に結果を出すか」というところにあったので、疑問やアンチテーゼは時間的にも労力的にもムダやリスクが大きい、という怖れにとらわれがちになる気持ちも分かります。そして最近は、「とんがった不良学生」や「ツッパリ」(ほぼ死語…)の存在が見えず、万事において「呑み込みが早くて、物分りのよい」、一見「素直な」学生が多いようです。けれど、それに対しての疑問-「なぜ」という問いを立て、思索し続けてゆくことが不得手なようにも感じます。そこで自戒と痛悔も込めて、新年度を迎えた今、改めて皆さんに、「疑問や違和感を大切に保持せよ!」と勧めます。「引っかかり」、「つまずく」ことを恐れずに!と。
 「つまずかない人は幸い」とイエスが言われた背景には、イエスに期待を寄せていた者たちの疑問、解せない気持ち、そして不信感も湧く、明らかな「つまずき」がありました。でも、「つまずき」は「飛躍」への足掛かりなのです。それはちょうど、石に蹴躓いたとき、前のめりになりながら、一歩も二歩も先のところに瞬間的に着地するようなもの。たとえ転んでしまっても、確実に先に進んでいます。そして何より、倒れる者を抱き留め、また起こしてくれる存在(あるいは出来事)がそこにある、と私は信じています。旧約聖書イザヤ書における預言が、その約束を宣言しています。
 「主は聖所にとっては、つまずきの石/イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩
  エルサレムの住民にとっては/仕掛け網となり、罠となられる。」(イザヤ書8:14)
 さぁ、「つまずきの石」「妨げの岩」であるイエスに蹴躓いてごらんなさい。「関係ない」と云う人の足もとにこそ、キリストの「仕掛け網」が張り巡らされているかもしれません。

2016年4月11日