2019年度チャプレンからの今週の言葉チャペル

2020.1.20

わたしは生涯、絶えずあなたをたたえます。
天のすべての軍勢は、あなたを賛美し、
栄光はとこしえにあなたのものだからです。アーメン。
(マナセの祈り 15節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」

 「日日是好日」とは、10世紀初頭の中国、唐から五代十国へと時代が巡っていく、その時期に活躍した大禅匠 雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師の言葉だと伝えられています。

 「日日是好日」の「好」は、好悪の「好」のことではありません。毎日、楽しい日が続いてLuckyといった、学の浅い意味でもありません。「一日一日が、わたしの一生の中で一番大切な日、一番良い日」という意味を持ちます。たとえ逆風に悩まされようとも、何か大切なものを失ったとしても、その日を好悪、良し悪し、是非といった価値観で判断するのではなく、むしろ、そうした価値の枠組みから解き放たれて、もっと見晴らしの利くところに立って、一日を俯瞰してみる。そうすることで、その日を「好日」として眺望することができるのではないか。そのことを教えるために、この「日日是好日」との言葉は語られたように想います。生きることに悩める者への励ましの言葉として。

 来る日も来る日も、毎日を不安や悩みにもがき、押し潰されそうな現実の中に漂いながら、それでも、その日を「好日」と受け取ることは、凡人には到底無理なことに想えます。しかし、そんな現実の中に身体を置いているからこそ、「日日是好日」との言葉が痛いほど身に染みて、だから、そんな日が来ることを、そう生きたいとの願いを強くするのだと想うのです。そして、もしそう想えるのなら、もう既に、その日は「好日」になっているのかもしれません。

 「日日是好日」とても素敵な響きに満ちた言葉です。V.E.フランクルではないけれど、「それでも人生にYesと言う。」 この人生への"Yes"こそが、好日の"好"なのだと想います。その日を" 好" と想うことと、今を生きる、このわたしを"好"と想うこととは同義であると信じます。あなたには、この先もめげずに、「日日是"好私"」を歩き通し、生きてほしい、と願います。「日日是"好私"」 この言葉を、今、生き悩んでいるあなたへの、2019年度学期最後の、チャプレンたちからの「今週の言葉」として届けます。

2020年1月20日
2020.1.6

神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。
(創世記 1章3~4節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 伝統的にユダヤでの一日の数え方は、日没に始まり、日没に終わります。これから闇が深まっていく、どんどん暗くなっていく時をはじまりとするのです。日の出とともに一日が始まると考えた方が、明るい時からはじまる一日という思いに至りますが、そうではないのです。そこには、闇に向かっていく時をはじまりとしても、また陽が昇る光の時がやってくる、神はまた必ず光を仰ぎ見る時をくださる、だから闇の中を信頼をもって歩んでいくという、神への想いが込められています。この「時の数え方」は、私たちが厳しい状況下、暗闇の中を歩むことがあろうとも、そこにこそ神の思いが注がれていく、必ず夜明けがやってくるのだということを物語っているように思うのです。
 バースデー・ケーキのろうそくに火を灯した時、部屋の電気を消してその灯を見つめます。そこには電気とは違う、ろうそくならではの明るさと温もりがあります。それは闇の中だからこそ活きる灯です。
 私たちは、新しい年のはじまりを迎えています。楽しいこと嬉しいことがたくさんあるように、笑顔あふれるようにと願いながらも、時に様々なことで闇に触れたり、光を見失いそうになったりします。しかしそこにこそ示される灯があることを、私たちは心に留めたいのです。その灯のぬくもりを持ち寄って、互いに温め合う私たちでありたい、その灯こそ、「光あれ」と言われた神の想いであり、ろうそくのように生きられたイエス・キリストなのです。
 私たちが闇の中にいる時にこそ、神は新しいはじまりを私たちに示し、光輝く朝へと導いていってくださる、その喜びをもって歩んでいきたいと思います。

2020年1月6日
2019.12.16

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
 その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
(マタイによる福音書 1章23節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

キャッチフレーズがササったら

 幼い子どもたちが「ジングルベー、ジングルベー」と歌っている情景を思わせる、そんなサウンドが街のあちこちから聞こえる季節の真っただ中です。「ジングルjingle」は、「シャンシャン」とか「チリンチリン」といった擬音語とは別に、コマーシャルなどのキャッチフレーズの意味も持つ業界用語だとか。何気なく耳に残る、短い音楽とキャッチフレーズを「ジングル」と言うこともあるようです。「スカッとさわやか」の「ジングル」で広まった清涼飲料があったように、言葉と音に喚起されて、その品物を手に取り、体感して「ウン、確かに」と思えたならば、その品物はさらに広がり続けるのでしょう。
 ちなみに、聖書は「キャッチフレーズ」の宝庫だなと思います。何気なく耳に残る「ジングル」もちりばめられています。声に出して読み継がれ、そのフレーズが歌い継がれ、心にササッて、「ウン、確かに(=「アーメン」の意味)」と実感した人から人へと、広がり続けています。そんなキャッチフレーズの極めつけは、「インマヌエル」。旧約聖書のヘブライ語で、新約聖書はわざわざ、「神は我々と共におられる」という意味、と説明付きで記載しています。そうまでして、この言葉を人々に発音させ続けたかったのです。キリスト教は、「インマヌエル」こそを、主イエスの「ジングル」にしたかったのです。
 「インマヌエル」=「神は我々と共におられる」は、理屈ではありません。「アーメン」=「ウン、確かに」という実感を伴った経験の共有です。つまり、「決して一人ぼっちではない」、「孤独ではない」、「絶対的に信頼できる強い味方がついている」といった実感が、人から人へ、時と所を超えて、手を替え品を替え、誰にでも伝わるための「ジングル」なのです。
 「インマヌエル」がササったら、それを頭の中で「ジングル、ジングル」と鳴らしているだけにしないで、ぜひその呼びかけに立ち止まり、体感する地平へと踏み出してみてください。さあ、「インマヌエル」と発音し、「アーメン」と実感する、その歴史の開始、喜びの根拠である主イエス・キリストの誕生を、皆で祝いましょう。メリー・インマヌエル!アーメン!

2019年12月16日
2019.12.9

「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
(ルカによる福音書 12章56節)
立教大学チャプレン 金 大原

冷徹な目と熱い心

 アメリカのキリスト教月刊誌である「ソージャナーズ(Sojourners)」は、2018年新年号の特集記事として、トランプ時代に生きる人が持っていなければならない「冷徹な希望(relentless hope)」を取り上げていた。時代の闇に屈しないためには、時代を冷徹に見通し、それを持ち続けなければならないという内容だった。時代を読むための冷徹な理性はもちろんのことだが、それに加えて時代を変えていく熱い情熱も必要だと思う。
 トランプ大統領だけでなく、どの時代にも混沌を造り出す人はいた。恐怖と不安を助長して自分の利益を確保する人はいつでもどこにでもいるのだ。でも、それに抵抗し、現状を冷静に把握して希望を蒔いた人たちによって時代は進歩してきた。
 ローマ帝国の暴政によって人々の素朴な夢が踏みにじられていた時代に、イエスは、貧しい地域に、みすぼらしい姿で、人々の前に現れ、力による支配が正当化していた時代に向けて「違う」と叫ばれ、「神の国の到来」という福音を宣べ伝えられた。イエスは、ご自分の生涯を通して、まことの愛と平和の道を示し、世の中のどんな力でも奪うことのできない魂の偉大さを表されたのだ。
 キリスト教会は今、そのようなイエスの思いが自分たちの中に満たされるよう祈る季節を過ごしている。イエス・キリストのその徹底した確たる希望が、私たちの胸に強く刻まれるようにと願うばかりである。

2019年12月9日
2019.12.2

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
(ルカによる福音書 23章42~43節)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

 この聖句は、イエスが十字架に付けられたとき、同じように十字架に付けられた二人の犯罪人の一人が、イエスにお願いした言葉とそれに応えたイエスの言葉です。
 すべての人を救うために、この世に来てくださったイエスは、わたしたちの体と心にしっかりと寄り添うことにより、わたしたちを励まし、希望を与えてくださる救い主です。イエスは理不尽な裁判により、最も苦しみを伴う十字架刑を受けます。その苦しみは、イエスが大声で叫ぶ程の心身ともなる苦しみです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイによる福音書27章46節より)。イエスと共に十字架刑を受けている犯罪人も同じ苦しみのなかで息を絶えるのでしょう。その苦しみと絶望を自分のこととして受け止めることのできるイエスは、わたしがあなたと一緒にいる、と励ましの言葉を言われます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。
 キリスト教会の暦によりますと11月24日が一年の最終の日曜日となります。この日に読まれる福音書が上記の聖句です。わたしたちには、言葉の通り、わたしたちの体と心にしっかりと寄り添い、共に生きて、共に死に、復活による新しい命を約束してくださったイエスが、今日もいてくださることを嬉しく思います。

2019年12月2日
2019.11.25

わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
(ローマの信徒への手紙 8章38~39節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「消えたい」

 「死にたい」と、「消えたい」との想いの違いは・・・・・。
 そこでは全く異なる二つの死生観があると云われる。「死にたい」は、本当はこう生きたいという希望や理想の破綻、楽しく過ごしてきたということに対する断絶を前提としているが、「消えたい」は、前提となる、生きたい、生きてみたい、生きてきたという経験がなく、今まで生きてきたけど、何もいいことがなかった、何の意味もなかった。そうやって生きていること自体に対する疲弊と哀しみが、そう云わせるのだと。精神科医である高橋和巳は、被虐待の経験を持つ人たちとの関わりを通して、そのように分析している。

 このさき、この「消えたい」という想いは、現代という、何をするにも資格と能力が問われる、この認証化社会のなかで、自らの存在を肯定もされず、承認された、という満足を、自らにも、他者からも、一度も感受することなく過ごしていく人たちの増加と共に、その各々の心の中に溢れかえっていくのかもしれない、と想うと、切なくて哀しくてたまらない。それに押し潰されそうな想いに立たされる。

 今、「消えたい」と想っている君へ。
 わたしも、君も、そして、この世界中の人たちも、今、ここで生きて居られるってことは、誰かが、その「いのち」の世話をしてくれたから。そうやって「愛された」ってことの確かな「証し」なのだと想う。愛されたことなんか一度もない。一度も自らの存在を肯定されたことも、承認されたことなんかもないと云う人が居るかもしれないけど、「愛された」という経験が、今、君をここに存在させている。ボクは、その事実を心から強く信じる。君にもその事実を信じていてほしい。

2019年11月25日
2019.11.18

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
(ローマの信徒への手紙 12章15節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 子どもの頃、仲良くしている友達がいました。一緒に学校に行き、同じ野球チームでプレーし、お互いの家を行き来するような間柄で、いつも一緒でした。だけど、その友達が引っ越してしまうことになって、そのことを知った時には大きなショックをおぼえました。父親が転勤族で「地元」がない私にとって、ずっと前から友達だったような結びつきを感じられたのは、後にも先にも彼だけでした。
 彼が引っ越してしまう直前、最後の野球チームの練習の日、彼とキャッチボールをしました。お互いに「これが最後」という寂しさがあって、だけど何かを言葉にするのは恥ずかしくて黙ったまま、想いと力を込めたボールを投げたり取ったり・・・。

 「ありがとう」、「元気でな」、「また会えるといいな」

 あの時から30年近く経ったけど、あの日手に感じたボールの重みが、今も感触として残っています。その後、彼とは一度も会う機会がなくて、今どこで何をしているのかも分かりません。けれども、同じものを見て、同じことをして、同じ喜びや楽しさを感じる、子どもながらに受け取った一緒にいることの温かさ、「独りじゃない」と湧き上がるような力強さが、今も心の感触として残っていて、自分と共にいる存在に思いを向けていく「一つ」の「緒(いとぐち)」になっているように思います。

2019年11月18日
2019.11.11

むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。
(エフェソの信徒への手紙 4章15節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

愛が分母なら、つまらない大人にはならない

 シンガーソングライター佐野元春さん(1979年、社会学部卒)の『ガラスのジェネレーション』は、高校時代の私にとってのソウルソング(魂を支える歌)でした。思うことが言葉にならなくて、イライラして、ダラダラして、すぐにひび割れて、自己嫌悪して、といったスパイラル(螺旋)の日常にあって、でもこの歌の最後の「つまらない大人にはなりたくない!」とある詞を心に抱えて、踏ん張っていたような気がします。この秋、ホームカミングデー(校友の集い)に、佐野さんが母校で凱旋ライブをしてくれました。新曲『愛が分母』を携えて。「愛が分母なら・・・」と繰り返される歌詞が、「つまらない大人」にはなりたくなかった私の思いに、じわじわ連結しました。「つまらない大人」にはなりたくなかったけれど、最近、けっこう「つまらない大人」になってしまったかもしれない、と漂っていた私の心を、「愛が分母なら」という言葉が、大地に立つものとして、つなぎとめてくれたように感じました。
 「分母」とは、「分数または分数式で、割るほうの数や式」と辞書にあります。その意味を私なりに当てはめてみると、「愛が分母」とは、「愛」で割るならば、どんな割り切れない思いも、出来事も、理解や解明し難いようなことも、どうにかしてゆけるかもしれない、という感じでしょうか。もっと踏み込んで言えば、「愛が分母」なら間違うことはない、失敗はない、という気がします。ステージから「みんなもそれなりに年を重ねたものだな・・・」といったニュアンスの言葉をかけていてくれた佐野さんの軽やかな魂を感じて、「愛が分母なら、つまらない大人にはならない」と私は確信しました。それを聖書は、「愛に根ざして真理を」語ることを勧めます。そう努めてゆく営みにおいて、人間の善い本性へと「成長して」ゆける励ましを記しているのです。愛に根ざし、愛を分母として、あらゆる時と場において、善い心を互いにかよわせる知性への情熱を、いくつになっても燃やし続けてまいりましょう。

2019年11月11日
2019.10.28

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
(マタイによる福音書 18章21~22節)
立教大学チャプレン 金 大原

「自分への挑戦」

 「挑戦」とは特定の対象に戦いを挑むことである。すぐ勝てる対象だったらあえて挑戦と言わなくて良い。だから、何かに挑戦する前には熟慮と決断が必要になる。勝てる保証はないから、挑戦という言葉には恐れの感情が内包されている。もちろん負けることもある。この場合は「失敗」という耳にやさしい言葉を使う。負けにしろ失敗にしろ、対象が甘くないということである。だからといって諦めるわけにはいかない。再挑戦する勇気がなかったら、最初から挑戦しない方が良かったはず。でも、一度挑戦すると相手の力に対する評価ができ、力の強さを測って再挑戦の時期を決めて準備することで、人間は成長するものだ。
 対象のカテゴリによって、挑戦は二つに分けて考えられる。他者との戦いや競争で勝つための挑戦がその一つであり、もう一つは自分への挑戦であって、勧めたいのは自分との闘いである。限界への挑戦、内面との闘いにおいて敗北や失敗はない。努力した分だけの成果が残るはずだ。たとえば、悪い習慣を断ち切ろうとした時、完璧ではないかもしれないが、頑張った分だけ変わるだろう。このような挑戦には、大なり小なり勝利が残るばかりで、完全な失敗はない。
 イエスもこのような挑戦を教えていた。自分に罪を犯した兄弟を、七の七十倍まで赦すことと言われた。自分への挑戦と、善の実践に対する果てしなき挑戦を教えていることだろう。

2019年10月28日
2019.10.21

あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。
(詩編8編4~5節)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

 英国から日本に帰る飛行機の窓から外を眺めているとき、突然「地球はなんと小さな星なのか!」との思いが起き、不安になったことを思い出します。ロンドンから東京への飛行時間とほぼ同じ時間で東京からニューヨークへ行くことができます。地球はその程度の大きさ。この小さな地球が宇宙にぽっかり浮かんでいる。勿論、46億年の間、太陽の引力に支えられて現在に至り、これからも暫くは同じように存在し続けるのでしょう。広大な宇宙から見たら、太陽系も小さな星と言えなくもないです。太陽系が属する天の川銀河は1000億の星によって構成され、一つのブラック・ホールの強力な引力によって一つに纏められているとのこと。更に、銀河は2000億程あるであろうと言われると、驚くばかりです。
 この小さな地球の中にわたしたち人間が命を与えられています。この人間は、弱くはかない存在を表すエノシュという言葉で記されているとのこと。エノシュの名前は創世記4章26節に記されています。「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」
 小さな地球の中に生まれた弱くはかない存在である人間(エノシュ)を、大宇宙を造り続けておられる神が御心に留めてくださっている。神の前では誇るべきものは何も無いにもかかわらず、神は御心に留めてくださっている。何か、嬉しい思いになります。人間が主の御名を呼び始めたのはこの時からとの言葉を納得します。主の御心、神の愛に感謝します。

2019年10月21日
2019.10.14

偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。
(ルカによる福音書 6章42節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「人(ひと)」の「為(ため)」

 人には、自分にとって都合のよい情報を選択的に選び出し、逆に、都合の悪い情報を避けようとする傾向がある、と云われています。そして、近年のSNSなどの加速度的な浸透が、人の、そうした傾向を助長している、との懸念の声がよく聴かれるようになりました。インターネットの世界では、見たくない情報には触れずに済むからです。

 「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。
    多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。」
とは、ユリウス・カエサルの言葉です。2000年以上前に生きたローマの英雄からの、現代への警告にも聞こえます。「見たくない現実」を見るということから、人は逃げてはダメだ、という警告です。

 自分の都合のよい環境、情報の中だけに身を置き続ければ、視野・思考の狭量な人間が生まれ出ます。カエサルの後の時代に生きたイエスは、自分の目の中の「丸太」に気づかず、他者の目の中の「おが屑」ばかりを気にする、そんな狭量な人間のことを、「偽善者」と片付けました。

 「人(ひと)」の「為(ため)」と書いて、「偽(いつわり)」と読みます。「見たいと欲する現実」のみを凝視する人が見ているものは、実は、自分の為の成功や快楽だけのようです。そこでは、他者の苦悩や痛みは決して見られることはありません。わたしたちは、今、何を見れているでしょうか。自分の目の中の、偽善という「丸太」が、見るべき他者の真実を見せなくしてはいないでしょうか。

2019年10月14日
2019.10.7

主を畏れることは知恵の初め。
無知な者は知恵をも諭しをも侮る。
(箴言 1章7節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

「肉に長くさわるな。手の温度が伝わって鮮度が落ちる」
「さばくときには包丁を往復させるな。断面がギザギザになって口当たりが悪くなる」
「肉の部位に応じて、串をさす深さを考えろ。焼いた時の熱の入り具合を想像しろ」
「自分本位にやるな。肉を最良の状態に仕込むために謙虚になれ」

 私がアルバイトしていた焼き鳥店のオヤジさん(店長)の言葉です。職人気質で口うるさく、鶏肉に造詣の深いオヤジさんのお店は、いつも舌鼓を打ちにやって来るお客さんで溢れていました。
 ある日の仕込みでのこと。少し早めにお店に到着した私は、誰もいない薄暗い店内でオヤジさんがひとり、仕入れた鶏肉の前で手を合わせている光景を目にしました。オヤジさんは後で少し気恥ずかしそうに、「今日もいい仕事をさせてください、って願をかけていた」と話してくれました。オヤジさんの厳しい指導やこだわりのすべては、「いい仕事をさせてください」との謙虚さがなさせていたもの、その慎み深さこそ、お店の看板を支えているのだと思わされました。

 学びや経験、そこから得られる知識というものは、私たち自身が手にしていくものです。だけどすべてを選び取って、自分で決めたことのみを知識として得ているわけではないでしょう。ひとつひとつの出来事を「与えられたもの」とし、その前で謙虚に佇むことで「識(し)る」ということもまた、大切にすべき知識であると、オヤジさんの在りようが教えてくれました。

2019年10月7日
2019.9.30

イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には、『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。」
(マタイによる福音書 16章2~3節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

空模様を見分けるように、時模様を

 いつのころからか私は、頭痛から「間もなく雨が降る」ことを知る体になりました。いわゆる「低気圧」の接近で頭が痛くなるだけなのですが、「天気予報」よりも早く感じることもあります。「何だか、アタマ痛いな」と目覚めると、「今夜は雨になるでしょう」と気象予報士の言葉が流れます。人は古くから、誰もが空模様を知る知恵を、経験則から持っていたようです。その歴史は紀元前650年のバビロニア人にさかのぼるとも、紀元前340年頃にアリストテレスが気象学の天候パターンを導き出したとも言われます。それほどに「空模様を見分ける」ことは、人と社会の生活に大きく影響を及ぼす、生きてゆくために必要な知恵と経験による技法だったのです。
 人は、生きてゆくために「空模様を見分ける」けれど、「時代のしるし」=「時模様」を見分けることが、なかなか難しいようです。天気は、統計学的データ集積と人の経験値を複合して、今や時々刻々とその変化を知ることができますが、世の変化変動は「予報」よりも「事後報告」、すなわち報道ばかりが、妙な発達をしています。経験則から「時模様」を見分けようとするのであれば、「歴史から学ぶ」ことが有効なはずです。しかし、歴史の客観的正確性は、統計学よりもはるかに不安定です。歴史はしばしば権力者側、為政者側の視点で記録されるからです。その「誤差」とも言えるものを差し引いて、「時模様」を見分けるべきなのでしょうが、そのためには判断基準の軸が必要です。それは何でしょう。
 「全国の天気」や「世界の天気」予報から、遠くに住む人の安否を気遣い、隣近所では災害の備えをし、自然の猛威に対しての予防や対策を講じながら、皆が共に生きるため、生き残るために必要な情報を共有しています。そのように、「時模様」を見る上でも、世界各地の人、皆が共に生きるため、生き残るために、これは必要なことかを、判断基準の軸としてはどうでしょうか。日常的に、多様な人と出会いながら、歴史を学び、読み解き、今の「時模様」を見分けてゆく、その経験則と知恵の技法を身につけてゆきましょう。皆が生き残るために。「今日も良いお天気ですね」と空を共に見上げられるように、「今日も平和ですね」と、世界の誰とでも共に言える日が実現するために。

2019年9月30日
2019.9.23

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
(マタイによる福音書 7章12節)
立教大学チャプレン 金 大原

 人間らしさは社会性や関係性の中から探られるだろう。だからか、皆はいつどこででも誰かとつながろうとしている。道端でも、車内でも、家でも、スマホをもって誰かとの接続を図っているのだ。「つながり過剰症候群」が心配されるほどだが、でも寂しさは変わらない。いつでも切ってしまえばいいSNS上の関係から何が期待できるだろうか。人間は関係の中から幸せを感じるのに、「望ましい人間関係」は未だに課題なのだ。
 脳科学や神経心理学における最近の非常に重要な発見として、人間を初めとした一部の霊長類の脳内にある「ミラー・ニューロン」があげられる。他人の行動を見て、まるで自身が同じ行動をとっているかのように「鏡」のような反応をすることから名付けられた。これを「感情の感染」とも言うが、「共感能力」と言った方が良いだろう。まさにこの「ミラー・ニューロン」の働きによって、わたしたち人間は他人の考えや行動、そして感情を自分のことであるかのように理解するのだ。笑っている人を見て微笑んだり、泣いている人を見て顔をしかめたり、親の表情によって子供の感情が変わったりするのが端的な例である。
 すなわち、周りの人々が幸せだと自分も幸せになる。言い換えると、周りを幸せにすれば自分も幸せになると言えるだろう。望ましい関係を築きたいのなら、真の幸せを願うなら、人々を幸せにしてあげるものだ。

2019年9月23日
2019.7.15

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。
(ガラテヤの信徒への手紙 2章19節b~20節b)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

 十字架に付けられていると記すほどの困難を生きるパウロが、キリストと共に生きている、と言われるこの言葉は印象的です。
 日本聖公会九州教区に所属する「菊池黎明教会」が熊本県にある国立ハンセン病療養所(菊池恵楓園)内にありました。わたしはそこに住む人々と定期的に聖書を読み、思いを分ち合う時を持ったことを懐かしく思い出します。ある時、一人の人が話されました。「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。ですから、わたしはキリストなのです。」と言われ、更に、コロサイの信徒への手紙1章24節の言葉を引用して「『今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たす』人生を生きています」と言われたのです。わたしはこの言葉を聞いておどろきました。
 病気になった故に警察に監視され、隔離され、社会から厳しい差別を受け、その苦しみはこの聖句をもって表現する程の苦しみだったのでしょう。家族に会いたいと思いつつも、迷惑をかけることを恐れ、本名を名乗らずに生きてきた人たち。心身ともなる苦しみを生きてきた人。しかし、この人が教会の講演会で、おどろくべき事を言われました。「この病気を患ったのでキリストを知ることができました。そうでなければキリストのキの字も知らなかった。だからこの病気になって良かった」と。わたしは聞き間違いかと思い、今、何と言われましたかと、訊ねたところ、同じように応えられたのです。今、わたしは誤解されることを心配しつつ、この人の言葉を紹介しています。この病気になって良いわけはないです。しかし、キリストを知った喜びをこのように述べられたことは是非にも伝えたいと思いました。キリストと共に、今を、引き受けて生きる人の姿には威厳を感じさせるものがありました。
 菊池黎明教会の人々と若者との交流会が、これまでに何度も行われましたが、悩み多き若者が、威厳をもって生きる人々から愛され、励まされ、自分を受け入れる力を与えられて帰って行く姿を、嬉しく見てきました。

2019年7月15日
2019.7.8

主は彼を外に連れ出して言われた。
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」
(創世記 15章5節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「互いに際立つ距離」

 7月7日「七夕」・・・・・ 願いごとを書いた短冊や飾りを笹の葉に結びつけて、星に願うという古くからの慣習。また、この日は、織り姫と彦星が、年に一度だけ、逢うことがゆるされる日としても知られています。

 織り姫は機を織るのに一生懸命で自分をかまうことをせず、一方の彦星も、牛に水をやったり、餌の用意をしたり、畑仕事に精を出したりと、休む間もなく真面目に仕事をしていました。この二人を空の神が出会わせました。しかし、それからというもの、二人は互いだけを大事にするばかりで、ちっとも仕事をせず、機織り機には埃がかぶり、飼っていた牛たちも餌をもらえず痩せていきます。空の神は、仕事をするよう進言しますが、二人は「わかった」と答えるだけでまったく仕事をしようとしません。怒った空の神が、「もう二人を会わせるわけにはいかない」と、織り姫を天の川の西へ、彦星を天の川の東へとむりやり引き離しました。こうして、二人は、広い天の川を挟んで別れ別れになり、お互いの姿を見ることさえできなくなってしまいます。それ以降、織り姫は毎日泣きくらすばかりで、まったく機を織ろうとせず、彦星も家に閉じこもって、牛の世話をしようとしない。ほとほと困った空の神が、「前のように、毎日まじめに働くのなら、一年に一度だけ、二人が逢うのをゆるそう」と。こうして、二人は一年に一度、そう7月7日の夜にだけ逢えるようになったのでした。
 
 この物語・・・・・自分を保つための、そして、つながりを豊かにするための、「距離」というものについて、すごく考えさせられます。誰かのために一生懸命になりすぎると、自分を顧みることをしなくなり、誰かを愛しすぎると何も手につかなくなり、逆に、大切な誰かと離れ過ぎても、また何もできなくなる。織り姫と彦星の間に置かれた、「一年に一度」ということが象徴しているのは「自分を保てる距離」、そして、他者との「意味のある遠さ」なのではないかと想うのです。

 天文学的に云えば、織り姫を示す「こと座のベガ」と、彦星の「わし座のアルタイル」の距離は、約140兆キロだと云われています。実際には、一生かけても逢えない距離です。でも、そんな夢のない、実際的な距離のことではなくて、やはり、人と人との間には、大切な距離は必要なんだと想います。互いを活かし合ったり、自分が自分で在れる「遠さ」という距離が。近すぎて、それぞれの存在が、個々の、その輪郭がぼやけてしまう距離ではなく、その存在同士が、互いに際立つ「距離」というものを大切にできる、その想いを星に願いたいものです。

2019年7月8日
2019.7.1

だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
(コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章9節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 先日、包丁やハサミなど刃物を取り扱う都内の老舗で開かれている「研ぎ教室」に参加しました。砥石や刃物の材質や種類、特徴について、また、その特性を活かした研ぎ方についてみっちりと講習を受け、最後に、用意された切れない包丁を、手で持ち上げた紙がスパッと切れるようになるまで研ぎ、講習を終えました。その時、講師である職人さんがおっしゃっていた言葉が印象的でした。

 「刃物は、どんなに高価なものでも安価なものでも研げば必ず切れるようになります。
 どんなことでも続けていれば光るようになる。わたしたち人間と一緒です。
 わたしだって30年かけてやっと刃物を語れるようになったのです。」

 その言葉を聞きながら、つい不得手なことを敬遠し、好きなこと得意なことへの努力だけを続けてしまいたくなる自分を振り返っていました。センスを磨く、才能を伸ばすのはとても大切なことでしょうし、得意なことを活かせる場面は楽しく過ごすことができるでしょう。だけど「センスや才能がない」と不得手なことを避けてばかりいると、受け止める必要があることからも逃げる術、弱さを隠す癖が身についてしまいます。そして何よりも、不得手や弱さを抱える自分に向き合う時間を手放してしまいます。不得手に向き合う楽しいとは言えない経験は、物事を受け止めて向き合う自分を磨いていくことになるのではないでしょうか。

 「どんなことでも続けていれば光るようになる」
 伝統を受け継ぎ、永く刃物を研ぎ、自分も磨いてきた講師の言葉には、経験に裏打ちされた重みがありました。

2019年7月1日
2019.6.24

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
(ヨハネによる福音書 14章27節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

他者を幸せにする「計算」を

 ひと昔前、あるバラエティ番組の中で「計算マコちゃん」というコントがありました。「マコちゃん」が、彼氏の心を掴むために、可愛らしく、ちょっと甘ったれた言動をしてイイ雰囲気になっていると、横で別のカップルが、「出た。あれは計算!」と冷ややかに解説する設定でした。いわゆる「計算高い」とか、「あざとい」(他者の心を見透かして利用し、その相手を自分の都合の良い状態へと誘導する意図が感じられる行為)とも言われるキャラクターを誇張したコントでした。自分の思いを遂げるために、求めることをかなえるために、有効と思われる手を尽くそうとする「計算」は、誰でも多かれ少なかれ、しているように思えて、わりと風刺的でもあったのだと思い返します。
 「この人に気に入られれば、自分には利がある」とか、「私たちの意見を通すためには、あの人たちが賛成してくれれば通る」といったように、自己アピールの矛先、自分の要求の持ち出し方や順序、力関係といったものを「計算」に入れるのは、より大きな利益、利得のためには必要なことなのかもしれません。政治やビジネスの世界においては、絶えず「駆け引き」という「計算」が行われているようです。それで「平和」や「商売繁盛・家内安全」が本当に保たれるのであれば、それに越したことはないのでしょうが、どうもそこには超高額装備品の売り買いが付きもののような気がしてなりません。端的に言えば、「平和・安全」を保つために軍備が増強される、ということです。戦争をしない憲法を持つ国が、戦争に使う道具-技術開発も含め-を買いそろえる必要があるのか、理解に苦しみます。「アレを買いたい」という要求を通すために、その必然性となる情報-例えば、「危機」とか「脅威」—が前面に見えたとき、「出た。あれは計算!」と冷ややかに評するまなざしを向け続けることが、今後、私たちにはできるでしょうか。
 主イエスが説いている「平和」は、「世が与える」ような「平和」ではありません。しかし、今の「世が与える平和」が、力の大小、数の多少の「計算」によって保たれるのであれば、心を騒がせず、おびえることなく、「計算」の目的や方向性を変えませんか、と私は訴えます。自分だけ、自国だけが幸せになるためではなく、他者、他国、他民族も、皆が幸せになるための「計算」はないものでしょうか、と。武器の売り買いをしなくても、戦争をしない世界になっても、「繁盛」できる商売への「計算」は成り立たないものでしょうか。何とかして、「世が与えるように与えるのではない」平和を実現する、新たな「計算」を皆で考え続けていきましょう。

2019年6月24日
2019.6.17

あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
(ヨハネによる福音書 17章22節)
立教大学チャプレン 金 大原

 キリスト教には「三位一体」という重要な信仰概念がある。簡単に言えば、神は三つでありながら一つという意味であり、もう少し説明を加えると、父(神)と子(イエス)と聖霊として位は三つだけど本質は同じ、というのがキリスト教の神理解である。論理的には説明も理解もできない概念なので、これによって分裂と対立が長年行われていた。でも、これはあくまで人間とは違う神の存在方式であり、それによるメッセージは明確である。それぞれ違っても愛によって完全に一つとなっているということだ。まさにこの「愛」がキリスト教の基本精神といえる。
 すると、愛についての説明が必要だろう。新約聖書の言語であるギリシャ語で「愛」を意味する言葉はいくつかあるが、ここでは二つだけを紹介しよう。「エロス」と「アガペー」がそれである。「エロス」は、恋人の愛のことで、条件付きの打算的で肉的な愛、欲求を満足させるための感情や衝動を意味する。すなわち自己満足を求める自己中心的な愛といえる。価値が消滅すると消える利己的で可変的な「エロス」と違って、「アガペー」は、条件なしの愛、価値が造られ、自発的、非打算的な愛で、聖書ではイエスを通してあらわれた神の愛を意味する言葉として使われた。無条件の愛なので、「にもかかわらずの愛」とも言われる。
 「アガペーの愛によってわたしたちが一つになっているように、人々をも一つにならせてください」というのが、イエスの最後の祈りである。三位一体の神を記念するこの季節に、世の中の皆が「アガペー」の愛をもって、お互いの違いを認め合い、理解し合い、尊重し合い、大事に想い合って、イエスの祈り通りに一つになるようにと祈る。

2019年6月17日
2019.6.10

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
(ヨハネによる福音書 20章19節)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

 「あなたがたに平和があるように」。この言葉はイエスが復活して弟子たちに述べた言葉です。弟子たちは尊敬しているイエスが、目の前で兵隊たち及びユダヤ人指導者に捕らえられ、縛られ、乱暴に扱われ、大祭司の屋敷に連行される様子を見ます。その姿を見て、弟子たちは同じ目に遭わされると恐れて逃げます。弟子たちの世話役であるペテロは大祭司の館に連行されるイエスの後を隠れながらついて行きますが、見とがめられてペテロは「イエスなど知らない」と公言し、更にイエスに対して呪いの言葉さえ吐きながら「そんな人は知らない」と人々に誓います。
 このようにしてイエスは最も親しい弟子たちにも見捨てられて、十字架の上で心身ともなる苦しみの中で死んでいきます。イエスが死んだことを知った弟子たちは、尊敬するイエスを見捨てたことを思い出し、深く悔やみ、また自分たちもユダヤ人に殺される恐れの中で家の戸に鍵をかけ、体も心も固く閉ざされてしまいます。そのとき、暗闇に射し込む光のようにイエスは、突然に、彼らの中に入り込み「あなたがたに平和があるように」との言葉をもって、愛と赦しを伝え、固く閉ざされた彼らの心を解き放ちました。解放された彼らに、イエスは息を吹きかけて神の力を授けますと、彼らは喜びに充たされ、家の戸の鍵を開けて、人々に、イエスの愛と赦しを伝える者へと変えられていきます。人々を解放し、生きる力を与えるイエスの言葉「あなたがたに平和があるように」が、主日礼拝の度にわたしたちに与えられていますことを嬉しく思い起こします。

2019年6月10日
2019.6.3

わたしの目にあなたは価高く、貴く
(イザヤ書 43章4節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「一無位真人(いちむいのしんにん)」

 「一無位真人」とは禅語です。禅語は、6世紀の初め頃に始まった、禅宗(座禅を修行として行う宗派)の発展と共に、その伝統が編まれていく中で、伝えられるようになった逸話や語録などから生まれた言葉だと云われています。千年以上の月日の中で生まれ出た、わずか数文字の短いものですが、その中には、今のわたしたちにも通じる知恵や教えがたくさんあります。

 「一無位真人」もその一つ。「無位」とは、一切立場や名誉、位にとらわれないこと。そして、「真人」とは、自分の奥底にいる、真実の自分のことを、云うのだそうです。わたしたちは、つねに、社会であったり、属している組織であったり、周りの人びと、色々なモノに影響を受けながら生きています。ときに周りの環境に過敏になり過ぎて、自分がどう生きていったら良いのか、どう生きたいのかが判らなくなって悩んだりもします。でも、自分の中には、何からも一切の影響を受けない、「もう一人」の自分、「無位真人」が居ると、この禅語は教えています。

 昨今、社会的な価値観の絶対視をやめて、自己存在と、無用な社会的価値による同一化から離れてみることが大事だと云われます。そのことに共感します。何よりも、社会的な価値観に自らを位置づけることで、傷ついて往く、そんな自己を助け出してあげること、そして、自らを価値なし、と決め込んでいる、その自己を救い上げてくれる、「もう一人の自分(無位真人)」のRealityを、自らの内に育てていくことは、すごく大事なことだと想うのです。

 キリスト教は、自らの内にある「無位真人」、その役割を「神」という存在が担ってくださるのだ、と信じてきました。神が、「わたし」という存在をこよなく愛しておられる。神が、わたしを『価値あり』と支え、共に居てくださる。だから、大丈夫だと、胸を張れる。
 何よりも、神の目に、あなたは値高く、尊いのだから・・・・・

2019年6月3日
2019.5.27

キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
(エフェソの信徒への手紙 5章2節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

「溶けないロウソク」

 ある日曜日のこと。教会で子どもたちを集めた「教会学校」の礼拝がありました。礼拝を終えると、ひとりの子がわたしのところにやってきて、
 「テツ先生、礼拝のときはロウソクがないとダメなの?」
とたずねてきました。わたしは、
 「ロウソクがなくてもお祈りはできるけど、イエスさまがボクたちと今ここに一緒にいるっていうしるしだから、火を灯しているんだよ」
と告げました。するとその子からは、意外な返答があったのです。
 「そっか・・・。なんかロウソクって、頑張って燃えて、溶けて短くなっていっちゃうからかわいそうだなって思っちゃって」
そして続けて、
 「ウチのお父さんもお母さんも、毎日一生懸命会社で働いてくれて、疲れて週末はロウソクみたいに溶けているよ。」
と心配そうに、笑いました。

 その子は、燃えて溶けていくロウソクと、働いて疲れている両親の姿とを重ね合わせ、両親を想いながらロウソクの心配をしていたのです。
 感謝と憂いを含んだそのまなざしと心は、「溶けないロウソク」となってご両親をやわらかい灯りであたためていることでしょう。その温もりがあるからこそ、ご両親は日々をひたむきに歩んでおられるのでしょう。
 ロウソクは「一緒にいる」しるし。想い合う人の心に洗われた日曜日でした。

2019年5月27日
2019.5.20

主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
(創世記 3章22節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

超最高性能としての自由意志

 「神さま、ボク、これからどうすればいい?」
 「そんなことは私(神)にもわからないよ。キミの人生だ。自分で決めて生きてごらん。」
 これは、『オー!ゴッド』という1977年製作アメリカ映画のラストシーンで交わされた言葉です。スーパーマーケットに勤める真面目な男ジェリーに「ゴッド(神)」が現れ、そのメッセンジャーとして選ばれて悪戦苦闘するコメディタッチの物語で、大げさなテレビ伝道師とメッセージの正統性を巡って裁判になった挙句、ジェリーは仕事を解雇される羽目に。その道すがら、「ゴッド」が現れての受け答えが、これでした。私にはこの「ゴッド」の台詞は意外でした。
 幼い頃の私は、天国には「神さまコンピュータ」があって、人間一人一人の考えることや人生の道程、いわゆる運命のようなものは、すべてプログラミングされ、予め決められているものだと思っていました。それなのに、この映画で「神」は「わからない」と言っている!驚きでした。神は「全知全能」のはずなのに、何だか無責任ではないか、とも。
 旧約聖書創世記の物語で、エデンの園においても、そもそも神が「禁断の木の実」、「食べてはならない」実をつける木など植えてさえいなければ、アダムとエバが、蛇に誘惑されようと、過ちは犯さなかったでしょうに。彼らが神の言いつけを守らないことなど、予知できなかったのか、と思います。でも、神は超最高性能を持つものとして、人間をお造りになっていたようです。それは、自由な判断能力、自由意志によって決断して生きる力です。人は神の操り人形ではない、神の思い通りに動く存在ではないのです。だから、善いことも悪いことも、人は選んでしまう自由意志があります。この人間が賦与された超最高性能を、今、「AI(人工知能)」に賦与してしまうのでしょうか。善を選び取るか、悪を選び取るか、分かれ道に立っているような気がします。神ではない人間が、神のように「善悪を知る者」となり、それを選び取る自由意志を持ったがゆえに楽園を追放されたように、人間ではない「AI」が、人間のようになったとき、人間を脅かす能力をも発揮するとき、果たしてわたしたちは、それを地上から追放することができるのでしょうか。それを考えて、判断し、検証し続ける能力も、神から賦与された、人間としての最高の使命と責任であることを、わたしたちは決して手放してはならないと思います。神が追放後の人間を、決して見捨てず、滅ぼさず、人間を救おうとする歴史を今も歩み続けているように。

2019年5月20日
2019.5.13

そんなことを聞くのはもうたくさんだ。
あなたたちは皆、慰める振りをして苦しめる。
「無駄口はやめよ」とか
「何にいらだってそんな答えをするのか」と言う。
(ヨブ記 16章2~3節)
立教大学チャプレン 金 大原

「人を生かす言葉」

 人と人をつなぐべき言葉が時に壁になることもある。繊細なわたしたちの心は過激な言葉や侮辱的な言葉、嘘の言葉などによって傷つくことが多い。もちろんやわらかでやさしい言葉が必ずしも良い言葉とは言えない。陰謀を隠して言葉遣いをやさしくする人も、論理的でよくこなれた言葉遣いで自分の欲望を隠す人もいる。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きてきた「ヨブ」という人に、突然不幸が訪れた。一瞬にして財産を失い、子どもを失い、名誉と健康までも失った。仲間たちが訪ねて来た。何をどうすれば良いか分からなかったが、ただ苦しんでいる仲間を慰めるという思いで駆けてきた。でも、ヨブの状況があまりにも悲惨だったので口では何とも言えなかった。仲間とは寂しい時一緒にいてくれる存在だろう。そいう面で彼らは良い仲間だったのだ。
 でも、ヨブが自分の不運な身の上を嘆じて神を恨んだら、仲間たちの態度が急変してしまった。一言で言って、今の苦しみは自分の罪のためということだった。最初は優しい言葉で悔い改めることを勧めたが、ヨブがそれにうなずかないと、彼らは神の代理になったかのようにヨブを追いつめた。仲間の不幸の原因を探そうとした時、彼らは仲間ではなく裁判官になったのだ。
 仲間が不幸にあったら、寄り添い、悲しみや痛みを分かち合い、ケアし、立ち直らせるのが先だろう。解釈は要らない。まさにこれが人を生かせる言葉である。口から出る言葉だけではなく、取り合った手も、愛情を込めた目つきも言葉になれる。苦しんでいる人の横に静かにいてあげることも言葉になれるのだ。
 わたしたちはどんな言葉を口にしているだろうか。誰かの心を傷つける言葉を言っているのではないだろうか。くれぐれも人を責め立てる言葉、からかう言葉ではなく、人の心に生ける勇気を与える言葉、人への尊敬と愛情のこもった言葉の持ち主になるように。

2019年5月13日
2019.5.6

神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」
(出エジプト記 3章12節)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

 人生は大冒険と言われます。辿り着く先が見えないにも拘らず、毎日を歩き続けているわたしたちです。冒険に持参するものは、人それぞれに違ったものが与えられています。自分を生んだ親、育てられた環境、文化、性別、顔かたち、能力、生まれた時代など、それぞれに独自のものを持参しての大冒険です。
 この冒険を通して、わたしたちは喜び、楽しみを、しかし、また悲しさ、辛さ、悔しさ、寂しさなどを経験し、時には絶望も経験するかもしれません。辿り着く先が見えないが故に、人生という冒険には不安もつきまといます。
 この大冒険をするようにと、わたしたちをこの世に遣わされたのは主なる神です。詩編102編19節bに「主を賛美するために民は創造された。」と記されています。わたしたちを大冒険に遣わした神は「わたしは必ずあなたと共にいる。」と約束し、わたしたちのパートナーとなってくださっているのですから、立教大学において自分らしい冒険をしてください。

2019年5月6日
2019.4.29

神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。
(ヘブライ人への手紙 4章13節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「秘密基地」

 聴いた話ですが、休み時間に、Classmateに気を配るのが辛いから、私語も、おしゃべりもゆるされない、授業時間がくると、「ホッとする」と漏らす、小学生が結構多く居るのだそうです。なにも小学生に限ったことではなく、大学生も、社会人にとっても、誰かと一緒に居るのが辛いと感じるのは、小さな限定的なCommunityの中で、嫌われないように、はじき出されないように、誰ともキャラが被らないように、と必死に自分じゃない自分を生きて、ウケ狙いに走り、ネットに自分の悪口がないかをチェックし、SNSには、小まめに「いいね」と応答することに、もうそろそろ、疲れてきているからじゃないのかなぁ、と想います。

 ボクたちの世代が、まだ小学生だった頃、近所の雑木林の中に「秘密基地」がありました。基地といっても、どこかで拾ってきたトタン板で囲いをつけた簡易なものでしたが、その頃のボクたちにとっては、その「秘密基地」は、誰に気兼ねすることもない、「安心」して、自らの弱さや不安、失敗を語り合える場所でした・・・・・ そして、そういう場所は、必ず、人の目を掻い潜った先の、Communityを越え出た、「外」にありました・・・・・

 立教大学には「チャプレン」と呼ばれる人たちが居ます。そのチャプレンたちの部屋は、学内に在りながら、学校の「外」のような場所です。ボクは、チャプレンの部屋が、あのときの「秘密基地」のような、安心して、「辛い」って嘆くことのできる、「疲れた」って呟くことのできる、そんな場所で在りたいと、常々、想っています。

 人と関わることがしんどくなって、独りで居ることの方が楽だ、なんて想ったときは、あるいは、自分がどうにも嫌いになって、心が塞いだときは、ぜひ、チャプレン室という「秘密基地」を訪ねて来てください。一緒に、ホッコリ、ゆっくり、しっかり、お話をしましょう・・・・・

2019年4月29日
2019.4.22

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章16~18節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 幼少の頃、事あるごとに親から「『ありがとう』をちゃんと言える人になりなさい」と言い聞かせられてきました。「ありがとう」は日常で、誰かにお礼を伝える時、または誰かからお礼を言われる時に用いられています。だから、「ありがとう」はお礼を伝える言葉だと私たちは考えています。よく語られる事ですが、「ありがとう」は「有り難い」、つまりは「有るのが難しい」ような良いことが起きた状態を表します。方向性が似ている言葉では「有り得ない」(これは悪いことが起きた時にも用いられますが)が当てはまるでしょうか。
 その「有り難い」がお礼の言葉になっていったのは、「有り難いことが起きた、有り難いことをしてくれた」と認めることによって、感謝の気持ちを込める意味になっていったわけです。そう考えると、「ありがとう」って意味深い言葉ですね。有り得ないような恵みが自分に与えられた、有り得ないような善意を差し出してくれた、そのことが私にはとても嬉しいことなんだ、という気持ちを表したものなんですね。大切に使いたいと思います。
 心からの「ありがとう」を言える人になるためには、自分に注がれている恵みや、誰かからの温かい心を、しっかりと受け取らなくてはいけませんね。自分ひとりでは成し得なかったことを恵みによって成し得た、ひとりではやり過ごすことができない時を誰かの温もりがあって乗り越えることができた、つまりは「私はひとりで生きているんじゃない」っていう実感が、「ありがとう」になっていくんだなと思うに至りました。
 私たちが生きている日常では、たくさんの「ありがとう」が交わされています。家族でも、友達でも、職場でも、いっぱい「ありがとう」という響きを耳にします。それはたくさんの人が「私はひとりじゃない」って感じられたということ、誰かに思われていることをちゃんと受け取れたっていうことだ、そう思うとなんだかとても嬉しい気持ちになりました。「ありがとう」の実りが溢れている毎日を喜んで歩んでいたいですね。

2019年4月22日
2019.4.15

パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。
(コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章17節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

Companion-共に生きる人

 春です。新学期です。まどみちおさん作詞の「一年生になったら…ともだち100人できるかな」という歌が、私の頭の中を駆け巡りました(作曲は山本直純さん)。私が大学生になったばかりの頃、確かに「ともだち100人」とまではいかなくても、交友関係が急激に広がったという印象を持ちました。高校までは(私立の男子校だったし、制服もあったので)、何となく「同類」という感覚がありましたが、大学生活の最初の頃は、その多種多様さ、華やかさに、高揚しつつも戸惑っていたことを思い出します。
 高校までは「居場所」である「教室」で、ある程度「同類」であることが求められました。その中では、「同類」になれない気持ち、「ちょっと違うな」と思うことがあっても、それを受け流して、全体の雰囲気(ノリ)に合わせられるならば、「居心地のほど良い所」です。でも、「居場所」が「居心地の悪い所」だと感じたならば、それを変えてゆくのも、耐えてゆくのも、至難の業でしょう(避難する選択肢も大いにアリです)。
 それに比して、大学の「居場所」はどこなのでしょう。そもそも大学に「居場所」はあるものなのでしょうか。いわゆる「教室」という空間としての「居場所」から解放された大学生には、時間や経験を共有する「人」の円居こそが、「居場所」となり得ます。「一年生になったら」の歌詞は、「100人で食べたいな/富士山の上でおにぎりを」と歌います。(ともだち100人と自分なら計101人ではないか、とのツッコミがあるとは驚きでしたが、)まさに、「食べること」は、時間と経験を共有する、最も実存的な状態です。「食べること」は共に命を養うこと、「共に生きる」ことです。そして、多種多様な人とともだちになって、共に生きてゆくという理想を、聖書は謳い続けています。
 「仲間」とか「友」、「同行者」を表す「コンパニオンcompanion」が、「パン(食事)を共にする人」(「共にcom-」と「パンpanis」)という意味のラテン語に由来するように、「同じ釜の飯を食う」人とのつながりが、あなたの「居場所」になるようにと願います。そして、「皆が一つのパンを分けて食べる」心が世界に広がり、それが誰にとっても「居場所」となるようにと切に祈りながら、ともだちの輪を広げてゆきましょう。この春、新しい出会いに感謝して、聖書の言葉をここに刻みます。

2019年4月15日

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