チャプレンからの今週の言葉チャペル

2026.6.1

「安息日を覚えて、これを聖別しなさい。六日間は働いて、・・・七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。」
(出エジプト記 20章8~10節)
立教大学チャプレン 大森 明彦

 創世記によると、神はすべての仕事を完成し、仕事を離れ、お休みになります。また、聖書は神が休まれたことにおいて、神の仕事が完成されたと語っています。この日は神からの祝福のしるしの日であり、すべてのものが神に造られたことを感謝し、賛美する日です。
 休むことはとても大切です。休みなく、働き続けても、やり遂げたという充実感を持てない毎日はとても大きな苦しみになります。イスラエルの人々もエジプトで奴隷生活をしていた時代がありました。「働け、死ぬまで働け」と酷使される日々。すると、人間はなぜ苦しいだけなのに、生きていかなければならないのかと希望を見失います。また、ある人は、働き続ける中で、いつしかすべての物やこと、人々までも自分が支配し、自分が動かしていると思い込んでしまいます。すべてのことが自分の思い通りに動く、それが自分も人も支えていると思ってしまいます。
 だから、少し仕事を休むのです。立ち止まって、休んでみる。すると、自分も神に造られた一つの存在であり、本当に働いているのは神であることが見えてくるのではないでしょうか。本来、安息日とは、この世に神が光を与え、天地を造り、生き物を造り、すべての被造物と共に生きる者として私たちが招かれていることに感謝し、神を賛美する日です。
 安息日は紀元前9世紀頃にはユダヤ人社会で実践されていたそうです。最も古い安息日規定・最古の労働基準法とされる十戒の第四戒にこう書かれています。「安息日を覚えて、これを聖別しなさい。六日間は働いて、・・・七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。」

2026年6月1日
2026.5.25

「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」
(使徒言行録 2章32~33節)
立教大学チャプレン 藤田 誠

 昨日、聖霊降臨日を迎えました。イエス・キリストの弟子たちは神が約束された聖霊が注がれて、イエス・キリストは十字架の上で死なれたが、神がイエスを復活させたということを人々へ伝えるようになりました。

 聖書では聖霊を風や息で表現する場面があります。そして、教会に繋がる人々は、祈りで聖霊の風を求めることがしばしばあります。その思いは祈りで覚える人々、また、自分自身に対して神さまからの癒しと励ましを願う心です。

 みなさんは「風」が吹くとき、何を感じますか?私は素朴に「心地よいなぁ」と感じます。キリスト教に限らず、さまざまな宗教で神の存在を感じる人は世界中にたくさんいます。それを覚えるとき、神さまは「風」を人々の心をよいものとするために送られているのだろうと私は信じます。

2026年5月25日
2026.5.18

「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。」
(ヨハネによる福音書 14章1節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「心を騒がせてもいいから」

 初夏の立教大学。緑萌ゆるキャンパスは、新学期の瑞々しい高揚感を残しながら、行き交う学生たちは「希望と期待」という光に満ちているように見えます。けれど、その眩さの陰で、独りでいる心細さに耐え、そして「孤独であること」を誰にも悟られぬよう、必死に自分を保っている人がいます。

 そんな、理解され難い「孤独」を抱えるあなたへ、イエスのこの言葉を贈ります。
 「心を騒がせてはならない」

 けれど、この言葉は、不安の克服を強いるものではありません。むしろ、「震え、怯えている、あなたのままで大丈夫」と、イエスがその存在をまるごと抱きしめてくれる言葉です。

 この言葉が語られたとき、イエスは、最も信頼していた仲間に裏切られ、自らの死が目前に迫る暗闇の中にいました。「心を騒がせてはならない」という言葉を、誰よりも必要としていたのは、実は、心を騒がせ、怯えていたイエス自身だったのではないか.....。 私には、そう思えてならないのです。

 私たちは知っています。絶望の淵にいるとき、それを克服した人が語る「大丈夫」よりも、共に震え、共に泣き、共に崩れ落ちてくれる人が絞り出した「大丈夫」という声にこそ、真の慰めが宿るということを。

 そのイエスが語るのです。「心を騒がせてもいい。なぜなら、わたしがその怯えの中に、共にいるから。共にうろたえているから」と。 自らの弱さを通じて誰かと繋がり、共に歩むこと。この「弱さの中での連帯」こそが私たちの真の支えとなってくれるはずです。

 強くなくてよいのです。人生の困難を前に、堂々としていなくてもよい。逃げ出してもいい。立教は、このイエスに信頼を置く大学です。
 ここは、あなたの「弱さ」が大切にされる場所です。

2026年5月18日
2026.5.11

私の羊は私の声を聞き分ける。
(ヨハネによる福音書 10章27節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 新座キャンパスのチャプレン室で仕事をしていると、さまざまな音が聞こえてきます。スクールバスのエンジン音、学生・生徒たちの笑い声、野球部グラウンドからの練習音、木々の葉っぱが擦れあう音、ランニングする陸上部の足音、チャペルから届くオルガンの音など、いろいろな命の息づかいを感じます。

 私たちは毎日、たくさんの「音」という情報に囲まれて生きています。心地よい音もあれば、不快に感じられるものもあります。静かで平穏なつもりでも、心の中には不安や焦りの音が響いていることがあります。そんな中で、本当に大切な声を聴き分けるのは、意外と難しいものです。でもそれは特別な能力の話ではありません。疲れた心に「大丈夫」と語りかける声、自分を責め続けるのではなく「それでもあなたは大切に想われている」と告げる声、本当に私たちを生かす「音」に耳を澄ますことです。

 たくさんの情報があふれ、物事が目まぐるしく過ぎていく日常にあっても、人を生かす声はいつも静かです。だからこそ、ときには立ち止まり、自分の心に届いている「音」に耳を傾け、自身の息づかいを確かめる私たちでありたいと思うのです。

2026年5月11日
2026.4.27

「見よ、それは極めて良かった」
(創世記 1章31節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

 池袋キャンパスに久しぶりの学び舎となる環境学部の新研究棟「19号館」が竣工しました。「18号館」のロイドホール・池袋図書館は2012年竣工でした。
 10数年ぶりの定礎石には「見よ、それは極めて良かった」創世記1章31節とあります。19号館の竣工式は3月21日に行われ、西原立教大学総長は次のように述べています。

 立教大学では伝統的に、重要な新棟竣工の際の「定礎文」は、時の総長が、適切な聖書の言葉などを選び、総長自ら揮毫することになっているとのこと・・・選ばせていただいた聖書の言葉は、創世記第1章31節の『見よ、それは極めて良かった』という聖句です。
 神はすべてのものを造られた後、それらを見渡して「見よ、それは極めて良かった」と自ら感嘆されました。自ら創造された、空・海・大地、そして、すべての生きとし生けるものをご覧になって、その完全さに感動されているのです。このすべて神によって創造されたものの完全さを英語では、“Integrity of Creation”と言います。
 人間もまた神によって創造された<いのち>の一つですが、人間には神から、これらすべての造られたものを大切に守り、整えるという「管理人」としての使命、ミッションが与えられました。しかしながら、とりわけ19世紀の産業革命以降、人間は「管理人」としての使命と責任を忘れ、「支配者」として、自分たちの都合で自然を破壊し、収奪を繰り返していくことになってしまうのです。
 私たちには、この時代にあって、今一度、神が、「見よ、それは極めて良かった」と感嘆された、空・海・大地、そして、すべての生きとし生けるものの完全性、“Integrity of Creation”を回復することが求められています。まさにここに、キリスト教に基づく教育を規範とする立教大学が、「環境学部」を創設する必然性があるのです。

 この定礎の聖句創世記1章31節は、1987年発行の日本聖書協会「新共同訳」聖書によるものです。
  神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

 以前の1954年の「口語訳」聖書では、「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である」とあります。
 近年の2018年の「聖書協会共同訳」聖書では、「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である」と訳されています。
 原文では、神が人間に向けて発した「見よ」という間投詞があり、相手の注意を促し、関心を喚起しています。よって「見よ」と直訳したほうが良いと思いますが、本学名誉教授の月本昭男訳(岩波書店、1997年)では、「 神は自ら造ったすべてのものを見ると、はたして、それはきわめてよかった。夕となり、朝となった。第六日である」としています。

 いずれにせよ「見よ、それは極めて良かった」は、創造された世界の積極的肯定であり、創造された世界の完全性の表現となります。またこれまで神は「見て、良しとされた」が、1章の中でも4節、10節、12節、18節、21節、25節に繰り返されてきます。しかし31節では、これらの繰り返しではなく創造全体の総括として最上級の表現を用いております。
 しかし聖書記者は、暗闇と混沌から美しく秩序あるこの自然界、物理的世界の構築を語りつつ、モラルの構築にも目を向けさせます。人間のモラルの欠如は、この美しい自然界を破壊していきます。続く創世記6章では「地は神の前に堕落し、不法(ハマス)に満ちていた」と語られます。この「不法」のゆえにノアの洪水が引き起こされ、創造された世界は著しく後退させられることになります。

 あらためて環境学部研究棟の定礎が語る“Integrity of Creation”に注目したいのです。

2026年4月27日
2026.4.20

心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。
隣人を自分のように愛しなさい。
(マルコによる福音書 12章30節、31節b)
立教大学チャプレン 藤田 美土里

 初めてこの言葉を聞いたのは中学生の頃、家族で通っていた教会の説教だったと記憶しています。当時、「隣人を自分のように愛しなさい。」という言葉にひっかかりを覚えました。それと同時に、私は「自分を愛する」ことができていないことに気づかされたのでした。自分のことも愛せていないのに、どうしたら隣人を愛することができるのだろう、そんな風に思ったことを覚えています。
 これはイエスの言葉で、旧約聖書のレビ記(19:18)と申命記(6:5)からの引用です。律法学者がイエスに対して「あらゆる戒めのうちで、どれが第一でしょうか。」という問いを投げかけ、それに答えた言葉です。30節は「第一の戒め」、31節は「第二の戒め」と記されています。続けてイエスは、「この二つにまさる戒めはほかにない。」とも仰っています。この言葉は、教会だけでなく一般的にもキリスト教を表す言葉として知られていますので、多くの人がどこかで聞いたことがあるかもしれません。私はその後もこの言葉に接する度に、自分を愛せないでいることを意識させられました。
 しかし、聖書を読んだり説教を聞く機会が増えていく中で、次第に第一の戒めである「神を愛する」ことについて考えるようになっていきました。すると、神ご自身が私たちより先に、すべての人、すべての被造物を「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」愛してくださっていたことに気づかされていきました。創世記(1、2章)には、神がご自分の手でこの世界を造られたことが記されています。さらに旧約聖書には、神と人間との歴史や様々な出来事が記されています。そして、その根底には神の愛が流れていると感じています。
 今も、欠けだらけの自分を愛することに難しさを感じる気持ちに共感はしますが、それ以上に、神の慈しみや 深い愛を知らされたことで、私の思いは大きく変わりました。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」この戒めは、神が私の愛を知るように、招く言葉でもあるのでしょう。自分も神の目にかけがえのない存在だと思えるようになっていくと、見え方が変わってくるようです。自分のことばかりに囚われていた目が外に向かい、自分の愛する人々だけでなく、敵対しているあの人も、すべての人が神の愛の対象である、そんなことにようやく目が開かれていくのでした。人は神から真の愛を受けていると知ることで、初めて自らも本当の愛を知るのかもしれません。そう、第一の戒めと第二の戒めは二つでひとつ、補完し合っていると思えてきます。神の愛のメッセージはこの世界において、欠けてもよい人、犠牲になってもよい人など一人もいない、と伝えています。あたり前のこととも思えますが、戦争や紛争時に弱者が真っ先に犠牲になる現実において、その実践がいかに難しいことかを思い知らされます。神を愛し、互いに愛し合う世界、主の平和が世界の隅々まで行き渡るよう、願い続けたいと思っています。

2026年4月20日
2026.4.13

生まれたばかりの乳飲み子のように、理に適った、混じりけのない乳を慕い求めなさい。これによって成長し、救われるようになるためです。
(ペトロの手紙Ⅰ 2章2節)
立教大学チャプレン 大森 明彦

 ヴィクトル・ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』をご存知ですか?2016年に岩波文庫で新装改訂され、版を重ねています。小学生の頃読んだ本は『ノートルダムのせむし男』となっていました。
 子どもの頃この本を読んで、主人公のせむし男「カシモド」あるいは「カジモド」という名前が記憶に刻み込まれました。ジャンやジャックやルイと違って、男性の名前として不思議な響きを子どもながらに感じたのだと思います。
 やがてラテン語を学ぶようになって、「カシモド」という言葉に出会いました。quasi(クアシ as if)という副詞や接続詞として使われる言葉がmodo(モド in the way of)と結びつき「まるで~の様に」という意味になります。ですから~のところに人間を入れれば「人間のようなもの」「人間もどき」という意味であることを知ったとき、背筋がゾッとするのを感じました。これを生まれながらに障害がある赤ちゃんの名前にするのかと思ったのです。
 さらに時が流れて、神学院で教会暦を学びました。すると、復活節の主日にはそれぞれラテン語の名前が付けられていて、中世以来主日の名称として尊重されてきたこと、また復活節第2主日がクアシモドゲニティ・サンデーと呼ばれることを知りました。クアシ・モド・ゲニティ・インファンテス「生まれたばかりの赤ちゃんのように」というペトロの手紙Ⅰ(2:2)の聖句が出典と知ったとき『ノートル=ダム・ド・パリ』の主人公カシモドの名前とようやく結びつきました。ラテン語を学び始めた頃の私はとんだ思い違いをしていたわけです。復活節第2主日の朝、ノートルダム大聖堂の前に捨てられていた赤ちゃんに復活節の喜びと希望をこめて付けられた名前であることにようやくたどり着きました。今年は4月12日がその日です。

2026年4月13日

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