チャプレンからの今週の言葉チャペル
モーセは主に言った。「ああ、主よ。以前から、また、あなたが僕に語られてからでさえ、私は雄弁ではありません。私は本当に口の重い者、舌の重い者です。」
(出エジプト記 4章10節)

ある高地の風景
立教大学チャプレン 藤田 誠
「荷が重いとき」
冒頭の言葉はモーセというヘブライ人が紀元前13世紀末(15世紀半ばという説もあり)エジプトにいるイスラエルの民を導き出すように神から命じられたとき、神に応答した言葉です。
なぜ、モーセは神の言葉に素直に従えなかったのでしょうか?
それは、神の命令として自分がイスラエルの民に呼びかけても、彼らはきっと自分のことを信用しないだろうと、モーセが感じたからでした。
また、モーセは、自分の口が上手くないということで、神に自分の不安を察してもらいたかったのだと思います。しかし、神はモーセの申し出を受けませんでした。そして、モーセは神に「ああ、主よ。どうか他の人をお遣わしください。」と言います。
最終的に神はモーセには雄弁な兄アロンがいることをモーセに伝えて、モーセに与えた使命を実行させます。
モーセが神に伝えた思いは彼の正直な思いだったのだと思いますが、神がモーセに言ったように彼には雄弁な兄アロンがいるということをモーセは気づいていませんでした。
さて、標高の高いところを訪れると、人間の手が及んでいない豊かな自然を目にすることがしばしばあります。それは神がその自然を育てているからでしょう。そして、実は、人と人との交わりの中においても神がそこに留まり、あらゆる人を助けています。
モーセは神から「あなたには雄弁な兄アロンがいるではないか」と言われたとき、自分には助けてくれる人がいて、神さまは自分にそのことを気付かせてくださったと思ったのではないでしょうか。
私たちが学校や職場を通して与えられる課題に対して「荷が重い」と感じたとき、実は近くに助け手がいるのかもしれないということを思い返したいと思います。そして、その助け手は関係が近すぎて思いもよらない人だったということもあるかもしれません。
私の場合は兄でした。兄は私のことをよく気にかけてくれるのですが、私はそれが苦手で、どちらかというとコミュニケーションを避けてきました。しかし、ある案件で私が途方に暮れたとき、思い切って私は兄にそのことで相談しました。兄は私に助け舟を出してくれて、私はその案件を乗り越えることができました。
その後、私が兄と積極的にコミュニケーションを取れるようになったのかというと、やはり、そうではないのですが、今でも神さまと兄にそのことを深く感謝しています。
2025年6月16日
「荷が重いとき」
冒頭の言葉はモーセというヘブライ人が紀元前13世紀末(15世紀半ばという説もあり)エジプトにいるイスラエルの民を導き出すように神から命じられたとき、神に応答した言葉です。
なぜ、モーセは神の言葉に素直に従えなかったのでしょうか?
それは、神の命令として自分がイスラエルの民に呼びかけても、彼らはきっと自分のことを信用しないだろうと、モーセが感じたからでした。
また、モーセは、自分の口が上手くないということで、神に自分の不安を察してもらいたかったのだと思います。しかし、神はモーセの申し出を受けませんでした。そして、モーセは神に「ああ、主よ。どうか他の人をお遣わしください。」と言います。
最終的に神はモーセには雄弁な兄アロンがいることをモーセに伝えて、モーセに与えた使命を実行させます。
モーセが神に伝えた思いは彼の正直な思いだったのだと思いますが、神がモーセに言ったように彼には雄弁な兄アロンがいるということをモーセは気づいていませんでした。
さて、標高の高いところを訪れると、人間の手が及んでいない豊かな自然を目にすることがしばしばあります。それは神がその自然を育てているからでしょう。そして、実は、人と人との交わりの中においても神がそこに留まり、あらゆる人を助けています。
モーセは神から「あなたには雄弁な兄アロンがいるではないか」と言われたとき、自分には助けてくれる人がいて、神さまは自分にそのことを気付かせてくださったと思ったのではないでしょうか。
私たちが学校や職場を通して与えられる課題に対して「荷が重い」と感じたとき、実は近くに助け手がいるのかもしれないということを思い返したいと思います。そして、その助け手は関係が近すぎて思いもよらない人だったということもあるかもしれません。
私の場合は兄でした。兄は私のことをよく気にかけてくれるのですが、私はそれが苦手で、どちらかというとコミュニケーションを避けてきました。しかし、ある案件で私が途方に暮れたとき、思い切って私は兄にそのことで相談しました。兄は私に助け舟を出してくれて、私はその案件を乗り越えることができました。
その後、私が兄と積極的にコミュニケーションを取れるようになったのかというと、やはり、そうではないのですが、今でも神さまと兄にそのことを深く感謝しています。
2025年6月16日
「霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制・・・・・」
(ガラテヤの信徒への手紙 5章22~23節)
立教大学チャプレン 中川 英樹
「来ませ聖霊 -すべての破れを結び直すために-」
ガラテヤの信徒への手紙 第5章22節以下に、このように書かれています。
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制・・・・・」 聖書が記すところの、愛、喜び、平和、寛容、親切・・・・・ これらはすべて、人と人との「間」に生まれるものです。聖霊とは、目には見えないけれど、人と人との「間」に宿り、その「間」を確かに結んでいく、神の愛の力です。
6月8日、世界に拡がるキリストの教会は、共に、聖霊降臨日を祝いました。イースターから50日目に、キリストの弟子たちの上に、聖霊が降ったことを記念する日が「聖霊降臨日」です。また、この50日目の出来事は、ギリシャ語の「50番目」という意味をとって、「ペンテコステ」とも呼ばれます。
ペンテコステの日、聖霊を受けた弟子たちが、すべての「コトバ」を語り、尊敬をもってすべての「コトバ」を理解し、その「コトバ」を互いに受け入れ合った、という聖書の記録(使徒言行録第2章)はとても特徴的です。ここで語られている「コトバ」とは、単なる言語としての言葉ではなく、自分と相手の間を行き来しながら、他者を想い、他者に寄り添う、他者と共に在り続けようとする「こころ」のことを云います。そのこころを互いに持つとき、その「間」には、神に祝福された、確かな「つながり」が生まれます。そういう、こころを持つこと、その働きへの召し出しが、聖霊の降臨によって、弟子たちに与えられた、というのが教会の信仰です。
聖霊は人と人を堅く強く結びます。そのつながりは綻ぶことも終わることもありません。そして、この聖霊は、誰にでも、等しく、隔てなく、与えられています。この痛み傷ついた世界の中で、聖霊はわたしたちの上に、対立から対話へ、不和から調和へと向かわせ、傷つけ合う人と人との破れを結び直すために、今も、降り続けています。
2025年6月9日
「来ませ聖霊 -すべての破れを結び直すために-」
ガラテヤの信徒への手紙 第5章22節以下に、このように書かれています。
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制・・・・・」 聖書が記すところの、愛、喜び、平和、寛容、親切・・・・・ これらはすべて、人と人との「間」に生まれるものです。聖霊とは、目には見えないけれど、人と人との「間」に宿り、その「間」を確かに結んでいく、神の愛の力です。
6月8日、世界に拡がるキリストの教会は、共に、聖霊降臨日を祝いました。イースターから50日目に、キリストの弟子たちの上に、聖霊が降ったことを記念する日が「聖霊降臨日」です。また、この50日目の出来事は、ギリシャ語の「50番目」という意味をとって、「ペンテコステ」とも呼ばれます。
ペンテコステの日、聖霊を受けた弟子たちが、すべての「コトバ」を語り、尊敬をもってすべての「コトバ」を理解し、その「コトバ」を互いに受け入れ合った、という聖書の記録(使徒言行録第2章)はとても特徴的です。ここで語られている「コトバ」とは、単なる言語としての言葉ではなく、自分と相手の間を行き来しながら、他者を想い、他者に寄り添う、他者と共に在り続けようとする「こころ」のことを云います。そのこころを互いに持つとき、その「間」には、神に祝福された、確かな「つながり」が生まれます。そういう、こころを持つこと、その働きへの召し出しが、聖霊の降臨によって、弟子たちに与えられた、というのが教会の信仰です。
聖霊は人と人を堅く強く結びます。そのつながりは綻ぶことも終わることもありません。そして、この聖霊は、誰にでも、等しく、隔てなく、与えられています。この痛み傷ついた世界の中で、聖霊はわたしたちの上に、対立から対話へ、不和から調和へと向かわせ、傷つけ合う人と人との破れを結び直すために、今も、降り続けています。
2025年6月9日
愛をもって互いに仕えなさい。
(ガラテヤの信徒への手紙 5章13節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹
聖公会の歴史にエリザベス・アプタン宣教師の名が記されています。
アプタン先生は、日本での伝道を志してフランス人のお医者さん、ミス・マータンと一緒に来日し、各地で伝道、特に幼児教育がなされていない日本の現状をつぶさに見て、次々に幼稚園を設立していきます。その熱い思いは、キリストの愛を伝えるということが柱になっておりました。子どもたちにその愛を伝える幼稚園教諭を育てるために「愛仕母学会(あいしははがくかい)」を創立し、自費を投じてその働きを続けました。
その働きの中で、アプタン先生は生後3ヶ月の災害孤児に出会い、ご自分の子どもとして育てていきます。その子は、順調に学業にも励んで成長していったのですが、フランスへ留学しているさなか、心身に病を抱え、急遽帰国することとなりました。当時アプタン先生はニューヨークで教師をしていたのですが、息子のことで深く心を痛め、その子を決して独りにはしないと決心して、息子の日本への帰国に合わせ、来日します。その時、アプタン先生は、自分のすべての仕事をやめ、「愛仕母学会」も閉じ、宣教師、伝道者としてではなく、ひとりの母親として息子のそばにいることを固く心に決めたのでした。その後、息子とともに埼玉県の毛呂山で静かな祈りと療養の生活を送っていきます。
しかしアプタン先生は、そこで出会った人々の中に、病の人があれば、ご自身で育てた一輪の花をもってお見舞いに行き、貧しさを抱える人に食べ物や衣類を提供し、悩みある人の良き相談者になり、日々を送っていきます。するとアプタン先生が自宅でささげる祈りに、一人また一人と加わるようになっていきます。その祈りの輪が広がって、キリスト教会の伝道所になり、村の子ども達のための幼稚園になり、教会になっていき、今日に至るまで歩み続けています。
とこしえの愛をもって慈しみを注ぎ、人に仕えていく、アプタン先生は神の愛を確信しながら、その愛を人に「お裾分け」していく生き方をなさいました。アプタン先生のご生涯は、愛をもって生きることの本当の豊かさを私たちに語りかけているのです。
2025年6月2日
聖公会の歴史にエリザベス・アプタン宣教師の名が記されています。
アプタン先生は、日本での伝道を志してフランス人のお医者さん、ミス・マータンと一緒に来日し、各地で伝道、特に幼児教育がなされていない日本の現状をつぶさに見て、次々に幼稚園を設立していきます。その熱い思いは、キリストの愛を伝えるということが柱になっておりました。子どもたちにその愛を伝える幼稚園教諭を育てるために「愛仕母学会(あいしははがくかい)」を創立し、自費を投じてその働きを続けました。
その働きの中で、アプタン先生は生後3ヶ月の災害孤児に出会い、ご自分の子どもとして育てていきます。その子は、順調に学業にも励んで成長していったのですが、フランスへ留学しているさなか、心身に病を抱え、急遽帰国することとなりました。当時アプタン先生はニューヨークで教師をしていたのですが、息子のことで深く心を痛め、その子を決して独りにはしないと決心して、息子の日本への帰国に合わせ、来日します。その時、アプタン先生は、自分のすべての仕事をやめ、「愛仕母学会」も閉じ、宣教師、伝道者としてではなく、ひとりの母親として息子のそばにいることを固く心に決めたのでした。その後、息子とともに埼玉県の毛呂山で静かな祈りと療養の生活を送っていきます。
しかしアプタン先生は、そこで出会った人々の中に、病の人があれば、ご自身で育てた一輪の花をもってお見舞いに行き、貧しさを抱える人に食べ物や衣類を提供し、悩みある人の良き相談者になり、日々を送っていきます。するとアプタン先生が自宅でささげる祈りに、一人また一人と加わるようになっていきます。その祈りの輪が広がって、キリスト教会の伝道所になり、村の子ども達のための幼稚園になり、教会になっていき、今日に至るまで歩み続けています。
とこしえの愛をもって慈しみを注ぎ、人に仕えていく、アプタン先生は神の愛を確信しながら、その愛を人に「お裾分け」していく生き方をなさいました。アプタン先生のご生涯は、愛をもって生きることの本当の豊かさを私たちに語りかけているのです。
2025年6月2日
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
(マルコによる福音書 16章15節)

チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教
立教学院チャプレン長 広田 勝一
今週の木曜日は、教会暦では昇天日を迎えます。復活のイエスは、40日間にわたり弟子たちに現れ、その40日目に天に昇られました。復活日(イースター)から40日目が、今年は5月29日木曜日となります。そしてさらに10日後の50日目はペンテコステと言われる聖霊降臨日という祝日になります。
イエスが天に昇られる時、復活のイエスの地上における最後の言葉として、マルコによる福音書は、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と語り、「天に上げられ、神の右に座られた」と簡潔明快に伝えます。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」。この聖書の言葉に触発され、海外伝道を志した多くの宣教師がおります。そのひとりが立教の創立者、チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教であります。
ウィリアムズが若き日に学んだアメリカのヴァージニア神学校では、学内の目標として、先のマルコの言葉「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」を掲げていました。学校あげて国内外伝道が意欲旺盛ななか、ウィリアムズは神学校卒業前に、自らの心境を以下のように述べております。
「私の神学校の過程はもう少しで完了し、中国人に福音を述べ伝えたいという、私の願望は覚めるどころか、以前にも増して主の奉仕において『使い使われる』ことをより切望しています。現在の私の思いと願いは中国に向いているのです。私は主イエスがその地に私を召していると信じています。私はそこで生きそこで働き、そこで死にたいのです」。
ここにウィリアムズの宣教の意欲、また召命の原点のようなものを感じさせられます。
ウィリアムズは、1856年に中国・上海に到着、伝道を開始します。そして1859年には日本宣教師に任ぜられて長崎に上陸、1874年には立教学校を創立します。今日の立教学院は、創立151年となりました。今月5月9日には、創立151周年記念感謝礼拝が、新座キャンパスの立教学院聖パウロ礼拝堂と池袋キャンパスの立教学院諸聖徒礼拝堂で執り行われました。立教学院151年の歩みをふりかえり、これまでの神の見守り、導き、恵みを感謝するとともに、明日への決意を新たにしました。
創立者が私たちに伝えようとした「福音」とは何であるのか、この「今週の言葉」を通して感じとっていただければ幸いです。
2025年5月26日
今週の木曜日は、教会暦では昇天日を迎えます。復活のイエスは、40日間にわたり弟子たちに現れ、その40日目に天に昇られました。復活日(イースター)から40日目が、今年は5月29日木曜日となります。そしてさらに10日後の50日目はペンテコステと言われる聖霊降臨日という祝日になります。
イエスが天に昇られる時、復活のイエスの地上における最後の言葉として、マルコによる福音書は、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と語り、「天に上げられ、神の右に座られた」と簡潔明快に伝えます。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」。この聖書の言葉に触発され、海外伝道を志した多くの宣教師がおります。そのひとりが立教の創立者、チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教であります。
ウィリアムズが若き日に学んだアメリカのヴァージニア神学校では、学内の目標として、先のマルコの言葉「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」を掲げていました。学校あげて国内外伝道が意欲旺盛ななか、ウィリアムズは神学校卒業前に、自らの心境を以下のように述べております。
「私の神学校の過程はもう少しで完了し、中国人に福音を述べ伝えたいという、私の願望は覚めるどころか、以前にも増して主の奉仕において『使い使われる』ことをより切望しています。現在の私の思いと願いは中国に向いているのです。私は主イエスがその地に私を召していると信じています。私はそこで生きそこで働き、そこで死にたいのです」。
ここにウィリアムズの宣教の意欲、また召命の原点のようなものを感じさせられます。
ウィリアムズは、1856年に中国・上海に到着、伝道を開始します。そして1859年には日本宣教師に任ぜられて長崎に上陸、1874年には立教学校を創立します。今日の立教学院は、創立151年となりました。今月5月9日には、創立151周年記念感謝礼拝が、新座キャンパスの立教学院聖パウロ礼拝堂と池袋キャンパスの立教学院諸聖徒礼拝堂で執り行われました。立教学院151年の歩みをふりかえり、これまでの神の見守り、導き、恵みを感謝するとともに、明日への決意を新たにしました。
創立者が私たちに伝えようとした「福音」とは何であるのか、この「今週の言葉」を通して感じとっていただければ幸いです。
2025年5月26日
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。
(フィリピの信徒への手紙 2章3~4節)
立教大学チャプレン 藤田 美土里
この言葉は、異邦人伝道を行ったパウロとテモテがフィリピの教会に宛て送られた手紙の一節です。利己心や虚栄心という言葉から誰もがハッとし、我が身を振り返らせられるみ言葉ではないでしょうか。
私たちが今手にしている聖書は、分かりやすいようにタイトルがついています。ここには「キリストを模範とせよ」というタイトルが付いています。人間には他者から認められたいという承認欲求がありますが、ともするとそれだけに留まらず、あの人には負けたくない、誰よりも優れていると認められたいという利己心や虚栄心が湧いてきます。
続けて「へりくだって」という言葉が加えられ、相手より一段低い位置に立つよう求められています。それによって、自己中心的な思いを戒めるよう呼びかけられているように聞こえます。しかし、すべてのいのちを「救う」ために十字架に架かられたイエス・キリストの姿勢を示しているならば、さらに深い意味が込められているように思うのです。
私たちの利己的な行いは、決して無かったことにはされず、周囲に影響を与えていきます。それは差別や対立などの破れ目となってこの世のどこかに現れてくるのです。争いや環境破壊が進む世界がいま直面している様々な問題に思いを巡らせたとき、その思いは確信へと変わります。
私たち人間は、この世のあらゆるいのちとの繋がりの中で生きるように置かれています。「他人のことにも注意を払いなさい。」という言葉は、自分のいのちと他者、あらゆるいのちは繋がっており、決して無関係ではないことを教えているように聞こえてきます。
今世界は、再び戦争・対立・分断が顕わにされ、地球環境問題も悪化しています。私たちが「平和」を願う時、この言葉はあらゆる被造物の「救い」「平和」を造り出す力を持っています。
「へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考える」のは、なかなか難しいですが、「平和」を造り出す力に気づくならば、その者たちの周囲から少しずつ「平和」が広がっていくことでしょう。人々の尊厳は守られ、傷つけてもよいいのちなどひとつも無いことを知るでしょう。
それぞれに与えられた賜物や役割に違いはありますが、本来、神の前に与えられた尊厳は等しいことを心に留めながら、日々み言葉を通して養われますように願います。
2025年5月19日
この言葉は、異邦人伝道を行ったパウロとテモテがフィリピの教会に宛て送られた手紙の一節です。利己心や虚栄心という言葉から誰もがハッとし、我が身を振り返らせられるみ言葉ではないでしょうか。
私たちが今手にしている聖書は、分かりやすいようにタイトルがついています。ここには「キリストを模範とせよ」というタイトルが付いています。人間には他者から認められたいという承認欲求がありますが、ともするとそれだけに留まらず、あの人には負けたくない、誰よりも優れていると認められたいという利己心や虚栄心が湧いてきます。
続けて「へりくだって」という言葉が加えられ、相手より一段低い位置に立つよう求められています。それによって、自己中心的な思いを戒めるよう呼びかけられているように聞こえます。しかし、すべてのいのちを「救う」ために十字架に架かられたイエス・キリストの姿勢を示しているならば、さらに深い意味が込められているように思うのです。
私たちの利己的な行いは、決して無かったことにはされず、周囲に影響を与えていきます。それは差別や対立などの破れ目となってこの世のどこかに現れてくるのです。争いや環境破壊が進む世界がいま直面している様々な問題に思いを巡らせたとき、その思いは確信へと変わります。
私たち人間は、この世のあらゆるいのちとの繋がりの中で生きるように置かれています。「他人のことにも注意を払いなさい。」という言葉は、自分のいのちと他者、あらゆるいのちは繋がっており、決して無関係ではないことを教えているように聞こえてきます。
今世界は、再び戦争・対立・分断が顕わにされ、地球環境問題も悪化しています。私たちが「平和」を願う時、この言葉はあらゆる被造物の「救い」「平和」を造り出す力を持っています。
「へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考える」のは、なかなか難しいですが、「平和」を造り出す力に気づくならば、その者たちの周囲から少しずつ「平和」が広がっていくことでしょう。人々の尊厳は守られ、傷つけてもよいいのちなどひとつも無いことを知るでしょう。
それぞれに与えられた賜物や役割に違いはありますが、本来、神の前に与えられた尊厳は等しいことを心に留めながら、日々み言葉を通して養われますように願います。
2025年5月19日
主は私の羊飼い 私は乏しいことがない(詩編 23編1節)
たとえ死の陰の谷を歩むとも 私は災いを恐れない あなたは私と共におられ あなたの鞭と杖が私を慰める(詩編 23編4節)
立教大学チャプレン 大森 明彦
初期キリスト教徒が迫害を避けて、地下で礼拝を守った時代があります。1世紀末~3世紀末にかけての200年間カタコンベと呼ばれる地下洞窟があちこちに作られました。それは初期キリスト教の時代であり、ローマ帝国の最盛期でもありました。キリスト教徒たちはカタコンベに死者を葬り、礼拝のためにも集まりました。カタコンベの壁面には当時の壁画が残り、石棺には彫刻が施されています。
その中でよく使われたモチーフに「よき羊飼い」があります。「よき羊飼い」は若々しい羊飼いが小羊を肩にかつぎ、羊の前後の脚を両手でつかんでいる図像です。このモチーフはキリスト教時代以前から死者の魂を慰める表現として古代地中海世界に広がっていました。「よき羊飼い」は羊飼いの姿を借りて、羊たちを導くキリストを暗示する図像としてキリスト教徒に取り入れられました。羊飼いの姿のイエスが命の水の皮袋を肩にかけて、肩の上に弱り果てた小羊をやさしく担って立っている。そしてイエスの周りには何匹かの羊が安らいでいる。このモチーフには宗教を超えて人々に安らぎと慰めを与える力があります。そしてよき羊飼いの図像を見て、私たちは詩編第23編を思い起こします。
確かに、この詩編には喜びと慰めと励ましが満ち溢れています。どんなに苦しく辛い時でも、神はいつも共にいて私を励まし支え、決して私を見捨てることはない。その信仰がこの詩編には貫かれています。インマヌエル・「神は私たちと共におられる」この真理の中の真理、原真理と呼ぶべきものに心からの信頼を寄せて歩みたいと詩編23編を読む度に思います。
2025年5月12日
初期キリスト教徒が迫害を避けて、地下で礼拝を守った時代があります。1世紀末~3世紀末にかけての200年間カタコンベと呼ばれる地下洞窟があちこちに作られました。それは初期キリスト教の時代であり、ローマ帝国の最盛期でもありました。キリスト教徒たちはカタコンベに死者を葬り、礼拝のためにも集まりました。カタコンベの壁面には当時の壁画が残り、石棺には彫刻が施されています。
その中でよく使われたモチーフに「よき羊飼い」があります。「よき羊飼い」は若々しい羊飼いが小羊を肩にかつぎ、羊の前後の脚を両手でつかんでいる図像です。このモチーフはキリスト教時代以前から死者の魂を慰める表現として古代地中海世界に広がっていました。「よき羊飼い」は羊飼いの姿を借りて、羊たちを導くキリストを暗示する図像としてキリスト教徒に取り入れられました。羊飼いの姿のイエスが命の水の皮袋を肩にかけて、肩の上に弱り果てた小羊をやさしく担って立っている。そしてイエスの周りには何匹かの羊が安らいでいる。このモチーフには宗教を超えて人々に安らぎと慰めを与える力があります。そしてよき羊飼いの図像を見て、私たちは詩編第23編を思い起こします。
確かに、この詩編には喜びと慰めと励ましが満ち溢れています。どんなに苦しく辛い時でも、神はいつも共にいて私を励まし支え、決して私を見捨てることはない。その信仰がこの詩編には貫かれています。インマヌエル・「神は私たちと共におられる」この真理の中の真理、原真理と呼ぶべきものに心からの信頼を寄せて歩みたいと詩編23編を読む度に思います。
2025年5月12日
それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。
(コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章10節)
立教大学チャプレン 藤田 誠
「サードプレイスとしてのチャペル」
パウロは復活したイエス・キリストと出会ったことによって、生き方が変えられ、イエス・キリストの復活を福音(よい知らせ)として、多くの人々へ伝えてゆきました。そして、地中海地方にパウロが設立したコリントの教会の信徒へ自分自身の弱さを告白しました。パウロは、彼が弱っているとき、イエス・キリストが十字架の上で苦しんでくださったことで、パウロが持ち合わせていた痛みをイエス・キリストが一緒に担ってくれたと感じ、そして、復活によってパウロ自身が変えられた経験をコリントの人々に告白しました。それは、パウロを信じない人や他の宣教者によって教会が乱されていたかもしれないコリントの信徒に向かって、パウロが敢えて弱さを彼らに見せることにより、イエス・キリストの十字架の上での死と復活を伝えようと考えたからなのでしょう。
キリスト教と関わりが無い人々にとって、「弱さ」を肯定する立ち振る舞いは、理解に大いに苦しむことだと思いますが、パウロが実践した「弱さ」の共有の実践に近い概念を最近、よく耳にします。それは「サードプレイス」という言葉です。
プライベート空間である家庭でもなく、フォーマルな空間である学校(または職場)でもない、気軽に立ち寄れる場所のことを指し示しています。アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグが提唱して「サードプレイス」と呼ぶようになりましたが、「みんなでひきこもりラジオ」(毎月最終金曜午後8時05分よりNHKラジオ第1)というサードプレイスのような働きをしているラジオ番組があります。ここでラジオパーソナリティーの栗原望さんは、リスナーからのお便りを紹介して、途中、リクエスト曲を挟みながら番組を進めます。
お便りの内容は「普段、誰にも言えないこと、みんなに聞いてもらいたいこと、今感じている不安や悩み、ぶつけどころのない気持ち」など、生きづらさを感じている方々よりメッセージが寄せられます。その一つひとつに栗原さんは寄り添い、ときに沈黙します(沈黙の間は焚き火の音がラジオから流れてきます)。そして、栗原さんはゆっくりとリスナーへ語りかけます。
「〇〇さんは、今、苦しいですね・・・その思いをここで打ち明けてくださり、ありがとうございます。〇〇さんの思いを聞いて、自分もそういうことがあった。一人ではなかったと救われた思いの人もいるのではないでしょうか。この番組では、読みながら考え事をしたい番組ですので、みなさんから頂いたメッセージを紹介するとき、そんなときは、完全に無音にならないように、こんな音(焚き火の音)をお届けしております。」
チャペルも「サードプレイス」の役割を果たす可能性がきっとあります。家ではなく、所属している学部でもない気軽に立ち寄れるチャペルは、いろいろな重荷を下ろせるところです。そして、チャプレンはみなさまの重荷を下ろすお手伝いをいたします。みなさまが気軽に立ち寄れるチャペル、そして、気軽に話しかけられるチャプレンたちであれますように。
2025年5月5日
「サードプレイスとしてのチャペル」
パウロは復活したイエス・キリストと出会ったことによって、生き方が変えられ、イエス・キリストの復活を福音(よい知らせ)として、多くの人々へ伝えてゆきました。そして、地中海地方にパウロが設立したコリントの教会の信徒へ自分自身の弱さを告白しました。パウロは、彼が弱っているとき、イエス・キリストが十字架の上で苦しんでくださったことで、パウロが持ち合わせていた痛みをイエス・キリストが一緒に担ってくれたと感じ、そして、復活によってパウロ自身が変えられた経験をコリントの人々に告白しました。それは、パウロを信じない人や他の宣教者によって教会が乱されていたかもしれないコリントの信徒に向かって、パウロが敢えて弱さを彼らに見せることにより、イエス・キリストの十字架の上での死と復活を伝えようと考えたからなのでしょう。
キリスト教と関わりが無い人々にとって、「弱さ」を肯定する立ち振る舞いは、理解に大いに苦しむことだと思いますが、パウロが実践した「弱さ」の共有の実践に近い概念を最近、よく耳にします。それは「サードプレイス」という言葉です。
プライベート空間である家庭でもなく、フォーマルな空間である学校(または職場)でもない、気軽に立ち寄れる場所のことを指し示しています。アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグが提唱して「サードプレイス」と呼ぶようになりましたが、「みんなでひきこもりラジオ」(毎月最終金曜午後8時05分よりNHKラジオ第1)というサードプレイスのような働きをしているラジオ番組があります。ここでラジオパーソナリティーの栗原望さんは、リスナーからのお便りを紹介して、途中、リクエスト曲を挟みながら番組を進めます。
お便りの内容は「普段、誰にも言えないこと、みんなに聞いてもらいたいこと、今感じている不安や悩み、ぶつけどころのない気持ち」など、生きづらさを感じている方々よりメッセージが寄せられます。その一つひとつに栗原さんは寄り添い、ときに沈黙します(沈黙の間は焚き火の音がラジオから流れてきます)。そして、栗原さんはゆっくりとリスナーへ語りかけます。
「〇〇さんは、今、苦しいですね・・・その思いをここで打ち明けてくださり、ありがとうございます。〇〇さんの思いを聞いて、自分もそういうことがあった。一人ではなかったと救われた思いの人もいるのではないでしょうか。この番組では、読みながら考え事をしたい番組ですので、みなさんから頂いたメッセージを紹介するとき、そんなときは、完全に無音にならないように、こんな音(焚き火の音)をお届けしております。」
チャペルも「サードプレイス」の役割を果たす可能性がきっとあります。家ではなく、所属している学部でもない気軽に立ち寄れるチャペルは、いろいろな重荷を下ろせるところです。そして、チャプレンはみなさまの重荷を下ろすお手伝いをいたします。みなさまが気軽に立ち寄れるチャペル、そして、気軽に話しかけられるチャプレンたちであれますように。
2025年5月5日
「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」
(マタイによる福音書 6章29節)
立教大学チャプレン 中川 英樹
「欠けがある尊さ」
吉野 弘という詩人の作品の中に、『生命は』という詩があります。
「生命は 自分自身だけでは完結できないように つくられているらしい」とこの詩ははじまって、「生命は すべて そのなかに欠如を抱き それを他者から満たしてもらうのだ」と続き、そして、「世界は多分 他者の総和」と綴られていきます。
吉野が語るところの、他者から欠如を「満たしてもらう」・・・・・ その「満たしてもらう」との本意は、補い合って欠如をなくすことではなく、欠如ある存在であることを、互いに認め合うことにあります。互いが抱え持つ、その欠如があることこそが、この世界をより素敵にしている・・・・・ それが吉野が語らんとしたことに想います。
一人ひとり・・・・・ 欠けがある・・・・・ 完璧な人間なんかいない・・・・・ だから、その欠けを埋めなくていい・・・・・ 欠けがあることを嘆かなくていい・・・・・ 欠けがあることに怯えなくていい・・・・・ 欠けを一生懸命、隠して、自分じゃない自分を生きなくていい・・・・・ 「欠け」は、決して「欠け」なんかじゃない・・・・・ 人は、「欠け」があってこそ尊いのだ・・・・・
むしろ、その「欠け」があることが、一人ひとりの存在をこの上なく際立たせている・・・・・ わたしはそう信じます。
今、世界中のキリスト教会は、共に、キリストの復活を祝う、その祝いの直中を歩いていますが、「復活」って・・・・・ 欠如ある、そんな自分を、神が、この上なく、美しく装ってくれていることを確信し、ほんとうの自分に、立ち上がって往くコトを云います。
「いのち」は一人では、絶対に「いのち」になれなくて、みんなに支えられて、はじめて、「いのち」に成って往くのです。自分じゃないモノになろうとしなくていい・・・・・ あなたには、あなたが一番好きな「あなた」を堂々と生きて往ってほしいと希みます。
2025年4月28日
「欠けがある尊さ」
吉野 弘という詩人の作品の中に、『生命は』という詩があります。
「生命は 自分自身だけでは完結できないように つくられているらしい」とこの詩ははじまって、「生命は すべて そのなかに欠如を抱き それを他者から満たしてもらうのだ」と続き、そして、「世界は多分 他者の総和」と綴られていきます。
吉野が語るところの、他者から欠如を「満たしてもらう」・・・・・ その「満たしてもらう」との本意は、補い合って欠如をなくすことではなく、欠如ある存在であることを、互いに認め合うことにあります。互いが抱え持つ、その欠如があることこそが、この世界をより素敵にしている・・・・・ それが吉野が語らんとしたことに想います。
一人ひとり・・・・・ 欠けがある・・・・・ 完璧な人間なんかいない・・・・・ だから、その欠けを埋めなくていい・・・・・ 欠けがあることを嘆かなくていい・・・・・ 欠けがあることに怯えなくていい・・・・・ 欠けを一生懸命、隠して、自分じゃない自分を生きなくていい・・・・・ 「欠け」は、決して「欠け」なんかじゃない・・・・・ 人は、「欠け」があってこそ尊いのだ・・・・・
むしろ、その「欠け」があることが、一人ひとりの存在をこの上なく際立たせている・・・・・ わたしはそう信じます。
今、世界中のキリスト教会は、共に、キリストの復活を祝う、その祝いの直中を歩いていますが、「復活」って・・・・・ 欠如ある、そんな自分を、神が、この上なく、美しく装ってくれていることを確信し、ほんとうの自分に、立ち上がって往くコトを云います。
「いのち」は一人では、絶対に「いのち」になれなくて、みんなに支えられて、はじめて、「いのち」に成って往くのです。自分じゃないモノになろうとしなくていい・・・・・ あなたには、あなたが一番好きな「あなた」を堂々と生きて往ってほしいと希みます。
2025年4月28日
「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」
(ヨハネによる福音書 11章25節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹
キリスト教の暦において、最も大きな喜びであるイースターを迎えました。イースターは、十字架上で死を迎えたイエス・キリストを神が復活させられたことを記念する日です。
「復活」・・・。よみがえることなど一般的には信じ得ないことです。
聖書は、イエス・キリストが十字架の死にいたるまでに受けた壮絶な苦難と痛み、恥と侮辱を克明に伝えます。またキリストは十字架を背負わされて磔(はりつけ)の場所まで歩かされている道中で、3度倒れたと言われています。痛みを負うイエス、侮辱と恥を受けるイエス、また十字架の重さに耐えられず倒れ込んでしまうイエス。それは、痛みを負うことのしんどさを、恥を抱えることの辛さをイエスが知っているということ、そして背負いきれない重荷を負わされている時には倒れ込んでしまっても良いことを、イエスが身をもって示しておられます。
しんどいなら立ち止まってもいい、辛いならしゃがみ込んでいい、重いなら倒れてしまってもいい、そしていつかそこから立ち上がっていかれればいい。キリストの十字架はそのように私たちに語りかけています。
聖書における復活という言葉は「立ち上がる」、「起き上がる」ことを意味します。何もなかったかのように元通りになることではありません。傷つき、疲れ果て、倒れ込む私たちには、立ち上がっていく日が、起き上がっていく時が与えられていく、そこに復活の希望を見出します。
キリスト教のシンボルである十字架は、キリストの受難のみを象徴しているのではなく、その先にある希望をも私たちに語りかけているのです。
2025年4月21日
キリスト教の暦において、最も大きな喜びであるイースターを迎えました。イースターは、十字架上で死を迎えたイエス・キリストを神が復活させられたことを記念する日です。
「復活」・・・。よみがえることなど一般的には信じ得ないことです。
聖書は、イエス・キリストが十字架の死にいたるまでに受けた壮絶な苦難と痛み、恥と侮辱を克明に伝えます。またキリストは十字架を背負わされて磔(はりつけ)の場所まで歩かされている道中で、3度倒れたと言われています。痛みを負うイエス、侮辱と恥を受けるイエス、また十字架の重さに耐えられず倒れ込んでしまうイエス。それは、痛みを負うことのしんどさを、恥を抱えることの辛さをイエスが知っているということ、そして背負いきれない重荷を負わされている時には倒れ込んでしまっても良いことを、イエスが身をもって示しておられます。
しんどいなら立ち止まってもいい、辛いならしゃがみ込んでいい、重いなら倒れてしまってもいい、そしていつかそこから立ち上がっていかれればいい。キリストの十字架はそのように私たちに語りかけています。
聖書における復活という言葉は「立ち上がる」、「起き上がる」ことを意味します。何もなかったかのように元通りになることではありません。傷つき、疲れ果て、倒れ込む私たちには、立ち上がっていく日が、起き上がっていく時が与えられていく、そこに復活の希望を見出します。
キリスト教のシンボルである十字架は、キリストの受難のみを象徴しているのではなく、その先にある希望をも私たちに語りかけているのです。
2025年4月21日
「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」
(マルコによる福音書 13章31節、マタイによる福音書 24章35節、ルカによる福音書 21章33節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一
2025年度の学園生活がスタートしました。皆様の上に主の導きと祝福をお祈りいたします。そして日々の生活の中で、聖書のみ言葉との出会いがあることを希望します。
八木重吉の詩を紹介します。
この聖書(よいほん)のことばを
うちがわからみいりたいものだ
ひとつひとつのことばを
わたしのからだの手や足や
鼻や耳やそして眼のように
かんじたいものだ
ことばのうちがわへはいりたいものだ
この詩には、聖書を読もうとする私たちの心構えが述べられています。私たちは聖書の各文書が書かれた事実を学ぶことも必要ですが、何よりもそこに記されている言葉、特にイエスと心を通わせて読むことが大切です。単に知性と感性をもって読むだけでなく、深く味わうことが大事です。つまり「ことばのうちがわへはいりたい」のです。
詩編の詩人は「あなたの言葉は私の足の灯。私の道の光」(詩編119編105節)と語ります。以前の新共同訳では、「あなたの御(み)言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯」と訳されております。詩人の信仰を踏まえると「御言葉」のほうが相応しいかと思います。
この「御言葉」は、具体的には「聖書の言葉」です。聖書を通して語られる神の言葉、これが「御言葉」であります。しかもそれは聖霊によって私たちの心の中に響く言葉であります。私たちの頭だけではなくて、私たちのすべて、全存在を持って聖書に耳を傾けていくときに、この「御言葉」との出会いが生まれ、「足の灯、道の光」となります。御言葉に導かれて、御言葉に支えられて生きる歩み、これが詩人の信仰でした。
今週は、受難週となります。18日金曜日はイエスの十字架を想起し、20日に復活日を迎えます。聖書を通して、イエスの十字架、そして復活は、私たちに何を語ろうとしているのか、味読していきたいのです。
イエスは「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(マルコによる福音書13章31節、マタイによる福音書24章35節、ルカによる福音書21章33節)と語ります。今週も聖書を通して語りかけてくる神の言葉と出会っていきたいのです。
2025年4月14日
2025年度の学園生活がスタートしました。皆様の上に主の導きと祝福をお祈りいたします。そして日々の生活の中で、聖書のみ言葉との出会いがあることを希望します。
八木重吉の詩を紹介します。
この聖書(よいほん)のことばを
うちがわからみいりたいものだ
ひとつひとつのことばを
わたしのからだの手や足や
鼻や耳やそして眼のように
かんじたいものだ
ことばのうちがわへはいりたいものだ
この詩には、聖書を読もうとする私たちの心構えが述べられています。私たちは聖書の各文書が書かれた事実を学ぶことも必要ですが、何よりもそこに記されている言葉、特にイエスと心を通わせて読むことが大切です。単に知性と感性をもって読むだけでなく、深く味わうことが大事です。つまり「ことばのうちがわへはいりたい」のです。
詩編の詩人は「あなたの言葉は私の足の灯。私の道の光」(詩編119編105節)と語ります。以前の新共同訳では、「あなたの御(み)言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯」と訳されております。詩人の信仰を踏まえると「御言葉」のほうが相応しいかと思います。
この「御言葉」は、具体的には「聖書の言葉」です。聖書を通して語られる神の言葉、これが「御言葉」であります。しかもそれは聖霊によって私たちの心の中に響く言葉であります。私たちの頭だけではなくて、私たちのすべて、全存在を持って聖書に耳を傾けていくときに、この「御言葉」との出会いが生まれ、「足の灯、道の光」となります。御言葉に導かれて、御言葉に支えられて生きる歩み、これが詩人の信仰でした。
今週は、受難週となります。18日金曜日はイエスの十字架を想起し、20日に復活日を迎えます。聖書を通して、イエスの十字架、そして復活は、私たちに何を語ろうとしているのか、味読していきたいのです。
イエスは「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(マルコによる福音書13章31節、マタイによる福音書24章35節、ルカによる福音書21章33節)と語ります。今週も聖書を通して語りかけてくる神の言葉と出会っていきたいのです。
2025年4月14日