はじめに

 

 21世紀を目前とした昨今、私はしきりに「過去」に思いを馳せることが多くなった。告白めくが、長年の研究対象たる「アメリカ合衆国」への関心もどんどん過去へと傾斜していっている。なぜだろうか。アメリカという「国民国家」の「近代化」とその公的「記憶」に関わって、文学や文化が果たしてきた役割について考えているうちに自ずとそうなってしまったのである。

 初めのうちは「人種・ジェンダー・階級」が中心概念だった。「PC論争」や「多文化主義」についても随分と意を注いできたように思う。そうした事柄とのつながりで、何年か前からは「ポストコロニアリズム」や「カルチュラル・スタディーズ」とかいう言い方も口にしてきた。ある種の人たちにとっては、こうした表現で括られる問題領域が、あたかも一種の流行のように見えるのかもしれないが、私にとってはそうではない。こうした問題領域の根っこにあって、近代構築物の大幅な「読み直し」を絶えず要求してくるものの正体は、一方での「ブルジョワ革命」の両義性と、他方での「近代奴隷制」の呪縛である。その意味で言えば、まさに「過去」をどう見据えるかが、ここでの掛け金だと言うべきだろう。

 「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になります」。ドイツの敗戦40周年にあたって、ナチス・ドイツが行った悪業との関連でみずからの現在を戒めつつ、西ドイツの元大統領ヴァイツゼッガーが口にした言葉である。それから早くも十数年の月日が経ってしまったが、今なおこの言葉の持つ意味は重い。いや、おそらく、南京大虐殺や従軍慰安婦問題から目を背けつつ、自由主義史観の横行を許している日本的な文化・政治状況に照らしてみれば、今だからこそ肝に銘じ直すべき言葉かもしれない。一過性の知的モードや流行しつつあるキーワードに目を奪われているだけでなく、日本近代の総体を問い直す知的膂力はいつの時代にも必要とされている。あるいは、すべてを飲み込み、すべてを洗い流す式の日本的な「文化風景」の外側に身を置き、日本の「過去」を柔軟に直視し続ける姿勢が今こそ必要とされているのかもしれない。

 その点で、最近手にした一冊の本がとても気にかかっている。李静和『つぶやきの政治思想』(青土社, 1998年刊)と題された一冊である。韓国の済州島出身で、日本のある大学で政治学を講義しているというこの女性は、従軍慰安婦問題をとりあげつつ、「詩的」な日本語を操って、「過去」と「現在」、「男」と「女」、「思想」と「生」、「日本」と「韓国」といった深い溝に何とか架橋して「共生」の道を手探りしている。時代や国境や性差やジャンルの差異を、これほど大胆に「超え」ようとする試みには、惜しみない拍手が送られるべきだろう。

19993

立教大学アメリカ研究所所長
小林 憲二

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