チャプレン長 佐藤 忠男
ひたすら前を見て歩き続けた皆さんに、今、願いたいことが一つあります。それは後ろを見てほしいということです。いまさら、過ぎ去った昨日を見てどうするのだ、それよりも、これから前に進もうとしているわれわれには、やがて来る明日を見つめることこそ大切だという考え方もあるでしょう。しかし、それでも私はあえて皆さんに申し上げたいのです。今一度、後ろを見てほしいということを。
梅や桜の花は、ただの一輪咲いただけでも人々の関心を引きつけてニュースになり、満開になればなったで多くの人の称賛を得、そして散れば散ったでその花を惜しむ声は止むことがありません。こうして束の間の花の季節が過ぎると葉の茂りの時になりますが、同じ木の枝を飾るものでありながら、その花は多くの人に愛され、一方、その葉は一顧だにされずにその一生を終えてしまいます。しかし、こんな葉は光合成によって木の成長を支えて、美しい花をさえ咲かせるのです。「椿の花はその葉がきれいだから美しさが引き立つのです」と言った人がおりますが、含みのある言葉ではあります。
咲く梅や桜の花たちは、自分たちが多くの賞賛を博して散り終えた後に、その同じ枝に茂った葉たちが何程の関心も寄せられずに雨風に打たれるだけ打たれて散り終えた一生であったことを覚えているのでしょうか。
さて、今皆さんを花に例えるなら満開の花です。周囲の明るさと希望で満たし活気を与えます。それは冬の厳しさを忍び、春の嵐を耐え抜いた皆さんの努力の結果ではありますが、それにも増して、ご両親や家族の大きな支えがあったればこその故であることに、今心を留めてほしいのです。グローバルな情報にリアルタイムで接する時代の私たちは、その情報に即座に敏感に反応することにはたけておりますが、それだけに現象につい心を奪われてしまい、物事の奥に隠されていて見えない大切なものに気付かないでいる時があるものです。
新約聖書に「目があっても見えないのか」というイエスの言葉があります。これは目があれば見えるのだとする人間のおごりに対する神の警告です。見るべきものを見てない目ならば、目の存在価値に疑問符が付いてしまいます。
同じ木の枝を飾った花が、その後に萌え出た葉のあったことを知らずに、一人得意を決め込んだり、またその逆に、葉が自分の枝にきれいな花のあったことを知らずに沈み込んでしまったりしているならば、実に寂しい限りです。花は葉のあることを知って感謝し、葉は花のために生きたことに生きがいを感じるならば、その時、花も葉もそれぞれに見るべきものを見ることができた目を持ったと言えるでありましょう。
聖パウロは「自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えている」と、伝道者の真にあるべき心意気を示しておりますが、立教学院の創立者であるチャニング・ムーア・ウィリアムズ主教も「道を伝えて己れを伝えず」と申しましたが、これは両者ともに見るべきものを見た者の姿であると思います。そして、このことは立教学院の建学の精神のなへんにあるかを如実に示しております。
この激しい競争社会、成果主義のはびこる世に在っては、ともすれば自己の主張に血道を上げて他を顧みることなく、自尊の誇りに生きようとしがちになるものですが、立教学院の建学の精神は、このような生き方と座標を同じくするものではなく、むしろ、これに立ち向かうことをその使命とするものであります。
今、新しい旅に向かって羽ばたこうとしている皆さんが、このことをしっかり心に留めてほしいと願います。
終わりに、入学された皆さんと、その皆さんを支えてくださったご両親様をはじめご家族の上に、神の祝福の豊かにありますよう、お祈り申し上げます。
立教セカンドステージ大学にご入学の皆様、おめでとうございます。そして敬意をもって心から歓迎いたします。
19世紀英国の画家の一人、ワッツ(George Frederick Watts)の絵に一見して暗く重苦しさの漂いが迫ってくるような一つがあります。それは、夜の闇にのみ込まれていこうとしている地球の上で、一人の女性がたて琴を爪弾いているという絵なのですが、よく見ると、その女性は目隠しをされており、しかもたて琴の弦はことごとく切れていて、わずかに残った一本の弦を懸命にかき鳴らしながら、神を賛美しているのです。どこにも明るさの一筋だに見出すことができないようなこの絵の題名は「希望」です。
今、私たちは100年に一度といわれる金融危機の荒波に翻弄され、株価低迷と失業者増加で先の見えない目隠し状態に置かれ、加えて止むことのない戦争の恐怖は、平和の願いをズタズタに寸断しながら私たちに迫ります。このような状況は、前述のワッツの絵に不思議なほどよく重なります。
物的充足こそを希望とするならば、ワッツの絵の中からは希望の一片すら見出すことはできません。そして、ワッツの絵には「絶望」こそが最もふさわしい題名なのかもしれません。しかし、彼が対義語ともなるべき「希望」をもって題名としたのはなぜなのでしょう。
思えば希望は常に苦難の此岸から望見されるもので、それに近づこうとして歩みを進めることがチャレンジです。このチャレンジこそが真の希望に至る道へ続くと考えたのではないでしょうか。聖パウロも「見える物に対する希望は希望ではありません。」(ロマ・8:24)と物に心を奪われて真の希望を見誤りがちな人間に警鐘を鳴らします。
立教大学は真の希望に依って立つ大学であり、その希望こそがイエス・キリストであります。

2009年度立教セカンドステージ大学入学式
(池袋キャンパス 立教学院諸聖徒礼拝堂にて)
徳富蘆花は自然と人生(抄)の中で「家は十坪にすぎず、庭はただ三坪。誰かいう、狭くしてかつ陋なりと。家陋なりといえども、膝を容るべく、庭狭きも碧空仰ぐべく、歩して永遠を思うに足る。」と、ひともとの野辺の花にも尽きない美を思う心境を吐露すれば、川田順は「生けるものなしと思ひし枯生より虫をくはえて雀飛び立つ」と歌って、野に生きる雀のたくましさを。人間の目には何も得ることのない思われる枯生であっても、生を保たせる餌を与える生きた地であることを気付かせてくれます。
ワッツにしても、徳富蘆花や川田順にしても、普通とは言いがたい状況にありながらも、そこに不満を言い募らせて絶望の叫びをあげることなく、逆に、そこを希望を生み出す畑にしていることです。条件が満たされなければ、道具が手に入らなければ、人出がそろわないから何も仕事ができないのだと、仕事が進捗しないことを、条件や道具や人手不足のせいにして何らはばかることをしない生き方に接するとき、思い出すのは、夏目漱石の『行人』の中に出てくる兄と弟の口論で、弟が兄に向って、「君は山を呼び寄せる男だ。呼び寄せて来ないと怒る男だ。地団駄を踏んで悔しがる男だ。そうして、山を悪く批判することだけを考える男だ。なぜ山の方へ歩いていかないのか。」と激しく迫っているのがとても印象的です。山が近づいて来てくれるわけではないのだから、山へ向って歩かねばならないという、つらさに耐えてこそ、その山へ近づく希望が生まれます。神への近づきもこれと同様で、苦しさを忍んでこそ、その恵みに与かることができるという希望が見えてまいります。
立教大学キャンパス内の総務部の事務棟に「忍耐は錬達を生じ、錬達は希望を生ず」(ロマ・5:4)と書いてあったと思いますが、これこそは、今の時代にとっての箴言であると思います。
一筋の道にたゆまない誠実の歩みを運ばれる皆様の上に、全能の神のご加護が豊かにありますようお祈り申し上げて、私の話を終わらせていただきます。