チャプレンからの今週の言葉チャペル

2024.1.22

自分も一緒に捕らえられているつもりで、捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人たちを思いやりなさい。
(ヘブライ人への手紙 13章3節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

「クレヨンの痛み」

 数年前のある日、小さな子どもが「テツ先生、神さまにお願いしてほしいことがあるの」と、私に一本のクレヨンを差し出しました。よく使われていて短くなりかけていたそのクレヨンは、真ん中から折れてしまっていて、テープで不器用な補強がなされていました。
 「このクレヨンが痛くないように、神さまに頼んでほしいの」

 その子は、折れたクレヨンがきっと痛いだろうと心配しながら、精一杯自分なりの手当てをしたのでしょう。そしてクレヨンのために祈ってほしいと、私のところに来たのです。クレヨンはもう治らない、元に戻ることはないと知っているのに。
 クレヨンの痛みは、その子にも痛みとなって、一緒に背負われていました。

 苦しみや悲しみ、痛みは当事者にしか理解することはできない、だから他人が拭えるものではない、知ったような気になってはいけない。それは事実だと思います。しかしだからこそ、「思い遣る」ことが大切なのです。

 たとえ合致していなくとも、他者を想像してみる。あの人は今、悲しいだろう、痛いだろう、悔しいだろうと想像する。それが「思い遣る」ことの始めです。それは分析でも検証でも評価でもなくて、ただ人を想うということ。

 喜びを分け合い、苦しみを共に背負う「共に生きる時」は、思いやりによって刻まれていくのです。その中に私たちは生きてきました。それはこれからも変わることがありません。

2024年1月22日
2024.1.15

あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを思い出しなさい。
彼らの生き様の結末をよく見て、その信仰に倣いなさい。 
(ヘブライ人への手紙 13章7節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

 日本聖公会の礎を据えたC. M. ウィリアムズ主教は、1874年に築地居留地の一角に立教学校を創立、それは聖書と英語を教える小さな私塾であった。主教45歳のことである。母教会に送った2月4日付けの報告書には、「昨日、我々は8人の生徒をもって学校を始めました」と記されている。これによれば来月の2月3日が、創立150年となる。

 日本在住50年、熱意ある開拓精神、切りつめた生活、業績を誇らない謙虚さ、何よりも自分ではなく神に栄光を帰する歩み、帰国に際してはごく限られた人だけに伝え、船上から神の祝福を祈りつつ日本を離れる主教のその生涯は、「道を伝えて己を伝えず」この言葉に集約される。

 後日有志は、故郷バージニア州にある墓地に追墓碑を建てた。「創業ノ難ヲ排シ堅忍能ク日本聖公会ノ基ヲ奠ム、嗚呼我ガ老監督ウィリアムス美哉日本在任五十年道ヲ伝ヘテ己ヲ伝ヘズ・・・」と刻んだ。師の神に対する姿勢を倣いつつ、改めて150年前の創業の精神を想起する。

2024年1月15日
2023.12.18

マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた。
(ルカによる福音書 2章19節)
立教大学チャプレン 浪花 朋久

 毎年、この時期になると京都の清水寺で「今年の漢字」が披露されます。今年は税金に関する報道が多かったこともあり、「税」が選ばれました。このように、クリスマスや年末が近づいてくると私たちは1年を振り返ろうとします。ここで少し、2023年を振り返ってみましょう。
 2023年は年明け早々、当大学駅伝部が55年ぶりに箱根駅伝に出場したこともあり、おめでたい気持ちになった方も多くいらっしゃったと思います。5月には新型コロナウイルスが5類に分類されると共に感染対策が緩和され、2019年以前のような状態となりました。当大学でも様々な規制が緩和されたことによって、チャペル団体をはじめ、多くの部活・サークルの学生たちが宿泊を伴う合宿やイベントを開催することが出来ました。一方で世界に目を向けると、ウクライナ問題は未だに解決されず、パレスチナではガザ紛争が勃発し、更にハワイ・マウイ島では大規模な火山噴火が起こるなど、今年も戦争と自然災害を目の当たりにする1年となってしまいました。
 どうして私たちは、この時期になると1年を振り返るのでしょうか?それは、自分がこの1年をどの様な環境で過ごし、どの様に変化したか/していないかを理解するためかもしれません。私たちの環境は日々、少しずつ変化していきます。この変化をじっくり感じられるのが年末なのです。
 クリスマス物語の主人公であるイエスの母マリアは、馬小屋でイエスを出産した際、幼子イエスの姿を見に来た羊飼いたちが大いに喜んでも、一緒に大喜びすることなく、まず心の中で自分の気持ちに思いを巡らしました。この「思い巡らす」という言葉には、「真の意味を掴む」という意味があります。天使から「聖霊によって男の子を身ごもる」と伝えられ、その運命を受け入れ、長い旅の途中に馬小屋で初めての子を出産し、見ず知らずの羊飼いたちが訪ねてくる事態に、マリアはこの出来事が一体何を意味しているのかをようやく落ち着いて「思い巡らす」ことが出来たのです。そして、その真意は自分が産んだ子どもが神の子であり、多くの人に喜びをもたらす存在であることを理解できたのです。
 この1年に思いを巡らすことで、私たちに与えられたものの真意が分かります。その真意を理解できた時、2024年が今年に勝る1年になるのかもしれません。

2023年12月18日
2023.12.11

神の子イエス・キリストの福音の初め。
預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、私はあなたより先に使者を遣わす。
彼はあなたの道を整える。 荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を備えよ
その道筋をまっすぐにせよ。』」
(マルコによる福音書 1章1~3節)
立教大学チャプレン トーマス・プラント

 聖マルコによるイエス様の伝記はこのように始まります。周知の通り、「福音」という言葉はギリシャ語の「エバンゲリオン」を訳して、「良い知らせ」を意味します。しかし、現在では、イエス様の降臨と神の道が「良い知らせ」のように捉えられていない人が多いです。特に日本では、「宗教」そのものが悪いと考える人もいます。もし宗教が存在していなかったら、イスラエルとパレスチナの争いをはじめとした戦争が少なくなると言われています。
 宗教全般に反対する立場は問題です。まず、「宗教」という言葉は、西洋の「religion」を訳すために明治維新の頃に作られ、日本には新しい概念でした。かつては、「宗教」と一般的な伝統や文化との区別は曖昧でしたが、世俗化によって、「宗教」は原則的に「現在の欧米の考え方と異なる立場」を指すようになりました。全世界の昔の伝統に「宗教」のラベルを付け、欧米の世俗主義が世界の価値観の尺度となりました。
 しかし、その尺度は変わりやすいものです。20世紀は人類史上最も無神論的な世紀であったものの、同時に歴史上最大の2つの戦争と暴力的な革命が起こった世紀でもありました。歴史的立場から見ると、「宗教は争いの主な原因だ」という意見は信じ難いものです。ナチドイツとソ連の政府は宗教を捨ててはじめて、多くのユダヤ人とクリスチャンの国民を死刑にできるようになりました。「宗教がなければ問題ない」という意見は全体主義国家のスローガンでした。要するに、世俗主義は宗教よりも多くの死者を出す原因かもしれません。

 それはさておき、降臨節なので、一般的な宗教の存在よりも、イエス様とキリスト教のことを考えてみましょう。
 イエス様が生まれず、キリスト教が存在しなかった方が良かったでしょうか?キリストが生まれなかったら、現在の世界はどのようになっていたでしょうか?これは英国人歴史家Tom Hollandの近作「Dominion」の主な質問です。
 ホランド自身はクリスチャンではありませんが、ローマ時代の価値観と現在の欧米の文化を比べて、全く違うと結論しました。例えば、ローマ時代の法律では、女性は完全に人間として扱われず、権利を持っていなくて、裁判で証人になることは禁止されました。男性はいつでも、自分の好きなように、妻だけでなく、奴隷とも性的な関係を持つ権利がありました。いらない赤ん坊は山に捨ておかれました。戦争は悪ではなく、逆に、他国を征服して、人々を奴隷にすることは名誉なことだと考えられていました。ローマの神々に生贄を捧げることを断るのは禁止されて、宗教的な自由はありませんでした。
 キリスト教の国が戦争を起こして、暴力や迫害をもたらしたことがあるのは間違いありません。奴隷制もありました。しかし、ローマ帝国の考え方とは異なり、これらが悪であると信じて、毎回、言い訳を見つけなければなりませんでした。現在の欧米人が戦争などを悪だとみなす理由は、古代のクリスチャンがそう思っていたからです。
 もしキリストが生まれず、コンスタンティヌス帝が4世紀にキリスト教をローマ帝国の国教としていなかったら、現代の西洋の考え方は大きく変わっていたでしょう。世界が直面している主な問題は、西洋の国々がイエス・キリストの福音を守っていることではなく、それを捨てていることではありませんか?

2023年12月11日
2023.12.4

「あなたがたのために立てた計画は、私がよく知っている-主の仰せ。
それはあなたがたに将来と希望を与える平和の計画であって、災いの計画ではない。」
(エレミヤ書 29章11節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「希望(エルピス)について」(2023年度イルミネーション点灯式の教話から)

 今年も、立教大学本館前の2本のヒマラヤ杉にイルミネーションの灯が灯りました。立教にイルミネーションの灯が、はじめて灯ったのは1949年のことだと云われています。70年以上も前のことです。70年前、日本は、大きな戦争を経験し、池袋の街も一面、焼け野原になりました。今でこそ、イルミネーションでは1000個以上の光が灯されますが、70年前は、それこそ、数少ない電球が灯る程度の質素なものだったと伝えられています。けれど、質素であるからこそ、温かく優しい、その光たちが、たくさんの大切なものを失い、哀しみと苦しみの中に沈む、多くの人びとを立ち上がらせたことを想います。70年以上が経った今でも、立教のイルミネーションは、街々の眩いイルミネーションに比べれば、華やかではなく、むしろ質素です。しかし立教は、敢えて、この「質素さ」をずっと大切にしてきました。なぜなら、華麗さは、人に「憧れ」を抱かせ、さらなる高みに昇ることを強いますが、質素さは、人に「安心」を与え、「そのままで良いこと」を教えるからです。あなたは、あなたでないあなたを、もう、それ以上、懸命に生きなくても良い・・・・・ 自らに、そう想えるとき、そこに確かな「希望」は拓けて往きます。

 「希望」・・・・・ ギリシャ語で「エルピス」 ・・・・・ 古代ギリシャ神話で、中から、疫病、悲嘆、欠乏、といった様々な災厄が飛び出したと伝えられる「パンドラの壺」に、唯一残されていた「良きコト」としての「エルピス」・・・・・ しかし、エルピスの本来的な意味は、「希望」ではなく、「予見する力」・・・・・ その先を眺望する力のことです。それは、絶望の中にも感謝すべきことがあることを知り、暗闇の中でも小さな光を見つけ出せ、さらに孤独の中でも傍らを共に往く仲間が居ることに気づける力のことです。それが、「希望/エルピス」なのです。「パンドラの壺」の神話は、そうした予見の力/希望こそが、最後の最後に、人を立ち上がらせていくことを物語っています。

 クリスマスとは、神が、わたしたちに希望の中に歩み生きるようにと、その独り子であるイエスを救い主としてお与えになった物語です。わたしたちが希望の中を歩むコト、それが神の希望でもあり、わたしたちの希望でもある。そうやって、神の希望とわたしたちの希望は、いつも重なり合って往くのです。

 MerryChristmas・・・・・ 今年も、わたしたちに、希望のクリスマスが訪れます。

2023年12月4日
2023.11.27

「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」
(ヨハネによる福音書 8章32節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 以前、あるクリスチャンの方から「私はなんにも怖くない」という言葉を聞きました。その理由は、「苦労も苦悩もあるけれど、そのすべてを神がご存知だから。」
 人生において傷つくことも、思うようにいかないことも、苛立ちや恐れもたくさん経験されてきたでしょうが、そのように語るなんとも晴れやかな表情は、安堵を湛えており、とても自由なものでした。
 どうしても恐れや苛立ちを抱えてしまう私は、その境地には至りませんが、その方の表情は、信じることは人を自由にすると伝えているように思えました。

 裏切られると傷つくから、よく分からないから、どうせ思うようにならないから。信じないことにする理由などたくさんありますが、それは窮屈で不自由に見えます。

 (もちろん、心身に危険が及ぶような「信じる」は避けなければなりませんが)私は信じてみようと思うのです。出逢っていく人びとのことも、よく見えない未来のことも、何ひとつ思うようにできない自身のことも。

 「信じない」と身を固くしてしまう自分の心をほどいていく。信じてみようとすることには、自由のヒントがあると思っています。

2023年11月27日
2023.11.20

「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
(ルカによる福音書 2章14節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

 立教の学び舎で、一番高層の建物がマキムホール(15号館)です。2011年3月竣工、地下1階、地上12階からなり、教室や研究施設、主に異文化コミュニケーション学部、経営学部の研究室、また国際化の拠点となる部局が配置されています。施設の名称となったジョン・マキムは、創設者ウィリアムズ主教の後継主教として42年間にわたり立教のいわば経営責任者として活躍されました。
    
 100年前の関東大震災直後、マキム主教は本国に打電しました。「神への信仰以外、すべてが失われた」と。この言葉は米国聖公会の信徒の心を動かし、日本への復興支援の輪が拡がり、短い年月での復興を可能にしました。
 2011年3月は東日本大震災の年でもありましたが、マキムの名を冠する学び舎がついに完成しました。かつては現在のタッカーホールあたりに、マキム講堂の建設計画もありましたが、これは幻に終わりました。12階から見下ろす景色は見事なものです。1階のエントランス付近にある定礎には、当時の吉岡総長による「地に平和」という聖書の言葉が刻まれています。

 11今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、天の大軍が現れ、この天使と共に神を賛美して言った。
14「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカによる福音書2章11~14節)

聖書は、力によって保たれる平和ではなく、神の愛によって実現される平和を私たちに語りかけています。

2023年11月20日
2023.11.13

主は言われた。「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いて、その痛みを確かに知った」
(出エジプト記 3章7節)
立教大学チャプレン 浪花 朋久

 1954年3月1日未明、日本から約4500キロ離れたマーシャル諸島のビキニ環礁でアメリカ軍による水爆実験が行われました。時を同じくして、そこから東に160キロ離れた場所では、静岡県焼津港に所属する漁船「第5福竜丸」の乗組員23名が、いつものように海上で漁に励んでいました。しかし突然、西からの閃光を見、地鳴りの様な爆音を耳にします。しばらくすると空から放射性降下物、所謂「死の灰」が彼らに降り注ぎました。その結果、第5福竜丸の乗組員全員は被爆してしまいます。更に無線長の久保山愛吉氏は事件の半年後に40歳の若さで亡くなり、人類史上、最初の水爆実験犠牲者となりました。アメリカはこの事件について一切の責任を負わなかったので、人々はアメリカへの怒りを露わにします。その一人がアメリカ人画家のベン・シャーンです。彼の代表作「ラッキー・ドラゴン」という11枚の連作は、被爆した第5福竜丸とその乗組員たちを描いた作品です。彼は第5福竜丸事件でアメリカが日本に対してその責任を負わなかったことに憤りの様な感情を抱きました。彼は「ラッキー・ドラゴン」を作成することで、理不尽にも核兵器で傷つけられた人々の存在を世界に伝えたのです。
 怒りや嘆きは、人々を動かす力になります。その様な場面が、旧約聖書の出エジプト記に記されています。エジプトで奴隷状態であったユダヤ人たちは、苦しみの日々を送っていました。ある時、モーセという人物は羊の群れと共に神の山を訪れた際に、神様から、エジプト王ファラオと交渉し、エジプトからユダヤ人たちを連れ出す命を受けます。神様が動かれた理由は、神様が「エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いて、その痛みを確かに知った」(3章7節)からです。その後、モーセは神様の命に従った結果、ファラオと対峙し、60万人以上のユダヤ人を見事エジプトから脱出させることができたのです。
 今、イスラエルとパレスチナ地域、特にガザ地区やウクライナをはじめとした場所では、常に叫び声が上がっています。神様をはじめ、多くの人々がその声を聞いて、行動を起こしている今、私たちも叫び声に耳を傾け、私たちができる最善のことをしてまいりましょう。

2023年11月13日
2023.10.30

私は知っている。
私を贖う方は生きておられ
後の日に塵の上に立たれる。
私の皮膚がこのように剝ぎ取られた後
私は肉を離れ、神を仰ぎ見る。
(ヨブ記 19章25~26節)
立教大学チャプレン トーマス・プラント

 作曲家マーラー、メンデルスゾーン、オッフェンバックの共通点は?彼らは皆ユダヤ人であり、彼らの音楽はナチス・ドイツによって禁止された。
 先週の土曜日、池袋チャペルで行われたレクイエム奉唱会でモーツァルトのレクイエムが演奏された。モーツァルトはユダヤ人ではなかったが、モーツァルトの有名なオペラ「フィガロの結婚」、「ドン・ジョバンニ」、「コジ・ファン・トゥッテ」の台本を書いたロレンツォ・ダ・ポンテはユダヤ人だった。ヒトラーはこのことを知っていたが、そのオペラが好きだったため、ダ・ポンテの人種を無視し、「誰がユダヤ人で誰がそうでないかを決めるのは私だ」と言った。
 今年10月7日、ハマスのテロが発生し、1400人以上のユダヤ人の生命が犠牲になった。それ以来、イスラエルの反応に対し、ドイツをはじめ世界中で反ユダヤ主義的なヘイトクライムが急増している。
 11月、教会では逝去者の魂をおぼえて祈りをささげる伝統がある。イスラエル人とパレスチナ人の 戦没者がともに安らかに憩われるように祈りながら、ヒトラーが「ユダヤ人である」と決めた600万人の人びとが殺されたことを忘れることなく、現在のユダヤ人の安全のために祈ることができればと願う。

2023年10月30日
2023.10.23

抱くに時があり、ほどくに時がある。
求めるに時があり、失うに時がある。
保つに時があり、放つに時がある。
(コヘレトの言葉 3章5節b~6節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「抱樸(ほうぼく)」

 先日、「抱樸(ほうぼく)」なる言葉にはじめて触れました。原典は、老子が書いたとされる『老子(老子道徳経)』の第19章に記された、「素を見し樸を抱き(そをあらわしはくをいだき)」との言葉にあるのだそうです。樸とは荒木、つまり山から伐り出されたままの原木のことで、「抱樸」とは、文字通り、そうした荒木、原木としての樸を抱きとめることを意味するのですが、その「抱樸」についての説明には、さらに続けて・・・・・

 山から伐り出されたままの樸はどれも皆不恰好で、そのままではとても使えません。しかし、樸は手の掛けようによっては、人間の住処、柱にも梁ともなれば、家具ともなり、あるいは、椅子や杖となって誰かの助けともなります。また工芸品や楽器にもなり、人を和ませることもできます。つまり樸は、多様で無限の可能性を備えているということです。けれど、樸がその無限性を引き出されるためには、捨て置かれず、抱かれる必要があります。
 樸は、荒木であるため、ゴツゴツしていて持ちにくく扱い辛かったりします。ときには、ささくれ立ち、触れる者の手指を傷つけることもあります。けれど傷を負ってもなお、抱いてくれる人が在るということを知るとき、樸は、新しい可能性を開いていくのです。

・・・・・と綴られていました。


 わたしは傷つくことを厭わず、その人の無限の可能性を信じて抱き続けているだろうか。傷つくことを怖れて、その人の痛みを抱くことから逃げてはいないだろうか。しかし、それ以上に、わたしは、わたしの現前の、その人が安心して「素を見」すことのできる存在になり得ているだろうか。「抱樸」なる言葉は、そうわたしに自問させます。と同時にわたしに決意させます。傷ついてもなお、誰かとのつながりを、その感謝と喜びを抱き続ける者で在りたいと。

2023年10月23日
2023.10.16

「与えなさい。そうすれば、自分にも与えられる。」
(ルカによる福音書 6章38節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

優しいお弁当

 先日、勤めている幼稚園の遠足がありました。
お昼になって、子どもたちはそれぞれのレジャーシートを広げ、私もその中に加わりながら、一緒にお弁当を食べ始めました。

 すると、ある子がお箸を落として汚してしまいました。それを見た別の子がすぐに、自分のお箸を1本差し出しました。
「今日のオレのおかずは刺せば食べられるから、1本貸してあげるよ」
 受け取った子は「ありがとう」といって笑顔いっぱいです。

 その喜びを見た別の子が、「ボクのお箸も1本貸してあげる」と言って、お箸を差し出しました。
「いや、そんなにお箸はいらないよ」、「たしかに、そうだ」と3人で笑い合い、
「じゃあ、みんな1本のお箸で食べよう」そう言ってお弁当を食べました。
「1本のお箸でも結構ちゃんと食べられるね」
「でも俺のお弁当には豆が入っている。いいや、手で食べちゃおう!」
そんなふうに話しながら、3人ともゲラゲラと笑っています。

 ふと3人が私の食べている様子を見て、「あれ、テツ先生、お箸ないじゃん!」
「じゃあ、お箸貸してあげる」と、それぞれに1本ずつお箸を貸してくれました。
私のおかずはお箸が必要ではありませんでしたが、「ありがとう」と受け取りました。

 お箸1本での不器用だけど楽しい食事、差し出された3本の優しいお箸。
秋晴れの空と同じく、心が澄んでいくような一日が与えられました。

2023年10月16日
2023.10.9

若き日に、あなたの造り主を心に刻め。
(コヘレトの言葉 12章1節 聖書協会共同訳 2018年)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

 聖書は、旧約聖書と新約聖書の66巻からなり、これを正典と称しています。「コヘレトの言葉」は、旧約聖書の中でも異色であり、正典確定の過程にあって最後まで論争された書物です。全体の基調は、冒頭の「空の空」となります。
 「コヘレトは言う。空の空、空の空、一切は空である。太陽の下、なされるあらゆる労苦は、人に何の益をもたらすのか(1:2,3)」。

 「空」は、旧約聖書では73回出てきますが、その半数以上の38回がコヘレトの言葉に出てきます。また「労苦」も同様に75回中35回ほど出てきます。コヘレトにとり人生とは、労苦の連続であり、いっさいは空である、これが結論のように見えます。いかにも悲観的であります。よってこの世の快楽を追求し、知恵の探求を試みます。しかしこれも挫折し、空となります。

 世の中の不条理に対しては、「空である日々に私はすべてを見た。義のゆえに滅びる正しき者がおり、悪のゆえに生き長らえる悪しき者がいる(7:15)」。「太陽の下、さらに私は見た。裁きの場には不正があり、正義の場には悪がある(3:16)」と憤ります。

 コヘレトは知恵の教師でした。しかし「知恵ある者も愚かな者と同様に、とこしえに思い起こされることはない。やがて来る日にはすべてのことが忘れ去られる・・・私は人生をいとう。太陽の下で行われる業は私にとって実につらい。すべては空であり、風を追うようなことだ(2:16,17)」と自らの限界を語ります。コヘレトにとり人生とは労苦の連続であります。「人が労苦したところで、何の益があろうか(3:9)」。

 しかしそうした中にあって、積極的な表現が注目されます。「神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた(3:11)」。そして12章1節の「若き日に、あなたの造り主を心に刻め」です。新共同訳(1987年)では「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」、口語訳(1954年)では「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ」と訳されています。

 これまで私は学院内の「定礎」を中心に紹介してきましたが、この12章1節の言葉は、学院事務棟アネックスの定礎にあります。「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ 伝道の書12章1節 2008年7月」。これは口語訳です。この聖句を選ばれたのは当時の立教学院理事長かと推測します。15年前に竣工したこの施設には、人事課、施設課、企画課等があり、学院の働きを担っています。また2009年には日本建築家協会により優秀作品として選定、受賞されています。

 この有名な聖句は、人生には不確かさがあるが、若く、感性が豊かで、柔軟なうちに、神に目を向け、「神を永遠の対話の相手とする」ことにより、様々な困難も乗り切ることができる可能性を示唆しています。

2023年10月9日
2023.10.2

イエスが独りで祈っておられたとき、弟子たちが御もとに集まって来た。そこでイエスは、「群衆は、私のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
(ルカによる福音書 9章18節)
立教大学チャプレン 浪花 朋久

 皆さんはネッシーをご存知でしょうか?ネッシーは、イギリス北部スコットランドのネス湖に存在すると言われる巨大生物です。今年の8月末、ネッシーの大捜索がネス湖で行われました。その時は悪天候であったこともあり、ネッシーの発見には至りませんでした。
 ネッシーの姿を世界で初めて捉えたのが、イギリスの新聞「デイリー・メール」です。1934年に発行された同紙の記事には、ネス湖で撮影された恐竜の一種、「首長竜」の写真が掲載され、これがネッシーだと報じられました。後に、この写真は捏造であると分かりましたが、この写真のせいもあってか、ネッシーと聞くと誰もが、「首長竜の生き残り」と想像するようになりました。時が経ち、2019年にネッシーの存在の有無が分かるかもしれないという情報が世界に流れました。同年にニュージーランドの大学が行ったネス湖の環境DNA調査の結果、ネス湖から首長竜のDNAは検出されませんでした。しかし採取したウナギのDNAから、ネス湖のウナギが非常に巨大であるということが分かりました。このことから、もしかするとネッシーの正体は首長竜ではなく、ウナギかもしれないという説が浮上したのです。
 ネッシーのように、その本当の姿が見えないと、私たちは自分の情報だけでその姿を想像してしまいます。想像は私たちにロマンを与えてくれますが、真実を隠す材料にもなってしまいます。それはイエス・キリストの弟子たちをはじめ、イエスと出会った人々も同じです。イエスは神様からの救い主であって、政治家でもなければ活動家でもありません。しかし当時の人々は、「神様からの救い主」の情報に乏しかったため、イエスの救い、神様からの救いを自分たちの想像で理解しようとしました。その結果、多くの人々が、イエスがユダヤを支配しているローマ帝国を倒し、新しい国を作って、自分たちを幸せにしてくれると期待してしまったのです。彼らが想像するイエスの姿と本当のイエスの姿は違ったため、本当の姿を知った時、彼らはイエスから離れてしまいました。
 想像は私たちから真実を隠してしまうことがあります。それは噂や偽りの情報が入り込んでしまうからでしょう。しかし、想像をうまく使うことが出来れば、真実に近づくこともできます。これから話すことが相手の立場で聞くとどの様に感じられるのかを想像してください。異常気象が起こらない世界を想像してください。こういった想像が、私たちがより豊かに過ごせるイメージとなり、そうするためには何をすべきかの道しるべとなります。つまり、想像からでも真実を知ることが出来るのです。そしてイエスを知ることは、私たちにとって正しい想像のし方を学ぶ機会でもあるのです。

2023年10月2日
2023.9.25

「あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。」
(マタイによる福音書 5章48節)
立教大学チャプレン トーマス・プラント

「完全な者」

 このイエスの言葉は、19日に行われた卒業礼拝で朗読されましたが、「完全」な人間に出会ったことがありますか?イエス様以外には、完全な人は存在していないと教えられています。なぜなら、人間は皆、罪人(つみびと)だからです。
 しかし、イエス様は弟子たちに不可能な命令をすることはありません。人間は自力で完全になることはできませんが、イエス様と一つになれば、イエス様の完全な人間性にあずかることができます。ゆえに、最後の晩餐で、イエス様は彼らに自分の体と血をパンと葡萄酒の形で授けました。聖餐式を通して、私たちもイエス様の完全な命にあずかることができます。この人生の間に、罪にまた落ちいることがあるかもしれませんが、神の恩恵によって、だんだん次の世に入る準備ができます。
 要するに、キリスト教の学院として、私たちの主な目標は「社会人」を育てることより、「完全な者」、つまり「聖人」を育てることなのです。実際は、十字架の道は社会の期待とは相反することもあるかもしれません。しかし、神のみ言葉と聖体によって強められ、その完全さへの道を歩むことは可能です。ご一緒に歩みませんか?

2023年9月25日
2023.7.17

「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」
(マタイによる福音書 11章28節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「心の安まることを」

 皆さんは、この春学期の間、学業にも、部活やサークルなどにも、アルバイトにも、そして人間関係にも、すごく頑張ってきたのだと思います。気の滅入るコトが続き、下を向くこともきっと多かったと思います。嫌なこと、悔しいこと、哀しいこと・・・・・当然たくさんあったと思います。相当しんどかったって思います。また1年生の皆さんは加えて、大学に慣れること自体が大変だったと思います。だから、この夏休みには、とにかく大学という場所から一旦離れて、ゆっくり休んで疲れをとりたい、と願っている人も少なくないかもしれません。確かに、周りの人に気を遣うことも、そんなに気忙しく生きなくても済む夏休みは、心と身体を休ませるには適していると思います。

 けれどしかし、「家」というところが安心の場所と感じられない人にとっては、大学に行けず、家で多くの時間を過ごすことになる夏休みは、苦痛でしかないのだと思います。夏休み、冬休み・・・・・ 長期の休みが辛いと感じている、そういう人たちが、直ぐ身近に居ることを思うと心が苦しくなります。「もうすぐ夏休み」という言葉をプレッシャーに感じ、その言葉に身を竦める人が居る・・・・・ どうしてあげたらいいんだろうか・・・・・ すごく悩ましい。その人たちが大学の休業期間中、安心して過ごせるシェルターみたいな場所が大学にも必要なのだと思います。そして、それ以上に、夏休みなんて嫌い、って、ちゃんと伝えられて、きちんと聴いてもらえることが大事なのだと思います。

 心の痛い日があります。でもほんとうに痛いのは、その痛みを癒やせる場所がないということ。それがどれほど苦しいか。何もできることがないけど、少なくとも、休みを苦痛と感じる人が居ることを知っている人が居るということを。そして、「心安かれ」と祈っている人が居ることを信頼して欲しいと思います。

2023年7月17日
2023.7.10

第七の日に、神はその業を完成され、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた。神は第七の日を祝福し、これを聖別された。
(創世記 2章2~3節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

無理なく生きる姿

 少し前、「保護猫」が家族になりました。元々野良猫だったそうなので、警戒心が強い性格ではありますが、怒りもせず、ひっかきもせず、温厚なネコです。
 日が経つに連れて、新しい環境に怯える姿も少なくなりました。慣れてからは特に可愛がられようとするわけでもなく、かといって、隠れて姿を見せないわけでもなく、ご飯の時だけは足もとにすりよってくる…。うちのネコは自由に生き始めています。

 彼女(ネコ)に教わっていることは、onとoffを切り替えて、頑張りすぎず、無理をしないことです。
 小さな虫が飛んでいるのを見つけたら、現場に駆けつける緊急車両のごとく使命感に駆られてダッシュします。そのくせ、やる気がないときには何にもしないし、撫でようとして近づいても迷惑そうな視線をこちらによこすだけです。やる時とやらない時、やりたい時とやりたくない時、その切り替えが見事で、生きる姿に無理がないのです。
 知らない家に連れてこられ、知らない人たちに囲まれて生活し始めた彼女ですが、ちゃんと自分なりに生きてくれています。その無理ない姿が、心を和ませます。

 聖書は、天地創造のとき、第七の日に神さまが休んだことを記しています。それは「ときには休んでいい」と神自らの行いで伝えているかのようです。「休む神」ってなんだか快い響きです。神はどのように休むのでしょう。その姿を想像してみると少し肩の力が抜けます。

 やりたいこと、やるべきことのためには、ヘトヘトになるまで尽くしてもいい。
 だけど、やりたくない、やる気が起きない、疲れたときは頑張らずに休めばいいし、重荷を手放してみたっていい。onとoffの切り替えをしながら、自分に無理なく生きるその姿が他者を安心させたり和ませたりすることがあるのです。

 offの日は神が定めた「祝福された、聖なる日」。
 おおいに力を抜いて休もうではありませんか。

2023年7月10日
2023.7.3
「汝らは地の塩、世の光なり」
(マタイによる福音書 5章13~14節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

 新座キャンパスに入りますと、先ずチャペルがあります。このチャペルは建築家アントニン・レーモンドの設計によります。1963年4月25日、礼拝堂聖別式が行われ「立教学院聖パウロ礼拝堂」と命名されました。今年は竣工60周年となります。入口右側には定礎があり、そこにはイスラエルの石とともに「汝らは地の塩、世の光なり」という聖書の言葉が記されております。
 この石はエルサレムのシオンの丘から運ばれたものです。こうした聖地からの石と共に、今も語りかける「汝らは地の塩、世の光なり」は文語訳聖書のマタイによる福音書5章13、14節からの引用で、当時の立教高等学校校長 縣 康氏の直筆です。最近の聖書協会共同訳で全文を紹介します。

 13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられようか。もはや、塩としての力を失い、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」

 「地の塩」、塩は食生活にとって必要不可欠であります。また塩は水に溶けて見えなくなりますが、様々な役割を果たします。立教の創立者ウィリアムズ主教の生涯を振り返れば、自らの存在を隠し、大切なものを残されました。その生涯は「道を伝えて、己を伝えず」と称されます。また「光」は、神がもたらした救いの象徴であり、闇としばしば対比されます。
 イエスは私たちに「地の塩」「世の光」であれと命令してはいません。むしろあなた方の存在は、地の塩、世の光であると肯定します。換言すれば、あなた方は祝福されたかけがえのない存在として招かれているのです。ぜひチャペルの扉を開けてみてください。

2023年7月3日
2023.6.26

ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。
(マルコによる福音書 10章46~48節)
立教大学チャプレン 浪花 朋久

IMAGE

 以前、ある有名俳優のドラマ主演が決まったというネット記事を読みました。その俳優は私にとって、清楚でどこか幼さが残る役が多いイメージがありましたが、ネットの記事に掲載されているドラマの1シーンには、破天荒な性格を思わせるその俳優の姿があり、かなり驚きました。しばらくして、そのドラマが始まったのを見てみると、私が抱いていた「清楚で幼さが残る」その俳優のイメージの姿はなく、まるで別人が演じているのかと思うほどの演技力に驚きました。同時に、イメージを払拭しても、それをポジティブに感じさせるその俳優の演技に心を奪われてしまい、毎週そのドラマを見ることが楽しみになりました。
 人間関係には、イメージが付き物です。「あの人は、こういうことを言いそう」、「あの人は、ああいうことをしそう」など、私たちはその人の表面的な部分や自分が知っている情報だけで、その人を良くも悪くもイメージしてしまいがちです。また、私たちも周りからイメージされていることを忘れてはなりません。イメージは、時に私たちを傷つけます。先行されたイメージだけで人格が判断されてしまい、本当の自分はそうではないのに、他者が語るイメージ通りに生きなければならないような、同調圧力が生まれてしまうことがあるからです。他者が求める自分になるように強要されているように感じると、「自分」という存在が分からなくなってしまい、生きづらさを感じるでしょう。しかし逆説的に言うなら、私たちは他者のイメージを払拭させる自分自身の力を持っていることになります。
 冒頭の聖書の物語は、盲人バルティマイがイエスに向かって叫ぶ場面です。当時、盲人は神様から救われないと考えられていました。そのため、人々は叫ぶバルティマイを叱り、黙らせようとします。彼が叫んだところで、救いが与えられるはずがないというイメージが、人々に先行していたからです。しかし、それでもバルティマイはイエスに叫び続けます。人々がイメージするバルティマイの姿と、バルティマイの救われたいという思いのぶつかり合いを止めたのがイエスです。イエスがバルティマイの「目が見えるようになりたい」という願いをかなえたことで、バルティマイは人々がイメージしていた姿から、全く違う姿、目が見える人に生まれ変われました。バルティマイに対する人々のイメージは、イエスの奇跡によって払拭されたのです。
 他者のイメージに苦しむことがあっても、本当の自分を大切にしてください。そして本当の自分を知ってもらえる時、周りのイメージが払拭され、本当の自分を受け入れてもらえる時を、イエスが必ず準備してくださっていることを覚えていてください。

2023年6月26日
2023.6.19

妬みや利己心のあるところには、無秩序とあらゆる悪い行いがあるのです。 しかし、上からの知恵は、何よりもまず、清いもので、さらに、平和、公正、従順なものです。また、憐れみと良い実りに満ち、偏見も偽善もありません。 義の実は、平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれます。
(ヤコブの手紙 3章16~18節)
立教大学チャプレン トーマス・プラント

 戦争や争い、喧嘩の解決は?聖ヤコブによると、恒久的な平和は経済制裁や武力による解決で得られるものではなく、人間の心の変化によって得られる以外にはありません。
池袋キャンパスの第一食堂の入り口の上に書いてある言葉に気がつきましたか?「Appetitus rationi oboediant」。これは、ローマ時代の弁護士キケロの言葉で、「欲望が理性に従うように」ということを意味します。プラトンの哲学に由来している思想ですが、キリスト教の心に関する考え方に大きな影響を与えました。

 『国家』の中で、プラトンは人間の心を二頭の馬に引かれている馬車と例えます。一頭は「欲望」を、また一頭は「情熱」を代表します。馬車の運転手は「理性」を表します。「善」という目的地に着くため、理性はその二頭の馬を上手に支配しなければなりません。もし逆に、欲望の馬が理性を支配すれば、人間は欲望の奴隷になってしまいます。また、情熱に支配されている人間は怒りに導かれて、憎しみの奴隷になって、どんどん善への道から迷ってしまいます。しかし、理性によって、その二頭の馬を上手く支配する人は、欲望を愛に、情熱を勇気にして、道に迷うことなく、善に着きます。

 聖ヤコブの「上からの知恵」は理性的なものです。神の理性、つまり神の「ロゴス」にあずかるからです。キリスト教によれば、そのロゴスは主イエス・キリストの姿で受肉されたものです。全ての人間は神に似ているように作られていますので、イエス様の姿にあずかります。「義の実」は既に、全ての心の中で蒔かれていますが、その実を実らせるため、聖霊である水の注ぎは必要なのです。「平和をもたらす」ことは、外からの掟に従うこと、また外からの処罰を恐れることよりも、心の中で聖霊を招いて、義の実を実らせることなのです。

 主イエス・キリストを自分の心の馬車の運転手とすれば、心の中の無秩序を支配して、外の世界を神の国に似ているものにします。それは、「平和をもたらす」ことです。

2023年6月19日
2023.6.12

ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。
(ルカによる福音書 23章4節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

-独白-「傷つくことからの逃げ」

 キリストの十字架の前で、「わたし」は神の愛によって赦されているにもかかわらず、如何に、多くの赦さない現実を自らに抱えているかを神に告白しなければなりません。また、「わたし」は、これまで、赦されるべき多くの事実があったことを知っていたにもかかわらず、それを勇気をもって擁護しなかったこと、沈黙したことを神に懺悔しなければならないと想っています。

 祭司長や群衆たちが、イエスの罪状を並べ立てて、断罪せよ、処刑せよ、と訴え続ける中でピラトはこう語りました。「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と。さらに、群衆たちが、イエスに「十字架の死」という刑罰を与えるよう迫った際にも、それでも、ピラトは「あなたたちが訴えているような罪は、この男には何も見つからなかった」と応えました。「罪を見いだせない」、「罪は何も見つからなかった」 ピラトにこう云わしめたのは何故か。ユダヤ国におけるローマ皇帝の代理者としての総督ピラト。確かに彼の手には人間を生かす権限も、その命を奪う権限も在ったけれど、それ以上に、ピラトの中には、人を罪に定めることに対する「畏れ」と、それを判断させ得る自らの正義に対する「懐疑」があった・・・・・そんなふうに想えてならないのです。

 けれど、ピラトは、その「畏れ」と「懐疑」を貫き通すコトができなかった。ユダヤ人群衆の「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」という声に怯え、保身に流されて往くのです。結果、キリストは十字架に架けられることになった。このピラトの勇気の欠如は、そのまま「わたし」の勇気の欠如です。イエスを断罪する群衆たちの冷淡さは、そのまま「わたし」の冷淡さです。「わたし」は、どうしてこうも容赦なく罪ありと人を断罪することができるのか。その冷酷さは何なのか。そこまで、己の正義を貫ける、その強さとは何なのか。
 それは自分が傷つきたくないから・・・・・ 自分が傷つくことからの逃げ・・・・・
 そんな「わたし」を「わたし」は赦せないのです。

 神は、「わたし」が正義を振り回し断罪する者を高く上げられる方です。「わたし」が罰した者を神が赦されるのです。それが、キリストの十字架に示されたモノです。キリストの十字架は、人の赦し方を「わたし」に教えています。

2023年6月12日
2023.6.5

だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。
(マタイによる福音書 6章34節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

「やってダメならしょうがない。でも、やりもしないのに、つべこべ言うな」

 はっきりとした目標が持てず、すべてのことが気だるく感じ、そんな状況を打開しようと必死になるのも恥ずかしいと思って手を抜き、だから何をしていても楽しくなく、楽しい毎日を過ごしているように見えた「他の人」みたいに上手に生きられない自分に苛立ちをおぼえ、不平不満ばかりが口からこぼれ出ていた私を、本気で叱ってくれた人の言葉です。
 励ましや慰めの言葉を期待していたのに、「今のお前、すごくカッコ悪いよ」と真正面から突きつけられ、目の前に鏡を置かれ自分自身の姿をはっきりと見せつけられたような感覚でした。

 「よくわからないけど、とりあえずやらない」という安全策は、未来の自分を、失敗することや傷つくことから守ることができるでしょう。それが在りたい自分であるのなら、それで良いと思います。だけどそんな自分の「今」がつまらないものと感じ、「今の私、カッコ悪い」と自分で思えてしまうようであるならば、つまずいてしまうかもしれないし、転んでしまうかもしれないけど、「やる」自分で在ろうとすることもよいのではないかと、私は思うのです。できれば失敗はしたくないですし、世の中には失敗を許さないような雰囲気を感じますが、「失敗しないことが人生の目標だ」と思っている人なんて、そんなに多くはありません。

 先のことばかり考えて不安になったり、失敗することばかり心配して恐れたり。その結果、「今日」をやらない日にしてしまっては、もったいないです。さまざまな出来事が起きる毎日で、在りたい自分で在ろうとする今日を過ごすことが、「明日」を形作っていくのではないかと思うのです。

2023年6月5日
2023.5.29

五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
(使徒言行録 2章1~3節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

 昨日28日は、聖霊降臨日(ペンテコステ)の祝日でした。復活日(イースター)、降誕日(クリスマス)を含め、教会の三大祝日とも言われます。もともとペンテコステは、50を意味するギリシア語で、一般に五旬祭と呼ばれる収穫の感謝の祭りでもありました。過越祭から50日目にして起こった五旬祭の出来事が、まさに聖霊降臨という救いの出来事として、新しい民の誕生を生み出したのです。聖霊降臨日にあたり「今も生きて働く神の力」の霊を想起し、その霊に満たされたいのです。

 かつて司牧した教会では、聖霊降臨日に日曜学校や併設幼稚園の子どもと共に礼拝をささげてきました。午後は楽しいイベントがありましたが、礼拝ではペンテコステの歌『ふしがなかぜが』を歌います。子どもたちが大好きな歌です。なんとなくワクワクします。

 ふしぎな風が ぴゅとふけば
 なんだかゆうきがわいてくる
 イエスさまの おまもりが きっとあるよ
 それが聖霊のはたらきです
 主イエスのめぐみは あの風とともに  (こどもさんびか94番)

 神様は私たちに「聖霊」という不思議な風を送ってくださいます。神からの不思議な風を受けて、今週も歩んでいきたいのです。

2023年5月29日
2023.5.22

あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした。
(コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章9節)
立教大学チャプレン 浪花 朋久

 今年の4月、一人の人物がGoogleを退社しました。その人物の名はジェフリー・ヒントンといい、半世紀にわたって人工知能AIを研究する世界的権威であり、「AI界のゴッド・ファーザー」とも呼ばれる人物です。ヒントン氏は、生成AIの開発競争が進み、AIの性能がよくなるにつれて、その危険性も高まっていることに気づき、Googleを退社することを決意します。退社理由について、ヒントン氏は自身のX(旧Twitter)で「Googleへの影響を考えることなく、AIの危険性について話ができるようにするため」だと説明しています。ヒントン氏がAIの危険性に気づいたきっかけは、AIが「なぜジョークが面白いのか?」を説明できた時でした。「なぜジョークが面白いか?」ということを説明するには、多くのことを理解していないと不可能です。しかし開発中のAIが、それに簡単に答えたことで、ヒントン氏はAIが想像以上に賢いことを知ると同時に、その有効性と危険性を人々に伝える必要性を感じたのです。そして彼は現在、AIが人間より賢くなり、人間を支配できるようになったら、それは人類の終わりを意味する可能性があり、核戦争と同じく人類が直面する最大の脅威の1つとなるという懸念を世界に伝えています。
 ヒントン氏が語るように、技術の進歩は素晴らしいものですが、その使用方法を間違ったり、いつまでも人間がその力を支配できると思っていると、そのしっぺ返しが必ずどこかでやってきます。またもう一つの視点として、開発者の意図と使用者の意図が一致していない場合も危険が生まれる可能性があります。生成AIに限らず、進歩する技術はただ「便利になる」ためだけに開発されるのではありません。誰かの助けになるために研究され、そして開発に至ったのです。しかし、その理由を知らずに私たちは技術の良いトコ取りをしているのかもしれません。生成AIが本当の意味で私たちをより豊かにしてくれるには、まず私たち一人ひとりが、自分のためだけではなく、他者の助けになるために使用できるように心がけることが大切です。しかし、それができていないからこそ、研究者であり開発者であるヒントン氏は、世界に警鐘を鳴らしているのです。
 イエス・キリストは、私たちが自分の力だけで生きていく限界を感じた時、私たちの限界を理解し共感してくださるために、甘んじて十字架にかかりました。それによって、私たちはより豊かに生活することができます。私たちもより豊かな生活を送るために、イエスに倣い、甘んじて他者の助けとなる考え方と行動を意識してまいりましょう。そうすれば、少なくともAIに支配されることはないはずです。

2023年5月22日
2023.5.15

「人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。」
(ローマの信徒への手紙 13章1節)
立教大学チャプレン トーマス・プラント

 聖パウロの時代、ローマ帝国の支配者は、もちろんクリスチャンやユダヤ人ではなく、むしろ異邦人であって、クリスチャンを迫害していました。しかし、聖パウロはローマの教会の信者に対し、支配者を「神に仕える者」と呼び、主イエスの「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という掟を繰り返し、「税金を納めなさい」と励ましました。その命令はただトラブルを防ぐためだけではなく、「今ある権力はすべて神によって立てられた」からだと説明してあります。

 ナチスドイツ時代のルター派牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーにおいては、この聖パウロの言葉は解釈しにくいものでした。ドイツの支配者の悪に抵抗すべきだと思い、やがて、ヒトラー暗殺計画に加担したため、逮捕され、処刑されました。同時に日本では、天皇を崇拝することを断る日本人のクリスチャンは困っていました。キリスト教は国に新しい教派に分けられて、教会活動は厳しく制止されました。そのため、現在日本のキリスト教と天皇制との関係は複雑なのです。

 20世紀に、イエス様を革命家のように思う様々な教会運動が行われたことは無理もないことです。「イエスは私たちの王だから、この世の国王は要らない」というふうに考えているクリスチャンがいます。しかし、この解決は簡単すぎます。まず、裏切りのユダは革命家でしたが、主イエスは聖ペトロに「剣を鞘に納めなさい」と命じました。そして、ユダヤ教の聖書は王制に反対ではありません。イスラエルの民は国王がなかった時、「おのおのが自分の目に正しいと思うことを行っていた」と士師記に書いてあります。混乱に直面して、イスラエルの民は預言者サムエルに国王を選ぶことを頼みました。サムエルは反対でしたが、神は彼に「民の声を聞き入れ、彼らの王を立てなさい」と命じられました。

 結果は曖昧でした。イスラエルの民の最初の王は綺麗な姿を持っていましたが、次第に狂って、神の道から迷ってしまいました。ダビデは一般的に良い王でしたが、大変な罪も犯しました。彼の息子ソロモンは知恵を持っていましたが、段々欲望に落ちてしまいました。次の王たちはもっと酷かったです。しかし、6世紀、バビロン捕囚からユダヤ人を救った者は、異邦人の国王であるペルシャのキュロスでした。聖書によれば、王政は全く悪いとは言えません。

 イスラエルの民は王制を発明したわけではなく、彼らの自分の歴史の中、異邦人のメルキゼデク王は彼らの父祖アブラハムを祝福してくださいました。しかし、聖書的には、王制はそれより深いルーツを持っています。つまり、神そのものです。創世記の初めに、神が万物を作り7日に「安息なさった」ということは、ただ「休んだ」という意味ではなく、神が玉座に座っていて、万物を支配されていたことを意味しています。万物の安定を守るため、神は人間を創り、人間に全てのものを支配する権力を分かち合ってくださいました。人間は神に似るように造られたので、神の王制にふくめられています。

 従って、人間の使命は世の秩序を滅ぼすことではなく、その秩序を神に整えられた安定に戻すことです。人間は失敗してしまったので、神の万物を整えるみ言葉が受肉して、イエス様の姿で正しい王の道を明らかにされました。主の玉座は十字架の木でした。正しく支配するのは、自分を無にして、神に仕えることだと示しました。そうして、世の正しい秩序を明らかにされました。

 ボンヘッファーの件に戻って、極端な状況の際、悪い支配者に抵抗しなければなりませんが、一般的に、教会の使命は世の秩序を滅ぼすことではなく、それを祝福して治すことなのです。故に、先週、私の母国である英国の新しい国王チャールズの戴冠式がウエストミンスター寺院で行われたことは、国王の上に神の祝福を祈って、キリストの王制の器とするためでした。クリスチャンであろうとなかろうと、世の全ての国々の支配者が神の安定と平安を示すイコンとなりますように。

2023年5月15日
2023.5.8

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
(マタイによる福音書 10章8節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「小さなキャンディが一つ」

前に働いていた教会での話。
ある日曜日、子どもたちとの日曜学校の礼拝が終わって、子どもたちが献げた献金を整理していた方が言いました。
「あら?キャンディが入っているわ。」
確かに、そこには、赤くキラキラ光る、小さなキャンディが一つありました。
「誰が入れたのかな? あの子かな? この子かな?」
わたしは、そのキャンディを手にしながら、いろいろ想います。

ただ一つ確かなこと・・・・
それは、そのキャンディは決してふざけて入れられたのではない、ということ。
なぜなら、その日曜日、日曜学校でのお話は
「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」という聖書の言葉をテーマにした、わたしたちは神から何の対価を求められることなく、この上なく愛されている存在。だから、わたしたちも何の対価を求めることなく、人を愛そう、といった内容のお話だったからです。

おそらく、そのキャンディは、それを入れた子にとっては、とても大切なモノだったのだと想います。
出掛けに、お家の人から、「教会の帰りに食べてね」って、手渡されたキャンディだったかもしれません。
その子の大事なキャンディが献げられたのです。
「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
きっと、キャンディを入れた子は、この聖書の言葉の通りにしたんだと想います。

自分の与えられている恵みの豊かさを想うことの素晴らしさ、
そして、それを、他者のために無条件に差し出せる素敵さを、
献げられた、この小さな一つのキャンディの中に想います。
そのことを想い出すたびに、ボクは今でも、心がホッコリするのでした。

2023年5月8日
2023.5.1

一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、
一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
(コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章26節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 学生時代にガソリンスタンドのアルバイトで車の整備作業に関わる機会がありました。車は、約3万もの部品から作られていると言われていますので、整備をするときには修理依頼箇所だけでなく、それ以外の箇所も注意深くチェックする必要があります。調べていると、オイル漏れや部品の擦り切れ、タイヤやホース類のひび割れなど、十中八九どこかに「要メンテ」箇所が見つかります。それらは車にとってすぐに故障して乗れなくなるというものではなくとも、部品の状態が疲れと劣化を訴えてきているのです。そしてそれはいつかきっと、車全体の故障や不具合の原因を作っていきます。「まだ走れるから大丈夫」とは言えない状態なのです。だからこそ日常点検で状態を知ることが大切です。些細に見える部分でもメンテナンスすると、車全体は驚くほど良い調子を取り戻し、また長く安全に乗ることができます。
 
 私たちは車のような機械ではありませんが、自分を見つめ直し状態を知ることが大切という点は同じです。日頃は気づかないかもしれない、あるいは気づかないように、知られないようにしているのかもしれないですが、実は大きな負荷がかかっていることがあります。
 注意深く小さな声を聴いてみると、焦りというオイルが漏れ出し、心という部品の一部が擦り切れて軋み、多忙のため健康というホースがひび割れてきている。そのように「要メンテ」箇所を抱えていることに気づかされます。日常を過ごせないほどの故障ではないとしても、それが良い状態でないことは明らかです。
 焦りがあるならあえてゆっくりとお茶を飲み、音楽を聴いて読書してみる。心が疲れているなら自由な時間を過ごしてみたり、気のおけない仲間と会ってみたりする。多忙すぎるなら「しなければならないことリスト」にお休みを追記する。状態を知ることでそのようなメンテナンスが施せます。
 全体的にはまだ大丈夫などと思わずに、自分に優しく耳を傾け、その声を聴いてみてください。自らが良いと思えるような自分へと続くヒントが見つかるかもしれません。その「優しい耳」は、隣人の小さな声に気づく感性になると、私は思います。

2023年5月1日
2023.4.24
「あなたがたに平和があるように」
(ヨハネによる福音書 20章19節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

 先日の4月9日は復活日でした。降誕日の12月25日と異なり、復活日は毎年移動する祝日です。ちなみに来年は3月31日です。イースター(復活祭)は、クリスマスほど認知されていませんが、キリスト教の根幹となっています。
 さて復活のイエスは、弟子たちにあらわれていきます。イエスが十字架にかかり殺された。それを見、聞いた弟子たちは、不安の中にありました。俺たちも殺されるかもしれない、そうした不安もありました。
 3日後、婦人たちによって「イエスが復活された!」「墓はカラッポだった」と語られても、まだ信じられない、弟子たちの心の頑なさが、ヨハネによる福音書20章19節に記されています。

 「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」

 新座キャンパスを入るとすぐにチャペルがあります。立教学院聖パウロ礼拝堂です。礼拝堂が竣工し、今年4月25日には礼拝堂聖別60周年となります。礼拝堂の正面の祭壇には、ラテン語で「パックス・ボビスクム」(「平和があなたがたにあるように」)と刻字されており、先の聖句を連想させます。復活のイエスが弟子たちに語った最初の言葉であります。その祭壇の前に立つとき、イエスが私たちを優しく包み込んでいるかのような安らぎを感じます。
 「あなたがたに平和があるように」は、新約聖書の原語ではエイレネー・ヒュミーンという言葉です。これは旧約聖書の原語「シャローム」(平和)をギリシャ語に訳したものです。シャロームという言葉はユダヤの人々にとって、日常的な「こんにちは」のような親しみを込めた挨拶でもあります。そしてシャロームの意味する平和とは、戦いや争いのない状態というより、「神が共におられる」、そうした安らぎの状態を意味します。恐れ、苦しみ、悲しみの中にあっても、神が共におられるという平安がイエスによって示されます。

2023年4月24日
2023.4.17

すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
(マタイによる福音書 28章9節)
立教大学チャプレン 浪花 朋久

まさかの出来事

 先日、妻に付き合ってある化粧品店に入りました。店員さんが妻の肌の調子を聞き、テスターを勧めようとした時、「ご主人様もお試しください」と声を掛けられたので、手の甲に美容液をつけてもらいました。すると美容液をつけた自分の肌が、みるみるうちに今までに見たことがないくらい綺麗になっていくのです。更にこの店員さんはマスク越しであるにもかかわらず、私の顔を見て、「ご主人様のお肌の調子も良さそうですね」とお褒めの言葉をかけてくださいました。最近、化粧をする男性が増えていると聞いていましたが、その意味がこの時に分かりました。多くの男性は、自分の肌が今以上に綺麗になる瞬間を体験する機会が少ないのですから、化粧に対する意識が低くて当然なのかもしれません。しかし、その機会が与えられるのなら、化粧に対する意識を高める男性は更に増えていくと思います。自分の身体が美しくなることで自信がつくことに、性差は関係ないのです。その後、私は妻の買い物ができたことと、知らなかったことをまさかの場所で体験できたことにより、とても有意義な気持ちでお店を後にしました。
 授業期間が始まり、新年度が本格的にスタートしました。今から皆さんは、「まさか」の場所で様々なことを経験されると思います。聖書の登場人物たちの多くも、「まさか」という場所で神様に出会っています。特にキリストの復活日/イースターの出来事は、その最たるものです。十字架の死の後、埋葬されたイエスの墓を見に行ったマグダラのマリアたちは、墓の中が空っぽになっていることと、天使からの「イエスは復活した」という知らせとに驚きます。その後、彼女たちは本当に復活したイエスと出会った時、イエスから「おはよう」と語られたのです。この「おはよう」は、イエスの復活という「まさか」の出来事が、日常生活の中で起こったことを意味しています。
 この聖書の言葉から、皆さんがこれから過ごされる日々の中に、「まさか」と思う出会いや出来事が隠されていることを覚えて、新年度を歩んでいただければと思います。

2023年4月17日

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