2020/05/22 (FRI)

共生研センター メール・インタビュー(7) 
大野光明・滋賀県立大学人間文化学部 人間関係学科 准教授 

はじめに

このメールインタビューもいよいよ7人目です。センターに資料を寄贈してくださっている方に、と思ってスタートし、センター運営委員にも聞いてみようということになり、さらにセンターを利用してくださっている研究者の方数名にも願いしてみたのでした。

というわけで、センター利用者インタビューの第1号は、滋賀県立大学の大野光明さんです。ほとんど原稿一本分の分量で、たいへん読み応えのあるインタビューになりました。

大野先生は、センターがまだ池袋キャンパスのはじっこにある一戸建ての家で活動していた頃からセンターを利用してくださっています。当時のセンターは狭く、閲覧室が事務室もかねていて、資料を閲覧する人の横でスタッフが来客対応をしているような場面がよくありました。大野先生が最初に調査にいらしたときも、リサーチ・アシスタント(RA)OBが遊びに来ており、同じテーブルで何人かのRAとおしゃべりしていただけでなく、先生に記念写真まで撮影していただいたのでした。

いまはちゃんと閲覧用のスペースができ、そういうことはなくなりましたが・・・

メール・インタビュー 大野光明 滋賀県立大学准教授 ー 研究者はアーカイブズとアーキビストを支えたい

- まず、先生の研究テーマについて教えてください。また、いまいちばん関心を持っていることは何でしょう?

日本の社会運動史、なかでも60年代後半から70年代前半のベトナム反戦運動の歴史について研究をしています。この5年ほど調査をつづけているのは、太平洋を横断するベトナム反戦運動のネットワークについてです。携帯電話もインターネットもない時代ですが、国境を越えた人びとのつながりがつくられていました。

たとえば、共生研センターにも膨大な史料が所蔵されていますが、「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)は世界各国の反戦・平和運動とやりとりをし、国際会議を開催したり、反戦地下新聞などのメディアを交換したり、軍隊から離脱した兵士の脱走ルートをつくりだしました。また、これはあまり知られていないのですが、アメリカの反戦運動団体が東京、沖縄、岩国、横須賀などに事務所を開設して、米兵へのカウンセリング活動、合法的な除隊や軍隊内の反戦・反軍運動の組織化の支援、日本・沖縄の運動との連帯などに取り組んでいました。カリフォルニア州を拠点としていたパシフィック・カウンセリング・サービス(PCS)というグループなのですが、いまはこの運動の歴史について調べています。新型コロナウイルスの感染が拡大するなか、世界各国では排外主義的な動きがあらためて表面化していますが、国境を越えた連帯の系譜を、いまこそ人びとの歴史のなかから、その困難も含めて、考えたいと思っています。

戦争には基地・軍隊が必要ですが、戦争は基地・軍隊だけでは遂行できません。なぜなら、基地・軍隊の正当性に関する人びとの同意や理解が不可欠だからです。人々の同意や理解というのは、国家が戦争が始まってからつくりだすものではありません。戦争が始まる前から、日常のなかでつくられ、深められ、涵養されています。たとえば、いま、新型コロナウイルス感染拡大を「戦争」ととらえ、それに「打ち勝つ」と表現する場面をよく見聞きします。こういうところにも、ある社会現象や問題を戦争の枠組みで理解することを自然化してしまう、軍事主義の裾野が広がっているように思います。

日常のなかに軍事化の作用がはたらいているのであれば、日常のなかにこそ脱軍事化も起こりうるのであって、だからこそ、反戦運動や反基地運動の歴史から学べることはたくさんあると思います。

- 先生が「研究の道に入ろう」と決めたきっかけは何ですか?

なかなか難しい質問なのですが、何か決定的な出来事やきっかけがあったというよりも、徐々に研究の道にふみこんでいったように思います。

ふりかえってみると、中学生くらいの頃から——きっと多くの人がそうなんだと思いますが——「大人」への反発みたいなものが強かったです。通学の電車内で、朝から疲れきったようにみえる「サラリーマン」に対して、こんな人生で楽しいのかと素朴に思っていました。いやな子どもですが・・・。また、環境破壊、戦争や地域紛争、貧困などの問題にも少しずつ関心をもつようになりました。こんな世の中をつくった「大人」は許せないという、感じだったんですね。

そういう思春期をすごすとどうなるかというと、ひかれたレールにのるような人生はいやだし、会社の利益のためにあくせく働くような人間には絶対なりたくない、もっとほかの生き方をしてみたいと考えたわけなんです。いま思い出したのですが、中学から高校生の頃、椎名誠の怪しい探検隊シリーズや野田知佑のエッセイを夢中になって読んでいました。こんな面白い「大人」がいるんだとびっくりしました。沢木耕太郎の『深夜特急』を読んだのも高校時代です。社会の「あたりまえ」が嫌いで、「あたりまえ」ではない本を読むのが好きになった。それは研究の道に進むひとつの背景になっていると思います。

そして、入学した大学では、国際関係学という学問から——なかでも国民国家間関係を前提とするこの学問の成り立ち自体を批判する潮流から——たくさんの刺激を得ることになりました。最も影響を受けたのは国民国家論で知られる西川長夫さんです。国益や国家安全保障という考え方が、たとえば沖縄への基地・軍隊の集中を生み出していることを理解できるようになりました。国益や国家は、私たち(=国民化された人びと)の日常のなかではあたりまえに信じられているものです。でも、それがあたりまえではなく、教えられてこなかった暴力や矛盾もあると知ったとき、学問はすごいと思いました。

そして、本を読んで、この世界を「あたりまえ」とは違う視点から批判的に読み解き、自分の文章で表現することが面白くなっていきました。大学2回生のときに自主ゼミをつくったり、参加していた講読演習の授業で論文集をつくったりしたのを思い出します。大学3年から4年の約1年間(1999年〜2000年)は、交換留学でワシントンDCにあるアメリカン大学ですごしました。このとき、シアトルでのWTO総会への民衆蜂起、それにつづくワシントンDCでのIMF年次総会への巨大な抗議行動があって、後者には私も参加しました。「大人」への反発を抱えて二十歳そこそこになった私は、先進国の国益や巨大な多国籍企業の利益が優先される世界構造へのとてつもない怒りに驚き、興奮したんですね。私個人の「大人」への反発が、実は大きな世界と合流しているということを経験したともいえるかもしれません(そんなことを当時は意識化、言語化できていなかったのですが)。

そういうわけで、大学卒業後の進路を考えたときに、ふつうに働くのではなく、大学院に行って研究したいと思いました。書くこと、伝えることを通じて世界を変えたい、おおげさにいうとそういう気持ちだったと思います。けれど、弟と妹もいるし、親のすねをかじりつづけるわけにはいかないだろう、と。でも、民間企業はいやなわけで、考えられる進路はとても限定されるわけですね。NGOへの就職も考えたけれど、狭き門でうまくいきませんでした。最終的に拾っていただいたのが日本政府のODA事業を担っている公益法人でした。就職した2001年頃というのは、ODAを国益の視点から実施するという考え方がかなりはっきりしてくるときでした。あんなに国家に反発していたのに、そういった国家的な事業に参加することになったんですね。この世の中を生きていくのは大変です・・・。働きながらも研究への思いは変わらず、本を読んだり、文章を書いたり、それを友人や西川先生に送るということをつづけていました。入社1年目には9・11があって、フリーのジャーナリストだった友人といっしょにメールマガジンを立ち上げ、自分の文章を広く社会に発信し始めたのもこの頃です。(このあたりの個人史については「国際関係学から遠く離れて」(『立命館国際研究』31巻5号、2019年)に書く機会がありましたので、そちらもご参照ください。)

- 公益法人でお仕事されていたときのこと、まったく存じませんでした。センターへの寄贈者も所蔵資料の内容も、ODAにはおおむね批判的だと思うので、ほんとうに人生ってどう転ぶかわかりませんね・・・。では、「研究者になろう」と決めてからの道のりはどうだったのでしょう?。

国際協力の仕事を結局10年間つづけました。その5年目の2005年、立命館大学大学院・先端総合学術研究科に入りました。当時は北九州市にある事務所で働いていたのですが、通えるときに休みをとって授業に参加しました。博士予備論文(修士論文に相当)のテーマに選んだのは、ベ平連とジャテックによる脱走兵支援運動の歴史でした。このとき、埼玉大学の共生社会研究センターにあった吉川勇一史料を初めて利用させていただきました。当時はイラク反戦運動が日本でも活発化し、同時に、沖縄では辺野古での米軍新基地建設に反対する座り込みがつづく状況でした。このような社会情勢のなか、社会運動史にアクチュアリティを感じたのだと思います。

博士予備論文を書いたあと、勤務先の上司からエチオピア赴任の内々示をもらったときはかなり悩みました。そろそろ仕事をやめて研究に専念したいと考えていたタイミングだったからです。けれど、エチオピアには行こうと思ってもそう簡単に行けるわけではないですし、ましてやそこに暮らして働く機会などそうありません。アフリカや海外で働くことへの興味のほうが大きく、大学院を休学することを決めました。エチオピアでは約2年半、農業・農村開発関連のプロジェクトなどに関わりました。

10年間の仕事を通じて、とても有意義な経験ができたと思います。特に、何か一つのプロジェクトを動かしていくときに、どうやって人と人をつなげたらよいか、どのようなコミュニケーションや合意形成が大切か、どういう段取りが必要かなどを実地で学べたからです。その経験のなかで、私個人の研究活動をもっと社会的に開いたかたちで実践できないだろうかと思うようになりました。たとえば、運動している人、研究している人、さまざまな人をつなげて、沖縄の基地問題について考える場をオーガナイズできないかなと。現場に身を置いて、活動と研究、過去と現在とのはざまで動いていきたいと思ったんですね。

それで、2009年に東京に戻ってからは「沖縄を踏みにじるな!緊急アクション実行委員会」という運動に参加したり、震災後に移った京都では「スワロウカフェ」「沖縄・辺野古への新基地建設に反対し、普天間基地の撤去を求める京都行動」というグループに参加してきました。路上ティーチインや路上ラジオをやったり、ジン(Zine)を編集・発行したり、沖縄や京都府京丹後市宇川での新たな米軍基地建設問題について集まり、議論し、表現する場をつくってきました。それらの経験はとても有意義で、研究の道に進んでよかったと思っています。

- 研究と運動が、相互にポジティブな影響を与え合っているような感じですね。どう時間をやりくりされているのかも興味がありますが、それはまた別の機会にお聞きするとして、研究には様々な資料を使われると思いますが、いつもどんな史料や素材を用いて研究を組み立てておいででしょうか?


一次史料を調べ、それを読むことが基本ですが、組織的に体系だって史料をきちんと残し、保存できている社会運動というのは少ないですね。忙しく活動するなかで記録を残すには多大な労力がいり、そう簡単なことではないです。運動によっては権力からの弾圧を避けるために、記録をあえて残さないものもあります。こういったことは自分自身が運動に関わるなかでわかるようになりました。

そのため、当事者やその運動を取材していたジャーナリストなどを探し、聞き取り調査をすることがとても大切です。史料には残されていない経験やエピソードを学ぶことができます。また、インタビューに応じてくださった方には手元に資料が残されていないかを必ず確認するようにしています。大切に保管されていた機関紙、ビラ、写真、映像、手紙、手記、旗やステッカー、バッジなどの物といった資料を見せていただくことがあります。活動が行われた場所に行って、その街の風景や匂いを体感することも大切だと思います。インタビューに協力してくださった方といっしょに街を歩くのも、さまざまな発見があってとても面白いです。

また、1960年代から70年代というと、雑誌や新聞などのマスメディア、さらには大小様々なミニコミなどのインディペンデントメディアがとても元気だった時代です。新聞記事、論壇誌、グラフ誌、ミニコミ、当時ヒットしていた映画や音楽、漫画などを参照すると、調査対象の運動についてだけでなく、運動のまわりでどんな出来事があったのか、人びとの生活スタイルはどのようなものだったのかを知ることができます。それらを抜きに、自分自身が生まれる前の時代の運動を理解することはできないと感じています。

このように書かれたものをベースにしながら、写真、映像、そして当事者の語りを集め、それを自らの手で編集していくような形で論文をまとめてきました。


- センター所蔵資料、あるいは広く社会運動の記録との出会いや、そうした資料を用いたこれまでのお仕事などについて、教えてください。

センターの所蔵資料がなかったら、私のこれまでの研究は成立しなかったと思います。センターのみなさんに感謝しています。

研究成果の一つに、2014年に刊行した単著『沖縄闘争の時代1960/70—分断を乗り越える思想と実践』(人文書院)があります。1972年5月15日にそれまで米国統治下にあった沖縄は日本に「復帰」しました。沖縄の人びとによる日本復帰運動については、それへの反省と批判としての反復帰論もふくめ、注目されているのですが、この本では日本「本土」の人びとが「沖縄問題」をめぐってどのような取り組みをしたのか、どんなことを考えていたのかに焦点をあてました。センター所蔵のベ平連関係の資料を用いました。

また、さきほど、アメリカのベトナム反戦運動のPCSについて触れました。PCSは1970年に東京のベ平連事務所内にアジアで初めての事務所を設置して、その後、沖縄や岩国、横須賀などにも拠点を広げました。このことを調べていたところ、センターのアーキビストの平野泉さんから、カリフォルニア大学バークレー校のバンクロフト図書館PCSのアーカイブがあることを教えられました。そこで2016年からバークレーやサンフランシスコでのアーカイブ調査とPCSの元活動家らへの聞き取り調査をしています。その一つの成果は「太平洋を越えるベトナム反戦運動の軍隊『解体』の経験史——パシフィック・カウンセリング・サーヴィスによる沖縄での運動を事例に」(『立命館平和研究』20号、2019年)にまとめましたが、これはまだ膨大な歴史の一部を扱ったにすぎず、これからさらに論文を書き、一冊の本にできたらと思っています。

そして、センターの所蔵史料を調査してきた人たちと共同で、地域ベ平連研究会を立ち上げ、つづけています。地域ベ平連研究会についてはセンターの『PRISM』10号(2017年)をご参照ください。


- 地域ベ平連研究会、前回の市橋先生もお仲間で、こういう研究者ネットワークとつながることで、センターもいろいろ学ばせていただいております。では次に、センター所蔵資料に限らず、アーカイブズを大学での教育に使ったご経験があれば、そのご経験について教えてください(使い方、学生さんの反応など)。また、「今後使ってみたい」というご希望があれば、どんな風に使おうとお考えか、お伺いしたいのですが。

勤務先の大学で担当している「国際社会論」、「社会学概論」、「社会運動論」などの授業では、軍事基地、貧困、差別、原発などのさまざまな社会問題を扱っています。学生たちと話していて気づくのは、学生たちはすでにさまざまな「あたりまえ」を刷りこまれていることです。基地問題を例にすれば、中国や朝鮮民主主義人民共和国は深刻な脅威であって、もしも米軍基地が沖縄から撤去されたら攻めこまれる、といった具合です。反対運動をしている人たちは日当をもらっているというような、ネット右翼が垂れ流している情報をそのまま内面化している場合もあります。そういった学生に、なぜ沖縄の人たちは基地・軍隊に反対するのか、どのような歴史経験に基づく拒否なのかを理解してもらうために、歴史的な資料や当事者の声を提示することが重要です。「あたりまえ」を揺さぶるために運動史料は大変貴重で、効果的であると感じています。

また、この2月に沖縄県立芸術大学で大学院生への集中講義を行いました。そこで東松照明について博士論文を書いている院生と出会いました。1969年以降、沖縄を撮り続けた東松の写真を、当時の政治的・社会的・経済的な文脈とつなげて考えることを目的に、沖縄県公文書館や沖縄県立図書館、コザXミクストピア研究室などを訪れ、所蔵資料を共に読み、コザの「黒人街」と呼ばれた照屋を歩くフィールドワークも行いました。運動史研究だけでなく、文化研究や思想研究にとっても、アーカイブズ史料が重要であることを再認識できました。

- 現在、新型コロナウィルス感染拡大の影響で、様々な機関が所蔵する資料へのアクセスが制限されています。センターも閉館を余儀なくされていますが、そうした状況で、今後をどう考えていくべきか、先生のお考えをお聞かせください。また、一研究者としての立場から、「こんなサービスがあれば助かる」ということがあれば、教えてください。

まず、アーカイブスを維持し、運営している方々の生命と健康を守ることが何よりも最優先だと思います。研究者はアーカイブスに支えられてきました。こういった状況のなかでは、逆に、研究者はアーカイブズとアーキビストを支えたい。このセンターのように大学内機関であればアーカイブスの存続が困難となる事態にはなっていないかもしれませんが、民間のアーカイブや個人で運営されているアーカイブであれば深刻な影響を受けているかもしれません。

『社会運動史研究』(新曜社)というメディアの編集に参加しています。毎号、アーカイブおよびアーキビストへの取材を行っているのですが、この4月に刊行した2号ではセンターの平野さんにインタビューをさせていただきました。各地のアーカイブの地道な努力とその魅力を伝えることも、研究者にできることの一つだと思います。逆に、アーカイブ機関の側から、いつもとは違った観点からアーカイブズの紹介と発信をしていただけると、こういう状況でもアーカイブズの必要性や意味を共有できると思います。

また、史料(オーラルヒストリーを含む)の電子化のニーズはますます高まるように思います。けれども、史料を整理し、閲覧可能な状態にするだけでも大変な作業なのですから、電子化はさらなる労力を必要とします。研究者や院生、学生も協力しながら、史料の電子化を進められるのか、また、どうすればそれは可能か(たとえば著作権処理や個人情報の保護等)を一つ一つ検討することが必要だと思います。また、研究者が個人で集め、手元に保管している史料をどのようにパブリックな財産として公開できるのかも重い課題です。

- センターの場合、電子化への壁はやはり資源と著作権なのですが、それでもやはり、こういう状況になってみると、もっと電子化に取り組んでくればよかったと思います。ぜひ今後も、お知恵を拝借あせてください。それでは最後に、現在の社会状況、そしてコロナ以降の社会について、何かお考えがあれば教えてください。

新しいウイルスの感染拡大は自然現象のようにもみえますが、資本主義というシステムによってつくりだされていることをまずはおさえるべきです。ネオリベラリズムのもとで進んできた医療システムの崩壊はこの事態の深刻な原因となっています。資本蓄積のために都市や労働がどのようにデザインされてきたのかも考えたい点です。たとえば、休みたいときに「休みたい」とも言えないような職場環境、満員電車による通勤・通学がなぜこんなにも長年放置されてきたのだろうかと疑問に思った人も多いのではないでしょうか。市井の人びとの声を聞かない中央集権的な政治・行政の仕組みも、感染拡大に拍車をかけ、私たちの生命を危険にさらしています。ネオリベラリズムのもと、政治も行政も、そして大学の仕組み自体も、トップダウン型の「リーダーシップ」へと「改革」されてきたわけです。今回の危機は、私たち自身がその歯車となっている資本主義や国家の本質がさらけだされているのであって、私たちはふたたび「日常」にただ舞い戻るのではなくて、これを機会に別の社会、別の世界を想像し、つくりだすことを試みたいです。

その変化の兆候を私たちはすでに見聞きしているはずです。マスク2枚や10万円の給付金への批判が高まるなか、ベーシックインカムはこれまで以上に自然なものにみえるかもしれません。自宅勤務が広がり、自分たちがこれまでどれほどのどうでもよい仕事をしていたのか、逆に、私たちの生命維持や充実した生活のために本当に必要な労働(エッセンシャルワーク)は何なのかについて考える機会になっています。安倍政権をめぐって「やってる」感を出しているだけという批判がありますが、大学や会社のなかにも「やってる」感を出すためだけの会議や手続き、書類は山のようにありませんか? 

生産、都市交通、人の移動という資本主義の基礎が部分的であれ止まることで、世界の二酸化炭素排出量は減り、各地で澄んだ青空が広がっていると報道されています。これまで気候変動には危機感をもちながらも、そうはいっても二酸化炭素を減らすなんて非現実的だし、異常気象は止められないと諦めていた人たちは、たった1〜2か月の劇的な地球の変化から別の世界を垣間見ています。私たちには現実を変える力があることを実感できるはずです。深刻な事態がつづくなか、こういった好機も目の前に広がっているのだととらえれば、実は社会運動の歴史から学びなおせることは多いのです。なぜなら、既存のシステムの問題点を指摘し、別の世界を構想しつづけてきたのが社会運動だからです。

社会運動の歴史を残してきたアーカイブズは、ますます私たちの未来にとって必要不可欠なものとなっていくでしょう。

(以上、メールへの回答(2020年5月3日)を一部編集して掲載)

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