2020/05/01 (FRI)
共生研センター メール・インタビュー(3)
立教大学共生社会研究センター 和田 悠 運営委員
はじめに
すでに、4月29日あるいはその前の週末から連休に突入されていた方もおいでかと思います。
とりあえず暦どおりに在宅勤務をしているのですが、5月2日からの連休で、いよいよ曜日の感覚をなくしてしまいそうな予感がいたします。みなさまも、よい連休をお過ごしください。
さて、共生研メール・インタビューは、前回の高木恒一センター長に続き、今年度着任されたばかりの和田悠運営委員(立教大学文学部教授)のお話をお届けいたします!
とりあえず暦どおりに在宅勤務をしているのですが、5月2日からの連休で、いよいよ曜日の感覚をなくしてしまいそうな予感がいたします。みなさまも、よい連休をお過ごしください。
さて、共生研メール・インタビューは、前回の高木恒一センター長に続き、今年度着任されたばかりの和田悠運営委員(立教大学文学部教授)のお話をお届けいたします!
メール・インタビュー 和田 悠・センター運営委員 ー 社会的弱者を置き去りにする社会と決別しなければ、未来はない
- まず、先生の研究テーマについて教えてください。また、いまいちばん関心を持っていることは何でしょう?
戦後日本を考える上で逸することのできない松田道雄(1908〜1998年)という人物を研究してきました。『私は赤ちゃん』『育児の百科』といった育児書を著した小児科医であり、様々なメディアで社会の問題を平易な言葉で論じ、戦後の民主主義の価値を説いた知識人・文化人です。
いまの政治社会状況を見ると、大袈裟ではなく気が狂いそうになる時があります。しかし、この状況を作り出してきた政治があり、政治文化があるわけで、いま改めてこの状況と向き合わないといけないと思っています。いまの私は、こういう状況を作り出してきた学校教育を反省し、主権者教育の可能性を追求してみたいと思っています。子どものうちから民主主義を大切にする社会や教育を実現することに一番の関心を持っていると言えるかな。
- 先生が「研究の道に入ろう」と決めたきっかけは何ですか?
研究したいテーマがあり、このテーマを解決しなければ死んでも死に切れないから、と言えるとかっこいいのでしょうが、全くそういうものではなく、就職氷河期ということも手伝って、なんとなく勉強を続けようと、ところてん式に押し流されるように大学院にきたというのが正直なところです。それに研究者になりたかったというよりは、お恥ずかしいのですが、丸山眞男とか藤田省三に憧れて、知識人になりたかったというのが本当のところで、知識人になるのに大学教員を目指してしまったあたりが私の世間知らずだったところだろうと思います。
しかし、全く「踏ん切り」がなかったわけではない。大学院の修士課程時代に歴史学者の大門正克さんの演習を履修し、大門さんの人格と学問に魅了されました。大門さんと出会っていなかったら研究者になりたいと思えなかったかもしれません。「先生が研究の道に入ろう、と決めたきっかけ」を一言で言えば、大門史学との出会いです。
- 横浜国立大学の大門先生は、センターともご縁があります。センターでリサーチ・アシスタントをしていた高橋賢吾さん(当時は史学専攻の院生)が、センターに先生を連れてきてくれたのがきっかけでした。その高橋さんも今は故郷で教師をしています。出会いって大切ですね……それはさておき、先生が「研究者になる」と決めてからの道のりはどうだったのでしょう?。
答えはズレますが、2010年4月から日本学術振興会特別研究員に採用されました。2回目の応募で、年齢的に最後の年でした。自分の研究が公的に認められたという喜びがあり、自分もちゃんとした研究者になれるかもしれないと思いました。また、特別研究員になった以上、業績をあげないといけないということで、学会発表や研究論文の執筆をがんばったと思います。性格的に見栄っ張りなんです。
2011年は東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の年で、私も地元で脱原発運動に参加し、研究対象であった市民運動を実際に担う側にまわりました。市民運動に参加することで研究対象との関わり方や史料の読み方が深まったと思います。
今では市民運動家としての一面が私にはありますが、研究者と市民運動家としての私は決して矛盾するものではない。しかし、市民運動への取り組みは労力を要します。研究と市民運動の両立は悩みの種ですが、この問題に鶴見良行も頭を抱えていたことを知り、その事実に励まされています。
- 研究には様々な資料を使われると思いますが、いつもどんな資料や素材を用いて研究を組み立てておいででしょうか?
私の場合には、研究の対象となっている事柄に関わっている人たちに実際に会いに行き、その人の持っている資料や素材をお借りすることが多いです。いきおい実践的な資料や素材を扱うことになります。数字が苦手なので統計的なデータを扱うことや、行政文書を検討することには積極的ではありませんでしたが、それは私の弱点なので、今後克服していきたいと思っています。
- なんと、前回インタビューした高木センター長が主として行政資料を使われていたのとは反対なのですね。運営委員会の多様性がこんなところにも表れています…ではいよいよ、センターとの関わりについて少しお話しいただけますか?
一番最初にセンターを訪れたのは、埼玉大学が単独でセンターを運営していた時代です。柳沢遊さん(慶應義塾大学)から「あなたに紹介しておきたい施設があるので」と誘われて、二人で出かけました。ですがそれっきりでした。
2013年に立教大学に着任します。もちろん立教大学に共生社会研究センターが移ってきているのは知っていましたが、すぐに足を運んだわけではありませんでした。私は社会文化学会という市民に開かれた小さな学会の運営委員をしていますが、社会文化学会の大会で「市民運動」をテーマにするとなったときに、社会文化学会の会員で、共生社会研究センター所蔵の「練馬母親連絡会」の資料を使って仕事をしている山嵜雅子さんからセンターの平野泉さんを紹介されたのが最初の具体的な接点だったと思います。
- センター所蔵資料、あるいは広く社会運動の記録との出会いや、そうした資料を用いたこれまでのお仕事などについて、教えていただけますか?
松田道雄が関わった1960年代の大阪府枚方市香里団地の保育所づくり運動について、香里ヶ丘文化会議という市民運動が発行した『香里めざまし新聞』を発掘し、それを資料に研究を進めてきました。松田が書いた論稿で『香里めざまし新聞』の存在は知っていたのですが、どうやってアクセスしたらいいのかわからないでいました。その当惑を、フェリス女学院大学の教員で、社会教育が専門の井上恵美子さんに呟くと、井上さんが枚方市在住の由里洋子さんに所在確認の連絡をしてくださいました。由里さんは社会教育の世界では有名な実践家。社会教育の行政職ではなく、あくまでも一市民として枚方の地域民主主義を実現する学習教育活動を展開した稀有な存在でした。その由里さんが地域の活動家のネットワークをたどって、『香里めざまし新聞』の現物を保管していた方(奈良県在住)を探り当ててくださり、その資料にアクセスすることができました。私は見つかるはずないと決め込んでいたので本当に驚きました。『香里めざまし新聞』は香里ヶ丘文化会議のOBOGの手で2017年に復刻版が出されます。高度成長期の団地で隆盛した市民運動を考える基本史料となるもので、その復刻の最初のきっかけを作れたことは小さな誇りです。
法学部政治学科の出身である私は、知識人の説く「民主主義」の言説や「市民」論に感銘を受けていたものの、草の根のレベルでの民主主義の取り組みや学習については全くのノーマークでした。社会教育という領域を認識すらできていなかった。市民運動に取り組む以前のことでしたし、「社会教育」自体が新自由主義の時代のなかで収縮しており、人生のなかで社会教育に出会うこともなかったのも大きかったと思います。
先に私は、「研究の対象となっている事柄に関わっている人たちに実際に会いに行き、その人の持っている資料や素材をお借りすることが多い」と言いましたが、このことは裏を返して言えば、その人たちとの関係が微妙になると、研究論文としての公表が難しくなるという問題も抱え込むことにもなります。学会で報告はしたものの、原稿化に至らない仕事もあります。
- 人と関わりながら行う研究ならではの難しさですね。人との関わりという点で言えば、学生との関わりはどうでしょうか。センター所蔵資料に限らず、アーカイブズ資料の教育への活用について、お聞かせください。
2017年度の教育学科の入門演習では「日本現代史」をテーマに、センター所蔵資料を中心に歴史のなかの一次資料を使って実際に現代史を叙述してみる授業をしました。この授業については、「一次史料と格闘し、ともにあるべき現代を構想する」加藤公明・楳澤和夫・若杉温『考える歴史の授業(下)ー近現代の日本と世界の歴史を考えあう』(地歴社、2019年)で報告しています。
センター所蔵資料を社会科教師にも積極的に活用してもらいたいです。小学校から高校の現場教員とともに、現代史の新しい授業づくりに取り組みたいと思っています。センターを介した現場の社会科教師との連携は今後の課題にしたいです。
- 現在、新型コロナウィルス感染拡大の影響で、様々な機関が所蔵する資料へのアクセスが制限されています。センターも閉館を余儀なくされていますが、そうした状況で、今後をどう考えていくべきか、まずはセンター運営委員としてのお考えをお聞かせください。また、一研究者としての立場から、「こんなサービスがあれば助かる」ということがあれば、教えてください。
閉館中にやれることとして、資料を提供された方へのインタビューの実施が始まりましたが、いい企画だと思いました。センターの宣伝にもなると思います。多くの人に共生社会研究センターを利用してほしいという思いもありつつ、スタッフ配置や閲覧室の広さを考えると、どこまで宣伝したらいいのか、躊躇う気持ちがないと言ったら嘘になります。
ついで言えば、新座キャンパスの学生や教員がセンターをどう見ているのかも気になるところです。全カリの授業を新座でも展開する必要はないか。新座キャンパスでの資料閲覧の可能性も追求する必要はないか。思いつきですが。
- 確かに、センターの現在のサービスは池袋に偏っていますから、考えていかねばならない点ですね。ありがとうございます。では最後に、現在の社会状況、そしてコロナ以降の社会について、何かお考えがあれば教えていただけないでしょうか?
日本のコロナ対策は果たして正しかったのか。しっかりと検証する必要があると思います。この間、保健所や病院の数を減らしてきた政策のツケが回っているのではないか。韓国のコロナ対策が注目されています。政治への信頼感が全く違うという彼我の差を感じますが、政府レベルで積極的な連携連絡が見られないのも問題です。外交の失敗のツケを払わされている感じを持ちます。
センター所蔵ではないのですが、アーカイブズ資料を使った演習を今年度の春学期に予定していたのですが、オンライン授業には馴染まないと考え、内容の変更を考えています。改めて「紙」の史料の持つ意味を感じました。
大学ではオンライン授業が始まりますが、授業を受ける学生の環境の格差を再確認しました。卒論ゼミに在籍しながら卒論を提出できなかった学生は家でパソコンを持っていなかったことを思い出しました。
オンライン授業はあくまでも緊急対応であることも確認しておきたいです。これが「標準」になっていくと、授業内容の画一化は進むだろうし、物別れに終わった大学の再編・統合の類の話はぶり返すのではないかと心配しています。
中小企業が淘汰されることがないように、コロナ後の社会が活力あるものになるために、今回の件で影響を受ける事業者への手厚い補償がないといけません。ますます私たちが政治にしっかりと参加し、社会の民主主義を強めていくことが大事。社会的弱者を置き去りにする社会と決別しないと、未来はないのではないかと思います。そうした問題意識を共生社会研究センターの資料たちは私たちに伝えてくれるのだとすれば、センターの未来もあるはずです。
(以上、メールへの回答(2020年4月26日)を一部編集して掲載)
戦後日本を考える上で逸することのできない松田道雄(1908〜1998年)という人物を研究してきました。『私は赤ちゃん』『育児の百科』といった育児書を著した小児科医であり、様々なメディアで社会の問題を平易な言葉で論じ、戦後の民主主義の価値を説いた知識人・文化人です。
いまの政治社会状況を見ると、大袈裟ではなく気が狂いそうになる時があります。しかし、この状況を作り出してきた政治があり、政治文化があるわけで、いま改めてこの状況と向き合わないといけないと思っています。いまの私は、こういう状況を作り出してきた学校教育を反省し、主権者教育の可能性を追求してみたいと思っています。子どものうちから民主主義を大切にする社会や教育を実現することに一番の関心を持っていると言えるかな。
- 先生が「研究の道に入ろう」と決めたきっかけは何ですか?
研究したいテーマがあり、このテーマを解決しなければ死んでも死に切れないから、と言えるとかっこいいのでしょうが、全くそういうものではなく、就職氷河期ということも手伝って、なんとなく勉強を続けようと、ところてん式に押し流されるように大学院にきたというのが正直なところです。それに研究者になりたかったというよりは、お恥ずかしいのですが、丸山眞男とか藤田省三に憧れて、知識人になりたかったというのが本当のところで、知識人になるのに大学教員を目指してしまったあたりが私の世間知らずだったところだろうと思います。
しかし、全く「踏ん切り」がなかったわけではない。大学院の修士課程時代に歴史学者の大門正克さんの演習を履修し、大門さんの人格と学問に魅了されました。大門さんと出会っていなかったら研究者になりたいと思えなかったかもしれません。「先生が研究の道に入ろう、と決めたきっかけ」を一言で言えば、大門史学との出会いです。
- 横浜国立大学の大門先生は、センターともご縁があります。センターでリサーチ・アシスタントをしていた高橋賢吾さん(当時は史学専攻の院生)が、センターに先生を連れてきてくれたのがきっかけでした。その高橋さんも今は故郷で教師をしています。出会いって大切ですね……それはさておき、先生が「研究者になる」と決めてからの道のりはどうだったのでしょう?。
答えはズレますが、2010年4月から日本学術振興会特別研究員に採用されました。2回目の応募で、年齢的に最後の年でした。自分の研究が公的に認められたという喜びがあり、自分もちゃんとした研究者になれるかもしれないと思いました。また、特別研究員になった以上、業績をあげないといけないということで、学会発表や研究論文の執筆をがんばったと思います。性格的に見栄っ張りなんです。
2011年は東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の年で、私も地元で脱原発運動に参加し、研究対象であった市民運動を実際に担う側にまわりました。市民運動に参加することで研究対象との関わり方や史料の読み方が深まったと思います。
今では市民運動家としての一面が私にはありますが、研究者と市民運動家としての私は決して矛盾するものではない。しかし、市民運動への取り組みは労力を要します。研究と市民運動の両立は悩みの種ですが、この問題に鶴見良行も頭を抱えていたことを知り、その事実に励まされています。
- 研究には様々な資料を使われると思いますが、いつもどんな資料や素材を用いて研究を組み立てておいででしょうか?
私の場合には、研究の対象となっている事柄に関わっている人たちに実際に会いに行き、その人の持っている資料や素材をお借りすることが多いです。いきおい実践的な資料や素材を扱うことになります。数字が苦手なので統計的なデータを扱うことや、行政文書を検討することには積極的ではありませんでしたが、それは私の弱点なので、今後克服していきたいと思っています。
- なんと、前回インタビューした高木センター長が主として行政資料を使われていたのとは反対なのですね。運営委員会の多様性がこんなところにも表れています…ではいよいよ、センターとの関わりについて少しお話しいただけますか?
一番最初にセンターを訪れたのは、埼玉大学が単独でセンターを運営していた時代です。柳沢遊さん(慶應義塾大学)から「あなたに紹介しておきたい施設があるので」と誘われて、二人で出かけました。ですがそれっきりでした。
2013年に立教大学に着任します。もちろん立教大学に共生社会研究センターが移ってきているのは知っていましたが、すぐに足を運んだわけではありませんでした。私は社会文化学会という市民に開かれた小さな学会の運営委員をしていますが、社会文化学会の大会で「市民運動」をテーマにするとなったときに、社会文化学会の会員で、共生社会研究センター所蔵の「練馬母親連絡会」の資料を使って仕事をしている山嵜雅子さんからセンターの平野泉さんを紹介されたのが最初の具体的な接点だったと思います。
- センター所蔵資料、あるいは広く社会運動の記録との出会いや、そうした資料を用いたこれまでのお仕事などについて、教えていただけますか?
松田道雄が関わった1960年代の大阪府枚方市香里団地の保育所づくり運動について、香里ヶ丘文化会議という市民運動が発行した『香里めざまし新聞』を発掘し、それを資料に研究を進めてきました。松田が書いた論稿で『香里めざまし新聞』の存在は知っていたのですが、どうやってアクセスしたらいいのかわからないでいました。その当惑を、フェリス女学院大学の教員で、社会教育が専門の井上恵美子さんに呟くと、井上さんが枚方市在住の由里洋子さんに所在確認の連絡をしてくださいました。由里さんは社会教育の世界では有名な実践家。社会教育の行政職ではなく、あくまでも一市民として枚方の地域民主主義を実現する学習教育活動を展開した稀有な存在でした。その由里さんが地域の活動家のネットワークをたどって、『香里めざまし新聞』の現物を保管していた方(奈良県在住)を探り当ててくださり、その資料にアクセスすることができました。私は見つかるはずないと決め込んでいたので本当に驚きました。『香里めざまし新聞』は香里ヶ丘文化会議のOBOGの手で2017年に復刻版が出されます。高度成長期の団地で隆盛した市民運動を考える基本史料となるもので、その復刻の最初のきっかけを作れたことは小さな誇りです。
法学部政治学科の出身である私は、知識人の説く「民主主義」の言説や「市民」論に感銘を受けていたものの、草の根のレベルでの民主主義の取り組みや学習については全くのノーマークでした。社会教育という領域を認識すらできていなかった。市民運動に取り組む以前のことでしたし、「社会教育」自体が新自由主義の時代のなかで収縮しており、人生のなかで社会教育に出会うこともなかったのも大きかったと思います。
先に私は、「研究の対象となっている事柄に関わっている人たちに実際に会いに行き、その人の持っている資料や素材をお借りすることが多い」と言いましたが、このことは裏を返して言えば、その人たちとの関係が微妙になると、研究論文としての公表が難しくなるという問題も抱え込むことにもなります。学会で報告はしたものの、原稿化に至らない仕事もあります。
- 人と関わりながら行う研究ならではの難しさですね。人との関わりという点で言えば、学生との関わりはどうでしょうか。センター所蔵資料に限らず、アーカイブズ資料の教育への活用について、お聞かせください。
2017年度の教育学科の入門演習では「日本現代史」をテーマに、センター所蔵資料を中心に歴史のなかの一次資料を使って実際に現代史を叙述してみる授業をしました。この授業については、「一次史料と格闘し、ともにあるべき現代を構想する」加藤公明・楳澤和夫・若杉温『考える歴史の授業(下)ー近現代の日本と世界の歴史を考えあう』(地歴社、2019年)で報告しています。
センター所蔵資料を社会科教師にも積極的に活用してもらいたいです。小学校から高校の現場教員とともに、現代史の新しい授業づくりに取り組みたいと思っています。センターを介した現場の社会科教師との連携は今後の課題にしたいです。
- 現在、新型コロナウィルス感染拡大の影響で、様々な機関が所蔵する資料へのアクセスが制限されています。センターも閉館を余儀なくされていますが、そうした状況で、今後をどう考えていくべきか、まずはセンター運営委員としてのお考えをお聞かせください。また、一研究者としての立場から、「こんなサービスがあれば助かる」ということがあれば、教えてください。
閉館中にやれることとして、資料を提供された方へのインタビューの実施が始まりましたが、いい企画だと思いました。センターの宣伝にもなると思います。多くの人に共生社会研究センターを利用してほしいという思いもありつつ、スタッフ配置や閲覧室の広さを考えると、どこまで宣伝したらいいのか、躊躇う気持ちがないと言ったら嘘になります。
ついで言えば、新座キャンパスの学生や教員がセンターをどう見ているのかも気になるところです。全カリの授業を新座でも展開する必要はないか。新座キャンパスでの資料閲覧の可能性も追求する必要はないか。思いつきですが。
- 確かに、センターの現在のサービスは池袋に偏っていますから、考えていかねばならない点ですね。ありがとうございます。では最後に、現在の社会状況、そしてコロナ以降の社会について、何かお考えがあれば教えていただけないでしょうか?
日本のコロナ対策は果たして正しかったのか。しっかりと検証する必要があると思います。この間、保健所や病院の数を減らしてきた政策のツケが回っているのではないか。韓国のコロナ対策が注目されています。政治への信頼感が全く違うという彼我の差を感じますが、政府レベルで積極的な連携連絡が見られないのも問題です。外交の失敗のツケを払わされている感じを持ちます。
センター所蔵ではないのですが、アーカイブズ資料を使った演習を今年度の春学期に予定していたのですが、オンライン授業には馴染まないと考え、内容の変更を考えています。改めて「紙」の史料の持つ意味を感じました。
大学ではオンライン授業が始まりますが、授業を受ける学生の環境の格差を再確認しました。卒論ゼミに在籍しながら卒論を提出できなかった学生は家でパソコンを持っていなかったことを思い出しました。
オンライン授業はあくまでも緊急対応であることも確認しておきたいです。これが「標準」になっていくと、授業内容の画一化は進むだろうし、物別れに終わった大学の再編・統合の類の話はぶり返すのではないかと心配しています。
中小企業が淘汰されることがないように、コロナ後の社会が活力あるものになるために、今回の件で影響を受ける事業者への手厚い補償がないといけません。ますます私たちが政治にしっかりと参加し、社会の民主主義を強めていくことが大事。社会的弱者を置き去りにする社会と決別しないと、未来はないのではないかと思います。そうした問題意識を共生社会研究センターの資料たちは私たちに伝えてくれるのだとすれば、センターの未来もあるはずです。
(以上、メールへの回答(2020年4月26日)を一部編集して掲載)
研究についてのその他の記事
-
2020/10/22 (THU)
オンライン・ワークショップ 「『オープンでフリー』の自由と不自由—みんなで使えばこわくない?」(2020年10月3日)を開催しました