2020/02/28 (FRI)

【資料紹介】「埼玉ベ平連」資料の概要と整理① 「埼玉ベ平連」って何ですか?

立教大学共生社会研究センター ボランティアスタッフ 小野田美都江

みなさま、こんにちは。ボランティアスタッフの小野田です。一昨年から埼玉ベ平連の資料整理業務に取り組んできました。

整理を始めることになった時、私にとって埼玉ベ平連という名称は初耳で、「埼玉に保管されていたベ平連資料かな」と思ったほど疎い状態でした。

資料を整理する糸口を得るために、まずは埼玉ベ平連について調べてみることにしました。ご存知の方も多いと思いますが、「ベ平連」とは1965年から活動を開始した「ベトナムに平和を!市民連合」(発足時は「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」)の略称です。さらに、ベ平連運動の最盛期には各地域や大学等において「多い時で全国に350ほどの『○○ベ平連』と称する団体が立ち上がった」とベ平連事務局長の吉川勇一は語っています。ベトナム戦争反対をテーマに運動を展開して、独自に「ベ平連」を名乗った団体を地域ベ平連と称し、埼玉ベ平連もその1つでした。

1967年6月8日、川口ベ平連発足準備会の主催で「討論集会“ベトナムを考える”」(川口並木公民館)が開催され、小沢遼子を代表に選出して埼玉ベ平連が発足します。名称は「川口ベ平連」の予定でしたが、埼玉県内の浦和、蕨などからも参加者がいたため、広く「埼玉」とすることになりました。機関誌は『埼玉べ平連ニュース』です。

埼玉ベ平連の特徴のひとつとして、活動の担い手が若者であったことを挙げることができます。「高校生、浪人、中学生、大学生など、平均年齢17歳くらい」(ベ平連 1974a:311)だったそうです。「発足当初は主婦、労働者やセクトの大人も参加していました。しかし、当時埼玉国体に反対する運動をやっていた高校生グループが参加するようになってから、あっという間に若返ってしまった」(ベ平連 1974b:93)とのことでした。

その結果、「若者中心ゆえにセクトの争いに巻き込まれず、難しい情勢分析や総括を言い出す知識人もいないことが、デモやビラまきなど、できそうなことを片っ端からやってみる」(ベ平連 1974a:597)という多岐にわたる運動につながっていきます。1970年11月には拠点としてスナック「シタデル」がオープンします。開店時のビラに書かれた「この空間はあなたが決める」というコピーこそ、埼玉ベ平連根底に流れる思想であり、若者の心を惹きつけてきたのではないかと感じます。Go Goパーティー、レコードコンサート、演劇のようなイベントから学習会や読書会まで開催でき、コーヒー1杯100円で1日中ねばれて、おそらく、いつ行ってもだれか仲間がいるという居心地の良いたまり場だったのではないかと想像します。

1970年 スナック「シタデル」開店

埼玉ベ平連は、1970年に拠点とするスナック「シタデル」を開店し、詩集やミニコミの置き場(売り場)、映画会の場など自由に利用できるたまり場を得ました。

「シタデル」ができる前から、若者たちは運動に大人を巻き込む策を話し合っていました。地域に根差す運動にするには、年齢層で分断された運動ではなく、大人の参加も必要だという判断でした。そこから代表の小沢遼子を市議会議員に擁立する話になります。なぜ小沢遼子だったかと言えば、メンバーの中で被選挙権を持つのが小沢だけだったということでした。この話し合いのさなかに「シタデル」は原因不明の火事で焼失します(1971年2月25日)。告示が迫った時期だったため、もう、選挙どころではないという空気も漂いましたが、しかし一方で、逆境が一層の団結を導き、27日には「再建宣言」がなされ、小沢は浦和市議選挙に出馬することになります。素人が繰り広げた型破りの選挙運動でしたが、みごとトップ当選を果たし、地方自治の議会にメンバーを送り込むことになります。この地方議会への進出は、埼玉ベ平連の第2の特徴といえます。世界的な反戦平和運動と地方自治とがいかなるシンクロを果たしたのか、また、相いれない面があったのか。そして、どのように作用し、どう折り合いをつけていったのかは非常に興味深いところです。

以上のような経緯から埼玉ベ平連の資料は、反戦平和運動などのデモのビラだけでなく、ロックコンサート、共同保育所「子どもシタデル」のミニコミ、市民新聞、朝霞自衛隊観閲式反対デモなど、広範囲の活動分野を反映したものになっています。さらに、選挙運動のビラ等が混在しています。表1は埼玉ベ平連の主な活動に絞って作成した年表です。1975年に首都サイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終結した後、埼玉ベ平連は「浦和市民連合」と名称を変更して活動を継続しています。浦和市民連合への改称については、『浦和市民新聞』19号の中で「ベトナム戦争が終わったから名前を変えるのではない。私たちの運動はベ平連のワクを飛び越えてしまった」「すでに70年代、浦和の街を変えることを視野に入れ始めた」と書かれています。そして、同じ紙面で編集・発行人の東一邦は「ベ平連のワク、ベ平連的、とは何か」と自問しています。

表1 埼玉ベ平連年表

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