研究・研究者紹介/書評平和・コミュニティ研究機構

2024.3.29 自著紹介:田中治彦『新SDGs論:現状・歴史そして未来をとらえる』(上智大学名誉教授 田中治彦)
2030年を目標年としたSDGsは2024年から後半戦に入る。SDGsの周知度が9割に達した今、SDGsの啓発の時代は終わり、これからはSDGsを具体的に推進する時期に当たる。そのためには、17目標程度の表層的な理解ではなく、それぞれの課題の歴史的な意義と経緯に立ち返って、より深い理解に基づいて行動に移していくことが求められる・・・
2024.2.14 書評:原真人『アベノミクスは何を殺したのか:日本の知性 13 人との闘論』2023年、朝日新聞出版 (評者:立教大学経済学部教授 郭洋春)
この本のタイトルを見た読者はかなり衝撃を受けるだろう。それほどアベノミクスには、大きな問題があったと言いたかったのだろう。著者の原真人は朝日新聞経済担当編集委員である。13人の経済専門家との議論をこの1冊にまとめた。

著者は、同書を書いた理由として「20世紀に世界最速で経済大国に駆け上がった日本が、21世紀に入るとゆっくりと階段を駆け下りているにもかかわらず、そのための国家としての新しい生き方を考え、準備し、態勢を整えるべき政治や政策が不十分であったこと。その大事な時期に、再び経済大国の高みに無理やり駆け上がろうとして逆噴射をしてしまったのがアベノミクスであった。問題は、安倍政治が破壊したものは財政や金融政策だけではなく、政治から節度と責任感を追いやり、官僚組織や中央銀行の矜持を踏みにじり、日本の国家システムの根幹のかなりの部分を壊してしまった。・・・政府の借金の大膨張も辞さない未来に対する無責任さ、批判的なメディアを排除し、記者会見で説明責任を果たそうとしない民主主義への不誠実さ、第2次安倍政権が全体として醸し出していた強権的な空気」(原)こそが、アベノミクスの正体だとしている・・・
2022.12.15 書評:『金起林作品集Ⅰ 新しい歌』青柳優子編訳(南北社)—新しい詩と国を熱望した金起林の全貌が分かる貴重な作品集(詩人、韓国文学研究者佐川亜紀)
朝鮮モダニズム詩を牽引した屈指の詩人でありながら、ながらく日本で本格的な研究がなされなかった金起林(キム・ギリム)の全貌を明かす『金起林作品集Ⅰ 新しい歌』が青柳優子氏の編訳で仙台市の南北社から2022年9月23日に刊行された。金起林といえば、美しい名作「海と蝶」が親しまれているだろう。

海と蝶

誰も彼に水深を教えたことがないので
白い蝶は海がすこしも怖くない

青い大根畑とおもって飛んでいったが
いたいけな羽は波に濡れ
姫君のように疲れ果ててもどってくる

三月の海は花が咲かずやるせない
蝶の腰に真っ青な三日月が凍みる

(青柳優子編訳著『朝鮮文学の知性 新幹社2009年刊より)

金起林は、「海と蝶」に見られるように日本植民地支配時代における近代化への飛翔と内面の悲哀をイメージ豊かに描いた詩人との印象が強かったが、『新しい歌』では、新しい国と文化を創る意欲がいきいきと伝わってくる。『作品集Ⅰ』の「あとがき」に「本書は、金起林が解放(一九四五年八月一五日)後に書いた詩と散文を筆者が選んで編集し、訳したものです」と青柳氏が記されているように、解放後の創作を評論もふくめて読むことができ、収穫が大きい。解放前に秘めていた社会的理想もうかがえるのだ。

金起林は、1908年朝鮮半島北部のハムギョンブクトに生まれ、1926年に東京の日大専門部文科正科に入学、29年に卒業、30年には『朝鮮日報』に入社。33年には、李箱や鄭芝溶ら名だたる詩人たちと「九人会」を結成。36年には東北帝大英文科に入学、39年に卒業。その後、朝鮮に帰り、『朝鮮日報』学芸部長を務めるが、日中戦争激化で40年に強制廃刊にされると、教師となり、故郷に帰った。45年の解放後はソウルに戻り、朝鮮文学家同盟に参加し、次々と詩集、評論集を発表し、文壇の中心として活躍した。が、朝鮮戦争の最中50年6月に拉致され、消息不明となり、韓国の文学史から抹殺された。
青柳優子氏は、2009年にも1冊の金起林研究書を出版しているが、この度の『金起林作品集』はより綿密に詩や散文を収録し、見事な翻訳で、全体像を浮かび上がらせている。前研究書から13年がたち、東北大学の片平キャンパス内に「金起林記念碑」が建立され、それを契機に「金起林記念会」という市民の集まりも仙台で発足し、本書の出版は日韓の顕彰・復権意識の高まりを受けて実現された。韓国では、軍事政権が崩壊した1988年には『金起林全集』6巻も世に出され、評価が回復した。

植民地支配による朝鮮語、朝鮮文化弾圧に憤りを抱えながら留学した経緯も含め、日本と深い関係がある優れた詩人が一層知られるようになる画期的な作品集が出され喜ばしい。
冒頭の「わたしの歌」には、虐げられた人々と共に新しい国を創造する意欲があふれ、象徴的な作品だ。

わたしの歌

拙いわたしの歌の中で
襤褸をまとい見下されていたわたしの隣人たち
君よ泣け 存分に泣け
憤れ

わたしの声はのろのろぐずぐずつっかえて
君のつらい事情 とても伝えることはできないだろう
わたしの愚鈍を鞭打て
首をぶん殴れ

奢侈なことばとすかした話しぶり
詩の貴族でも遊び人でもなく
君の焼けた顔 土に荒れた腕が清新だ
君の中で育つ新たな日 声を限りにうたわん

「わたしの歌」だが、「わたし」の内部にとどまるのではなく、「君の中で育つ新たな日」を「声を限りにうたわん」としたのが、解放後に求めた歌だった。祖国建設に携わる詩人の役割にも明確な意志を持っていた。朝鮮独立運動家・呂運亭(ヨ・ウニョン)を暗殺で失った悲しみの詩「百万の味方を失って——夢陽(モン・ヤン)先生を亡くし」では、最後に「血をもってあなたが切り開かれた人民共和国の道が 松明のように 星のように 震えているだけ」と人々を鼓舞する。また、大韓民国臨時政府主席の金九(キム・グ)の暗殺に憤る作品「哭 白凡(ペク・ポム)先生」にも不条理への嘆きとともに、「彼を越え 再び立ち上がらん」と再起を促す。植民地支配下でも内部に独立と近代国家建設の夢を育んでいたのだ。

金起林は、英文学のみならず世界文学について積極的に学び、博識であったことは散文からも分かる。新聞に寄稿した「T・S・エリオットの詩—ノーベル文学賞受賞を機に」では、「エリオットの価値はどこまでもその方法にあるのだ」と鋭い指摘をしている。日本でも戦後にエリオットは絶大な影響力をもたらしたが、個人の内面性と隠喩法がもっぱら重要視された。日韓のモダニズム詩の展開を比較するうえでも興味深い。評論「文化の運命—二〇世紀後半の展望」では、カミュの「ペスト」をサルトルの実存主義と比べながら「愛」を通じた人類のつながりの教理の曙光を覗かせたと称えている。詩人論「李箱の文学の一面」では、「東洋には珍しい徹底性」を洞察するなど、驚くほど豊富な文学知識と批評力を発揮している。

解放前には心象風景を鮮やかなイメージで提示する作品が比較的多く発表されたが、解放後は、新しい国、新しい文化を創造しようとする思想詩、「デモクラシーに寄せる歌」などがふえた。その思想は、解放前から胚胎していたものだろう。

そして、根底には、西洋近代への「適応」と「克服」というアジアの近代に共通した課題を追究する高度な知的責務を引き受けた文学者としての自負も感じられる。
作品集が続いて刊行され、金起林の全貌が明らかにされるのを待ち望んでいる。
(南北社 定価:本体2200円税込)
2022.4.14 自著紹介:橋本みゆき編著、猿橋順子・髙正子・柳蓮淑著『二世に聴く在日コリアンの生活文化——継承の語り』社会評論社(立教大学社会学部兼任講師 橋本みゆき)
川崎市南部の在日高齢者のつどい「ウリマダン」に、共同学習ボランティアとして参加している。ウリマダンとは、朝鮮語で「私たちの広場」という意味で、在日コリアンをはじめ在日外国人高齢者たちの識字学習と自己表現、交流、発信の場だ。以前このページで加藤恵美さんが書評をされた『わたしもじだいのいちぶです』は、ウリマダンの延長線上で編まれたものだ。3月末のお花見で、こんなやりとりがあった。誰かが持ってきたチャンゴ(杖鼓)のリズムを聞きながら、私の横にいたある90代のハルモニ(おばあさん)が言った。「こんなとき、マッコリでもあれば踊り出すのに」。聞けば、彼女はマッコリ造りの「ソンマ(손맛、手の味)」がよく、マッコリができたら一番上の透明な上澄み部分を飲む、これがまたおいしくて、それは造った人の特権なのだという。マッコリにまつわる極上の思い出話。このように、生活文化について在日高齢者が話し出すと、朝鮮半島の暮らしで培われた知恵、そのまま歴史証言であるような、またほっこりするようなエピソードが、次から次へと掘り出されてくる。

ところが在日コリアン二世にとって、生活文化の意味合いはかなり複雑で重層的である。たとえば、本書第1部および第2部第9章で取り上げた、張宏明さん(1951年、愛媛県生まれ。仮名、以下同じ)の子ども時代の経験だ。張さんからすると密造酒造りは、貧しい出身家庭がなんとか生計を立てる命綱であったと同時に、幼いうちから働いた重労働・汚れ仕事であり、警察の摘発をかいくぐらねばならない違法な生業であった。当時は味見もしたが、体質的に酒が飲めなくなり、張さん自身がその味を楽しんだわけではない。張さんの生活において、家醸酒は、ほっこりするとかおいしいとか誇らしいといったものではなかった。

それでもインタビューにおいて、焼酎はつらいだけの話題ではなかった。それはおそらく、焼酎造りに際し、日本人住民を含む集落の人たちの相互協力があったとか、実は税務署職員もよく焼酎を飲みに来ていて摘発を事前にこっそり教えてくれたとか、また、張さんの父親は一方では同胞支援活動にも打ち込んでおり、自分はその背中を見て育ったという、張さんなりの積極的意味づけや裏話があったからである。このように、渡日一世とは異なる意味や文脈で、その子ども世代である在日コリアン二世は、家族やコミュニティの生活文化を経験しており、インタビューで振り返ってくださった。

本書は、在日コリアン二世を対象に、さまざまな生活文化項目について聞き取りを行ない、そこから「生活文化ものがたり」と題する読み物にし(第1部)、さらに、いくつかの事例を取り上げ詳しく分析した論考(第2部。以下、第2部の論考は章番号のみ記す)をまとめたものである。

ここで強調しておきたいのは、「『継承』の語り」という副題だ。継承という語をわざわざ「カギ括弧」で括ったのは、一定の留保をつけて文化の継承について考えたいからである。上述のように、日本生まれの二世は生活文化を、渡日一世と同じように体得・経験・意味づけしてはいない。たとえば第1章で言及した崔正美さん(1951年、山口県生まれ)は、母のマッコリ造りを「生活の知恵」と認めつつ、寒がる自分をさしおいてマッコリを温め温度管理をする母が不満だった当時の心境を語った。

また二世は、渡日一世の生活手段や技法を必ずしも直接的に受け継いではいない。たとえば第6章で取り上げた黄玲玉さん(1953年、大阪府生まれ)が、働き者だった母が密造酒にまで携わっていたと知るのは、母の晩年だ。母は、二世の生活ぶりから不要だと判断してか、あるいは母自身がそのことを話したくなかったのか、あえて聞くまで酒造りの事実も作り方も教えてくれなかったのだ。これを知ったとき、黄さんは、「一生懸命生きたんやな」と母の生き方を積極的に受け止め、また、「みんな同じようにやってた時期に、そういうことがあったんやな」と改めて母を在日コリアンの歴史に位置づけることができた。これは、母が年老いて丸くなり、黄さん自身も年を重ね全体状況を織り込んで母と向き合うようになって、ようやく可能になった理解であるように思われる。生きるだけで精一杯だった頃はそれどころでなかった文化継承が、空白期間を経て、また再解釈を伴って、現代の文脈でなされている。または、今では遠い日の思い出となっている。

盧芳子さん(1949年、埼玉県生まれ。第1部)のように、両親が折に触れて作って見せてくれた家庭もある。権民愛さん(1951年、四国出身。第3章)の生家のように、家業としてしばらくは軌道に乗せた成功例もある。しかしそれはむしろ少数派で、インタビューではどちらかというと家醸酒は、親=一世の苦労の象徴として触れられた。このようにニュアンスに富んださまざまな形・程度の「継承」が、本書を通じてみえてくるだろう。

とはいえ、正直なところ、本書をもって在日コリアン二世の生活文化研究を完結できた感触は、まったくない。興味深い生活文化話はいくらでも発掘できそうだし、インタビューで十分踏み込めなかった部分の筆者らの認識はまだまだ浅い気がする。それもあってこの春、二世への生活文化インタビューをさしあたり一人で再開した。本書は第一歩にすぎず、これからも続いていく。

なお、この原稿を書きながら気づいたのだが、冒頭の花見のエピソードのハルモニは実はどうやら日本生まれらしい。ウリマダンの新メンバーなのでまだ来歴などを詳しく聞いていないが、親の渡日が比較的早かった、90代の二世もいるのだ。二世の経験・背景も多様である。したがって、二世の生活文化について簡単にまとめてしまうことはできない。それでも、在日コリアン二世という、民族・時代のつなぎ目で格闘した人びとを理解しようとするとき、生活文化は、一つの着眼点として有効である。これは本書執筆でつかんだ手応えだ。もしかすると本書は、ある家族の日常の私的で些末な事柄でしかないとか、あるいは逆に、さまざまな家族の話をかいつまんで書き散らしたものに見えるかもしれない。しかしそれこそが、人間の生活のリアリティではないだろうか。素材は一見地味でも、重要な記録や考察を潜在させた生活文化研究の未来は明るいと、私は感じているが、読者のみなさんはどう思われただろう。ご意見賜れたら、また、あなたの生活文化話などを聞かせてもらえたら幸いである。
2021.2.15 【寄稿】映画「戦車闘争」に寄せて運動の伝え方と「趣味が持つ政治性」を考える(立教大学大学院文学研究科博士前期課程修了 宮本皐)
立教大学平和・コミュニティ研究機構のホームページをご覧の皆様、初めまして。
私は宮本皐(みやもと・さつき)と申します。自分は2015年4月に立教大学大学院文学研究科史学専攻に入学(入院)し、2017年3月に修了した、いわゆる卒業生です。現在はとある企業で会社員をやっております。

今回は石坂浩一先生にお声がけいただき、2020年12月に公開されたドキュメンタリー映画「戦車闘争」(監督:辻 豊史)について、自分の研究を踏まえてご紹介したいと思います。
というのも、自分は大学院でこの映画の題材になったベトナム反戦運動「米軍戦車搬出阻止闘争(以下、「戦車闘争」)」を題材に修士論文を執筆しました。卒業生というご縁により、貴重な機会をいただけたことに改めて感謝いたします。

このコラムの目的

映画「戦車闘争」のプロジェクトを知ったのは2019年の初めの頃でしょうか。調べていくと抗議に参加した人々だけでなく、当時の市役所職員や機動隊員の方々にも取材されていることから、賛否両方の視点を入れる柔軟な姿勢に好感を持ちました。早速プロデューサー・小池 和洋 氏にコンタクトを取り、こちらの自己紹介をした上で修士論文を送付しました。その結果、取材を受けることになった次第です。

映画で使用された自分の映像はほんの10分程度ですが、僅かであれ私は映画の出演者です。同時に鑑賞者・批評者にもなれます。多層的な役割を一手に担える自分の立場を、このコラムの場で楽しんでみようと思いますいます。しばしお付き合いください。

映画と修士論文について

映画は大きく2部構成になっています。前半で「戦車闘争」とは何なのかを関係者の証言を集めて説明し、実際に起きたことを振り返ります。後半では「戦車闘争」を起点に安保条約と日本国憲法九条との齟齬や在日米軍基地問題について疑問を投げかけています。単なる回顧的な内容に留まらず、現在の問題としてまとめているところが特徴です。あまり知られていなかった反戦・平和運動を伝えることだけではなく、在日基地問題の根幹である問いの「この土地は誰のものか」を考える一作です。

自分は修論で「戦車闘争」そのものがどんな運動だったのかを当時の新聞記事をあたって調べ上げ、鍵となる「車両制限令」の改正議論を『官報』や公文書館の所蔵資料で追い、運動前後での変化を考察しました。映画を見ていると、自分の論文と答え合わせをしている奇妙な感覚になります。ポスターや予告編からとっつきにくい印象を与えたかもしれませんが、50年前の出来事であるためか、当事者の語り口はうっすらと懐かしさが漂い、どこかユーモラスです。同じノリで後半の安保条約や地位協定の議論に持っていくため、情報がぎゅう詰めすぎて「結局何がいいたいんだろう」と疑問に思われたのではないか、と心配でもあります。

映画の前半 戦車闘争とは?

さて、そもそも「戦車闘争」とは何なのでしょうか。簡単にいうと「日本からベトナムに運ばれる戦車を、座り込みで阻止した行動に端を発するベトナム戦争反対運動」です。以下、自分が論文で書いた内容を踏まえ、映画の内容を振り返っていきます。

当時、神奈川県相模原市にある米軍施設:相模総合補給廠(以下、補給廠)から米軍の戦車(M48)や兵員装甲車(M113)などといった米軍の兵器が、国道16号線を通り横浜市神奈川区の米軍専用埠頭に搬入され、ベトナムに送られていました。1972年8月4日深夜、国道16号線を通り、戦車を積んだトレーラーが道路に座り込んだ100人近い人々によって通行を止められ、6日に補給廠に引き返すという「事件」が起こります。

映画の中でも説明がありましたが、補給廠は旧陸軍の施設だったもので、第二次世界大戦後に機能が強化され、極東地域の米軍に対して生活物資から軍需品までの物資を補給する役割を持ちました。
特に朝鮮戦争やベトナム戦争当時は戦闘車両の修理が盛んに行われていたところです。

『相模原市史』によると、修理を終えた戦車のテスト走行による騒音・粉塵は周辺住民にとっても迷惑の種だったそうで、時間帯や実施規模を考慮して欲しいと相模原市が住民とともに何度も陳情を送ります。しかし、解決を見ないうちにベトナム戦争が激化し、そのうち戦車の修理そのものが問題視されていきます。

そして1971年6月、補給廠内の戦車のなかに南ベトナム軍の兵員輸送車が含まれているのではないかと疑惑が報道されます。そもそも、ベトナムが安保条約に定められた「極東地域」の範囲であるかどうかは当時から議論があり、ベトナムへの補給や修理した兵器の供給についても疑問がありました。

映画ではちょっとわかりづらかったのですが、当時この問題にいち早く抗議活動を行なったのが日本社会党(当時)や共産党といった政党でした。1972年5月に初めて補給廠から出たトレーラーを止めることに成功しますが、徐々に難しくなっていきます。当時の社会党議員:丹治栄三氏はこうした抗議活動の中で、横浜市内の村雨橋がトレーラーの重さに耐えられない可能性があることや、’72年4月以降は道路交通法が改正され、特殊車両は事前に自治体に申請を行い、通行許可を取らねばならない、といった指摘を耳にします。これを飛鳥田横浜市長(当時)に打診し、すぐさま調査が開始されました。結果、道路交通法に基づいて考えるならば、戦車を積んだトレーラーは村雨橋を通行できない、これは横浜市として通行許可を出せない、という結論に達します。こうした水面下の動きが前述した「戦車闘争」につながっていきます。

そして8月5日、炎天下の中、堂々と(そして仕方なく)道路に止まり続ける戦車の様子は新聞・テレビで大きく取り上げられました。一方、補給廠の周辺には搬出に反対する人々が続々と集まり始め、抗議活動の拠点としてテントが立ち並び、夜毎盛り上がりを見せていきます。

これらの経緯を考えれば、丹治栄三氏の活躍はとても重要です。当時のニュースや関係者の証言にも多く出てくる人物でありながら、映画でも「その後はどうされているのか…」「何だかとても苦労なさったみたいで…」と言葉を濁す方が多く、「戦車闘争後」にどのような人生を歩まれたのかがはっきりしません。丹治氏については自分が調査したときも所在がわかりませんでした。

その後、映画は「戦車闘争」について関係者証言をつなげて賛否を描いていきます。「機動隊に追われた人が政党が置いているテントに助けを求めて逃げ込んだのに、追い出したところを見た」と目撃談を話す方。学生と機動隊のぶつかり合いを恐々見ていたのが、だんだん慣れてきて「どこにいけば手当が受けられるか」と現場でサバイブするノウハウが共有されていく様子。一方で投石や乱闘の被害については誰も補償しなかったため、機動隊に味方をする周辺住民が増えていったと指摘もあります。抗議活動が8月の初旬に始まったため、テント周辺にゴミが放置されて臭かったこと、参加する人々がテント暮らしでほぼお風呂に入らない状態だったので、レストランやお店に入られても迷惑だったことなど、運動の是非や意義の外にあるけれど、単なる賛成反対の枠に留まらない素直な反応を引き出しています。

目を引くのは、現場にいたという元機動隊員の方のお話です。「線路の石を奴らは投げるわけだろ?ありゃ窃盗罪だし、道路にテントを張って占拠するのは道路交通法違反だ」と、居酒屋で焼酎を飲みながら、自慢げにごぼう抜きの様子を語ります。その時のTシャツに「市民として、マナーやルールを守りましょう!」と書かれていました。

一方では顔を伏せ、仮名で登場する元機動隊員の方もいらっしゃいます。「自分も仲間も、そして相手にも怪我をさせないように気をつけた」と静かに話し、『カップ酒を飲んでいる機動隊員がいた』という証言については「ありえない」と言い切っていました。

相反する主張や意見を並べ、リズミカルに切り替えながら対比を描き、問題を多角的に見てゆくのがこの映画の特徴です。

混乱した情勢の中、9月12日に閣議において、補給廠における戦車修理部門の縮小ないしは停止と、ベトナムへの搬出はしないように善処すると方針が決定されます。これを受けて横浜市と相模原市がそれぞれ通行許可を出し、社会党本部も闘争から撤退することを表明します。一方、同月17日には「車両制限令の一部改正」が閣議決定され、米軍車両は車両制限令の適用を外すことになりました。同日夜から抗議集会が活発になり、抗議のために集まった人々、機動隊員、搬出を行なった富国運輸の社員、これら三つ巴の争いになってゆきます。18日深夜は2000人近くが集まる大集会となりましたが、19日早朝、機動隊の列に守られ、補給廠からトレーラーが出ていきました。

この車両制限令の改正についての調査で外務省や内閣法制局の資料を見ておりますと「安保条約や地位協定に合わせて、道路交通法を変える」方向で議論が進んでいる印象があります。「重量制限で橋が通れない」点はおそらく政府側も全く予想していなかったところであり、だからこそ意外性で多くの人々に訴えかける力を持ちました。しかし、通行できるように法が変わってしまえば、同じ論理で反対し続けるのは難しくなります。

映画の後半 誰のための「安全保障」?

さて、ここまでの話のどこに「アメリカ」がいるでしょう。そもそもトレーラーで運んでいるのはアメリカ軍が持つ戦車です。アメリカの軍事作戦に必要な兵器について、是非を争い、流血してまで争っているのは日本人同士ですよね。なぜこうなっているのでしょうか。

後半は、「戦車闘争」を踏まえての在日米軍基地問題の根幹、日米安保条約と地位協定、そして憲法9条の話に発展してゆきます。山本 章子さんのキレの良い解説が光りますが、日本は1972年の沖縄返還の代わりに、国内の全土基地化を認め、ベトナム戦争に協力すると密約を交わしていました。当時は田中角栄首相がすすめていた日中国交正常化があり、「戦車闘争」が国政の場で同様に重要視されていたとは考えにくい状況がありました。

「日本は『何かあればアメリカが守ってくれる』というフィクションを信じている」なぜこうなったのかは「憲法九条」と安保条約の辻褄を合わせるために広げた論の展開である、という話に移っていきます。米軍への「思いやり予算」を題材にした映画「ザ・思いやり」の監督:リラン・バクレーさんは、アイゼンハウアー大統領が指摘した軍産共同体の危険性を引用し、アメリカの軍需産業と戦争好きな国民性について言及。戦後日本文化の研究者であり、在日米軍基地問題についても活動をなさっているライアン・ホームバーグさんは「アメリカが日本を守るか?」と聞かれ「そんなイメージは全然ない」と即答します。では誰のため、そして何のために、日本に米軍基地があるのでしょうか。

「趣味が持つ政治性」とは

さて、映画公開後ネットで感想を追っているのですが、私がアニメ「ガールズ&パンツァー」について話した箇所にコメントする方が多いようです。

実際のインタビューは3時間近く行われましたが、出演最大の理由である「修士論文について説明した部分」は全く使われておりません。インタビュー中はそもそもの研究のきっかけに始まり、安保条約や地位協定についての説明も求められましたが、話しているうちに、若手層・障害者雇用の問題、女性の生きにくさなど、私個人が普段から関心を持つ分野についてもよく喋っていた記憶があります。

そんな状況でなぜ「ガルパン」の話を出したのか。安直ですが、インタビュー中にどうしても言いたくなった瞬間があったんです。作品に政治的な意図はないことは承知の上、知名度も人気もある作品について苦言を呈す形になるため一定のリスクはあります。今思えば、映像で記録が残るうちに自分が持つ違和感を言葉に残しておきたい、そういった気持ちが込み上げてきた瞬間でした。

私はアニメや漫画が好きで、ファンアートを楽しむこともあります。特に大学院で歴史学に触れたこともあり「史実・歴史的事象がフィクションの中でどのように楽しまれるか」について常に興味を持っています。特にファン層の多い作品は影響を与える範囲も広く、「たかが漫画」と馬鹿にできません。しかし、場合によっては「これは創作の設定であり、史実とは異なる」点が認識されない、間違ったり歪なイメージを覆せるほどの考察ができない、といったケースを見かけることもあります。

以前「ガルパン」の劇場版を見る機会があった時、かっこいい演出や迫力のある画作りを良いと思ったものの、とても複雑な思いを抱きました。作品内では茶道・華道に並ぶ「大和撫子の嗜み」として「戦車道」がある世界が描かれ、チームで一つの目的に立ち向かう元気で個性あふれる女子高生たちの様子がドラマティックに描かれています。作中では誰一人死ぬことはなく、次々と降りかかる難題にどう対抗するか?どのようにチームをまとめるのか?について、頭を搾るスポコンアニメとしても、そして「戦車」という兵器が「スポーツ」に活用されるスピンオフ感の描き方も見事で、エンタメ作品として高い完成度を持ち、多くの人に愛されている作品です。

しかし、一つ一つの戦車が兵器として使われた過去は消すことができません。私はこうした作品を作ること、及び楽しむことは否定しません。それを楽しんでいる受け手の感覚に注意したいと思っています。ファン一人ひとりに様々な想いがあることは理解しますが、負の歴史を消臭して「まるでなかったかのように」扱うことに対しては、強い違和感を覚えます。

映画「戦車闘争」では私の映像の後で新原昭二さんの空襲体験がつなげられ、戦争の記憶が様々な形で続いていくことを示すために使われていました。この部分を選んで編集した監督の意図は理解します。が、私はこのシーケンスを取り上げた監督の判断は好きになれません。インタビュー中、何となくこの部分について映画に使いそうだという雰囲気を感じました。「若い女性が涙するシーンはスクリーン映えする」という意図を狙っているとしたらシンプルに気持ちが悪いです。正直、試写を見た段階で「ガルパンに言及した箇所にファンが指摘をつけ、炎上の可能性がある」と感じたため、懸念は小池氏にも伝えています。私は顔も名前も出してこのインタビューに答えましたが、その分リスクは高いため、公開後にいくつかの感想を読んで怖いと思った部分もありました。

幸い「私も同じことを思っていた」・「言われてみればそんなこともあるね」といった感想も拝見しています。この中ではとりわけ、映画の紹介や批評を続けているYoutubeチャンネル「活弁シネマ倶楽部」で取り上げていただいたものが印象的です。

チャンネルでは「2020年12月のおすすめ映画」を紹介する回で、私のコメントに言及してくださいました。「『趣味的なミリタリー』に政治性はなく、この話題については解釈がしにくいことでもある」と前置きした上で、以下の話が続きます。

例えば『ジャングルファティーグ』というミリタリージャケットがある。これは実際にベトナム戦争で使われたもので、現在はファションアイテムとして流通しているし、同時代にヒッピーが反抗の意味を込めて着ていたこともある。自分もファッションとして楽しむために着たこともあるけれど、どこかそれに嫌悪感を感じ、着られない自分もいる。

紙幅の都合で要約したため、ぜひ元の動画で聞いていただきたいです。ご自身の経験を踏まえ、自分のこととして考えを深めてくれたのがとても嬉しかったです。

少し考えてみたのですが、「炎上」させるコメントは反応が非常に表面的です。映画に引用された映像でも「(ガルパンを)楽しく見ることができないんです」と話していましたが、感想の中には「ガルパンが嫌いっていう女がいた」と言い表す人がいたことが興味深いです。そもそも「楽しく見れない」と言ったので「嫌い」とは一言も述べていないのですが、「嫌い」と要約し、それに対して解説や思ったことを述べているケースが多いのです。「こう言ったから」と表層的な反応のため、「なぜその表現になったのか」まで考えられていないのではないでしょうか。

対して「その気持ちもわかる」というコメントは、短いものでも「なぜそのように言ったのか」に思いを巡らせ、できる範囲で丁寧に検討している様子が伺えます。「自分もミリタリー趣味にワクワクすることはあるし、一方で嫌悪感もある。それと似ている気がする」と自分ごとに引き寄せて考えている方も多く。読んでいて参考になる点がたくさんありました。

切り取り、切り取られ、考える。

改めて思うのは、映画は編集されて作られており、映像を観ている自分は「生の対象」を見ることができない点です。「ガルパン」に関連する感想は、自分自身が映像をもとに判断された経験として興味深いものになりました。

自分はドキュメンタリー映画が好きですが、映るものには「編集」によって作成者の意図が必ず入ってくるため、撮影事情を頭の隅に入れておく必要があります。これまで見たドキュメンタリーも「切り取られた部分」で作られており、自分は表層的な理解で物事を判断してはいないか、その判断は誤解であり、映されている人々の意図に反しているものではないか、疑わず信じすぎていないか、改めて考え込んでしまいました。ドキュメンタリー映画は「切り取られたフィクションである」面を持ち合わせているのかもしれません。

実を言うと、役者でもない自分が「映画に出たのでぜひみてください。よろしくお願いします」という日が来ようとは全く予想しませんでした。きっかけは修士論文だったので、人生何が起こるかわからないものですね。自分は現在研究機関に所属せず、今は正式な「研究者」と名乗ることもできません。ただ、もう少し、このごたごたした「戦車闘争」を見つめていこうと思います。

ここまでの長文をお読みいただき、ありがとうございました。

【参考】
●活弁シネマ倶楽部について
下記映像の16:00あたりからが映画「戦車闘争」の紹介。
2021.2.12 紹介:韓国挺身隊問題対策協議会・2000年女性国際戦犯法廷証言チーム著、金富子・古橋綾編訳『記憶で書き直す歴史——「慰安婦」サバイバーの語りを聴く』2020年、岩波書店(本学兼任講師 古橋綾)
日本軍「慰安婦」として被害にあった女性が立ち上がり、自らの経験を語り、日本政府に謝罪と賠償を訴えてから30年が経とうとしている。それまで沈黙させられてきた人々の経験が、当事者の訴えにより公に語られるようになり、歴史として認識されるようになった。「慰安婦」として被害にあった女性たちの訴えは、多くの人々の心に届き、関連する史資料が発掘され、戦時における性暴力についての法解釈の議論の発展に貢献した。今では戦時性暴力の代表的な事例として国際的にも認知されるまでになっている。

最近のニュースなどを見ていると「慰安婦」問題は外交問題としてイメージされる方も多いかもしれない。しかし、「慰安婦」問題は、ある人がうけた暴力の問題である。「慰安婦」とはどのような暴力だったのか、なぜそのような暴力をうけなければならなかったのか、その後の人生をどのように生き延びたのか。そのようなことを踏まえてはじめて、問題の「解決」を議論することができるだろう。

「聴く」という方法
本書は、2001年に韓国で出版された証言集を翻訳したものである。韓国ではこれまでに17冊の証言集が編まれてきた。その中でも早くから証言採録に取り組んできた韓国挺身隊研究所・韓国挺身隊問題対策協議会が出版した「強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」シリーズ(全8集)の第4集が本書である。なぜ2001年に出版された証言集を、20年経った今になって翻訳したのかと疑問に思われる方もいるかもしれない。その理由は、第4集が先駆的な方法で証言の採録を行ったということにある。

「慰安婦」サバイバー(生存者)の中には学校に通った経験がない方が多くいる。さらに10代~20代のときに「慰安所」で性暴力を含むあらゆる暴力の被害にあい、その後も平坦でない人生を生き延びてきた。そんな彼女たちにとって自分の経験を順序立てて話すことや問いに適切に答えることは容易ではない。第4集の証言チームはそのようなサバイバーの特徴を十分に理解していたため、「問う」ことをせず「聴く」に徹するという方法で証言の採録を試みた。

第4集の証言チームは、大学院生を中心とした約30人のメンバーからなっていた。聴き取りは、二人のペアが一人のサバイバーを担当し、ひたすら聴くという姿勢で行われた。その後、サバイバーが語ったことを、言葉だけでなく仕草や表情、その場の空気や息遣いまでも、詳細に文字に起こし、記録を作る。そして、チームのメンバー全体でのミーティングで、それぞれが担当したサバイバーの記録をシェアし、メンバー全員でその言葉の意味を手繰り寄せていくという作業を行った。ばらばらに登場する言葉のかけらを集めて「記憶の地図」を紡ぎ出す。これが、第4集の証言チームが試行錯誤を重ねながら行き着いた方法である。

サバイバーの語りが示す「慰安婦」被害
本書は9名の「慰安婦」サバイバーのお話が収録されている。彼女たちは1915年から29年に朝鮮で生まれ、1940年代に「慰安婦」被害にあった。連行された場所は、中国、旧満洲、マレー、日本である。騙されて連れて行かれた人がほとんどで、「慰安所」に到着してはじめて、自分の身にこれから起きることを知って驚き、激しく抵抗するも逃げ場がなく、結局、暴力にあい続ける様子が語られている。

自身が「慰安所」でうけた性暴力を詳しく語る人は多くない。「ただ、私は死んだよ」(金華善さん、48頁)、「そいつが出ていくとまた行って洗って、来たらやって、はぁ(溜息をつき)……」(崔甲順さん、148頁)という言葉で表現される。それは、あまりにも辛い出来事なので詳しく語ることなどできないのである。

「慰安所」での思い出を饒舌に語る人もいる。ハガという日本軍の将校が訪ねてきて、「ふかーっかふかってしてる」スルメや、手に入れることが難しかった目玉焼き食べさせてくれたことを嬉しそうに語る韓オクソンさん(100頁)、「慰安所」で使うシーツを洗って小金稼ぎをしていた崔甲順さん(150頁)などがそうだ。しかしこの饒舌さは、縛られて殴られたり(安允弘さん、183頁)、まともに食事も与えられなかったり(金チャンヨンさん、72頁)、きつい注射を打たれ、出来物(性病)をガラスの破片のようなもので焼かれたり(安法順さん、267頁)するようなつらい経験に溢れる「慰安所」における生活での一つの希望のようなものにすぎなかった。

戦争が終わったあとも、彼女たちの人生は苦難の連続であった。帰郷するまでのつらい道のりについての語りは全ての人に共通して見られる。帰郷後、家族と再会できなかった人(金チャンヨンさん、76頁)や、再会を喜べなかった人(安允弘さん、187頁)もいる。夫となった人に「慰安所」にいたことが分かり罵られて離婚に至ったり(金チャンヨンさん、77頁)、自らの過去がばれることを恐れて夫の度重なる不貞に何も言えなかった人(韓オクソンさん、111頁)もいる。子どもが産めず苦労した話(金ボクトンさん、246頁)もある。「慰安所」での被害は、その後の長い人生すべてに影響を及ぼしていることが、はっきりと示されている。

不可視化された声が社会に届く、とは
社会的に見えない存在とされている人たちが声をあげて話を聞いてもらうには、数多くのハードルがある。あまりにも自分の常識とは離れすぎている話や、聞くに堪えないような悲惨な話は、聞いてもらえない。そのような経験を声に出して訴えたとしても、社会に届かないのである。壮絶な被害を受けた人の経験を社会に届けるには、社会の側にもそれを理解するだけの準備ができている必要がある。

一方で、社会の認識は、語る人や語りを解釈する人にも影響する。ライフストーリー研究者の桜井厚(『ライフストーリー論』弘文堂、2012年)は、文化的慣習や社会規範を表現するストーリーである〈マスター・ナラティブ〉(例えば、性被害にあった人を恥ずかしい存在と捉える、など)と、ある現実を語ろうとするときにすでにモデルとなってしまっているストーリーである〈モデル・ストーリー〉(例えば、「慰安婦」は縄で縛られて無理やり連行された、など)が、語りとその解釈に影響するということを前提とする必要があると述べている。つまり、話をする人は聞く人が理解できるように、社会のイデオロギーに沿ったり、すでに社会に受け入れられているストーリーに沿ったりする形で語ることがあるということであり、語りを聞いてそれを解釈する人にも当てはまる。本書で試みられた「聴く」に徹する聴き取りの方法は、このような前提を乗り越えようとするものでもあった。

「慰安婦」問題は「モデル被害者像」を作り上げて被害の多様性を見ることができていないと批判する人たちが、近年になって登場した(朴裕河『帝国の慰安婦』朝日新聞出版、2014年、上野千鶴子他『戦争と性暴力の比較史へ向けて』岩波書店、2018年)。これらの批判をする人たちは、自らの主張の根拠のひとつとして証言集に登場するサバイバーたちの語りを挙げている。このことに筆者は驚きを禁じ得ない。「慰安婦」サバイバーの証言採録の現場で、〈モデル・ストーリー〉を乗り越える試みが多様に行われてきたために、「慰安婦」サバイバーの多様な語りが残されているのである。今現在、多様な声に触れることができるのは、被害の多様性を聴いてきたことを逆照射するものである。もちろん、そのような多様な声が、〈マスター・ナラティブ〉にどの程度影響を与えたかということについては考える必要があるが。

サバイバーの息遣いを最大限に表現しようとした原書をどのような言葉に置き換えることが良いのか、日本語翻訳のチームのメンバーの間でも何度も何度も検討を重ねてきた。翻訳という限界はあるが、最大限、息遣いを伝えられるよう日本語に紡ぎ直した。読者の皆さんにも、その息遣いをぜひ感じていただけたらと思う。
2020.9.3 書評:山家悠紀夫『日本経済30年史: バブルからアベノミクスまで』(岩波新書)「構造改革」という名の蟻地獄、衰退続けた平成日本経済
2019年(評者:(株)共同通信社取締役・アグリラボ所長 石井勇人)

「構造改革」という名の蟻地獄、衰退続けた平成日本経済

書評:山家悠紀夫『日本経済30年史: バブルからアベノミクスまで』(岩波新書)
(株)共同通信社取締役・アグリラボ所長 石井勇人

「アベ1強」と言われ、憲政史上最長の約7年8ケ月にわたって政権を担った安倍晋三首相は、自身の持病の悪化という理由であっけなく退陣した。この政権の経済政策をどのように評価するべきなのか。また、後継の政権に対してどのような経済政策を期待したらよいのか。こうしたことを考える上で、サブタイトルに「バブルからアベノミクスまで」を掲げる本書は、とても参考になる。

経済政策に限らないが、長期政権を評価するには、10年単位の時間軸に立つ視点が必要だからだ。特に1章を中心に、豊富なデータがグラフや図表で示され、30年間の景気の動き、企業業績、所得など私たちの暮らしの変化を、客観的に思い起こすことができる。

本書は、日本のバブル経済の崩壊を起点に、①バブル崩壊(90~97年)②構造改革(97~2009年)③民主党政権(09~12年)④アベノミクス(13~19年)の4期に区分し、分析・評価している。

とりわけ構造改革について、橋本龍太郎(4章)、小泉純一郎(5章)、安倍晋三(8章)と政権ごとに批判しており、本書の中核と言ってよい。生きている企業まで潰しにかかった金融機関の不良債権処理や、本格的な景気回復のチャンスを繰り返し潰してきた消費税増税などを政策の失敗だと指弾する。著者はいち早く『偽りの危機 本物の危機』(97年)で、構造改革の問題点を指摘し、警告してきた。「企業の国際競争力は高まっても国民の生活水準は低下する」と言う予言は的中した。行間には「だからいったじゃないか」という嘆き節がにじみ出ている。蟻地獄のような構造改革によって、日本経済は衰退を続けた。

本書が「失敗」と断じる「アベノミクス」だが、安倍首相自身は辞任を表明した8月28日夕の記者会見で、経済政策を成果として強調した。改めて「3本の矢」—大胆な金融政策、機動的な財政出動、民間投資を喚起する成長戦略に言及したほどだから、強い思い入れがあるのだろう。

主要な報道機関も、アベノミクスの限界を指摘しながらも、株価の回復、企業業績の改善、求人倍率の上昇に象徴される就業者数の拡大、それらによる税収の増加をそろって評価した。確かに「デフレからの脱却」を宣言することはできなかったが「デフレではない状況」まで持ち直したのは事実だ。安倍首相が「悪夢」とまで罵倒する民主党政権の経済運営と比べれば、少なくとも「まし」というのが、平均的な受け止め方だろう。

著者の構造改革に対する分析は冷徹で厳しいのに対して、民主党政権の経済政策に対する評価は情緒的で寛容だ。例えば、1ドル=80円前後まで進んだ超円高の原因について、「真相は不明である」と踏み込まず、不十分だった金融緩和など円高対応の無策ぶりについての批判はない。鳩山由紀夫政権が退陣した理由についても「外務官僚に偽造文書を示され騙された?」と、鳩山氏自身が語る陰謀説を一方的に紹介している。週刊誌レベルというほかない。

本書で著者自身が指摘しているように、菅直人政権の「新成長戦略」は「背信」とも言える構造改革路線だったし、野田佳彦政権の存在はアベノミクスへの「道ならし」だった。国民の期待を裏切った民主党政権の責任は極めて重いのに、本書は「米国、財界、官僚の壁が厚く」、民主党政権にはその壁を突破する力が欠けていた」と同情し、「多くの国民に夢を与えてくれた」と、とことん甘い。

「日本経済」がタイトルである以上、歴代政権ごとの評価になるのはやむを得ないが、評者としては、本書の時代区分に対しても異論がある。確かにソ連の崩壊(91年)前後からグローバル化が加速した。しかし日本のバブル経済の前史の起点は1985年のプラザ合意だ。米国が冷戦に勝利して新自由主義が台頭したのは半面の事実だが、冷戦を戦ってきた米国側のダメージも大きかった。

米国は双子の赤字(財政赤字と経常収支の赤字)の膨張に苦しみ、自由貿易体制を維持するには、主要5カ国が協調してドル安に誘導しなくてはならないほど疲弊していた。プラザ合意の翌年の86年にまとめられた「国際協調のための経済構造調整研究会報告書」(通称・前川レポート)こそ、名実ともに構造改革の原型だ。

その後の日本の経済政策は、鳩山政権の束の間の「夢」を除けば、緩慢の差こそあれ一貫して構造改革路線だった。97年に発生したアジア通貨危機は、インドネシアや韓国を国際通貨基金(IMF)の管理下による究極の構造改革に追い込んだほか、日本でも金融機関の連鎖的な経営破綻を招き、構造改革を加速した。

さらに90年代に急激に普及したインターネットを軸とする情報技術(IT)分野の技術革新がグローバル化を加速した。本書はほとんど触れていないが巨大化したデジタル企業こそ、日本にグローバル化を迫ったエンジンであり、もはやデジタル産業の母国である米国という国家さえ制御が困難な状況になった段階でリーマン・ショック(2008年)が起きた。

これを機に欧米各国は行きすぎたグローバル化を反省し、政策の転換に乗り出した。英国の欧州連合(EU)からの離脱、米国におけるトランプ政権の誕生、彼が真っ先に署名した環太平洋連携協定(TPP)からの離脱は、グローバル化の反転の象徴だ。「小さな政府」から「大きな政府」へ。「国際協調」から「自国ファースト」へ。独り安倍政権だけが国際潮流からは周回遅れでグローバル化と構造改革を加速したというのが、評者の認識だ。

本書が書き上げられた後になって、新型コロナウイルスの感染が拡大し、もはやグローバル化の弊害と構造改革の行き詰まりは決定的になった。自由貿易は強い制約を受け、各国とも「大きな政府」への転換を迫られている。2020年は間違いなく、1985年(プラザ合意)、97年(アジア通貨危機)、2008年(リーマンショック)と並ぶ画期点となるだろう。

著者は、約30年前のウルグアイラウンド(新多角的貿易交渉)のころから「自由貿易の世界は絶対ではない」、「農作物に関して私は保護貿易主義者である」と公言していた。当時の「予言」は『日本経済 気掛かりな未来』(99年)に再録されており、その先見性には脱帽するしかない。

著者は、財政赤字についても早い段階から「政府の財政危機と国民の生活の危機を混同してはいけない」と警告してきた。本書でも「日本は世界一の金余り国」(9章)に再掲している。一昨年あたりから国際的にも議論されている現代貨幣理論(MMT)の先駆的理論だ。それなのに本書ではMMTに関する記述がない。図らずも、新型コロナ対策で各国ともそろって巨額の財政出動に迫られており、この理論の妥当性を確かめる壮大な社会実験が進行中だ。コロナ禍を受けた本書の緊急増補版を強く期待する。

【評者略歴】石井勇人(いしい・はやと)  1981年に社団法人共同通信社に入り、ワシントン駐在、経済部次長、編集委員兼論説委員などを経て、2019年9月から株式会社共同通信社取締役。食農地域をつなぐ研究所「共同通信アグリラボ」を主宰し、webサイト「めぐみネット」(URL:https://agrilab.kyodo.co.jp/)を創設。19年まで4年間「農政ジャーナリストの会」の会長を務めた。著書に『農業超大国アメリカの戦略ーTPPで問われる「食糧安保」』(13年、新潮社)、共著に『亡国の密約ーTPPはなぜ歪められたのか』(16年、同)など多数。
2020.9.3 自著紹介:駒井洋監修・小林真生編『移民・ディアスポラ研究9 変容する移民コミュニティ-時間・空間・階層』(明石書店、2020) 日本の多様な移民コミュニティを俯瞰する(本学兼任講師 小林真生)
本書を生んだ時代の要請
新型コロナウイルスが世界の大きな懸念となった2020年。ヒトの往来は制限され、海外からの観光客は殆どゼロという状態になった。しかし、日本で暮らしている外国人の数は殆ど変わっていない。およそ大阪市の人口に匹敵する外国人登録者が日本にはおり、帰化を選択した人も多いことを考えれば、政府の方針とは異なり、日本は明らかに移民社会である。実際、先進国クラブとも呼ばれるOECD(経済協力開発機構)の統計において、2016年の外国人の流入人口ランキングで日本は4位との結果が出ている。そもそも日本は1億2千万の人口を有しており、外国人比率は低くとも、国内で日常を送っている外国人の数は各国と比べて多いのである。

そして、1980年代までは外国人といえば東京等の大都市で見かける欧米系の白人という印象であったが、バブル期に労働力不足が顕著になり、各地で超過滞在のアジア出身者が多く雇用されるようになった。しかし、彼らの存在が各種の摩擦を生むようになると、政府は日系人に「日本人の配偶者等」または「定住者」との在留資格を与え、加えて海外からの研修生を「研修」の名を借りて労働力として用いるようになり、彼らを超過滞在者の代替としたのである。日系南米人や外国人研修生(技能実習生)の存在は次第に大きくなり、多くの研究者の関心も集めた。しかし、2008年のリーマンショックと2011年の東日本大震災を機に、彼らの一部に帰国の流れが起き、2010年代には新しい層の移民が増加していった。また、日本政府は国際的な人材獲得競争にも参入し、高度人材の来日も促進されたのである。

そうした状況の中で、それぞれのコミュニティごとの特性が見えてきたものの、通常、一人の研究者の専門は限定されたものであり、それぞれの論考を繋ぎ合わせて概要を掴むしか現状への理解を深める方法は無かった。しかし、地域社会で移民コミュニティと接する人々にとっては、基準や指針もない中で対処するより他なく、試行錯誤が求められたのである。加えて、一つの地域に複数国の出身者が混在する場合、そうした困難は一層深刻にならざるを得ない。そこで、一貫した指針に基づいて一級の専門家の英知を結集し、日本の移民コミュニティを俯瞰する一冊を作る、という企画が生まれた。
本書に至る編者の経験
幅広い執筆陣をまとめる上で、様々な分野に精通していることが求められるが、それに際しては編者である私の経験が生きた。私が中学生の頃、日本はバブル景気の最中にあり、地方の工業都市である群馬県太田市では当初、パキスタン人やバングラディシュ人等が超過滞在の形で就労し、その後、日系ブラジル人が増加した。隣の大泉町は人口に占める外国人の割合が19%(2019年末)であることでも知られ、多くのメディアで「リトル・サンパウロ」や「リトル・ブラジル」の通称と共に取り上げられている。そうした中で、私の周囲では外国人に対する偏見を伴う言説を耳にする機会が増えた。その内容は、超過滞在の外国人であれ、日系ブラジル人であれ、ほとんど変わりがなかった。

大学進学を機に実家を離れた後も、私は「群馬県の状況が日本各地に拡散することは避けなければならない」との思いを抱えていた。しかし、残念ながら2000年前後にロシア人上陸者の多い北海道の複数の港湾都市で、「外国人お断り(JAPANESE ONLY)」の但し書きが多く見られるようになった。排他的な意識の地方への拡散を直観した私は、北海道で最もロシア人の上陸者の多い稚内市にて調査を開始した。すると、同地にはロシア人船員だけでなく、水産加工業に従事する中国人技能実習生も多く生活していることが分かった。地域社会が抱える問題は、一様ではなくなっていたのである。

また、同じくロシア人上陸者の多い富山県では、彼らにパキスタン人が日本製の中古車を販売し、極東方面へと輸出する一大産業を形成していることを知った。同地で調査を行うと、地元の工場には日系ブラジル人や中国人技能実習生が就労し、それぞれに問題を抱えていることも明らかとなった。21世紀の日本においては、人口が5万人にも満たない地方都市ですら外国人の混在が発生していたのである。そこで、現地で意識調査を行うと、両地域および日本全体の外国人に対する意識は極めて似通っていることが分かった。その成果は『日本の地域社会における対外国人意識-北海道稚内市と富山県旧新湊市を事例として』(福村出版、2012)として発表することとなったが、そうした経緯から、私は日系ブラジル人、ロシア人、パキスタン人、中国人技能実習生についての知見を得た。そして、彼らに対して日本社会は、労働力として必要であると痛感しながら、日常における接点が限定されているとの課題が共通して見て取れた。

私の研究には、故郷である群馬県が所々で存在感を示す。1990年代当時、地元は三洋電機(現在はパナソニックに吸収)のラグビー部が全国的な強豪となり、盛り上がりを見せていたが、その主軸には大東文化大学を経て入社したトンガ人の存在があった。その後、彼らの後輩は日本各地に活躍の場を広げていったことから、ラグビーファンでもあった私は彼らの国籍選択や留学過程等を研究するようになった。特に意識したのは、ほぼ同時期に日系ブラジル人とトンガ人が群馬県で暮らし始めたものの、周囲の日本人の認識に大きな差が生じた原因を探ることであった。限られた知見ではあるが、トンガ人に対しては大学などの日本の教育機関における日本語教育、安定した就労環境などの要因が大きいと指摘できた。個人的な趣味の延長でもあったが、結果的に私の専門分野は一層広がったのである。

本書の分析軸
そうした経験等を踏まえ、本書では副題ともなっている「時間・空間・階層」の3つの軸を検証の柱に据えた。

まず、時間とは、それぞれの移民が来日を決めてから現在に至るまでの歴史的経緯を意味している。それにより、移民コミュニティの概要を掴むことができ、来日の動機や日本で暮らす実情を踏まえることで日本語学習等における意欲の高低も捉えることができると考えた。

空間とは、居住地や居住形態を意味している。コミュニティの構成員が集住しているのか、分散居住かを捉えることで、コミュニティの連携や日本社会との関係の度合いも見えてくる。また、自宅、賃貸住宅、会社が用意した住宅のいずれを選択する傾向が強いのかを掴むことで、それぞれの移民コミュニティの定住傾向を知ることができると考えた。例えば、東海地方や北関東の工業都市に集住する日系ブラジル人の場合、来日当初は会社の用意した住宅を選択することが多かったが、日本への居住が10年を超えるようになると定住志向が増し、自宅を購入する傾向が見られるようになった。彼らの居住については、地域社会とは十分なコミュニケーションがとれておらず「顔の見えない定住化」と称されてもいるが、選択肢が広がったことは間違いない。

そして、階層について見ることで、それぞれの移民コミュニティの置かれている経済的状況、家族それぞれの人生設計などを捉えることができる。また、通常階層が異なると同一地域出身者であってもコミュニケーションが十分でないケースも見られたが、子弟の学校を中心として東京都江戸川区に集住傾向が見られる東京のインド人の事例では、階層や職業を越える交流も見られた。


本書の構成
そうした枠組みを踏まえた上で、本書は全体を5つの章に分けた。第1章は「80年代以前および難民のコミュニティ形成-主に生活防衛のための集住」と題し、在日コリアン等の1980年代以前から日本で暮らす移民コミュニティを振り返った。また、1980年前後からインドシナ難民が数千人規模で日本での生活を始めたことを受け、代表的な難民の状況も同章の中で扱うこととした。日本の中で、社会的に厳しい中に置かれた彼らの状況には似通った性質がある。

第2章は「80年代以降の低賃金労働者-就業条件による集住・分散と存続・消滅」と題し、前掲のバブル経済前後の状況に着目し、移民の状況、およびコミュニティの実情を解説した。超過滞在者として日本で就労していた人々のコミュニティに関する記述は、その後の取締等もあって、彼らが姿をほぼ消してしまった点で貴重なものである。

第3章は「80年代以降の研修生・技能実習生-就業業種による規定と一時的滞在性」と題し、地方の深刻な労働力不足の中で、研修・技能実習制度が拡充していった状況を捉え直している。同制度については、各種の人権侵害や劣悪な労働環境など課題が指摘されており、その改善も進まない中で、2019年に在留資格「特定技能」が新設された。そうした状況は、彼らの実情を出身国別に比較検討する必要性を高めた。

第4章は「高度人材の移動と分散-IT革命を転機として」と題し、近年その存在に注目が集まる高度人材について検証した。高度人材については、現在、国際的な獲得競争が進んでおり、かつての欧米の白人男性が想起された時代とは大分様相が異なっている。また、本書(移民・ディアスポラ研究シリーズ全体を含む)の特性として、2019年のラグビーワールドカップでも注目を集めたトンガ人ラグビー選手の状況を扱っていることが挙げられる。彼らのような職業選択が可能になったのも、現代の多様性の証左の一つといえよう。

第5章は「2010年代の新規移民-継続する課題と次世代の胎動」と題し、リーマンショックや東日本大震災後に増加傾向を見せる新たな移民に着目した。それぞれの移民の記述には、子弟についての言及があり、移民2世が直面する問題については、第2章で扱った移民がかつて頭を悩ませた状況を想起させる。移民を取り巻く課題は、前述の日本社会とのコミュニケーション不全以外にも多く引き継がれている。

本書から見えて来る既知の結論
本書全体から見えて来る特性としては、第一に、就労条件として分散居住を強いられる場合(フィリピン人エンターテイナー、技能実習生等)を除くと、移民に集住傾向が見られることが挙げられる。日本社会でマイノリティに位置する移民コミュニティにとって、日本から国としての十分な支援が無い以上、同郷者の中で情報を共有し、支援し合わなければならなかったのである。

第二に、特定の移民コミュニティに定住傾向が見られる点が挙げられる。いわゆるオールドカマーと呼ばれる在日コリアンなどは、歴史的経緯やそれに基づく在留資格により定住を決めてきたが、1980年代以降に増加した移民の場合、日本人との結婚を通じて安定した在留資格を得たケースが多い。あるいは、日系人のように安定した在留資格をもって来日した場合もある。

第三の傾向として、インターネットがコミュニティを繋ぐ装置として機能し始めていることが挙げられる。SNSやスマートフォンの定着により、かつてのようにエスニックショップ等のコミュニティの結節点となる施設が必要不可欠ではなくなり、過去に日本で暮らした人や定住している人の経験が引き継がれるようになった。一方で、ネットの特性としてコミュニティ内での意思疎通のみが進み、他者を遠ざけやすいことも挙げられる。日本社会との接点づくりは、日本社会、移民コミュニティ双方の課題であり続けている。

ただし、こうした「安定した在留資格」「日本人との個人レベルの関係形成」「コミュニケーションの拡充」といった要因が移民コミュニティと日本社会を繋ぐという認識は、以前より研究や自治体の現場で語られてきた。しかし、前掲の意識の問題と同様、十分な変化もないままに対策が遅れてきた部分が大きい。日本が現実的に移民を不可欠の存在と認識している以上、各種の法制度を整備し、彼らを同じ社会の構成員として認識する中で、明確となっている課題に対処することが求められている。
2020.8.25 書評:戦時下の小田原地方を記録する会編『戦中戦後の箱根病院 パラリンピックに出場した傷痍軍人』世界につながる地域史の記録
2020年(評者:立教大学異文化コミュニケーション学部准教授 石坂浩一)
2020年の東京オリンピックとパラリンピックは夏の時点では1年延期とされている。こうした状況でメディアなどでは、めげずに練習に励むアスリートのエピソードが報じられている。取り上げられるのは何といってもオリンピックのほうだろう。パラリンピックは、新聞記事やニュースが散見される程度といっていいかもしれない。

しょうがいのある人びととともに社会を構築していくための象徴的行事と考えられているパラリンピックだが、実は第二次世界大戦における傷病兵たちのリハビリに起源があるということは、多少知られてはいるだろう。だが、ほかならぬ日本においても64年の東京パラリンピックには選手団53人が参加した。そして、傷痍軍人2人を含む19人もが箱根にある箱根病院、かつての傷痍軍人箱根療養所から参加していたのであった。こうした神奈川県西部の地域史からたどる、パラリンピックの歴史を伝える小冊子が「戦時下の小田原地方を記録する会」の作った『戦中戦後の箱根病院 パラリンピックに出場した傷痍軍人』である。

近代日本は戦争を繰り返してきたが、特に1904年から05年の日露戦争では戦傷病者が15万人にのぼり、貧しく身寄りのない負傷兵を収容することを目的に「廃兵院」という収容施設が設立された。かなり即物的な名称だが、国家から見れば兵力として廃物となった人間という意味なのだろう。当初は東京に置かれた「廃兵院」だが、周辺の都市化が進み療養施設にふさわしい環境ではなくなってきたため、36年に神奈川県の箱根に移転、31年に「傷痍軍人」という名称が正式に定められたことから名称も「傷兵院」として発足した。やがて戦争の深刻化に伴い、1940年、傷痍軍人箱根療養所が箱根傷兵院の中に設けられた。重度のしょうがいを伴う脊髄損傷患者の療養を専門とする療養所であった。

戦後まもなくGHQの指令により、傷痍軍人に対する手厚い支援や軍人恩給は停止され(その後、日本の独立とともに復活)、45年12月に傷痍軍人箱根療養所は国立箱根療養所と改称、療養所は一般傷病者を受け入れるようになった。だが、傷痍軍人やその家族はほかに行くところもなく、一部退所した人もいたが、戦後久しく暮らすことになったのである。

療養所で暮らした元傷痍軍人の青野繁夫さんは東京パラリンピックの選手宣誓を行ない、水泳とフェンシングで2つの銀メダルを獲得した。本書では療養所の歴史をはじめ、しょうがいを背負いながら貧しい暮らしを強いられた傷痍軍人やその家族の物語が記述されている。青野さんがパラリンピックで活躍した人物であることから、その記録がたやすく見つかるものと思った東京新聞の加藤行平記者が、さんざん遠回りをして青野さんの遺族にたどり着いた経緯も本書に収められている。

箱根に傷痍軍人の診療所があったことにこだわりを持って証言や資料を集めてきた「戦時下の小田原地方を記録する会」の作業は、本書の制作に貴重な記録を提供している。本書には「記録する会」のしてきた聞き取りがいくつも収められている。何より、地域で戦争を考え記録するというのが同会の活動の趣旨だが、パラリンピックの開催を前に本書に結びついたのである。

本書で療養する元軍人の家族たちの語りは貴重である。特に、大部分が単身者であった元傷痍軍人に嫁いできた女性、子どもたちの存在や思いは、さまざまなことを考えさせられる。また、街頭でアコーディオンを奏でて募金を求める傷痍軍人たちの姿に不満を述べる療養所の子どもたちの発言も、見逃せない気がした。本書では日本傷痍軍人会によって白衣募金者一掃運動が展開されたことが簡単に言及されている。実は朝鮮半島出身者は戦後、日本国籍を喪失させられたことによって一切の国家支援から排除され、1960年代までこうした「白衣募金運動」をしていた。それが1963年にテレビドキュメンタリー大島渚監督「忘れられた皇軍」として放映された。このドキュメンタリーが放送されるまで、白衣募金の軍人が在日朝鮮人であることを知る人はほとんどいなかったし、放送以降も、ごく一部の人びとの記憶にしか残らなかったのである。実は私も小学生の頃だろうか、白衣募金の軍人さんたちを見たことがある。渋谷駅だったような気がするが、記憶はあいまいだ。そのころは何も知らずに、ただ怖い気がしたという記憶がある。なぜこの人たちは、こうして街頭に立たなければならないのかは、確か高校生くらいになって知った。この点は身近なところでは田中宏『在日外国人』(岩波新書、現在は第三版、2013年)Ⅳ章をご参照いただきたい。

現在のパラリンピックは戦争とは無縁のように見えるが、実は2010年代のロンドンやリオのパラリンピックにおいても、イラクやアフガニスタンで負傷した米国や英国の傷痍軍人が参加しているという。このことは朝日新聞の斉藤寛子さんが本書の中で寄稿している。このように地域の歴史はパラリンピックというきっかけを通じて世界につながったといえると思う。パラリンピック自体は延期になったとはいえ、日本における戦争の歴史を見据えていくためにタイムリーな小冊子ではないだろうか。それぞれが自分の暮らす地域で、歴史を見つめ直していくならば、それはきっと広い歴史につながっていくということを、本書を通じて教えられた。

記録する会では、その名称の通り小田原を中心とした神奈川県西部の戦争にかかわる地域史をこつこつと記録する作業を続けてきた。1979年から活動を継続しているというから、もう40年以上の歴史を持つ。『市民が語る小田原地方の戦争』(2000)『小田原地方の戦争遺跡』(2005)などの本を出してきたほか、年2回発行の『戦争と民衆』という会誌を発行し、すでに85号を発行した。主要なメンバーは地域の学校教員という。ささやかな会だが、こうした人びとが戦後日本の平和を支え、教育を支えてきたのではないだろうか。ちなみに、会の連絡先の井上さんは立教大学の卒業生である。

本書(頒価700円)をお読みになりたい方は、通常の書店では扱われていないため、250-0011 小田原市栄町3-13-21 井上様方 戦時下の小田原地方を記録する会にご連絡いただきたい。
異文化コミュニケーション学部教員 石坂浩一
2020.8.19【寄稿】世界に広がった『日本政治論』(立教大学名誉教授 五十嵐暁郎)

『日本政治論』3つの翻訳

五十嵐暁郎


拙著『日本政治論』の翻訳が出版されていることについて紹介するようにとの依頼があり、この文章を書いています。これまでに英語、中国語、韓国語の3カ国語に翻訳、出版されました。

1 日本語版『日本政治論』
翻訳語版の紹介の前に、日本語版の『日本政治論』(2010年、岩波書店)について説明させていただきたいと思います。この本の「まえがき」に詳しく書いたように、本書は立教大学法学部の「日本政治論」のテキストとして書かれました。私は1975年に法学部助手に採用され、3年間の神奈川大学勤務を経て1980年に法学部に戻りましたが、その時以来担当したのが日本政治論でした。

立教大学の政治学グループ(当時は政治学科はありませんでした)は、発足以来、日本、アジアの政治研究、教育を特色にしていたので「日本政治論」という講義名を掲げたのですが、他の大学に例がなく、従って講義に使用できるテキストもありませんでした。そこで、当時使用され始めたワープロを利用して講義内容のレジュメを作成し、毎回配布しました。その冊子を研究室の机の上に置いていたのを、たまたま訪ねてきた岩波書店の阪本政謙さん(現 岩波書店取締役)が手にとって「教科書にしましょう」と言ってくれたのが本書誕生のきっかけになりました。

これからご説明するように、翻訳版も立教大学の人脈によって支えられているのですが、日本語版は立教大学の政治学グループ、とりわけ高畠通敏教授の教示によるところが少なくありません。これも「まえがき」に書いたことですが、立教大学を舞台にした国際会議や国際交流から示唆されたことも多かったです。そして、講義をした対象が立教大学の学生諸君だったことも重要でした。彼らは私が政治学を語りかける「市民」をイメージさせる人々だったからです。ジェンダーと政治や地域の政治を取り上げたのも、この本の特色になりました。
2 中国語版
最初に翻訳が出版されたのは中国語版でした。2015年に北京大学から出版されました。翻訳、出版する本を選考する委員会のメンバーに高原明生(もと法学部教授、現東京大学教授)さんや上田信さん(文学部教授)がいらっしゃるので、ここでも立教大学人脈のお世話になったと思っています。

出版元を北京大学にするか、それとも社会科学研究院にするかという問い合わせが来て、たいした根拠もなく北京大学にお願いしたいと回答したのですが、それ以来忘れかけていたところ、ある日ドサっと段ボールが届き、その中に中国語版の『日本政治論』がぎっしり入っていました。なかなかスマートな体裁だという印象でした。自分の本の外国語版を手にするのは初めてだったものですから、新鮮な感慨でした。
3 英語版
中国語版と並行して英語版翻訳、出版の計画が進んでいました。この計画は平和コミュニティ研究機構のメンバーでもあるマーク・カプリオさんが中心になって進めてくれていました。カプリオさんは私が2012年に立教大学を退職するのに合わせて英語版を「サプライズ」として私にプレゼントしてくれる計画でした。カプリオさんは、2000年前後に私をアドバイザーとしてシカゴ大学から訪日していた博士候補たちと知り合いになっており、彼らに連絡をとって「密かに」翻訳計画を進めていました。

当時すでに日本研究の第一線の研究者として全米の大学の教壇に立っていた人たちが忙しいスケジュールの中、時間を割いて翻訳してくれました。アドバイザーとしてたいしたこともしなかったのにと感謝しています。その後、学会などで会う機会があったときは記念の食事をご馳走させてもらっています。

一番大変だったのはカプリオさんで、10章(英語版には東京電力福島第一原子力発電所の大事故を考察したJapan’s nuclear power politicsの1章を加えています)すべての翻訳が正確であるかを確認し、文体を統一するという仕事が待っていました。大変な労力と時間を費やさせたと思います。この作業は、長い付き合いになるミランダ・シュラーズさん(ミュンヘン工科大学教授)によってもう一度行われました。お二人の労に深く感謝しています。

出版はRoutledgeが引き受けてくれ、Routledge Studies on Comparative Asian Politicsシリーズの1冊として、Japanese Contemporary Politics のタイトルで、電子図書とともに2018年に出版されました。『日本政治論』には多くの資料が掲載されており、表やグラフのアップデートが必要でしが、この作業は立教大学での長年の同僚だった影山純子さんが担ってくださいました。

4 韓国語版
ここまで来たら、私としては何とか韓国語版を出版できないものかと思い始めました。というのも、比較するという点でも、また隣国としてお互いに理解し合わなければならないという点でも、韓国は重要だからです。私自身、そういう思いで1989年3月から1年間韓国に滞在し、延世大学国際学部・大学院で教えながら韓国政治を研究しました。
そこで、出版を引き受けてくれる出版社を探してもらいました。その一方で翻訳を引き受けてくれる人がいないかと、立教大学大学院で博士号を取得した金斗昇さん(現 韓国国防研究院 安保戦略研究センター長)に相談しました。金さんは初め翻訳グループを組織しようと考えたようですが、結局一人で全巻を翻訳してくださいました。私の本の内容をよく知っているのは自分だから、私がこういうように考え、こう表現したいのだろうと、自分なら推測できるからと、のちに話してくださいました。ありがたい話でした。忙しい業務と並行しての翻訳作業は大変なご苦労だったと思います。韓国語版『日本政治論』は2019年にミョンイン文化社から出版されました。

以上、説明してきましたように、立教大学に関わる方々のおかげで『日本政治論』の中英韓国語版の出版という幸運に恵まれました。多くの読者に現代日本の政治について知っていただける機会を得たことを喜んでおります。
(2020年8月17日)
2020.4.15【書籍紹介】日本で広がる『草』の連帯(立教大学兼任講師 李昤京(リ・リョンギョン))

日本で広がる『草』の連帯

『草』は元日本軍「慰安婦」被害者李玉善(イ・オクソン)の人生を描いた作品で、2017年韓国で出版された。上記は本文の慰安所の絵。©「ころから」提供

李昤京(リ・リョンギョン)


「慰安婦」被害者李玉善(イ・オクソン)の人生を描いた『草 日本軍「慰安婦」のリビング・ヒストリー』の日本語出版を記念し、作家との出会う会が開かれた。金ジェンドリ錦淑(キム・ジェンドリグムスク)作家は出版から作家との出会う会まで共にしてくれた人たちを「チーム草」と呼び、感謝の気持ちを伝えた。

さる2月21日から24日まで東京・大阪・広島・福山でグラフィックノベル『草』の日本語版出版記念「金ジェンドリ錦淑作家と出会う会」が開かれた。『草』は元日本軍「慰安婦」被害者李玉善(イ・オクソン)の人生を描いた作品で、2017年8月14日に韓国で出版され、続いてフランス語、英語、イタリア語でも出版された。日本語翻訳は聖公会大学で平和と人権について研究している都築寿美枝の情熱で実現した(『時事IN』第603号「慰安婦問題に生涯をかけたある日本人女性の人生」記事参照)。都築寿美枝の古い友人であり運動の同志でもある池田恵理子(アクティブミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」WAM名誉館長)と岡原美知子(日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワーク事務局長)が出版委員会共同代表となって立ち上がり、出版は権倫徳(クォン・ユンドク)作家の絵本『花ばぁば』を出した「ころから」が受け持った。私は都築寿美枝と共に翻訳を担当した。

少しでも本の定価を下げるために「世界で読まれている‘慰安婦’漫画『草』を翻訳刊行したい!」というクラウドファンディングを始めた。昨年9月7日に始めた1次ファンディングは4日で目標額の145万円を達成し、2次ファンディングもあっという間に目標額を超えた。432人の市民が賛同し、読者280人が作家と出会った。

金ジェンドリ錦淑作家はこの出会う会で『草』の制作動機と過程、作家としての考えを語った。白黒の水墨画で最大限に無駄を省いた『草』の絵のように、抑えられた感情が醸し出す簡潔で澄んだ、長い苦悶がにじんだ言葉を聞くことができた。1993年「慰安婦」問題に始めて接し、フランス留学時代に関連した通訳をした彼女が「慰安婦」問題をテーマに初めて作品を描いたのは2013年だった。そして自身に問いかけ続けたという。貧しい家の子どもであり植民地の女性として生まれた一人の人間が、どんなふうに帝国主義の戦争に「慰安婦」という補給品として動員されたのか、ひょっとして韓国と日本を被害と加害という二分法的見方で「慰安婦」問題を扱ってはいなかったか、だから何を語り描くべきかと。

『草』は読者に教えようとする作品ではない。簡潔に描写された登場人物を通して読者自身の内面を見つめるようにさせ、筆のタッチで表情を変える風・雨・山・木・木の葉・草は李玉善の心を想像してみろと誘導する。都築寿美枝と李玉善、二人との縁もあったが、私が翻訳に参加するようになった大きな理由は金ジェンドリ錦淑作家の暴力に対する感受性だった。金作家は被害者たちが受けた性暴力を露骨に表現するのは二次加害だと断言した。李玉善と一緒に見ることができる本を作りたかったと言った。

2月22日大阪多民族共生人権教育センターで開かれた金ジェンドリ錦淑作家と出会う会 ©岡原美知子提供。

『草』の中、慰安所の部屋の前には軍靴が置かれている。その部屋の「主人」である女性がきちんと揃えて置いたはずの軍靴がある部屋の中で起きていることを読者が想像するのだ。擦れた筆のタッチが到底言葉では説明できない想像力の門を開く。性暴力に弄ばれた15才の李玉善が6コマの暗闇の中に吸い込まれていく。3ページにわたる黒いコマの中に獣のような悲痛の叫びが詰まっている。節くれた老人の手は、彼女が生涯背負ってきた苦痛の深淵を表す。暴力被害者たちの証言を聞いたことのある人は被害者たちが最も辛い証言をするとき目を伏せて沈黙の中手や足を眺めることを知っている。金ジェンドリ錦淑作家の『草』は苦痛の連帯を訴える。
表紙を見て涙を流した李玉善

苦痛の連帯と暴力に対する想像力は平和に対する想像力に繋がる。『草』の中に作家自身が登場し、15才の李玉善が歩いた中国延吉の通りを歩きながら空気を感じる。金作家は李玉善の中国での生活はもちろん韓国社会の「慰安婦」被害者に対する冷たい視線と差別も見逃さない。そして生に対する強靭な意志で強く耐え抜き、今は韓国で平和運動家であり人権運動家として暮らす明るく愉快な李玉善を描く。風に飛ばされ軍靴に踏みにじられてもまた立ち上がる「草」を歌い上げる。

各地で出版と作家との出会う会を応援してくれた人たちは出版委員3名の同志たちだ。その中でも1990年代から元日本軍「慰安婦」問題解決運動と被害者支援運動をしてきた同志たちに『草』は貴重なプレゼントだ。慰安所で経験した被害事実だけでなく、李玉善が生きてきた時代状況と個人が乗り越えてきた歴史をしっかりした叙事で書き綴った『草』は同志たちが会ってきた各国の被害者たちの人生であり歴史だ。作家との出会う会に参加した同志たちは李玉善と朝鮮人被害者、中国、台湾、フィリピンの被害者を思い浮かべた

金ジェンドリ錦淑作家から完成した本を渡してもらった90才の李玉善は表紙を見ただけでも泣いた。韓国版表紙に描かれた15才の李玉善は父が最初で最後に結ってくれたお下げ髪姿だ。日本語版表紙には荒涼とした野原に李玉善が呆然と立っている。その足元から遠い山の向こうまで真っ黒い草が風に揺さぶられ、がらんと空いた余白に草が倒れている。その草たちは作家がこの本を捧げたかった「李玉善たち」、国籍と生死にかかわらず全ての日本軍「慰安婦」被害者たちだ。

左:日本語版表紙/右:韓国語版表紙

日本語版翻訳計画を最初に聞いた金ジェンドリ錦淑作家は果たして可能だろうかと疑問だったという。だが『草』は日本で出版され、彼女は読者たちに会った。4日間行われた作家との出会う会で金ジェンドリ錦淑作家は草の一株を分けるように心を込めてサインした『草』を読者たちに手渡した。ある読者は女性差別と民族差別をなくすために努力すると明るく溢れる笑みで、ある10代の読者は学校で学べない歴史に向き合うようになったと涙を浮かべて作家に感謝を伝えた。金ジェンドリ錦淑作家は出版から作家との出会う会まで共にしてくれた同志たちと読者たちを「チーム草」だと讃えた。今や「チーム草」は『草』を教材に授業をし、地元の図書館に『草』購入申請をし、話せるところならどこでも『草』の「李玉善たち」を語るのだ。

(翻訳:都築寿美枝)

※本稿は李昤京が編集委員を勤めている韓国の週刊誌『時事IN』2020年3月17日第652号に掲載された記事の転載である。

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