研究・研究者紹介/書評平和・コミュニティ研究機構

2020.9.3 書評:山家悠紀夫『日本経済30年史: バブルからアベノミクスまで』(岩波新書)「構造改革」という名の蟻地獄、衰退続けた平成日本経済
2019年(評者:(株)共同通信社取締役・アグリラボ所長 石井勇人)

「構造改革」という名の蟻地獄、衰退続けた平成日本経済

書評:山家悠紀夫『日本経済30年史: バブルからアベノミクスまで』(岩波新書)
(株)共同通信社取締役・アグリラボ所長 石井勇人

「アベ1強」と言われ、憲政史上最長の約7年8ケ月にわたって政権を担った安倍晋三首相は、自身の持病の悪化という理由であっけなく退陣した。この政権の経済政策をどのように評価するべきなのか。また、後継の政権に対してどのような経済政策を期待したらよいのか。こうしたことを考える上で、サブタイトルに「バブルからアベノミクスまで」を掲げる本書は、とても参考になる。

経済政策に限らないが、長期政権を評価するには、10年単位の時間軸に立つ視点が必要だからだ。特に1章を中心に、豊富なデータがグラフや図表で示され、30年間の景気の動き、企業業績、所得など私たちの暮らしの変化を、客観的に思い起こすことができる。

本書は、日本のバブル経済の崩壊を起点に、①バブル崩壊(90~97年)②構造改革(97~2009年)③民主党政権(09~12年)④アベノミクス(13~19年)の4期に区分し、分析・評価している。

とりわけ構造改革について、橋本龍太郎(4章)、小泉純一郎(5章)、安倍晋三(8章)と政権ごとに批判しており、本書の中核と言ってよい。生きている企業まで潰しにかかった金融機関の不良債権処理や、本格的な景気回復のチャンスを繰り返し潰してきた消費税増税などを政策の失敗だと指弾する。著者はいち早く『偽りの危機 本物の危機』(97年)で、構造改革の問題点を指摘し、警告してきた。「企業の国際競争力は高まっても国民の生活水準は低下する」と言う予言は的中した。行間には「だからいったじゃないか」という嘆き節がにじみ出ている。蟻地獄のような構造改革によって、日本経済は衰退を続けた。

本書が「失敗」と断じる「アベノミクス」だが、安倍首相自身は辞任を表明した8月28日夕の記者会見で、経済政策を成果として強調した。改めて「3本の矢」—大胆な金融政策、機動的な財政出動、民間投資を喚起する成長戦略に言及したほどだから、強い思い入れがあるのだろう。

主要な報道機関も、アベノミクスの限界を指摘しながらも、株価の回復、企業業績の改善、求人倍率の上昇に象徴される就業者数の拡大、それらによる税収の増加をそろって評価した。確かに「デフレからの脱却」を宣言することはできなかったが「デフレではない状況」まで持ち直したのは事実だ。安倍首相が「悪夢」とまで罵倒する民主党政権の経済運営と比べれば、少なくとも「まし」というのが、平均的な受け止め方だろう。

著者の構造改革に対する分析は冷徹で厳しいのに対して、民主党政権の経済政策に対する評価は情緒的で寛容だ。例えば、1ドル=80円前後まで進んだ超円高の原因について、「真相は不明である」と踏み込まず、不十分だった金融緩和など円高対応の無策ぶりについての批判はない。鳩山由紀夫政権が退陣した理由についても「外務官僚に偽造文書を示され騙された?」と、鳩山氏自身が語る陰謀説を一方的に紹介している。週刊誌レベルというほかない。

本書で著者自身が指摘しているように、菅直人政権の「新成長戦略」は「背信」とも言える構造改革路線だったし、野田佳彦政権の存在はアベノミクスへの「道ならし」だった。国民の期待を裏切った民主党政権の責任は極めて重いのに、本書は「米国、財界、官僚の壁が厚く」、民主党政権にはその壁を突破する力が欠けていた」と同情し、「多くの国民に夢を与えてくれた」と、とことん甘い。

「日本経済」がタイトルである以上、歴代政権ごとの評価になるのはやむを得ないが、評者としては、本書の時代区分に対しても異論がある。確かにソ連の崩壊(91年)前後からグローバル化が加速した。しかし日本のバブル経済の前史の起点は1985年のプラザ合意だ。米国が冷戦に勝利して新自由主義が台頭したのは半面の事実だが、冷戦を戦ってきた米国側のダメージも大きかった。

米国は双子の赤字(財政赤字と経常収支の赤字)の膨張に苦しみ、自由貿易体制を維持するには、主要5カ国が協調してドル安に誘導しなくてはならないほど疲弊していた。プラザ合意の翌年の86年にまとめられた「国際協調のための経済構造調整研究会報告書」(通称・前川レポート)こそ、名実ともに構造改革の原型だ。

その後の日本の経済政策は、鳩山政権の束の間の「夢」を除けば、緩慢の差こそあれ一貫して構造改革路線だった。97年に発生したアジア通貨危機は、インドネシアや韓国を国際通貨基金(IMF)の管理下による究極の構造改革に追い込んだほか、日本でも金融機関の連鎖的な経営破綻を招き、構造改革を加速した。

さらに90年代に急激に普及したインターネットを軸とする情報技術(IT)分野の技術革新がグローバル化を加速した。本書はほとんど触れていないが巨大化したデジタル企業こそ、日本にグローバル化を迫ったエンジンであり、もはやデジタル産業の母国である米国という国家さえ制御が困難な状況になった段階でリーマン・ショック(2008年)が起きた。

これを機に欧米各国は行きすぎたグローバル化を反省し、政策の転換に乗り出した。英国の欧州連合(EU)からの離脱、米国におけるトランプ政権の誕生、彼が真っ先に署名した環太平洋連携協定(TPP)からの離脱は、グローバル化の反転の象徴だ。「小さな政府」から「大きな政府」へ。「国際協調」から「自国ファースト」へ。独り安倍政権だけが国際潮流からは周回遅れでグローバル化と構造改革を加速したというのが、評者の認識だ。

本書が書き上げられた後になって、新型コロナウイルスの感染が拡大し、もはやグローバル化の弊害と構造改革の行き詰まりは決定的になった。自由貿易は強い制約を受け、各国とも「大きな政府」への転換を迫られている。2020年は間違いなく、1985年(プラザ合意)、97年(アジア通貨危機)、2008年(リーマンショック)と並ぶ画期点となるだろう。

著者は、約30年前のウルグアイラウンド(新多角的貿易交渉)のころから「自由貿易の世界は絶対ではない」、「農作物に関して私は保護貿易主義者である」と公言していた。当時の「予言」は『日本経済 気掛かりな未来』(99年)に再録されており、その先見性には脱帽するしかない。

著者は、財政赤字についても早い段階から「政府の財政危機と国民の生活の危機を混同してはいけない」と警告してきた。本書でも「日本は世界一の金余り国」(9章)に再掲している。一昨年あたりから国際的にも議論されている現代貨幣理論(MMT)の先駆的理論だ。それなのに本書ではMMTに関する記述がない。図らずも、新型コロナ対策で各国ともそろって巨額の財政出動に迫られており、この理論の妥当性を確かめる壮大な社会実験が進行中だ。コロナ禍を受けた本書の緊急増補版を強く期待する。

【評者略歴】石井勇人(いしい・はやと)  1981年に社団法人共同通信社に入り、ワシントン駐在、経済部次長、編集委員兼論説委員などを経て、2019年9月から株式会社共同通信社取締役。食農地域をつなぐ研究所「共同通信アグリラボ」を主宰し、webサイト「めぐみネット」(URL:https://agrilab.kyodo.co.jp/)を創設。19年まで4年間「農政ジャーナリストの会」の会長を務めた。著書に『農業超大国アメリカの戦略ーTPPで問われる「食糧安保」』(13年、新潮社)、共著に『亡国の密約ーTPPはなぜ歪められたのか』(16年、同)など多数。
2020.9.3 自著紹介:駒井洋監修・小林真生編『移民・ディアスポラ研究9 変容する移民コミュニティ-時間・空間・階層』(明石書店、2020) 日本の多様な移民コミュニティを俯瞰する(本学兼任講師 小林真生)
本書を生んだ時代の要請
新型コロナウイルスが世界の大きな懸念となった2020年。ヒトの往来は制限され、海外からの観光客は殆どゼロという状態になった。しかし、日本で暮らしている外国人の数は殆ど変わっていない。およそ大阪市の人口に匹敵する外国人登録者が日本にはおり、帰化を選択した人も多いことを考えれば、政府の方針とは異なり、日本は明らかに移民社会である。実際、先進国クラブとも呼ばれるOECD(経済協力開発機構)の統計において、2016年の外国人の流入人口ランキングで日本は4位との結果が出ている。そもそも日本は1億2千万の人口を有しており、外国人比率は低くとも、国内で日常を送っている外国人の数は各国と比べて多いのである。

そして、1980年代までは外国人といえば東京等の大都市で見かける欧米系の白人という印象であったが、バブル期に労働力不足が顕著になり、各地で超過滞在のアジア出身者が多く雇用されるようになった。しかし、彼らの存在が各種の摩擦を生むようになると、政府は日系人に「日本人の配偶者等」または「定住者」との在留資格を与え、加えて海外からの研修生を「研修」の名を借りて労働力として用いるようになり、彼らを超過滞在者の代替としたのである。日系南米人や外国人研修生(技能実習生)の存在は次第に大きくなり、多くの研究者の関心も集めた。しかし、2008年のリーマンショックと2011年の東日本大震災を機に、彼らの一部に帰国の流れが起き、2010年代には新しい層の移民が増加していった。また、日本政府は国際的な人材獲得競争にも参入し、高度人材の来日も促進されたのである。

そうした状況の中で、それぞれのコミュニティごとの特性が見えてきたものの、通常、一人の研究者の専門は限定されたものであり、それぞれの論考を繋ぎ合わせて概要を掴むしか現状への理解を深める方法は無かった。しかし、地域社会で移民コミュニティと接する人々にとっては、基準や指針もない中で対処するより他なく、試行錯誤が求められたのである。加えて、一つの地域に複数国の出身者が混在する場合、そうした困難は一層深刻にならざるを得ない。そこで、一貫した指針に基づいて一級の専門家の英知を結集し、日本の移民コミュニティを俯瞰する一冊を作る、という企画が生まれた。
本書に至る編者の経験
幅広い執筆陣をまとめる上で、様々な分野に精通していることが求められるが、それに際しては編者である私の経験が生きた。私が中学生の頃、日本はバブル景気の最中にあり、地方の工業都市である群馬県太田市では当初、パキスタン人やバングラディシュ人等が超過滞在の形で就労し、その後、日系ブラジル人が増加した。隣の大泉町は人口に占める外国人の割合が19%(2019年末)であることでも知られ、多くのメディアで「リトル・サンパウロ」や「リトル・ブラジル」の通称と共に取り上げられている。そうした中で、私の周囲では外国人に対する偏見を伴う言説を耳にする機会が増えた。その内容は、超過滞在の外国人であれ、日系ブラジル人であれ、ほとんど変わりがなかった。

大学進学を機に実家を離れた後も、私は「群馬県の状況が日本各地に拡散することは避けなければならない」との思いを抱えていた。しかし、残念ながら2000年前後にロシア人上陸者の多い北海道の複数の港湾都市で、「外国人お断り(JAPANESE ONLY)」の但し書きが多く見られるようになった。排他的な意識の地方への拡散を直観した私は、北海道で最もロシア人の上陸者の多い稚内市にて調査を開始した。すると、同地にはロシア人船員だけでなく、水産加工業に従事する中国人技能実習生も多く生活していることが分かった。地域社会が抱える問題は、一様ではなくなっていたのである。

また、同じくロシア人上陸者の多い富山県では、彼らにパキスタン人が日本製の中古車を販売し、極東方面へと輸出する一大産業を形成していることを知った。同地で調査を行うと、地元の工場には日系ブラジル人や中国人技能実習生が就労し、それぞれに問題を抱えていることも明らかとなった。21世紀の日本においては、人口が5万人にも満たない地方都市ですら外国人の混在が発生していたのである。そこで、現地で意識調査を行うと、両地域および日本全体の外国人に対する意識は極めて似通っていることが分かった。その成果は『日本の地域社会における対外国人意識-北海道稚内市と富山県旧新湊市を事例として』(福村出版、2012)として発表することとなったが、そうした経緯から、私は日系ブラジル人、ロシア人、パキスタン人、中国人技能実習生についての知見を得た。そして、彼らに対して日本社会は、労働力として必要であると痛感しながら、日常における接点が限定されているとの課題が共通して見て取れた。

私の研究には、故郷である群馬県が所々で存在感を示す。1990年代当時、地元は三洋電機(現在はパナソニックに吸収)のラグビー部が全国的な強豪となり、盛り上がりを見せていたが、その主軸には大東文化大学を経て入社したトンガ人の存在があった。その後、彼らの後輩は日本各地に活躍の場を広げていったことから、ラグビーファンでもあった私は彼らの国籍選択や留学過程等を研究するようになった。特に意識したのは、ほぼ同時期に日系ブラジル人とトンガ人が群馬県で暮らし始めたものの、周囲の日本人の認識に大きな差が生じた原因を探ることであった。限られた知見ではあるが、トンガ人に対しては大学などの日本の教育機関における日本語教育、安定した就労環境などの要因が大きいと指摘できた。個人的な趣味の延長でもあったが、結果的に私の専門分野は一層広がったのである。

本書の分析軸
そうした経験等を踏まえ、本書では副題ともなっている「時間・空間・階層」の3つの軸を検証の柱に据えた。

まず、時間とは、それぞれの移民が来日を決めてから現在に至るまでの歴史的経緯を意味している。それにより、移民コミュニティの概要を掴むことができ、来日の動機や日本で暮らす実情を踏まえることで日本語学習等における意欲の高低も捉えることができると考えた。

空間とは、居住地や居住形態を意味している。コミュニティの構成員が集住しているのか、分散居住かを捉えることで、コミュニティの連携や日本社会との関係の度合いも見えてくる。また、自宅、賃貸住宅、会社が用意した住宅のいずれを選択する傾向が強いのかを掴むことで、それぞれの移民コミュニティの定住傾向を知ることができると考えた。例えば、東海地方や北関東の工業都市に集住する日系ブラジル人の場合、来日当初は会社の用意した住宅を選択することが多かったが、日本への居住が10年を超えるようになると定住志向が増し、自宅を購入する傾向が見られるようになった。彼らの居住については、地域社会とは十分なコミュニケーションがとれておらず「顔の見えない定住化」と称されてもいるが、選択肢が広がったことは間違いない。

そして、階層について見ることで、それぞれの移民コミュニティの置かれている経済的状況、家族それぞれの人生設計などを捉えることができる。また、通常階層が異なると同一地域出身者であってもコミュニケーションが十分でないケースも見られたが、子弟の学校を中心として東京都江戸川区に集住傾向が見られる東京のインド人の事例では、階層や職業を越える交流も見られた。


本書の構成
そうした枠組みを踏まえた上で、本書は全体を5つの章に分けた。第1章は「80年代以前および難民のコミュニティ形成-主に生活防衛のための集住」と題し、在日コリアン等の1980年代以前から日本で暮らす移民コミュニティを振り返った。また、1980年前後からインドシナ難民が数千人規模で日本での生活を始めたことを受け、代表的な難民の状況も同章の中で扱うこととした。日本の中で、社会的に厳しい中に置かれた彼らの状況には似通った性質がある。

第2章は「80年代以降の低賃金労働者-就業条件による集住・分散と存続・消滅」と題し、前掲のバブル経済前後の状況に着目し、移民の状況、およびコミュニティの実情を解説した。超過滞在者として日本で就労していた人々のコミュニティに関する記述は、その後の取締等もあって、彼らが姿をほぼ消してしまった点で貴重なものである。

第3章は「80年代以降の研修生・技能実習生-就業業種による規定と一時的滞在性」と題し、地方の深刻な労働力不足の中で、研修・技能実習制度が拡充していった状況を捉え直している。同制度については、各種の人権侵害や劣悪な労働環境など課題が指摘されており、その改善も進まない中で、2019年に在留資格「特定技能」が新設された。そうした状況は、彼らの実情を出身国別に比較検討する必要性を高めた。

第4章は「高度人材の移動と分散-IT革命を転機として」と題し、近年その存在に注目が集まる高度人材について検証した。高度人材については、現在、国際的な獲得競争が進んでおり、かつての欧米の白人男性が想起された時代とは大分様相が異なっている。また、本書(移民・ディアスポラ研究シリーズ全体を含む)の特性として、2019年のラグビーワールドカップでも注目を集めたトンガ人ラグビー選手の状況を扱っていることが挙げられる。彼らのような職業選択が可能になったのも、現代の多様性の証左の一つといえよう。

第5章は「2010年代の新規移民-継続する課題と次世代の胎動」と題し、リーマンショックや東日本大震災後に増加傾向を見せる新たな移民に着目した。それぞれの移民の記述には、子弟についての言及があり、移民2世が直面する問題については、第2章で扱った移民がかつて頭を悩ませた状況を想起させる。移民を取り巻く課題は、前述の日本社会とのコミュニケーション不全以外にも多く引き継がれている。

本書から見えて来る既知の結論
本書全体から見えて来る特性としては、第一に、就労条件として分散居住を強いられる場合(フィリピン人エンターテイナー、技能実習生等)を除くと、移民に集住傾向が見られることが挙げられる。日本社会でマイノリティに位置する移民コミュニティにとって、日本から国としての十分な支援が無い以上、同郷者の中で情報を共有し、支援し合わなければならなかったのである。

第二に、特定の移民コミュニティに定住傾向が見られる点が挙げられる。いわゆるオールドカマーと呼ばれる在日コリアンなどは、歴史的経緯やそれに基づく在留資格により定住を決めてきたが、1980年代以降に増加した移民の場合、日本人との結婚を通じて安定した在留資格を得たケースが多い。あるいは、日系人のように安定した在留資格をもって来日した場合もある。

第三の傾向として、インターネットがコミュニティを繋ぐ装置として機能し始めていることが挙げられる。SNSやスマートフォンの定着により、かつてのようにエスニックショップ等のコミュニティの結節点となる施設が必要不可欠ではなくなり、過去に日本で暮らした人や定住している人の経験が引き継がれるようになった。一方で、ネットの特性としてコミュニティ内での意思疎通のみが進み、他者を遠ざけやすいことも挙げられる。日本社会との接点づくりは、日本社会、移民コミュニティ双方の課題であり続けている。

ただし、こうした「安定した在留資格」「日本人との個人レベルの関係形成」「コミュニケーションの拡充」といった要因が移民コミュニティと日本社会を繋ぐという認識は、以前より研究や自治体の現場で語られてきた。しかし、前掲の意識の問題と同様、十分な変化もないままに対策が遅れてきた部分が大きい。日本が現実的に移民を不可欠の存在と認識している以上、各種の法制度を整備し、彼らを同じ社会の構成員として認識する中で、明確となっている課題に対処することが求められている。
2020.8.25 書評:戦時下の小田原地方を記録する会編『戦中戦後の箱根病院 パラリンピックに出場した傷痍軍人』世界につながる地域史の記録
2020年(評者:立教大学異文化コミュニケーション学部准教授 石坂浩一)
2020年の東京オリンピックとパラリンピックは夏の時点では1年延期とされている。こうした状況でメディアなどでは、めげずに練習に励むアスリートのエピソードが報じられている。取り上げられるのは何といってもオリンピックのほうだろう。パラリンピックは、新聞記事やニュースが散見される程度といっていいかもしれない。

しょうがいのある人びととともに社会を構築していくための象徴的行事と考えられているパラリンピックだが、実は第二次世界大戦における傷病兵たちのリハビリに起源があるということは、多少知られてはいるだろう。だが、ほかならぬ日本においても64年の東京パラリンピックには選手団53人が参加した。そして、傷痍軍人2人を含む19人もが箱根にある箱根病院、かつての傷痍軍人箱根療養所から参加していたのであった。こうした神奈川県西部の地域史からたどる、パラリンピックの歴史を伝える小冊子が「戦時下の小田原地方を記録する会」の作った『戦中戦後の箱根病院 パラリンピックに出場した傷痍軍人』である。

近代日本は戦争を繰り返してきたが、特に1904年から05年の日露戦争では戦傷病者が15万人にのぼり、貧しく身寄りのない負傷兵を収容することを目的に「廃兵院」という収容施設が設立された。かなり即物的な名称だが、国家から見れば兵力として廃物となった人間という意味なのだろう。当初は東京に置かれた「廃兵院」だが、周辺の都市化が進み療養施設にふさわしい環境ではなくなってきたため、36年に神奈川県の箱根に移転、31年に「傷痍軍人」という名称が正式に定められたことから名称も「傷兵院」として発足した。やがて戦争の深刻化に伴い、1940年、傷痍軍人箱根療養所が箱根傷兵院の中に設けられた。重度のしょうがいを伴う脊髄損傷患者の療養を専門とする療養所であった。

戦後まもなくGHQの指令により、傷痍軍人に対する手厚い支援や軍人恩給は停止され(その後、日本の独立とともに復活)、45年12月に傷痍軍人箱根療養所は国立箱根療養所と改称、療養所は一般傷病者を受け入れるようになった。だが、傷痍軍人やその家族はほかに行くところもなく、一部退所した人もいたが、戦後久しく暮らすことになったのである。

療養所で暮らした元傷痍軍人の青野繁夫さんは東京パラリンピックの選手宣誓を行ない、水泳とフェンシングで2つの銀メダルを獲得した。本書では療養所の歴史をはじめ、しょうがいを背負いながら貧しい暮らしを強いられた傷痍軍人やその家族の物語が記述されている。青野さんがパラリンピックで活躍した人物であることから、その記録がたやすく見つかるものと思った東京新聞の加藤行平記者が、さんざん遠回りをして青野さんの遺族にたどり着いた経緯も本書に収められている。

箱根に傷痍軍人の診療所があったことにこだわりを持って証言や資料を集めてきた「戦時下の小田原地方を記録する会」の作業は、本書の制作に貴重な記録を提供している。本書には「記録する会」のしてきた聞き取りがいくつも収められている。何より、地域で戦争を考え記録するというのが同会の活動の趣旨だが、パラリンピックの開催を前に本書に結びついたのである。

本書で療養する元軍人の家族たちの語りは貴重である。特に、大部分が単身者であった元傷痍軍人に嫁いできた女性、子どもたちの存在や思いは、さまざまなことを考えさせられる。また、街頭でアコーディオンを奏でて募金を求める傷痍軍人たちの姿に不満を述べる療養所の子どもたちの発言も、見逃せない気がした。本書では日本傷痍軍人会によって白衣募金者一掃運動が展開されたことが簡単に言及されている。実は朝鮮半島出身者は戦後、日本国籍を喪失させられたことによって一切の国家支援から排除され、1960年代までこうした「白衣募金運動」をしていた。それが1963年にテレビドキュメンタリー大島渚監督「忘れられた皇軍」として放映された。このドキュメンタリーが放送されるまで、白衣募金の軍人が在日朝鮮人であることを知る人はほとんどいなかったし、放送以降も、ごく一部の人びとの記憶にしか残らなかったのである。実は私も小学生の頃だろうか、白衣募金の軍人さんたちを見たことがある。渋谷駅だったような気がするが、記憶はあいまいだ。そのころは何も知らずに、ただ怖い気がしたという記憶がある。なぜこの人たちは、こうして街頭に立たなければならないのかは、確か高校生くらいになって知った。この点は身近なところでは田中宏『在日外国人』(岩波新書、現在は第三版、2013年)Ⅳ章をご参照いただきたい。

現在のパラリンピックは戦争とは無縁のように見えるが、実は2010年代のロンドンやリオのパラリンピックにおいても、イラクやアフガニスタンで負傷した米国や英国の傷痍軍人が参加しているという。このことは朝日新聞の斉藤寛子さんが本書の中で寄稿している。このように地域の歴史はパラリンピックというきっかけを通じて世界につながったといえると思う。パラリンピック自体は延期になったとはいえ、日本における戦争の歴史を見据えていくためにタイムリーな小冊子ではないだろうか。それぞれが自分の暮らす地域で、歴史を見つめ直していくならば、それはきっと広い歴史につながっていくということを、本書を通じて教えられた。

記録する会では、その名称の通り小田原を中心とした神奈川県西部の戦争にかかわる地域史をこつこつと記録する作業を続けてきた。1979年から活動を継続しているというから、もう40年以上の歴史を持つ。『市民が語る小田原地方の戦争』(2000)『小田原地方の戦争遺跡』(2005)などの本を出してきたほか、年2回発行の『戦争と民衆』という会誌を発行し、すでに85号を発行した。主要なメンバーは地域の学校教員という。ささやかな会だが、こうした人びとが戦後日本の平和を支え、教育を支えてきたのではないだろうか。ちなみに、会の連絡先の井上さんは立教大学の卒業生である。

本書(頒価700円)をお読みになりたい方は、通常の書店では扱われていないため、250-0011 小田原市栄町3-13-21 井上様方 戦時下の小田原地方を記録する会にご連絡いただきたい。
異文化コミュニケーション学部教員 石坂浩一
2020.8.19【寄稿】世界に広がった『日本政治論』(立教大学名誉教授 五十嵐暁郎)

『日本政治論』3つの翻訳

五十嵐暁郎


拙著『日本政治論』の翻訳が出版されていることについて紹介するようにとの依頼があり、この文章を書いています。これまでに英語、中国語、韓国語の3カ国語に翻訳、出版されました。

1 日本語版『日本政治論』
翻訳語版の紹介の前に、日本語版の『日本政治論』(2010年、岩波書店)について説明させていただきたいと思います。この本の「まえがき」に詳しく書いたように、本書は立教大学法学部の「日本政治論」のテキストとして書かれました。私は1975年に法学部助手に採用され、3年間の神奈川大学勤務を経て1980年に法学部に戻りましたが、その時以来担当したのが日本政治論でした。

立教大学の政治学グループ(当時は政治学科はありませんでした)は、発足以来、日本、アジアの政治研究、教育を特色にしていたので「日本政治論」という講義名を掲げたのですが、他の大学に例がなく、従って講義に使用できるテキストもありませんでした。そこで、当時使用され始めたワープロを利用して講義内容のレジュメを作成し、毎回配布しました。その冊子を研究室の机の上に置いていたのを、たまたま訪ねてきた岩波書店の阪本政謙さん(現 岩波書店取締役)が手にとって「教科書にしましょう」と言ってくれたのが本書誕生のきっかけになりました。

これからご説明するように、翻訳版も立教大学の人脈によって支えられているのですが、日本語版は立教大学の政治学グループ、とりわけ高畠通敏教授の教示によるところが少なくありません。これも「まえがき」に書いたことですが、立教大学を舞台にした国際会議や国際交流から示唆されたことも多かったです。そして、講義をした対象が立教大学の学生諸君だったことも重要でした。彼らは私が政治学を語りかける「市民」をイメージさせる人々だったからです。ジェンダーと政治や地域の政治を取り上げたのも、この本の特色になりました。
2 中国語版
最初に翻訳が出版されたのは中国語版でした。2015年に北京大学から出版されました。翻訳、出版する本を選考する委員会のメンバーに高原明生(もと法学部教授、現東京大学教授)さんや上田信さん(文学部教授)がいらっしゃるので、ここでも立教大学人脈のお世話になったと思っています。

出版元を北京大学にするか、それとも社会科学研究院にするかという問い合わせが来て、たいした根拠もなく北京大学にお願いしたいと回答したのですが、それ以来忘れかけていたところ、ある日ドサっと段ボールが届き、その中に中国語版の『日本政治論』がぎっしり入っていました。なかなかスマートな体裁だという印象でした。自分の本の外国語版を手にするのは初めてだったものですから、新鮮な感慨でした。
3 英語版
中国語版と並行して英語版翻訳、出版の計画が進んでいました。この計画は平和コミュニティ研究機構のメンバーでもあるマーク・カプリオさんが中心になって進めてくれていました。カプリオさんは私が2012年に立教大学を退職するのに合わせて英語版を「サプライズ」として私にプレゼントしてくれる計画でした。カプリオさんは、2000年前後に私をアドバイザーとしてシカゴ大学から訪日していた博士候補たちと知り合いになっており、彼らに連絡をとって「密かに」翻訳計画を進めていました。

当時すでに日本研究の第一線の研究者として全米の大学の教壇に立っていた人たちが忙しいスケジュールの中、時間を割いて翻訳してくれました。アドバイザーとしてたいしたこともしなかったのにと感謝しています。その後、学会などで会う機会があったときは記念の食事をご馳走させてもらっています。

一番大変だったのはカプリオさんで、10章(英語版には東京電力福島第一原子力発電所の大事故を考察したJapan’s nuclear power politicsの1章を加えています)すべての翻訳が正確であるかを確認し、文体を統一するという仕事が待っていました。大変な労力と時間を費やさせたと思います。この作業は、長い付き合いになるミランダ・シュラーズさん(ミュンヘン工科大学教授)によってもう一度行われました。お二人の労に深く感謝しています。

出版はRoutledgeが引き受けてくれ、Routledge Studies on Comparative Asian Politicsシリーズの1冊として、Japanese Contemporary Politics のタイトルで、電子図書とともに2018年に出版されました。『日本政治論』には多くの資料が掲載されており、表やグラフのアップデートが必要でしが、この作業は立教大学での長年の同僚だった影山純子さんが担ってくださいました。

4 韓国語版
ここまで来たら、私としては何とか韓国語版を出版できないものかと思い始めました。というのも、比較するという点でも、また隣国としてお互いに理解し合わなければならないという点でも、韓国は重要だからです。私自身、そういう思いで1989年3月から1年間韓国に滞在し、延世大学国際学部・大学院で教えながら韓国政治を研究しました。
そこで、出版を引き受けてくれる出版社を探してもらいました。その一方で翻訳を引き受けてくれる人がいないかと、立教大学大学院で博士号を取得した金斗昇さん(現 韓国国防研究院 安保戦略研究センター長)に相談しました。金さんは初め翻訳グループを組織しようと考えたようですが、結局一人で全巻を翻訳してくださいました。私の本の内容をよく知っているのは自分だから、私がこういうように考え、こう表現したいのだろうと、自分なら推測できるからと、のちに話してくださいました。ありがたい話でした。忙しい業務と並行しての翻訳作業は大変なご苦労だったと思います。韓国語版『日本政治論』は2019年にミョンイン文化社から出版されました。

以上、説明してきましたように、立教大学に関わる方々のおかげで『日本政治論』の中英韓国語版の出版という幸運に恵まれました。多くの読者に現代日本の政治について知っていただける機会を得たことを喜んでおります。
(2020年8月17日)
2020.4.15【書籍紹介】日本で広がる『草』の連帯(立教大学兼任講師 李昤京(リ・リョンギョン))

日本で広がる『草』の連帯

『草』は元日本軍「慰安婦」被害者李玉善(イ・オクソン)の人生を描いた作品で、2017年韓国で出版された。上記は本文の慰安所の絵。©「ころから」提供

李昤京(リ・リョンギョン)


「慰安婦」被害者李玉善(イ・オクソン)の人生を描いた『草 日本軍「慰安婦」のリビング・ヒストリー』の日本語出版を記念し、作家との出会う会が開かれた。金ジェンドリ錦淑(キム・ジェンドリグムスク)作家は出版から作家との出会う会まで共にしてくれた人たちを「チーム草」と呼び、感謝の気持ちを伝えた。

さる2月21日から24日まで東京・大阪・広島・福山でグラフィックノベル『草』の日本語版出版記念「金ジェンドリ錦淑作家と出会う会」が開かれた。『草』は元日本軍「慰安婦」被害者李玉善(イ・オクソン)の人生を描いた作品で、2017年8月14日に韓国で出版され、続いてフランス語、英語、イタリア語でも出版された。日本語翻訳は聖公会大学で平和と人権について研究している都築寿美枝の情熱で実現した(『時事IN』第603号「慰安婦問題に生涯をかけたある日本人女性の人生」記事参照)。都築寿美枝の古い友人であり運動の同志でもある池田恵理子(アクティブミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」WAM名誉館長)と岡原美知子(日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワーク事務局長)が出版委員会共同代表となって立ち上がり、出版は権倫徳(クォン・ユンドク)作家の絵本『花ばぁば』を出した「ころから」が受け持った。私は都築寿美枝と共に翻訳を担当した。

少しでも本の定価を下げるために「世界で読まれている‘慰安婦’漫画『草』を翻訳刊行したい!」というクラウドファンディングを始めた。昨年9月7日に始めた1次ファンディングは4日で目標額の145万円を達成し、2次ファンディングもあっという間に目標額を超えた。432人の市民が賛同し、読者280人が作家と出会った。

金ジェンドリ錦淑作家はこの出会う会で『草』の制作動機と過程、作家としての考えを語った。白黒の水墨画で最大限に無駄を省いた『草』の絵のように、抑えられた感情が醸し出す簡潔で澄んだ、長い苦悶がにじんだ言葉を聞くことができた。1993年「慰安婦」問題に始めて接し、フランス留学時代に関連した通訳をした彼女が「慰安婦」問題をテーマに初めて作品を描いたのは2013年だった。そして自身に問いかけ続けたという。貧しい家の子どもであり植民地の女性として生まれた一人の人間が、どんなふうに帝国主義の戦争に「慰安婦」という補給品として動員されたのか、ひょっとして韓国と日本を被害と加害という二分法的見方で「慰安婦」問題を扱ってはいなかったか、だから何を語り描くべきかと。

『草』は読者に教えようとする作品ではない。簡潔に描写された登場人物を通して読者自身の内面を見つめるようにさせ、筆のタッチで表情を変える風・雨・山・木・木の葉・草は李玉善の心を想像してみろと誘導する。都築寿美枝と李玉善、二人との縁もあったが、私が翻訳に参加するようになった大きな理由は金ジェンドリ錦淑作家の暴力に対する感受性だった。金作家は被害者たちが受けた性暴力を露骨に表現するのは二次加害だと断言した。李玉善と一緒に見ることができる本を作りたかったと言った。

2月22日大阪多民族共生人権教育センターで開かれた金ジェンドリ錦淑作家と出会う会 ©岡原美知子提供。

『草』の中、慰安所の部屋の前には軍靴が置かれている。その部屋の「主人」である女性がきちんと揃えて置いたはずの軍靴がある部屋の中で起きていることを読者が想像するのだ。擦れた筆のタッチが到底言葉では説明できない想像力の門を開く。性暴力に弄ばれた15才の李玉善が6コマの暗闇の中に吸い込まれていく。3ページにわたる黒いコマの中に獣のような悲痛の叫びが詰まっている。節くれた老人の手は、彼女が生涯背負ってきた苦痛の深淵を表す。暴力被害者たちの証言を聞いたことのある人は被害者たちが最も辛い証言をするとき目を伏せて沈黙の中手や足を眺めることを知っている。金ジェンドリ錦淑作家の『草』は苦痛の連帯を訴える。
表紙を見て涙を流した李玉善

苦痛の連帯と暴力に対する想像力は平和に対する想像力に繋がる。『草』の中に作家自身が登場し、15才の李玉善が歩いた中国延吉の通りを歩きながら空気を感じる。金作家は李玉善の中国での生活はもちろん韓国社会の「慰安婦」被害者に対する冷たい視線と差別も見逃さない。そして生に対する強靭な意志で強く耐え抜き、今は韓国で平和運動家であり人権運動家として暮らす明るく愉快な李玉善を描く。風に飛ばされ軍靴に踏みにじられてもまた立ち上がる「草」を歌い上げる。

各地で出版と作家との出会う会を応援してくれた人たちは出版委員3名の同志たちだ。その中でも1990年代から元日本軍「慰安婦」問題解決運動と被害者支援運動をしてきた同志たちに『草』は貴重なプレゼントだ。慰安所で経験した被害事実だけでなく、李玉善が生きてきた時代状況と個人が乗り越えてきた歴史をしっかりした叙事で書き綴った『草』は同志たちが会ってきた各国の被害者たちの人生であり歴史だ。作家との出会う会に参加した同志たちは李玉善と朝鮮人被害者、中国、台湾、フィリピンの被害者を思い浮かべた

金ジェンドリ錦淑作家から完成した本を渡してもらった90才の李玉善は表紙を見ただけでも泣いた。韓国版表紙に描かれた15才の李玉善は父が最初で最後に結ってくれたお下げ髪姿だ。日本語版表紙には荒涼とした野原に李玉善が呆然と立っている。その足元から遠い山の向こうまで真っ黒い草が風に揺さぶられ、がらんと空いた余白に草が倒れている。その草たちは作家がこの本を捧げたかった「李玉善たち」、国籍と生死にかかわらず全ての日本軍「慰安婦」被害者たちだ。

左:日本語版表紙/右:韓国語版表紙

日本語版翻訳計画を最初に聞いた金ジェンドリ錦淑作家は果たして可能だろうかと疑問だったという。だが『草』は日本で出版され、彼女は読者たちに会った。4日間行われた作家との出会う会で金ジェンドリ錦淑作家は草の一株を分けるように心を込めてサインした『草』を読者たちに手渡した。ある読者は女性差別と民族差別をなくすために努力すると明るく溢れる笑みで、ある10代の読者は学校で学べない歴史に向き合うようになったと涙を浮かべて作家に感謝を伝えた。金ジェンドリ錦淑作家は出版から作家との出会う会まで共にしてくれた同志たちと読者たちを「チーム草」だと讃えた。今や「チーム草」は『草』を教材に授業をし、地元の図書館に『草』購入申請をし、話せるところならどこでも『草』の「李玉善たち」を語るのだ。

(翻訳:都築寿美枝)

※本稿は李昤京が編集委員を勤めている韓国の週刊誌『時事IN』2020年3月17日第652号に掲載された記事の転載である。
2020.3.16 書評:吉田千亜『孤塁—双葉郡消防士たちの3.11』壮絶な働きをした普通の人びとの記録
2020年(評者:立教大学異文化コミュニケーション学部准教授 石坂浩一)
2020年 岩波書店

3月6日の封切初日に映画〈Fukushima50〉を見た。東京電力福島第一原子力発電所の大事故の現場で踏みとどまり、爆発した原発の暴走を必死に抑えようとした人びとの物語である。その現場における苦闘はよく伝わってきた。リアルにできた作品だった。ただ、「事故は起こらない」といってきた原発で事故が発生してしまったこと、どのように危険な局面なのかということを、この人びとはわかっていた。一方で、必死だったのはこの人たちだけではなかっただろう。状況をよくわからないまま、数多くの人たちが避難させられた。そしていまだに住み慣れた地に帰ることができない人びとがいる。この映画が語っていないところも多い。

平コミのホームページで吉田千亜さんの前著『その後の福島-原発事故後を生きる人々』『ルポ 母子避難』を紹介したので、この本は書評の予定にはなかったが、手に取ってみて一気に読ませるだけのとても力のある著作だった。ここに紹介するゆえんである。

本書は月刊誌『世界』2019年3月号から9月号に連載された同名のルポをまとめ加筆修正したものである。また『世界』2020年4月号には、本書に登場する消防士の方の講演記録と著者の吉田さんの出版にあたっての思いが掲載された。東京電力福島第一の原発事故に関する本は少なからずあるが、消防士たちのことを記録した本は初めてだという。

地震発生で本書に登場する双葉郡消防本部の消防士たちは、地震発生以降、消火に、救急に、不眠不休で働き続けた。原発が大変なことになっているというのは、12日未明に救急搬送の要請があって原発に出動した消防隊員にはよく伝えられていなかった。免震重要棟に入る時、隊員はスクリーニング検査をされたが、この時には、なぜ検査をするのだろうと思ったのだという。しかし、まもなく消防士たちも防護服を身に着けることになる。外出していて戻った消防士は「そんなにヤバいのか」と思った。

12日には1号機が爆発した。そこからは、ポケット線量計が鳴り続けようとも、避難者や救急患者を助け、少ない水や食料に耐えつつ活動する消防士たちの修羅場に突入していく。消防士はもちろん、地元の人たちである。救助活動にあたりながら、自分の家族と連絡するすべもない消防士が少なくなかったし、助けに行くことなど、論外であった。ある消防士は、休む時間もなく活動していても、おまえらは防護服を着ていていいな、といわれた。若い消防士は、その言葉に「すいません」と繰り返し言うしかなかった。受け入れ先がなく、転々とした末にやっと病院に患者を搬送した消防士は、泣いた。

こうしている間にも、3号機が爆発した。原子炉の暴走を止めるため、冷却水注入をはかる作業に、原発から消防に対して応援要請が来た。サイト内の注水など、訓練でもしたことがないし、消火と救急という消防の任務からもはずれる。消防の指揮系統から言えば、消防長が部下に、行くべきかと問いかけることはない。しかし、この時に消防長は部下たちの意見を聞いた。多くが出動に反対した。ある消防士はこの時、人のいなくなった土地で今なお活動を続け、いままた冷却要請に葛藤しているわれわれのことを、国は知っているのだろうか、と思ったという。

しかし、16日早朝に4号機で火災が発生したとの通報で、消防士たちは原発へと出動した。消火は消防士の仕事なのである。そこに仕事があれば行かなければならないというのが、この人びとの律儀な精神であった。本書の帯に「きっと特攻隊はこうだったのだろう」という言葉が書かれているのは、この時のことである。ところが、4号機の火災はその後自然鎮火し、このことは消防に伝えられなかった。また、福島と東京電力本店とのやり取りでは、サイト内の高い線量を被ばくした人たちは、原発外部に出すことができないといって、消防士たちの扱いを議論していた記録があるが、それも消防本部には伝えられていなかった。ところが、サイト内の放射線量が急上昇しているとの知らせに、いったん出動した消防士たちはなすすべもなく撤退した。この間に、相当の被ばくをのがれることはできなかった。原発の職員たちは必死だったにちがいない。それでも、思わずにはいられない。東電の社員でもない消防士たちのことは、だれが責任をとるのか。著者は「災害発生から休む間もなく、もっとも危険な場所で活動し続けてきた消防士たちを、誰が守るべきだったのだろうか」と問いかけている。

『世界』に講演記録が出ている双葉消防本部元次長の渡邉敏行さんは、こういう思いを二度と、誰にもさせたくない、人間がコントロールできないものは作ってはいけない、と語ったことが本書に出てくる。また別の消防士は、大変だったねと声をかけられることもあるが、まだ終わっていない、と述べる。著者は最初にインタビューしたこの渡邉元次長の話があまりに印象的で、ほかの消防士から話を聞くことにし、予定になかった本書が出来上がったという。本書はこれまで注目されなかった人びとのとても大事な労苦を記録した、貴重な仕事に他ならない。「申し訳なさを一生背負わなくてはならない」という渡邉さんの言葉を著者は書き留めている。著者は自分こそ、彼に「背負わなくてはならない」と思わせてしまった人間の一人だと書く。
書くという仕事に就く者は、そこに出てくる人を大切にする気持ちがないと、誠実な仕事ができないのではないかと思う。これは迷いや葛藤を抱えつつ、壮絶な働きをした普通の人びとの記録であることが、本書から伝わってくるのではないだろうか。

著者は「バトンを渡す」という思いで書き続けてきたという。本書を読めば、問いかけは福島にいなかった人にも等しく投げかけられていることがひしひしと伝わってくる。そして、私たちの社会はこのままで大丈夫だろうかという思いにさせられるのではないだろうか。ひとりでも多くの人が、この「バトンを受け継ぐ」ように、願ってやまない。
異文化コミュニケーション学部 石坂浩一
2020.2.15 書評:和田春樹『韓国併合 110年後の真実——条約による併合という欺瞞』
2019年(評者:立教大学異文化コミュニケーション学部准教授 石坂浩一)
2019年12月 岩波ブックレット

昨今、李栄薫(イ・ヨンフン)編『反日種族主義』(日本語版は文藝春秋社)が日本でベストセラーとなり販売部数が40万部を超えたという。ソウル大学教授をはじめ韓国のそうそうたる研究者が執筆したというこの本だが、その内容は、はなはだ心もとない限りである。論者の意図に沿わない主張を「ウソ」「ウソつき」と退けるだけのこの本が、著者として名前を連ねた人たちにとって、後々までの恥になるのではないかと心配してしまう。
 議論は資料(史料)をもって論理的に進められるべきことは言うまでもない。韓国併合についての研究の成果が、入手しやすいブックレットの形であらわされた和田春樹『韓国併合 110年後の真実』は、たくさんの本があふれているためか、紹介される機会が多くないが、重要な本である。出発点は、韓国併合条約に至る過程の実態がどのようなものだったのかという、わかっていそうでいて、よく解明されていない史実にあった。
日本政府は1965年の日韓国交正常化において、1910年の併合条約や関連した合意は、韓国側に対する「威嚇や脅迫」なしに合法的に行われたと主張し、今日までその見解を崩していない。1990年代末には明治大学の海野福寿先生が『韓国併合』(1995、岩波書店)、『韓国併合史の研究』(2000、岩波書店)などで併合条約についての実証的研究を行ない、韓国の併合は不当だが、当時の帝国主義時代にあっては合法といわざるを得ないと述べた。だが、これに対しソウル大学のイ・テジン(李泰鎮)教授が条約締結の手続き上も条約形式上も問題があり、合法とは言えないと主張、『世界』などで論争が行なわれた。

その後、2010年に韓国併合100周年を迎えて、日韓の歴史研究者は併合とその条約が「不義不当」であるとの共同声明を発表、あらためて併合過程についての実証的研究に取り組んでいた。和田春樹先生の本書はその成果の一端である。
日本は日露戦争が1905年9月に終了したのちも韓国(この時期、朝鮮王朝は大韓帝国と国号を変えていた)の軍事占領を続け、この年11月には第2次日韓協約(いわゆる保護条約)を強要した。これにより大韓帝国は外交権を失った。日本政府内では、すでに保護国となった韓国を、詔勅を出すことで併合するか、条約を締結することで併合するかの選択肢があったが、後者を選択することになる。韓国内外の反発を抑えるために、韓国側が、形式上は受け入れた形での条約締結が望ましいと考えたのだった。
しかし、条約案を作ったのは日本の陸軍大臣を兼務していた寺内正毅統監であった。統監は日本政府に任命され韓国を代表する役割である。日本国の全権大使でも何でもない。示された条約案を韓国側で受け入れたのは李完用首相ら大臣であった。寺内の下で働く人物である。李完用首相は純宗皇帝の全権委任状を受け、条約に署名するに至る。条約とは本来国家間の権限を持った代表同士が署名して締結すべきものだが、併合条約はこうしたルールに反するものだった。もちろん、この時期には朝鮮半島全体が日本軍の支配下に置かれていたのであった。著者は「併合条約の調印とは、対等な条約を結ぶ資格を持たない者同士、支配国の代表者とその指揮監督を受ける被支配国の役人が演じた条約調印の演劇、芝居」だと指摘している。

 歴史に基づいた議論とは、このような研究の基盤のうえに立ったものであるはずだ。昨今、日本ではわかりやすいものが良しとされてしまう風潮があるが、わかりやすそうでも事実でなければ、意味はない。こうした見方が広がれば、後世へ火種を残すばかりである。朝鮮を植民地化する過程について、事実の検証をきちんと行なうためには、このブックレットのような冷静な研究が社会的に共有されることが欠かせないのではないだろうか。
なお、昨年来の日韓の葛藤に対し冷静な議論を促すため、ほかにも注目すべき論著が出されている。わかりやすいものとして岡本有佳・加藤圭木編『だれが日韓「対立」を作ったのか——徴用工、 「慰安婦」、そしてメディア』(大月書店)、いわゆる徴用工問題について日本政府の立場が意図的に変えられたことを論証する山本晴太ほか『徴用工裁判と日韓請求権協定——韓国大法院判決を読み解く』(現代人文社)などをお勧めしたい。

異文化コミュニケーション学部 石坂浩一
2019.9.9 書評:加藤直樹『TRICK-トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』
2019年(評者:立教大学異文化コミュニケーション学部准教授 石坂浩一)

今、事実を拡散する責任

8月27日の記者会見において、河野太郎外務大臣は外国人記者から、日韓請求権協定をめぐり韓国政府が日本は歴史への理解が足りないと指摘しているが、どう思うかと問われた。すると、河野外相は、韓国政府が歴史を書き換えたいと考えているならば、そんなことはできないと知る必要がある、と答えたという。(『毎日新聞』2019年8月28日)

そもそも、全然話がかみ合っていない。それだけではなく、その認識には驚かされる。日韓に関わる歴史問題というとき、それはいうまでもなく植民地支配の問題であるし、すこし広いスパンで見れば1875年の江華島事件に端を発する不平等条約の強要(翌年に結ばれた日朝修好条規)から始まる近代史である。しかし、日本を代表して外交を担当する河野外相にとっては、植民地支配やそこに至る歴史はなかったのだ。河野外相はこの席で、日韓条約、請求権協定の約束を守れという話を繰り返したという。この人には、日韓条約からしか記憶がないのだろうか。あるいは、意図的に近代の歴史を無視したのだろうか。日韓条約や諸協定には「謝罪」や「遺憾」はおろか、「植民地」という言葉さえ使われていないことの意味も、外相の発想の中にはないにちがいない。かつて、「歴史を書き換えることはできない」という時、それは侵略や植民地化、戦争の歴史を指して、侵略された側が語ったことであった。それが、21世紀の今日では、一種の開き直りの言葉として使われるようになってしまった。この報道を見て、あらためて関東大震災の朝鮮人虐殺について考えさせられた。

本書の著者加藤直樹さんは前著『九月、東京の路上で 1923年関東大震災の残響』(ころから、2014年)で関東大震災の朝鮮人虐殺について、わかりやすく、かつ事実に基づいた叙述で私たち歴史研究者にインパクトを与えた。この本は、日本社会でも静かな関心を呼び、広く読まれたようで、あちこちで紹介された。関東大震災において多数の朝鮮人が虐殺され、また中国人や、朝鮮人とまちがわれて殺害された日本人も犠牲となったことは、否定しようもない歴史的事実に他ならない。しかし、いま日本社会ではどのようにとらえられているだろうか。

著者は前書きにこのように記す。

近年、インターネット上で「朝鮮人虐殺はなかった」「朝鮮人は本当に暴動を起こした」といった主張が拡がるようになった。このままでは、この事件から現代の私たちが学ぶべき教訓——民族差別の恐ろしさや災害時の差別デマへの警戒、行政の責任の重さ——が打ち捨てられることになってしまう。

本書は、第1章でネット上に拡散している朝鮮人虐殺否定論がどのようにまちがっているかを説明し、第2章で虐殺否定論が使うトリックを明らかにし、第3章では虐殺否定論が現実社会にどれほど浸透しているかをあげて、それに対抗すべき必要性を確認する。

関東大震災は天災であり、だれも予測することができなかった。まして、日本にいた朝鮮人たちは今ほど日本語ができる人たちもいなかったし、地震には慣れていないため経験したこともないような大地の揺れと、襲ってくる火災などに、慌てふためくだけであったろう。その人びとが、井戸に投じる毒を準備していたり、暴動を準備していたというのは、常識で考えても無理のあることだ。だからこそ、関東大震災における朝鮮人虐殺は、無視されることこそあれ、否定はされてこなかったのである。

ところが、新しくもない新聞記事に依拠し、歴史的文脈を無視して勝手に「朝鮮人の暴動」があったかのごとく主張する人びとが現れた。そして、現在インターネット上では「暴動」があったのが事実とする、歴史に反する言説があふれかえっている。その事実に即さない主張は、朝鮮人虐殺がなかったという、中学校の教科書の叙述にも反する言説へと「発展」しているのである。

著者の加藤直樹さんは、「暴動」があったといい、「虐殺はなかった」と主張したい人びとの言い分をひとつひとつ検証し、そのウソを明らかにする。詳しくは本をお読みいただきたいが、「虐殺否定論とは認識の誤りではなく、人をだます目的で仕掛けられた“トリック”なのだ。」という前書きの一節は本書の狙いを端的に表現している。

この本に強い印象を受けるのは、わかりやすく、インターネット上にあるような書き方を使いながら、なおかつ基本資料を丹念に洗い出し、先行研究をきちんと踏まえて書かれていることである。一般に大学で研究に従事する者は、わかりやすい叙述、あるいは明快な書きぶりについて、あまり得意ではない。だが、研究者が自分の研究成果を進んで広く拡散しない限り、その成果は認識されずに終わってしまう。加藤さんの本を読むと、大学の研究者の姿勢が問い直されていることがわかる。
関東大震災での虐殺について、一般に民衆が朝鮮人を虐殺したことが強調されるが、軍隊や警察が虐殺を実行している点は軽く見られがちだ。国家や軍が誤認情報を流布した責任、軍や警察がみずから虐殺を行なった責任は、まだ十分問われていない。姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(1963、みすず書房)に朝鮮人虐殺をめぐる基本資料が収められており、官憲資料から軍や警察が「暴動」の誤認情報を流布したことが読み取れる。また、山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』(2011、創史社)に研究の現段階が詳しく述べられているので、ご参照いただきたい。

当然のことだが、虐殺された朝鮮人ひとりひとりに家族があり、生活があったはずだ。この人びとの死について、誰が責任を取るのか。この問題は日本と南北朝鮮の間で協議されておらず、未解決の課題に他ならない。本来は、こうして無念の死を遂げた朝鮮人ひとりひとりについて、調べ上げ追悼する事業がなされるべきなのに、日本社会の風潮が逆行しているのは、はなはだ残念である。関東大震災の朝鮮人虐殺について、一層の調査研究を進め、その事実を拡散していく社会的責任を私たち研究者は背負っているのである。

異文化コミュニケーション学部 石坂浩一

特別任用研究員(三浦優子氏)の研究紹介
はじめまして。2019年3月に立教大学社会学研究科後期課程を修了し、今年度5月に平和・コミュニティ研究機構特任研究員にご承認いただきました三浦優子です。
主指導教員である社会学部の水上徹男先生と副指導教員の木村自先生のご指導のもと「日本人エクスパトリエイト・コミュニティに関する社会学的実証研究—駐在員女性配偶者の日常生活実践の事例—」というタイトルで博士論文を執筆しました。論文では、トランスナショナルな社会空間に形成される日本人エクスパトリエイト・コミュニティの特徴を明らかにするにあたり、ドイツ・デュッセルドルフに暮らす海外駐在員配偶者の日常生活実践に焦点を当てました。なお、論文においては、駐在員中心のコミュニティをエクスパトリエイト・コミュニティとして捉えました。

中心市街地の日本人通り(2019年4月撮影)

わたしが海外における日本人エクスパトリエイト・コミュニティやそのコミュニティに暮らす駐在員配偶者に興味を持ったきっかけは、自身が駐在員の夫に帯同してニューヨークに5年、デュッセルドルフに10年暮らしたことにあります。現地で他の駐在員配偶者とつながる中で女性たちが生活の中でさまざまな思いを抱き暮らしていること、そして上記2都市の駐在経験から海外の日本人社会が国や都市によって全く異なることを実感しました。帰国して数年経ち、10年滞在したデュッセルドルフの日本人社会をさらに掘り下げ、その中で暮らす駐在員配偶者たちの生活世界を詳しくみていきたいと思いました。

研究の対象地となるデュッセルドルフですが、当市はドイツ国内16州のひとつであるノルトライン・ヴェストファーレン州(以下NRW州と記す)の州都で、人口は642,304人でそのうち日本人は5,982人(Landeshauptstadt Duesseldforf 2018)です。全体の人口から見れば、邦人は1%にも満たず、ロスアンジェルスやニューヨークなど他都市に比べると人数的には多いとは言えませんが、日系企業が多く進出し、日本人駐在員が中心となった日本人社会があります。また、ある一定の地域に日本人が集住して暮らすという特徴もあります。NRW州の日系企業のほとんどが入会するデュッセルドルフ日本商工会議所のデータによると2019年1月の時点で、当商工会議所の正社員は302社を越え、そのうち製造業関係が207社で全体の約70%を占めます。デュッセルドルフへの日系企業進出の背景には、ヨーロッパの中心に位置するという地理的優位性、会計士や弁護士など企業を日本語でサポートする体制並びに日本人向け教育機関や病院、日本食料品店など生活インフラ構造が整っていることがあげられます(デュッセルドルフ日本商工会議所)。

私たち家族は、デュッセルドルフに2000年から2010年まで10年暮らしましたが、渡独直後、驚いたのは、海外に居ながらも、買い物は日本食スーパー、友だちも日本人駐在員ばかり、習い事も日本人向けに用意されたもので、子どもたちは日本人学校や進学塾に通い、日本での生活を再生産したような暮らしをしている駐在員配偶者たちを目の当たりにしたことです。私たち一家は、現地においては現地のやり方に従うという家族の方針であったので、渡独時5歳だった次女は現地の幼稚園、そして現地校と進みました。小学校3年生の長女は、現地に日本人学校があるのならそこに行きたいという本人の希望を尊重し、デュッセルドルフの日本人学校に編入しました。しかし、現地の生活も3年経った頃、長女は海外に住みながらもドイツ語も英語もできない自分に疑問を感じたのか、6年生からデュッセルドルフのインターナショナルスクールに転校しました。

日本人学校近くの日本食スーパー

研究においてデュッセルドルフを調査対象地にしたのは、子どもたちが、日本人学校以外に現地校、日本語補習校、インターナショナルスクールに通ったことで日本人駐在員配偶者以外の知り合いのネットワークが一挙に広がり、フィールド調査にアクセスしやすかったこともあります。駐在中に、現地の永住日本人、ドイツ人と国際結婚した日本人、ドイツ人や諸外国の人々とつながっていきました。そして、日本人駐在員配偶者の中にも日本人だけの狭い社会から飛び出し、積極的に現地の人々と接点を求めようとする女性、現地の市民大学で一生懸命ドイツ語を勉強する女性、私たち家族のように現地の小学校に子どもを入れている女性の存在を知りました。また現地では就労ビザや夫の会社の方針で仕事がしたくてもできず悶々とした気もちで生活を送る女性、日本人社会の中で他の駐在員配偶者たちに違和感を感じながらもわだかまりなく過ごそうとする女性、ドイツの生活を運命と受け止め静かに過ごせる生活に感謝しながら日々を送る女性など様々な思いをもつ女性たちと出会いました。渡独直後は、自分のなかで、「駐在員配偶者」たちは皆、日本人同士でつながり、現地と交わらないと単純に一括りに捉えていましたが、個々に話をしてみるとそれぞれが肯定感あるいは葛藤や危機感など様々な思いを抱きながら暮らしていることが分かりました。

10年のデュッセルドルフ生活を終え、日本に帰国しますが、自分が日本人でありながら、日本の社会と全く接点がないという現実に直面します。一体これから自分はどのように人生を歩んでいったらいいのかと考える毎日でした。そのような時に、数人のデュッセルドルフから帰国した女性たちと会う機会があり、皆、駐在生活を帰国後の自分の生き方にどのようにつなげていくのかを模索していることを知りました。女性たちの中には、あんなに「駐在員の妻」として頑張ってやってきたのに日本に帰ったら、全く今までの努力が報われないと嘆いている女性、数回の海外駐在経験のある女性は、駐在生活はそれぞれ楽しかったが、自分の人生がぶつぶつ切れて中断され、すべて中途半端で終わってしまうと感じている女性もいました。

帰国して3年程経ち、自分の今後の生き方を考える中で今一度、駐在員配偶者の世界をさらに掘り下げてみようと思いたち、立教大学の異文化コミュニケーション独立研究科に進みました。修士論文では諸外国に暮らした日本人駐在員女性たちにライフストーリーインタビューを行い、「海外駐在生活が女性たちの家族観に与える影響」についてまとめました。しかし、女性たちの生活世界を見ていくにあたり、ジェンダーやさらに大きな社会構造の枠の中でとらえる必要性を感じ、社会学研究科の博士後期課程で研究を続けることにしました。

博士論文では、調査対象地を10年暮らしたデュッセルドルフに絞り、戦後から形成されたデュッセルドルフの日本人社会の歴史、デュッセルドルフ日本人コミュニティや他都市の海外日本人社会についての先行研究や文献を整理しまとめました。また、2015年から2018年まで7回現地を訪れ、現地の日本人学校、日本商工会議所、日本クラブなどの日本人関連機関や団体などへの聞き取り調査や、当市に暮らす駐在員配偶者たちにインタビューを行いました。さらにデュッセルドルフから帰国した駐在員配偶者たちにもインタビューを依頼しました。

博論執筆を通して、駐在員配偶者が駐在員生活の中でかかえる両義性、駐在生活において強化された性別役割分業などのジェンダー問題、海外における日本人コミュニティの社会構造などにおける様々な課題が浮き彫りになりました。経済や社会のグローバル化が進む中で、国を越えたトランスナショナルな社会空間にあるエクスパトリエイト・コミュニティも変容を続け、コミュニティに暮らす駐在員配偶者の意識や価値観も変わりつつあると考えられます。しかしながら、女性たちはいまだに良い妻・良い母であることへの期待に添うように生活実践を試み、葛藤を抱えたり、自分の生き方に疑問を感じながら暮らしています。このように交錯する思いで暮らす駐在員配偶者の生活世界は、いままで夫の背後に隠れ不可視化されてきました。

今後は、他の国や都市における日本人社会、ジェンダー問題、そして変容する経済や社会も視野に入れながら、海外で暮らす駐在員配偶者や家族が自分らしく生きることのできるコミュニティの在り方を考え続けていきたく思っています。

皆様、どうぞよろしくお願い致します。
2019.7.2 自著紹介: マーク・カプリオ著『植民地朝鮮における日本の同化政策 1910〜1945年 (クオン人文・社会シリーズ)』(マーク・カプリオ立教大学異文化コミュニケーション学部教授)
『植民地朝鮮における日本の同化政策1910〜1945』
マーク・カプリオ
本学異文化コミュニケーション学部教授


本書『植民地朝鮮における日本の同化政策1910〜1945』で、私は朝鮮における日本の同化政策を、その起源から日本の敗戦による終焉まであとづけようと試みた。日本の同化思想の起源はどこにあるのか?日本人はその政策をいかに国家形成過程に位置づけようとしたのか、明治維新以後、日本国家に所属させた人びとにどのように適用しようとしたのか?35年以上にわたる植民地支配の間、この政策はどのような展開をしたのか?植民地支配を受けた朝鮮人はいかにこの政策に反応したのか?本書は日本の朝鮮植民地支配を、より広大なスケールで、またさまざまなレベルの強制力をともなった広範な国際的な動きの一部として描き出そうとしている。
各章の内容は以下の通りである。

序論:ここでは本書の内容を概観している。私はここで3つの形態の植民地拡張を提示した。第1の形態は「内国植民地政策」の最も強力な国民形成政策であり、支配的な文化を核にして人びとを国民に統合しようとする。第2の形態としては、それほど強力ではないが、統合された国家が「周辺植民地政策」によって隣接する領土を付属することがある。その場合、同化は政策として一般的に宣言されることはあっても完全におこなわれることはない。最後に、地理的に遠く、住民が人種的にもかけ離れている領土を、その自然資源や人的資源を利用するために、労せずして従属せしめる「国外植民地政策」がある。

第1章:西洋諸国が上述の3つの形態で植民地を拡大した近代ではありませんかの歴史をあとづける。とくに岩倉使節団 (1871-73) が経験した植民地支配の実態に注目している。使節団は普仏戦争でフランスが破れた後の植民地拡大を目撃した。この影響は、日本が台湾 (1895年)、朝鮮 (1910) を獲得して世界の膨張主義をくり返すことになった 1910年まで続いている。同化政策はヨーロッパにおいて、その意図と結果の齟齬を生み出していたが、そうした歴史はどの程度、同時代の日本の決定に影響を及ぼしたであろうか。

第2章:日本の教育と同化政策実施の歴史を概観する。日本は江戸時代、18世紀後半にロシアの探検家たちが蝦夷までやって来たのに対抗して、蝦夷に短期間、同化政策を適用したことがあった。この同化政策はロシアが撤退すると間もなく終わった。しかしながら、明治維新後の新政府は江戸時代の約270の藩をより緊密に統合しようとして強力な中央集権化をおこなった。「同化」という言葉はここでいう政策にはふさわしくないかも知れないが、明治国家の政策は基本的に、かつては藩に対するアイデンティティを保持していた日本列島全体の人びとを同化しようとしたのである。蝦夷すなわち北海道と琉球すなわち沖縄を獲得したことによって、私が「周辺植民地政策」と呼ぶ政策を採用したのである。そこでの経験は日本政府が明治時代後期に台湾を獲得した際に適用した政策と共通の特徴を有している。

第3−5章:ここでは植民地政策がどのように朝鮮半島に適用されたかを考察する。第3章は1919年3月1日の独立運動の時期を扱っている。第4章はこの運動が日本人の認識をどのように変えたのかに注目している。このころから植民地政策にたいする支持とともに、(1800年代前後からのヨーロッパと同様に)同化は劣った人びととともに進めるには、不可能ではないにしても困難な政策であるという否定的な見方が広がった。
第5章は1930年代から40年代を考察している。この時期、日本がアジアにおける戦争を遂行するために朝鮮のより広範な協力を必要とした戦時期の状況のゆえに、同化についての確信がよみがえったと思われる。この時期をつうじて、日本人男性が日本軍に入隊するために朝鮮半島における仕事から離れたために、朝鮮人の割合は拡大した。ここまでの3つの章を通じて、日本の教育政策が最も注目される。というのも、もし同化が本気になって実行されたならば、同化される人びとは教育が自分たちを本国の人びとすなわち日本人の水準に引き上げると考えたからである。朝鮮(だけではなくアイヌや琉球、台湾の人びとに対しても)に導入された教育が低い水準のものであったことは、第1章で論じたように、ヨーロッパや米国など他の周辺植民地政策においてもよく見られたことであった。

第6章:この最終章では日本の同化政策にたいする朝鮮人の反応を考察している。まず、三一独立運動後の改革として導入された朝鮮語メディアの反日の声とそれらがどのように同化政策を批判しているかを論じ、続いて日本の植民地支配を受入れた「親日派」の声を紹介している。彼らは同化政策にどのような欠点を見出しているだろうか。日本の植民地支配当局にどのような示唆を与えているであろうか。

結論:この最終的な議論で、なぜ日本人は同化政策をさらに進めることができなかったかを論じている。なぜ、日本はヨーロッパで同化政策を行なった諸国が直面した、同化政策の論理と政策との間に存在する矛盾を克服することができなかったのか。日本の植民地支配の歴史は、たとえばアルジェリアにおけるフランスのそれよりも短かった。朝鮮における同化政策の最終的な結果を考えた日本人は、そのためには何世代も、50年、100年もかかるだろうと予想した。朝鮮総督府は前向きに進んでいることを示していただろうか。それとも、朝鮮人の戦時における社会的な進歩がさらに進行したら、日本人は戦争の終結後も朝鮮半島を保持し続けることができただろうか。結論としては、本研究はそのようにはならなかっただろうことを示している。

(原文は英語、五十嵐暁郎本学名誉教授訳)
2019.4.12 自著紹介:石坂浩一編著『北朝鮮を知るための55章【第2版】』平和を作るには相手を知ることから(立教大学異文化コミュニケーション学部准教授 石坂浩一)
2019年4月に石坂浩一編著『北朝鮮を知るための55章【第2版】』を明石書店から刊行した。編集にあたってくださった関正則さんも私も驚いたことに、早々に重版が決まった。日本の書店には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を普通に知ろうとするための一般書があまりなかったということだろうか。

この本の初版が出たのはキム・ジョンイル(金正日)国防委員長の時代、2006年であった。中国が場を設定した朝鮮半島をめぐる六者協議において2005年9月19日の共同声明が合意され、ようやく状況が安定するかと思われた矢先、欲を出したブッシュ・ジュニア政権が北朝鮮への圧迫を継続したため,北朝鮮は2006年10月9日に初めての核実験を行なった。結果を問われるのが政治の世界だとすれば、ブッシュ政権は朝鮮半島に関して失敗した政権になった。初版は9・19合意と核実験の間の時期に出版されたので、比較的楽観的な雰囲気でまとめられている。だが、現実は厳しくその後の朝鮮半島情勢はさまざまな葛藤を経験した。

本書は2014年に『現代韓国を知るための60章【第2版】』を出したころから、第2版の話が出ていた。およそ初版と同じ執筆者で同様の執筆分担をし、その後の状況を大幅に書き加えて出すことになった。ただ、2017年にトランプ政権が成立すると朝鮮半島は緊張の度を高め、18年には一転して対話局面に入った。本を注意深くお読みくださった方はお分かりだろうが、本の内容はおおよそ2017年の米朝対峙の時点でまとめられている。ところが、その後南北朝鮮の対話と米朝の歴史的首脳会談で状況は一変し、そのまま出版するわけにはいかなくなった。ちょうど昨18年は11月に刊行した金孝淳著『祖国が棄てた人びと』の監訳作業の完成が急務になったので、本書が日の目を見るのは2019年になってしまった。

これ以上引き延ばすと、もう全面的に書き換えざるを得なくなる。継ぎ足し的なところがあるが潮時だと思い、19年に入って仕上げを急ぎ出版にこぎつけた。少し長めの序章を加え2018年の状況を盛り込んで、本文中の修正は最低限にとどめた。本の「はじめに」でも記したが、原稿を早くから寄せてくださった文化関連の原稿をくださった皆様にはお詫びしなくてはならない。また、明石書店編集部の関正則さんには本当にお世話になり感謝している。

今日、時代はキム・ジョンウン(金正恩)国務委員長の時代になった。故キム・イルソン(金日成)主席の威光を活用しようとしているとはいえ、新しい時代の指導者は新しい状況に対応するビジョンを持っているはずである。そのビジョンや政治の特徴について、わかる限りのことをまとめさせていただいた。ゲームやアニメーションの世界では、時に「世界征服を狙う悪者」というキャラクターが登場する。日本ではキム・ジョンウンに対してこうした荒唐無稽なイメージを持つ人びとが少なくないのではないかと感じることがある。だが、北朝鮮は架空のものではなく現実である。当たり前のことだが、北朝鮮は世界征服など唱えたことは一度もないし、何をするかわからない国でもない。そして、70年にわたって政治権力として続いてきたということは、単なる圧政だけでは説明できない求心力があるはずだ。客観的研究が必要なゆえんである。戯画化したイメージで相手を侮蔑するだけでは、日本社会自身に前向きな成果をもたらすことができない。

私はもともと韓国社会や歴史を研究してきた者なので、北朝鮮研究は専門ではなかった。しかし、日本の市民運動の中で日朝国交正常化という平和のための当然の課題を前にして、わかりやすい解説書を書く人はそれほどいなかった。21世紀に入る中でだんだんと北朝鮮についての説明を求められる機会が増える中で初版の『51章』を書くことになったのである。ただ、まったく縁もゆかりもなかったわけでもない。元来、私の研究の出発点が日本人社会主義者の朝鮮認識というテーマであったので、社会主義についての一定の知識はあった。また、『祖国が棄てた人びと』で記録された在日韓国人政治犯の支援運動に関しては古くからの関わりがあったので、南北分断については意識せざるをえなかった。そして、韓国の平和研究、分断体制研究から多くのことを学び、そうした脈絡で「東北アジアに非核・平和の確立を!日朝国交正常化を求める連絡会」の共同代表に名を連ねることとなった。

日本社会では2002年の日朝首脳会談で日本人拉致が確認されて以来、北朝鮮についての冷静な議論が失われてしまったように見える。冷静な議論があってこそ、さまざまな懸案を解決することができるはずだが、そのようになっていないのは残念である。そればかりか、政治家が政権の維持のために「北朝鮮の脅威」を利用している。「北朝鮮のおかげで選挙に勝てた」と与党政治家が公言するようになっているのは憂慮すべきことではないのか。さまざまな視点から北朝鮮を分析する必要があるが、マスコミはそれをほとんど掘り下げていない。ある意味で、北朝鮮という外国の問題が日本のあり方を試す試金石になっているといえようか。

ある程度年齢が上の世代はお分かりだろうが、社会主義体制においては、党による政治への指導というのは当然のことである。そして、アジアの社会主義において「自力更生」や「自主」は重要な概念である。歴史と概念を踏まえて理解し、評価はそのあとに各自が考えればいい。とはいえ、はじめから北朝鮮の人びとを侮蔑の対象と見ていては、東北アジアでの日本の未来はない。

日本の平和な未来を創ろうとすれば、東北アジアでの地域協力は欠かすことができない。そのためには隣国と国交がないという異常な状態を変えなくてはいけない。2002年の日朝平壌宣言において、植民地支配への謝罪と平和に向けた協力に日朝が合意したにもかかわらず、その後の関係は進展しないままだ。地域の隣人として共存するためには、北朝鮮がどういう国でどういう人びとが暮らしているかを冷静に知っておかないと、社会的合意形成はできないだろう。北朝鮮の人びとは米国や関係国が自分たちを軍事的に圧迫し、存在を脅かしていると感じている。朝鮮戦争では全土が焦土化され、北朝鮮の人びとは忘れがたい恐怖に襲われ、いやしがたい傷を負った。その記憶は今も折に触れてよみがえる。そう感じているのは、指導層だけではなく、かの地の普通の人びとに他ならない。その人びとをよりよく知り、平和に出会う道を探ってこそ、日本は平和な社会であり続けられるのではないだろうか。日本社会で本書が少しでもお役に立てれば幸いである。

立教大学異文化コミュニケーション学部准教授 石坂浩一
書評:康潤伊、鈴木宏子、丹野清人編著『わたしもじだいのいちぶですー川崎桜本・ハルモニたちがつづった生活史』日本評論社、2019年(評者:立教大学兼任講師/早稲田大学現代政治経済研究所研究員 加藤恵美)
 本書は、川崎市桜本にある「ふれあい館」の識字教室に通う、朝鮮半島出身のハルモニ(おばあさん)たちが書いた作文集だ。昨年30周年を迎えた「ふれあい館」は、いわゆる公民館であるが、同時に市民運動の拠点でもある。ふれあい館は、「だれもが力いっぱい生きていくために」を理念として、桜本周辺で暮らす民族・ジェンダー・社会階層・年齢などにおいて多様な人びとを、地域コミュニティにつなぎとめる役割を果たしてきた。そうして形成されてきた地域コミュニティの「中心」に、本書の主役「辛酸をなめつくしたハルモニたち」がいる(p.4)。

識字学級の目的は、ひとつには、「ハルモニ」と呼ばれる年代になるまで読み書きを学ぶ機会を奪われてきた彼女らの識字能力を高めることにある。そしてもうひとつは、そんな彼女らが「心のうちにしまってある苦労話」を「自分の言葉で書きしる」すことで「心を解放」し「自らを癒す」こと、さらに彼女らの経験を「歴史の生の証言として残」し、「後に続く者たちの道しるべ」とすることだ(p.16)。こうした目的をもった識字学級において、読み書きを指導する側の者はハルモニたちから歴史を学ぶ者でもあるとして、自らを「共同学習者」と名のる。

本書には、16人のハルモニ(うち2人は南米出身者)が書いた作文が、4部構成で収められている。作文を書かれたハルモニ方には本当におそれ多いことであるが、まずは内容を部ごとに簡単に紹介し、その後、地域コミュニティの「中心」たるハルモニたちを支える「共同学習者」の重要性を、あらためて指摘したい。

ハルモニたちの多くは、1920年代から30年代に生まれ、幼少期に植民地朝鮮から日本への移動を経験した。中には、植民地解放後にいったん朝鮮半島に帰ったものの、朝鮮戦争により命を脅かされ再び日本に戻った者もいる。「記憶(第1部)」には、その間の経験に関する作文が収められている。いずれの作文にも、彼女らの記憶が鮮やかに再現されており、例えば、家族との思い出の象徴であった柿の木が朝鮮戦争の空爆で燃やされたことを綴った徐類順さんの作文は見事だ。

「どう生きてきたか(第2部)」には、ハルモニたちが、いわば一家の大黒柱として、戦後の時代をどのように生き抜いてきたのか、そしてどのように人生を終えたいと考えているのかが記されている。この間の彼女らの生活の厳しさが察するに余りあることは、「あの時のことはもういいです」と締めくくられた金文善さんの作文からも明らかだ。彼女らが老いとどのように向き合っているのかについては、「いま思うこと(第3部)」の中でも詳しく綴られている。

第3部「いま思うこと」では、ハルモニたちのヘイトスピーチに対する意見・態度もはっきりと表明されている。桜本はヘイトスピーチの攻撃を直接的に受けてきたが、その地域コミュニティの「中心」にいるハルモニたちのことばは力強い。『ヘイトスピーチやだね!!』と題して黄徳子さんが書いた直筆の作文は、本書刊行を目的として立ち上げられたクラウドファンディングのウェブサイトに掲載されているので、すぐに訪ねて見ていただきたい(注1)。

「教室の外へ(第4部)」では、識字学級の外で、自らの経験を語る機会を得るようになったハルモニたちの「きもち」が綴られている。金芳子さんは、『かたりべをする私の気持ち』と題して、次のように書いた。

私は、たのまれればいやだけどいつもみんなのまえでじぶんのこれまでのことをはなします。むねのおくのほうにねかしてあるいやなことをむりやり思いだしてはなすのはつらいです。
だからはなしてもはんのうがなく、なんにもかえして(く)れないと、はなさなきゃよかったと思います。

この金芳子さんの作文は、識字学級の外での「かたり」について書かれたものだ。その一方で、これまでハルモニたちが「つらい」ながらも「むねのおくのほうにねかしてあるいやなことをむりやり思いだしてはな」してきたのは、ハルモニたちがそうしたいと思えるような「はんのう」を、ハルモニたちの信頼を得て傍にい続けた「共同学習者」たちが重ねてきたからだということにも思い至る。彼らがいなければ、私はこの本を読み、タイトルにあるような『じだいのいちぶ』としてのハルモニたちを知ることさえできなかった。

さらに、私がこの本を読んで、間接的にでもハルモニたちの歴史を垣間見た以上、金芳子さんがいうように、私も彼女らに「はんのう」しなければならない、とも思う。それは当然、「貴重なお話をありがとうございました」の一言の先にあるのだろう。本書は、ハルモニたちのみずみずしい文章が、彼女らのいきいきとした表情を捉えたカラー写真に彩られて、一見とてもやさしい雰囲気をまとっている。しかし、途方もない被害をもたらした過去の植民地支配と戦争の責任を、現在を生きる私たちにより広く問いかけるばかりか、その負い方についての思考を巡らすことを促す、そうした厳しさも持っている。

立教大学兼任講師/早稲田大学現代政治経済研究所研究員 加藤 恵美


注1 Motion Gallery クラウドファンディング・プラットフォーム、「川崎桜本のハルモニがおもいをこめてつづった作文を、一冊の本にしたい。『わたしもじだいのいちぶです』出版プロジェクト」。
書評:共感が可能な社会的つながりを求めて——原発事故から8年目に思う・吉田千亜『その後の福島—原発事故後を生きる人々』2018年(評者:立教大学異文化コミュニケーション学部 石坂浩一)
 理不尽を強いられながら、それをひっくり返すことは到底できそうになく、悔しい思いをどこにぶつければいいのかと途方に暮れる。そういうことは、歴史上たくさんあったのだろうが、特に3・11以降の日本の状況から、そう思わされることが多い。
 私たち平和・コミュニティ研究機構では脱原発の映画上映会など、原発、そしてフクシマという現実を考えようとしてきた。キャンパスのエコ化を進めたいという思いもその一つだったが、十分取り組めていないのが残念だ。その一方で、当たり前のように「復興」という言葉に日本社会が染め上げられ、震災と原発事故に関わるいろいろな地域、いろいろな人びとの現実が、一方的に決めつけられ、もう原発事故なんてなかったかのように語られることも少なくないのではないかと感じる。
 未曽有の原発事故によって、各地に散らばりながら、根底のところで共通の苦難を背負わされ生き続ける人びとのことを、少しでも知らなくては。そういう思いで吉田千亜『ルポ 母子避難』(2016、岩波新書)を出版からほどなく読んだ。被害者であり、あらゆる意味で未来が支援されなければならない子どもたちと、その子どもを守る人びとが、わがままを言っていると非難され、安全を第一に考えることが許されていない現実が、そこには具体的に記されていた。原発事故後、避難した人、しなかった人、避難したけれど元の家や近隣地域に戻った人など、条件はさまざまでも、共通した思いはある。私たちは何を大切にしなければいけないのだろうかと、深く考えさせられた。
 著者プロフィールを見て、立教大学出身の人であることを初めて知った。その後、2018年9月に『その後の福島—原発事故後を生きる人々』が人文書院から刊行された。前著から状況はよくなっていないばかりか、被害者の人たちの現実がオリンピックなどの国策に覆い隠されていることが、細やかな取材により報告されている。あまり恣意的な紹介になってはいけないので、各章のタイトルを示しておこう。

1.避難指示を解かれて
2.不安を語れない空気
3.徐染の現実
4.賠償の実態
5.借上住宅の打ち切り
6.無理解の苦しみ
7.集団訴訟に託すもの

 政府と東京電力の責任はできるだけ小さくし、被害者の要求はできるだけ抑え込んで、人びとの目をちがう方向にそらす——こんな見え透いたといってもいいような手法で、原発事故被害者は私たちの目から覆い隠されている。避難も健康への不安も、被害者の責任であるかのように語られてはいないだろうか。しかし、本書は冒頭で、ある被害者の言葉を紹介している。「私たちは原発事故後に、何度も、大きい選択、小さい選択を繰り返してきたけれど、選びたいと思う選択肢なんて、いつもなかった。
放射能の影響がどれだけあるかは、何十年後でなければ明らかにならないのに、徐染が終わって、避難指示区域が解除されると、帰らなければ身勝手だといわれる。本書では水俣病など公害病をめぐる歴史が繰り返されていると指摘されているが、その通りだと思う。放射能汚染の影響を強調すると、風評被害を呼ぶと非難されるが、実際の汚染はまだなくなっていないのである。避難した子どもが健康の不安を抱きながら生きなければならないことも、消えることのない現実だ。本書4章では二本松市で農業を営む人の話が紹介されている。今起こっているのは原発事故が大地と作物を汚染している実害であって、風評被害と片付けるのは責任を消費者に押し付け東京電力を免罪することだと。
 7章で原発事故に関連したさまざまな訴訟を担う人びとの思いが紹介されている。裁判をしてもお金になりそうにもないが、このままでは日本全体の放射能の基準が緩められて子どもや孫の世代に禍根を残す、だから「裁判を通じて、日本全国の基準を下げるの、今しかないからだよ」(237頁)という原告の方の言葉はとても印象深かった。
厳しい中で生き抜いている人びとの姿には、頭が下がる思いだし、励まされる。今、被害者はひどく限定された範囲の人びとと思われているが、本書でも示唆しているように、あとになってずっと広い範囲の人びとが放射能の影響を受けたことがわかるかもしれない。その時に責任を取って対処するのは、未来の世代の人びとだ。私たちはもっと多くのことを知り、考えなくてはと思う。ともあれ、吉田さんの著書をぜひともお読みいただきたい。『世界』では3月号から吉田さんの福島ルポ「孤塁」の連載も始まっている。
あまりいろいろなことを一緒にしてはいけないかもしれないが、原発事故の被害者がかえって非難される逆転した風潮は、朝鮮半島に関連した研究をする者には、近年とても身近なものである。韓国の元日本軍「慰安婦」や第二次世界大戦時の戦時労働動員被害者、遺族に対する日本のありようは、まさに共通しているからである。植民地支配、戦時労働動員の被害者も、自分たちの責任ではないことで苦痛を負わされ、韓国の民主化以降、ようやく声を上げることができるようになった。それでも、日本政府は被害者の声を正面から受け止めず、被害者の分断が図られたり、日本の排外主義の声が高まったりしてきた。もう何をしても無駄なのかと思う中でも、韓国の若い世代や世界の世論で、わずかな慰めを感じつつ、すでに多くの被害者が世を去った。
社会的、構造的にやるせなさを抱かされる人びとが、排除し合うのではなく、共有できるものを見出し、ともに共感によって支え合う社会をめざす、そんなことは不可能だろうか。本書は考える契機になるにちがいない。
書評:吉次公介『日米安保体制史』岩波新書、2018年(評者:千葉大学グローバル関係融合研究センター特任研究員 小松寛)
 授業の話。「日本に外国の軍隊が駐留していることに疑問を持ったことがある人?」と問いかけると、学生らは怪訝そうな表情を浮かべる。日本に米軍基地が存在することを当然と思っているか、関心を持ったことすらないのだろうか。そこで、そもそも米軍は第2次世界大戦の敗戦国となった日本への占領軍であったこと、日米安保条約の締結によって主権を回復した後もその駐留が継続していること、そして米軍基地は全国各地に存在したが、戦後史の中で沖縄への集積が行われていったことなどを話す。授業終了後に提出されるレビューシートには「米軍基地が存在していることは当然だと思っていたのでハッとした」などの感想が帰ってくる。

 学会の話。沖縄の新基地建設問題についてある先生が、「日本国民の大多数が日米安保を肯定しているから、それを前提とした解決策を模索すべきだ」といった主旨の報告をされた。部会終了後、懇親会会場まで移動しながら議論していると、もうひとりの先生が「しかし、日米安保以外の選択肢を示すことも研究者の役割ではないか」とおっしゃった。私は思わず「でも今では日米安保を否定すると誰も聞く耳を持ってくれませんからね」と言ってしまった。これは拙稿「戦後沖縄と平和憲法」(島袋純・阿部浩己編『沖縄が問う日本の安全保障』岩波書店)で「「日米安保打破」といった左派的言説が現実的訴求力を失っている」と論じた経験からの発言だった。しかし、日本国民の80%以上が日米安保を肯定的に評価している(内閣府世論調査)ことを前提としながらも、現状を追認するのではなく、その弊害に目を向け、オルタナティブな安全保障体制を模索する意義は失われていないはずである。

 上記のような問題意識を共有する人にとって、吉次公介による『日米安保体制史』は非常に有益な書である。吉次は日米関係史や戦後日本政治史の最新の研究成果を織り込みながら、日米安保体制の形成と変容を描く。本書は「日米安保体制」を「日米安保条約及びそれに関連する諸取決めに基づく、軍事領域を柱とし、政治・経済領域も含む、安全保障に関する日米の協力体制」(iv頁)と定義した上で、日本による対米防衛協力、米軍基地の運用の在り方、米軍基地から派生する事件・事故に代表される基地問題を要点として論じる。

 さらに日米安保体制の構造的特質を詳らかにするために、「非対称性」・「不平等性」・「不透明性」・「危険性」という4つの要素に着目する。「非対称性」は、日本側は基地を提供し、米国は軍隊を提供するという「物と人の協力」を指す。「不平等性」は、日米地位協定に象徴される、日本の国家主権が十分に尊重されていない状態を意味している。「不透明性」は有事の際に米軍による沖縄への核持ち込みを認めた密約など、十分な情報公開がなされていなかった点を示す。そして「危険性」は、在日米軍の事件・事故による国民の安全への脅威である。この3つの論点と4つの要素を軸として、本書は日米安保体制の歴史を5つの時期に区分している。以下、評者の観点から各章の要点をまとめてみたい。

 第1章「講和の代償(1945〜60年)」では冷戦下において、講和と同時に調印された日米安保条約が暫定的な協定として始まり、60年に改定される過程が記されている。安保改定に際しては事前協議に関して密約が結ばれており、それは「不透明な術策」であった。また、この時期に日本本土では基地拡張や事件・事故への反発から反基地闘争が展開されていた。その結果、地上部隊は米軍の直接統治下にあった沖縄へと移転した。

 第2章「米国の「イコール・パートナー」として(1960~72年)」では、高度経済成長を果たした日本が、ベトナム戦争を抱える米国から要求される「負担分担」に対応しながらいかに沖縄返還を実現させたかまでが描かれている。沖縄返還の条件として米国は基地機能維持の保障を求めた。しかしこれは米国のみならず、韓国や台湾の要求でもあった。すなわち「日本本土やアジア諸国の米軍が大幅に削減される中、在沖米軍がほぼ維持された事実に照らせば、沖縄返還は、日本本土だけでなくアジアの自由主義諸国が安全保障面で沖縄への依存を深めるプロセスだった」(75頁)。

 第3章「日米「同盟」への道(1972~89年)」は米中接近、新冷戦、そして冷戦終結へと至る変動期の日米安保体制の変容について論じられている。78年の「日米防衛協力のための指針」によって日米合同演習・訓練が可能となり、限定的ながら「人と人の協力」の要素が取り入れられた。米軍駐留経費の負担(思いやり予算)もこの時期に始まった。在日米軍の活動範囲は中東まで及び、安保体制の「グローバル化」が進展する。国際社会は冷戦の終結を迎えるが、日本は負担分担への対応に追われ、東西間の信頼醸成へ「平和国家」としての役割を果たすことはできなかった。

 第4章「冷戦後の課題(1990~2000年)」ではまず、130億ドルを支出したにも関わらず、クウェートが感謝広告にて日本に言及しなかった「湾岸のトラウマ」への考察が加えられている。そもそもこの広告は多国籍軍を対象としていたが、それにも関わらず日本政府は人的貢献が必要との主張に囚われる。これは米国が求める自衛隊の海外派遣を実現するための口実として使われた。こうして日米安保体制の意義は共産主義勢力の封じ込めからアジア太平洋の安定と再定義され、対米協力は強化された。他方で沖縄では95年の少女暴行事件を発端に基地問題が顕在化する。「冷戦後の「同盟」強化と本土の「危険性」低減は、「危険性」「不平等性」の沖縄への偏在と表裏一体であった」(166頁)。

 第5章「安保体制と「グローバル化」(2001〜18年)」では、米国の「対テロ戦争」に自衛隊が参画し、対米協力のグローバル化が進む道程が示されている。小泉政権は米国の世界戦略への関与を国際協調の一環として進めた。民主党政権は密約の解明で「不透明性」の改善を図ったが、米国側は不信感を持つ。さらに鳩山の「東アジア共同体構想」や普天間基地の移設先をめぐる迷走は日米関係を損なわせた。安倍政権は集団的自衛権の行使を容認し、安保関連法を成立させることで、自衛隊による米軍への地球規模での後方支援を可能にした。しかし「安保体制の「グローバル化」と「対称性」の追求に腐心することが、果たして日米関係の発展につながるのか」(210頁)と筆者は問いかける。

 「おわりに」では、いまだに日米安保体制の「危険性」「不平等性」「不透明性」という構造的歪みが是正されていないことを指摘した上で、安保体制の課題が整理されている。それは「平和国家」日本の国際的役割を見定め、対米協力の拡大には国民的合意を図り、周辺国との信頼醸成で安全保障のジレンマを回避することである。また、十分な情報公開による透明性の確保と、在沖米軍の大半を占める海兵隊の削減と普天間基地移設計画の見直しにより沖縄の負担軽減を図るべきとしている。そしてこれらの実現が日米安保体制の安定に必要だと説く。

 本書の意義のひとつは、日本の安全保障政策の転換期となった2015年の安保法制をめぐる政治動向や多様な議論と社会運動を踏まえた上で、日米安保体制の歴史を振り返った点にある。それにより近年の日米安保をめぐる議論を理解するために必要な経緯と知見が端的にまとめられている。また、昭和天皇の日米安保体制への認識や関与についても言及されている点も特色であろう。これは「平成流」と呼ばれる今上天皇の沖縄への積極的姿勢の理解につながる、かもしれない。

 日米安保体制は「非対称性」・「不平等性」・「不透明性」・「危険性」を構造的要素としながら半世紀以上、成り立ってきた。これを是正しながら日米安保体制を存続させることは大変な困難であることは想像に難くない。しかし本書の提言を基に、真摯かつ建設的な議論が広まることを期待してやまない。

*評者の小松寛先生は2019年度から本学で平コミ提供科目の授業をご担当くださいます。また、本書著者の吉次公介氏は立教大学の学部、大学院で学ばれたのち、沖縄国際大学教授を経て、現在立命館大学法学部教授として勤務されています。
書評:吉成勝男・水上徹男編『移民政策と多文化コミュニティへの道のり—APFSの外国人住民支援活動の軌跡—』(評者:立教大学社会学部兼任講師 大野光子)
 一般的に日本社会は長らく「移民」や「移民政策」といった言葉に無頓着だったと言える。多くの人びとは、自分たちが住む社会は移民とは無関係だと思ってきただろう。しかし現在、その見方は大きく変更を迫られている。

 1980年代後半、日本はバブル経済下における好景気の真っただ中だった。その頃から近隣のアジア諸国から仕事を求めて日本にやってくる外国人労働者が急増した。また、1990年6月に改正された出入国管理及び難民認定法が南米からの日系人に就労資格のある「定住者」ビザの交付を認めたため、主にブラジルやペルーから多くの人びとが到着し、日本の外国人人口は一気に増加、またそのエスニシティも多様化した。その後も日本の外国人人口は増え続け、法務省入国管理局によると、2005年にその数は初めて200万人の大台を超えた。東日本大震災の影響で2011年と2012年、その数は一時的にやや減少するが、再び増加傾向をみせ、2018年の統計では外国人人口は、約263万人となっている。このように増加を続けてきた外国人人口であるが、当初は労働目的で来日し短期の労働者と見られることが多かった彼らも、日本での結婚や出産といった重要なライフイベントを経て滞在が長期化し次第に地域へ定着、そして定住の傾向を見せるようになった。現在では、彼らを地域の成員として迎える視点の重要性が高まっている。

 このような外国人人口の変遷に対して、日本政府はどのような対応を取ってきたのだろうか。長い間政府は、公式的には移民の受入れに関して扉を閉ざしてきた。しかし1990年代以降、外国人労働者のその後の定住や国内人口の高齢化の加速に関連した労働人口の減少が深刻な課題となり、「移民政策を持たない」という日本政府の態度は、それを維持するのが難しくなった。2000年代中頃、地域に定着した外国人住民との共生を謳う「多文化共生推進プラン」の策定や高齢化社会を意識した外国人看護師及びケアワーカーの受入れなど、政府は移民政策の改正に取り組み始めた。そして2010年には、政府は移民受入れに賛成する立場を明確にしている。様々な問題を抱えているが、既にEPAの施行により多くの外国人看護師やケアワーカーの候補者が日本の福祉産業で活躍し始めている。
 
 本書は、このような外国人住民の増加と定住が進む今日の日本社会を対象として、「多文化コミュニティの形成」を目指しているものである。日本社会における外国人人口の増加については、一般、専門書問わず既に多くの本で扱われてきたが、本書の特徴は、「政策や制度について学術的に議論したものではない。むしろ、移民問題にかかわる事例、このような事情に関係した人たちの活動、あるいは当事者たちの経験を取り上げて、机上の議論や構想ではなく、実践活動としてかかわった記録」である(本書,「はじめに」,p.ⅱ)。その際本書では、NPO法人「APFS(Asian People’s Friendship Society)」を取り上げ、彼らの30年に及ぶ活動を実践者や当事者を含め関連した人びとを執筆者として迎え、詳細に記述している。APFSは、「1990年代初めから一貫して『移民受入れの前に非正規滞在外国人の正規化』を掲げて外国人住民の支援活動を行ってきた」団体である(本書,「はじめに」p.ⅳ)。
 
 本書は、3部構成となっている。第1部「外国人住民と関連した社会の変化」では、APFSの設立経緯や活動の詳細な記述を核としながら(第1章、第2章、第3章、第4章)、APFS創設者吉成勝男氏が2011年に「多様な人々が豊かに暮らせるコミュニティの基礎づくりを目的として」(本書, p.88)新に立ち上げた、「ASIAN COMMUNITY TAKASHIMADAIRA (略称、高島平ACT)」を取り上げる他(第5章、第6章)、後の章では、在留特別許可、「内なる国際化」に対応した人材を育成するための支援活動団体と大学のコラボレーションの実践、そしてより包括的な議論として「多文化共生」概念の再考(第7章、8章、9章)を取り上げ、日本社会の変化について論じている。

 第2部「トランスナショナルなネットワークと国際移動」では、第10章~14章において日本
とバングラデシュを事例に両国間に形成されたトランスナショナルなネットワークの内実を明らかにしている。日本国内で外国人人口が急増した1980年代後半以降、社会的にも学問的にもそのことが話題となり社会学の分野でも外国人住民を対象とする調査・研究が盛んになった。そのようななかバングラデシュからの労働者にはほとんど目が向けられてこなかったが、実際には1980年代半ばから終わりにかけてバングラデシュ人の人口は急増し、バングラデシュ・コミュニティを形成してきた。該当の各章では、帰還バングラデシュ人に対するインタビュー調査の結果から彼らを取り巻く人間関係を丁寧に記述し、日本でのバングラデシュ・コミュニティの形成や二国間にまたがったトランスナショナルなネットワーク形成がいかになされたのか明らかにしている。その後の章では、インドネシアとフィリピンを事例として、EPAによるひとの国際移動が論じられる(第15章、第16章)。

 最後の第3部「外国人住民の福祉・教育・自立支援事業」では、外国人女性の自立(第17章、第18章)、教育現場、医療現場からみる多文化共生の課題(第19章、第21章)、そしてAPFSが主催した「多文化家族の自立に向けた包括的支援事業」を取り上げ、参加者となったフィリピン人女性の経験が来日の経緯とともに記される(第20章、第22章、第23章)。その他コラム等も含めて、活動実践者や当事者の生の声が詳細に記録されている。
 
 以上のように本書は、当事者や活動の実践者、そして現場で多文化共生の課題に直面する人びとの経験や生の声が中心的なデータとして構成されている。そのため、多文化共生に関連する現状や課題をリアルに感じることができ、本書の目的である「多文化コミュニティの形成」を具体的にイメージすることができる。現在、日本政府は移民の受け入れを進めようとしているが、本書で取り上げているような「既に日本社会にいる外国人住民」が抱える問題を置き去りにはできない。今後政府がおこなう移民受け入れに関して、何が問題なのか、を知るために本書は役立つだろう。
ユン・イルソン先生を追悼する(平和・コミュニティ研究機構 石坂浩一)

ユン・イルソン先生

私たち立教大学平和・コミュニティ研究機構では2010年に日中韓の都市づくりと住民参加に関わるシンポジウムを行ない、その成果を2012年に『再生する都市空間と市民参画』(CUON)という本として出版した。その後、この本は平コミが提供する全学共通科目の授業「アジア地域での平和構築——東アジアにおける都市空間の再生と若者」(福島みのり先生担当)において教材として使用されてきた。
2012年のシンポジウムにおいて、釜山大学のユン・イルソン先生はニューヨーク、上海に加え、ソウル市ムルレ洞、釜山市チュンアン洞、そして仁川市ヘアン洞を取り上げ、都市再生と文化について興味深い考察を展開された。ちなみにこのシンポジウムにおいて、環境運動連合のイ・ヒョンジョンさんは、ソウル市のヤンジェチョンとホンジェチョンの河川事業について、チョンゲチョン復元工事を念頭に報告した。私は水原のスウォンチョン暗渠撤去の住民運動について報告した。シンポジウム後の席でユン先生とソウル・水原の問題について少しお話ししたと思うが、具体的なことは忘れてしまった。残念である。
 ところで、このシンポジウムに参加してくださった釜山大学のユン・イルソン先生が2017年12月1日に亡くなられたことをうかつにも、18年12月に先生の遺稿集が出たことでようやく気付いた。まだ56歳という働き盛りのお年だった。肺疾患を患っていらっしゃったという。


ユン先生は釜山のご出身で、ソウル大学社会学科の修士課程を終了後、英国のエセックス大学で住宅問題に関する研究で博士号を取得し、韓国帰国後、釜山大学社会学科で教鞭をとられた。帰国後、釜山大学に着任する以前にはソウルでチョンゲチョン復元事業に関連して、調査研究をされたこともあるとうかがった。研究においては都市と環境にかかわる様々な分野を取り上げられ、都市の乱開発、住宅問題、環境保全、ホームレスの支援など、遺稿集を見ると先生の研究の幅広さがわかる。いいかえれば、都市に暮らすあらゆる人びとの生活と権利に関わろうとする姿勢を見て取れる。韓国の市民団体である参与連帯は国内外に知られているが、ユン先生はプサン参与連帯の都市委員会委員長も務められた。研究者として、教育者として、そして実践者として、忘れがたい足跡を残されたといえる。
釜山日報のチョ・ソヒ記者はユン先生の教え子のようで、2017年12月4日付の同紙に「私たちはユン・イルソン先生に借りができてしまった」という追悼コラムを書いた。
ユン先生の都市社会学の授業では、海の景観がすべての人々に開かれた共同の財産であるという考え方に初めて接し、文化社会学の授業では朝鮮戦争当時の釜山のホームレスの写真を見て、討論する授業をしたという。そして、授業時間が少し残ると、そらんじている詩を詠じてくださったのだとか。
釜山市では海雲台に象徴される大規模開発が続いたが、こうした大企業本位の大型開発は、市民を疎外し、必ずや不正を生むとユン先生は指摘していた。実際、その通りになってしまったとチョ・ソヒ記者は指摘する。そして、ユン先生が守ろうとしたものを、これから自分たちが担わなければならない借りがあるというのである。
ユン・イルソン先生の遺稿集『都市は政治だ』はサンジニ(산지니)という出版社から刊行された。章立ては以下の通りである。

第1部 都市政治
第1章 釜山市大規模乱開発に対する批判的アプローチ
第2章 海雲台観光リゾートの都市政治学
第3章 エルシティ検察捜査の成果と限界
第4章 釜山北港再開発の争点
第2部 都市再生
第5章 都市貧困地域再生の新たなパラダイムのために
第6章 英国の都市再生政策の変化の過程と教訓
第7章 地域社会共同体の再活性化と民官協力
第8章 都市再生R&D事業の社会的影響および波及効果
第3部 都市文化
第9章 都市貧困についてのふたつの視線
第10章 文化芸術と都市再生、そして住民参加
第11章 若い建築家へ:ある社会学者の悩み

追悼式の会場

以上の内容は未発表原稿を含んでいるが、ユン先生のパソコンにあった『都市は政治だ』というタイトルの本の構想に従い、最小限の編集にとどめて、遺稿集にまとめたという。ユン先生が日本で発表された内容は『再生する都市空間と市民参画』第2部に収められているが、『都市は政治だ』において第10章として生かされている。一語一語確認したわけではないが、同じ内容であると見られる。
遺稿集出版を機会に、ユン・イルソン先生を追悼する思いをともにする人びとは、「行動する都市社会学者 故ユン・イルソン教授を追悼学術行事 追悼式」を2018年12月1日、釜山大で行なった。

この日の学術行事で報告をした東亜大学社会学科のチャン・セフン教授は、ユン先生の学問を「義理の社会学」と呼んだ。とても東洋的な表現で、ユン先生と親しく話し合うことのできなかった私にとってはふさわしい言葉かどうか、わからない。しかし、ユン・イルソン先生が義理を重んじる方であったことは、短い出会いでもわかるような気がするのである。
日本でも韓国と同様、政治家と資本による一方的な開発や住民疎外はやむことがない。「借り」があるのは私たちも同じではないかと思う。ユン・イルソン先生を心から追悼し日本の研究者の努力と、韓国の研究者との積極的な協力を誓いたい。
なお、ここに掲載した写真はサンジニ出版社のホームページよりお借りしたものである。記して感謝したい。
『祖国が棄てた人びと』出版記念講演会へのご参加、ご協力に感謝いたします(平和・コミュニティ研究機構 石坂浩一)

『祖国が棄てた人びと』出版記念講演会への ご参加、ご協力に感謝いたします

 11月22日、立教大学池袋キャンパス8号館8303教室において、在日韓国人政治犯の現代史を描いた韓国の書籍『祖国が棄てた人びと』日本語版の出版記念講演会が開催されました。
 
 本の著者でハンギョレ新聞の元編集人(主筆)の金孝淳(キム・ヒョスン)さんの講演は、本に書けなかったエピソードを含め、とても印象深いものでした。金さんがソウル大学在学当時、在日韓国人で母国に留学した京都出身の青年と出会い、韓国社会が意識することのない在日韓国人の生きづらさに気づいたことが、その後、東京特派員を務め在日韓国人政治犯に関心を持っていくきっかけになったことを明かされました。
 
 講演に先立ち、立教大学兼任講師の李昤京(イ・リョンギョン)先生が、在日韓国人政治犯の再審請求状況、そして事件のでっち上げられた時期と韓国の情報機関や支配機構との関連について、鋭い報告をしてくださいました。
 
 当日は150名と多くの方に参加していただくことができました。在日韓国人政治犯の再審支援に当たった弁護士や市民団体の皆さん、そして原著を出版した出版社・西海文集のカン・ヨンソンさんら、韓国から駆けつけてくださった皆様と会をともにすることができたのは、嬉しいことでした。また、獄中で苦労した元政治犯として金元重(キム・ウォンジュン:千葉商科大学教授、経済学)さん、関西から駆けつけた李哲(イ・チョル)さんら5人の方々、また元救援会として金元重さんの会や姜宇奎(カン・ウギュ)さんの会の皆様をはじめたくさんの方々がお越しくださいました。日本のマスコミ、韓国のハンギョレ新聞など、マスコミ関係の皆様もお越しくださいました。
 
 その後、『ハンギョレ』が11月26日付で立教での講演会を報じ、日本語の電子版サイトでも紹介されました。
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/32204.html なお、原文はこちらです。http://www.hani.co.kr/arti/culture/book/871735.html

 その後、週末の24日には大阪でも同様の講演会が開催されました。日本でのこうした動きをまとめ、『ハンギョレ』12月1日付は「無罪判決で堂々と生きることができるようになったが、大韓民国の謝罪が欲しい」との記事を、1面全てを使って報道しました。
 
 日本語はありませんが、記事は以下で見ることができます。http://www.hani.co.kr/arti/society/rights/872619.html
 
 皆様のご協力でこのように出版記念講演会を盛会で終えることができました。ご参集、ご協力くださった皆様、ありがとうございます。講演してくださった金孝淳先生、準備に頑張ってくださった金元重先生、あらためて感謝いたします。
また、本をお読みになっていらっしゃらない方は、ぜひご一読ください。明石書店に直接注文されると比較的早く届くはずですが、出版を準備した関係者にお問い合わせくださっても構いません。
 
 在日韓国人政治犯救援運動は、日本政府の韓国軍事政権に対する支援、在日コリアンに対する抑圧政策や差別をただしていこうとするものでした。それは、日本社会は正しく、韓国の政治は独裁で悪だといった見方とは正反対の、日本のあり方を直視してこそ、在日コリアンや韓国民主化運動にアプローチできるという志によるものだったと思います。日本の社会運動の成果と課題を跡付ける作業はまだ始まったばかりで、日本の研究者も今後一層考察を深めていかなくてはと、思いを新たにする講演会でした。

立教大学 平和・コミュニティ研究機構代表
『祖国が棄てた人びと』監訳者
石坂浩一

言葉の力を信じて—同人誌『いのちの籠』と韓国の詩に思う(異文化コミュニケーション学部 石坂浩一)

言葉の力を信じて—同人誌『いのちの籠』と韓国の詩に思う

 その人は
 アメリカに押し付けられたいじましいみっともない人となじ
 られていた
 なじる人はアメリカに自衛隊を差し出し
 自衛隊をその人に明記しようとしていた

 アメリカ兵と自衛隊が同じ軍服を着て
 American-army, Japanese-army と肩を並べてみたら
 やっとアメリカと対等になれるだろうと

 南スーダンから帰還した Japanese-armyは
 何を見ただろうか
 その痛みや恐怖のことは
 誰も語らなかった

 中村純さんの詩「その人」の冒頭部分である。もちろん、読者は「その人」がだれであるか、お分かりだろう。この詩は「戦争と平和を考える詩の会」が発行する同人誌『いのちの籠』38号に掲載されたものである。『いのちの籠』は奥付に書かれているように「戦争に反対し、憲法9条を守る詩の雑誌」であり「掲載されている諸作品は、反戦集会などのいろいろな集まりで、朗読その他に、自由にお使いください」とその姿勢が表明されている。年3回の刊行というから、すでに10年以上続いていることになる。
 ここで登場する詩は、憲法9条はもちろん、脱原発、沖縄、#Me too、朝鮮半島など多岐にわたるテーマをうたっている。日本では文学は政治に支配されるべきではないという命題が強調されるあまり、政治に関わるようなことを書く行為自体を避けるような傾向が強いようだ。しかし、目の前に差し迫っていることをやむにやまれず表現しようとすれば、感じ語らずにはいられないことをだれかに伝えようとすれば、言葉は生まれてくるのではないかという気がする。

 とるものもとりあえず
 子ヤギを運ぶときの麻袋に
 赤ん坊を包んで
 ただそれだけを胸に抱いてきた

 テントの 三つ目の夜
 眠らない子の耳に
 草摘みのうた 歌い
 砂の降るおはなしを ささやいていると

 おさないいのちのほかは
 何もかも残してきた故郷から
 ことば だけは
 持ってくることができたのだ と気づく
 荷物検査所でも まさぐられなかった 
 わたしの持ち物

この詩は草野信子さんの「持ちもの」の前半部分である。『いのちの籠』39号に掲載された。場所は特定されていないが、故郷を追われテントに暮らさざるをえない親子が、あちこちの紛争地域に生きているだろう。持っているものは何もないが、「ことば」だけは奪われなかったという、そのひとことに胸を衝かれる。日本に暮らしている私たちは、悪意の言葉にどれほど囲まれていることか。川崎や大久保で声高に叫ばれるヘイトスピーチは、その典型だ。聞きたくなくとも耳に入ってくる、人を傷つける言葉に、むしろ無力感を感じることが多いかもしれない。しかし、何もかも奪われた人びとが、穏やかに語る言葉、強く叫ぶ言葉、必ず他者に届く言葉があったはずではないか。
個人的な話になるが、私が詩というものの存在を喜ばしく感じたのは茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)を読んでからだった。その後、木島始訳の『ラングストン・ヒューズ詩集』を読んで、こんなふうに翻訳ができたらいいな、とあこがれた。その後、かつて私が関わっていた在日韓国人政治犯救援運動において、縁あって法政大学で教壇に立っておられた木島先生にあれこれと助けていただくことになり、ときおり大学にお邪魔しては政治犯の話、アジアの詩や絵画の話など伺うことができた。こうして出会った詩は、韓国で民主主義や人間をうたった詩と違和感なく通じるものがあった。木島先生も亡くなられたが、私が言葉の力を信じることができるのは、こうした出会いや教えがあったからだと思う。
日本の詩人たちはさまざまな形で韓国の詩人たちと交流を続けている。日本社会、特に政治の世界やインターネットでは、韓国人をおとしめ悪罵を投げつける声が、歴史問題などをきっかけにこのところますます高まっている。だが、出会ってみる、言葉を通じて理解しようと努める、そうした営みがあれば今日のような状況にはならなかったのではないだろうかと感じないではいられない。小説ももちろん力があるが、詩は人びとの心により直接的に訴えかけてくる力があるのではないだろうか。対立するのではなく、語り合い、何かをともにうたってみるということを、わたしたちはしなくていいのだろうか。
韓国の詩人との交流や、単なるイベントにとどまらず着実に翻訳や出版に尽力しているのは、詩人の佐川亜紀さんである。佐川さんが訳したり出版をプロデュースした作品は数えきれない。佐川さんが編集に関わる雑誌『詩と思想』2018年7月号は「韓国詩—平和と民衆運動」を特集した。古くから活躍する李時英(イ・シヨン)、社会運動でも活躍している宋竟東(ソン・ギョンドン)、童話が日本でも翻訳された安度眩(アン・ドヒョン)などが紹介されている。この特集では申鉉林(シン・ヒョルリム)がとても印象深かった。

人のようにキスする山鳩を見て
人生が不思議でもっと知りたくなって自殺しなかった

申鉉林の「私は自殺しなかった 一」という詩の一節である。言葉の力を信じて、平和を願って、何かを語り続けようとするすべての皆さんに、こうした詩人たちから励ましを得ることができるように願ってやまない。
なお、『いのちの籠』は書店では販売していないが、143-0016 大田区大森北1-23-11 甲田四郎様宛に申し込めば購読することができる。

本学異文化コミュニケーション学部教員 石坂浩一
書評:文在寅著・矢野百合子訳『運命 文在寅自伝』岩波書店2018(評者:異文化コミュニケーション学部 石坂浩一)

隣人としてのその人を見よ『運命 文在寅自伝』2018年10月 岩波書店

 2017年5月に韓国の国民はムン・ジェイン(文在寅)という人物を大統領に選んだ。ムン・ジェイン大統領が誕生した時、おそらく韓国の市民たちはある感動を感じたのではないかと思う。
 1998年にキム・デジュン(金大中)大統領、2003年にノ・ムヒョン(盧武鉉)大統領が誕生したことで、多くの韓国人も、また韓国に関心を持ってきた日本の市民も、韓国の民主主義はもはや後退することはないだろうと思った。2008年にはイ・ミョンバク(李明博)政権が誕生したが、民主主義の根幹を揺るがすことはなかろうと楽観していた。ところが、歴史は反共保守政治を再現してしまった。あらゆる社会運動は弾圧され、人権のさまざまな基準も後退した。民主化の10年を担った大統領は2009年に二人とも亡くなった。勝ち取った民主主義がこれほどもろくも崩されるものとは、思ってもいなかっただろう。
たくさんの人びとが、2008年以降の保守政権の9年間に抗議の声を上げた。最初に女子高校生たちが声を上げた米国産BSE牛肉輸入反対運動しかり、300人あまりの人々の命を奪いながら当日の政府の対応さえ公開できなかったセウォル号事件に対する真相究明、抗議運動しかり。だが、道のりは遠かった。マスコミで自由な報道のために体を張っていた記者たちは多数職場を追われ、労働者は無慈悲に職場を解雇された。公教育の教員たちの労働組合は、教員の団結権を認めないという政府の方針により、非合法化された。いわゆる先進国では例を見ない事態だった。韓国の市民、そしてそれに心を寄せる世界の市民は暗い時代を過ごした。けれども、あきらめることはなかった。その市民の意志の力がどれほど社会を動かすかを、2016年から17年にかけて韓国で展開されたロウソクデモは雄弁に教えてくれた。不義の政権を引きずり降ろして誕生した大統領ムン・ジェインは、その象徴である。
 本書は2011年に初版が出版され、韓国でベストセラーとなった『ムン・ジェインの運命』の翻訳である。訳者は本学で長年兼任講師を務め朝鮮語を教えてくださっている矢野百合子先生で、年譜は私が担当した。解説は一橋大学のクォン・ヨンソク(権容奭)先生が執筆された。
 ノ・ムヒョン大統領は自分の著書に『運命だ』というタイトルを付けた(日本では未刊行)。キム・デジュンは何度も大統領に挑戦し、ようやくその座について、誰もできなかった業績を成し遂げた人物である。そのあとを受けて、キム・デジュン大統領の派閥とは縁がないノ・ムヒョンが大統領になったのは、まさに時代が求めた人物だったからだ。だから、それが「運命」だった。任期終了後、保守勢力が猛然と反撃し、ノ・ムヒョンを攻撃して窮地に追い込んだのも、運命だったかもしれない。ムン・ジェイン政権になって、不法で非道徳的な民主主義の後退は、調査、検討され、ゆがんだ道が正されようとしている。
 ムン・ジェインは韓国の慶尚南道で生まれたが、両親は北朝鮮の咸鏡南道興南出身だ。韓国映画〈国際市場で逢いましょう〉を見ると、冒頭に朝鮮戦争のさなか、興南から人びとが米軍の船で南に避難する、いわゆる興南撤収の場面が出てくる。ムン・ジェイン大統領の両親もそのようにして南に来た。統一されたら北に行き、街弁をしてみたいというムン・ジェインの言葉にはそうした背景がある。
 学生時代は学生運動をして逮捕された。1980年のソウルの春で復学、卒業はできたが、時代はすぐには変わらなかった。裁判官を志望したが学生運動の前歴のために果たせず、弁護士となる過程でノ・ムヒョンと出会う。多くの労働運動関連の弁護をして、民主化運動側の人となった。そして、ノ・ムヒョン政権で大統領秘書室長などの要職を歴任するのである。こうした波乱の人生が活劇のように本書にはまとめられている。
ムン・ジェインは2012年12月の大統領選挙に出馬し、この時はパク・クネ(朴槿恵)候補に敗れた。このチャレンジを前にして本書は書かれているので、その後のことは書かれていない。解説に大統領になるまでの、12年以降の歴史が簡単に書かれているので参考になる。いずれにしろ、ノ・ムヒョンと出会い、その盟友として民主主義を生き返らせようとするのがムン・ジェインの運命であったようだ。
ムン・ジェインは本書で、自分にとってノ・ムヒョンという存在が何なのか、まだわからないが、彼が残した宿題があるというのに「その時代に果たすべき役割から逃れられる者がいるだろうか」(365ページ)と自問自答する。その役割をささやかであっても引き受けようとする点で、彼は私たちと同じであり、良き隣人である。
ノ・ムヒョン政権が終わってから韓国の民主主義が後退を強いられた見逃せない要因は、南北対立の状況下での権威主義的政治手法の復活であった。北朝鮮が南を狙っている、国を守るには北朝鮮を圧迫しあわよくば崩壊させるべきで、それを批判するのは北に味方することだ。そんな論理がまかり通り、当たり前の人権や言論の自由、平和の要求も、抑え込まれた。その裏で政権に近い人々は私腹を肥やしていた。保守政権への批判を韓国国民は支持した。だから、「北の脅威」を二度と、民主主義の抑圧や私利私欲の道具にしないために、今ムン・ジェインは南北関係を平和に導き、平和定着によって民主主義の根幹を安定させようとしている。
残念ながら、日本ではムン・ジェイン政権の政策を「親北」「反日」というフレームでしか見ようとしない人びとが少なくない。だが、笑い話がある。大統領選挙当時、パク・クネが「親日」、ムン・ジェインが「反日」と、日本のメディアは言っていたではないか。ところが、日本のメディアはやがて、パク・クネを「反日おばさん」などと女性蔑視まで合わせて語るようになった。こうした恥ずかしいありようを、日本のメディアは反省することから、始めなくてはいけないのではないだろうか。
隣の国の大統領の歩みをこの本を通じて、ぜひ知ってほしい。少なくとも私は、隣国の隣人にムン・ジェインがいることをとてもうれしく思う。その人を、韓国の多くの人びとの生きざまと重ね合わせて、理解しようとすれば、韓国の現代史はよりよくわかるようになり、また隣人への敬意を抱くことができるだろう。ぜひ、本書を紐解き、日本で広く知らせてほしい。
論文紹介:清水謙著「Swedish Diplomacy in the Asia-Pacific Region」
書評:宮島喬・木畑洋一・小川有美編『ヨーロッパ・デモクラシー 危機と転換』(評者:立教大学法学研究科政治学専修博士後期課程 小林祐介)

宮島喬・木畑洋一・小川有美編『ヨーロッパ・デモクラシー 危機と転換』2018年4月 岩波書店

はじめに
2010年に起きたギリシャの財政問題に端を発するソブリン危機は、ヨーロッパの政治や社会に大きな変化をもたらしている。本書は、2010年代に入り、「危機」という言葉と共にそんな変化が顕著になり始めたヨーロッパ政治を、9カ国1をモデルに、様々な角度からそれぞれの研究者が筆を振るった1冊である。なお、ここで用いられる「ヨーロッパ」とは何かという問題であるが、本書では28カ国という広い範囲を包括するEUそのものと、その加盟諸国に関する議論をもって、一先ずヨーロッパの議論とし、その意味合いでEUと重なる言葉として用いられている。

第1節 本書の構成と内容
本書は、大きく3つのテーマにまとめられており、序章を含め全12章の論文で構成されている。本節において、各章の内容を手短に紹介していきたい。
まず序章「ヨーロッパ・デモクラシーの『危機』?」では、編者の1人である宮島喬氏がヨーロッパ全体を俯瞰し、本書のタイトルでもある「ヨーロッパ・デモクラシー」に生じた危機と、それに伴う転換について、移民・難民問題やブレグジット、ポピュリズム政治の伸長など、いくつかの具体例を題材にしながら論じられている。最後はEUの課題について触れて締め、この後に続く各章へと繋げている。

Ⅰ.ヨーロッパ・デモクラシーの展開と課題
第1章「難民危機後のドイツ・デモクラシー」では、連邦憲法裁判所がドイツのデモクラシーに果たす役割の変容、その判例理論のヨーロッパにおける影響力について論じている。
第2章「『普通の人』の政治と疎外」では、ロンドン一極集中というイギリス経済の状況下で、既存政治による関心外に置かれていたと感じている「普通の人」にスポットを当て、イギリス政治の特徴について検討されている。
第3章「〈共和国的統合〉とフランス」では、共和国の名の下に移民やイスラームを排除しようとするということがどういうことなのか、これはFN2の言説がFN固有の現象なのかそうでないのかについて答えつつ、デモクラシーにとってどのような意味をもつのかについて検討されている。
第4章「東中欧における『デモクラシーの後退』」では、ポピュリスト政権との不名誉な視点から大きな注目を集めて(しまって)いるハンガリーとポーランド、2カ国の政権を取り上げ、体制転換3後の両国における政治の展開と現政権の検討、それに対するEUの対応から、「デモクラシーの後退」について論じている。同時に、両国の事例が「デモクラシーの後退」といえるのかどうか、その理由付けの難しさについても言及されている。


1 ドイツ、イギリス、フランス、ハンガリー、ポーランド、オランダ、スウェーデン、デンマーク、スペイン。
2 Front National 、国民戦線(本書刊行時)。2018年6月に政党名を変更し、現在は国民連合(Rassemblement National : RN)となっている。
3 1989年から1990年にかけての、いわゆる東欧革命。


Ⅱ.移民・難民受け入れの政治と排外ポピュリズム
ここから続く4つの章は、節題に従って移民・難民問題をテーマとし、国家の政策や社会に与える影響についてまとめられている。
第5章「ドイツの移民・難民政策」では、ドイツの難民受け入れ政策の背景と展開について振り返りつつ、また昨今台頭してきたAfD4についても触れ、人の移動がドイツ政治・社会に対して持つ含意について検討されている。
第6章「多文化主義と福祉排外主義の間」では、オランダ、スウェーデン、デンマークという多文化主義的政策を模索してきた福祉国家をモデルに、様々な理論的・実証的研究に依拠し、2000年代以降のヨーロッパにおいてバックラッシュといわれる変化がどのようにして起こったのか、また、今後のヨーロッパ・デモクラシーがどこへ向かうのかについて考察されている。
第7章「排外主義とメディア」では、ブレグジット国民投票を題材に、メディアが国民投票に与えた影響力を考察し、メディアへの批判と期待とを綴っている。
第8章「政治的行為としての『暴動』」では、パリ郊外の移民集住地域というローカル空間に焦点を定め、そこで展開されてきた政治的行為と社会、公権力との関係性について考察されている。

Ⅲ.開かれたヨーロッパ・デモクラシーへ
第9章「ヨーロッパ統合の進展と危機の展開」では、ヨーロッパにおいて多発している危機が何に由来するのか、統合の進展と不十分さが危機の原因であるという問題意識に立ち、スペイン政治における危機の事例を取り上げて、その発生の背景を明らかにしている。さらに、統合の進展がヨーロッパ社会をどのように変容させ、危機の発生に繋がったかを検討している。
第10章「信仰の自由とアイデンティティの保持に向かって」では、宗教的多元主義の尊重とムスリムへの警戒という欧州共通の傾向の中において、国家の非宗教性原則にもかかわらずイスラームを警戒し、差別的な対応を行うフランス行政について、教育分野、ムスリム側の視点から論じられている。
第11章「ヨーロッパのなかのイギリス」では、第7章同様ブレグジット国民投票結果を題材としつつ、イギリスという連合王国の形成から変容、ブレグジット国民投票への道、連合王国の行方について論じている。

第2節 本書の課題
前節において概観した通り、本書では単に各国の政治を検討するにとどまらず、憲法裁判所という日本には馴染みのない機関、さらにメディアやローカル空間といった、比較的取り上げられることの少ないようなテーマにもスポットが当てられている。
しかしながら一方で、これもまた本書の構成を見れば分かる通り、扱われている国家に着目してみると、序章を除く全11章のうち、ドイツに2章分(第1、5章)、フランスに3章分(第2、7、11章)、イギリスに3章分(第3、8、10章)と、この3カ国だけに合計8章分が割かれていることには、些か構成の偏りを感じざるを得ない。殊に、EU加盟国の中にあって「民主主義の後退」が特に叫ばれるハンガリーとポーランドに関しては、2カ国併せて1章分(第4章)が割り当てられてはいるものの、それ以外の旧東側共産圏諸国(現在EUへ加盟する国に絞ると9カ国5が該当)に関しては残念ながら触れられていない。2004年以降、旧東側共産圏諸国が続々とEUに加盟6して大幅な東方拡大と深化を成し遂げつつあるが、一方ではその進展故に加盟国間の経済格差が広がるなど、ヨーロッパ・デモクラシーに大きな歪みをもたらす事態も年々深刻化していると言わざるを得ない。ハンガリーやポーランドに限って見ても、ある種現在の政治状況は、2010年代に起こった危機が引き起こしたものではあるが、さながらそうした歪みの中で生まれてきたという要素もないわけではない。それを踏まえれば、ここで取り上げられていない国にもスポットライトを当て、今後よりヨーロッパの東西を広範に網羅していくよう本書の構成を拡大していくことができれば、なお良いであろう。そのような期待も込めつつ、敢えて本書の課題として構成の偏りを指摘するものである。


4 Alternative für Deutschland 、ドイツのための選択肢。
5 チェコ、スロヴァキア、スロヴェニア、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ブルガリア、ルーマニア、クロアチア。
6 2018年現在EU加盟国は28カ国。2004および2007年の第5次拡大ではハンガリー、ポーランド、マルタ、キプロスなど12カ国が加盟し、2013年の第6次拡大ではクロアチアが加盟。全加盟国の実に半数近くを占める13カ国がこの時加盟している。


おわりに-未来へ向けて
第2節において本書の課題と題し、構成におけるテーマとしての国家の偏りを挙げたが、それは拙生が奇しくもハンガリー政治を大きなテーマとした研究に従事する身であり、ややもすると、その視点からヨーロッパを眺めがちであるが故だということをご承知おきいただきたい。EUにおいて不名誉な存在として大きな注目を集めてしまっているハンガリーだが、一方でハンガリーの側からヨーロッパを眺めると、また異なった景色が見えてくるのである。それを前提とした上で、改めて本書を評価して本評を締めくくりたい。
本書はすべて様々な角度から示唆に富む論文で構成されており、現在なお変容を続けるヨーロッパ・デモクラシーについて、初学者を始め、読者にとって大きな知見を得ることが期待できる1冊となっている。加えて、例えばイギリス政治に興味を持って本書を手に取ったのだとしても、その他の章も合わせて読むことで、理解を深めるきっかけになることもあるだろう。新たな興味も生まれるかもしれない。そんな可能性を持っている。
今、ヨーロッパに限らず世界全体は、先行きの不透明さが増すばかりであるが、その中にあって、今後を見通していく上で本書が助けとなるのではないかと考える次第である。
書評:栗田和明編『移動と移民 — 複数社会を結ぶ人びとの動態』(評者:立教大学観光学部 豊田由貴夫)

書評:栗田和明編『移動と移民 — 複数社会を結ぶ人びとの動態』昭和堂2018

本書は、人の移動を研究するに際して、新たな視点を提供しようとするものである。これまで人の移動すなわち移民や移住の研究では、ある特定の地域を視点としてそこに移入してくる人々やそこから移出していく人々を研究対象とすることが多かった。このような視点に対して本書は、移動する人たち自体に着目する視点を重要視するものである。これは世界的に人の移動が量的に飛躍的に増加し、移動が多様化したこと、さらには移動した地域で生活を確立している人々ばかりでなく、頻繁に移動を繰り返す人々が増加している現状に対応するものである。
現在、国境を越えて移動する人々の数は毎年12億人を超えると言われ、人の移動はいまや常態化しつつある。そして規模の増大にともなって、そのあり方も多様化している。これまでは職を求めて世界の「中心」とされる地域への移住が多かったが、現在では労働の可能性が広がり、移住の原因も職を求めるだけではなくなってきている。様々な原因で人が大規模に移動し続けているのが現在の社会となっているのである。
古典的な移民研究では、国家の枠組みが明確であったことから、その国にやってくる人たちがどのようなコミュニティを形成するのか、彼らのアイデンティティはどのように維持されるのか、また変化するのかという問題を主として取り扱ってきた。これは国家にしてみれば、移民をいかに包摂するかが重要であったことから、ある程度は当然の帰結であった。国家にとって移民は新たな定住者であり、それをどう扱うかが問題だったのである。
本書では以上のようなこれまでの研究に対して、人の移動を、より常態化したものとしてとらえようとする。このために人の移動を研究する際に、「移民(emigrantあるいはimmigrant)」という概念よりも「移動者(traveler)」という概念を提案している。これは現代社会においては移動することが頻繁になり、移動を終えた人とされる「移民」よりも、絶えず移動を続けている「移動者」という概念の方が適切であろうという考え方に基づいている。
そして頻繁に移動する人々と緩慢な移動をする人々をそれぞれFrequent Travelers、Slow Travelersと位置づけ、特にこのFrequent Travelersに着目しているのが本書の特徴である。Frequent Travelersとしては、地域と商品を限定して小規模の取引を繰り返す交易人(第1章、第9章)や、短期の海外労働を繰り返す人々(第6章、第8章)などが典型的な例にあたり、観光客(第3章)にも適用が可能とされている。Slow Travelersとは、従来「長期滞在者」と呼ばれてきた人たちにほぼ重なるが、長期滞在者も実は潜在的に移動を繰り返す人々と考えられることから「緩慢な(Slow)移動者」という概念を使っている。以上のような概念をゆるやかな共通の枠組みとして本書全体が構成されている。
本書の内容は以下のようになる。第Ⅰ部は移動の普遍性ということで、本書の枠組みとなる概念が見られる中国広州におけるアフリカ人の事例(第1章)と、やはり頻繁な移動者が集う南アフリカのグローバル特区の場合(第2章)、典型的な短期の移動者である観光者(第3章)、そして語学学校に集う宗教者(第4章)を取り扱っている。第Ⅱ部では移動の出発点である故地と移動先での生活の関連が描かれる。社会主義時代の関係からロシアに出来たベトナム人向けの施設とベトナムで増加するロシア人観光客に見られる「複数の移動の方向性」と「移動の暫定性」いう問題(第5章)、韓国の二つの地域におけるアフリカ人滞留者の生活動態(第6章)、ベトナムから韓国へ職を求めて移動した人々の人間関係のあり方(第7章)、中国からまさに労働のためだけに海外へ移動する(させられる)人々の姿(第8章)が問題となっている。第Ⅲ部では、移動先で生活を確立していく人々の姿が描かれる。アフリカ系アメリカ人の文化(ヒップホップ文化)に関連する商売にアフリカ人が関わる様子(第9章)、東京とミラノにおける中国系ニューカマーズと地域社会とのかかわり(第10章)、また海外駐在員を中心とする日本人コミュニティの実態が描かれている(第11章)。
全体の構成は以下のようになる。
第Ⅰ部 移動の広がり
 第1章 人の移動の普遍性—定住者の視点を離れて
 第2章 南アフリカのグローバル特区と移動者
      —市民/非市民の分断と部分的つながり
 第3章 訪日外国人旅行者の訪問先の分布
      —スマートフォンGPSデータの解析より
 第4章 カトリック聖職者のフィリピン訪問
      —養成中の修道者が通う語学学校をてがかりに
第Ⅱ部 移動先と故地
 第5章 「ソーシャリスト・モビリティーズ」の現代的展開
      —ベトナムとソ連・ロシアとの関係を中心に
 第6章 韓国滞留アフリカ人の移動と集合
      —首都ソウルのイテウォンと郊外アンサンの比較から
 第7章 ベトナムから韓国への労働移動
      —ベトナム流コミュニティの形成と改変
 第8章 中国から東アジア諸国への労働「移植」
      —人材募集会社による移住管理システム
第Ⅲ部 移動する者の生活戦略
 第9章 在日アフリカ人と東アジア交易
      —ヒップホップ文化をめぐる人とモノの移動
 第10章 中国系ニューカマーズがもたらす地域社会の変容
      —東京豊島区池袋地区とミラノ市サルピ地区の比較から
 第11章  シンガポールの日本人社会
      ——海外駐在家庭を中心としたエクスパトリエイト・コミュニティ
最初に述べたように、人の移動は現在、その規模が飛躍的に増大し、それと同時にそのあり方はますます多様性を増している。本書の内容を見ても、人の移動にかかわる研究は、今後も多様な広がりを持つ可能性があるのがわかるだろう。今後の人の移動の研究においては、このような多様化する事例の研究とともに、それらを普遍的に扱う理論が求められる。その際に、本書で示されたFrequent Travelers、Slow Travelersの概念が有効になるであろう。

豊田由貴夫

李美淑著『「日韓連帯運動」の時代 1970-80年代のトランスナショナルな公共圏とメディア』(評者:立教大学異文化コミュニケーション学部 石坂浩一)

李美淑著『「日韓連帯運動」の時代 1970-80年代のトランスナショナルな公共圏とメディア』2018年2月、東京大学出版会

第二次世界大戦以前、日本は朝鮮半島を植民地支配して、その地の人びとに人間的関心を抱くことがなかった。日本の敗戦で朝鮮は独立したが、不幸にして東西冷戦のもと、南北に分断され、朝鮮戦争を経てそれは固定化された。2018年に入ってからの劇的展開を見るにつれ、南北双方の政権が誕生してから70年の歳月が何であったのか、考えさせられるが、そのことは今はおこう。
 戦後、1965年に日韓が国交を正常化してからも、日本社会は韓国に関心を持たなかった。しかし、韓国の民主化運動がその状態を掘り崩す重大なきっかけを作ってくれた。それが1970年代以降に展開された日本における「日韓連帯運動」であったと思う。
 著者の李美淑(イミスク)は東京大学大学院学際情報学府博士課程を修了し社会情報学博士を取得した若手研究者である。これまでも本学で朝鮮語や英語の兼任講師として勤務されたが、2018年度から立教大学グローバル・リベラルアーツ・プログラム運営センター助教として勤務されている。
 本書は、1970年代から80年代にかけて展開された韓国の民主化運動とそれに呼応した日韓連帯運動についての初めてのまとまった本格的研究である。これまで日韓連帯運動に関する研究は、柳相栄・和田春樹・伊藤成彦編『金大中と日韓関係』(2013、延世大学金大中図書館)がほぼ唯一のものであるが、これは当事者によるまとめの性格が強い。拙稿「金芝河と日韓連帯運動を担ったひとびと」(杉田敦編『ひとびとの精神史 第6巻 日本列島改造—1970年代』(2016、岩波書店)は日韓連帯運動の始まりと公害輸出反対運動について記録している。このほか、吉松繁『在日韓国人「政治犯」と私』(1987、連合出版)、鄭在俊『金大中救出運動小史』(2006、現代人文社)など当事者による記録や在日韓国人政治犯であった康宗憲『死刑台から教壇へ—私が体験した韓国現代史』(2010、角川学芸出版)の手記がある。だが、これらを受け止めて研究として取り組んだものは見られなかった。
 その意味で、この本が韓国出身の研究者によって書かれたことはとても意味のあることである。本書は、日韓連帯運動がトランスナショナルな活動家たちのネットワークという公共圏の形成であることを論証しようとしている。日韓連帯運動が連帯として成立し公共圏といいうるのは、一方的な情報の流れや支援-被支援ではなく、問題提起-認識の共有-応答というコミュニカティブなプロセスが存在していたからだと指摘する。いいかえれば、韓国の困っている人びとを助けるといった同情とか、韓国の独裁政権はひどいといった高所からの批判とは異なる、他者と自己との関係に対する自覚、解釈、認識の中で具体的な行動を通じて自己のあり方を変革していく再帰的な民主化への過程とみなしうるということである。著者はこのことを、韓国民主化運動の情報発信における日本の活動家、特にキリスト者たちの関わり、そして月刊誌『世界』における連帯の言説を見ることで検討した。また、日韓連帯運動を代表する「日韓連帯連絡会議」がまず掲げたのが、「日本の対韓政策をただす」ことだった事実の重要性を確認している。
 実は私はこの本でも何か所か登場するし、連帯運動の当事者でもあるので、客観的批評という意味ではふさわしくないかもしれない。だが、当事者がこれまで重要なことを記録したり語ったりしきれていない状態であることを踏まえ、私見を述べさせていただきたい。
 著者が情報やネットワーク研究を専攻していることもあるが、日韓連帯運動において情報というのは非常に重要なポイントであった。著者が述べているように、1970年代の日本の社会運動においては、狭山差別裁判反対闘争、成田空港建設反対闘争(三里塚闘争)、そして日韓連帯運動が3大闘争と位置付けられていた。このうち、狭山と三里塚は文字通り状況が日本で公然と進行する中での大衆闘争になっていた。だが、日韓だけは韓国から情報が届き、それをもとに方針を提起できる者が運動を制するという独自の側面を持っていた。今日であれば韓国の情報をすぐ理解できる日本社会の構成員は少なくないが、70年代といえば朝鮮語を理解する人々は、むしろ奇特な存在と見られていたのである。韓国民主化運動は歴史的にいって民衆に寄り添うものであったが、それが世界的に注目されるようになったのも、世界への情報発信が一因だった。ドイツ人記者の光州闘争取材という本書とはやや異なる側面ではあるが、昨年韓国で公開され広く共感を呼んだ映画〈タクシー運転手〉もそうした一端を物語っている。私は韓国の聖公会大学における研究会で2004年に日韓連帯運動についての簡単な報告をし、それが조효제,박은홍엮음『한국, 아시아 시민사회를 말하다』 (2005、아르케 )に掲載されているが、そこでも情報の重要性について指摘したことがある。
 『世界』はTK生「韓国からの通信」を連載して、韓国の状況をいち早く伝達した。また、さまざまな韓国のアピール文、報告を訳出し、日本の状況についても合わせて報告する「ドキュメント 金大中拉致事件」を連載していった。日本の知識人に親しまれた『世界』がこうした作業に多くの力を割いたことの重要性、そして戦前の日本に韓国をたとえる機械的対比のような見方が、誌面において様々な意見を通じて克服されていく経過を本書は跡付けた。植民地支配をとらえ直し、韓国との関係で日本社会のあり方を省みる姿勢を『世界』や日韓連帯運動は日本社会に提起したことが、わかるだろう。もちろん、日韓連帯運動が日韓関係のすべてに取り組み、状況を改善できたわけではないが、時代を画する動きであったことは間違いない。全体として、日韓連帯運動を相互関係の中で発展し、変革を試みようと公共圏を形成していったという論旨は、説得力を持っていると見ることができる。『世界』は日本の進歩勢力のすべてではないが、この時代を象徴する存在として、分析対象にしたことが成功していると思われる。論壇という存在がまだ一定の力を持っていた時代ならではのことである。 
 末尾に、いくつか気が付いたことも指摘しておきたい。和田春樹の著作にはそうした趣旨が出ているが、当時の日韓連帯運動の中で日本人が抱いた韓国民主化運動への共感は、並々ならぬものがあった。「金芝河と日韓連帯運動を担ったひとびと」でも述べたことだが、特にキム・ジハの3・1アピールは大きな衝撃だった。日本の議論には「同情」のレベルのものもあったろうが、ともに自らを解放しようというキム・ジハのアピールを受けて、真剣に韓国を知ろうとした者たちもいて、そこから日本の近代史上初めて、朝鮮語を学ぼうということが社会運動として提起された。この点の重要性は強調してもよかったように感じた。
 本書は「キーセン観光」に反対する女性たちの運動を重要なものとして叙述している。この点は『金大中と日韓関係』で十分触れられなかった課題であった。このほかにも、日韓連帯運動の様々な展開や広がりがあったのであり、その実態や社会的意味も今後、検討してくれればと思う。また、よくいわれる「本国志向」と「在日志向」という二つの流れについては本書で対比的に記述されているが、日韓関係の中での運動的分岐の発生や、二つの課題を統一的にとらえようとした梶村秀樹の問題提起(『朝鮮研究』との議論)も視野にいれることが今後の研究で必要とされるであろう。
 お詫びしなくてはいけない点がある。私自身が証言したことが本書の1ページに出てくるが、刊行後の著者とのやり取りで私が韓国に運んだ映画のタイトルが〈自由光州〉なのに、誤って〈しばられた手の祈り〉と語っていることに気が付いた。大変申し訳なく、著者や読者にお詫びする次第である。〈しばられた手の祈り〉はスライドで、わたしはこの時にスライドも持ち込んでいるので、錯覚したのである。
 本書の143ページの注22で中井毬栄が『朝日新聞』の連載企画「65万人」の担当者であるように記述されているが、これは夫君の故宮田浩人の誤りである。宮田浩人は『世界』で編集部の名前で掲載された「ドキュメント 金大中拉致事件」の筆者でもある。
ハンギョレ新聞の主筆などを務めたキム・ヒョスンは韓国で在日韓国人政治犯とその支援運動をテーマにした『祖国が捨てた人びと』という本を刊行した。遅くなってしまったが、秋にはこの本を刊行する予定で、私たち平和・コミュニティ研究機構では出版に合わせてシンポジウムを行なう予定である。
 日本の連帯運動の当事者が忙しさにかまけているうちに、韓国の研究者がしっかりした仕事をしてくれたことに、改めて感謝を表したい。本書は貴重な研究成果であり、日本でも多くの人々に読まれることを願ってやまない。関連資料の整理や記録作成に、私自身も一層尽力したいと思う。

石坂浩一
(立教大学 平和・コミュニティ研究機構代表)
「グローバル社会での平和構築」講義担当:清水謙先生
みなさん、はじめまして。平和・コミュニティ研究機構で「グローバル社会での平和構築」の講義を担当いたします清水謙です。どうぞよろしくお願いします。

私は、スウェーデンの政治外交史を中心に国際政治学を研究しています。私がスウェーデンを研究するようになったきっかけは、高校時代に偶然紹介された交換留学プログラムでストックホルムのダンデリュード高校に一年間留学したことでした。ダンデリュード高校では社会科学と自然科学の両方を履修するクラスに入り、スウェーデン語を学びながら、歴史や地理、国際経済学や環境学の授業で世界のことに触れて国際関係に大きな興味を持つようになりました。
帰国してからはさらにスウェーデン語と国際関係を学びたいと考え、大阪外国語大学外国語学部(現:大阪大学外国語学部)のスウェーデン語専攻に進みました。スウェーデン語はマイナーな言語と思われるかもしれませんが、隣のフィンランドでも公用語となっていて、1000万人以上の人がスウェーデン語を母語としている北欧最大の言語といえます。ちなみに日本でも人気のあるムーミンの原作者トーベ・ヤーンソンさんはフィンランド人ですが、母語がスウェーデン語なのでスウェーデン語で原作が書かれています。スウェーデン語の運用能力を身に付ければ、同族のノルド語であるノルウェー語、デンマーク語の理解も可能となります。そうすると、スカンディナヴィア全体でスウェーデン語理解してくれる人は約2000万人にものぼります。
学部時代には、専攻のスウェーデン語のほかに、副専攻語のフランス語からロシア語やサンスクリット語までいろいろな言語の授業にも出ていました。たくさんの言語に触れることでさまざまな国・地域の歴史、文化を知ること、国際的な相互理解がいかに大切かを実感しました。大学ではスウェーデンに2回留学をしました。3年生のときにスウェーデン政府奨学金を受けてヴィスカダーレン国民大学校に語学留学をし、4年のときにJASSO派遣留学生としてユーテボリ大学で国際紛争解決学を学びました。この授業ではアクティヴラーニングなども取り入れられていて、そのときの経験を授業でも活かしていこうと考えています。留学時代は旧ユーゴスラヴィア紛争にも大きな関心を持ち、たとえば大量虐殺のあったスレブレニツァに訪れるなど、積極的に現地に足を運んで調査することも行いました。外大時代は北欧史と国際法と2つのゼミを選択しました。北欧史のゼミでは歴史学の方法論を、国際法ゼミでは国際関係と法学の方法論を学びました。この2つのゼミを履修することで、スウェーデンを研究対象とした国際関係を研究したいと考えるようになり、国際関係の方法論をより専門的に学ぶために東京大学大学院総合文化研究科(国際関係論コース)に進学し、それ以来一貫してスウェーデン政治外交史を研究しています。
私がまず興味を持ったのは、「積極的外交政策」と呼ばれる人権、平和、軍縮などに重点を置いたスウェーデンの外交政策についてでした。スウェーデンがこのような外交政策を推進するようになった背景には、アルジェリア独立戦争(1954-62年)においてアルジェリアの人権状況を憂慮したスウェーデンが外交政策の柱に人権を盛り込んだことが挙げられます。また、スウェーデンが「パルメ委員会」で知られるように軍縮の分野を牽引するようになったのにはスウェーデンの核開発計画が大きく影響しています。核開発は世論の反対で断念しますが、核に関して蓄積した知識を核軍縮問題に活かすことで、スウェーデンは軍縮問題の旗手となっていきました。

スウェーデン外務省本館(2010年撮影)

このスウェーデンの「積極的外交政策」は移民/難民の積極的な受け入れとも軌を一にしています。スウェーデンはもともと第二次世界大戦までは優生学思想に基づいて排外的な外国人政策を採っていましたが、戦後はその反省から外国人労働者や難民を積極的に受け入れています。スウェーデンにも移民をめぐる問題はありますし、近年では極右も台頭してきていますが、「積極的外交政策」の一環としてスウェーデンは移民/難民に寛容な国として知られています。では、なぜ移民/難民は移住先にスウェーデンを選ぶのでしょうか。2014年から2017年まで文部科学省科学研究費補助金を受けて、スウェーデン、ヨルダン、レバノンなどで調査を行ったところ、中東でもスウェーデンの積極的な難民の受け入れと人道的な外交政策のことは非常によく知られていて、スウェーデンであれば人道的に手厚い保護が受けられると考えてスウェーデンを移住先に選択していることがわかりました。つまり、経済的な理由もあるでしょうが、最も重要視しているのは人間の尊厳を大切にしてくれそうだという意識であることが明らかとなりました。
現在の私の研究テーマですが、近年の研究においては、スウェーデンが「中立」を標榜しつつも、冷戦期にはスウェーデンが実際には秘密裏に西側諸国と密接な軍事協力関係を構築してきたことが明らかになってきています。先行研究ではそうした西側との軍事協力の運用実態の解明に重点が置かれていますが、なぜ西側との軍事協力を構築し始めるに至り、そして非加盟国でありながらNATOのバルト海戦略を補完していく重要なアクターとなっていったのかという新たな問題を解明することが私の目下の研究領域です。
こうした研究成果を活かして、授業では現地調査での経験を基にした知見を取り入れながら、できるだけ多くの国・地域の政治や歴史、文化などをできるだけ多く紹介することを心がけています。また、学生さんたちの関心や興味に沿ったテーマを広く柔軟に拾い上げて、複眼的な視野に立って学術的好奇心をより広げていけるトピックを提供したいと思っています。みなさんと授業でお会いできるのを楽しみにしております。

【経歴】
2001年3月 大阪外国語大学外国語学部地域文化学科中・北欧専攻スウェーデン専攻入学
2003年8月 ヴィスカダーレン国民大学校留学(スウェーデン政府奨学金)
2005年8月 国立ユーテボリ大学留学(JASSO 派遣留学生)
2007年3月 大阪外国語大学外国語学部地域文化学科中・北欧専攻スウェーデン専攻卒業
2009年3月 東京大学大学院総合文化研究科(国際関係論コース)修士課程 修了
2009年4月 日本学術振興会特別研究員(DC1)受入研究機関:東京大学(2012年3月まで)
2017年3月 東京大学大学院総合文化研究科(国際関係論コース)博士課程単位取得満期退学
2016年4月より本学兼任講師

【主要業績】
「冷戦期のスウェーデンの外交および安全保障政策-これからの研究の礎-」、『北欧市研究』24号、2007年、109-127頁。
「スウェーデンの外交政策-積極的外交政策の系譜」、村井誠人『スウェーデンを知るための60章』明石書店、2009年、218-224頁。
「第二次世界大戦後のスウェーデンの移民政策の原点と変遷-「人種生物学」への反省と「積極的外交政策」の形成過程から-」、『北欧史研究』26号、2009年、30-54頁。
「スウェーデンの2006年議会選挙再考-スウェーデン民主党の躍進と2010年議会選挙分析への指標-」『ヨーロッパ研究』10号、2011年、7-27頁。
「スウェーデンにおける「移民の安全保障化」-非伝統的安全保障における脅威認識形成-」『国際政治』172号、2013年、87-99頁。
「スウェーデンにおける国籍不明の潜水艦による領海侵犯事件についての分析-「中立」と西側軍事協力と武力行使基準に着目して-」『IDUN-北欧研究-』21号、2015年、337-368頁。
「スウェーデン-移民/難民をめぐる政治外交史」、岡部みどり編『人の国際移動とEU地域統合は「国境」をどのように変えるのか?』法律文化社、2016年、118-131頁。