第2章
立教大学の設立と池袋移転(1907~1930)

立教専修学校の閉鎖ののち、中学校の卒業生を受け入れる立教独自の高等教育機関の必要性が痛感されるようになり、ロイドの後任であるタッカー学院総理のもと、1907(明治40)年、専門学校令にもとづく「立教大学」が設置されました。

築地の校地には、生徒数500名を超える中学校に、新たに大学が加わったため、敷地の狭隘化が深刻な問題となりました。そのため、大学の今後の発展のために、現在の池袋校地(立教通り南側のみ)が適地とされ、1910(明治43)年に購入されました。その後、タッカーの後任であるライフスナイダー総理のもとでキャンパスプランが練られ、1918(大正7)年、主要な建物が完成したのを機に、大学が池袋へと移転しました。

1922(大正11)年には、大学令にもとづく「立教大学」が認可され、同志社大学に次ぐ、二番目のキリスト教系大学となりました。大学は、2年の予科と3年の本科からなり、本科は文学部(英文学科・哲学科・宗教学科・史学科〈当分欠〉)と商学部という構成でした。

しかし、認可を受けた矢先の1923(大正12)年、関東大震災によって、立教は大きな被害を受けました。築地の中学校は火災によって全焼し、池袋の大学も、レンガ校舎に大きなダメージを被りました。この被害からの復興には多くの資金を必要としましたが、本国母教会である米国聖公会の救援により、2年後には大学校舎の修復も完了し、震災を機に池袋へ移転した中学校の校舎も、1926(大正15)年に新築されました。

(写真 2_01)

(写真 2_01)タッカー Henry St.George Tucker(1874.7.16-1959.8.8)
米国聖公会総裁主教、立教学院総理。ヴァージニア神学校を卒業後、1899(明治32)年来日。弘前で牧会。1903(明治36)年、アーサー・ロイドの後任として立教学院総理に就任し、07(明治40)年には専門学校令による立教大学を設立した。さらに、大学を東京築地から池袋に移転させるための土地獲得に精力的に奔走、今日の立教大学の基礎を築いた。1912(明治45)年、京都地方部主教に選出されて立教を辞した。1923(大正12)年帰国、1938(昭和13)年から46(昭和21)年まで米国聖公会第19代総裁主教を務めた。

(写真 2_02)

(写真 2_02)立教大学第1回卒業写真
1911(明治44)年。卒業生は文科4名、商科10名であった。この写真は商科の卒業写真である。新校舎前で撮影(前列左から7人目より、元田大学校長、タッカー総理、タッカー夫人)。

(写真 2_03)

(写真 2_03)校庭での中学校の合同体操
大正前期の立教中学生の中庭における合同体操。背景は、正面が寄宿舎東寮、その左は寄宿舎西寮、左端は事務・教室棟。

(写真 2_04)

(写真 2_04)ライフスナイダー Charles Shriver Reifsnider(1875.11.27-1958.3.16)
日本聖公会主教、立教学院理事長・総理・総長、立教大学総長。ベックスレー神学校卒業後、1901(明治34)年来日。1912(大正元)年タッカーの後任として立教学院総理に就任。池袋校地の大学校舎建設、大学令による大学昇格に全力を尽くす。また1923(大正12)年の関東大震災で受けた中学校と大学の壊滅的被害の復興を成し遂げた。1931(昭和6)年、立教学院総長、35(昭和10)年に理事長に就任。日米関係の悪化した1940(昭和15)年には北関東地方部主教と立教学院理事長兼総長の職を辞し、翌41(昭和16)年、米国に帰国した。

(写真 2_05)

(写真 2_05)バスケットボール部の活躍
バスケットボール部は、1922(大正11)部春の全日本選手権大会で優勝した。写真は大学本館塔の前で記念撮影。中段左から2名目から杉浦貞二郎、元田作之進、ライフスナイダーの姿が確認できる。

(写真 2_06)

(写真 2_06)池袋キャンパス完成予想図
1914(大正3)年10月6日、ニューヨークのマーフィー・アンド・ダナ建築事務所によって作成されたもの。「二十五年から三十年先」を見越したものをとの米国聖公会の要望が反映されている。

(写真 2_07)

(写真 2_07)校舎・施設の配置図
1914(大正3)年9月21日、ニューヨークのマーフィー・アンド・ダナ建築事務所によって作成されたもの。図の左側が大学本科、右側が運動場および予科としてのゾーニングがなされており、大学の基本施設は「既定」とされているが、予科などの施設は「予定」とされている。

(写真 2_08)

(写真 2_08)建設中の本館
1917(大正6)年12月19日撮影。本館は、米国聖公会宣教師アーサー・ラザフォード・モリスの寄付によって建てられたので「モリス館」と呼ばれている。

(写真 2_09)

(写真 2_09)正面から見た大学建築群(1919(大正8)年頃)
中央が本館、右がチャペル(諸聖徒礼拝堂)、左が図書館(メーザー・ライブラリー記念館)。

(写真 2_10)

(写真 2_10)関東大震災後の立教中学校跡
築地の中学校校舎は、地震による被害はほとんどなかったものの、延焼によって9月1日22時頃焼失した。これによって、中学校も池袋へと移転し、大学の校舎に同居することとなった。

(写真 2_11)

(写真 2_11)関東大震災直後の本館(南側)
池袋の施設は、震災によってかなりの被害を受けた。本館中央の塔の3階から上の部分が崩落し、チャペルや図書館も、ほとんど建て替えなければならないほどであった。

(写真 2_12)

(写真 2_12)修復中の本館
損傷のひどい建物は、大掛かりな修復工事が施された。塔が崩れてしまった本館は、第3層を取り除き、1層低い形で再建された。また、すべての建物の屋根両翼は「切妻」から「寄棟」へと造りかえられた。

(写真 2_13)

(写真 2_13)中学校の新校舎落成式
中学校の新校舎は、1925(大正14)年12月に完成し、翌年1月より使用された。写真は1926(大正15)年5月5日の落成式の様子。この校舎は、後に大学との共用となり12号館と呼ばれたもので、現在の12号館およびロイドホール(18号館)の立教通り沿いに建設された。

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