2022/04/22 (FRI)

立教大学共生社会研究センター公開セミナー
「『人間』『にんげん』と1970年代の社会運動——その論理と歴史的位置を探る」(2022年2月19日)開催報告

去る2022年2月19日の午後、オンラインで開催したセミナー「『人間』『にんげん』と1970年代の社会運動——その論理と歴史的位置を探る」では、少人数ながら濃密な議論が交わされました。その内容をお伝えするには、やはり報告者のみなさんと同じ研究プロジェクトで議論を重ねてきた方にお願いするのがいちばん!———と考え、センター研究員としてもご活躍いただいている小野田美都江さんに、参加記の執筆をお願いいたしました。

小野田さんが的確に、かつていねいに報告者のみなさんとやりとりしながらまとめてくださった参加記は、セミナーに参加してくださった方には記憶のよすがに、ご参加いただけなかった方にはセミナーの様子をあますところなく伝えるものになっていると思います。小野田さん、ほんとうにありがとうございました。

立教大学共生社会研究センター公開セミナー「『人間』『にんげん』と1970年代の社会運動——その論理と歴史的位置を探る」参加記

小野田美都江(共生社会研究センター研究員、認定プロジェクト「1970年代〜2000年代における日本社会の変容と社会運動に関する歴史学的考察——ミニコミの分析を通して——」(2022~2024年度)メンバー)

(セミナー情報)
開催日時:2022年2月19日(土)13:30〜17:00 
開催場所:Zoomによるオンライン開催
参加人数:12名

<報告者>(共生研認定プロジェクトメンバー)
鈴木 雅子
加藤 有梨子
船津 かおり
<報告およびコメンテーター>
禹 宗杬(埼玉大学経済学部教授)
李 英美(一橋大学・立教大学兼任講師)
<司会>
沼尻 晃伸(立教大学文学部教授)




1970年代から2000年代における日本社会の変容と社会運動に関する歴史学的考察は、今を生きる私たちにとって重要なテーマです。本セミナーは共生社会研究センター(共生研)と、共生研が所蔵する市民活動アーカイブズを学術研究資料として活用する共生研の認定プロジェクトの企画によって実現しました。
セミナーはオンライン形式(Zoom)で開催され、冒頭で司会から本セミナーの趣旨説明が行われました。本セミナーは1970年代の社会運動が発信した「人間」「にんげん」「人間解放」という言葉に注目します。これらの「人間」という言葉は、社会的弱者の側から、少数者の側から、差別されている側から、そして、それらの人々の支援者や理解者から発せられています。「人間」という言葉は、自らの正当性の論拠として、あるいは他者と自己とが同等であることを示す言葉として用いられているのです。報告者であるプロジェクトメンバーは、これらの言葉に託された意味や概念を読み解いていくことが、運動に関わる人びとの見解や思いに対する理解を深めることにつながるのではないかという考えのもと、運動体が刊行した一次資料を検証していきます。

1.プロジェクトメンバーの報告

前半のプロジェクトメンバー3名による報告は、それぞれの研究フィールドとする障害者運動、部落解放運動、冤罪救援運動の立場からなされました。まず、鈴木雅子氏は「1960~70年代の障害者運動における『人間』という言葉の使われ方—日本脳性マヒ者協会『青い芝の会』を事例として」という題目で、脳性マヒ者による団体「青い芝の会」の会報『青い芝』を史料とした論考を報告しました。1970年代前半には、「人間らしく生きる権利」の主張や「人間社会」や「人間のあり方」そのものを問い直す文脈の中で「人間」という言葉が使われており、この時期の運動は、他のマイノリティ運動等との連携や世論の共感を得ていました。しかし、1975年の新指導体制の確立後、全国青い芝の運動は急進的な差別告発運動に向かい、「障害者解放」「人間解放」を目的とした健常者と障害者の「新しい人間関係の創造」が運動方針に掲げられます。この実現困難な方策により、結成された健常者組織が解散するなど全国青い芝の運動は混乱し、1979年の執行部の総辞職から1981年の再建まで停滞することになります。ただし、青い芝の会の問題提起は、1980年代以降の重度身体障害者運動に引き継がれることになったことが指摘されました。

続いて、加藤有梨子氏の報告「部落解放中国研究会『紅風』における《人間解放》というキーワードについて—狭山闘争、《両側から超える》視点からの考察」では、部落解放中国研究会(中研)の機関誌『紅風』(1977~1980)を史料として、差別する側とされる側の相対化において、「側」を乗り越える思想として「両側から超える」を考察しました。具体的には、自立・自闘、自主解放の思想から双方の互いの視点から問題点を見直し、二項対立を乗り越えることによって人間全体の解放につなげるという視点の抽出です。狭山闘争において重視されるようになった自立自闘の思想に基づき、中研では「自立自闘→『側』の解消→人間解放」という考え⽅で運動が進められていたと言えるのではないかという視点を導きました。また、藤田敬一の『同和はこわい考』の元となった思想として、中研の「人間解放」の影響を推察しています。

報告の最後は船津かおり氏による「島田事件救援運動/赤堀闘争における『人間』の使われ方とその変化—1970年代の『差別』視点の登場を中心に」でした。静岡県で起きた「島田事件」(1954年)の冤罪被害者・赤堀政夫の救援運動に現れる「人間」という言葉の使われ方の1970年代における変化を追求していきます。そして、赤堀政夫は知的障害をもち精神病院への入院歴があったため、島田事件の救援運動には「冤罪被害者の救援」と「障害者差別の告発」という2つ側面が存在することを実証していきました。1964年に島田事件対策協議会が結成され、1970年代中頃までの島田事件救援運動においては「無実の人間の命を守ること」「基本的人権の尊重」が叫ばれ、次第に運動が実を結んでいきました。そして、1974年に結成された島田事件対策協議会青年婦人部がもつ問題意識である、運動に内在している赤堀政夫に対する差別的視点に対して、運動体への気づきを促すことになります。以降、運動内に「障害者差別の視点」が浸透し、「精神障害」者を中心とした「赤堀闘争」の担い手が参加することで、「人間」の解放や復権が目指され、運動が拡大することになったことを説明しました。




以上の考究を経て浮き彫りとなったことを背景として、さらにコメンテーターが論考を深めていきます。ここで今一度、本セミナーの趣旨を提示しておくと、異なる運動から見える多面的な角度からの検討が、「人間」という言葉を用いられることが少なくなった1990年代以降の社会が「当事者主権」や「多様性」を尊重する方向に舵を切っていく手がかりとなりうるとの推察から、1970年代の歴史的位置を実証的に究明し、さらに、参加者とともに1970年代の意味を考えてみようという試みとなっています。

2.コメンテーターによる報告とコメント

まず、李英美氏(一橋大学・立教大学兼任講師)が「『人間』という言葉にみる『国民』の境界 —出入管理史の視点から」において、1960年代後半から1970年代初頭を日本の市民運動の中でアジアが台頭してきた時代と位置付け、在日朝鮮人問題を軸に「人間性の回復」の展開を論じました。1970年の日立就職差別裁判闘争を取り上げ、日本の公立高校を卒業した朴鐘碩に対する企業による在日朝鮮人の就職差別問題に注目します。そして、朴鐘碩の「人間性の回復」とは普遍的な問題意識から発せられたものではなく、「民族意識の回復 (自覚)」という観点からなされ、民族をめぐる個からの主体的な問いかけとしての意味をもつと看破しました。一方で、1969年の宋斗会の「日本国籍確認」訴訟闘争を取り上げ、旧植民地住民の日本国籍の剥奪は不当であり、帰化か否かという民族的な立場を前提とせず、一個の人間であることそのものが確然たる日本国籍保持の証拠であるとの宋斗会の主張を紹介し、「民族性を回復」する意味での「人間性の回復」と、日本で市民的権利を獲得していく「人間としての市民的権利」獲得のプロセスとが完全には重なり合わない点を指摘しました。
そして、3人の報告者それぞれに、人間解放において乗り越えられなかったものは何かとの問いを投げかけたのでした。

次に、禹宗杬氏(埼玉大学経済学部教授)は「『人間』という概念の相対化 —雇用関係史の視点から」と題し、社会的弱者や少数者から少し離れて、雇用と労働運動史の中に見出される人間の尊厳の問題を跡付けていきます。日本国有鉄道(現JRグループ各社)と日産自動車の労働組合運動を事例として、戦前から1970年代に至る雇用における「人間」概念の変化を実証し、4象限の図に表しました。すなわち、横軸を「人間を認める範囲」として、正の方向を「我と同じ」、負の方向を「我と異なる」、そして縦軸は「認める理由」として、正の方向を「向上する」、負の方向を「ありてい」と定めました。この図における日本の特徴として、「ありてい」をそのまま認めることはなく、第1象限にとどまり、特に1970年代の勤労大衆は、「我と同じ」範囲を認め「向上する」こと、すなわち自己実現を図ることが認める理由となったことを視覚化しました。そして、人間の尊厳と格の向上から始まった雇用における人格承認が、次第に主体性が求められ、働き甲斐や企業愛を内在させた自己実現へと昇華し、生産性の向上へとつながっていくことは、前半の報告にもつながると述べました。

禹氏は、「人間」はいつの間にか「人間性」へと転化され、主体的に創造、形成すべき存在として認識されると論じます。そして、自分を向上することが人間としての承認だとする日本的特徴の中で、人間の範囲は「我と異なる」方向に拡張していくのではないかと考察します。そのうえで、主体の拡張が主体性の過剰をもたらす懸案をはらんでいることを指摘します。そして、今日的視点から、4象限の図の縦軸は「認める理由」から「認める経路」として、正の方向に「実感」を、負の方向に「観念」を据えて、まず実感を介して「人の尊厳」を認め、さらに、より「観念」に依拠して認める方向に向かうことが現状の閉塞感を打ち破る突破口となるのではないかと仮説を提示します。オープンな経路は広場性をもち、そこに集まる人々は尊厳に値することが明示されます。したがって、仮に広場と名付ける「広場性を備えたオープンな場」において、資源を公正に分配するような市場と制度をいかに整備していくかを考えることが課題である、と問題提起しました。

3.コメンテーターからの質疑と参加者とのディスカッション

コメンテーターの李氏から発せられた報告者への問いは、「人間解放において乗り越えられなかったものは何か」でした。鈴木氏へは「1970年後半の健常者組織の結成と解散による身障者組織の混乱は、その後の人間解放理論の行方にどう影響していったか」との質問でした。鈴木氏によると、「全国青い芝では、1979年に作られた再建委員会の下で、1981年に新執行部が成立し活動を再開することになる。しかし、80年代以降、「人間解放」を目指す差別告発運動は次第に小規模になっていった。『健全者』文明の否定などの過激な運動方針が、運動の孤立や縮小の一因となったと考えられる」とのことでした。加藤氏は「『両側から超える』という言葉の可能性」を問われ、「差別する側、される側の両方において、難しい問題であり、自分側に引き寄せて実感していかないと解決することが困難である」と感想を述べました。船津氏は「運動内部の『差別意識』の発見と赤堀政夫の人間性への接近にみる連帯の行方」についてとの質問に、「赤堀政夫への支援者として人間性に触れていく試みは、時として批判者を招き入れてしまうこともある。連帯の拡がりは、限界を露呈するという矛盾を生むことにもなる」と説明しました。

また禹氏からは各報告者に向けて、「個別運動の報告を伺うと、自分が人間として処遇される、あるいは、認められるべきだと主張する正当性のロジックは、『ありてい』の人間をそのまま認めれば良いのに、そうではなくて、自分を向上することによって人間として承認するという日本社会の特徴の中に投影できることが見えてきた。すなわち、主体性の過剰によって息苦しい状況となってしまっているのは、雇用の問題と3名の報告者が示してくれた個々の差別問題とに接点であり、マクロな社会の構図として考えることができよう」と社会全体を見据えた研究の方向性が提示されました。

フロア(Zoom)の参加者からは、禹氏に「広場の概念」についての質問や、報告者やコメンテーター全員に「人間という言葉を用いることで、運動内部のジェンダーやセクシュアリティのような一人一人に見える抑圧が見えにくくなったのではないか」という質問がありました。支援活動に携わる方からの追加説明などの発言もあり、さらに議論が深まりました。1970年代の社会運動における「人間」「にんげん」「人間解放」という言葉に込められた意味や概念を深く読み解くにしたがって、支援者と被支援者、差別する側とされる側、強者と弱者のような二項対立的な追求では、人間解放や人間の尊厳を語るには矛盾や限界が浮き彫りになることが提示されました。1990年代の自己責任論が強調される時代を経て今を生きる我々にとって、この閉塞感をいかに打破するのかは、1970年代の意味を問い、「ありてい」の理論を突破口にヒントを得ることで打開の道筋を通すことにつながる可能性があるのではないか、というところで時間となりました。

当初はコロナの感染状況が好転すれば対面での実施を予定していたため、参加者を12名と限定しての開催でしたが、話題が尽きることなく、この問題への関心の高さをうかがうことができました。

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