ブログ共生社会研究センター

What's new at RCCCS

2010.10.04 Access and Contacts
Research Center for Cooperative Civil Societies is located inside the Ikebukuro Campus of Rikkyo University.
The Center is in “Mather Library Memorial”, near the upper-right corner of the map.

Address
3-34-1 Nishi-Ikebukuro, Toshima-ku, Tokyo 171-8501
Telephone
+81-3-3985-4457
Fax
+81-3-3985-4458
E-mail
kyousei@rikkyo.ac.jp
Office Hours
Mon-Fri, 10:00-12:00, 13:00-17:00
Notes
* For inquiry in English, please call : Tue-Fri, 10:00-12:00, 13:00-17:00.
* The Center might be closed irregularly due to administrative reasons, so please contact us before planning a visit.
2010.10.04 What is RCCCS?
Research Center for Cooperative Civil Societies (RCCCS) was established in April 2010 with the aim of contributing to the realization of sustainable and cooperative civil societies by promoting research through collecting, preserving, and making available large amount of documentations on local and global activities by citizens worldwide.

In line with the agreement signed by Rikkyo University and Saitama University in March 2009, the renowned collection on people's activities at Saitama University will be transferred, in whole, to the Center by March 2012. That includes: large collection of non-commercial, hard-to-locate publications by citizens' groups and individuals since early 70s, a number of archives of high-profile grassroots movements such as "Peace for Vietnam! Citizens' Committee", and personal archives of renowned researcher/activist Jun Ui and Yoshiyuki Tsurumi.
Among them, collection of non-commercial publications from all over the world (over 10,000 titles, 235,000 items) have already been transferred to the Center and is now accessible for Rikkyo students and researchers, and will be open for everybody from November 2010.
-To search our collection (sorry, only in JAPANESE) , please click HERE .

The collection offers diverse and lively picture on what ordinary people thought and did to tackle issues such as war, pollution and human rights violations, at different times in different areas.

The Center is commited to:
1) make its collection accessible to students and faculty members of Rikkyo University, Saitama University, and any other research institutions, to promote research on grassroots movements and other citizens' activities in the society.
2) work actively with people outside the university and make utmost effort to function as a real hub for citizens and researchers so that people can share their experiences, ideas, knowledge and wisdom.

所蔵資料紹介

2017.03.29 資料紹介:日本の高校生とアパルトヘイト
立教大学大学院文学研究科史学専攻博士前期課程1年
共生社会研究センターRA(リサーチ・アシスタント)
牛場 弥文


ブログをご覧の皆さん、こんにちは。共生社会研究センターRAの牛場です。
前々回・前回の2回にわたって、当センターが所蔵する「反アパルトヘイト運動関連資料」の全体像をご紹介させていただきました。今回は、その中から3点の資料をピックアップして、より詳しくご紹介したいと思います。


○ 山名孝則「アパルトヘイトを教材化してみて」(1989年)

この資料は、広島県立M高校で現代社会を担当していた教員が、アパルトヘイトを題材にした自身の授業について、1989年に開催された広島東地区高等学校第2次教育研究集会で報告するために作成したものです。

(反アパルトヘイト運動関連資料・楠原彰氏寄贈分R10-31-005-7「アパルトヘイトを教材化してみて」)

彼は、アパルトヘイトという「問題を遠い国の時代錯誤的な差別問題としてとらえるのではなく、自分たちの問題として考える機会を与え」ることで、生徒たちに「同じような構造をもつ、差別が身近にないか」考えさせようと「アパルトヘイトを教材化」しました(p.1)。
この資料には、そのような授業を受けた生徒たちの感想も掲載されています。ある生徒は「日本でも……アフリカのように表面化していないだけで、差別がないとはいえないと思う。だからアフリカは遠い国じゃなくて近い国のような気がする」と書き記しました(ページ数の記載なし、資料⑤Ⅱ-⑤)。その言葉は、後世の人間が抱くかもしれない「なぜ、遠く離れた南アフリカの問題に、日本の人々が関わろうとしたのだろうか?」という問いに対する答えともなるでしょう。


○ 沢野重男編『NKOSI SIKELEL’I AFRIKA』(広島高校生平和ゼミナール、1989年)

1989年6月、アパルトヘイト問題に取り組んでいた広島県の私立Y高校の社会科学研究部が、その活動の成果を1冊の本にまとめて発行しました。
それが、この資料『NKOSI SIKELEL’I AFRIKA』です。

(反アパルトヘイト運動関連資料・楠原彰氏寄贈分R10-31-005-6『NKOSI SIKELEL’I AFRIKA』)

章立ては、以下のようになっています。

第1章 アパルトヘイトと高校生
第2章 アパルトヘイトとは何か
第3章 アパルトヘイト直撃インタビュー
第4章 分析・大使館アンケート
第5章 アパルトヘイト関連国際条約・自由憲章
第6章 国連のアパルトヘイト非難決議(1988・12・5)
第7章 新聞報道「国連が日本非難決議」
第8章 「南アフリカ共和国」からの手紙
第9章 ANCへのアプローチ
第10章 総括・アパルトヘイト学習

この資料は、部活動という領域で反アパルトヘイト運動を展開した高校生たちの足跡と言えるでしょう。


○ 「Hector」(1990年)

授業や部活動といった枠を超えて、アパルトヘイトと向き合った高校生もいました。
1990年の3月から12月にかけて「Hector」という全5号のミニコミを発行したのは、東京都にある私立O高校という女子校の生徒有志でした。

(反アパルトヘイト運動関連資料・楠原彰氏寄贈分R10-31-005-5「Hector」1~5号)

この資料の特徴は、記事の執筆から編集、配布まで、すべて活動を担った高校生たち自身の手によって為されている、ということです。「Hector」を読めば、教員によるチェックを受けていない、当時の高校生の生々しい言葉に触れることができます。掲載されている記事がアパルトヘイトを主題に据えたものだけでなく、「現在の社会福祉制度の欠陥を鋭く突いた、ドキュメンタリーフィルム」の論評(第5号、p.15)など、多岐にわたっている点も興味深く思われます。ぜひ、この資料を手に取って、彼女たちの息遣いを感じてみてください。


数十年前、年齢も性別も国籍も職業もバラバラな人々が、各地でアパルトヘイトに反対する声をあげ、行動を起こしました。その連帯の輪に、日本の高校生も加わっていたということは、今回ご紹介した資料が示している通りです。
アパルトヘイトについて授業で学んだ高校生、部活動で顧問の先生と一緒にアパルトヘイトの実態を調査した高校生、自主的にアパルトヘイトと向き合い運動を展開した高校生……反アパルトヘイト運動を軸に、様々な青春の断片がセンターの書庫に保管されています。このブログをご覧になったあなたが、センターに訪れてくださることを、心よりお待ちしております。
2017.03.16 資料紹介:「反アパルトヘイト運動関連資料」の概要と整理方法
立教大学大学院文学研究科史学専攻博士前期課程1年
共生社会研究センターRA(リサーチ・アシスタント)
牛場 弥文


ブログをご覧の皆さん、こんにちは。共生社会研究センターRAの牛場です。
前回に引き続き、当センターが所蔵する「反アパルトヘイト運動関連資料」の下垣氏寄贈分(R09)と楠原氏寄贈分(R10)について、それぞれ、概要や整理方法などをご紹介します。


R09:「反アパルトヘイト運動関連資料・下垣桂二氏寄贈分」
本資料群には、全国の反アパルトヘイト運動団体に関する記録や書類が含まれています。この資料群からは、南アフリカの活動家の招聘の準備、南アフリカ製品の不買運動、アフリカへのツアー企画など、広範囲かつ多岐にわたった反アパルトヘイト運動の一端を窺い知ることができます。センターでは、本資料群を6つのシリーズに整理しました。

シリーズ1:主題別ファイル
ファイルの内容から、「サブシリーズ1:こむらど活動」、「サブシリーズ2:関係団体」、「サブシリーズ3:機関誌」、「サブシリーズ4:その他」に分けました。サブシリーズ1は下垣桂二氏が所属していた/いる大阪の団体の資料、サブシリーズ2はJAAC関連団体の資料、サブシリーズ3は各地の団体が発行した機関誌です。

シリーズ2:ノート
こむらどアフリカ委員会の事務局会議の記録、反アパルトヘイト運動に関わる講座・講義に際してのメモなどを記した下垣氏のノートです。

シリーズ3:封筒詰め等一括資料
封筒などにまとめられていた、アンケート・原稿・ノート・書簡・運動記録などの資料です。

シリーズ4:書簡(非公開)
主として、こむらどアフリカ委員会宛の書簡、未整理・非公開です。

シリーズ5:その他
シリーズ1~4には含まれないビラ・写真・冊子などです。

シリーズ6:一般刊行物


R10:「反アパルトヘイト運動関連資料・楠原彰氏寄贈分」
本資料群は、主に、JAACの内部文書(名簿・手紙・連絡ノートなど)や、南アフリカ問題懇話会・アフリカ行動委員会をはじめとする様々な団体・個人が反アパルトヘイト運動のために作成・頒布したビラ・冊子・資料などによって構成されています。センターでは、それぞれの資料の機能と形態を重視して、本資料群を4つのシリーズに整理しました。

シリーズ1:ファイル
様々な形態・内容の資料からなるファイル群を2つのサブシリーズに分類しています。「サブシリーズ1:JAAC関連資料」は、JAACが展開した反アパルトヘイト運動のなかで作成されたと考えられるファイル、「サブシリーズ2:ファイル『反アパ資料 雑』」は、楠原彰氏が作成・受領したと考えられるファイル(紐で括られ、「反アパ資料 雑」と書かれたラベルが付されていました)によって構成されています。

シリーズ2:ノート
JAACの東京事務所で、メンバー間の連絡・ミーティングの記録・電話内容のメモなどのために使用されていたノートです。

シリーズ3:ミニコミ・冊子など
南アフリカ問題懇話会・アフリカ行動委員会をはじめとする、様々な団体・個人が反アパルトヘイト運動のために作成・頒布したミニコミ・冊子などによって構成されています。

シリーズ4:一般刊行物


2回にわたって、当センターが所蔵する「反アパルトヘイト運動関連資料」の概要や背景などについて、簡単ながらご紹介させていただきました。
本資料群は、日本で展開された反アパルトヘイト運動に対して、様々な角度からアプローチすることを可能にする、優れた一次史料だと考えられます。そこからは、約15000kmも離れた外国で差別と闘う人々と連帯し、年齢・社会的地位・生活圏などの「壁」を越えて共に行動した人々の姿が浮かび上がってくるでしょう。また、その運動の過程で、日本社会に内在する差別構造にも目が向けられていった点も見逃せません。
「アパルトヘイト」という単語は、アフリカーンス語で「分離・隔離」を意味します。他者を分離・隔離≒排除するための新たな「壁」が築かれつつある現在、本資料群は、そのような力に抗うためのヒントも与えてくれるかもしれません。

次回の記事では、本資料群の中から、一部の資料をピックアップして、より詳しくご紹介します。そちらも、あわせてお読みいただければ幸いです。

2017.03.10 資料紹介:日本における反アパルトヘイト運動 ─ 「反アパルトヘイト運動関連資料」の背景 ─
立教大学大学院文学研究科史学専攻博士前期課程1年
共生社会研究センターRA(リサーチ・アシスタント)
牛場 弥文


ブログをご覧の皆さん、はじめまして。
昨年4月から共生社会研究センターでRAを務めている牛場と申します。


今回から、3回に分けて、当センターが所蔵する「反アパルトヘイト運動関連資料」をご紹介します。

この資料群は、日本反アパルトヘイト委員会:Japan Anti-Apartheid Committee(以下、JAACと略記)をはじめとする、様々な団体・個人が展開した反アパルトヘイト運動の過程で作成・蓄積された資料によって構成されています。
資料の蓄積年月日は1963年から2015年までと幅広く、また、その形態もビラ・冊子・書簡・ノート・新聞の切り抜き・雑誌のコピー・ビデオテープなど、多岐にわたっています。
さっそく、この資料群を生み出した、日本の反アパルトヘイト運動について、簡単に説明しましょう。

日本における反アパルトヘイト運動は、1963年に開かれたアジア・アフリカ人民連帯会議で、野間寛二郎氏(アフリカ研究者)らがアフリカ民族会議(ANC)代表団から受けた要請をきっかけにスタートしました。以降、南アフリカにおけるアパルトヘイト(人種隔離政策)と、それに荷担する日本(1987年に、日本は対南アフリカ貿易額が世界第一位となる)を監視・批判する市民運動が各地で展開されます。なお、アフリカ行動委員会(東京)、こむらどアフリカ委員会(大阪)、静岡アフリカに学ぶ会(静岡)など、全国各地の反アパルトヘイト運動に取り組んでいた市民運動の連合体として存在したのが、JAACでした。もちろん、JAACに加わらずに反アパルトヘイト運動に取り組んでいた個人・団体も存在しましたが、とにかく、年齢も性別も国籍も職業もバラバラな人々が、各地でアパルトヘイトに反対する声をあげ、行動を起こしたのです。やがて、国際的な非難の高まりを背景に、南アフリカのアパルトヘイト体制は崩壊を迎えます。それに伴い、アパルトヘイトに反対する運動を行っていた団体の多くは「解散」しました。ですが、新しい南アフリカ(マンデラ政権)の誕生後も、南アフリカ(と、日本)が抱える論点に向き合い続けた/ている人々も少なくありません。


では、そのような運動の過程で作成・蓄積された資料群は、いかにして、当センターへ寄贈されるに至ったのでしょうか。その経緯をご紹介します。

2013年頃から、アジア経済研究所の牧野久美子氏の呼びかけに応じて、楠原彰氏(元・アフリカ行動委員会)と下垣桂二氏(元・こむらどアフリカ委員会)は、手元に保存していた反アパルトヘイト運動に関する資料の整理を行いました。また、両氏は、全国の反アパルトヘイト運動体にも声をかけ、さらなる資料を収集します。そして、楠原氏・下垣氏・牧野氏の三者によって、重要資料のPDF化・目録化も行われました。その上で、下垣氏の手元に当初から保存されていた資料と、収集作業の中で下垣氏のもとへ集中した資料が、2016年3月23日に、当センターへ寄贈されました。楠原氏からも、同様の資料が2016年3月30日、当センターに寄贈されました。

楠原氏・下垣氏・牧野氏のプロフィールについては、下記リンク先をご覧ください。

上述の、牧野氏の呼びかけによって行われた取り組みに際しては、全体として完全かつ重複のないコレクションを作成することが目指されました。例えば、ミニコミを欠号なく揃えるため、楠原氏と下垣氏が所持している資料を互いに送りあう、といったことも行われています。センターでは、「反アパルトヘイト運動関連資料」を資料「群」としての直接の出所ごとに、下垣氏寄贈分(R09)と楠原氏寄贈分(R10)に分けて整理しましたが、この二つは本来、一つのコレクションとして理解されるべきでしょう。


次回の記事では、本資料群の概要や整理方法などをご紹介します。ぜひ、そちらもご覧ください。

2016.10.06 資料紹介:新田勲氏旧蔵障害者運動関連資料

資料紹介:新田勲氏旧蔵障害者運動関連資料

2016.10.07
共生社会研究センターリサーチアシスタント
立教大学大学院文学研究科史学専攻博士前期課程2年
吉田みどり・田崎智菜
この記事で紹介する資料は、新田勲氏旧蔵障害者運動関連資料である。

新田勲氏(1940~2013年、以下敬称略)は、重度の全身性の障害を持ち、当事者として公的介護保障要求運動の中心を担った人物である。
新田は幼少期に患った肺炎がもとで脳性マヒとなり、重い障害を持って生きることとなった。19歳のときには結核を患い、療養所に入所する。回復後に自宅に戻るが、1965年には民間施設「町田荘」に、1968年には妹・絹子氏とともに府中療育センターに入所した。ところが、同センターでの障害者介護に対する実態や施設の管理体制に次第に疑念や不満を持つようになり、「医療の場から生活の場へ」の改善を求めたハンスト闘争や府中療育センター移転阻止闘争といった抗議行動を展開していった。

しかしその後、施設内の管理体制の改善に限界を感じ、1973年に施設を出て、東京都の車椅子利用者用公営住宅に入居し、自立生活を開始した。このとき、「在宅障害者の保障を考える会」(以下:在障会)を結成し、それまで家族か地域共同体ボランティアが担っていた介護に異議を申し立て、行政に対し公的介護保障を求める運動にも取り組み始めた。この在障会は、行政に対して介護者(人材)ではなく介護料(貨幣)の支給を求め、実際に公的介護保障の制度化に成功した。その後、地域間の格差なく、全国的な公的介護保障を要求すべく「全国公的介護保障要求者組合」を結成した。また2000年代に入ると、訪問介護者の養成にも注力した。

この資料群は、新田の介護者であり『福祉と贈与—全身性障害者・新田勲と介護者たち』(生活書院、2013年)の著者でもある深田耕一郎氏(出版時は立教大学社会学部助教、現在は女子栄養大学専任講師)から寄贈を受けた資料である。新田がその生涯をかけた運動の記録である。

今回は、深田氏を中心とした新田とゆかりのある人々による整理を経て作成された目録があったため、センターでの再整理にあたってもその分類を基本的に活かすことにした。そのため私たちは、目録と資料を照合する作業を中心に行った。作業終了後、私たちは全体を9つのシリーズに分けた。

シリーズ1:府中療育センター移転阻止闘争
シリーズ2:在宅障害者の保障を考える会
シリーズ3:介護人派遣センター設立を目指した創る会
シリーズ4:全国公的介護保障要求者組合
シリーズ5:ケアライフ(介護人養成に関連する資料)
シリーズ6:介護者関係(新田の介護人に向けた資料)
シリーズ7:他団体
シリーズ8:雑誌・出版物
シリーズ9:生活

写真1:今回作業した資料群 全体像に加え、あと7箱分の未整理の資料がある。

写真2:府中闘争関連の資料(01-002)

写真3:「介護者のみなさんへ」(06-001) 訪問介護人に対する新田からのお願いの一部分

資料の整理や新田の経歴を調べながら、新田の言葉に息をのむことが何度かあった。彼は障害者と健常者が「共に生きる」ことを探っていたのではないだろうか。しかし、この作業中に相模原市の事件が起きた。もし、彼が生きていたら何を語るだろうか。"共に生きることの難しさ""命の大切さ"そんなことを口にし、たぶん彼は、怒りをあらわにし、悲しみにくれる。その怒りと悲しみの中に私たちは何を見つけることができるのだろうか。

ここからは整理担当者としてのコメントとなる。

吉田:私の介護に関する経験といえば、教職課程での介護等体験のたった7日ほどである。なかでも、特別支援学校は印象的であった。どんな生徒がいて、どのような授業をして、どのように送り出すのか私は20年くらい何も知らなかった。この体験では、相手の意志を尊重し、サポートすることの意味を学んだ。なんでもやってあげることが良いことでなく、一人の人として関わっていくことの意味が少し見えたような気がした。新田の命や人間に対する想いやエネルギーを感じることのできる資料群であり、ぜひご覧いただきたい。

田崎:この資料を整理しながら教職課程で、介護体験をしたことを思い出した。その中で、特に印象深かったのが特別支援学校での2日間だ。そこでの体育の授業では、同じ種目であっても生徒一人一人に合わせ用具の使用方法を変え、それぞれに課題が設定されるなど、できることを一つ一つ増やしていく姿があった。すべての生徒を同じレールに乗せるのではなく、一人一人が社会の中で自立できる道をつくっていたのであろう。新田が目指していた自立して生活する障害者像がそこにはあった。


1970年代の運動から何がどのくらい変わっただろうか。新田は、施設介護を社会からの「隔離」と位置づけ、地域でも障害者が自立して生きていけるように権利の要求をした。それは、障害者向けの住宅の構造といった物資面だけではなく、行政や社会が持っていたであろう意識に対して声をあげるものであった。

新田勲の妹である三井絹子氏の障害者運動関連資料も当センターで所蔵しており、閲覧も可能である。

参考文献
杉本章『ノーマライゼーションライブラリー 障害者はどう生きてきたか —戦前戦後障害者運動史』ノーマライゼーションプランニング、2001年
深田耕一郎『福祉と贈与—全身性障害者・新田勲と介護者たち』生活書院、2013年

『福祉と贈与—全身性障害者・新田勲と介護者たち』

2016.03.03 あれこれと、資料をめくる

あれこれと、資料をめくる

2016.07.21
立教大学共生社会研究センター 平野 泉

大震災が起きたあの日から、そろそろ5年。

センタースタッフとして何か発信したいと思いつつ、何を書いたものかも思いつかずにいるうちに、桃の節句がやってきてしまいました。じつは昨年春から、大阪・西淀川のあおぞら財団のプロジェクトで、千葉・川崎製鉄大気汚染訴訟記録の目録作成作業をセンターで行っています。作業自体は財団のアルバイトの方がどんどん進めてくださっているのですが、個別資料のID番号を現物に付与しながらスプレッドシートに入力する作業の一部を私が担当しています。こうした作業は、所蔵しているのにじっくり読んだことのない資料をざっと眺めておくチャンス。せっせと手を動かしながらスキャンするように目を通していたのですが、原告側甲号証のD、被害・損害の書証ファイルに入ると作業が進まなくなりました。生々しい手書きの陳述書がたくさんあって、つい読んでしまうのです。
見上げる青い空、のんびり魚釣りをする浜辺、すこやかな体、ふつうの暮らし———工場が排出する有害物質にそれら全てを奪われた人たちの言葉は、東日本大震災の被災地に生きる人たちへと、切れ目なくつながっていくようでもありました。

思えばセンター所蔵資料にはそうした言葉があふれているのです。

例えば、水俣病の苦しみを抱えて生き続けてきた人の言葉。

「三日だけでいいから一緒に生活してほしい、そうすればわかる。子供にまで、父ちゃんのたべたあとにはめし粒がいっぱいこぼれとる、と何の気なしに言われて涙をこぼしたり、ワイシャツの上のボタンも自分では掛けられない—そんな生活がどんなものか、委員の先生に一緒に暮らしてもらえばわかるってな。でも言おうかどうしようか思っているうちに次の人、と言われたですたい。」

「16年と10分間—ルポ 補償処理委の現地調査」
『告発』(水俣病を告発する会、熊本)第6号、1969年11月25日発行、p.5、東京・水俣病を告発する会編『告発・縮刷版』、p.39. 市民活動コレクション・ラベル番号350859)

津波に襲われた陸前高田市で、広田湾の埋め立てに反対した人の言葉。

「又、北九州市八幡の一地区の千四百世帯の住民は、ついに三百世帯となりました。この三百世帯というのは、自力で移住出来ない貧しい経済状態の人達ですが、アンケートによると、この内八十%が移住を希望し、市役所ではその費用を五十億と計算したとのことです。これは八幡製鉄所と三菱化成の二大企業の煙のはさみ討ちに合って、企業は移転しないから住民が移住しろという誠に悲しくもさびしい住民の姿なのです。
これを対岸の火災視することは出来ません。広田湾埋め立て地に設立された、百二十万kwの火力発電所が年間数万tの亜硫酸ガスを排出した暁には、これに優るとも劣らぬ事件がおそらく十年を待たずして起こるのは火を見るよりも明らかなのであります。
我々が生きているうちに起らぬとするも、我々の子や孫は、かくして喘息に苦しみ、果ては、生まれ故郷を追われて、かの「流浪の民」の如く日本の果てを移動するを余義なくされる時代が来ないと、だれが保証出来ましょうか。」

佐伯正人「公害病は永久になおらない」、『美しい郷土』(広田湾埋め立て開発に反対する会、陸前高田)、第2号、1972年11月25日発行、p.2. 
市民活動資料コレクション・ラベル番号260455

同じく火力発電所の建設に反対した、北海道・伊達とその近辺の漁民たちの言葉。

「私達は海で生まれ、育ち、海に生きて来ました。その私たちに伊達火力は何を意味するでしょうか。私たちの生活の根底からの破壊はあっても、私たちの生活を豊かにしてくれる可能性はゼロです。(中略)
人間は、これまで余りに自然をバカにし、イジメて来たのではないでしょうか。自然は決して無限のものではない。今人間は、自然を大切にしなければ、何日の日にか、自然の恐ろしい仕返しに直面するでしょう。
私達、海に生きる青年は自然を、海を守り、皆さんの食卓に豊かな海の幸をおくる為にも伊達火力に断乎反対せざるを得ないのです。」

「北電の被害を受ける 伊達町と近接市町村の皆様に訴える」(室蘭、伊達、有珠、虻田、豊浦、礼文漁協青年部)、発行日不明、おそらく1971-72年ごろ
S15伊達火力反対運動関連資料、資料ID(仮)J-72.

伊達の人たちと「環境権」の確立を求めるたたかいをともにした、豊前の人の言葉。

「今まで永い間、我々の祖先はそういう自然の中に生きてきた。で、その自然を我々に受け継いできた。である以上、我々は矢張り後に続く者にそれを残していかなできん。(中略)
この海を我々の世代だけでつぶしていいなんちゅうことは誰にもいえない。一体、あとに続く者にどういいわけをすることが出来るか、どんな理屈をつけたって、こらあ出来んのだ。そういう重みを私達は背負うている。」

松下竜一「心あるゆえに人間なり」、『草の根通信』(環境権訴訟を進める会)、No.16、1974年4月発行、p.8. 市民活動資料コレクション・ラベル番号222623.
環境権訴訟・第二回口頭弁論(1974.03.14)での陳述から。

かつて「公害」という言葉でくくられた、人びとの暮らしを奪うさまざまな環境破壊に向き合った宇井純さんの言葉。

「要するに公害というのは、公害を受ける側—被害者—と、公害を出す側—加害者—の、力の釣合いであります。
加害者が強ければ、文句が言いにくいですから、公害はどんどん増えます。被害者が強ければ、出せば文句を言われますから、出しにくくなって、公害は減ります。
被害者が強いか弱いか、それによって公害が増えたり減ったりする。それだけのものだとお考えになったほうが、非常に乱暴なように見えましても、分りいいものであります。
そうしますと、ここには第三者はないのです。私どもがなにをしましても、どんな行動をしても、あるいはどんなことをしゃべりましても、結果として、加害者を助けることになるか、被害者を助けることになるか、どっちかです。結果として、公害を増やすほうを手伝うか、減らすほうを手伝うか、どっちかであります。どっちにも関係ない、という第三者はありえない。」

宇井純「公害に第三者はない—公害と住民生活」
藤林泰ほか編『宇井純セレクション2 公害に第三者はない』、新泉社、2014年、pp.45-46.
参考図書 ラベル番号720100
(初出は『協同組合経営研究月報』241号、協同組合経営研究所、1973年10月。1973年8月7日に群馬で開催された講演より)

40年以上前に発されたこれらの言葉に、いまも深くうなずくしかないのは、私自身も含めたたくさんの人が「第三者」であり続けてしまったからなのかもしれません。だとすれば、これらの言葉がもっともっと現在の問題、いまこの瞬間の苦しみと響き合うにはどうしたらよいのか....。
2016年3月11日には、立教大学のチャペルでも祈りのときが持たれます。

あおぞら財団

千葉・川崎製鉄大気汚染訴訟

祈りのとき

2016.02.17 資料紹介:24-Twenty Four-親父篇 ~S03 遠藤洋一氏旧蔵「ベ平連」関連資料~

資料紹介:24-Twenty Four-親父篇 ~S03 遠藤洋一氏旧蔵「ベ平連」関連資料~

2016.07.21
橋本 陽
共生社会研究センター アーキビスト

『24-Twenty Four-』という有名なアメリカのドラマがある。私自身は1秒も見たことがない。手っ取り早く、Wikipediaで調べてみれば、ジャック・バウアーという名の捜査官がテロを防ぐために、犯罪者への拷問を含め色々な活躍を見せるドラマだそうだ。24とは24時間のことで、1時間構成の1話が現実と同じ時間の進度で進行し、同時多発的に色々なトラブルが発生するのが特色で、24時間が経過したとき、つまり24話を迎えたときに1シーズンが完結するというつくりになっているらしい。

どうしてこのドラマを取り上げたのかといえば、立教大学共生社会研究センターは、主役ジャックを演じるキーファー・サザーランドの父で、同じく有名な俳優であるドナルドに関わる資料を所蔵しているからである。というわけで、今回は、その資料を手がかりに、親父であるドナルドを主役に据え、ある時期の彼の24を追ってみたい。Wikipediaなどでは知りえないお話を提供できるかもしれない。

1971年12月7日の深夜、ドナルドと仲間を乗せた飛行機が羽田空港に降り立った。彼はFTAというベトナム反戦と女性解放を主張する演劇グループの一人だった。FTAの正式名称はどういうわけか三種類もある。そのうち二つはFree Theater AssociatesとFree the Armyと言うが、真の名と思われる三番目のものは、とても公共の場で口に出せるような名称ではなく、それをごまかすために他の二つの名前が作られたのではないかと邪推してしまう。残念ではあるがここでも割愛せざるをえない。この名前だけでも難のあるグループ、FTAの来日公演を支えたのは、反ベトナム戦争の活動を活発に繰り広げていたベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)である。その準備に協力した人物の一人に遠藤洋一氏がいた。「くじら」という愛称で呼ばれた遠藤氏は、当センター所蔵「S03遠藤洋一氏旧蔵「ベ平連」関連資料(以下、「遠藤資料」)の寄贈者でもある。

<遠藤洋一氏宛の封筒、「くじらへ」と書かれている>



ここにFTAが日本でどのような活動をしたかについて確認できる記録がある。ドナルドはじめFTAの面々は、来日、もっと正確に言えば、空港到着直後に早くもトラブルに遭遇してしまう。はたして、彼が直面した問題とは何だろうか。

「遠藤資料」にある「FTA関連切り抜き(1)~(3)」(資料番号S03-301~303)は、FTAについて報じた新聞や雑誌の記事の切り抜きのスクラップを集めたファイルである。それによれば、彼らは入国審査をパスできず、空港内で立ち往生する羽目になった。空港に宿泊施設はなかったため、入国手続きをしないままその日は都内に移動し、千代田区の丸の内ホテルで夜を過ごすこととなった。記者会見が深夜に開かれ、面々は激怒する。報道のなかでひときわ注目を浴びたのは、この年にアカデミー主演女優賞を受賞した女性だった。ジェーン・フォンダである。その後の日本滞在中も、新聞、雑誌、そして恐らくはテレビでも、メディア上の主役はジェーンであった。我らが24の主役のドナルド、一部の記事ではジェーンの恋人であったらしいと報道されているが、注目度は彼女の方が上だったようだ。

それはさておき、彼らのトラブルの原因はビザだった。観光が目的のビザで来日して、興行を行うのはけしからんというわけである。一晩明けた8日に、彼らは法務大臣に訴え、その結果、9日から11日までの3日間について、大臣より特別の在留許可を受けることに成功する。元々の予定でも、12日から16日までは沖縄で公演し、その後は京都や岩国などを転々として23日に帰国することになっていたため、許可が出る前の8日を除けば、FTAはほぼ予定通りに活動できるようになった。しかし、当時復帰前の沖縄から再度日本に入る際には、全員がビザを観光から興行目的に変更しなければならなかった。

再び「遠藤資料」に目を向けてみよう。「FTA(1)」(資料番号S3-122)には、再入国申請のために作成された一連の記録が含まれている。

<再入国申請の書類が入っていた封筒、表書きは鶴見良行氏の手書き>



そこには、当時ベ平連の活動を様々な面から支えていた鶴見良行氏の名前が出てくる。鶴見氏は、FTAのメンバーの保証人となり、入国に必要となる諸々の書類の作成に尽力したようだ(なお、当センターは鶴見良行文庫も所蔵している)。ドナルドほかメンバーの日本入国申請書は、提出したものが複写されていたようで、それを見ると、タイプライターで入力された入国目的の項目は、「FTAの興行(FTA Show Meetings)」となっている。その後、西日本で無事に公演を続けていることから、彼らは再入国に際してビザの種類を興行目的に変更したのだろうと想像できる。

実は、この入国申請書を含むファイルには、各メンバーが手書きで記入した下書きもある。もちろんジェーンのもあれば、ドナルドのもある。まずジェーンの申請書を見てみよう。興行と書くべき入国目的を彼女は白紙にしていた。羽田空港のときによほど腹が立ったのだろう、無言の抗議のように感じられる。その一方、ドナルドは何と記入していたのだろうか。なんと彼は「観光旅行(Tourism)」と書いていたのである。これでは前と同じではないか。また入国を拒否されたとしたら、どうするつもりだったのか。この見上げた反骨精神、メディアの注目度とは反対に、ジェーンより一枚上手である。

ここで白状するが、ドナルドの24時間を描くというのは、やはり荷が重すぎたようで、いつの間にか24時間どころか1週間も過ぎてしまった。私自身の力不足を恨むほかはない。しかし、それでも冒頭で利用したWikipediaなどインターネットの世界だけでは決して知ることのできないような情報をいくつかご提示できたのではないだろうか。この「遠藤資料」には、FTAのほか、米軍基地で発行され戦争反対を主張したGI新聞、例えばOmega Press(コザ基地)やSemper FI(岩国基地)などといった魅力的な資料がそろっている。

<Semper FI の表紙>

さて、こういった他ではなかなか手に入らないような素材をもとに研究に取り組むことをお考えの方は、ぜひお気軽にお問い合わせください。もちろん、割愛したFTAの第三の正式名称を知りたい方もお待ちしております(すぐわかりますが)。

連絡先は次の通り。

Tel: 03-3985-4457
Fax: 03-3985-4458
E-Mail: kyousei@rikkyo.ac.jp

Wikipedia

S03遠藤洋一氏旧蔵「ベ平連」関連資料

鶴見良行文庫

2015.12.01 住民による意思決定~日本で初めて住民投票で原発建設を止めた町~

住民による意思決定~日本で初めて住民投票で原発建設を止めた町~

2016.07.21
田﨑智菜・吉田みどり
共生社会研究センターリサーチアシスタント
立教大学大学院文学研究科史学専攻博士前期課程1年

今回紹介する資料は巻原発反対運動住民投票資料である。
これは、東北電力が新潟県西蒲原郡巻町(現新潟市西蒲区)に建設を計画していた原子力発電所(巻原発)の建設に関わる住民運動の資料であり、運動の当事者の方々が保存されていたチラシなどである。また、日本で初めて住民投票条例に基づいて実施された住民投票という点で重要な事例であると言える。

まずは巻原発に関する背景を見ていこう。
東北電力が新潟県巻町角海浜に原子力発電所の建設へ動き始めたのは、1960年代半ばごろのことである。原発計画が具現化された当初、1967年以降から「観光開発」の名目で用地買収が行われていた。しかし、1969年6月、『新潟日報』が、巻町に原子力発電所建設の計画が存在し、すでに用地買収が始まっていることを報じたことで、巻町民にも原発計画が見えるようになった。
これを受け、巻町ではただちに革新勢力を中心とする反対組織が結成され、運動が始まり、推進派、反対派それぞれが署名活動や住民投票を求める運動などを行っていくようになる。その後、中立の立場をとる団体(巻原発・住民投票を実行する会)を中心とする活動によって、1996年8月4日に住民投票が行われた。
結果、反対票が有権者数の過半数を超えた。
住民投票の結果を受けた東北電力は、地元住民と合意が取れなかったことを理由に、2003年12月に巻原発計画断念を表明し、翌04年中にすべての廃止工事が行われた。これが、巻原子力発電所計画の白紙撤回に至るまでの27年間の大まかな流れである。

私たちが整理している資料は、埼玉大学共生社会研究センター監修『戦後日本住民運動資料集成2 巻原発反対運動・住民投票資料 全10巻』すいれん舎2007年の出版のため収集されたものである。出版後、埼玉大学共生社会研究センターに寄贈され、当センターに移管された。中を見ると、ファイルで分けられているものもあれば、チラシや手紙のコピーがそのまま箱詰めされているものもある。

主に、特定の個人が収集したものは人物別に分類し、それ以外を、センターで独自に分類した。シリーズは以下の通りである。
① 埼大ファイル
② 菅井益郎氏由来
③ 遠藤寅雄氏由来
④ 笹口孝明氏由来
⑤ 中村正紀氏由来
⑥ 住民投票関連資料
⑦ 反対派団体関連資料
⑧ 推進派団体関連資料
⑨ その他

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写真1:「巻原発・住民投票を実行する会」チラシ

埼玉大学共生社会研究センター監修『戦後日本住民運動資料集成2 巻原発反対運動・住民投票資料 第8巻』すいれん舎、2007年、84頁

「巻原発・住民投票を実行する会」は、原発に賛成、反対といった立場は取らずに、住民投票を通して町民の意見を政治に反映させることを目的とした組織である。巻原発住民投票運動宣伝資料として、チラシをはじめ、住民投票実施過程の記録等がある。

写真2:『なきすな』第37号(1996年)

反対派の「巻原発設置反対会議」が出す広報紙であり、この写真は1996年の原発設置を問う「住民投票」に向けて広報活動を行っている時期である。

写真3:『ほたる』1995年11月末号

『ほたる』は、巻原子力懇談会が原発や放射線の安全性を訴えることを主眼とした広報紙である。登場人物のセリフで構成される文章やイラストに目がとまる。

住民投票は一般的な選挙とは異なり、公職選挙法が適用されない。そのため、広告や広報活動に基本的には制限はなく、様々な組織が結成され、チラシも多く出されている。それぞれの団体が、住民にわかりやすく主張を広げるため、チラシにイラストやフォント、四コマ漫画を入れる等、個性を出していた。
住民投票や公開ヒアリング、チェルノブイリ原発事故(1986年)などの出来事を受けて、発行が集中する時期がいくつかあり、チラシや広報紙の全体に占める割合が大きい。当センターでは、これらのコピーや写真のような広報紙やチラシの原本も保存している。

また、先述した『戦後日本住民運動資料集成2 巻原発反対運動・住民投票資料』(全10巻)に、これらの資料の多くが、収録されている。そちらも参照していただきたい。

埼玉大学共生社会研究センター監修『戦後日本住民運動資料集成2 巻原発反対運動・住民投票資料 全10巻』すいれん舎2007年

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2015.10.23 資料紹介:体験。それは伝えられることで歴史になる

資料紹介:体験。それは伝えられることで歴史になる

2016.07.21
立教大学大学院文学研究科史学専攻博士課程前期1年
共生社会研究センターリサーチアシスタント
宮本皐

ブログをご覧のみなさん、はじめまして。

今年の4月より、共生社会研究センターでリサーチ・アシスタント(RA)を務めている宮本です。今回は当センター所蔵の資料「『ただの市民が戦車を止める』会ニュース」をご紹介します。

(↑当センター全所蔵分)

大きさはB4サイズですが、紙面をひらくとB3の大きさになります。



さて、少しだけこの資料の背景をみてみましょう。

この『「ただの市民が戦車を止める」会ニュース』(以下、「ニュース」)は、1972年に発足した「ただの市民が戦車を止める」会(以下「市民の会」)が同年に創刊したものです。創刊号は同年10月15日発行、途中にいくつか欠号がありますが、センターには1978年12月30日発行の67号まで保管しております。

当時はベトナム戦争のただ中で、日本各地で「反ベトナム戦争」を掲げた運動が大いに盛り上がりを見せた時期でありました。

当時の相模総合補給廠(以下、「補給廠」)は、ベトナムから日本に運び込まれたM48戦車やM113装甲車に修理や塗装を行い、またベトナムの戦地で使用できるようにする、いわば戦車の修理工場でした。

1972年5月3日、米軍横田基地からM48戦車が空輸されていることが明らかになり、翌日4日には在日米軍司令部当局が「南ベトナムで使用した戦車が相模総合補給廠に修理・整備のために送られている事実」を認めたことから、戦車搬出に対する抗議行動が活発になりはじめます。

特に丹治栄三社会党党首(当時)が中心となり、8月4日から5日にかけて、神奈川県の相模原市の補給廠から搬出されたM48型戦車5台の前で座り込みを行い、横浜の村雨橋で立往生させ、最終的にこれらの戦車は相模補給廠へと引き返しました。

「反ベトナム戦争」を示す具体的な行動としてこの「戦車阻止」の行動は大きく評価され、これに勢いづいた社会党、共産党をはじめ、「ベトナムに平和を!市民連合」や学生団体の人々が補給廠の西門前にテントを立て、徹夜監視、デモ、ティーチインなどの様々な抗議活動を行いました。「市民の会」は「ベトナムの戦場に戦車を送るな」を共通の目標とし、「ふつうの市民が誰でも参加できる」ことを掲げ、1972年8月23日に旗揚げされました。



しかし9月18日の夜から19日の朝にかけ、戦車が搬出されます。18日は搬出に抗議する集会がひらかれ、そこから道路に座り込む抗議が行われました。このとき、通りすがりの人々も次々に参加し、約2000人近くが集まったといわれています。



ニュースでは戦車闘争の様子、戦車搬出後の行政の動きなどが伝えられています。初期の号には、9月18日の座り込みに参加した人々からの声が多く寄せられています。

例えば、以下のような主婦からの投稿があります。

「罪もないベトナムの人々を殺す戦車を出すことが、正しくて、それを止める人々が、悪いという政治的矛盾を、子ども達にどう説明するか困っています」(1972年12月15日 No. 3 p.4より)

他にも学生や会社員など、寄稿している人々は年齢も立場もそれぞれ違います。

発行が進むにつれ、戦車搬出阻止を盛り込んだ条例を制定させる動きや他の市民運動について、会に対する意見などが増えていきます。

読んでいてハッとした部分があります。

「運動をしているとか運動に関わっている、そんな風な言い方には、生活の一部をくくりだしてしまう感じがどうしても拭えない。自分の今までの生活に運動というコブがくっついたのではなく、それによって生活全体が変わった(ひろがった)のだから、もっとふさわしい言い方はないものかといつも思う。」(1974年5月15日 No. 19 p. 1より)



市民運動というものは「日常生活に新たに足されるもの」ではなく「生活そのもの」なのではないか。この問いかけは、「日常生活」とは別物だと考えがちな「運動」や「たたかい」について、読者一人ひとりに再考を促していると感じました。

このニュースは1972年の補給廠西門前の熱気に触れ、その中で考え、迷いながらも行動した人々の確かな記録です。

今回ご紹介したのは内容の一部分です。センターにお越しくだされば、どなたでもこの資料を閲覧できます。メール( kyousei@rikkyo.ac.jp )またはお電話(03-3985-4457)まで、お気軽にお問い合わせください。
2015.10.13 資料紹介:沖大に移った宇井純と新石垣空港問題

資料紹介:沖大に移った宇井純と新石垣空港問題

2016.07.21
柿沼拓弥
共生社会研究センターリサーチアシスタント
立教大学大学院社会学研究科社会学専攻 博士前期課程2年



今回は、当センターに収蔵されている宇井純公害問題資料コレクション内のひとつ、新石垣空港建設問題に関連する資料群を紹介する。

私は昨年、今年と石垣島でのフィールドワークを行っている。その調査の行き帰りに乗った飛行機は、ボーイング787であった。335席もある中型ジェット機で、羽田と石垣間の直通便である。これほど大きい旅客機が石垣島に離着陸できるようになったのは、2013年に新石垣空港が完成して以降のことだ。しかし、この空港ができるまでには、大きな紆余曲折があった。

石垣島に従来あった空港は滑走路が短く、離着陸できるのは小型ジェット機に限られていた。そこで、より大きなジェット機による大量輸送・那覇を経由しない直通便の実現などを目的として1979年に、新たな空港の建設計画が立ち上がった。

当初の計画は、島東部の白保地区の海上を埋め立てるもので、地元漁民をはじめとして反対運動が起こり、次第に世界でも有数のサンゴ礁群落であることが注目され、国内外の自然保護団体の圧力などもかけられた結果、1989年に海上埋め立て計画は撤回される。その後も再度の候補地選定などで計画は遅々として進まず、最終的に現在の場所で工事が始まったのは世紀をまたいで2006年のことであった。

宇井純が東大助手を辞して沖縄大学にやって来たのは、1986年、白保海上埋め立てをめぐってこの空港問題が白熱している時期であった。宇井氏も沖大教授に就任して間もない4月に地元紙のコラムを執筆しており(沖縄タイムス1986年4月28日付「論壇 新石垣空港のアセスメント 二つの報告書に共通する意図」コレクション内F7-22 090)、沖縄に来て最初に取り組んだ新たな環境問題といえる。

写真1. 新石垣空港関連ファイル

宇井純公害問題資料コレクション中の新石垣空港関連資料群はファイルボックスにして9箱分あり、1986年から1990年にかけての、白保海上埋め立て案、カラ岳東側案の撤回までの流れの中においての住民運動やアセスメントの資料が中心である。

写真2. 宇井純の手書き資料と原稿(M4-14 010,012)

沖大に移り教授となっても、宇井純は「技術屋」であり続けたようで、県が2回実施した白保海上埋め立て工事による水質汚染のアセスメント資料を手に入れると、すぐにその海洋汚染の程度を数千分の一に見積もるような計算方法のずさんさを指摘している。

写真3. コレクション内の資料フォルダ概観

(左上からM4-1, M4-12 110, M4-23 011, M4-29 030,032)

資料群内には、そういった専門的なアセスメントの資料のほか、琉球新報・沖縄タイムスなど地方紙を中心とした新聞記事スクラップや、住民運動のミニコミ、環境保護団体のパンフレットと、様々な発信元の資料がある。これらの資料を対照しながら読むことで、マスメディアが伝えること/伝えないことや、行政と住民のギャップ、地元住民と外部からの運動のあり方の違いが見えてくる。

最終的に新石垣空港は海上を埋め立てない別の場所に建築され、その場所においても危惧種の保全や赤土流出など問題が存在しないわけではないが、結果としては最悪の状況から免れたといえるだろう。この資料群は、宇井純の足跡だけでなく、地元住民や小さな団体の抗議から始まり、徐々に国、さらに国際団体まで動かした環境保護運動としてのネットワークの広がりをうかがい知ることができる。
2015.06.30 資料紹介:校庭を守る運動から見えたもの

資料紹介:校庭を守る運動から見えたもの

2016.07.21
田﨑智菜・吉田みどり
共生社会研究センターリサーチアシスタント
立教大学大学院文学研究科史学専攻博士前期課程1年

先の資料紹介にもあった「中野区江原小学校PTA活動記録」のなかから、2点の資料について詳しく見ていきたい。

○会報「江原」

写真1:会報「江原」(S21-304 「PTAニュース//会報「江原」//「江原」改築問題(4)」)

この新聞は、江原小学校PTAが、PTAの考え方を正しく理解してもらうために発行し、江原小学校の学区域とその周辺地域の家に配布したものである。センターには、配布された全5号があり、配布年月と主要なテーマは次表の通りである。
初めに会報「江原」が発行されたのは、1971年1月。第1号は「子どもたちの教育の場を守ろう」と題された見出しから始まり、江原小学校の第二校庭に区立幼稚園の建設が持ち上がり、教職員・PTAが出した陳述書は無視されたことなど、それまでにPTAがどのような運動をして来たのかが書かれている。1971年1月に第1号が発行され、約1年ごとにその年の運動の経過を知らせるために発行されていた。

全5号を通して、興味深いのは、保護者や子どもによる作文が多く掲載されており、運動の経過を示しているだけでなく、運動や校庭に対する思いがそこに書かれている点である。また、運動を通して行政に対する不満の声を直に発信することの意味が大きいことも読み取れた。例えば、第3号には「今までは役所に無意識に従属していたが、教育の権利を守るということで、ものをいう姿勢が大切だと思う」という発言があり、保護者や地域住民たちが、ただ行政から言われたことに従うのではなく、自分たちの意見を言うことの重要さに気付き、これらの運動を展開していった様子を見ることができる点である。

会報「江原」は、活動を地域へ広める役割を持っていたことがうかがえる。またそれは、地域全体で子どもたちの学ぶ場を守ろうとする連帯感を生み出したともいうことができるのではないか。

〇『江原小PTA活動史 校庭確保と幼稚園誘致運動記録 昭和45年‐48年』

写真2:『江原小PTA活動史 校庭確保と幼稚園誘致運動記録 昭和45年‐48年』表紙

写真3:「陳情行進」の記事(S21-403『江原小PTA活動史 校庭確保と幼稚園誘致運動記録 昭和45年-48年 4-C』124-127頁)

これは、「後の世代の子どもたちに胸を張って伝えられる江原小PTAの活動を記録に残そう」という趣旨で作成された『江原小PTA活動史 校庭確保と幼稚園誘致運動記録』である。1971年のPTA総会でその作成を認められてから、12人の父母と4人の教員が作成にとりかかった。この「12人の父母」には、大河内昭子氏の名前もみられる。これらは全5冊総計570頁の原稿、資料で構成されており、ずっしりと重みを感じる。1977年3月14日の運営委員会をもってPTAとしての記録作りの活動は終了したが、その後さらに大河内氏がまとめなおし出版したものが、先の資料紹介にもある『校庭は守られた—江原小PTAの闘いの記録—』(はる書房、2006年)である。

写真4:集団示威運動許可申請書(S21-209「S46.3」)

その記録のなかでも私が関心を持った事例は、「陳情行進」(1971年3月15日)である。これは、第二校庭を守ろうというPTAの意思を区民・区長に訴えるためのもので、陳情行進を行うことが決まってからわずか5日で実施に至った。その5日間の呼びかけで、約500人が集まり、江原小学校から中野駅まで約3kmを行進した。その行進のあと、参加者は区役所に押しかけ、第二校庭の確保と幼稚園用地の買収をお願いした。この陳情行進を機に、区が話し合いの姿勢をとるようになり、運動は明るい方向に向かったとみられる。

この資料を整理しながら、今の江原小学校の子どもたちは、自分たちが使っている校庭がPTAによって守られたものだと知っているのだろうかと疑問に思った。記録に残すとはなんだろう。きっとそれは自己満足に終わるものではなく、それ以上のなにか意味があるはずである。また、今日のPTA活動からは、この事例のような行政にもの申す熱心な活動があったことはとても想像しがたい。「モンスターペアレンツ」と呼ばれるような保護者と学校が対立する構造ではなく、保護者と学校が協力して子どもの教育環境を守る事例として、教育に携わる人たちにもより周知されるべきだと考える。
誰のための教育なのか。私たちは「子どもたちのために」どれだけ一生懸命になれるだろうか。教壇に立つことを志し、教育史を研究する私たちにとって、今後も考えていきたいテーマである。

*この資料群の目録はこちらからダウンロードできます。

2015.06.25 資料紹介:中野区立江原小学校PTA運動関連資料について

資料紹介:中野区立江原小学校PTA運動関連資料について

2016.07.21
田﨑智菜・吉田みどり
共生社会研究センターリサーチアシスタント
立教大学大学院文学研究科史学専攻博士前期課程1年

今回紹介するのは、中野区立江原小学校PTAの活動記録の資料群である。これらの資料群は、当時のPTA会長大河内昭子氏の日誌と、運動のために作られたチラシや収集した雑誌と新聞記事である。
この活動は、1970年の「校庭確保問題」をはじめ、「幼稚園用地の買収」、「校舎改築」に及ぶ、江原小PTAによる子供たちの教育環境を守る運動である。東京都中野区が「校庭は空き地である」からと主張し江原小学校の校庭に区立幼稚園を建設しようとしたが、そのことに対してPTAは小学校の環境を悪化させることを懸念し、異議を唱え、請願書や署名活動を通して行政に計画の見直しを訴えた。その結果、小学校校庭への区立幼稚園設立案は見直され、幼稚園は別の敷地に建設されることになった。
またその後も、PTAは校舎改築にも関わり、子供たちのためにPTA自ら校舎改築案を提示するなど積極的な活動があったことが見られる。

本資料群は、段ボール4箱からなり、受贈時に大まかに整理がなされていたため、基本的には段ボールごとに整理した。ただし、校舎改築設計図案のみ図案であること、形状が他と異なるものであったため独立させてある。(写真1の一番下の段の横に大きい箱がそれである)当センターでは、本資料群を5つのシリーズに分け、アイテム・ファイル109点に分類・整理した。

写真1:資料群の全体像

以下に、本資料群をシリーズごとに大まかに紹介する。

シリーズ1:大河内昭子氏の日誌
校庭確保運動の開始当時である1970年11月5日から記録されており、PTAでの活動や学校との話し合いも記されている。また、日誌の中に、話し合いの際に配布された資料やメモが挟み込まれており、当センターではそれらもそのままの形で保存している。
シリーズ2:月別資料ファイル
PTAの活動に関する新聞記事や雑誌記事、配布したチラシ、PTAニュースなどが、月別のファイルとしてまとめられている。
シリーズ3:トピック的資料、PTAニュース
シリーズ2と同様に、活動に関する新聞記事や雑誌記事、配布したチラシやPTAニュースなどが、トピック別のファイルとしてまとめられている。
シリーズ4:『江原小PTA活動史 校庭確保と幼稚園誘致 運動記録 昭和45年-48年』
江原小学校のPTA活動の記録を12人の父母と4人の教員によって執筆した活動史である。全部で5冊あり、まとめて一つのボックスに入れ保存している。
シリーズ5:校舎改築図案
PTAで作成された校舎改築図案である。ちなみに、写真3の中でみられる「本文〇頁」というのは、大河内昭子『校庭は守られた—江原小PTAの闘いの記録—』(はる書房、2006年)に対応している。これもシリーズ4と同様に、一つのボックスにまとめて保存している。

写真2:大河内昭子氏による日誌

写真3:校舎改築図案

この資料を通してみられることは、一貫して「子どもたちにいい環境をつくり守っていく」というPTAの姿勢である。科学技術の進歩、情報化、国際化、少子高齢化など、教育をめぐる状況は大きく変化するとともに、様々な課題が生じている現在において、「何よりも子供のために」という姿勢は、改めて教育の原点を考えるきっかけとなるだろう。

4月にRAとして共生社会研究センターで資料整理を始め、最初に作業をしたのがこの資料群だった。初めてでわからないことも多かったが、職員の方々から助言などをいただきながら、作業を終了させることができた。資料整理を通して、特に興味深かった資料について、次の記事で紹介する。ぜひ、そちらも読んでほしい。

大河内昭子『校庭は守られた—江原小PTAの闘いの記録—』(はる書房、2006年)

2015.04.30 資料に教えられて—仙台のある書店が有した可能性—

資料に教えられて—仙台のある書店が有した可能性—

2016.07.21
上野裕也
共生社会研究センターリサーチアシスタント
立教大学大学院文学研究科史学専攻博士前期課程2年

筆者は今年3月で修士課程を修了する。この節目の機会に、研究に取り組むうえで不可欠な存在であった共生社会研究センターでの資料との出会いと、そこから得た気づきについて記したい。


筆者は卒業論文、修士論文ともに女川原発反対運動を対象として執筆をしたが、このテーマとの出会いの場は共生社会研究センターであった。学部3年であった2011年、筆者は「フィールドワーク」という授業で浜岡を訪ね、浜岡原発に関する聞き取り調査を行った。この時に抱いた原発反対運動への関心が、私の足を共生社会研究センターへと向かわせた。その時に出会った資料が、「女川原発訴支援連絡会議」発行(現在は「みやぎ脱原発・風の会」発行)の『鳴り砂』(市民活動資料コレクション・データ識別番号:70007410)であった。それ以来、仙台や女川で行われた(ている)原発反対運動を対象に研究を進めてきた。そして、修士論文の口頭試問を終えたある日、宇井純資料の中から興味深いことがらを発見した。


それは、かつて仙台にあった八重洲書房という書店の存在である。この書店は仙台駅前の八重洲ビルで1968年に創業し、仙台ビブレの地下2階への移転を経て1993年まで25年間営業を続けた。文学や哲学、美術や映画など芸術分野の専門書を扱っていたようだが、書籍だけでなく自主上映映画や演劇のチケットの販売、学生運動各派の機関誌やミニコミ類の取り扱いもしていたという。


筆者が八重洲書房に注目をしたのは、この書店において『公害原論』が取り扱われていたからである。『公害原論』とは、東京大学工学部都市工学科助手の宇井を中心として1970年10月にはじまった「自主講座公害原論」の講義録である。この講義録は通信販売以外に、全国で6つ(東京[2か所]・大阪・名古屋・神戸・仙台)の書店で販売されていた。つまり、八重洲書房は全国で6つしかない『公害原論』を実際に手に取って見ることの出来る書店だったのである。


この事実に直面した時、筆者は1970年代から1980年代の仙台の社会運動を考えるうえで、この書店は重要な位置を占めているのではないかという思いを抱いた。というのも、2014年夏に筆者は仙台の原発反対運動の中心の1人である方のご自宅に伺った際に、書棚に並ぶ『公害原論』を目にしていた。当時はその存在をほとんど気にしていなかったが、八重洲書房が『公害原論』を扱っていたことを知り、夏に見た光景が浮かんできた。同時に、修士論文執筆以後も残る課題(①仙台の原発反対運動の形成過程、②仙台の原発反対運動の展開を当時の状況に即して捉える、③1960年代、1970年代の他の運動との関係性)を明らかにするうえで、この書店の存在は論点の1つとなり得るのではないかと感じた。


八重洲書房は、仙台において東京や様々な地域で問題に取り組む人びとについての情報を入手する場となっていたのではないだろうか。「自主講座公害原論」では、第1学期(1970年10月?1971年3月)の講座を担当した宇井や、第2学期(1971年4月?同年9月)の宮本憲一、小林純などの専門家だけでなく、富士市市民協議会会長の甲田寿彦(第2学期)や三里塚・芝山空港反対同盟委員会の戸村一作(第4学期〔1972年4月?同年10月〕)など、各地の運動の当事者も登壇している。八重洲書房の店頭に並ぶ『公害原論』などの書籍を通して各地の運動の情報は伝わり、仙台の運動の形態や論理の形成などに影響を与えていたのではないだろうか。このように考えてみると、1980年代前半の仙台で原発反対運動を行っていた「反原発仙台の会」が自主講座の呼びかけた署名運動に参加していることも、大きな意味を持っているのかもしれない。

また、先日仙台を訪れた際に伺った以下の話からも仙台の運動における八重洲書房の機能の一部をかいま見ることが出来る。
1986年4月のチェルノブイリ原発事故後に原発反対運動に関わったU氏は、仙台に戻った1980年代前半から八重洲書房へ足を運んでいたという。スリーマイル島原発事故以降、原発に対する問題意識を抱いていたU氏は、八重洲書房で出会った『技術と人間』に掲載されていた中島哲演の記事を見て影響を受けた(中島と同様にU氏も仏教者である)という。チェルノブイリ原発事故以前にU氏の問題意識が原発反対運動へとつながることはなかったが、U氏が同事故まで問題意識を継続した背景に八重洲書房の存在があったのではないだろうか。しばしば「ニューウェーブ」として指摘されるチェルノブイリ原発事故後の運動の下地を、仙台においては八重洲書房が形成していた面があるのかもしれない。


この記事では様々な可能性を提示しただけになってしまったが、いずれ仙台の社会運動における八重洲書房の役割を明らかに出来ればと思う。
今回の話だけでなく、共生社会研究センターでは研究の重要なポイントとなる出会いに恵まれた。先ほど取り上げた仙台の原発反対運動の方との出会いも、共生社会研究センターに現在も『鳴り砂』が送られていたために可能となった。


センターの移転に伴い、これまで公開されていなかった資料の公開も行われる。共生社会研究センターがこれまで以上に多くの人びとと所蔵資料の出会いの場になることを祈念している。
2015.04.23 資料紹介:宇井純公害問題資料セレクション・公害記事スクラップより

資料紹介:宇井純公害問題資料セレクション・公害記事スクラップより

2016.07.21
柿沼拓弥
共生社会研究センターリサーチアシスタント
立教大学大学院社会学研究科社会学専攻博士前期課程2年

当センターに収蔵されている宇井純コレクションには、新聞記事のスクラップも含まれている。これらの多くはそれぞれの新聞のアーカイブや縮刷版に収められているが、あるトピックで複数紙にわたってまとまって保存されるスクラップは、特定の情報を得る際において非常に有用な資料であるといえる。

その200冊以上あるスクラップブック群の一つに、カドミウム公害に関連する記事スクラップがある。これらのスクラップブックには、1969年12月から1972年9月にかけての4年弱の間の記事がまとめられている。

写真1. カドミウム公害に関する記事スクラップブック

スクラップされた記事には、全国紙のほか、地方紙や業界紙のものも見られる。下写真右のカドミウムメッキ廃止の決議を報じた表面処理工業新聞などの記事がある点は、技術屋といつも自称していた宇井氏らしさがうかがえる。

写真2. スクラップブック内



この時期は、四大公害の一つであり、カドミウムという言葉を世間に周知させるきっかけにもなった富山県のイタイイタイ病の被害者たちが原因企業である三井金属を相手取った損害賠償請求訴訟が結審し、またその経過に伴い日本各地の多くのカドミウム公害・カドミウム汚染が明るみとなった頃である。

スクラップされた記事は、富山県イタイイタイ病の公害訴訟や群馬県の東邦亜鉛安中精錬所での公害問題に関する記事が主である。しかし、今回注目したいのは、それらの有名な事例の他に、日本の各地で発生していたカドミウム公害に関する記事である。下図は、各新聞記事によって取り上げられたカドミウム公害の発生場所の分布を示している。

図. スクラップブック記事中のカドミウム汚染・公害発生地



この4年間弱の期間に限っても、新聞記事として取り上げられているものだけでこれほどの数のカドミウム公害が指摘されていたことに驚いた。カドミウム公害について知らない人はいないだろうが、日本全国にここまで広がっていたことは、想像だにしていない人が多いのではないか。もちろん、このスクラップブックも完璧なものではないし、新聞記事に取り上げられなかった汚染も数多く存在していたはずである。問題として取り沙汰されたものだけでこれだけあるのだから怖ろしい。

今日、わたしたちは環境教育として公害、というもの自体は学んでいて、四大公害の起こった場所を挙げることもできるだろう。けれどもそれだけではなく、自分たちの地域にもカドミウム汚染に限らず様々な公害源があったということ、教科書に載っているような公害の悲惨な状況は決して他人事ではなかったということを理解している人がはたしてどれだけ居るであろうか。宇井コレクションの中のこのスクラップブックは、日本における公害の広がりとその脅威を、改めて認識させられる資料である。
2014.09.23 資料紹介:林立する会と林さん

資料紹介:林立する会と林さん

2014.10.21
松元賢次郎
共生社会研究センターリサーチアシスタント
立教大学大学院文学研究科史学専攻博士前期課程2年

〇新たな資料
この4月にベ平連資料のデータ入力が終わった。私が関わったのは最後の1年間だった。多くの方々が時間と労力を掛け整理した上に、私がやってきておいしいところを持って行った形だ。


一つの資料群の整理が終わると、次の資料群が「早く整理してくれ」と待ち構えている。これが共生社会研究センターである。待っていたのは林茂夫氏旧蔵の資料群。林茂夫、及びその資料の全体像に関しては、ブログ記事「林茂夫氏旧蔵・戦後平和運動関連資料について」を見てもらいたい。
この記事で取り上げるのは、林氏の資料の中でも、池子(逗子市)の米軍住宅問題に関する資料である。この資料整理作業は難しく、またそこがおもしろくもあった。

〇1986年市長解職

逗子をよくする会 R07-04-1045

自然と子供を守る会 R07-04-1045

池子問題を正しく伝える会 R07-04-1045

逗子市政の流れを変える市民の会 R07-04-1045

これらは、1986年3月に行われた、逗子市の富野市長解職に関する住民投票の際の新聞折り込みビラである。これらのビラはそれぞれ発行団体が異なり、それぞれの立場から住民投票の呼び掛けを行っている。発行団体は「逗子をよくする会」「自然と子供を守る会」「池子問題を正しく伝える会」「逗子市政の流れを変える市民の会」。

〇池子の米軍住宅問題とは
少し池子の米軍住宅問題について説明する。この地は、戦時中日本海軍が使用していたが、戦後、米軍によって接収。1978年に米軍人・日本人従業員が引き揚げ、返還が期待された。しかし、1983年7月、防衛施設庁が逗子市、県に対して「池子は米軍住宅建設の(候補地として)適地」と通告する。
当時の市長は、条件付きでの承認をすることを決めるが、これに対し「池子米軍住宅建設に反対して自然と子供を守る会(守る会)」が市長解職のための署名運動を展開。その後、市長選にて富野氏(守る会)が当選し市長となった。
この選挙時から逗子の状況は複雑であった。米軍住宅反対を掲げる新市長(富野)派の「守る会」、米軍住宅条件付き容認の旧市長派の「クリーン逗子友の会」。これに加え、米軍住宅に反対するも富野氏の実効性について疑問視する「逗子考える市民の会」が存在していた。
この「逗子考える市民の会」の篠田健三氏が林氏に資料を送っていた。「逗子考える市民の会」から見れば、富野氏の実効性への疑問は、当選後もさらに大きくなっていったようだ。

〇たくさんの会
上記のもの以外にも本資料群からは、「緑と子供を守る市民の会」(新市長派)、「みんなの土地をとりもどす会」(富野市長に懐疑的)、「正しい市政を考える会」(旧市長派)、「池子問題を正しく伝える会」(旧市長派)、「池子の狐を退治する会」(富野市長に懐疑的、おそらく以下同様)、「考える女たちの会」、「連帯する人々の会」、「キツネ研究会」、「池子川改修阻止期成同盟会」、「逗子市民と連帯する会」、「手帳の会」等、様々な団体名を見つけることができる。
主張が、受け入れ容認・受け入れ反対に加えて、反対派に懐疑的な眼差しを向ける団体の三つに分かれる。そして、とにかく団体の名称に“会”が多い。もちろんビラそのものを読んでいけば、それぞれの主張は明快である。しかし、名称のみでは主張が読み取りづらい。その上、たくさんの“会”がある。結果として、どの会がどういう主張をしていると判断しづらい。
資料整理する上では、こうした判断の難しさに加えて、何故こんなに“会”がたくさんあるのか、という面白味もあった。ではこの状況を林氏はどう見たのか。

〇資料と旧蔵者の関係性
平和・軍事問題の専門家である林氏と、逗子の米軍住宅問題はどのような関わりがあったのか。林氏と逗子の関わりについては、資料群からはあまり読み取れない。ただ、唯一分かることとして、林氏は1984年に、非軍事的に見える米軍住宅が基地の長期安定使用につながると、講演していたようだ。
無防備地帯を提唱した林氏は、無防備のための条件を保障するには日常的に地域の非軍事化をすること、そのためには運動や住民の協力が必要だと述べていた。では、林氏は“会”が林立したこの地域に、難しさに加えて、何を見出したのか。

本ブログをもって、林茂夫資料群の整理作業は終了する。そして、順番待ちをしている次の資料群に取り掛かる。

吉川勇一氏旧蔵「べ平連」資料のリストはこちらから

「林茂夫氏旧蔵・戦後平和運動関連資料について」

2014.09.16 資料紹介:林茂夫氏旧蔵・戦後平和運動関連資料について

資料紹介:林茂夫氏旧蔵・戦後平和運動関連資料について

2014.09.18
遠藤啓之
共生社会研究センターリサーチアシスタント
立教大学大学院文学研究科史学専攻博士前期課程2年

今回紹介する資料は、軍事評論家として戦後平和運動に関わっていた林茂夫氏が収集した、林茂夫旧蔵・戦後平和運動関連資料である。本資料群は林氏が収集した資料群の一部で、2004年に林氏が死去したのち、当時埼玉大学教授であった三輪隆氏によって引き取られた。そして2014年に三輪氏の埼玉大学退官にあたってその一部が当センターに寄贈され、現在に至っている。

林茂夫氏(1927~2004)は、京都大学在学中の1951年に綜合原爆展に関わったことを契機に、さまざまな運動に関わっていった。初めて軍事問題にかかわったのは朝鮮戦争で、その後自衛隊や基地問題など軍事関連の問題について研究し軍事評論家として活動していく。活動の契機となったのが綜合原爆展であることからもわかるように、林氏の関心・視座は平和追求への意欲に立脚しており、軍事問題の専門家としての活動もその関心に基づいたものであった(氏は軍事評論家という肩書を好んではいなかったそうである)。そうした林氏のスタンスを示すのが無防備地域運動であろう。無防備地域運動とは、武器や軍隊などを放棄することによって地域の非戦ゾーン化を目指したものである。現在のところ条例として制定されているところは存在しないものの、東京・大阪・沖縄などを中心とした市区町村で条例化を目指した署名運動が行われており、林氏の遺した運動の広がりをみることができよう。

本資料群には主に自衛隊問題・住民運動関連・反原発運動関連の資料を中心として、1960年から2000年にかけて発行されたビラやミニコミ類、裁判資料などがおさめられている。当センターでは本資料群を9つのボックスに分け、アイテム・ファイル143点に分類・整理した。

[写真1] 林資料群全体像

[写真2] 主要資料(Box.1,5,6,8,9 資料No.1007,1055,1074,1131,1137)

以下、本資料群についての大まかな分類を示す。

[1] 山口自衛官合祀拒否訴訟関連資料(Box.1,2,3)
殉職した自衛官の山口県護国神社合祀をめぐって、その妻が信教の自由に対する侵害であるとして社団法人隊友会山口県支部連合会などを提訴した事件。裁判の準備書面や公判記録などがおさめられている。
[2] 逗子・池子住民運動関連資料(Box.4,5)
逗子市池子の米軍住宅建設の是非をめぐって、賛成派と反対派が逗子市を二分して対立した問題。市長や市議会に対するリコール合戦や乱立した団体による活発な住民運動が行われた。「市民会議ニュース」をはじめとして多数のミニコミやビラがおさめられている。
[3] 北富士演習場問題関連資料(Box.6,7)
江戸時代以来の入会慣習を理由に、地元住民が北富士演習場の解消と補償を国に求めた問題。県知事に対する質問状やビラなどがおさめられている。
[4] 相模補給廠監視団・横浜米軍機墜落事故訴訟関連資料(Box.8)
相模補給廠監視団が発行するミニコミ「監視団ニュース」などの相模補給廠関連の資料および、横浜米軍機墜落事件関連の資料が中心。ミニコミ「米軍機墜落事故訴訟原告団ニュース」はほぼ全号おさめられている。
[写真3] 米軍機墜落事故訴訟原告団ニュース(Box.8 資料No.1131)
[5] 長野反原発運動関連資料他(Box.9)
反原発運動関連資料が中心。ミニコミ「山国の反原発だより」のほか、1980年代から1990年代にかけての反原発運動関係のビラ等がおさめられている。
[写真3] 米軍機墜落事故訴訟原告団ニュース(Box.8 資料No.1131)
本資料群におさめられたアイテムは、必ずしも林氏が専門とした軍事問題に密接に結び付いた内容ばかりではない。しかしその広範な幅の資料からは、上述のような林氏の平和追求への意欲に基づいた活動の一端をうかがい知ることができる。林氏による本資料収集の経緯は必ずしも明らかではないが、本資料群の中には林氏宛ての運動当事者からの手紙などが残されており、それぞれの運動の当事者と林氏との間の何らかの交流の中で収集がなされていったものであると考えられる。
なお、2006年には『無防備地域運動の源流 林茂夫が残したもの』(池田眞規他編、日本評論社)と題された林氏の遺稿集・追悼論集が出版されている。合わせてこちらも参照されると良いだろう。

『無防備地域運動の源流 林茂夫が残したもの』

2014.04.25 資料紹介:1つのイラストとの再会

資料紹介:1つのイラストとの再会

2014.04.25
上野裕也
共生社会研究センターリサーチアシスタント
立教大学大学院文学研究科史学専攻博士前期課程2年

宇井純資料の整理業務についてから4月25日ではや一年。今回は、この一年間の業務の中で出会った資料のうち印象深いものについて紹介する。

まず、印象深い資料として「自主講座」関係の資料が挙げられる。いくつか例を出すと、1970年に宇井氏を中心に開始された「自主講座公害原論」の講義録『公害原論』や、自主講座運動で発行された『自主講座通信』、『KOGAI NEWSLETTER』、『自主講座』(78年以降、『土の声民の声』と改称)など様々なミニコミが挙げられる。
今挙げたものは、1970年10月12日東京大学工学部82番教室での「自主講座公害原論」からはじまった「自主講座運動」で生まれたミニコミのほんの一部である。他にも多数のミニコミがあり、「自主講座運動」のエネルギーの大きさを感じさせる資料といえる。しかし、こうした魅力的な「自主講座運動」の資料以上に、印象深かった資料がある。それは、1981年3月6日の「反核・反原発・反海洋投棄、太平洋住民連帯静岡集会」において配布されたと思われる『太平洋を核のゴミ捨て場にするな!』という資料である。
この資料は宇井氏の手で「メモ、雑 1981」と記されているファイルの中にあった。その名のとおり、宇井氏の専門である下水道関係から、原子力発電所、フリーマーケット、果てには箱根のレジャーマップまで「どうしてこの資料とあの資料が同じファイルにあるのか?」という疑問を抱かずにはいられないファイルである。そのような種々の資料たちのちょうど真ん中くらいに入っていたのが『太平洋を核のゴミ捨て場にするな!』である。


早速資料をめくってみよう。2枚目にはパラオの「非核太平洋人民憲章」が紹介され、3枚目に当時日本政府が進めていた放射性廃棄物の海洋投棄についての新聞記事など、4枚目の表面には浜岡原子力発電所3号炉建設の公開ヒアリング阻止の呼びかけがある。これらは同時期の『反原発新聞』等でも見られる内容でもあり、この時期の反原発運動で取り上げられることが多かった話題といえよう。実は、私の興味を強くかきたてたのは4枚目の裏面に掲載されていた一つのイラストだった。
「なぜ、このイラストにそんなに興味を持つのだ?」そう思われる方が多いだろう。実は、私はこのイラストを見るのは初めてではなかったのである。このイラストと出会う9か月ほど前、学部4年生だった私はセンターに利用者として訪れ、ある地域の資料を大量にコピーし家に持ち帰った。卒業論文を書くためであった。その時持ち帰った資料の一つに載っていたのが以下のイラストである。
これは、女川原子力発電所をめぐり東北電力に対し民事訴訟を起こした原告団を支援するために結成された女川原発訴訟支援連絡会議(以後、訴支連)が発行していた(2001年以降みやぎ脱原発・風の会により発行継続)『鳴り砂』号外(1983年11月27日発行)に載っているイラストで、中央の牛の顔が印象的だったため記憶に残っていた。

静岡で1981年3月に配られた資料のイラストと仙台(訴支連の活動は主に仙台で行われたため、この資料も仙台での配布が中心と思われる)で1983年11月に配られた『鳴り砂』のイラストは同じものだったのである。おそらく両者ともオリジナルではなく、どこか別の本や資料からこのイラストを用いた可能性が高い。そして、残念ながらこのイラストが誰によって書かれたものなのか、両地域の人びとがこのイラストをどこで見つけたのかは今のところ不明である。
これら2つの資料により私の頭の中には、当時の人びとのつながり(ネットワーク)についての関心が生じた。人と人(グループとグループ)がどのようにつながり、どういった交流を持ち、そこから何が産み出されたのか。こういった視点の重要性をこの2つの資料は語っている。たとえば、同時期の各地の反原発運動には高木仁三郎や市川定夫などの科学者も関わっていた。女川や浜岡などで行われたムラサキツユクサの観察は、こうしたつながりを示す一例だろう。また、『鳴り砂』の別の号では、女川と同じく東北電力の原発建設計画が出ていた巻町(現新潟市)での運動に参加したことの報告がされている。このように各地の運動や科学者は互いに情報の交換や、交流、支援を通して自らの運動を組み立てていったのである。
宇井純資料の中には、今回紹介した資料だけでなく、国内・国外を問わず多くの人と宇井氏が交流していたことを示す書簡などの資料もある。宇井氏の長期に渡る精力的な活動もそうした人とのつながりに支えられていたのかもしれない。
資料との出会いはこうした新たな関心や視点をもたらす。共生社会研究センターに来る時、そんな偶然の出会いへの期待で私の胸は高鳴っている。
2013.11.28 資料紹介:お菓子なミニコミ

資料紹介:お菓子なミニコミ

2013.12.03
松元賢次郎
共生社会研究センターリサーチアシスタント
立教大学大学院文学研究科史学専攻博士前期課程1年

「フェスティバロの『ラブリー』が良いよ。」
9月、鹿児島に行った際、お土産は何が良いかと尋ねると、九州勤務の友人はそう言った。「フェスティバロの『ラブリー』」と呪文のように唱えながら、鹿児島空港へ向かうとお土産売り場にデーンとフェスティバロのコーナーが構えていた。どうやらフェスティバロは社名で「ラブリー」は唐芋(さつまいも)のケーキであるらしい。知人の顔を思い浮かべながら、人数分の「ラブリー」を購入した。「ラブリー」は食べると、しっとりとした食感とともに口の中に上品な唐芋の味が広がる。
資料紹介なのに商品紹介をしているではないか、と思われるかもしれない。本題はここからである。
フェスティバロの本店は鹿児島県の大隅半島にある。この大隅半島では、1971年に鹿児島県により開発計画が発表されるも、住民の反対運動によって、翌年廃案になる。その4年後の1976年、再び鹿児島県から『新大隅開発計画(案)』(通称二次案)が出されていた。これは石油コンビナートを主とした総合開発計画であった。この開発計画が農漁業や地場産業を破壊すると考えた住民達は、再び反対運動を行うのであった。

この運動と関連して、本センターには「志布志湾公害を防ぐ会」の発行する『志布志湾』や「自主講座志布志グループ」の『大隅半島』がある。「地域自立をすすめ巨大開発を闇に葬る会」の『青空の下でビフテキを食うために—真大隅振興計画(一次案)』は、鹿児島県の出した『新大隅開発計画』に対する住民の提案である。『新大隅開発計画(案)』の問題点を指摘しながら、巨大開発に頼らず大隅地域を振興させるために、風土を生かした農漁業の展開とその加工・流通について提案されている。この計画の理論的裏付けのために『生命復権の計画』が、翌年に出版されるのであった。本センターには自治体側の『新大隅開発計画』や『志布志湾地域開発計画調査報告書(Ⅱ)』なども所蔵されている。
この反対運動と関連して、本センターには『大隅の雨』という1976年に書かれた小説がある。発刊のあいさつによれば『新大隅開発計画』が出される中で「苦悩する住民の群像をえがいたものです。今日の志布志湾をめぐる住民運動の姿を理解して頂く素材になれば、と発行いたしました。」とある。実在する人物が実名で出てくるそうだが、発言に関してはフィクションであると記されている。

この小説は『新大隅開発計画』(二次案)が発表される直前に大隅のとある通信部に転勤した新聞記者が主人公である。二次案に関して県が各市町に要請をして、各首長が諮問機関である協議会を開く。住民の意見をまとめるためであったが、次々と「全面賛成」が決まり、残るは一つの町だけであった。

野心家な主人公は、この町の反対運動が盛り上がることを望み反対派を焚きつける。反対運動が盛り上げれば大きな記事を書く機会が増える。そうすることで博多にある西部本社に引き上げられることを望んでいた。主人公、西部本社の同僚、反対派、前知事派等など、様々な人びとの思惑が錯綜しながら、物語は協議会当日を迎えるのである・・・

このストーリーにも引き込まれるものがあるが、注目したいのはそこではない。記者である主人公が出会う反対派の人びとの生活である。取材に行くとキノコ狩りに行って留守にしている者、養鰻場を営む者、関西から大隅にUターンして地元の食材を使って食べ物屋を営む者など、大隅の人びとが自然に根ざした生活をしている様子がうかがえる。また主人公が立ち寄った林について、1ページ半をかけての描写がある。他のシーンでも自然描写にページを割いているように思う。登場人物の「結局、ここの強みは、自然しかないっていうことですよね」という言葉もあり、大隅の自然に対する筆者の思いが感じられる。

ところで、この小説の筆者は郷原茂樹という人物である。小説を書いた4年後の1980年に、彼は大隅半島でカフェを始める。このカフェはすぐ後に唐芋料理を提供するレストランになる。このカフェはフェスティバロという名前であった。そうなのだ、この小説の筆者である郷原はフェスティバロの社長であった。

郷原はレストランであるフェスティバロを拠点として、「大隅半島カルチャーロビー」というサークルを作る。このサークルでは月例会としてまずディナーを食べるそうだ。もちろん地元でとれた唐芋などの農作物を使ったディナーだ。その後、地元で活躍する様々な人を講師とした「手作り市民大学」を行っていた。小説の出版や映画会などの文化活動も行う。本センターにはカルチャーロビーが3周年を記念して発行した『青空のハーモニー 出版イベント記録集』『大隅半島カルチャーロビー 地域文化運動の記録集』も所蔵されている。後者によれば、こうした地元に根ざしたサークル活動の背景は、外国産の農作物が入ってくる中で「故郷の価値を見直して、それを創造的に活用」しなくては農業の再生はあり得ない、という郷原の思いがあった。

今回、たまたま鹿児島に行き、たまたま本センターのお土産として「ラブリー」を購入してきたところ、「そういえばここの社長は・・・」という話になった。全国の公害反対運動資料が集まる「宇井純公害問題資料コレクション」だからこそ大隅の資料もあり、旅行先での出来事がミニコミと関連した。旅行を含め生活とミニコミが思いがけない場面でつながっているようだ。他の旅行先での出来事も、何らか本センターのミニコミがつながっているかもしれない。残念ながら私には、旅行の予定は当面ないので年末年始に九州勤務の友人が東京にやって来るのを楽しみにしている。「ラブリー」を手土産に。
2013.09.26 資料紹介:ベ平連資料の中の「地域」

資料紹介:ベ平連資料の中の「地域」

2014.03.19
共生社会研究センターリサーチ・アシスタント
(立教大学大学院文学研究科博士前期課程2年) 小山荘太郎

先日、かつて或る大学で共に日本近現代史を学んでいた札幌市の知人と電話で話していた時のこと。たしか尾瀬沼の自然保護運動で知られる平野長靖氏が北海道の新聞社に勤務していた経験があるという話がきっかけだっただろうか、資料整理で尾瀬長蔵小屋の『いわつばめ通信』や沖縄本島の石油備蓄基地反対運動に関する資料を読んだという話をすると、私が「ベ平連資料」の資料整理を担当していることを知っていた知人は、幾分怪訝そうに「ベ平連資料」に沖縄や尾瀬の資料も含まれているのか、と問いかけてきた。

確かに同じ共生社会研究センターの資料群の中でも、宇井純氏の公害問題等に関する個人資料である「宇井純公害問題資料コレクション」や、旧住民図書館が収集した国内各団体の機関誌等を母体とした「市民活動資料コレクション」に比べると、「ベ平連資料」はベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)のベトナム戦争に対する反戦運動の資料が中心であるから、地域に関する資料を含んでいるという印象は抱かれにくいのかもしれない。今回は「ベ平連資料」の資料整理の中で接した、地域史に関わるいくつかの資料について紹介することとしたい。

ベ平連資料は吉川勇一氏(元ベ平連事務局長)がベ平連解散後自宅に保存された資料を当時の埼玉大学経済学部動態資料センター(現在の埼玉大学共生社会教育研究センター)に寄贈されたものであり、ベ平連資料で地域について知ることの出来る資料として、まずは各地域・各大学等で活動していた地域ベ平連の資料が挙げられる。吉川氏らによるウェブサイト「旧『ベ平連』運動の情報ページ」の調査によれば、約390のベ平連が結成されたとされるけれども、ベ平連資料ではそのうち約70の団体について「青森ベ平連」「旭川ベ平連」から「横須賀ベ平連」「米子ベ平連」等々まで、機関誌やビラ等の収められた独立したフォルダが五十音順に配列されて残されている。

それら各地域ベ平連の資料に加えて、ベ平連資料にはベ平連と交流のあった関連団体の資料や、吉川氏自身が関わったベ平連以外の運動などの資料(例えば「日本はこれでいいのか市民連合」の資料等)も残されており、これらも資料群の中で重要な位置を占めている。そういった性質の資料として、前述の沖縄と尾瀬に関する資料はベ平連資料の「沖縄CTS問題を考える会」と「尾瀬沼 長蔵小屋」という2つのフォルダに隣り合って(五十音順の偶然と言えばそれまでかもしれないけれども)残されている。
沖縄CTS問題を考える会は沖縄本島金武湾での石油備蓄基地建設反対運動を支援した東京の団体で、その機関誌『木麻黄』は安易な紹介を許さないような、日本復帰後の沖縄を問う重い内容を含んでいる。一方尾瀬の山小屋である長蔵小屋の発行した『いわつばめ通信』には、尾瀬沼周辺の開発計画に対する反対運動の関連記事が掲載されている。両者のうち『いわつばめ通信』は、「ベ平連資料」に比べて「市民活動資料」により多くの号が残されている。それに対し『木麻黄』は、宇井氏が会の代表世話人の一人であることから「宇井資料」にでも揃って残されているのではないかと思っていたところ、実は「市民活動資料」に多くの号が残されており、そこで欠号となっていた『木麻黄』の第20号については「ベ平連資料」によって補完出来るということが判明したのだった。「ベ平連資料」に残された資料が、「市民活動資料」と補完関係にあることを示す一例と言えるだろう。

市民活動資料コレクションの『木麻黄』、20号が抜けている。

べ平連資料『沖縄CTS問題を考える会』フォルダ。

「神奈川防災を考える会」の機関誌『どすん』も、やはり「べ平連資料」と「市民活動資料」とにまたがって一部の号が所蔵されており(前者に第2・3号、後者には第1・2・5・8-11・17号)、ベトナム反戦運動以後の1970年代後半から1980年代にかけての地域の市民運動の様子が分かる資料となっている。「神奈川防災を考える会」は相模補給廠監視団、ヨコスカ市民グループ等の神奈川県内の市民運動・反戦運動の団体等を加盟団体とし、各地での反戦運動と同時に官製の防災訓練、防災体制への批判を合わせて行っていた。防災に関しては、例えば『どすん』に県内の核燃料使用施設の一覧が掲載され(現在廃炉に向けた作業が進行中の、横須賀市の立教大学原子力研究所原子炉も挙げられている)、核燃料管理に関する問題が提起されると同時に、各地での運動の動きが紹介され、例えばヨコスカ市民グループが宇井氏を招いた講演会を開催していたことなども掲載されている(なお反戦運動と防災とに関わった団体の資料としては、ベ平連資料に「市川防災を考える会」と、「自衛官と連帯し習志野の自衛隊を解体する会」〔自習解〕の資料も残されている)。

他に「樺太抑留帰還韓国人会に協力する妻の会」の機関誌『妻』や、『三多摩市民新聞』なども、「ベ平連資料」と「市民活動資料」の双方に別個の号が保存されている資料となっており、また名古屋市の「公害を告発する3人委員会」の『公害告発の声』や「国立の町づくりを考える会」の『町づくり通信』のように、「市民活動資料」には含まれていない地域の運動に関する資料のフォルダも存在している。

ベ平連資料の棚から資料の収められたいくつかのフォルダを取り出し、それらを読みながらパソコンにフォルダ一つ一つに関するデータを入力し、終了後にまた棚に戻すという作業を1年以上にわたって重ねていると、個々の資料を読むことの「面白さ」もあって、時折この資料群の置かれた環境や資料群自体を自明なものであるかのように捉える感覚に陥ってしまうこともある。けれども、今回紹介した機関誌等が保存されているのは本来発行されたうちの一部であることが示しているように、現在これだけの資料が保存・整理されて整然と配架されているのは、寄贈者の吉川氏など多くの方々の努力によってであるということは言うまでもない。本来存在したであろう資料が必ずしも残されていないと同時に、ベ平連運動の資料を網羅的に収集するという作業に徹したならば残されなかったであろう地域の様々な運動の資料も保存されていることからは、資料が残されていることの重みを改めて感じさせられる。
2013.07.23 資料紹介:宇井純東大ビラスクラップについて

資料紹介:宇井純東大ビラスクラップについて

2013.07.23
船津かおり
共生社会研究センターリサーチアシスタント
立教大学大学院文学研究科史学専攻博士前期課程2年
今回紹介するのは、スクラップブック13冊。1961年7月から1965年1月までに、東京大学内で宇井純さんが自ら収集したと思われるビラ・ミニコミが、ここには収納されている。
見ためはかなり年季の入ったスクラップブックだが、ビラは一枚ずつ丁寧にのりで貼られ、紙の折れや破れは少ない。作成から50年は経過していると思われるが(少なくともビラが配布されたのは1960年代前半期)、閲覧にもさほど気を使わずに済む。当時はでんぷん糊を使用していたからか、糊の使用による急激な劣化はみつからない。ビラ収集者、スクラップ作成者はともに宇井さんだと思われるが、正確なことはわかっていない。しわは丁寧に伸ばされ、印刷が両面にわたる場合にはどちらも読めるようにと、糊付けには配慮がなされている。一冊に収納されるビラの数はまちまちだが、スクラップブック13冊分すべて合わせたビラとミニコミの合計は、なんと956点であった。

千件近いビラの一点ごとのデータは、埼玉大学時代の蓄積としてすでに存在していた。そこで、このデータをエクセルに流し込み、一覧にしたものを作った。以下の内容はそこからの推測を元にしている。
1961年のビラ群では、東京大学中央委員会、東京大学学生自治会中央委員会、日本共産党東大学生細胞、文学部学友会などの発行元が目立つ。各学部の自治会発行のものもある。ミニコミでは、『生協ニュース』(東京大学生活協同組合)、『工職ニュース』(東京大学工学部教職員組合)、『緑会ニュース』(法学部緑会委員会)がみられる。
時期ごとに、学内で取り上げられている問題も推移している。1961年では、政暴法(政治的暴力防止法案)反対、全学連・都学連再建の呼びかけ、日韓会談への反対が主たるキーワードのようである。それが1962年になると、大管法(大学管理法)に関する内容が多くなる。
ここで感じたのは、1962年になるとビラの署名にある団体が、前年と比べて多様化していることである。それは、大学管理法が浮上した結果、大学の自治という問題が学内の広範な人々によってとらえられたゆえの動きと考えられるのではないだろうか。つまり、自らの身近な所属の中で、運動・行動を起こそうという人々が生まれていったことが、ビラに表れているのかもしれない。大管法を取り上げており、かつ1962年になって初めて現れる署名の例としては、「理学部集会準備会」「東京大学印度哲学大学院一同、東京大学印度哲学学部有志」「生物化学科三年一同」というものが挙げられる。
実はこのスクラップブックのおもしろさは、内容以外のところにもある。それはどこか? スクラップブックを手に取って、数ページめくってみれば一目瞭然。雨で濡れた跡、自転車のタイヤ跡、靴跡などが、ビラのところどころに残っているからだ。もちろんきれいなものが大半で、それらは直接手渡しされたものなのだろうと想像がつく。しかし、泥だらけのものもけして少なくないのである。もしかすると、宇井さんはビラの収集に際して、落ちているビラさえも構わず収集していたのではないだろうか。雨が降った後の水たまりに落ちて濡れたものでも、ばらまかれた結果人に踏まれたビラであっても、宇井さんの収集の手は止まらなかったのかもしれない。このように、スクラップブックは収集当時の状況も如実に物語る。このような発見は、史料を直接手に取ることで初めてわかる、ある種のぜい沢といえるのではないだろうか。

宇井純資料の整理に入り約三か月。約7万点といわれるこの資料群からは、資料整理の面でも内容面でも、底知れなさをつよく感じている。資料整理の日々は、宇井純さんという一人の人間の活動によってこれだけの史料が収集されたことを改めて思いかえし、その行動力に驚く日々でもある。

エクセルに流し込み、一覧にしたもの

AtoM

2016.07.21 Access to "Access to Memory (AtoM)"@共生社会研究センター (3) たかが言葉、されど言葉

Access to "Access to Memory (AtoM)"@共生社会研究センター (3) たかが言葉、されど言葉

2016.07.21
立教大学共生社会研究センター アーキビスト 平野 泉

アーカイブズのふつうの仕事を、週4日勤務の2名で切り盛りしながらAtoMと格闘するブログの第3回目です。なかなか日々の試行錯誤のあれこれをリアルタイムでお伝えするところまでいかないな....と焦っていたら、そうこうするうちになんと、AtoMの新ヴァージョン、AtoM2.3がリリースされました!

そもそも、共生研でAtoMを入れてみたときにはすでに2.3へのヴァージョンアップが近い、ということはわかっていました。「それなら最初から新しいものを入れたほうがいいのか?」と思ったりもしたのですが、橋本陽がノウハウを蓄積してきた2.2でいろいろ試し、旧ヴァージョンに一定量の多彩なデータを載せておいて、ヴァージョンアップにまつわるもろもろがうまくいくかどうかも試してみよう、ということになりました。というわけで、じつによいタイミングで新しいヴァージョンが出た、と思うことにして、本日は、第2回の最後で触れたとおり、翻訳の問題について書いてみたいと思います。

1. そもそも、何を翻訳するのか?

第1回でも書きましたが、AtoMは国際機関であるICAの肝いりで開発されたこともあり、最初から多言語対応です。現在共生研で動かしているAtoMでも、ユーザーインターフェースから英語、フランス語、スペイン語、オランダ語、ポルトガル語、日本語に切り替えることができます。

こうしたプラットフォームの「翻訳」には、当然のことながら2つの異なるレベルの課題があります。

管理者も含めたユーザーが、AtoMを操作する際に表示されるメッセージの翻訳
AtoMを通して共有したい「コンテンツ」、つまりアーカイブズ記述の翻訳
2. の「コンテンツ」については、当然ながら誰かがオリジナルの言語から他の言語に翻訳して、それをAtoMにアップしない限り、いくらAtoM上の言語設定を切り替えてもオリジナルの言語で表示されるだけです。この部分は、個々の館やアーキビストの取り組み次第ということですね。

AtoMでは、1.についてもユーザーインターフェースから翻訳を入力していくこともできますから、個々人でちょこちょこと取り組んでいくことももちろん可能です。しかし、A館はがんばったのですてきな日本語でAtoMが使え、B館はちょっと変なままガマンして使っている、というのでは、せっかくのA館の努力がもったいないですよね。ですから、どこかで誰かがきちんと翻訳したものをまとめて開発者に渡し、ヴァージョンアップの時などにしっかり組み込んでもらうことができればベスト、ということになります。

じつは、現在の2.2で使われている日本語訳には、学習院大学大学院人文科学研究科アーカイブズ学専攻の修士課程の学生が修士論文でAtoMに取り組んだときに、当時の仲間で翻訳したものの一部が残存しているようなのです。そのとき用いられたAtoMはリリース後間もないヴァージョンで、入澤寿美教授が翻訳を要するメッセージを取り出してエクセルにまとめてくださったものを、7-8人で分担して訳したのです。かくいう私も、100列分くらい訳した記憶があります。

しかし、この翻訳作業にはちょっとした落とし穴がありました。翻訳した人のほとんどは、AtoMを使ったことがなく、ユーザーインターフェース上で、そのメッセージがどこにどのように表示されるのかが全くわかっていなかったのです。そのため現在のヴァージョンには、かなり謎めいた日本語があります。

例えば、インストールしてすぐの時点で用意されているデフォルトの画面の一つのトップに、「ついて」と一言、堂々と表示されています。ご覧いただくとお分かりになると思いますが、
これは「about」の訳で、要するに「このサイトは何についてのものか」という「about」なのです。ところが翻訳した際にはそういうコンテクストが見えず、たんに「about」を訳すしかないので、「ついて」と直訳され、それが現在のヴァージョンに反映されたままになっている....というような、笑い話のようで笑えない話がいくつかあるのです。そして、こうした小さな点だけではなく、アーカイブズに関するかなり重要な用語にも、「?」な訳がいくつもありました。しかし、それらについては、上記のA館対応で、つまり「まあとりあえず手元でちょこちょこ手直ししていこうか」と思っていたのでした。

2. AtoMの翻訳プロジェクトに参加してみる

ところが、「ようやくインストールしたと思ったらもうヴァージョンアップされるのか~」と、本心ではタメイキをついていたときに、橋本が「そういえば翻訳プロジェクトが同時進行していたような...」ということを思い出したのです。

すわ、とAtoMサイトに行ってみると、確かにTransifexという企業のサービスを使って、世界中から誰でも参加できる形で、AtoMユーザーインターフェースの各国語への翻訳が行われていることがわかりました。

Transifex AtoMチームのページ
「これだ!」と思ったその日は.....なぜかAtoMの翻訳チームに入れてもらうためのアカウントの取得すらうまくいかず、がっくりと頭をたれて帰宅。翌日試してみたところアカウントは取れていて、しかも前夜困り果てて「どうしていいかわかりません...」と半泣きでチームのコーディネーターに送ったメールにも、「Izumi!翻訳プロジェクトに関心を持ってくれてありがとう~!」と(いうニュアンスで読めてしまうような)明るくフレンドリーなお返事がカナダから届いていて、こちらも明るい気分を取り戻しました。

さっそくTransifexに入ってみると、もう一人、どなたかわかりませんが、バリバリと日本語への翻訳をされている方がいたので、その方がまだ翻訳されていないところを狙って橋本と訳語を入力していきました。すでに入力されている訳語に「問題があると思うが、自分が正しいという確信もないときはどうしたらいいか?」とコーディネーターに質問したところ、「コメントを残すという方法もあるのだけれど、思い切って自分がいいと思う訳を入力されることを、個人的にはお勧めします。それがダメだと思う人が出てきたら、その人がまた訂正すればいいんですから」というお返事。思わず「う~ん」とうなってしまいました。日本で仕事をしていると、最初からかなりの水準で、いいものを出さないとダメ...と思ってしまいがちです。確かにそういうことが求められる個人や機関もあるのですが、それはともかく、AtoMのようなプロジェクトは、みんなでどんどんやって、バンバン意見を言い合って、それで少しずつでもよくしていこう!という精神で動いているのだということがよくわかりました。

さてさて、結局のところ、スタッフ2名は日々の仕事に追われ、あれよあれよという間に翻訳プロジェクトは締め切られてしまいました。というわけで、2.3でどれほど私たちの翻訳作業が反映されているかは、ヴァージョンアップしてからのお楽しみ(不安)ということになります。コーディネーターによると、「次のヴァージョンアップのための作業はすぐに始まるし、そうしたら翻訳プロジェクトもすぐスタートします。またそのときはよろしく。」とのことでした。

「我こそは」と思う方はぜひ、次のAtoM翻訳プロジェクトに参加してみてください。みんなで力をあわせて、AtoM日本語版をより自然な、わかりやすい日本語にしましょう!

AtoMに、翻訳に、その他なんでも、ご興味のある方はお気軽にkyousei@rikkyo.ac.jpまで。ご連絡お待ちしております。

AtoM2.3

Transifex

2016.07.15 Access to "Access to Memory (AtoM)"@共生社会研究センター(2) AtoMのインストールについて

Access to "Access to Memory (AtoM)"@共生社会研究センター(2) AtoMのインストールについて

2016.07.21
立教大学共生社会研究センター アーキビスト 橋本陽

第1回で触れたように、ITを専門としないアーキビストが書く検索システム導入実況の第二回目は、AtoMのインストールをテーマとして取り上げます。その具体的な方法は、AtoMウェブサイトのDocumentationにあるAdministration Manual以下Installationの項目に記載されています。私たちは、このページを参照しつつ、入澤寿美・学習院大学計算機センター教授の指導と立教大学メディアセンターの支援を受けながら、AtoMのインストールを試みました。今回は、この試行錯誤についてお伝えいたします。

OSはUbuntu
AtoMは、Ubuntu(ウブントゥ)というLinuxベースのOSでの利用が推奨されています。Ubuntuも無料のオープンソースです。AtoMは他のLinuxベースのOS(Cent OSなど)や、Windows、MacのOSでも走りますが、環境設定に関する技術的な知識が必要になるほか、一部の機能が使えなかったりするようです。また、AtoMの開発者が推奨していることもあって、Ubuntuへのインストールについては説明がかなり充実しています。以上の理由から、私たちは、ほとんど迷うことなくUbuntuの利用を決めました。

しかし、ここで一つの問題に直面しました。共生社会研究センター(共生研)で使用しているマシン、つまりパソコンはすべてWindowsです。この環境下で、どうやってUbuntuを使えばいいのか?—答えは思ったより簡単でした。立教大学メディアセンターに相談したところ、仮想マシンを使えばいいのだと教えていただき、あっさりと解決しました。つまり、共生研に割り当てられたサーバースペース内で、VMware vSphere(以下、vSphere)という仮想マシンを利用できるように準備していただき、その仮想マシンにUbuntuをインストールすれば、センターのマシンからでもvSphereにアクセスしUbuntuを起動できるのです。Windowsの入っているマシンでもvSphere Clientという仮想マシンへとつながる入口をつくるソフトウェアをインストールすれば、そこを通してvSphereにアクセスできます。私たちは、入澤教授の指導のもと、最新版(2016年6月現在)であるAtoM 2.2を利用するのに推奨されるUbuntu14.04の64ビット版をインストールしました。

これで、vSphereによってUbuntuが起動できるようになったので、普段の業務はWindowsマシンで処理しながら、必要なときには他のアプリケーションと同じ要領でvSpere Clientのアイコンをクリックして開き、仮想マシンに接続しUbuntuを操作できるようになりました。

ちなみに、VMwareは有料ですが、Virtual Boxという無料の仮想マシンもダウンロードできます。私たちは、手元にあったノートパソコンでこの仮想マシンもテストしました。Virtual Boxについては、日本語で解説されたウェブサイトも豊富で、例えば「Virtual Box Ubuntu」のグーグル検索でヒットしたページを参照することで、それほどの苦労もなくUbuntuをインストールできました。お手持ちのPCでテストされる際にはお薦めです。

vSphere上で起動させたUbuntu
1.AtoMをインストール
Ubuntuを起動できるようになったので、次に本丸であるAtoMのインストールに取り組みました。私たちIT初心者が最初に面食らったのは、CLI(コマンドラインインターフェース)、つまりドラマや映画で見るようなプログラマーがスクリプトを打ち込んでいる黒い画面を通して、色々なアプリケーションのインストールや環境設定を行わなければならなかったことです。しかし、AtoMウェブサイトのDocumentation以下Installationの項目に並ぶLinuxのページに記載されるUbuntuへのインストールの説明文はかなり詳細で、CLIに入力する命令文も示されていますので、そこに書かれている通りに命令文やファイルの記述を黒い画面に入力していけば、比較的すんなりとAtoMをインストールできます。二年ほど前は、そこまで丁寧な説明もなく、命令文にも一部誤りがあって非常に手を焼いたことを思い返すと非常に感慨深いです。もちろん、Documentationに提示されるように、ある程度のITの知識が前提とされる作業ですので、プログラムに詳しい方のサポートを得られれば、それに越したことはありません。

共生研のAtoM(現在テスト中ですのでアクセスはできません)
もし、AtoMのインストールを試みて、何かしら問題に直面された際には、微力ながら私たちもお手伝いできればと考えております。ご遠慮なくkyousei@rikkyo.ac.jpまでご連絡をいただきますようお願いいたします。

今回までは前座でいよいよ次回から、AtoMのもつ機能を検討していく予定でしたが、その前にAtoMの日本語訳に私たちは気を取られてしまいました。AtoMは多言語対応ですが、現在登録されている日本語は、不自然なものが目立ちますし、何より量が不足しています。開発者はTransifexというウェブベースの翻訳のプラットホームに、AtoM翻訳用のページを設けており、大きなバージョンアップごとに翻訳を更新しています。私たちは、ちょうどAtoM2.3のリリースが間近に迫った時期にインストールに取り組んだので、このときに日本語訳の修正と追加もしてしまおうと焦り、Transifex上での翻訳作業に少しかまけてしまいました。

何を言いたいかと言えば、次回も前座は続きまして、多言語対応と日本語訳についてお話しできればと考えております。AtoMの内容については、今しばらくお待ちください。

Documentation

Ubuntu14.04

Virtual Box

Linux

Transifex

2016.07.01 Access to "Access to Memory (AtoM)"@共生社会研究センター (1) はじめに

Access to "Access to Memory (AtoM)"@共生社会研究センター (1) はじめに

2016.07.01
立教大学共生社会研究センター アーキビスト 平野 泉


1. AtoMを試してみよう!

立教大学共生社会研究センターでは、埼玉大学時代から引き継いだ複数のデータベースや、2010年の設立後に導入したDSpaceなどが同時に稼働しています。全所蔵資料を一望でき、横断検索できるシステムの導入は、開設以来の希望でしたが、実現できないままになっていました。しかし、いよいよその課題に取り組めそうな雰囲気になってきました。アーカイブズの国際機関、International Council on Archives(ICA)のプロジェクトにより開発され、現在カナダのArtefactual Systems Inc.に受け継がれているオープンソースでフリーのアプリケーション、Access to Memory(AtoM)について、本格導入の可能性を含めて、いろいろと試してみることになったのです。そして、せっかくお試しするのだから、その間の試行錯誤についてもこのブログに記録していこうと思います。センタースタッフ2名は、いずれもITの専門家ではありませんが、AtoMについてもう少し知りたい、できれば自分でも試してみたいとお考えの方に、少しでもお役に立てば幸いです。


2. なぜAtoMなのか?

まずは、なぜAtoMなのか?という点から書いておこうと思います。考えてみると、理由はいろいろあるのですが、主なものを挙げるとしたら次の4点でしょうか。

(1)AtoMは、ICAが1980年代末から検討を始め、90年代から次々に公表・改訂してきた、アーカイブズ記述に関する4つの国際標準の全てを表現できるアプリケーションであること。

4つの国際標準:

1.アーカイブズ記述に関するGeneral International Standard Archival Description : ISAD(G)、第2版(1999年)
2.典拠レコードに関するInternational Standard Archival Authority Record (Corporate bodies, Persons, Families): ISAAR(CPF)、第2版(2003年)
3.アーカイブズ所蔵機関に関する International Standard for Describing Institutions with Archival Holdings: ISDIAH(2008年)
4.機能に関する International Standard for Describing Functions: ISDF (2007年)

現在、ICAのアーカイブズ記述専門部会が、これらの記述標準に関する概念モデルの構築という課題に取り組んでおり、その成果は2016年9月にソウルで開催される2016年度のICA大会で公表される予定です。そうした成果も、今後、AtoMの更新作業の中で生かされていくのではないかと期待しています。

(2)国際的な環境で開発されたという経緯もあり、多言語に対応していること。

ユーザーが利用する画面に表示される様々な項目やメッセージも、記述内容も、複数言語に翻訳し、ユーザーの希望に応じて表示することが可能です。センターには国際的な運動の資料もたくさんあるので、世界に向けてセンター資料の存在をアピールすることも(その分がんばって翻訳はしなければならないのですが)かんたんにできることになります。

(3)オープンソースでフリーであること。

導入コストがかからないのは大きな魅力ですが、その反面、センタースタッフだけでシステムを維持していけるのか、という不安があるのも正直なところです。しかし「オープンソース」の文化—開かれたプロセス、自由な利用と成果の共有、そしてコミュニティでの活発な議論と相互協力—は、センター所蔵資料から見えてくる、運動する人々の文化と通じ合うものがあります。オープンなコミュニティに参加して、たくさんの人に助けられながら、デジタル時代のアーカイブズとしての課題に前向きに取り組んでいく。そのための一つのプラットフォームとして、AtoMは最適に思えました。

(4)特別な手間をかけなくても、複数機関で所蔵資料に関する情報を共有するポータルサイトとして使えること。


市民活動の資料を所蔵している機関の多くは、資金や人材不足に苦しんでいます。資料の目録はがんばってつくった、でも検索のためのデータベースをウェブサイトで公開するところまでは手が回らない、というところも多いのではないでしょうか。しかし、AtoMを使えば、機関を超えた検索も容易に実現できます。情報の形式さえ共通のものにすれば、あとはデータを載せるだけです。また、「少数のボランティアでなんとか回していて、目録をつくるのさえ難しい」というような場合でも、機関の基本情報や、コレクションの全体の記述だけでもAtoMにアップして、横断検索でヒットするようにすれば、多くの人が資料にたどりつけるようになります。センターのAtoMをそうしたポータルサイトにできるかどうかはわからない、でも「やろう!」と思ったらできる—それもAtoMを選んだ理由の一つです。

3. なぜ、今なのか?

とはいえ、センターは常勤スタッフ2名の小さなアーカイブズですから、AtoMを「試してみたい...」から「試してみよう!」に転換できたのは、様々な方のご支援・ご指導により、そのための条件が整ったからでした。

最も大きかったのは、スタッフ2名がともに、学習院大学大学院アーカイブズ学専攻の安藤正人教授を研究代表者とする『国際コンソーシアムによる「原爆放射線被害デジタルアーカイブズ」の構築に関する研究』 (2013-2017年、基盤研究(A)、研究課題/領域番号 25244028 )に参加させていただいたことでした。同科研の主たる課題の一つが、米国科学アカデミーが所蔵する原爆傷害調査委員会(ABCC)の膨大な記録をデジタル化した画像14万点を含む、原爆や核がもたらした被害に関する多様な情報をどうアーカイブするかという点にあり、その課題に取り組む中で、AtoMが検討の対象となったのです。研究分担者である入澤寿美・学習院大学計算機センター教授のご指導のもと、センタースタッフの橋本陽を含むプロジェクトチームが、AtoMのインストール、メタデータの処理、ヴァージョンアップへの対応、膨大な画像の管理、PDFへの変換、AtoMへのアップ、データの修正、翻訳など様々な作業を実施してきました。その中で蓄積された経験と知見があったからこそ、今回センターでもAtoMの導入を前向きに検討することができたのです。この場を借りて、安藤教授、入澤教授にお礼を申し上げます。

また、AtoMはウェブベースのシステムですので、サーバーがなければ何もできません。この点については、立教大学メディアセンターのご協力をいただきました。仮想マシン上でAtoMを稼働させることを快くお許しいただき、初期導入にあたってもサポートしていただいたことに、心から感謝しております。

それでは、次回からはいよいよ具体的な導入にあたっての試行錯誤を、橋本陽と二人で書いていこうと思います。ご意見、ご助言などはぜひkyousei@rikkyo.ac.jpまでお寄せください。お待ちしております。

DSpace

International Council on Archives(ICA)

Access to Memory(AtoM)

General International Standard Archival Description

International Standard Archival Authority Record (Corporate bodies, Persons, Families)

International Standard for Describing Institutions with Archival Holdings

International Standard for Describing Functions

アーカイブズ記述専門部会

ICA大会

『国際コンソーシアムによる「原爆放射線被害デジタルアーカイブズ」の構築に関する研究』

原爆傷害調査委員会(ABCC)の膨大な記録