チャプレンからの今週の言葉チャペル

2024.7.15

神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。
(創世記 1章31節)
立教大学チャプレン 浪花 朋久

 楽しい時間は、私たちの日常生活の疲れや煩いを吹き飛ばしてくれるとても大切なものです。その時間が保たれるのは、今が平和である証拠でもあります。夏休み中の8月はバカンスを楽しむシーズンという印象が強いですが、8月6日の広島原爆記念日、9日の長崎原爆記念日、そして15日の終戦記念日を忘れてはなりません。同じように、私たちの楽しい時間の陰にガザ紛争やロシアのウクライナ侵攻、そして能登半島地震などによって苦しんでいる人が存在していることも忘れてはなりません。そのきっかけとなるのが、先ほどの述べた日付だと思います。
 2006年11月、広島市でノーベル平和賞受賞者であるチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世、北アイルランドの平和運動家ベティ・ウィリアムズ、立教の母体である聖公会の主教でアパルトヘイト撤廃運動を指導したデズモンド・ツツ大主教の3名を被爆地「ヒロシマ」に招聘した「広島国際平和会議」が開かれました。この会議に合わせて広島地域の仏教・キリスト教・神道・イスラム教などの各宗派が集まり、原爆の犠牲者を覚えると共に核なき世界を願う「平和の祈り」が献げられました。この式典でメッセージを語ったツツ大主教は「(何らかの事情で罪のない我が子を亡くし茫然自失している)肌の黄色い日本人のお母さんの涙と、(北アイルランド紛争で敵の銃弾の犠牲となり愛する子を亡くした)肌の白いお母さんの涙と、(南アフリカで蔓延するエイズや貧困により子どもを亡くし嘆き悲しむ)肌の黒いお母さんの涙は違うのでしょうか。肌の違いによって子を失った悲しみの度合いが異なるのでしょうか。神が創造された同じ人間の、同じ悲しみの涙ではありませんか。それは人間の罪に対する神の悲しみの涙なのです。」と訴えました。
 冒頭の聖書箇所は、「天地創造物語」や「アダムとイブの物語」と呼ばれる旧約聖書の中でも有名なお話の一節です。神様がこの世界を創造された世界は「極めて良かった」のであり、その世界を人間が管理することになりました。しかし今の世界は、皆さんにとって本当に「極めて良い」ですか?一見、身近に争いがないように感じても、日常生活の疲れや煩いを吹き飛ばすための時間が必要なほど、この世界は疲れ切っています。私たちにとって、「真の平和」とはどの様な平和なのでしょうか?ただ一つ分かることは、ツツ大主教のメッセージにあるように、苦しみによって涙を流す世界は平和ではありません。第2次世界大戦という悲劇の後、日本は戦争などの争いに直接巻き込まれていないので「平和」なのかもしれませんが、争いではない苦しみによって奪われる命や時間がある世界に求められるのもまた「平和」なのです。
 もうすぐ夏休みです。この間、皆さんが「真の平和」について考える時間を作ってくださることをお祈りしています。

2024年7月15日
2024.7.8

だが、ダビデはその神、主によって力を奮い起こした。
(サムエル記上 30章6節/新共同訳聖書)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「力を奮い起こす」

 6月下旬、本学校友が会長を務める、能登 和倉温泉の老舗旅館 加賀屋様はじめ和倉温泉観光協会様などのご協力によって、立教大学ボランティアセンター内に『立教チームでつなぐ「能登半島地震」被災地支援ボランティア・プロジェクト』が設置され、去る7月1日から3日まで、6名の学生が参加して、プロジェクト第1次の活動が行われました。今回は加賀屋グループ「あえの風」で1月1日の地震発生当時のままの客室から寝具やアメニティといった備品、家具調度などを運び出す作業が主な活動となりました。本プロジェクトは「立教チームでつなぐ」とあるように、参加学生を一チームとして、継続的に現地に送るところに、その特徴があります。次回は8月中旬以降に第2次を実施できればと考えています。

 都合で一日しか滞在できませんでしたが、今回、実際現地に赴き、この先の復旧・復興に携わる方々とお会いする中で、ダビデのことを想起しました。祖国を失い、信頼を失い、家族を失い、自分の仲間から命を狙われ、ダビデは、まさに人生の絶望の「底」を歩む中で、「だが、ダビデはその神、主によって力を奮い起こした」と聖書は記します。未だ、わたしの想いは整理されてはなく、けれど、何か書いておく必要を想い、纏まらないまま、これを書いているのですが、絶望の中で力を奮い起こす・・・・・ どうしてそんなことが起こるのか、理由も判らなければ、説明もできません。しかし、ここがダビデにとっての人生の転換点であったことを聖書は証明します。絶望の中で新しい何かが始まる・・・・・

 絶望の中で力を奮い起こす・・・・・ これから先わたしたちは、能登の人びとが奮い起こす、その「力」にどうつながっていけるのか・・・・・ その「力」にどう人をつなげていくのか・・・・・ 能登の地に立ちながら、真剣に向き合い考えてみようと思っています。

ご一緒にお祈りください

能登半島地震のための祈り
いつくしみ深い神よ、1月1日の能登半島地震により、世を去った人びとを、あなたのみ手のうちに抱(いだ)いてください。愛する者を失い、悲しむ人びとに、あなたの慰めといやしがありますように。いまこの地震の被害を受け、生きることの困難さに直面している人びとと共に祈ります。住まいを失った人、生活に必要なものを得られない状況にある人、病やけがを負った人、心身の不調を感じている人、弱い立場に置かれている人を、主が守り支えてくださいますように。救援のために働いている人を力づけ、必要な支えが届けられますように。わたしたちが心を合わせ、隣人としてのあゆみを起こしていくことができますように。これらの祈りを、悩み苦しむ者の助け主(ぬし)、いのちの糧(かて)である、み子イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。アーメン

2024年7月8日
2024.7.1

主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。
主は私を緑の野に伏させ 憩いの汀に伴われる。
(詩編 23編1~2節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 聖書にはたびたび神と人間の関係を表す表現として、羊飼いと羊が登場します。
 羊は集団で生活し、臆病な生き物で、羊飼いが群れを導くことによって、牧草地や水場を求めて旅をしていく。特に聖書の時代のパレスチナは乾燥地帯なので、正しい導きがなければ、餌や水のあるところにたどり着くことができません。羊飼いの存在は重要であり、その羊飼いのことを羊たちは信頼してついていく、それが神と人との関係だと聖書は伝えます。
 働いている幼稚園の子どもたちが、「偉い人」について話し合っている場面に立ち会いました。口々に「はかせ!」、「しゃちょう!」、「えんちょうせんせい!」など頭に浮かぶ「偉い人」を出し合っています。ある子が「遊んでくれるお友だち!」と言い、続けて「だって、いつも一緒だから」と言いました。彼女の目には、いつも一緒にいてくれる存在こそが尊いものであると映っているようです。
 一緒にいてくれることが尊い。損得や、利己的な満足でなく、信頼できる存在が自分と共にあると信じられる生き方は、なんと力強く、温かいのだろうかと思わされました。私たちは独りで生きているのではなく、群れの中にいます。自分以外の誰かを羨んだり、他の人たちと同じようにできないことで不安を抱えたりもします。だけど、いつも一緒にいてくれる存在が、私たちにはあります。その「羊飼い」は損得でなく、自分の利益のためでもなく、あなたという存在を大事に想いながら、あなたと共にいます。その存在が私たちの毎日を、支え導き、見守っているのです。

2024年7月1日
2024.6.24

知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。
(フィリピの信徒への手紙 1章9~10節/新共同訳聖書)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

—PRO DEO ET PATRIA—

 チャペル会館の前にはタッカーホールが位置し、正面にはタッカー総理の銅像があります。立教には創立者ウィリアムズ主教とこのタッカー総理の2つの銅像があります。ウィリアムズ主教像は全体像ですので、少し見上げなければなりませんが、タッカー像はしっかりとこちらを見つめております。今も入学式、卒業式等に利用されているタッカーホールは、卒業生にとり思い出深いホールであり、ウィリアムズ、マキムの名は覚えていなくても、タッカーは以外に建物の名称で知られているところです。
 ヘンリー・セント・ジョージ・タッカー(Henry St. George Tucker)は、ウィリアムズ主教と同じヴァージニア神学校出身です。マキム主教の要請に応えて1899年25歳の若さで来日し、アーサー・ロイドの後任として、1903年に立教学院総理となります。1907年には、築地の中学校構内に専門学校令による立教大学を設立します。その後、狭い校地では将来性がないとみて大学の校地移転を考え、東西に奔走し、築地から移転する土地を探します。それが今日の池袋キャンパスでした。用地購入のための資金調達に尽力し、池袋キャンパス計画が決定した頃、1911年、京都地方部の主教に選出されたため立教学院を去ることになります。そしてその計画の実行は後任のライフスナイダーに託されますが、池袋に土地を求め、今日の立教大学の基礎を築きあげたのがタッカー総理でした。

 現在のタッカーホールは、今から70年前の1954年に建設されています。その費用の原資は米国聖公会の10万ドルの寄附にあります。立教大学拡張には大学院の設置は緊急の課題でありましたし、講堂の建設も戦前からの懸案事項でした。戦前の計画ではマキム記念講堂を計画していましたが、1951年に日本聖公会北関東教区にマキム主教記念聖堂が建設されていたこと、また築地から池袋移転への貢献、さらには米国聖公会での総裁主教を務めたタッカー主教の知名度の点から、当然のごとく「タッカー」の名が冠せられました。

 ところで当時の米国聖公会にとり、立教への期待は、量としての大学の拡張よりは、質的な向上、すなわちキリスト教教育の推進にありました。この期待に応えるかのように、クリスチャンセンターの設置の構想を打ち出し、それがチャペル会館として誕生しました。1954年12月には、立教学院創立80周年記念式典が盛大に催され、タッカーホールとチャペル会館の落成式も行われた経緯があります。当時の学生数は4千7百人程度との報告があります。そしてタッカーホールの定礎石には、PRO DEO ET PATRIA  MAY 5, 1954 とあります。立教学院に連なるすべての人々が、立教の建学の精神を表すこの標語を再認識しつつ歩む、この150周年でありたいのです。

2024年6月24日
2024.6.17

「力は若者の誉れ、白髪は老人の輝き。」
(箴言 20章29節)
立教大学チャプレン 浪花 朋久

 「ソフト老害」という言葉を耳にします。この言葉は、放送作家の鈴木おさむ氏がX(旧Twitter)で名付けた新語です。主に20代後半から40代の若い世代が、職場などで老害と化していることを意味しているのですが、鈴木氏は著書の中でも、自分がソフト老害になっていたことに気づいたと記しています。年配者からルールに定められていないことで指摘される、「その気持ち分かるよ」と的外れな共感をされる、すぐにコロナ前のことを語られるなど、ソフト老害の例は様々であり、これらが若い芽を潰しているようです。若者は年配者に「常にアップデートして欲しい」と、年配者は若者に「良かれと思ってやっているから分かって欲しい」と、それぞれが思うのですが、このような若者と年配者とのやり取りは昔から変わらないように感じます。何故このようなやり取りはなくならないのでしょうか?
 冒頭の言葉は旧約聖書・箴言の言葉です。第20章では、当時の社会的秩序を維持するための教訓が記されていますが、ご紹介した箇所は日常生活の中で価値あるものとして挙げられているものの一つです。この言葉は、若者の力と年配者の苦労は、それぞれ生活の中で必要であると私たちに語っています。確かに常にアップデートしなければ時勢に乗れませんし、その時勢に乗りに乗っている若者に共感することもできません。一方で若者も年齢を重ねるごとにアップデートを忘れ、同じ考えを繰り返してしまえば、それはソフト老害になっていくのです。つまり今日の若者は、簡単に明日の老人になってしまう可能性があるのです。「若い」のが良いのではありません。肝心なのは、普段からアップデートするのにどれだけ力を注げるかなのです。
 時勢が激しく変わる現代において、皆さんもついて行くことに必死だと思いますし、アップデートできないソフト老害にうんざりし、年を取ることに恐れを抱くこともあるでしょうが、年を取ることは美しいことなのです。白髪になっても美しい人でいられるように、常にアップデートしながら、日々を歩んでまいりましょう。

2024年6月17日
2024.6.10

「父親は僕たちに言った。『急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」
(ルカによる福音書 15章22~24節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「そうだ、神のところに帰ろう」

 小さい頃、ボールを触らない日がないほど野球が好きで、時間があればグローブとバットをもってよく出掛けました。仲間が居ないときは、近所の歯医者さんの駐車場で、一人でボールを壁に投げて練習しました。ある日、いつものようにボールを壁に向かって投げていたら、ボールが急に弾んで、歯医者さんのガラスを割ってしまいました。「やべっ、どうしよう」・・・・・ 慌てたわたしは、一目散に家に逃げ帰りました。でも、家に戻ったもののずっと気持ちが重く落ち着かず、ガラスを割ったことを親に告げました。そして、謝るために親と一緒に歯医者さんに行きました。怒られると想っていたのに、なんと歯医者さんはニコニコしながら、「よく正直に謝りに戻って来たね!」と言ってくれました。謝ることが当たり前なのに。逃げちゃダメなのに。でも歯医者さんは謝りに戻って来たことを褒めてくれた・・・・・・ なんだか不思議な気持ちでした。

 それから何十年も経ってから、教会という場所で、「戻って来る」ことを喜ぶ神に出会いました。なんでも、神は何度でもやり直そうとする人の想いをちゃんと受け止めてくれる方なのだと。自分の間違えを見つめることは、とても苦しくて逃げ出したくなることです。でも、逃げたままではもっと苦しいままです。謝りに戻ること・・・・・ それはもっと苦しいことかもしれない・・・・・ 多くの人は赦してくれないかもしれない・・・・・ けれど、戻ってきたことを喜んでくれる神が、必ず、その想いを受け止めてくれることを信じてみる・・・・・ 少し気持ちが軽くなります。

 そうだ、神のところに帰ろう!・・・・・ 戻って来たことを喜んでもらえると、「ごめんなさい」との言葉が、自然と口からこぼれるものです。赦されることと謝ること・・・・・ 人は赦されると不思議と素直になれる・・・・・ そうやって、人は過ちを抜け出て、前に進んでいくのだと思います。帰っても良い場所があること・・・・・ 戻ることを待っている人が居てくれること・・・・・ そうだ、神のところに帰ろう!神に赦されて、自分にもっと素直で正直になって、その先にまた一歩前に進めたら、もっと見晴らしの良い場所に出られるような気がしてきます。

2024年6月10日
2024.6.3

どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。
(フィリピの信徒への手紙 4章6節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 少し前、働いている教会でかかわりのある子どもが不安そうな顔をしていました。気になったので、「なにか心配でもあるの?」と尋ねると、お父さんの体調が悪く、お仕事を休んでいるとのこと。お父さんはいつも明るく優しくて、家族のために会社で働いてくれるし、家族のみんながお父さんのことを大好きなのだそうです。だけど、お父さんが体調を崩してから、お母さんはいつも心配そうだし、お父さんの元気で明るい声が家に響かなくなり、なんとなく家族全体の元気がなくなってしまったようです。その子は改めてお父さんの存在の大きさを想いつつ、心配で仕方がない胸の内を、そして「お父さんが苦しくないようにいてほしい」との願いを語ってくれました。その後、一緒にお父さんの快復を想い、祈りました。
 彼女も本当は、お父さんが元通り元気になることを望んでいただろうし、家族全体が明るくいられることを願っていたに違いありません。そうしたら自分ももっと元気にいられるのにと思ったでしょう。だけど彼女が口にしたのは、元通りになること、自分のことではなくて、「お父さんが苦しくないようにいてほしい」と、今の父親を想う心からの「祈り」でした。
 その後、お父さんは快復し、また元気に働けるようになったとの報告を受け、私は安堵しました。彼女にも曇りのない笑顔が戻りました。その快復を喜びつつも、私には苦しんでいる「父の今」を想う彼女の祈りが、深く心に残りました。
 人が人を心から想う。そのようにして私たちの今日が想われている、そして私たちも大切にしたい人を想える。その幸いを教えてもらった出来事でした。

2024年6月3日
2024.5.27

五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。
(使徒言行録 2章1~4節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

 先日の5月19日は、教会暦では聖霊降臨日(ペンテコステ)という祝日でした。復活日(イースター)、降誕日(クリスマス)を含め、教会の三大祝日とも言われます。立教学院諸聖徒礼拝堂(チャペル)では、復活日、降誕日と同様、この日を覚えて礼拝がささげられました。

 聖霊は、イエスの目に見えない働きです。聖霊は、私たちと共におり、私たちが主イエスの「証人」として今を生きるよう促します。ときには「激しい風が吹いて来るような音」の中に、「静かにささやく声」として語りかけられます。
 神は、悩みながらもひたすら祈り求めていた弟子たちに「今も生きて働く神の力」を与えました。彼らは聖霊に満たされたのです。さまざまな国から来ている人々も、言葉を越えて、心が通い合いました。一致が生まれていきます。目標めざして前進が生み出されます。たとえ多くの困難が想定されてもわたしたちには「助け主、弁護者」がいるのだという確信が、迫害のなかにあっても教会を存続させてきたのです。
 
 最後に『こどもさんびか』の「ふしぎなかぜが」という曲を紹介します。聖霊降臨日の教会学校でよく歌われており、子どもたちも大好きな歌です。なんとなくワクワクします。

 ふしぎな風が ぴゅとふけば
 なんだかゆうきがわいてくる
 イエスさまの おまもりが きっとあるよ
 それが聖霊のはたらきです
 主イエスのめぐみは あの風とともに  (こどもさんびか94番)

神様は私たちに「聖霊」という不思議な風を送ってくださいます。神からの不思議な風を受けて、今週も歩んでいきたいのです。

2024年5月27日
2024.5.20

彼らは神の手も、神が苦しめる者から贖ってくださった日も、思い出すことはなかった。
(詩編 78編42節)
立教大学チャプレン 浪花 朋久

 少し先の未来が想像しやすくなった今日、私たちは様々なものを準備できるようになりました。しかし、その一方で受け入れがたい予想もたくさん出てきています。特に挙げられるのが、健康の予測です。偏った栄養の食事を続けたり、よく噛まずに飲み込んだりすることを習慣にしていると、近い将来、必ず病気になります。こう聞いても「苦しいのは死ぬ瞬間だけだ」とか「そんなことを気にしていると楽しめない」と考えてしまう方もいらっしゃるでしょう。「こう考える皆さん、一度、今の生活を続けた自分の健康状態を予想してみてください!」と言いたいところですが、想像するにしても、想像するための情報が必要です。私たちは自分に不都合な情報を避けがちです。ネット上では興味がある情報を簡単に得ることはできますが、不都合な事実からは離れやすい傾向があります。現代は近い将来を簡単に予測できる反面、そこから目を背けやすい社会になっているのも否めないのかもしれません。しかし転ばぬ先の杖は、あるに越したことはないのです。
 冒頭の旧約聖書・詩編の言葉は、神様の救いによってエジプトでの奴隷状態から解放されたイスラエル人たちが、神様からの救いを忘れたことを嘆いた言葉です。イスラエル人たちは神様に進むべき道を示されたのにもかかわらず、目先の幸せだけを求めました。その結果、他の部族に攻撃されたり、食料に苦しんだりする生活を送ることもありました。彼らはその度に神様に立ち帰り、再び神様に救われるのですが、それに慣れてしまうと、また目先の幸せに走るという負の連鎖を続けました。神様から何度も示される道は予想できる道となります。しかし人間は、不都合な将来の不安を無視し、刹那的な喜びに身を投じ、そして最後に後悔するのです。わざわざ苦しい人生を送って後悔するよりも、予測できる困難を回避できる人生の方が遥かに良いと思うのは私だけでしょうか?
 将来のことを考える時、ある程度の予測をしてみましょう。そこには目を背けたくなるような現実がたくさんありますが、それら一つ一つを受け入れることで、それが必要だと理解できるようになります。動画を見て過ごす時間を5分短くして、その5分を未来予測の時間にすることで皆さんの人生は大きく変わります。予測しやすい社会だからこそ、未来は変えられるのです。転ばぬ先の杖は目の前にあります。その杖を手に取れるように、刹那的な喜びの5分を未来予想の時間に変えてみましょう。

2024年5月20日
2024.5.13

「子どもたちを私のところに来させなさい。」
(マルコによる福音書 10章14節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「立教にとって児童の存在は」

 立教学院創立150周年の記念事業として、立教小学校の新校舎建設工事が始まりました。建設期間中、児童たちは、西武池袋線「椎名町駅」からほど近い、旧真和中学校に一時移転して学びの時を過ごします。新校舎の竣工は2027年4月が予定されています。

 その工事に伴って、この4月から、登下校時、立教通りを行き交う立小生たちの姿が消えました。立教の小中高大生が入り交じって、立教道りをキャッキャッ騒ぎながら、ときに道幅いっぱいに、ときに他の通行なさる方の迷惑になりながらも歩いて往く様は、立教の一貫連携教育の一つの象徴であるかのようにわたしの目に映っていました。その意味で、立小生たちの姿が立教通りにないのは、少し寂しい気もしますが、3年後、真新しい校舎に向かって歩く、立小生たちを想像しながら、その日を待ちたいと想います。そして、工事期間中は工事関係者の方々の安全を日々祈りたいと想います。

 立教の一貫連携教育は、真理を探求すること、そして、他者と共に生きることを、その基調としています。イエスは、「子どもたちを私のところに来させなさい」と語り、続けて「神の国はこのような者たちのものである」と教えました。子どもたちが決して、教えられる対象ではなく、ときに大人の師になることをイエスは諭します。立教も、自らをして、「神の愛に倣う、愛のある人」で在り続ける、不断の努力を怠らず、ここに学ぶすべての者を教える対象としてではなく、共に、愛のある人になって往くための、その真理を探求する旅の〈同伴者〉であると理解します。そうした、わたしたちの歩みに児童の存在は不可欠なのです。児童から愛を学ぶためです。

 真理を探求すること、そして、他者と共に生きること。今年、創立150年を迎えて、立教は、ますますこの使命に忠実であることを、校内外に約束しました。主なる神が、これからも変わることなく、わたしたちと共に歩み続けてくださることを。そして、わたしたちが、開学以来、貫いてきた、真理探求と、他者と共に生きることを通して、隣人への愛に生きるようにとの、御子イエスの愛をこの世界に告げ、神の愛に生きる人びとを育むとした、わたしたちの教育、学術研究、その働きを全うできるようにと、共に祈り合いたいと想います。

2024年5月13日
2024.5.6

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」
(マタイによる福音書 7章12節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 自分のことで精一杯、他人のことなど気にする余裕がない。
自分の能力の限界を超えるような出来事に直面したとき、またどうしても解決しなければ前に進むことができない問題が立ちはだかるとき、私たちは自分のことで精一杯になります。そしてその解決の方法が見つからないとき、人は力を失い、身動きが取れなくなるということがあります。
 私は病に苦しむ人の前で、自分ではどうすることもできない無力さに直面し、「助けてください、救ってください」との想いが心に満ちた経験をしました。まさに「祈るように」その日々を生きた記憶が鮮明に残っています。
 祈りとは何でしょうか。祈ったからといって直接的に問題が解決するわけでもなく、助けられたり、救われたりするわけではないかもしれません。しかし自らの限界を引き受け、足りない部分を認め、それでもなお「心から想うこと」が祈りなのではないかと私は考えています。それは内向きで自己本位な願掛けではなくて、自分の外(例えば神)に、心の声を投げかけていくことでもあります。
 イエス・キリストは、神に祈るようにと教えた後に、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と語られました。それは、自分のことで精一杯な私たちだからこそ、互いの祈りの声を聴き、協力し、配慮し合うこと、そして共に生きることの大切さを伝えようとしているのだと思います。
 人を想い、共に生きることで、精一杯な自分が解かれていくのではないでしょうか。

2024年5月6日
2024.4.29

「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
(マルコによる福音書 10章45節/口語訳聖書)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

 創立者ウィリアムズ主教が中国経由で長崎に来日したのが1859年、その後主教は1874年に築地居留地の一角に立教学校を開設、主教45歳、これが今日の立教学院の初めである。
 来週5月11日(土曜日)、立教学院創立150周年記念感謝礼拝が立教学院諸聖徒礼拝堂(チャペル)で、午後には150周年記念式典がタッカーホールで行われる。立教に連なるすべての人が、創立の精神を想起できればと願う。

 ウィリアムズ主教が世を去って56年、立教学院創立93周年の時、池袋キャンパスのチャペル西庭に、ウィリアムズ主教の銅像が建立された。この同師像は、立教に建学の精神が保たれるようにと校友連合会から寄贈されたものである。製作は彫刻家・三坂耿一郎氏(日本芸術院会員)による。1967年5月18日、ウィリアムズ主教銅像除幕式が行われた。台座の碑銘には、次のように記されている。
  人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、
  また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。
      立教学院創立者 主教ウイリアムス之像
      昭和四十二年五月十八日建立
 これは当時の立教学院理事長八代斌助主教筆による。また聖句の選択も同師と思われる。聖書のマルコによる福音書10章45節からの引用であり、当時の口語訳聖書が用いられている。また同様の言葉は、マタイによる福音書20章28節にもある。

 ここでは本当の謙遜とはいかなるものかと語りつつ、イエスご自身の使命を弟子たちに指し示している。「仕えるため」「自分の命を与えるため」の歩み、これがイエスの生涯であった。このイエスの言葉を、ウィリアムズ主教に重ね合わせ、この聖句が選ばれたと推察される。日本在住50年、熱意ある開拓精神、切りつめた生活、業績を誇らない謙虚さ、自分ではなく神に栄光を帰する歩み、その生涯は「道を伝えて己を伝えず」この言葉に集約される。ウィリアムズ主教は、謙遜をもって人々に仕える姿勢を最後まで貫かれたお方であった。

 最後にこの聖句の文脈をより理解するため、前節も含め近年の翻訳で引用する。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
(マルコ10:43~45)『聖書協会共同訳』(2018年発行)

2024年4月29日
2024.4.22

働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
(コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章6~7節)
立教大学チャプレン 浪花 朋久

 新生活が始まる中、SNSで友人・知人たちが自分よりもきらびやかな生活を送っていたり、自分より優れた能力や才能を発揮したりしている姿を見ると、「自分もこうなりたい」、「この人たちよりもっと上のレベルになりたい」と思うことがあるかもしれません。あるはい入学して同じスタートラインに立っているはずなのに、既に先を行く同級生の姿を見て刺激を受けることもあるでしょう。しかし全員がインフルエンサーになれる訳ではありませんし、誰もがドラマやアニメの登場人物たちのように脚光を浴びる訳でもありません。そして残念ながら、私たちには願っても頑張っても望む姿になれないことが多くあります。その度に他人と自分を比較し、余計に落ち込んでしまう人もいるでしょうし、この世界が他人と比較する・される世界であることに失望することもあるでしょう。
 立教大学の守護使徒パウロは、冒頭にある聖書の言葉で、教会の中に様々な能力を持った人々がいることを記しています。これを読むと、有能な人物は一人だけではないということがわかります。大きなことが何も出来なくても、備品を管理する小さな奉仕や援助も大切な能力の一つなのです。しかし私たちは、高い能力だけに注目して低い能力を否定的に見がちです。そもそも能力の「高い・低い」は誰が、そしてどの様な基準で決めているのでしょうか。パウロが示しているのは、一人ひとりに神様から与えられた力があるということなのです。一方で私たちは、自分に与えられた力だけを見るのではなく、他人の能力と比較しがちです。しかし自分が、他人から能力が低いと決めつけられるとどう思われますか?少なくとも良い気持ちになれないはずです。ここで大切なのは、能力を比較することではなく、それぞれの人に「与えられた力」に気づくことなのです。
 充実した大学生活を過ごせないのは、能力が低いからでしょうか?決してそうではありません。自分の能力や才能のなさに落ち込んでしまうことはありますが、大切なのは皆さんにしかできないことが必ずあると信じることです。他人と比較し合う世界であっても、皆さんは「あなたと一緒にいることができて良かった」と言われる力を神様から与えられています。その力を是非、見つけてください。

2024年4月22日
2024.4.15

「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」
(ヨハネによる福音書 8章32節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「汝自身を知れ」

 この春、立教大学は、3年次編入学者を含む学部生4,836名、大学院博士課程前期課程481名、後期課程46名、計5,363名を、本学の新しい構成員として迎え入れました。新入生の皆さん、入学おめでとうございます。皆さんのことを、学びの友として、新たに迎えられたことを心から嬉しく想うと共に、これから皆さんと共に歩んでいく真理探究の旅路が豊かなものとなるように祈ります。

 さて、立教大学池袋図書館のメイン・エントランスの上方には、「γνῶθι σεαυτόν/汝自身を知れ」との言葉が掲げられています。「γνῶθι σεαυτόν/汝自身を知れ」この言葉は、デルポイのアポロン神殿の入口に刻まれていた古代ギリシャの格言です。そして、ソクラテスが真理を探究する、その旅の出発点とした言葉とも云われています。「汝自身を知れ」自分自身の何を知るのか・・・・・ それは、「自らは何も知らない」ということ、自らの無知についてです。ソクラテスが、古代ギリシャ社会において、最も賢い人間であると云われたのは、「知らない」ことに対して謙虚であったからです。逆に、古代ギリシャ社会が徹底して批判したのが「不遜」です。自らの無知を自覚せず、身の程を弁えず、何でも「知っている」、何でも「判っている」ということが、最大の不遜とされたのです。

 わたしたちは、気が付かないうちに、特定の「枠組み」の中で、物事を考えたり、判断したりする傾向にあります。しかし、その特定の「枠組み」・・・・・ いわゆる、「常識」とか、「当たり前」と考えられているものは、ほんとうに「当たり前」なのでしょうか。わたしたちが、「知っている」とか、「判っている」と信じて疑わないモノ・・・・・ でも、ほんとうに、わたしたちは、真実を知っていたり、判っていたり、しているのでしょうか。当たり前を疑うことの必要。

 知的な探究は、「知らない」を自覚するところからはじまります。
判りません、知りません・・・・・ 真理の前における、自らの、そういう謙虚な態度を示すことができる者にのみ、真理は、自らの「知」の扉を開くのだ、ということを、立教に学ぶなら、覚えておいても損はないと思います。

2024年4月15日

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