チャプレンからの今週の言葉チャペル

2021.5.10

光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。
(ヨハネによる福音書 1章5節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 私たちが生きている世の中、そして私たちの日常には、楽しいこと、嬉しいことがたくさんある一方、辛いこと、苦しいことも確かに存在します。それを私たちは光と闇、光と影と呼ぶことがあります。いつも光に照らされていたいとも思いますが、そうもいきません。突如、ふとした時に、拳を握りしめる悔しさがあり、膝をガックリと落とす落胆があり、受けた痛み、その悲しさに涙することもあります。それを闇や影というならば、私たちは誰しも、闇や影を抱えていると言えるのかもしれません。しかしあえて、その闇や影に対して、別の見方をしてみたいと思うのです。

 私はかつて群馬県の山の中にある教会に勤務していました。日中でもとても静かで、夜になれば街灯も少なくとても暗い所でした。当初それがとても寂しく感じました。
 ある朝、家の周りを歩く鳥たちの足音で目が覚め、そして庭の桜の花びらが散って地面に落ちる音が家の中で聞こえ、桜の蜜を吸いにきているミツバチの羽音がすぐそこで聞こえてきました。それらは都会では聞いたことのない音でした。また夜になれば、見たことがない数の星が空に見え、外に出れば月の光が明るく、月明かりで自分の影ができるほどでした。そんな影は今まで見たこともありませんでした。何もない静けさの中、どこまでも深い闇の中であればこその音と光に、私は感動しました。

 聖書は、「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」と伝えます。街の明るさの中では小さな星の瞬きに感動することはなく、都会の喧騒の中では小さな命の営みの音が心に響き渡ることはないのです。暗いからこそ、静かな影だからこそ、そこに奥深い光と喜びの音を受け取ることができるのです。それと同じように、私たちに闇や影があるからこそ、感じられる喜びがあり、受け取れる慰めや励ましの声があるのではないでしょうか。闇は光に勝るものではなく、闇は光を飲み込むものではありません。むしろ、闇は光の輝きをよりはっきりとさせ、影は照らされている部分の輪郭を確かなものにする。闇や影は私たちの「大切な場所」でもあるのです。
 時に闇の中に立ち、影を抱えながら生きる。しかしそこでしか見えない光、そこでしか聞こえない喜びの音が、私たちにはあるのです。

2021年5月10日
2021.4.26

「事は成った。私はアルファであり、オメガである。
初めであり、終わりである。
渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。」
(ヨハネの黙示録 21章6節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

命を潤す時間を

 新年度、何はともあれ、確かにスタートし、「新しい顔」と日々対面できたことは大きな喜びです。昨年度入学した人も「新しい顔」です。皆、マスクで半分しか見えないけれども、めいっぱい目と目で、立ち振る舞いで、思いを正直に伝え合おうとするこの時が、どうか失われないように、早く回復できるようにと願わずにはいられません。
 思えば、これまでの一年間(2020年度)、長かったのか短かったのか、判別もつきません。あっという間のようでもあり、長い道のりのようでもあり…。一生懸命に「学びを止めない」でがんばってきたし、躍進的にオンライン授業も上達したし、辛抱もしてきた、とも言えるけれども、だから何が実った?と問えば、「いや、とりたてて何も…」と答えが返ります。まだ何も達成も、解決も、収束もできていないからです。それでも、この一年は決して「無為な時間」ではありません。「“何もしないをすること”や、“動かないという行動”を学ぼうとした時間」であり、「ひとり」で自分の心と向き合う時間にも囲まれていたはずだからです。
 聖書の巻末の書「ヨハネの黙示録」終盤には、「新しい天地」の到来についてのヴィジョンが記されています。冒頭に挙げた一節に私は、あらゆる時間が、大きくて本当に大切なものごとか何ものかに、すっぽりと覆い包まれていることを想います。そして、疲れて、渇きをおぼえたときは、この大きな時間の中に、実は「命の水」が泉のように湧き出していて、無尽蔵に渇きを潤すことができる、という希望の励ましが告げられるのです。
 俳優・志尊淳の発案で昨年5月の自粛期間に配信された歌『きぼうのあしおと』(作詞・作曲:宮﨑歩)の中に、このような言葉があります。「奪われた大切な瞬間 思い悩んでしまうけど/乗り越えたら 笑い合えるから 今 生きていこう」、「できないこと数えながら夜を過ごすよりも/これからもっとできること 愛する人に伝えよう」、「たとえ今が試される時間でも負けない/ふさぎ込んだ弱さだって悪いことじゃないさ」と。
 私はこの歌を抱えながら、あと少し、あと少しの辛抱、と鼓舞して、結局今に至ってしまいましたが、それらの時間もまた、「奪われた大切な瞬間」ではないのです。「できないことを数える」のでもなく、「今が試される時間」、いや、それを超えて、すべての時に、命を潤す水があふれる泉のような時間が確かにあると信じたい。そう、今、この時の日々に「渇き」を感じたら、その時間の中に「命の水の泉」はあります。とにかく今は腰を落ち着けて、泉のように「命を潤す時間」を浴びることにいたしましょう。

2021年4月26日
2021.4.19

「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。」
(イザヤ書 40章8節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一

「神の言葉はとこしえに立つ」

 私は、近年、年度初めに聖句目標を定め、その1年を過ごしています。一昨年は「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ書40章8節 聖書協会共同訳 2018年11月発行)でした。
 1955年発行の口語訳は、「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉は、とこしえに変ることはない」。1987年発行で現在も多くの教会で用いられている新共同訳は、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。翻訳も微妙に異なります。

 さて「草は枯れ、花はしぼむ」は、野の草を人生の比喩として描きますが、はかなさが強調され悲観的な思いが表現されています。類似表現は詩編にもよく見られます。「人は朝に萌え出づる草のよう。朝には咲き誇り・・・夕べにはしおれ、枯れ果てる」(90:5,6)。荒野に咲く草花が東風の熱風で一瞬にして枯れる。こうした自然の現象と共に、人間の栄枯盛衰が示されます。

 しかしです。その後半箇所は「しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」です。まさにこの転換の接続詞「しかし」の一句が千鈞の重みをもちます。そこに人類のすべての希望がかかります。「神の言葉はとこしえに立つ」からです。
 立教の公的な楯のロゴマークをみますと、その中心には本、つまり聖書が開かれております。そしてこの本の上に、「立」という言葉があります。これは聖書の上に、聖書を土台として立教は存在することを示唆しています。

 近年、再び回復しなければならないのが、聖書に沈潜して生きることであることを、あらためて感じています。

2021年4月19日
2021.4.12

イエスは言われた。「私は復活であり、命である。」
(ヨハネによる福音書 11章25節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「立ち上がる」

 4月4日、世界中のキリストに結ばれた教会たちは、イエス・キリストの復活、イースターを喜び祝いました。今からおよそ2000年前、十字架の上に死に、3日目によみがえったとされる、イエス・キリストの復活のデキゴトは、教会に集う者たちにとっては、希望と光、励ましと勇気を与える大切なデキゴトとして、今もずっと覚え続けられています。

 「復活」とは、一度、死んだ人が息を吹き返すことではありません。新約聖書は、ギリシャ語で書かれましたが、「復活」と訳された言葉の、もともとの意味は、「立ち上がる」ということです。新しく立ち上がる、再び立ち上がる・・・・・ その「力」強さを、表現する言葉が、「復活」という言葉なのです。聖書は、イエスは「生き返った」とは書きません。「復活した」と記します。

 イエスは復活した・・・・・ 立ち上がった・・・・・ ここに、後に、教会と呼ばれる共同体のはじまりの、小さな信仰の泉が湧き出ました。この信仰の泉に、すべてのキリストに結ばれた教会の信仰はつながっています。もちろん、キリスト教信仰を教学の基に置く、立教大学も、この「立ち上がり」の信仰に結ばれています。

 この春、新しく立教大学の学生となられた皆さんを心から歓迎します。大学生活はきっと楽しいものとなるはずです。学びも、仲間との出会いも、いろいろなことに、自分が拓かれていく経験を、その喜びを、重ねていくことと想います。ときに、壁にぶつかることもあるかもしれません。傷つけられることもあるかもしれません。逃げ出したくなることもきっとあるでしょう。そんなときは、頑張らなくても大丈夫です。恐くなったらうずくまっても大丈夫です。大切なことは、そのあと、どう新しく立ち上がっていくか、どう再び歩き出すかです。

 立ち上がれるかどうか・・・・・ それ自体も心配しなくて大丈夫です。
 イエスは、自らを復活・・・・・「立ち上がり」だと語ります。それは、イエスの、わたしたち一人ひとりを、「立ち上がらせる」という力強い宣言でもあるからです。

2021年4月12日