チャプレンからの今週の言葉チャペル

2017.12.11

「いと高きところには栄光、神にあれ、
          地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカによる福音書2章14節)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

クリスマス物語の中で、この聖句は印象に残ります。幼稚園、保育園、日曜学校では子供たちが演じるクリスマス劇があります。ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったイエス。イエスを胸に抱く母マリアと二人を優しく見つめるヨセフ。救い主イエスがお生まれになったと天使によって知らされた羊飼いたち。天使は言います。「恐れるな。わたしは民全体に与えられた大きな喜びを伝える。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」このセリフを言う天使役の子供たちは喜々として宣べます。そして天使と天の大軍役の子供たちは、声を合わせて大きな声で宣べます。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
イエスの誕生は、全宇宙のあらゆるところに神の栄光が顕される出来事となり、また人の住む地上において、全ての人が求める平和の訪れが告げられる出来事となります。
イエスの時代も、今の時代も、各地で争い、戦争があり、そこに生きる人々の苦しみ、悲しみ、怒り、絶望の声を想像するときに、天使と天の大軍の宣言は、希望と力を与えられる言葉となるのではないでしょうか。天使たちの言葉を聞いた羊飼いたちは救い主に会うためにベツレヘムへ行き、幼子イエスに会い、天使たちの言葉を信じて、この不思議な出来事を人々に伝えます。 
クリスマス劇で子供たちが大きな声で宣言する天使の言葉に、希望と力を与えられます。

2017年12月11日
2017.12.4

そこで、ペトロは口を開きこう言った。
神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。(使徒言行録10章34節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「ツンデレ」

 学生たちと一緒に居ると、若者たちが使う、不思議な言葉によく出会います。先日は「ツンデレ」という言葉に触れました。「ツンデレ」とは、普段は「ツンツン」して、周囲に対してぶっきらぼうな態度をとっているものの、特定の人あるいは仲間たちの前では「デレデレ」と、好意的な態度をとること、またそのような人のことを云うのだそうです。いつもはクールな姿を見せてるけど、そんなクールな姿からは想像もできないような甘えた仕草や笑顔を、限られた人だけには見せる・・・・・そういうギャップのある人が、今の若者たちの感覚からは魅力的に映るのだそうです。 
 「ツンデレ」な生き方とは、確かに今の時代の一つのトレンドなのかもしれません。でも、そんな流行としての「ツンデレ」を、今の若者たちが懸命に生きようとしているのは、そう生きることで、みんなの人気者で在ろうとしているからではないのか。そう生きなければ、仲間たちからはじき出される恐怖がそこには在るからではないのか。みんなの人気者で在るために、嫌われないために、そんな努力として、多くの若者が、もし「ツンデレ」な生き方を生きようとしているのだとしたら、それはすごく苦しいことだと想うのです。そう想うと、特定の誰かの前でしか晒(さら)すことのできない「ツン」と「デレ」な生き方を、決して手放しに、無批判的には受け入れることはできないなぁと想うのです。
 手っ取り早い話、「ツンデレ」とは『二面性を持った人間』のことだと翻訳します。昔から『二面性を持った人間』は誰からも信用されてきませんでした。クールな奴はずっとクールなまま動じずそこに居たし、優しい奴は徹底的に優しかった。お調子者はどんなに哀しみに沈もうともお調子者で在り続けた。時や状況に応じて、まして目の前の人が誰で在るかによって、そのキャラが入れ替わったりはしなかった。それが信用に足る人間の在り方でした。アイツ、何、考えているのか判らん、と敬遠されながらもクールなそいつが居てくれることが心強かったし、傷ついたときには、優しい奴のその優しさに慰められもした。そうやって、各々がそれぞれを晒し合って歩んで来たと想うのです。傷ついた人は、優しい人から優しさを貰って救われ、逆に、傷つけた人は、誰かクールな人に泣きついて、「お前が悪いんだろ、くだらねぇ」と一蹴されちゃうこともある・・・・・でも、そうやって、周りに居る人それぞれが、独自のキャラを変えずに、傍に居てくれるから、安心して居られたなぁって、そんな昔を想い返します。
 「ツンデレ」に生きることが、少なくとも、嫌われないように、はじき出されないために、「自分じゃない、自分を生きようとする」その努力であるならば、そんな「自分じゃない、自分を生きようとする必要はないんだよ」ってことを、ちゃんと学生たちに届ける務めが、我々にはあるんだろうなぁ、と想います。

2017年12月4日
2017.11.27

わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。
(詩編 130:5)

立教大学チャプレン 斎藤 徹

 少し前、古くから交わりをいただいていた方から手紙が届きました。その手紙には、「お待たせしました。約束の通り、一緒に食事をしよう」と書かれていたのです。はて、その約束とは何だったかと考えてみましたが、思い出すことができませんでした。連絡先が書いてあったので、お会いする約束をして一緒に食事をしました。するとその方が「やっと約束を果たすことができたね」とおっしゃったのですが、恥ずかしながらその約束を思い出すことができない旨を、正直にお伝えしました。するとその方は大笑いして、「そりゃそうでしょう!20年以上も前の話ですから。でもわたしはずっと覚えていましたよ」と言って、約束の内容を教えてくださいました。
 20数年前その方は病を抱え、入院したことがありました。重い病気で、難しい手術を受けられ、回復するのにたくさんの時間を必要としたのだとか。当時わたしは中学生だったのですが、あまりその方の病気に関して詳しい事情を知らないままに、お見舞いに行く機会がありました。その時わたしが「いつか、一緒に杯を傾けましょう」と言ったそうです。まだまだ杯を傾けることができる年齢でもない中学生が、遠い未来を見据えて言ったその言葉に、みんなが笑ったそうです。でもその冗談みたいな約束を、その方は入院、手術、長いリハビリ生活を送る中で、その困難の中で、ひとつの「柱」にしてくださっていたのだと伺いました。
 それから20数年経って、向かい合って杯を傾ける時を過ごしました。失礼ながらわたしはちゃんと覚えていなかったのですが、その方は「嬉しいよ」と何度も口にしながら、約束の味を楽しんでおられました。それはきっと、約束の実現を待ち望みながら歩んでいた足跡の確かさを眺めるような時間だったのだろうと思います。

2017年11月27日
2017.11.20

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」
(ルカによる福音書12章2節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

嘘(うそ)はダメだろ

 「見栄を張り」、「大言壮語」するクラスメートがいました。「ウチのクルマ、ポルシェ」、「有名人が遊びに来る」、「株やって、貯金増やしてる」、「オレ、地元ではけっこう恐れられてる」、など、中学生時分の言うことですから、まぁカワイイものなのですが、そんな彼を見て友は言いました。「アイツは、一回嘘をついてしまったから、それが嘘だとバレないように、また嘘をつかなくてはならなくなっている」と。そうして、周囲の友人たちの間で、「アイツ」は「嘘つき」のレッテルが張られ、信頼を失い、孤立してしまいました。「嘘に嘘を重ねてゆく」生き方の末路は悲惨でした。
 単純に、嘘はだめだろう、と思います。ことわざにも「嘘つきは泥棒の始まり」とあるし、「嘘をつくと閻魔(えんま)様に舌を抜かれる」と幼い頃から言われてきたし、「嘘ついたら針千本飲ます」とも歌ってきました。無論、聖書も「(隣人に関して)偽証してはならない」(出エジプト記20:16)と記します。「嘘も方便」ということわざでさえも、仏教用語の「方便」が、人を真理に導くために用いる仮の手段を意味するので、そのために時に必要となる「嘘」を指しています。つまり、善なることに結び付く「嘘」だけが、かろうじて許されているのです。
 それでも、嘘をつく大人がこの社会にはいます。私自身も、「ゼッタイ嘘はつかない」と言えば嘘つきになってしまうでしょうが、少なくとも自分の心に嘘をついたり、自分をごまかしたりはできないものだ、と覚悟はしています。自分の心の中では、「嘘」「ごまかし」は即座にバレているものなのです。それを何とか取り繕ったり、隠そうとしてみたところで、いつかはボロが出る、あるいは破綻するものです。まさに「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」と主イエスが見通された言葉は真実だと確信できます。
 だから、平気で嘘をつく人にはなりたくない。嘘をつくことに麻痺して、嘘に気がつかない人にもなりたくない。嘘だとわかっていても正さないで、黙っていて、悪い方向に流れてゆくままにしたくないと思います。自分に対しても、他者に対しても、この国にたいしても、世界に対しても、「嘘はダメだろ」と刻み付けていたいと思います。

2017年11月20日

2017.11.13

「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。」(イザヤ書43:18—19)
立教大学チャプレン 金 大原

「秋の断想」

 ミッチェル館の西側には柿の木がある。今はよく熟れた柿の実がいっぱいついている。すべての葉が落ちてしまい、枝は乾いているのに、たくさんの柿の重さに耐えているのが不思議に見える。イチョウの葉はいやに長かった秋雨のせいかやっと黄色くなり、蔦紅葉はすでにその美しさを誇っている。こんなに豊かで美しい季節だが、地面に散らばっている枯葉を見て心の片隅で寂しさを感じることもある。あっという間に過ぎ去った1年間を振り返って反省するところが多いからだろう。
 なぜだろう。なぜ、わたしたちは自然の美しさをそのまま味わえず、寂しさまでを感じるのだろうか。それはが激しい競争の中でわたしたちの心が乾いているからではないか。ゆっくり、また少しずつ変わることで綺麗になり幸せになれると、自然は教えてくれるのに、成功と成就を求める厳しい現実のためそれを見逃しているのかもしれない。
 昔のアメリカ先住民の諸部族は12か月に数字ではなく独特の名称を付けていた。その中で北アメリカに先住するアラパホー族(Arapahoe)は11月を「すべてが消えたわけではない月」と言う。彼らが残り2か月つまり「まだ」に傍点を打ったとすれば、速さの時代を生きるわたしたちは「過ぎ去った日々」に傍点を打って心を苦しませているのではないか。だから紅葉と落ち葉を見て単なる鑑賞のみならず、習慣のように悔恨にまでとらわれるのだ。
 この秋、ありのままの自然の美しさを享受し、まだ何かが残っていることに感謝できるように。

2017年11月13日

2017.11.6

今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
(申命記6章6~9節)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

人は忘れやすい存在。このことを確りと受けとめた上で、最も大切な生き方を、しつこい程に繰り返し、繰り返し確かめなさい、との申命記の言葉は印象的なものです。
ユダヤ人にとって、奴隷として生きたエジプトでの苦しみは表現できない程の苦しみだったのでしょう。神に向かって苦しみ嘆いた人々の声を聞いた神は、彼らの心を受け止め、述べます。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」(出エジプト記3章7節)
そして、彼らを苦しみから脱出させる働きが、神のイニシアチブで行われました。神により見つめられ、支えられ、新しい人生の始まりをさせてもらえた。この神を忘れないように、再三再四、出エジプトの出来事を思い起こし、神を信じ、謙虚になり、神を見つめて生きるようにと勧められています。
 しかし、人は豊かになると神を忘れ、謙虚さを失い、自分の判断を絶対として神のようになり、間違った道に歩み出してしまう。申命記8章12-14節、箴言30章9節、ホセア書13章6節は人間の弱さを、同じように記しています。
 今、不安定な国際情勢の中で、力によって抑え込もうとする風が吹く中で、広島原爆死没者慰霊碑に刻まれている言葉を思い起こします。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」 
 人が生きる上で最も大切な生き方として教えてくださったイエスの言葉を、もう一度、聞きましょう。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13章34節参照)

2017年11月6日
2017.10.30

「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。
 彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」
(ヘブライ人への手紙13章7節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「いのちのドア」

 『こどもさんびか』という、日本キリスト教団が発刊した聖歌集があります。この聖歌集には、とても素朴で可愛らしい歌がいくつも載っています。そして、この聖歌集の巻末には、こどもたちの目線でつくられた、お祈りが、いくつか収められています。あさのいのり、ゆうべのいのり、食事の感謝・・・・・。 そのどれをとっても、こどもたちからの言葉になっています。その中に、『いのちと死』についての祈りがあります。こんな祈りです。

だいすきなかみさま、わたしたちは死んだら、ドアをとおってむこうへいくのです。
いのちから死に通じるドアです。
そして死からいのちに通じるドアです、
ドアの向こうには、だいすきなかみさま、あなたがおられます。アーメン

 一つのドアがある・・・・・。 それは、死に向かうドア・・・・・。 けれど、そのドアはいのちのドアでもある・・・・・。 死が、新しいいのちへの接点であることを、この祈りは教えています。そして、そこには神が共に居られることも。一人一人の死といのちは、神に見つめられている、という信仰がここにはあります。

 キリストに結ばれた教会にとって、11月は「死者を想う」月です。
 その死者を想う、教会の営みは、11月1日の「諸聖徒日」、2日の「諸魂日」を記念することからはじまります。諸聖徒日には、キリスト教会の歩みを支え強め導いた諸聖人たちが覚えられ、諸魂日には、先に、主の御国へと召された、すべての信仰の聖なる兄弟姉妹たちが想い起こされます。先に召された人びとの死といのちを、教会は、このときに想います。

 わたしたちも、いつの日か、死者の列に加えられることになります。そのようなことを、この死者を想う月に、ちょっと意識しながら、「いのちのドア」のこちら側に、自らのいのちの儚さと、そのドアの向こう側に、神に見つめられた、いのちの永遠を見つめてみたいと想います。

2017年10月30日
2017.10.23

曲がった言葉をあなたの口から退け/ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。
目をまっすぐ前に注げ。/あなたに対しているものに/まなざしを正しく向けよ。(箴言 4:24~25)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

「悲しい顔の記憶」

想い起こすと胸が痛む「悲しい顔」がいくつかある。
ケンカした相手の顔、仲間外れにされたクライメイトの顔、愛犬を亡くした友人の顔など、想い浮かぶ。
その中でも、自分が何かをしてしまった時に見せられた「悲しい顔」は、特に心に深く刻まれている。

私は小学生の頃、地域の少年野球チームに所属していた。日曜日の試合には、選手の保護者がたくさん応援に駆けつけて来た。私の両親は日曜日には教会での礼拝があるので、応援に来ることはなかった。応援に来ない両親に対し、私は少し不満があった。試合の勝敗や、自身の活躍などをその目で見てほしい、何よりも頑張っているところを応援してほしい、そんな想いを抱いていた。

ある試合の日、母が何とか都合をつけて応援に来てくれた。きっと「たまには応援に行ってあげたい」と父に話し、無理して礼拝を休んで来てくれたに違いない。私は嬉しくていつも以上に気合が入った。その日もたくさんの保護者が応援に来ていた。試合が始まると、母は誰よりも大きな声で、チームにも私にも声援を送ってくれた。大きな声を出すことなどない母なので、少し驚いた。他の保護者にとってはいつでも見られるうちの一試合だったのだろうが、母にとっては次いつ見られるかも分からない大切な試合、そんなふうに心を寄せて大きな声援を送ってくれたのだと思う。

その日、チームは負けた。私も活躍することができなかった。負けてしまった悔しさと、恰好の良いところを見せられなかった気まずさから、
「もう応援来ないでよ。あんなに大きな声で応援されたら恥ずかしいよ」
と母に言ってしまった。
すると母は少し黙した後に、「ごめんね。恥ずかしい想いをさせちゃったね」とつぶやいた。
その時の母は、少しだけ笑みを残したとても悲しい顔をしていた。それから25年経つが、忘れることができない「悲しい顔の記憶」となって残っている。
本当は嬉しかった。無理して試合に来てくれたこと、誰よりも一生懸命応援してくれたこと、まっすぐにその目を注いでくれたこと、そのことに「ありがとう」って伝えたかった。でも私は、その自分の心にも、母が寄せてくれた想いにも誠実ではなかった。

「悲しい顔の記憶」がいつも胸に痛みを想い出させ、自分の心、人の想いにまっすぐであれと、語りかけてくる。恰好つけないでひねくれないで、まっすぐなまなざしをもって歩むその道は、嬉しい顔、優しい顔があふれるところに続いていると信じ、その様に生きていたいと、いつも想っている。

2017年10月23日
2017.10.16

「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」
(マタイによる福音書9章36節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

微笑むだけでもいい

 「コミュニケーション」というカタカナ言葉が、多用されるようになって久しいと思います。「情報伝達、連絡」という直接的な意味だけではなく、「意思疎通」、そして「心の通い合い」という意味でも日常的に使われています。それは、「コミュニケーション」が困難な状況がいかに多いかを反映しているのかもしれません。「もっとコミュニケーションをよくしよう」と言うのは、意思疎通ができていない状況や齟齬(そご=かみあわない状況)があるからなのです。
 多くのヒット歌謡曲を生み出した作詞家、阿久 悠氏の『人間が大好きだ』という歌があります。
 「ひとりとひとりが感じることを どうしてみんなで感じられない
  ひとりとひとりの優しいこころ どうしてひとつに集められない」
 これは、今から40年以上前のコマーシャルソングです(1973年放送)。人間は、「共感」することについての限界がありながらも、「共感したい」という切なる思いが綴られています。そして、この詞は続けて、
 「声をかけてもいい 手をつないでもいい 話し合うのもいい 微笑むだけでもいい」
と歌い、「人間が大好きだ」という言葉を繰り返して結びます。「排除、切り捨て、断絶、孤立」は、「コミュニケーション」の努力とは正反対の言葉です。何でもないような「声かけ」、いや、言葉にならなくても、ニコッとすること、会釈でもいい、相手の存在を確認するサインを示すこと。そんな、ほんのちょっとの心配りも、「コミュニケーション」の一つになるのだなと思えます。
 主イエスは、そんなコミュニケーション能力、特に共感力を絶大に発揮したようです。何も聞かずとも、出会った人を見て、それが「群衆」であろうと、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」と直感しました。「深く憐れまれた」と記された言葉は、原語では「はらわたが引きちぎられるような痛み」を意味します。他人の痛み、苦しみ、悩みを、全面的に共感する力、それは人間業とはかけ離れたレベルであったのでしょう。そこが神の「全能」と言われる所以です。でも何より、神は人間が大好きだから、人間の痛みの共感、それを自分事として、人間の歴史の営みと共に、歩み続けてくださっているのだと信じます。それに少しでも応えたいから、誰かに「微笑むだけでもいい」というところからでも、日々心がけてみようかな、と思っています。

2017年10月16日
2017.10.9

「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、
平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」(エフェソの信徒への手紙4:2-3)
立教大学チャプレン 金 大原

「紅葉礼賛」

 紅葉の季節が近づいている。青々とし成長を重ねてきた木々が片付けの季節を迎え、最後の火花を吐き出すだろう。中国晩唐の詩人である「杜牧」が「霜葉は二月の花よりも紅なり」と称えたように、紅葉の風景は実に美しい。ところで、わたしたちはなぜ紅葉を美しいと思うのだろう。ただ葉っぱが緑から赤に変わるだけで美しいと感じるのではないはず。
 山や公園を色とりどりに染め上げる紅葉をただの赤色ではなく秋色と言った方が良いと思う。赤、赤黒、緑、茶色、黄色などなど、それぞれ自分のみの色を持っている。葉っぱの形も色もすべてが異なるのだ。秋は、秋の紅葉は、それぞれの違いが調和をなしているから美しいのだろう。
 「違い」は「間違い」ではない。「間違い」は正しいことと不正なことの判断からはじまるが、「違い」は多様性を意味する。自他の関係を白黒論理ではなく多様性の目で見なければならない。世の中の皆がそれぞれの違いを認め相和して美しくなるということを自然から学ぶ。

2017年10月9日


2017.10.2

兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
                   (ローマの信徒への手紙12章10節より)

立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

わたしたちは神の決断による、神から与えられた命を生きている。これは創世記1章、2章に記されているメッセージです。このメッセージの中に、人は自分とは違った人々と共に生きるように造られ、自分とは違った、男と女、女と男が造られたと記されています。
自分と違う人間と共同して生きて行く。そこには好奇心が与えられ、嬉しいこともあるでしょう。しかし、ときには相手を理解できず、緊張し、迷惑をかけ、或いは迷惑をかけられることもあります。わたしたちは競争社会に生きる習い性ゆえに、他の人と比べ、劣等感に陥ったり、優越感に浸ったり。わたしたちは面倒な存在です。自分で自分を理解できず、受け止められないように、共に生きる相手をも理解できず、受け止められないことがあります。人間関係は喜びと面倒が共存しているようです。
でも自分を理解できず、相手をも理解できず、時には、排除したい思いになっても、わたしたちは神の愛に満たされた命を、それぞれが、今、生きていると信じるとき、落ち着きを与えられます。
「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」
「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(ローマの信徒への手紙12章14節)とのパウロの言葉は、わたしたちに、今までとは違った人生を歩み始めなさいとの強い励ましの言葉と受けとめます。

2017年10月2日
2017.9.25

ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイによる福音書10章8節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「太陽の賛歌」

 10月4日は、アシジの聖フランシスを記念する教会の祝日です。彼は13世紀のイタリアで活動し、小さき兄弟の修道会(フランシスコ会)を創設しました。その彼を有名にしているのは、『主よ、わたしたちを平和の器にしてください』ではじまる、あの美しい祈り。「平和を求める祈り」です。また、彼は一切の余剰/贅沢を「捨てる」という霊性に生き抜いたことでも知られています。彼の生涯は45年という短いものでしたが、その晩年、彼は自らの生涯の終焉に際し、「太陽の賛歌」という詩を遺しました。

 『高くまします、いつくしみ深い全能の主よ
 あなたには賛美と栄光と名誉、そして、すべての祝福があります』とこの詩は始まります。

 そして、『主よ、あなたは、太陽、月と星、風、空、水、火、 大地・・・・・。
 あなたが創られたモノ、その全てから賛美を受けるに相応しい方です』と続き、
 『わたしは、感謝の歌を献げ、深くへりくだってあなたに仕える』と結ばれていきます。

 この『太陽の賛歌』は、大自然がこぞって神を賛美していることを謳うものです。粗末な修道服に縄の帯を締めたフランシスは、来る日も来る日も大自然の中を生きました。そして、神の前に、小鳥も、自然も、余分な道具立てを持たず、あるがままの姿で、でも、この上ない仕方で、神を讃えていることを確信したのです。
 あるがままの「モノ」・・・・・。 その一つ一つは着飾ることをせずとも極みなく美しい・・・・・。
ここに、すべてのいのちに対するフランシスの敬意と、そのいのちを創られた神への深い信仰が顕れています。フランシスがわたしたちに教えていること・・・・・。それは、すべてのいのちは神とつながりの中に在るということ。そして、そのいのちを神はこの上なく美しく装ってくれているということです。
 科学技術に支えられて急速な近代化を推し進める中で、多くの人びとの生活から神の実感が消え去りました。人びとは「神なし」で生きられると何処か錯覚している。人は他よりも多く着飾ること、多く持つことで誇って生きようとし、一方で、安定、財産、名声、権力、評判を失うことを恐れるようになりました。でも、神が装われるのは、人が所有する、それらの属性のものなどではなく、その人の「存在」そのものなのです。
 この聖フランシスの記念の日に、わたしたちは、誰によって装われているのかということを、わたしたち自らの「存在の根拠」を想い起こしたいと想うのです。「わたし」という、この上ない美しい存在を神が創られたことを、その神の業にいつも敬意を払う者でありたいと願います。

2017年9月25日
2017.7.17

人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。
それにもまさる喜びを わたしの心にお与えください。(詩編 4:8)

立教大学チャプレン 斎藤 徹

 あとちょっと…。あと少しで間に合わなかった、あとちょっとのところで届かなかった、そのような記憶がいくつも心に残っています。
 幼いころ、家族とともに電車に乗ろうとして駅の階段をのぼっていた時、幼いわたしは家族より遅れてホームに着きました。ちょうど来ていた電車に家族は乗りましたが、私は間に合わずに、電車の扉が閉まって走り出してしまいました。家族との差はたった3秒程度です。
 学生のころ、所属していた野球部の試合で、あと1点取られたら試合が終わってしまうという場面で、私の近くにボールが飛んできました。必死に追いかけて飛びついたけど、その打球はグローブの2センチ先をすり抜けていきました。たった2センチです。
 
 その3秒、2センチの「間」は、何となく自分の「いたらなさの記憶」として心に残っているように思え、それを埋めたいと思っていました。そうすれば完璧に近づくことができるとどこかで思っていたのかもしれません。
 ところが、ある人から言われた「人は余白があっていい」との言葉が、わたしの想いを少しずつ動かしていきました。その人が言うには、「10あるところ8までで充分。残りの2は神さまの分」、「10のうち10できてしまったら、その人は神さまになってしまう」のだそうです。その言葉を聞いて、当たり前のことですが、「オレは神さまじゃない」と改めて思いました。成長のために努力はするし、目標や目的を達成するために一生懸命過ごすのだけれど、すべてが思い通りに、自分が描いた通りになることなんて、わたしたちの旅路でそうそうないと思います。わたしたちは完璧ではないのですから。
 自分で埋めることができなかった余白は、いたらなさかもしれないし、足りないところなのかも知れません。でも、完璧でないからこそ、余白があるからこそ、そこに自分では創り出すことのできない喜びや、大切な経験が、書き足されていくのではないでしょうか。

2017年7月17日
2017.7.10

自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。
(マタイによる福音書20章14-15節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

神はみんなをエコヒイキ

 「努力をすれば報われる」ということが物事の道理であるとするならば、望んでいる結果が得られないときは、「努力が足りなかった」と考えるしかないのでしょうか…。確かに、学生たちの成長を目の当たりにすると、知力、体力や技量、人格の形成などにおいて、「やればやっただけ力が付く。懸命に取り組み、誠実に向き合えば、必ずそれに伴う実を結ぶ」ということが事実のように見えるときがあります。でも、思うような結果が出せなくて苦しんでいる人に、「努力が足りないね」と誰が言えるのでしょう。
 主イエスの語った「ぶどう園の労働者」のたとえ話は、「成功報酬」や「成果報酬」の仕組みが当然だと思う人には、とても引っかかるものです。夜明けに雇われて、一日中、汗水流して働いた人の賃金も、9時過ぎから約9時間働いた人の賃金も、約6時間働いた人も、3時間働いた人も、午後5時頃に雇われて1時間だけ働いた人も、皆同じ賃金だったという話です。夜明けから働いた人が、「1時間しか働いていない者と同じ扱いにするとは」と不平を言いました。「時間給」ではなくて、「一日定額給」だったのです。だから割が合わない気がします。朝から努力しても、1時間しか努力しなくても、結果は変わらないのですから。でも、その時に雇用主が言ったのが、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたい」という言葉です。これが神の、人間への関わり方とたとえられます。
 そんな神をあなたは「アマイ」と思いますか。神の「気前のよさをねたむ」でしょうか。「エコヒイキ(依怙贔屓)」ではないかとさえ思うでしょうか。いや、あえて言うならば、「神はみんなをエコヒイキ」しているのでしょう。神からは、誰でも、何でも、いつでも「ヒイキ」されるのです。
 そう思った時、ある人の言葉を思い出しました。「キリストの言葉、私には優しすぎます。すべてを愛さないでほしい、罪をゆるさないでほしいと思う自分がいます」と。…ホント、申し訳ないし、恐れ入ってしまいます。…でも、ありがたいです。そんな優しさの中で、私も何とか生かされているのです。

2017年7月10日
2017.7.3

あなたがたの髮の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。
あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。
(マタイによる福音書10:30-31)
立教大学チャプレン 金 大原

 イタリアが生んだ最高のヴァイオリニスト「パガニーニ」(Nicolò Paganini)と関連して有名なエピソードがある。ある日、不幸なことに演奏会の途中でヴァイオリンの弦(E線)が切れた。にもかかわらずパガニーニは事ともせず演奏を続けた。ところが、すぐA線が切れ、しばらくしてD線まで切れてしまった。残ったのは4つの弦の中で最も低い音程のG線一つだけであった。聴衆たちは「パガニーニにとって最も不幸な演奏会になるだろう」と思った。でも、パガニーニは、しばらく止まっただけで、ついに一つの弦で完璧な音楽を作り上げた、というエピソードである。これによってパガニーニはもっと有名になったと知られている。この時演奏した曲はバッハの「G線上のアリア」であった。
 わたしたちの人生を支えてくれる線のようなものがある。財産、名誉、恋や愛などがそれで、頼っていたそれらすべてはいつか切れることもある。でも、G線一つだけ残っていれば、「G線上のアリア」のような素晴らしい曲を演奏することができるように、わたしたちの人生においても最後まで切れずに支えてくれる何かがある。イエスは、「だから、恐れることはない」と言っているのだ。
 自分にとって、その最後まで変わらずつながっていて支えてくれる存在は誰だろう。

2017年7月3日
2017.6.26

人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。
                      (マタイによる福音書26章24節より)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

 上記の聖句は、イエスが12弟子たちと最後の晩餐をしているときに言われた言葉です。
イエスは「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と言われたので、弟子たちは非常に心を痛めて「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めます。そこでイエスは「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。」と言われ、続けて「生まれなかった方が、その者のためによかった。」と言われました。
 イスカリオテのユダのことを指しているのですが、ユダはイエスを裏切った後に、取り返しがつかない、とんでもないことをしてしまったと気付き、悩み、苦しみ、遂には、首をつって死んでしまいます(マタイ27:5)。それ程に苦しみ、悩むことになるユダを思い、イエスは「生まれなかった方が、その者のためによかった。」と同情を表されたのでしょう。イエスはユダを隣の席に座らせ、同じ鉢に入れられている汁物にパンを浸し、ユダに渡しながら、思いの限りの愛を示したのではないでしょうか。ヨハネによる福音書13章26節に「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と記されています。
 同じ様に、徹底的にイエスを裏切ったもう一人の弟子のことを聖書は詳しく記しています。それは12弟子の世話役をしているペトロです。人々の前で、ペトロは三度もイエスを知らないと拒絶し、三度目はイエスに対して、呪いの言葉さえ口にして拒絶します(マタイ26:74)。しかし、ペトロがそのようになることを知っていたイエスは、イスカリオテのユダを愛し抜いたように、ペトロをも愛し抜き、ペトロが呪いの言葉を口にしたとき、ペトロを見つめます(ルカ22:61)。そのイエスの愛し抜く眼差しに気付いたペトロは後悔と感謝と喜びで激しく泣きます。しかし、イエスの愛に気付けなかったユダは自死してしまいます。
 イエスが十字架に付けられたとき、12弟子は一人残らずイエスを裏切り、逃げ去っているのですが、ユダだけが裏切り者ユダと言われていることに、わたしは不満を持っています。また、ユダに親しみを持ちます。愛して、愛し抜くイエスの愛が最も強く表されているのはユダに対しての愛ではないかとわたしは受け止めています。

2017年6月26日
2017.6.19

(キリストは)十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
(ペテロの手紙Ⅰ2章24節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「The Wounded Healer」

 神学生の頃、「The Wounded Healer(邦訳:『傷ついた癒やし人』)」は、宣教学、牧会学の必読書だった。この世界/社会の中で、誰が一番辛い想いを抱えているか、その痛み、弱さを抱えた「誰」の「誰」として、「わたし」は寄り添うことが赦されているのか。来る日も来る日も、そのことと向き合い、ときに他の神学生と衝突しては、自らの傲りに傷つき、苦しみながら、その応えを探すことが、神学校での共同生活の中心にはあったように想い返す。

 人は皆、「弱さ」を抱えている。しかし、多くの人がその「弱さ」を隠そうとする。その「弱さ」を克服しようとする。なぜなら、今の社会では「強く在る」ことが求められているから。「強さ」は、人との距離をつくるが、「弱さ」は人との距離を近くする。ある人が抱えてきた「弱さの物語」が語られるところでは、他の人は安心して自分の「弱さの物語」を、「わたしもそうだった」と語ることができる。強さの前で、決して語られることのない「弱さ」だ。

 弱さは克服されるものではなく、語り尽くされるものだ。強くあることよりも尊く美しいものだ。誰もが「弱さ」を抱えている。でも、そのあなたの弱さが、誰かの生きる希望になるかもしれない。哀しみに沈んだ誰かの顔を上げているかもしれない。一歩を踏み出せないでいる誰かの背中を押しているかも知れない。弱さを捨てる必要はない。強くある必要もない。
 あなたもまた、誰かのための「Wounded Healer」なのだから。

2017年6月19日
2017.6.12

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。
(コヘレトの言葉 3:11)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 人に勧められて、あるいはインターネット上での評判が良い飲食店に行った経験をおもちだと思います。ところが、実際にそのお店に行ってみると、思っていたほど良い印象を受けない、反対に思った以上に良い印象を受けるということもあります。実際に行ってみて受ける印象は、味はもちろんのこと、お店の雰囲気、従業員の接客態度、その時に誰と一緒に行ったかなどによって変わってきます。先日、十年以上前に妻と行ったことのある喫茶店でコーヒーを飲みました。妻と行った時、つまらないことで口論になり、失礼ながらあまり良い印象のないお店でしたが、改めて入ってみると、味や雰囲気がとても良く、満足してお店を後にしました。結局のところ、食事を楽しむということは、そこにいる時間を楽しめたかどうかなのだと思います。
 時間の楽しみ方は人それぞれだと思いますが、私は、その時間に積極的に関わることで、楽しみは大きくなるものだと思います。小説や映画を楽しむならば、その物語の中に自分を入り込ませる、会食を楽しむのであれば、一緒にいる人と交わり、出された料理をちゃんと味わうなど、人によって方法は違うにせよ積極的に関わることによって、時間は経つものではなく過ごすものになるのではないでしょうか。楽しい時がすぐに過ぎてしまうのは、ちゃんとその時間を過ごしているからなのだと思うのです。 私たちの過ごし方次第で、思っていた以上の喜びを受けられることがたくさんあります。ただ流れてしまう、流されてしまうのではなく、目の前にある時間に自分の足をしっかりつけて過ごすことで、その時が輝きをもつものになっていくのだと思います。
 喫茶店のコーヒーは、昔が思い出されて苦みを多く含んでいました。でも私がそこでの時間を楽しむには、それくらいの苦みがちょうどよく、心地よいと感じる味でした。

2017年6月12日

2017.6.5

すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
(使徒言行録2章4節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

ペンテコステ、流行るかな?

 「クリスマス、イースターの次に、日本で流行りそうな行事(キリスト教の祝祭)は何だと思いますか?」と最近、聞かれました。エッ、「イースター」も日本で流行ったかな?と意外でしたが、私は「…ペンテコステ」と恐る恐る答えてみました。5月中旬から6月に巡るキリスト教の祝日で、イースターから「50日目」という意味です。「聖霊降臨日」とも呼ばれて、「聖霊」が「使徒」と呼ばれるキリストの弟子たちに降り、「〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」出来事を祝います。と言うと、何か特別な能力が与えられた日のようです。周辺諸国からエルサレムに巡礼に来ていた人たちは、自分の国の言葉が話されているのを聞いて驚きました。自分にわかる言葉で、弟子たちが話してくれていたからです。でも実際は、弟子たちの語学力が優れていたわけではないでしょう。彼らがただ言いたいことを言っているだけであれば、聞く者には伝わらなかったでしょう。弟子たちはまず何よりも、共にいる仲間の声を聞き合っていました。友としてお互いに思うこと、感じることを大切にして、そのままに受け止め合っていたのです。それが共感を呼び起こし、共鳴して、「激しい風が吹いて来るような音」(2節)が家中に響くほどの、そんな熱い思いに満たされたのでしょう。それを見た人々は、「私も感じたこと、思うことをここで聞いてもらえそうだ」と、彼らに引き寄せられていったのではないでしょうか。
 そんなことを想像していたら、「キリストの弟子」と言われる人たちは、語ることよりも、聞くことに長けていたのではないかと思えてきました。高度なスキルを身に着けたデキる人材というよりも、ただ共にいること、大切な仲間と一緒にいることに長けていたのではないかと思えてきました。自分一人では抱えきれないこと、担いきれないことも、誰かと一緒なら何とかなる気がする。だから、誰とでも仲間になれるし、その喜びの輪に加われる風が通っていたのではないかと思えます。この風を「聖霊」と言ってもよいでしょう。
 日本の6月、ジメジメしがちなこの季節だからこそ、風通しのよいパーティを催して、新しい友の輪を広げるイベント「ペンテコステ」を流行らせてみてはどうでしょう。誘い文句は、「あなたの話を聞かせてください」ということで。

2017年6月5日
2017.5.29

「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。
それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。」
                          (コリントの信徒への手紙Ⅱ3:2)
立教大学チャプレン 金 大原

 子供の時、皆から「テレビ」と呼ばれる仲間がいた。身体に比べてずばぬけて頭が大きいから付けられたニックネームだった。幼い時、彼の祖母は彼の首が折れるのではないかと心配して後ろから頭を支えているほどだったと聞いたことがある。すべらない話ではあるが、現代人の精神的な状態がまさにこれと同様ではないかと思う。頭だけが大きくてなっていて体は小さい仮分数の奇形、これがわたしたちの姿ではないだろうか。
 わたしたちは常に新しいことを求めている。もちろん真理探究の姿勢を悪いとは言えない。新しいことを知る喜びを否定するわけでもない。しかし、ある面で、世を生きていくための知識はもう十分かもしれない。良い言葉や良い教訓は世の中にあふれている。良いことを知らなくて生きていけないことはない。問題は、「それを実践しているか、知っている通りに生きているか」だろう。
 わたしたちは果たして、今まで学んだことを行動に移し生活で表しているのだろうか。

2017年5月29日

2017.5.22

幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。
(ハバクク書2章2節より)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

聖書には心に残る面白い言葉が幾つかありますが、その内の一つが上記の言葉です。この言葉と関連する聖句は箴言29章18節です。「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」
幻を英語表記ではvisionと記しています。vision がなければ人々はおさまりが悪く、自己規制ができず、好き勝手に行動し、ついには堕落してしまう、という事なのでしょう。更に、visionを持っていたとしても、vision確認を再三するのでなければ、ないと同じ。
特に、わたしたちの歩む道、方向性については確認しなければ、時に流されてしまう。だから、「走りながらでも読めるように、板にはっきりと記せ」と書かれているのでしょう。
さて、わたしたちの人生のvisionは何でしょうか。何を目指して生きて行こうとしているのでしょうか。上記の二つの聖句を読むと、襟を正される思いになります。
聖書が勧めるvision は「教えを守る者は幸いである。」と述べられているように「神の教えを守ること」をvisionとすることを勧めているのではないでしょうか。
イエス・キリストが最後の晩餐の席で、弟子たち(人類)に勧めたvison はこれです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章34節より)

2017年5月22日

2017.5.15

「わたしは、こう祈ります。
 知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、
 本当に重要なことを見分けられるように。」
(フィリピの信徒への手紙 第1章9-10節) 
立教大学チャプレン 中川 英樹

「一水四見(いっすいしけん)」

 「一水四見」とは、同じ水でも見方によって四通りに見える、ということを現した仏教の言葉です。人間にとっては、喉を潤す水であっても、魚にとっては住処であり、天人には、きれいに透き通ったガラスであっても、餓鬼には、飲もうとした瞬間、火に変わる苦しみの水になる。同じ水でも、人間、魚、天人、餓鬼とでは、おのおの異なって見える、という喩え話です。
 人は皆、生まれ育った環境、受けた教育、経験したこと、考えてきたこと、興味を持ったこと、さまざまです。人それぞれに世界観があり、価値観があります。自分が見ている世界は、他者からどのように見えるのでしょうか。また他者の見ている世界をわたしはどのように見ているでしょうか。同じものを見ていても、気づかない面はたくさんあるものです。

 この春、ディズニーの『美女と野獣』の実写版が公開となり、その映像美と幼い頃の聴き覚えのある、あのメロディが、多くの人たちに感動を与えていると聴きます。野獣のことを、誰が心から愛せるのか、そして野獣は誰を心から愛すのか・・・・。それが、この物語のテーマです。主人公のベルが、誰の目にも野獣としか映らない「異物/異質」の、その向こうに、愛をもって、ことの本質、人間の美しさ、真実を見い出したときに物語は結末を迎えます。

 一元的かつ一意的にしか、ものを見つめられないまま判断することの愚かさは、「知」によって克服できると語った哲学者がいます。いろいろな観点から「物」を見れる、そんな「知」を持ち備えていたいと想います。そこに、心からの優しい言葉が生まれると信じます。想えば、ベルは無類の本好きでした。学ぶからこそ、真実に分け入って往くことができるのかもしれません。どうぞ、この立教大学で、『知的な旅』を楽しみつつ、共に、真実の真実へと辿り着きたいと願います。

2017年5月15日

2017.5.8

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマの信徒への手紙 12:15)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 先日公園のベンチに腰かけていると、向こうから小学校低学年くらいの男の子と、お父さんがこちらにやってきました。男の子はさっそく遊ぶために小走りになり、後ろからお父さんが「転んじゃうよ」と声をかけています。するとお父さんの心配した通り、その男の子がつまずいて、激しく転んでしまいました。そしてその子は大きな声で泣き始めました。お父さんが急いでやってきて、ケガをしていないか、大丈夫かと声をかけています。男の子は泣くのをこらえようとしていますが、汚れてしまった自分の手足を見ながら、涙が止まりません。すると突然、お父さんが立ち上がり、小走りして子どもの見ている前でわざと転びました。手も足も泥だらけになり、洋服も汚れました。私がとてもびっくりして、あっけにとられていると、そのお父さんは笑顔で男の子に言いました。
「○○(子どもの名)が転んだら、お父さんも転ぶ。だから大丈夫。」
 お父さんの行動に、男の子もびっくりしていましたが、お父さんの言葉を聞いて泣き止み、立ち上がって親子で公園の水道に向かって歩き出しました。

 私はその出来事に心を奪われました。なんと優しく、深く、あたたかいお父さんの愛情なのでしょう。理論や常識などでは量ることができないお父さんの転び、「だから大丈夫」の言葉。その行動と言葉には愛が満ちあふれていて、その想いが男の子の涙をそっと、やわらかくぬぐっていったのではないかと思います。ベンチでひとり感激している私に、父子が楽しそうに遊ぶ声が届いてきました。二人の洋服には転んだ痕がはっきりと残っていましたが、それは一緒に転んで、一緒に泣いて、一緒に遊んだ大切な「証」、父子が共に生きている、愛情豊かなヨゴレなのだと思いました。

2017年5月8日
2017.5.1

狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。(マタイによる福音書7章13節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

まっすぐには歩けない

 私は、「まっすぐな道」を歩いていられません。気が短いのか、移り気なのか、まっすぐに伸びている道、大きくて広い通りをてくてくと歩くことが、若いころから苦手でした。住宅密集地域で育ったせいもあるでしょうが、世界のどこかの大陸にあるような「まっすぐに伸びた広々とした道を往く」、なんて想像しただけで愕然としてしまいます。歩いているときの景色がなかなか変わらないことが、耐えられないのです。学生時代の「通学路」は、家から直線コースで二つほど角を曲がれば「立教通り」だったのですが、それさえも耐えられず、くねくねと、小さな道を歩いて通っていました。「あみだくじ」のように、角があれば曲がって小道を行く、そんな性分です。でも、例えば遅刻しそうになったとき、決して所要時間は変わらないとしても、歩行距離としてはかえって長くなってしまうとしても、直線を行くよりも、角を曲がっている方が、何だか一生懸命に急いでいる、って気になりませんでしょうか?
 さて、「狭い門から入りなさい」という聖書の言葉は、受験などで一流校(立教だってモチロン!と言いたい)の「難関」突破の隠喩のように使われることがありますが、私は「狭い門」から入る時の、速やかに通過できる感じ、景色が変わる感じ、そして主体的に入れる感じを思います。大きな、広い門は、誰もが行く道の先にそびえたって見えているかもしれませんが、「狭い門」は、決して目立たなくとも、自分が選んだ道、自分らしい道の途上に、たたずんでいるもののように思えます。そう考えると、必ずしも「狭い門」は、「難関」とは限らないでしょう。自分らしく生きているときの、生き生きした道の途上に、実は「狭い門」があるのです。それゆえに「それを見いだす者は少ない」とも記されています(14節)。
 そして、「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」という言葉は、単純な善し悪しを語っているというよりも、自分自身を失くしたところに敷かれた道、主体的に自分の命を生き抜いてゆく力を失ってゆく道への警鐘(注意喚起)と励ましとして聞くことが許されるでしょう。何より主イエスは、自分らしく生きる力を失わせられたような人々に向かって、この言葉を語られたからです。「狭い門から入りなさい」とは、「あなた自身の主体性において、あなたの命を生かす道を往きなさい」という激励の声なのです。そして、主イエスの言葉に照らされている立教大学は、「自由の学府」を謳う、あなたのための「狭い門」に他ならないのです。

2017年5月1日
2017.4.24

水が顔を映すように、心は人を映す。(箴言27:19)
立教大学チャプレン 金 大原

 森の中である木こりが大きな斧で木を切っていた。長らく斧を振っているのに木はなかなか倒れなくて大変そうだった。通りがかりの人がそれを見て不思議に思い、近づいてみると、その斧は錆びつていて刃こぼれもひどいことに気づき、「一度休んで刃を研いてからやればいいのではありませんか」と木こりに助言した。すると、木こりは後ろも振り向かないで「今は忙しくて研いている暇なんかない」と言い返し、休まず汗をダラダラ流して斧を振り回し続けた。この木こりにとって木を切ることと斧の刃を研くこと、どちらが先だろう。
 わたしたちは人生を良くするために絶えず自分を省みなければならない。今していることに意味や価値があるのか、自分は何に喜びを感じるのか、他者のために何を分かち会えるのか、と問い続けなければならない。これが祈りであり自己省察なのだ。これは木こりが斧の刃を研くことと同然である。
 ところが、わたしたちはこのようなことを心がけていない。今しなければならないことが多く、答えにくい問いなので、周りに目を配ることもできず自分を省みようともしないのだ。しかし、世のすべてのことが新しくなるこの時期にこそ、目先のことにとらわれているのではないかと省み、心の目をきれいにする省察が必要である。

2017年4月24日
2017.4.17

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネによる福音書13章15節)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

 イエス・キリストは十字架に掛けられる前の晩、十二弟子たちと最後の晩餐をとりました。
 イエスの死後、弟子たちは今までのようにイエスと共に歩むことができなくなりますので、弟子たちが独り立ちできるように、イエスは言葉と行いによって彼らに助言を与えます。言葉によって次のように言われます。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章34節より)
 そして、行いによっても助言を与えます。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13章15節)
 その模範とは、汚れている弟子の足を洗う事でした。自分が気にしている汚れ。それは体の汚れだけではなく、心の汚れをも含むことなのです。イエスは弟子の気にしているその汚れた部分に手を触れて、きれいになりたいとの弟子の心を理解し、共感し、水を用いて洗いました。弟子たちは足を洗われる際の、水の冷たさにハッとしながら、自分の気になる所に、しっかりと関わってくださるイエスの姿に嬉しさと有り難さを感じたのではないでしょうか。
 どの様に生きたら良いのか。わたしたち人間の歩むべき方向はどこなのか。
 模範を示してくださったイエスの行いと言葉を、度々、思い巡らしてみましょう。

2017年4月17日