チャプレンからの今週の言葉チャペル
「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」
(マタイによる福音書 6章29節)
立教大学チャプレン 中川 英樹
「欠けがある尊さ」
吉野 弘という詩人の作品の中に、『生命は』という詩があります。
「生命は 自分自身だけでは完結できないように つくられているらしい」とこの詩ははじまって、「生命は すべて そのなかに欠如を抱き それを他者から満たしてもらうのだ」と続き、そして、「世界は多分 他者の総和」と綴られていきます。
吉野が語るところの、他者から欠如を「満たしてもらう」・・・・・ その「満たしてもらう」との本意は、補い合って欠如をなくすことではなく、欠如ある存在であることを、互いに認め合うことにあります。互いが抱え持つ、その欠如があることこそが、この世界をより素敵にしている・・・・・ それが吉野が語らんとしたことに想います。
一人ひとり・・・・・ 欠けがある・・・・・ 完璧な人間なんかいない・・・・・ だから、その欠けを埋めなくていい・・・・・ 欠けがあることを嘆かなくていい・・・・・ 欠けがあることに怯えなくていい・・・・・ 欠けを一生懸命、隠して、自分じゃない自分を生きなくていい・・・・・ 「欠け」は、決して「欠け」なんかじゃない・・・・・ 人は、「欠け」があってこそ尊いのだ・・・・・
むしろ、その「欠け」があることが、一人ひとりの存在をこの上なく際立たせている・・・・・ わたしはそう信じます。
今、世界中のキリスト教会は、共に、キリストの復活を祝う、その祝いの直中を歩いていますが、「復活」って・・・・・ 欠如ある、そんな自分を、神が、この上なく、美しく装ってくれていることを確信し、ほんとうの自分に、立ち上がって往くコトを云います。
「いのち」は一人では、絶対に「いのち」になれなくて、みんなに支えられて、はじめて、「いのち」に成って往くのです。自分じゃないモノになろうとしなくていい・・・・・ あなたには、あなたが一番好きな「あなた」を堂々と生きて往ってほしいと希みます。
2025年4月28日
「欠けがある尊さ」
吉野 弘という詩人の作品の中に、『生命は』という詩があります。
「生命は 自分自身だけでは完結できないように つくられているらしい」とこの詩ははじまって、「生命は すべて そのなかに欠如を抱き それを他者から満たしてもらうのだ」と続き、そして、「世界は多分 他者の総和」と綴られていきます。
吉野が語るところの、他者から欠如を「満たしてもらう」・・・・・ その「満たしてもらう」との本意は、補い合って欠如をなくすことではなく、欠如ある存在であることを、互いに認め合うことにあります。互いが抱え持つ、その欠如があることこそが、この世界をより素敵にしている・・・・・ それが吉野が語らんとしたことに想います。
一人ひとり・・・・・ 欠けがある・・・・・ 完璧な人間なんかいない・・・・・ だから、その欠けを埋めなくていい・・・・・ 欠けがあることを嘆かなくていい・・・・・ 欠けがあることに怯えなくていい・・・・・ 欠けを一生懸命、隠して、自分じゃない自分を生きなくていい・・・・・ 「欠け」は、決して「欠け」なんかじゃない・・・・・ 人は、「欠け」があってこそ尊いのだ・・・・・
むしろ、その「欠け」があることが、一人ひとりの存在をこの上なく際立たせている・・・・・ わたしはそう信じます。
今、世界中のキリスト教会は、共に、キリストの復活を祝う、その祝いの直中を歩いていますが、「復活」って・・・・・ 欠如ある、そんな自分を、神が、この上なく、美しく装ってくれていることを確信し、ほんとうの自分に、立ち上がって往くコトを云います。
「いのち」は一人では、絶対に「いのち」になれなくて、みんなに支えられて、はじめて、「いのち」に成って往くのです。自分じゃないモノになろうとしなくていい・・・・・ あなたには、あなたが一番好きな「あなた」を堂々と生きて往ってほしいと希みます。
2025年4月28日
「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」
(ヨハネによる福音書 11章25節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹
キリスト教の暦において、最も大きな喜びであるイースターを迎えました。イースターは、十字架上で死を迎えたイエス・キリストを神が復活させられたことを記念する日です。
「復活」・・・。よみがえることなど一般的には信じ得ないことです。
聖書は、イエス・キリストが十字架の死にいたるまでに受けた壮絶な苦難と痛み、恥と侮辱を克明に伝えます。またキリストは十字架を背負わされて磔(はりつけ)の場所まで歩かされている道中で、3度倒れたと言われています。痛みを負うイエス、侮辱と恥を受けるイエス、また十字架の重さに耐えられず倒れ込んでしまうイエス。それは、痛みを負うことのしんどさを、恥を抱えることの辛さをイエスが知っているということ、そして背負いきれない重荷を負わされている時には倒れ込んでしまっても良いことを、イエスが身をもって示しておられます。
しんどいなら立ち止まってもいい、辛いならしゃがみ込んでいい、重いなら倒れてしまってもいい、そしていつかそこから立ち上がっていかれればいい。キリストの十字架はそのように私たちに語りかけています。
聖書における復活という言葉は「立ち上がる」、「起き上がる」ことを意味します。何もなかったかのように元通りになることではありません。傷つき、疲れ果て、倒れ込む私たちには、立ち上がっていく日が、起き上がっていく時が与えられていく、そこに復活の希望を見出します。
キリスト教のシンボルである十字架は、キリストの受難のみを象徴しているのではなく、その先にある希望をも私たちに語りかけているのです。
2025年4月21日
キリスト教の暦において、最も大きな喜びであるイースターを迎えました。イースターは、十字架上で死を迎えたイエス・キリストを神が復活させられたことを記念する日です。
「復活」・・・。よみがえることなど一般的には信じ得ないことです。
聖書は、イエス・キリストが十字架の死にいたるまでに受けた壮絶な苦難と痛み、恥と侮辱を克明に伝えます。またキリストは十字架を背負わされて磔(はりつけ)の場所まで歩かされている道中で、3度倒れたと言われています。痛みを負うイエス、侮辱と恥を受けるイエス、また十字架の重さに耐えられず倒れ込んでしまうイエス。それは、痛みを負うことのしんどさを、恥を抱えることの辛さをイエスが知っているということ、そして背負いきれない重荷を負わされている時には倒れ込んでしまっても良いことを、イエスが身をもって示しておられます。
しんどいなら立ち止まってもいい、辛いならしゃがみ込んでいい、重いなら倒れてしまってもいい、そしていつかそこから立ち上がっていかれればいい。キリストの十字架はそのように私たちに語りかけています。
聖書における復活という言葉は「立ち上がる」、「起き上がる」ことを意味します。何もなかったかのように元通りになることではありません。傷つき、疲れ果て、倒れ込む私たちには、立ち上がっていく日が、起き上がっていく時が与えられていく、そこに復活の希望を見出します。
キリスト教のシンボルである十字架は、キリストの受難のみを象徴しているのではなく、その先にある希望をも私たちに語りかけているのです。
2025年4月21日
「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」
(マルコによる福音書 13章31節、マタイによる福音書 24章35節、ルカによる福音書 21章33節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一
2025年度の学園生活がスタートしました。皆様の上に主の導きと祝福をお祈りいたします。そして日々の生活の中で、聖書のみ言葉との出会いがあることを希望します。
八木重吉の詩を紹介します。
この聖書(よいほん)のことばを
うちがわからみいりたいものだ
ひとつひとつのことばを
わたしのからだの手や足や
鼻や耳やそして眼のように
かんじたいものだ
ことばのうちがわへはいりたいものだ
この詩には、聖書を読もうとする私たちの心構えが述べられています。私たちは聖書の各文書が書かれた事実を学ぶことも必要ですが、何よりもそこに記されている言葉、特にイエスと心を通わせて読むことが大切です。単に知性と感性をもって読むだけでなく、深く味わうことが大事です。つまり「ことばのうちがわへはいりたい」のです。
詩編の詩人は「あなたの言葉は私の足の灯。私の道の光」(詩編119編105節)と語ります。以前の新共同訳では、「あなたの御(み)言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯」と訳されております。詩人の信仰を踏まえると「御言葉」のほうが相応しいかと思います。
この「御言葉」は、具体的には「聖書の言葉」です。聖書を通して語られる神の言葉、これが「御言葉」であります。しかもそれは聖霊によって私たちの心の中に響く言葉であります。私たちの頭だけではなくて、私たちのすべて、全存在を持って聖書に耳を傾けていくときに、この「御言葉」との出会いが生まれ、「足の灯、道の光」となります。御言葉に導かれて、御言葉に支えられて生きる歩み、これが詩人の信仰でした。
今週は、受難週となります。18日金曜日はイエスの十字架を想起し、20日に復活日を迎えます。聖書を通して、イエスの十字架、そして復活は、私たちに何を語ろうとしているのか、味読していきたいのです。
イエスは「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(マルコによる福音書13章31節、マタイによる福音書24章35節、ルカによる福音書21章33節)と語ります。今週も聖書を通して語りかけてくる神の言葉と出会っていきたいのです。
2025年4月14日
2025年度の学園生活がスタートしました。皆様の上に主の導きと祝福をお祈りいたします。そして日々の生活の中で、聖書のみ言葉との出会いがあることを希望します。
八木重吉の詩を紹介します。
この聖書(よいほん)のことばを
うちがわからみいりたいものだ
ひとつひとつのことばを
わたしのからだの手や足や
鼻や耳やそして眼のように
かんじたいものだ
ことばのうちがわへはいりたいものだ
この詩には、聖書を読もうとする私たちの心構えが述べられています。私たちは聖書の各文書が書かれた事実を学ぶことも必要ですが、何よりもそこに記されている言葉、特にイエスと心を通わせて読むことが大切です。単に知性と感性をもって読むだけでなく、深く味わうことが大事です。つまり「ことばのうちがわへはいりたい」のです。
詩編の詩人は「あなたの言葉は私の足の灯。私の道の光」(詩編119編105節)と語ります。以前の新共同訳では、「あなたの御(み)言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯」と訳されております。詩人の信仰を踏まえると「御言葉」のほうが相応しいかと思います。
この「御言葉」は、具体的には「聖書の言葉」です。聖書を通して語られる神の言葉、これが「御言葉」であります。しかもそれは聖霊によって私たちの心の中に響く言葉であります。私たちの頭だけではなくて、私たちのすべて、全存在を持って聖書に耳を傾けていくときに、この「御言葉」との出会いが生まれ、「足の灯、道の光」となります。御言葉に導かれて、御言葉に支えられて生きる歩み、これが詩人の信仰でした。
今週は、受難週となります。18日金曜日はイエスの十字架を想起し、20日に復活日を迎えます。聖書を通して、イエスの十字架、そして復活は、私たちに何を語ろうとしているのか、味読していきたいのです。
イエスは「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(マルコによる福音書13章31節、マタイによる福音書24章35節、ルカによる福音書21章33節)と語ります。今週も聖書を通して語りかけてくる神の言葉と出会っていきたいのです。
2025年4月14日