立教大学社会福祉ニュース
第23号(WEB2号), 2003年3月31日発行

2002年11月16日 第8回 対人援助技術セミナー

カウンセリングマインドの体験レッスンPart IV
―グループワークをとおして―

本研究所副所長・コミュニティ福祉学部教授
福山清蔵

報告者: 事務局 小堺裕一

はじめに
 福山清蔵氏の「カウンセリングマインドの体験レッスン」は,1995年に第1回が開催され,これまでピアカウンセリングやロールプレイングなどを主題に取り上げられてきた。今回は4回目で,グループワークを通して対人援助技術の手掛かりを得るセミナーとなった。午前は討論形式の「コンセンサス実習」と講義,午後は文字通り「体験」形式の「フィンガーペインティング」という一見まったく異なる二つの形態でそれを体験することとなった。私は,開催の事務局であったため,午前は参加できず,観察者の立場だった。しかし午後のフィンガーペインティングに参加することができた。

コンセンサス学習
 今回の「コンセンサス実習」の具体的方法は次のようである。参加者を4人ずつの3グループに分け,全員に同じプリントが配られる。プリントは1枚の簡素なものだが,そこには様々な考え方・境遇を持つ数人の個性的な人物が描写されている。これをまず個々人で読み,自分の共感する登場人物を決める。その後グループで,司会者を決めずに1時間の討論を行い,最終的にはグループとして共感できる人物を「グループの決定」として一つの判断にまとめる。ただし,あくまで話し合いの結果での決定とし,多数決などで決めてはいけない。その決定を各グループが発表し,最後に,これまでの過程をグループで話し合いながら振り返り,各自簡単な文章を書く。
 実際その様子を見ると,初めの個人の判断は,迷ってなかなか決まらない人もいたが,すんなりと決まる人のほうが多い。グループ討論が本番というべきところだが,やはり個々判断は分かれ,各々が個性的に主張を始める。同じ判断でも理由付けが違う場合もある。違う意見がぶつかり合うが,各人はただ自分に固執するのではなく,他者理解の姿勢で真剣に聞く。次々と判断,理由づけ,主張,そして理解,意見と続く。そのうちに,自分の判断を変える人も出てくる。判断は変えなくても違う理由つけのほうにむしろ納得する人も出てくる。一応積極的に主張することが前提となっているが,やはり相対的に控えめな人もいる。30分か40分位すると,「もう一度それぞれ考え直してみよう」というグループもあった。それまでの議論で「動いた」自分が再判断するのである。
 そして,最終的なグループとしての統一判断はどうなったか。各グループそれぞれであるが,最初の時点の多数に決まることは案外少なかったようである。グループの議論空間がばらばらだった個人を変容させ,グループ固有の判断を生むのである。
振り返りの過程に入ると,「動」かされていた自分が落ち着き,動かされて初めてわかる自分を理解する方向に向かう。他者理解の議論の後に自己理解が来る。

講義
 福山氏の講義を私が曲りなりに解釈すると,次のようなものだった。
 人にはそれぞれに価値観がある。価値観には絶対的価値と機能的価値があり,前者は例えば固い信仰といった変え難いものである。しかし,おおよそ価値とは機能的である。機能的であるとは,場・状況に依存して変化し得るということである。そして機能的価値は複数存在し,その中で序列を付け選択しうるという意味でも絶対的ではない。そして今回のコンセンサス学習で見られたのは機能的価値である。
 個々人が登場人物を選ぶとき,共感できる人を選ぶ,つまり感情で選んでいる。他者への期待が感情から現れる。しかし,この共感,期待がそれ自体として機能して選択行為をしているのではない。その背後に「価値」がある。守らねばならない価値に反する人物には感情で反発し,自分の価値に沿う人物に好感を持つ。つまり,コンセンサス学習での人物選択は,好感,嫌悪感そのものというよりも,実のところ,価値がそこにはたらいているのである。
 しかし価値は動く,すなわち機能的なのである。機能的価値を動かしてみようというのが今回のコンセンサス学習だった。流動的な討論空間を「場」とし,変化を試みたのである。
 福山氏の価値の機能性という考え方は,氏の創見であり,私は新しい気付きを受け,そしてその意味を私なりに理解できたと思う。しかしあえて疑問点も挙げたい。絶対的価値というのは設定しなくてもいいのではないか,動かし難いように見える固い信仰のような価値も社会的空間・場に動的に規定されて「機能」しているのではないか,確かに動かし難いであろうけれども,相対的に絶対性があるに過ぎないのではないかという疑問である。「機能的価値」という福山氏の概念をもっと徹底してもいいのではないだろうか。もっとも,福山氏自身も「絶対的価値」を完全という意味の「絶対」として考えてはいないかもしれない。
 例えば,コンセンサス学習の登場人物が,仏陀,キリスト,アラー,あるいはマルクスといった人物であったら,彼らの思想に価値を見出している人は,1時間の討論で選択を変えることはあり得ないだろう。しかし,この小さく短い議論空間ではなく,社会空間と一生という時間に置き換えてみれば,たとえ幼年期からの「社会的規定」は強く価値を与えその人を拘束し,価値の変化を妨げるとしても,その後社会空間の様々な位置に置かれ,それまでとは異なる人々との対話の中に入っていくときに,ひょっとすると固い信念も揺らぎ,そして確信的に崩れ,再構成されるということもあり得るのではないか。例えば,敬虔なキリスト教徒の中上流階級出身の息子がデクラッセ(階級脱落)して,苛酷な労働の職に就き,マルクス主義に感化され…,やや型にはまった粗筋だが,そういうこともあろう。福山氏の理論もそうしたことを否定しているわけではなく,むしろコンセンサス学習もすでにこうしたことを含意していたとも解釈できる。

フィンガーペインティング
 いよいよ午後はフィンガーペインティングでのグループワークとなった。これまでの机と椅子は片付けられ,皆は「汚れてもよい服装」となり,午後と同じ3グループに分かれ,それぞれ1枚ずつ模造紙が床に配られる。粉絵の具とそれを溶く水が置かれ,準備完了である。フィンガーペインティングとは,その名の通り,筆を使わず指に絵の具につけ絵を描くことである。何を描いてもよい。しかし福山氏より一つだけ(だったと思う)ルールが与えられた。「絶対に話してはいけない」である。同じグループワークでありながら,午前とはまったく逆の趣旨のルールである。言語による対話は禁じられ,各人の様々に塗りたくられた指とその描く軌跡で身体的なコミュニケーションが始まる。でも,これもコンセンサス学習と同じくグループワークには違いない。グループが個人の何かを変えることにグループワークの趣旨があるとして,午前は「価値」が変えられたけれども,午後は何が変えられるのだろうか。
 いざ始まり,みな恐る恐る絵の具を水に溶き,初めはだれもが躊躇しているが,ひとりひとり,何か,グループに一枚の模造紙に描き始める。ここでは私が参加したグループを例に実況したいと思う。細部については記憶に誤りがあるかもしれないが,容赦していただきたい。
絵1 一番初めに描き始めたのは女性の社会人で,黄色の明るい波線を上部の縁に沿って描いた。彼女は前回の講座にも参加しており,取り組みやすかったのだと思う。次は,大学生らしき青年が右の縁に沿って,大きな緑の円をやや大胆に3つ描いた。みんなルール通り無口である。次に描いたのは私だったと思う。私は青年の緑の3つの円に対し,勝手な思い込みだが,何か陣取りをして閉じこもっているような印象を受け,「突破」したくなった。私は左下から黒色で孤を描き,緑の円2つに突っ込んだ。3つの攻撃はやりすぎと感じていた。2つの円を突破したとき,わたしはふと「挿入」を意識してしまった。元の円を描いた彼は,後で聞いた話だと,何か侵害された不愉快な感じを味わったという。男性でもこうしたことは不愉快なのだ。
 上部の黄色い波線,右部の緑の3つの円,そこに突入する黒く長い弧線。これが私たちのグループの絵の基礎になったようである。それからは,皆が積極的に様々な想像で,おそらくは直感的にあらゆる線や点を加えていった。溶いて手につけた絵の具を「たらし」たり「ひっかけ」たりする人もいた。あるときは,他の人の線に同調して沿って線を描き,あるときは人の描いたものを否定するように濃い色で遮ったり,中央部に爆発状の「何物か」を描く女性もいた。皆「やりたい放題」といった感じだった。皆感情を互いにぶつけ合っていたように思う。しかし私は感情を発散しきると,「もういい」という気持ちになった。気持ちは落ち着いて,逆に絵に「秩序」を取り戻したくなって,ややむなしい努力をした。左部に格子状の構造物を作ろうとしたが,あまりに下地の絵の具がにじみすぎていて,半端に終わった。終わる前の数分は皆も落ち着いていたように思う。絵1が完成した私たちのグループの絵である。
絵2 終わり,無口のルールが解かれると,皆顔を合わせて明るく「苦笑」した。絵の中では攻撃し合ったりもしたが,試合終了,という感じで,お互い残るものはなかったのでないかと思う。その後福山講師の指示で,絵に名前をつけた。「フラストレーションたわわ」ということになった。
 他のグループの進行は,それぞれ違う様相だったようである。絵2を描いたグループは,各人が各々に陣取り,絵を描いていき最後にまとまる段階で交わっていったようである。もっとも上品に仕上がった絵と思う。絵3を描いたグループは,絵1と絵2の中間的な形式の進行だったと思われる。個人どうしの強い交わりと絵全体の調和が両立している。
 これらの3つの絵は,いま社会福祉研究所の壁に貼ってある。しばしば眺めるが,絵1だけは,強烈過ぎて見るのに疲れる。居間に掲げるような絵ではない。
 同じグループワークでありながら,あまりにも違った感覚を受け取った絵3フィンガーペインティングであったが,それはどのように違うのだろう。コンセンサス学習の過程では「価値」が変えられたとしたら,私がフィンガーペインティングの過程で見たのは,個々の感情の表明,挑発,そのぶつかり合い,同調,和解,許し,そしてぶつけ合いの果ての疲れと納得,けっして平和的な過程ではないが,より直接的に「感情」を揺り動かす空間であった。感情は一人で発散させることもできるかもしれないが,それがグループで共同作業となることで,発散に対して,同調なり,反発なりが相手方から来ることで,単独の思い込みの暴走とならず,何か「答え」に向かっていけるような感情発散となっていたような気がする。そのとき感情は一面一直線に走らずに他者の反応を受け,揺り動かされ,自分の感情の多面を表出させられる。

参加者の感想
 セミナー後寄せられた感想として,目立ったのは,「自分の知らない面を見た」というもの,複数寄せられた。これは,コンセンサス学習,フィンガーペインティングの両方に言えることだろう。グループは「鏡」であり,それも背中を映す多面鏡のようなものであったのかもしれない。もう一つ目立だった複数の感想は,自己表現がし切れなかったことを悔しく思うとするもの。これは,自分の中に他者を遮り過剰に自己防衛する壁を見つけたのだと思う。そして,もっと自己表現ができるようになりたい,という希望を新しく持った人が多かった。また,これは私の印象だが,自己表現が不十分に終わったと悔しく思う人は,けっして他人から控えめに見える人ではない。ということは,表層のコミュニケーションで他者から見られるものとは違う,心の奥の壁を言っているのだろう。

芸術療法について
 私は,精神療法の専門家ではないので,もしかしたら駄文となるかもしれないが,人生に2度「クライエント」になった経験から,書き加えたいことがある。
 一度目は「ある意味での」クライエントに過ぎないが,幼少時の5~6年,芸術療法的な絵画教室に通わされていた。主催者は心理学者でもある。その教室の基本方針は,「何を描いてもいい」「好きなようにどんどん表現して」というものであり,技術的なことはめったに教えられない。でも楽しかったのは初めの一回くらいだったような気がする。たしかにそのときは感情が爆発したような絵だった。しかし,その後は,早く帰りたいだけの「お稽古事」となって,期待される「表現的」な絵をしぶしぶ描くだけだった。その自由な「ふり」をした絵はなぜか,気に入られていた。しかし本当のところは,いくら「好きなように」と自由を言われても,描かないで帰る自由はないわけで,結局強要されていて,いやだったのである。幼少時の私は理科的なことに興味があり,家に帰ってそうしたことで遊びたかった。算数も好きだった。私はむしろ「塾」の方に通いたかったぐらいである。しかし,絵画教室は通わされつづけ,美術そのものまでが嫌いになってしまって,いまでも私にとって美術館はもっとも退屈な場所になっている。
 二度目は数年前「うつ」を患ったときにかかったカウンセリングである。単純化しすぎるかもしれないが,そこで私が指摘されたことは「理屈で生きている」「感情が乏しい」といったことで,それ自体は的を得ていた気がする。しかし,そこで出された療法が「コラージュ療法」であった。「自由に」貼り絵をし,思うように感情を表現する,というものである。ただし,やらない自由はない…。わたしは,「またか」と直感し,何度も拒んだが,続けさせられた。ちっとも面白くない。私は「理屈っぽい」療法たる「認知療法」を要望したが拒まれた。コラージュを強く拒むと「治りたくないんですか?」とまで。半年経って何も効果が実感できずやめた。ほっとした。そして,実際に効いたのは医師の処方した「抗うつ剤」で,きっちり回復した。
 結局この経験から私が思うのは,「好きなように」というのは本当に,真に任意であり,やらない自由までがなければ意味が乏しいということである。絵の教室に通う,通わないもまったく任意で何ら圧力を感じなければ,たまに通って,そのうち絵が好きになった可能性もあったと思う。また,すでに絵が好きでない人に,配慮なく絵を描かせて,それがその人の感情の解放となるわけはない。つまるところ,カウンセラーを目指す人に望みたいのは,芸術療法が専門であっても,それが万能なのではなく,逆効果を与える可能性もあることを認識し,あえて施すとしても任意性を本当に大事にしていただきたいことである。理屈っぽい人には,認知療法家を紹介したほうが,その後クライエントは療法家に理屈を言い尽くして,逆に感情を表現したくなるかもしれない。
 しかし,今回のフィンガーペインティングは,人生でおそらく初めて「任意」の絵描きだった。他の参加者は自ら進んで申し込みをしたとはいえ,申し込んで受講してしまった以上,「午後は帰ります」とはいいにくいだろうから,その後の任意性は低下していたかもしれない。しかし,私はずるく参加した。午前の始まる時点で,講師の福山氏に「今日は事務局に徹するので参加は…」と一回遠慮しておいた。そして参加義務のない午後に,突然参加したのである。まさに任意のわがまま参加である。不思議なことに,やってみると気持ちが乗ってくる。幼少時のあの苦しさはない。自由だ。正直に言って,面白かった。初めて描く面白さを実感した。絵を描く行為への屈折が少しほぐれた。私は,非常に攻撃的に描き,それは「お絵描き」そのものに対する怒りでもあったのだが,絵の方は静かに受け止めてくれた。

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