第4章
立教学院の戦後復興(1945~1955)

池袋周辺も空襲によって焼け野原となりましたが、幸いにも立教の施設の被害は軽微でした。しかし、敗戦直後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)から、大学総長以下、幹部11名の追放指令が出され、立教学院を大きく揺るがすことになりました。その理由は、戦時下におこなったキリスト教主義を払拭する一連の措置が、「信教の自由侵害」にあたるというものでした。いわゆる「教職追放」のさきがけとなるものでした。

こうして、戦後の立教の復興は、失ってしまったキリスト教主義の再建が第一とされ、立教学院の目的を「基督教ニヨル教育ヲ行フ」に戻すとともに、チャペルを再開し、文学部も、英米文学科と基督教学科に縮小されましたが、復活することとなりました。

戦後直後の問題が一段落すると、拡張路線を基調とした本格的な再建計画が練られていくことになります。そのポイントは、建学方針をより徹底するための一貫教育を完成させることと、大学の総合大学化に置かれていました。そして、その実現のための敷地の拡張が重要な課題とされ、現在の立教通り北側の校地が購入されました。

いわゆる六・三・三・四制の新しい学校制度が実施されると、立教学院では1947(昭和22)年に新制中学校が開設され、翌年に小学校と高等学校が新設されました。一方大学については、さまざまな学部・学科構想が浮上する中、真っ先に設置が決定されたのは、戦時下に実現できなかった医学部でした。さらに、医学部の前段階教育のため、戦時下に設置した立教工業理科専門学校を母体とする理科系学科の新設も決定されました。しかし、医学部設置には、聖路加側の協力が必要とされていましたが、GHQの接収を受けていることから、将来計画へと移されることになりました。実際に申請されたのは、文理学部と経済学部の二学部でしたが、文理学部の理科系学科は、審査段階で施設の不備が問題とされたため、文理学部から切り離され、文学部(キリスト教学科・英米文学科・社会科・史学科・心理教育学科)と経済学部(経済学科・経営学科)が1949(昭和24)年2月に認可されました。残った理科系学科は、再申請した結果、同年3月25日に理学部(数学科・物理学科・化学科)として認可を受け、3学部でのスタートとなりました。

理学部の母体となった立教工業理科専門学校は、1950(昭和25)年に廃止され、翌1951(昭和26)年には、立教各校を経営する財団法人立教学院は学校法人立教学院へと改組され、その後長らく続く立教学院の体制が整うこととなりました。

なお、新制大学は、戦前の旧制大学のあり方への批判から、専門教育に加えて「一般教育」をおこなうことをその特徴としていました。立教大学でも、一般教育課程は1949年から開始されていましたが、それを担う機関が組織されていたわけではありませんでした。そこで、1955(昭和30)年、一般教育に責任を持つ組織として、一般教育部が発足しました。

(写真4_01、02)

(写真4_01、02)GHQ覚書「信教の自由侵害の件」
1945(昭和20)年10月24日、連合国軍最高司令官総司令部は、日本政府に覚書を送り、三辺金蔵大学総長以下立教学院幹部11名の追放を指示した。「信教の自由侵害」とされた内容は、①キリスト教儀式・授業の廃止、②キリスト教信者の解職、③チャペル等の施設への「蛮的行為」というものであった。

【史料翻刻】
連合軍最高司令部発 終戦連絡中央事務局経由
「(写)日本帝国政府に対する指令覚書」(1945年10月24日)
 
主題 「信教の自由侵害の件」
一、外国のキリスト教徒に依つて創設せられ且維持せられつつありし教育機関の職員がその関係する教育機関を軍閥主義化せん為にまた極端に国家主義化せん為に言語道断にも之を完全に解体せしめるに至つた。かかる赦し難き彼等の行為に対して連合軍司令部は今日まで注意を向けつつありたり。
二、茲に立教学院(立教大学並に立教中学)に関する事件をかかる無法なる信教の自由の侵害、不当なる蛮的行為の一特例として引用する。
 (下略)

OFFICE OF THE SUPREME COMMANDER
FOR THE ALLIED POWERS

AG 000. 3 (24 Oct. 45) OIS
24 Octorber 1945
MEMORANDUM FOR: IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT
THROUGE : Central Liaison Office, Tokyo.
SUBJECT : Violation of Religious Freedom.

1. The attention of this headquarters has been directe(d) to certain acts on the part of officials of educational institutions, founded and supported by Christians of foreign nations which represent inexcusable and unjustifiable subversion of such institutions to militaristic and ultra-nationalistic end.

2. The case of Rikkyo Gakuin(St. Paul’s University and Middle School) is cited as a specific example of such flagrant Violation of religious freedom and unwarranted vandalism.
*remaining text omitted

(写真4_03)

(写真4_03)女子学生の入学
男子校であった立教大学にも、戦後、女子学生が入学してきた。立教初の女子学生は、1946(昭和21)年4月に入学した児玉純子、桑原愛子、竹内美恵子(以上、文学部)、土田美代子(経済学部)の4人であった。写真はそのうちの2人(左が桑原、右が竹内)。(竹内美恵子氏提供)

(写真4_04)

(写真4_04)立教学院再建拡充綜合計画案図
戦後直後の諸問題が一段落すると、大学の総合大学化と一貫教育の完成を目指した立教学院拡張計画が、ポール・ラッシュによって練られた。写真は、1947(昭和22)年に作成された計画案。既存のキャンパスの南北に土地を取得し、南側に総合運動場、北側に大学院・寄宿舎と聖公会神学院を備える、壮大なものとなっている。

(写真4_05)

(写真4_05)吉田茂と写るポール・ラッシュ、佐々木順三
戦後首相となった吉田茂(左から3人目)は、ラッシュの「日本における最も親しい友人の一人」であった。吉田の左は、キリスト教主義教育の再建をはじめとした戦後の諸改革を担った佐々木順三(立教学院院長、立教大学総長、立教各校校長)。(ポール・ラッシュ記念センター提供)

(写真4_06)

(写真4_06)小学校授業の給食風景
1948(昭和23)年4月6日、児童数82名(2クラス)の小学校第1回生が入学し、中学校校舎3室を借りてスタートした。写真は、給食時の様子。学校備え付けの食器で給食が用意された。当初給食には主食がなく、ミルク、味噌汁、シチュー、煮付け等が出されていた。給食費は1学期375円であった。

(写真4_07)

(写真4_07)新校舎の門をくぐる児童
1949(昭和24)年3月13日に小学校の開校式がおこなわれた。写真は、佐々木順三校長によって開かれた門から入校する教職員と子どもたち。鉄門は金子登(1回生保護者)による寄贈。

(写真4_08)

(写真4_08)小学校設立時の主事、マーベル・ルース・シェーファー
シェーファー主事は戦前、立教中学校で英語を教えていた。なお、各校の校長は、佐々木順三大学総長が兼務していた。

(写真4_09)

(写真4_09)新制中学校卒業生
新制立教中学校は、1947(昭和22)年4月に旧制の立教中学校を制度上、残したまま発足した。写真は、1948年度(1949年)3月に卒業した生徒たちの集合写真。服装がまちまちなことに、当時の衣料事情がしのばれる。

(写真4_10)

(写真4_10)中学校の新校舎
1950(昭和25)年3月25日、戦時下に新築した木造校舎が原因不明の火事で焼失してしまったため、鉄筋コンクリート3階建て8教室の新校舎が完成した。1951(昭和26)年1月25日、「聖パウロ回心日」にちなんで落成式を迎えた。この校舎は後に「第1校舎」と呼ばれる。

(写真4_11)

(写真4_11)新制中学校設立時の主事、花房正雄
旧制中学校時代から引き続き主事に就任した。また、大学総長による校長の兼務制度が1957年度に終了すると、校長に就任した。

(写真4_12)

(写真4_12)高等学校の正門
立教高等学校は1948(昭和23)年に設置され、池袋の地では12年の歳月を送った。写真は1925(大正14)年に建設された旧制立教中学校校舎で、当初高校はここに同居してのスタートであった。

(写真4_13)

(写真4_13)高等学校の校歌
校歌の原案は、斎藤達夫、縣康、小木鐵彦の三教員によって起草されたが、最終的には大学の武藤重勝教授により添削、作詞された。作曲は小松平五郎(作曲家)で、1949(昭和24)年9月22日に発表された。

(写真4_14)

(写真4_14)高等学校設立時の主事、佐々木喜市
戦前、立教中学校や立教大学で教鞭をとり、そののち第一高等学校教授や大阪高等学校長などを歴任した。戦後、佐々木順三の招請をうけて1948(昭和23)年、高等学校主事に就任した。

(写真4_15)

(写真4_15)新制大学設立準備委員会の記録
1947(昭和22)年7月に大学基準協会で「大学基準」が制定され新制大学制度の方針が定まると、立教学院および立教大学も新制への移行準備を始めた。写真は学内の首脳が本件について協議する場であった新制大学設立準備委員会の記録。

(写真4_16)

(写真4_16)理学部の設置認可書
新制大学の認可申請は、1948(昭和23)年7月31日付でなされ、文学・経済の2学部が、1949(昭和24)年2月21日付で設置認可を受けた。文理学部から切り離された理科系学科は、1949(昭和24)年3月25日に理学部として認可を受け、立教大学に3つ目の学部が誕生した。写真は原本の複写物。

(写真4_17)

(写真4_17)戦後の立教工業理科専門学校(大学正門)
立教工業理科専門学校は、戦時下の1944(昭和19)年に設立された立教理科専門学校が翌年に名称変更した学校で、戦後も引き続き存続した。写真右側の門柱に掲げられた表札に同校の名称が見える。同校を母体とした理学部が設置されると、1950(昭和25)年4月28日付で廃止が認可された。

(写真4_18、19)

(写真4_18、19)タッカーホール・チャペル会館の落成
1954年12月、米国聖公会の寄附によりタッカーホールおよびチャペル会館が落成した。立教学院創立80周年記念式典とともに落成式がおこなわれた。写真は、タッカーホールとチャペル会館の外観を写したもの。