第3章
戦時体制と立教学院(1931~1945)

1931(昭和6)年、大学と中学校を経営維持するための組織として「財団法人立教学院」が設立され、「基督教主義ニヨル教育ヲ行フ」ことを、その目的として明確に掲げました。初代理事長はマキム主教で、七名の理事のうち、日本人は唯一人という構成でした。

池袋移転後の大学は、学生数が急激に増加していき、立教学院では、校舎をはじめとした施設・設備の大規模な拡張を計画しますが、母教会側は、大規模化による教育効果の低下を危惧しており、また、世界恐慌による財政悪化を抱えていたこともあり、これまで以上の財政支援を期待することはできませんでした。そうした中で、唯一、予科校舎(現4号館)が日本人関係者の手によって、1937(昭和12)年に建設されました。

この間日本は、満州事変(1931年)・日中戦争(1937年)と戦火を拡大させ、日米関係は悪化の一途をたどることになります。それに伴い、米国聖公会から派遣された宣教師や教師は要職を離れざるを得ず、最終的には、ポール・ラッシュ教授を除く全員が帰国することになり、立教を生み、そして維持してきた米国聖公会との関係は、完全に絶たれました。

戦争の拡大とともに、教育の戦時体制化が進められていくと、理科系教育拡充・文科系教育抑制という方向性が強まっていき、文科系からなる立教大学は、しだいにその存続が危ぶまれるようになりました。そうしたなかで、長年懸案とされてきた聖路加国際病院との協力による医学部の設置計画が具体化し、申請書が提出されました。しかし、病院を管轄する厚生省の反対にあい、実現には至りませんでした。

対米開戦以後、立教学院においても、超国家主義的な思想がしだいに広がりをみせ、立教の存在意義でもあったキリスト教主義への排撃が強くなっていきました。その結果、1942(昭和17)年には、大学の学則からキリスト教主義に関する部分が削除され、チャペルも閉鎖され、立教学院の目的とされた「基督教主義ニヨル教育ヲ行フ」も、「皇国ノ道ニヨル教育ヲ行フ」へと変更されました。

(写真3_01)

(写真3_02)

(写真3_01、02)財団法人立教学院の成立
1931(昭和6)年8月7日、財団法人聖公会教育財団から、財団法人立教学院に財団名を改めた。これにより、立教と聖公会神学院の経営が分離することになった。理事長はマキムで、理事6人のうち日本人は松﨑半三郎ただ一人であった。

(写真3_03)

(写真3_03)完成した予科校舎(現4号館)
池袋移転後、大学の学生数は増加の一途をたどっていた。そのため、施設の拡充を中心とした拡張計画が構想されたが、米国聖公会からの財政支援を前提としていたため、なかなか実現できずにいた。そうしたなか、日本人関係者の手により、木造のバラック校舎で急場をしのいできた予科のための校舎が、1937(昭和12)年に完成した。設計監理は、山手聖公会教会堂を手がけたことでも知られる、J・H・モーガンの建築設計事務所である。

(写真3_04)

(写真3_04)ライフスナイダー名誉総長推戴式
日米関係が悪化した1940(昭和15)年10月、ライフスナイダーは、立教学院理事長兼総長の職を辞した。立教学院では、多年の尽力に感謝して名誉総長に推戴した。写真は、1941(昭和16)年5月24日に行われた推戴式後の総長記念館(現ライフスナイダー館)における記念撮影。中央がライフスナイダー、その右がジョセフ・グルー駐日米国大使。左端が新理事長の松井米太郎、その右が新学院総長(大学学長兼務)の遠山郁三。

(写真3_05)

(写真3_05)中学校学校市会議員(1931年度)
中学校では、1926(大正15)年より、学校全体を「市」、クラスを「区」と見立てたユニークな自治制度を実施していた。市会議員は、各学年各クラスから3名ずつ選出された。

(写真3_06)

(写真3_06)大学生の学生生活
図書館閲覧室(現メーザーライブラリー記念館旧館2階)の様子(1934年)。

(写真3_07)

(写真3_07)1930年代の授業風景
ウィリアム・ブラッドフォード・スミス教授の講義風景。

(写真3_08)

(写真3_08)立教大学聖歌隊の創設
1933(昭和8)年の立教大学聖歌隊を写した1枚。

(写真3_09)

(写真3_09)宣戦の詔書捧読式
対米英宣戦布告の詔勅は、1941(昭和16)年12月8日に発布された。大学でもその捧読式を翌9日、予科校舎南側の校庭(現13号館敷地)で全学生を集めて挙行された。(『立教大学新聞』1941年12月10日付)

(写真3_10)

(写真3_10)チャペルの一時閉鎖を報ずる『立教大学新聞』の記事
学内における軍国主義・超国家主義的な風潮が強まるなか、「教育方針を更に明確にすべき」との理由からチャペルは一時閉鎖されて「立教学院修養堂」と改称し、学院関係信徒の家族的礼拝をとりおこなう場所となった。(『立教大学新聞』1942年10月10日付)

(写真3_11)

(写真3_11)寄附行為改正認可申請書
チャペルの閉鎖と同じ時期、立教学院は、その設立目的を「基督教主義ニヨル教育ヲ行フ」から「皇国ノ道ニヨル教育ヲ行フ」へと変更した。1942(昭和17)年9月29日の学院理事会で決定し、同年11月4日、「寄附行為改正認可申請書」として文部大臣に提出した。

(写真3_12)

(写真3_12)医学部設置認可願
立教大学に医学部を設置するための認可願が、 1942 (昭和 17 )年 2 月 19 日に提出された。聖路加国際病院を立教学院へ合併することによって実現しようという計画であった。医学部設置に対する文部省の内諾は得られたが、聖路加の解散申請に厚生省が反対したため、認可申請書は取り下げられた。

【原文翻刻】
「医学部設置認可願」
財団法人 立教学院

〔略〕

立教大学医学部設立趣旨

立教大学と聖路加国際病院とは均しく崇高なる精神を以て東京市築地に創立せられ発展拡張するに伴ひ其の一を池袋に移せしも幾十星霜の間常に相互扶助の下に相提携して経営し来り従つて其間医学部設立の議を断たず殊に昭和四年には其筋の内諾を得て基金を募集し業将に成らんとせしも時会々〔たまたま〕我邦に施設内容共に完備せる国際的病院の絶無を歎するもの少なからず其の設立特に緊急を要せし余り遂に実現を見るに至らずして今日に及べり。
然るに今や時勢は急転して興亜の大業を完遂し民族の悠久なる発展を期すべき曠古の秋〔とき〕に際会し邦家〔ほうか〕万全の策として国民体力の強化と我民族人口の優生増殖の急愈々切迫し来れるあり更に大東亜戦の発展に従ひ共栄圏内移住開拓者の生活指導住民の医療保護の必要之に加はるに至れり而して是等の目的を達成するの途一に済民に兼ねて教化あるのみ、然るに此重要なる国家の要望に応へ積極的協力を尽すべき医師殊に人格高潔にして学識技能を具へ実践力旺盛なるものは俄に極度の不足を告ぐるに至り現在養成しつヽある医療機関のみにては到底現下並に将来に於ける国家社会の要求を充し得べくもなし、茲に於て立教大学と聖路加国際病院と相諮り決然立ちて多年の宿志たる医学部新設を断行し人格の陶冶に兼ね人身強健にして大東亜建設に参加し得る気魄の養成に重点を置き医道昂揚の精神を錬成すると共に医療医学並に予防医学に関する学術技芸を併せ教授し以て我国民並に汎く東亜民族の医療及保健指導の第一線に活躍し国家の要求に応じ得べく鍛錬せる実地医家を養成し以て国策の達成に資し興亜医業の遂行に協力せんとす。
これ即ち現下の国家的要請に即応し茲に本大学に医学部を設置せんとする所以なり。
(『立教学院百二十五年史』(資料編第1巻、立教学院、1996年)、735~736頁)

(写真3_13)

(写真3_13)「教育ニ関スル戦時非常措置方策ニ関スル件」への回答案
戦局の悪化とともに、理科系教育拡充・文科系教育抑制の流れが強まっていくなか、医学部設置を断念した立教学院では、1943(昭和18)年8月31日付で理科専門学校の設置認可を申請していた。その認可を待っている矢先、学生生徒の徴兵猶予停止と「戦時非常措置方策」が決定され、文科系は理科への転換や統合整理するとの方針が打ち出された。しかし、立教学院では「立教大学ハ存続ヲ希望ス」との返答を送り、大学の存続を訴えた。写真は同案の説明書。(「財団法人立教学院第七十一回理事会記録」1943年11月29日)

(写真3_14)

(写真3_14)文学部教授会記録
理科専門学校の設置とともに、大学そのものも存続させるため、学院当局は文学部の「閉鎖」を決定した。文学部教授会記録の末尾には、この時のものと思われる記録が記されている、断片的であるが、文学部の「閉鎖」をめぐって激しい議論が交わされていた様子がうかがわれる。

【原文翻刻】
「文学部ノ閉鎖」(『文学部教授会記録 自昭和十六年五月 至昭和十八年一月』)[1943年]

〔前略〕
第二十一回 昭和十八年一月二十三日  於本部会議室
  遠山学長退職ノ挨拶アリタリ
附記
コレヲ以テ文学部教授会議事録ハ了ル。コノ後、三辺金蔵学長、須之内品吉学監(学監ノ職ハ未ダ嘗テナキ制ナリシモ、学長補佐ノ為メト称シテコノトキ始メテオカレタリ)井出義行文学部長就任ノ人事行ハル シカシ、コノ後チ井出文学部長ハ教授会ヲ招集セズ
 月 日〔空欄ママ〕、三辺学長、ライフスナイダー館(当時 ライフスナイダー(強制的ニ)帰国サレシタメ、空家トナリタルヲ会議ニ使用ス)一階ニ、教授、助教授 時間講師全員ヲ招集シ、文学部閉鎖ヲ宣言ス(井出文学部長ハ欠席)
田辺忠男教授 立ツテ 遠山学長排斥運動ニツキ、曾祢武予科長ヲ面詰ス、ツヅイテ文学部閉鎖ニ関シ、白鳥教授(史)、藤本了泰講師(史)ヨリ反対ノ発言アリ、議場混乱シ収拾ツカズ。三辺学長 進退窮シ 閉会ヲ宣ス。〔後略〕
(『立教学院百二十五年史』(資料編第1巻、立教学院、1996年)、455~456頁)

(写真3_15)

(写真3_15)中学校の軍事教練(銃剣術)
軍事教練は「学校教練」と呼ばれ、1920年代中盤から導入された。写真は、1943年度の立教中学校卒業アルバムに掲載。この頃には、銃剣で敵を刺突する訓練も盛んにおこなわれた。

(写真3_16)

(写真3_16)予科練への入隊壮行会
軍関係の学校や少年兵への志願が奨励され、中学2年生以上の生徒は続々と出陣していった。1943(昭和18)年度には陸海軍合わせて29名の出陣者があった。写真はこの年の11月25日、海軍飛行予科練習生(予科練)として入隊する15名のためにおこなわれた壮行会のスナップである。

(写真3_17)

(写真3_17)中学生の勤労動員
1944(昭和19)年2月、「決戦非常措置要綱」が閣議決定され、中学生以上が工場に通年動員された。写真は、髙橋広教諭引率のもと、大日本油脂工場で航空機エンジンの潤滑油の製造にあたった4年生。

(写真3_18)

(写真3_18)大学の教練
戦局の悪化とともに、大学における教練も厳しいものとなっていった。写真は、昭和16(1941)年9月21日、滝ヶ原演習場(静岡県御殿場)での教練に参加した予科3年生のスナップ。

(写真3_19)

(写真3_19)立教学院関係戦没者の慰霊祭
戦火の拡大により、立教学院関係者の中にも戦没者が相次ぐようになった。学院では、1939(昭和14)年から慰霊祭を挙行し、戦没者名を「名誉之戦死者」紀念牌(写真上部)に刻むこととなった。写真は、1941(昭和16)年の慰霊祭の様子。なお、チャペルが閉鎖されてからは、慰霊祭は神式でおこなわれるようになった。

(写真3_20)

(写真3_20)池袋の焼跡
池袋周辺は、2度にわたる大規模な空襲を受け、「本校周囲概ネ焦土トナル」と中学校の『教務日誌』に記されたほどであった。幸い、校舎には大きな被害はなかったが立教通り北側の聖公会神学院と池袋第5国民学校(小学校)は全焼した。写真には立教中学校屋上からの様子が収められ、焼け残った国民学校の防火壁が見える。