第6章
立教学院の矛盾と展開(1967~1992)

1969年(昭和44)年には、全国の多くの大学に起きていた「大学紛争」が、文学部の教員人事問題を発端として、立教大学にも起きました。学生による大学への「異議申し立て」は激しいものでしたが、大学側は、警察の力に頼らず、大学自身での解決を目指し、学生の問いかけに対応しました。また、こうした経験は、その後のカリキュラムや入学試験などの改革にも生かされています。

高度成長期以降懸案となってきた学費値上げについても、さまざまな検討がなされましたが、1982(昭和57)年度に学費の物価スライド制が導入されることで打開が図られました。

この時期には小学校、中学校、高等学校、大学が、それぞれ推薦入試やカリキュラムの改革を通じて、立教学院の維持発展を図りました。

高等学校に引き続き、大学の新座移転も検討されてきましたが、1990(平成2)年に大学新座キャンパスが開校し、各学部週一日利用という形で活用が始まりました。

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(写真6_01)第1回総長所信表明集会
1969(昭和44)年、仏文科の教員人事をめぐって生じた「大学紛争」は、全学スト、校舎のバリケード封鎖へと発展し、6月25日以降、大学の研究・教育活動は停止状態に陥った。この間、文学部や法学部、総長などが学生側との団交に応じ、話し合いによる解決を模索した。写真は、全共闘主催による2回の「総長団交」についで10月7日に開かれた、総長の所信表明会の様子。壇上を占拠した全共闘の学生たちは、前回の団交の「総括」を大須賀潔総長に迫った。

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(写真6_02)「第11回立教祭 泯滅の饗宴」
1969(昭和44)年の立教祭は、11月9日からバリケードの続く中で開催された。

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(写真6_03)大学学費値上げ撤回
1971、72年に首都圏にある各私立大学で学費値上げが表明されるなか、立教大学では1973(昭和48)年度の学費値上げはしないと表明した。写真は総長室でインタビューを受ける佃正昊総長(『立教大学新聞』1972年11月30日付)。

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(写真6_04)尾形総長の大学財政再建、(写真6_05)大学財政を分析した文書
「大学紛争」後の混乱期は大学の財政も逼迫していた。1981(昭和56)年12月、尾形総長は綿密な現状分析を基に、学費を毎年物価スライド方式で値上げしていくことを決断、発表した。

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(写真6_06)大学池袋9号館誕生
1978年11月、池袋校地に9号館が落成した。多目的で使用できる650人収容の中講堂、学生の利用に供する読書室やコモンルームを備えた。写真は2017年撮影。

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(写真6_07)法学部社会人入試当日の風景
1979(昭和54)年度、法学部は社会人を対象とした入試を一般とは別枠で実施した。総合大学としては初の試みに、マスコミの注目を集めた。文学部でも、1980(昭和55)年度から小論文と外国語のみによる画期的な入試「B方式」を実施し、個性重視の入試のさきがけとして、こちらも話題になった。

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(写真6_08)開校当時の新座キャンパス、(写真6_09)新座キャンパス1号館の竣工
新座キャンパスの敷地は、東武鉄道の寄付によりすでに1958(昭和33)年末に取得していた。その際の条件としては、高等学校と一般教育部機能の移転が条件となっていたが、大学機能の移転はなかなか実現しなかった。1990(平成2)年になってようやく大学の校舎が建設され、各学部の1年生が週1回通学するようになった。

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(写真6_10)小学校に室内温水プール完成
1950年代から60年代にかけて、講堂兼体育館や鉄筋の新校舎の建設、LL教室の整備など、小学校施設の充実がはかられた。1974(昭和49)年には、鉄筋の新体育館とともに温水プールが完成した。

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(写真6_11)中学校LL教室での授業
「学力向上」の一環として1967(昭和42)年に完成したLL教室は、英語力向上に大きな役割を果たした。

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(写真6_12)中学校の文化祭(30th)
1980(昭和55)年、立教中学校では第30回目の文化祭を開催した。写真は文化祭のパンフレット表紙。(『〔中学校卒業アルバム〕』1981年より)

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(写真6_13)中学校の文化祭(30th)での演劇部公演
文化祭で「巌窟王」を公演した中学校演劇部(『〔中学校卒業アルバム〕』1981年より)。