第1章
創立者ウィリアムズと立教学校(1874-1907)

立教各校の源流は、1874(明治7)年2月3日、米国聖公会のウィリアムズ主教によって始められた私塾に求められます。この学校は、築地居留地界隈で産声を上げ、5名とも8名とも伝えられるごく少数の生徒でスタートしました。当初は、英語や聖書の授業を中心とし、生徒の多くは寄宿生でした。

その後、二度にわたる大火事によって、数度の移転や一時閉鎖を余儀なくされましたが、1883(明治16)年には、ガーディナー校長のもと、築地居留地37番に本格的なレンガ校舎を完成させ、アメリカのカレッジを模した「立教大学校」と称するようになりました。しかし、これまで追い風となっていた欧化主義に代わって国粋主義が台頭するようになると、外国的な学校のあり方への不満の声も強くなり、1890(明治23)年には、再び「立教学校」へと改称し、日本の実状に沿うような改革が行われました。

1894(明治27)年、東京地方を中心とする大地震によって校舎が崩壊したため、「六角塔」と呼ばれる新校舎と寄宿舎を建設し、現在の聖路加国際大学がある一角に移転をしました。1896(明治29)年には、学校制度が整い進学ルートが確立されていく状況に合わせ、「立教専修学校」と「立教尋常中学校」に改組され、2年後には、中学校が中学校令による認可を受け、生徒数もこれまで以上に増加していきました。

1899(明治32)年、認可校での宗教教育や儀式を禁止する「文部省訓令第12号」が出され、ミッションスクールに衝撃を与えることになりますが、立教は、ウィリアムズの後任であるマキム主教とロイド校長のもと、専修学校と中学校、「東京英語専修学校」(1897年、神田錦町に開設)、寄宿舎を「立教学院」の名で登録し、認可校である中学校以外でのキリスト教教育を維持することで対処しました。これによって、中学校の校勢は順調に伸びていくことになりますが、学校制度に位置づかない専修学校は振るわず、また英語専修学校も1903(明治36)年には閉鎖されました。

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(写真1_01)ウィリアムズChanning Moore Williams(1829.7.18-1910.12.2)(写真右)
日本聖公会初代主教、立教学院の創設者、神学博士。ヴァージニア神学校卒業後、1856(安政3)年に清国伝道を開始した。日本の開国に伴って1859(安政6)年、プロテスタント最初の宣教師の1人として長崎に上陸。1874(明治7)年に東京築地の開市場に私塾(立教学校)を開いたほか、数々の教会や学校をおこした。1887(明治20)年には日本聖公会を組織し、その2年後に主教(監督)の職を辞して一介の宣教師として関西各地に伝道した。1908(明治41)年に帰米し、翌々年故郷で永眠した。

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(写真1_02) 立教学校の開業広告
1874(明治7)年12月30日付『朝野新聞』に掲載された立教学校の開業広告。同年2月3日に創設された私塾は、年内に「立教学校」と命名されていた。
原文翻刻:米国教師三名/右於當校從朝八時半晝十二時半迄英学教授有之ニ付入塾並ニ進學有志諸君臨談有ン事ヲ希フ/築地入船町五丁目壹番地/立教學校/束脩 無之/月謝 壹圓

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(写真1_03) 築地居留地鳥瞰図
ガーディナー作の本鳥瞰図は、1894(明治27)年のSpirit of Missionsに掲載された。築地居留地には、聖三一学校や立教学校校舎があった。

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(写真1_04) 立教大学校校舎
ガーディナーの設計による校舎は居留地37番に1882年12月に完成し、1883(明治16)年初頭に立教大学校が発足した。校舎はゴシック風煉瓦3階建ての壮麗なもので、米国のカレッジ程度の内容をもつものとされた。三一神学校もここに併置され、ウィリアムズ主教は学生・生徒と起居を共にして大きな感化を与えた。

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(写真1_05) ガーディナー James McDonald Gardiner(1857.5.22-1925.11.25)
建築家、立教学校校長。ハーヴァード大学で学んだのち、ウィリアムズ主教の要請により1880(明治13)年来日、ブランシェの後任として校長となり91(明治24)年まで在任した。校長時代から退任後を通じて、立教学校校舎、京都聖ヨハネ教会をはじめ数々の校舎や教会堂を設計した。日本で没した彼の遺骨は、彼自身の設計になる日光の真光教会に納められている。

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(写真1_06) マキムJohn McKim(1852.7.17-1936.4.4)
日本聖公会主教、立教学院理事長、神学博士。ナショタ神学校卒業後、1880(明治13)年に来日する。立教・照暗(現・平安女学院)などの学校で教鞭をとった後、大和地方で布教をおこなう。1893(明治26)年、ウィリアムズの後任として主教に選出され、立教学院(理事長)や日本聖公会のために献身した。訓令第12号問題や震災を乗り切って立教学院の建設と再建を実現した。1935(昭和10)年、職を辞してハワイに静養、翌年そこで没した。

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(写真1_07) 地震で崩れた校舎
1894(明治27)年6月20日、東京湾北部を震源とする直下型の地震が起こった。この東京大地震によって居留地37番にあった立教学校の校舎は壊滅的な損害を受けた。

(写真1_08)

(写真1_08) 築地川を隔てて見た立教のキャンパス
1894(明治27)年に着工した立教学校の新建築は、寄宿舎、校舎の順に完成した。写真は築地川と呼ばれた運河を隔てて北方より眺めた建物群で、左が寄宿舎、右が校舎である。

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(写真1_09) ロイド Arthur Lloyd(1852.4.10-1911.10.27)
英国教会宣教師、のちに米国聖公会に移籍し立教学院総理となる。英国軍人であった父の任地インドで生まれ、ケンブリッジ大学を卒業。イギリスで牧会に従事した後、1884(明治17)年来日。慶應義塾の英文科主任教授となるなど英語教育に力を入れた。1897(明治30)年〔立教学校〕総理となり文部省訓令第12号による宗教教育禁止に対処した。1903(明治36)年、辞任して東京帝国大学の英語・英文学を講じた。
(写真1_10・写真1_11)寄宿舎の内部と祈祷室
訓令第12号への対処により、認可校である中学校での宗教教育ができなくなったため、寄宿舎が宗教教育の中心的な役割を果たすこととなった。

(写真1_10)

(写真1_11)