2008年度 連続シンポジウム 未来の声を聴こう | 黒澤明 没後十年記念シンポジウム

第一部 メイキング:映画製作の視点から

第一部では、黒澤明監督の映画制作の現場で、ともに仕事をしていた野上照代氏、黒澤和子氏の二人が、現場での監督の姿を中心に語った。聞き手は前田英樹現代心理学部長と、映画監督でもある篠崎誠現代心理学部映像身体学科教授。

黒澤和子氏
黒澤和子氏


野上照代氏
野上照代氏

前田 野上さんはスクリプター(記録)としてずっと黒澤作品に携わっておられましたね。

野上 実を言うと面倒で嫌いな仕事でした (笑)。ただ一つ、普通の人は近づけない監督の編集作業に立ち会えたのは幸運でした。彼にとって撮影は編集の「材料」作りに過ぎず、映画作家としての本領は、この最後の孤独な編集作業にありましたからね。「つなぐ技術」は人間離れしてうまかった。今見直しても、ますますそう思えます。

篠崎 むろんそれは、撮影された「材料」そのものが良いという大前提に立ってのことですよね。黒澤映画の魅力というと、豪快なアクションやスペクタクルが強調されがちですが、実は人物の性格を生かす細かい演出が本当に素晴らしい。例えば、『七人の侍』で千秋実さんが演じたキャラクターがどれほど実は用心深い性格なのか、最初の登場シーンでだけで分かります。稲葉義男の侍が背後に立った瞬間に、千秋実が実にさりげなく自分の刀を相手に届かない場所にスッと移動させるんですね。

野上 映画はシーンを前後バラバラに撮っていきますから、その中で感情の変化をいかに自然に表現するかは、監督も役者も腕の見せどころ。そのあたりの演出などとても上手でした。動きについては、三船敏郎さんのアイデアなども、よく現場で取り入れていたんですよ。

前田 黒澤和子さんは、最初『夢』で衣裳部に参加されたのですよね。

黒澤 はい。父も歳をとって、多くを語らなくても思い通りに動くスタッフが欲しくなったんでしょう。突然声がかかって参加となりました。私は残念ながら父とそっくりで(笑)、目の動きだけで何を考えているか分かりましたからね。実際私への指示はいい加減でしたけど、技術も何もかも一から教えてくれました。

篠崎 衣裳として一本立ちされた『八月のラプソディ』では、英字のロゴの書かれたTシャツ、例えばMITだとかアメリカの大学名をあしらったものが目立ちましたが、そうしたアイデアはどなたが?

黒澤 それはたまたまです(笑)。父もそうした細かいところは気にしなかった。ただ、衣裳は画面の大きな部分を占めますから、色については、一画面の中でのバランス、全体を通したバランスをうるさく言われました。

野上 衣裳は性格も表すからとても大切。監督は準備の間、ずっと衣裳や髪型の絵を描いていましたよね。

前田 黒澤監督は、一般にはすぐ怒鳴る怖い人というイメージですが、実際はいかがでしたか?

黒澤 父が、あれはマスコミの陰謀だと(笑)。むしろ、スタッフ一人ひとりに目が行き届いて、声をかけるべき人には必ず声をかけていた。その現場の「演出」力こそ、父のすごいところだったと思うんです。

野上 怒ると確かに迫力はありましたけどね。集中力がすごい人で、それを邪魔されると爆発する。

黒澤 それに、当時はクセのある人たちばかりですから、怒鳴るくらいでないと動きませんよ(笑)。でもカラッとしていて裏表がなく、怒鳴ったこともすぐ忘れてしまう。本当に父に人望がなかったら、スタッフはついてきません。

前田 貴重なお話をありがとうございました。

第二部 クリティック:映画研究の視点から

第二部では、まず3人の映画研究者、四方田犬彦氏、長谷正人氏、吉本光宏氏が、それぞれの選んだ黒澤映画のベスト・シーンを上映した後、そのシーンに関連する発表を行った。続くパネルディスカッションでは、この3氏に前田学部長、進行役の中村秀之本学部教授が加わり、発表を踏まえた議論を展開した。

『七人の侍』への新しい視点

四方田犬彦氏

四方田犬彦氏

自分が黒澤映画のベスト・シーンに選んだのは、『七人の侍』で菊千代が死に、その泥だらけの尻を雨がきれいに洗い流す場面。タルコフスキー(旧ソ・映画監督)はここに死の浄化作用を読み取りました。私が興味を惹かれるのは尻そのものです。馬は唯一尻を持つ動物です。「馬」と「侍」とのアナロジー(類比)を見てとることもできますが、もうひとつ、黒澤映画の基調にある「ホモソーシャリティ」との関係を考えてみたいと。これは男同士の純粋な友情を意味し、「尻」が象徴する「ホモセクシャリティ」とは全く対極の、それを最も嫌悪するはずの概念だからです。

実を申しますと、かつて自分は『乱』、『八月のラプソディ』といった黒澤の新作が撮られるたびに失望し、否定的な評を書いていました。当時日本では、自分だけでなく多くの映画作家、批評家たちが、もはや映画界に黒澤は必要ないという意識を持っていたはずです。日本映画は黒澤とは関係のない方向に進んでいきましたし、若い作家たちが抱えている困難は、黒澤が理解のできるたぐいのものでは、もはやなくなっていました。残酷なことですが、メキシコにおけるブニュエルやイタリアにおけるフェリーニを見舞った運命を、黒澤も担わされてしまっていたのです。

黒澤の見方を変えなければと考え始めたのは、彼が亡くなってからです。たまたまキューバで訃報を聞いた自分は、カストロ大統領以下、人々の反応の大きさに驚きました。キューバ人にとって、黒澤はまさに国民的英雄だったのです、その後、コソヴォでも、セルビア側が在留している農民をアルバニア人ゲリラから救いだすために軍事力が派遣されたことを、『七人の侍』の侍の野武士との戦いになぞらえて人々が語るのを何度も聞きました。また、ここ10年のアジア映画にも、社会のはぐれ者を集めたグループが、強大な相手に勝負を挑んで勝利する、「七人の侍タイプ」と呼ぶべき作品が非常に目立ちます。

ところで、『七人の侍』が提示した「勝ち負け」の図式を、日本映画はアニメも含めて、全く脱していないように見えます。ただきわめて貴重な例外として、水俣病訴訟を扱った故・土本典昭監督作品があります。ここにはドキュメンタリー映画に新しい可能性を感じて、注目しています。

黒澤映画における『肩越しの視線』と『偽装』

長谷正人氏

長谷正人氏

私がベスト・シーンに選んだ『天国と地獄』の身代金受け渡しのシーンには、残念ながら、機械に押し込められた窮屈な身体しか登場しません。ただここには、黒澤作品のある特徴が典型的に表れています。

疾走する列車の中で身動きのとれない捜査官たちは、金を受け取りに川岸まで来た男を、窓越しに8ミリカメラで撮影します。観客は、そのカメラ撮影の光景を通して、男の姿を見つめることになります。

このように黒澤作品では、あるシーンと観客の間に感情移入すべき登場人物が置かれ、観客はその「肩越し」に、その人物の視線でシーンを見せられることが多いのです。『七人の侍』の雨中の闘いの場面でも、途中で観客は、何度かそれを屋内から女たちの視線で見ることになります。

先ほどのシーンで、8ミリにとらえられた男の身体は、とても薄っぺらに見えます。劇中の人物の「見る」行為の主観性が強くなると、その先の景色は次第に平面的・絵画的なものになっていくのです。その行き着いた先が、『夢』という作品だと言えるかもしれません。

さて、『天国と地獄』のもう一つの特徴は、そこに描かれた「偽装」です。物語の前半では犯人の、後半では警察の、それぞれ知恵を絞った偽装があります。その応酬が観客を楽しませます。こうした「偽装」は、『悪い奴ほどよく眠る』など黒澤の多くの作品に共通するテーマと考えられますし、『七人の侍』や『用心棒』や「隠し砦の三悪人』などでも展開上大きな役割を果たします。

黒澤作品を3つの時期に分けて考えるとき、「偽装」性はその中期の作品群を、先ほどの見る行為の主観性が強調されたような「絵画性」は後期の作品群を、それぞれ特徴付けるように思います。これに対し、戦後間もない初期の作品群を特徴付けるのがまさに「身体」性でしょう。黒澤は三船敏郎を起用し、それまでの役者にはなかった生々しい「身体」をスクリーンに映し出してみせたのです。

『生きる』に描かれた「覚醒」と黒澤の遺産

吉本光宏氏

吉本光宏氏

私が選んだのは、『生きる』の連続する3つのシーン。自分の余命が少ないことを知る主人公の市役所職員・渡辺は、シーン1でその命を社会への貢献に使うことを決意し、シーン2では、児童公園の建設に向けてまさに行動を開始します。しかしシーン3の、渡辺の死を告げるナレーションに続く通夜の場面では、そこに当然あると期待した彼の身体を見出せず、観客は大きな戸惑いを感じることになります。この後のシーンからは、目的の実現に向けて奔走し、ついにそれを成し遂げる渡辺の姿は、通夜で彼の変貌について話し合う同僚たちの記憶の中で断片的に描かれるのみです。

黒澤は、なぜこんな奇妙な表現方法をとったのか。単なるトリックなどではないことは明らかです。

シーン1で描かれたのは、渡辺の「覚醒」です。そして、覚醒した人間のありようを、映画というメディアを使って持続的に、しかも通俗的でない形で表現することは、原理的に不可能なのです。『生きる』の手法は、必然的な選択だったと言えます。

さて、同僚たちはやがて渡辺の「覚醒」に思い至り、自分たちも変わることを決意します。しかし、それが渡辺とは全く違う「擬似的な覚醒」に過ぎず、役所はもとの日常に戻ってしまいます。渡辺のレガシー(遺産)は、彼の「作品」である児童公園のみ。それを彼の名前と結びつけて記憶する者はわずかです。

この渡辺と黒澤を単純に比べるわけにはいきませんが、一つのアレゴリー(比喩)を見ることはできるでしょう。

私たちは、黒澤のレガシーをどう継承すべきか。ただ、遺された彼の作品を観て感動するだけでは、渡辺の同僚たちとなんら変わりません。黒澤も渡辺も、ともに沈黙するのみ。その沈黙の中にこそ、答えは求められるべきだと思います。

(パネルディスカッション)

中村秀之氏・前田英樹氏・四方田犬彦氏・長谷正人氏

会場の皆様

中村 本日は登壇される方々に選んでいただいた黒澤作品ベスト・シーンを上映してから、お話をいただきました。前田学部長のベスト・シーンは『酔いどれ天使』からでしたが、冒頭での挨拶のなかでその場面についての言及がありませんでしたので、まず、その場面を選んだ理由をお聞かせください。

前田 僕が好きなシーンは『酔いどれ天使』の冒頭の場面。戦後、廃墟と化した東京の一角、ドロドロの水たまりにボウフラが湧き、蚊が湧いてくる。まるでそこから湧き出たように、二人の人物が、若いやくざと酔いどれ医者が生まれてくる。神話的混沌から、動物的な生が素晴らしい強度をもって出現してくる。このシーンこそ、映画作家・黒澤明の誕生をはっきり告げるものだと思います。

やくざと酔いどれ医者は「結核をどう生きるか」という共通の問いを背負い、一人は暴力と享楽、一人は治療と理性という別々の回答に向かう。二つの回答の間で激しい闘争が起こる。ここには、人間が動物として生きる上での根源の闘争があります。以後黒澤が徹底して描いていくのは、この闘争の意味ですね。

中村 では、それぞれの発表・発言を受けてコメントをお願いします。

四方田 まず今の前田先生のご発言ですが、空間の中央に「水たまり」を設定し、それをどう解決するかという黒澤映画のパターンも、そこから始まったのではないかと自分は思います。そしてさらに原型は『姿三四郎』の蓮池に求められるかもしれないのだ。

先ほど「偽装」と「覚醒」の問題が取り上げられましたが、両者は重なり合うと思います。ジル・ドゥルーズ(フランスの哲学者)も言っているのだ。黒澤はまず「偽装」の問いを提示する。主人公はその解決しようのない問いに苦しみ、ついに真の問いに「覚醒」したところで、おっしゃるようにその後は描けませんから、物語は終わる。『姿三四郎』の蓮池はまさにその「覚醒」の場面です。

長谷 四方田氏の発表にあった黒澤の「ホモソーシャリティ」には私も興味があります。同時代に監督として並び称された故・木下恵介が、当たり前に二枚目の恋愛を描いているのに対し、黒澤はラブシーンをかたくななほど回避していますよね。キスすらめったに許さない。

吉本 私たちは、黒澤は語りつくされたと考えがちですが、これは錯覚。アメリカでも、作品は圧倒的なインパクトを持ち、現在でも普通に上映されています。しかし、興味を持ったときに読むべき批評が少なすぎるというのが実情なのです。

中村 (長谷氏の発表に対して)長谷さんが選ばれた 『天国と地獄』のシーンは、人間の身体が機械のテクノロジーに従属するという点で、黒澤映画のなかでは例外的なシーンだと思われますが、この点についてはいかがですか。

長谷 そうですね。ただ、『酔いどれ天使』の水たまりも、人工的なセットとして作られたものですし、『用心棒』のあの強風も、巨大な扇風機で生み出したものです。自然環境を表現するためにテクノロジーを駆使する点も、黒澤の特徴のひとつだと思います。

中村 (吉本氏の発表に対して)『生きる』の渡辺は、全く偶然に嘆願書を選択しますよね。その結果である公園を彼の「作品」と呼べるのでしょうか。

吉本 そこは難しい。そもそも偶然に事業を決定することが不自然ですが、この映画ではまず冒頭で、論理的には存在しえないレントゲン写真を見せてしまっている。つまり、ありえない設定で始まるんです。ハリウッドでも、「覚醒」を扱った映画には必ずなんらかの「超越的視線」がかかわっているように思うのですが、『生きる』もその類型と考えられるのではないかと――まだ私のアイデアの段階ですが。

四方田 黒澤映画のメッセージは、日本文化を離れて世界中で理解されているのだ。また彼は、『乱』や『白痴』を見ればわかるように、シェークスピア、そしてドストエフスキーの偉大な解釈者である。この黒澤を、単に「日本映画」を代表する監督と呼んでいいのかは疑問です。もっと彼の背景を掘り下げて、洋の東西を越えた知性の現れとして、その位置づけを考えてみる必要があると自分は信じます。

前田 黒澤映画には一種の単純さがありますが、これはよく生きようとする人間が闘争の果てに、ついに達するような生の単純さであって、わかりやすさとは関係ありません。小津安二郎が植物的持続の作家であるのに対し、黒澤は徹底して動物的強度の作家です。これは数学の言葉で言うと微分と積分の違いですかね。動物が活動の自由と引き換えに背負わされた破壊と否定の宿命、他方で手に入れた創造と生成の力、そしてその両者の間の終わりのない闘争。彼がシェークスピアとドストエフスキーを好むのは当然です。黒澤が描いたこうした世界を、その強度の秘密とともに、没後10年を経た今、きちんと考えてみたいですね。

中村 本日は、皆さんから刺激的なお話をいただき、黒澤明の映画をみなおすとても良い契機になったと思います。どうも、ありがとうございました。



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