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(掲載日2012.06.14)

『武蔵野S町物語』が映画化されました!!

永倉有子さん(1970年文学部卒)

上質なユーモアと、日常を軽妙なタッチで描くエッセイ、小説が人気の作家、故・永倉萬治さんの自伝的小説『武蔵野S町物語』が映画化されました。
今回は、永倉萬治さんの妻であり、本学卒業生である永倉有子さんに、『武蔵野S町物語』や永倉萬治さんについてのお話、また映画化に向けたエピソードを伺いました。

『武蔵野S町物語』の作家、永倉萬治さん(経済学部中退)とは、立教大学で出会われたのですか?また、どんな学生時代を過ごされたのですか?

出会いは大学1年の秋です。
私は劇団むらさき会という学生演劇のサークル(今はもうありません)にいたのですが、そこへ突然、坊主頭に学ラン姿の男が入ってきました。「ウッス、ナガクラっす」と自己紹介したこの男、台詞を読ませるとひどい棒読みで、どう見ても、演劇センスゼロ。「なんなの、この人・・・」と最悪の第一印象でした。
ところが、出会って半年もしないうちに何となくお互いを意識するようになったのですから、縁とは不思議なものですね。二人で劇団民藝の「友の会」に入って、毎月のように芝居を観たり、ごく真面目な演劇好きの学生でした。芝居に熱中しながらも、勉学にも励んでいました。一緒に試験勉強したり、可愛いものです。
大学3年の時、彼は念願のヨーロッパ放浪の旅に出ます。まだ見ぬ世界への憧れが強かった時代でした。その頃から大学は学生運動の渦の中に巻き込まれていき、8カ月後に帰国した時は、大学は封鎖されていました。行き場を失った彼は、早稲田で芝居をしていた東(ひがし)由多加と出会い、アングラ劇団「東京キッドブラザース」で活動することとなるのです。
23歳の時、私たちは結婚しました。定収もないアングラ俳優との結婚でしたが、なぜか不安はまったくありませんでした。

『武蔵野S町物語』は、病後の失語症を乗り越えながら、ご夫婦で力を合わせて執筆されたとのことですが、執筆のきっかけなどについて教えてください。

夫が高血圧性の脳出血で倒れたのは1989年、41歳の時です。アングラ劇団を辞めた後、ちり紙交換やらビル掃除、コピーライターなどなど、さまざまな職業を経て30代終わり頃から本格的に文章を書き出し、作家・永倉萬治としての初の小説集が出版されるという時に、倒れてしまったのです。右半身まひと失語症という重い後遺症が残りました。医師からは「複雑な文章を書くことはできない」と診断を下されました。運動神経抜群の男が半身麻痺の体となり、作家としていちばん大切な言葉を失う・・・どれほどの絶望だったか。でも、悲しんでいるヒマはありません。すぐに壮絶なリハビリが始まりました。体育会系なので身体のリハビリは歯をくいしばってでも頑張れるのですが、言語のリハビリはプライドをずたずたにされ(なんせ幼児並みの言葉も出ないのですから)、本当に辛かったようです。それだけに、初めて5行程度の簡単な文章が書けた時は、嬉しさのあまりトイレで泣いたと言います。
入院中、彼は夕方になると車椅子を窓のそばに止めて、じっと外を眺めていることが多かった。「何を見てるの?」と尋ねても、黙って笑うだけでしたが、病室の中で初めて書いた『記憶の中の飛行機』というエッセイにその答えはありました。
それは「昭和三十年代のはじめごろ、僕はげんきいっぱいの小学生で、ところかまわずかけずりまわっていた」で始まる文章で、一機の小型飛行機が商店の宣伝ビラをまいた日のことを生き生きと描き、「記憶の中の飛行機は、いつでもなにかを期待させてくれた」と結んでいます。
悲嘆と絶望のさなかにあって、彼の魂は元気いっぱいで未来が光り輝いていた10歳の頃へと戻っていったのではないでしょうか。そこで彼の傷ついた魂は癒やされ、厳しい現実と立ち向かう力を得ていた、10歳の自分に励まされていたのだと思います。
この『記憶の中の飛行機』が原点となって、3年後に『武蔵野S町物語』が書かれました。
『武蔵野S町物語』は雑誌に連載されたものです。脳出血後は私がアンカーとして文章の推敲(すいこう)と校正を任されていたのでよく分かるのですが、いつも締め切り間際まで「何も浮かばない」と苦しんでいた彼が、この時だけはとても楽しそうでした。「不思議だよ。思い出したことも無かった町の風景や友達の顔が次から次へと現れてくる」。私にとっても、永倉クンの少年時代をともに過ごしたような、楽しい連載でした。

今回、『武蔵野S町物語』が映画化されることになった経緯を教えてください。

三年ほど前、志木市内で地域の情報誌を発行しているニュータイムス社の岩下隆さんが訪ねて来られました。彼は40代半ばで『武蔵野S町物語』の世代ではありませんが、まるで自分の物語のように懐かしく感じたと言い、ぜひとも映画化したい、地域や世代を超えて何か1つになれるものを作りたいと、熱く語りました。もちろん、快諾しました。
初めは志木市市制40周年記念事業の一環として企画したものですが、残念ながら予算が付かずいったん頓挫。ならば自分たちで資金を集めようということになり、地元の企業、商店、有志の方々の出資を募ったのです。この不況下で資金集めは難航しましたが、なんとか完成までこぎ着けました。
志木の皆さんの気持ちのこもった映画なのです。

映画化にあたっては、有子さんの思い出と共に新たな物語が加えられたということですが、苦労されたことや印象に残っていることはありますか。

小説は作者自身を投影した健一少年の一年間の物語ですが、映画には大人になった主人公とその妻が出てきて、夏祭りでにぎわう志木の町を歩きながら、現実と過去を行きつ戻りつしていく・・・という作りになっています。初めて脚本を読んだ時、素直に「これは私たちの物語だ」と思えました。というのも、2000年の10月に永倉が再び脳出血で倒れ亡くなった後、私は息子二人とともに夫が生まれ育った志木の町へ移り住んだのですが、一年ぐらいは1人で町の中を歩き回ったものでした。永倉少年が元気に駆け抜けた露地、見上げた欅(けやき)の大木、泳いだ川・・・心の中で夫に話しかけながら『武蔵野S町物語』を追体験していくうちに、いつしか私は悲しみから脱け出せたように思います。「大切な人を失っても、思い出せばいつもそばにいる」というメッセージも込められていて、とても良くできた脚本でした。
キャスティングの際、夫の役はぜひ大杉漣さんで、とお願いしました。大杉さんの体育会系でありながら繊細さも持ち合わせているところが永倉と共通していると思ったからです。志木市内で行われた撮影で、夫役の大杉漣さんが欅(けやき)の大木を見上げるシーンを遠くから見た時、「萬治がいる!」と鳥肌が立ちました。お願いして良かった、と心から思いました。私の役の宮崎美子さんも、丁寧に心を込めて演じてくださっています。私の息子は「こんなに優しいお母さんだったら良かったのにぃ」と言っておりますが・・・。

映画『武蔵野S町物語』の見どころを教えてください。

主役の横山幸汰君をはじめ少年たちの「昭和の子」ぶりを見てください。こんな顔の子、確かにいたよな・・と見ているうちに、自分自身の子どもの頃が思い出されてくるでしょう。志木市内に残る田んぼや雑木林といった豊かな自然も画面に詩情を添えてくれています。

最後に、立教生へのメッセージをお願いいたします。

私などは60歳を過ぎてようやく、人生で起きることに無駄なことは一つも無い、すべてがつながっていると分かったぐらいですから、若い皆さんが迷ったり、悩んだりするのは当たり前なのです。今しかできない無駄なことをたくさん経験してください。

映画『武蔵野S町物語』劇場情報

6/16(土)より
ユナイテッド・シネマ浦和
池袋シネマ・ロサ
ほか全国順次ロードショー予定

全国共通特別券1,300円絶賛発売中!!

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