理想の明智小五郎を探して

美輪 明宏(歌手、俳優、演出家)

2024/01/31

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OVERVIEW

『黒蜥蜴』(三島由紀夫脚色)の舞台を長年にわたって上演し続け、独自の世界をつくりだした美輪明宏さん。子どもの頃から乱歩作品を愛読し、16歳のときに銀座のクラブで乱歩と初対面を果たした。たちまち美輪さんの魅力に惹かれた乱歩は、その後も店に通って交誼を結ぶことになる。そんな美輪さんに、乱歩との思い出や『黒蜥蜴』にまつわるお話を伺った。

中村勘三郎の紹介で乱歩と出会う

—— 美輪さんは乱歩と直接の交流がおありで、かつ三島由紀夫脚色の『黒蜥蜴』をひとつのライフワークとして上演されてきました。乱歩を語るうえで欠くことのできない方のお一人です。乱歩に会う以前から、作品は読まれていたのでしょうか。
美輪 明宏(以下略) ええ。小学校のころから、本を読むのは好きで、江戸川さんの小説もたくさん読んでいました。何といっても、犯人と明智小五郎ですね。着ているものが燕尾服かタキシードで、帽子がシルクハット。ちょっと普通じゃありませんよね。当時はアール・デコが流行っていた時代ですから、その美意識も影響してらしたのかと思いますが。

美輪明宏さん。2015年2月3日。撮影:御堂義乘(以下同)

—— 乱歩自身の美意識の投影として、明智小五郎の造形もあった。
そう。で、小林少年という美少年を部下に使って。何も少年でなくてもいいはずなんだけど。ときどき愛してたんじゃないかと思いますよね。「孤島の鬼」なんて、まさにそういう雰囲気の小説でしょう。

—— 非常に強いですね。
そういうところも魅力的でね。探偵小説の作家では、横溝正史さんもいらっしゃるけれど、あの人の探偵は野暮ったくて、舞台も田舎の豪族の家だったり、都会的じゃないんです。だから、あまり好きじゃなくて(笑)。その点、江戸川さんのものは好きでした。退廃的でね。まさかお会いするなんて思いもしませんでしたけれど。

—— 乱歩に初めて会ったときのことを伺えますか。
私がちょうど16歳のとき、うちが破産しまして。当時、国立音楽高等学校(現・国立音楽大学附属高等学校)へ通ってたんですが、月謝が払えなくなって、中退する羽目になったんです。下宿代も払えないからアパートを追い出されて、アルバイトをしなければいけなくなってしまった。それで、アルバイトを探してたら、ブランスウィックという銀座5丁目の喫茶店が募集してたんです。

—— 三島由紀夫の『禁色』に出てくるバーのモデルともいわれる、あの。
1階が喫茶店で、2階がクラブになっていまして、私は1階のほうの入り口に近いところで——「客寄せだ」なんて言われましたけれど——ボーイさんになったんです。2階のクラブには、物書きや音楽家、絵描きさん……いろんな文化人が見えていて、ときどき「あの子、きれいだね。おもしろいね。呼んで来い」なんて呼ばれて、2階へ上がることもありました。歌舞伎座がご近所だったものですから、中村勘三郎さん(十七代目)もよくいらしてたんですが、あるとき、勘三郎さんが江戸川さんを案内して、クラブのほうへお見えになったんです。

—— 勘三郎さんの紹介で乱歩がお店に。
そう。江戸川さんは、勘三郎さんをご贔屓にしていらしたから。で、お二人に呼ばれて2階へ行ったんです。私はシャンソンを歌ってたので、「歌ってみろ」なんて言われて歌ったり、客席へ呼ばれていろいろお話をしたり。私は江戸川さんの愛読者でしたから「明智小五郎って、どんな方?」って聞いてみたんです。そうしたら「腕を切ったら青い血が出そうな男だよ」って。

—— 青い血。
それで、江戸川さんが「君はここ(腕)を切ったら、どんな色の血が出るんだい」って、私の腕を摑んでおっしゃったの。だから「七色の血が出ますよ」って答えたんです。すると「ほう、珍しいね。じゃあ、切ってみようか。おい、包丁持ってこい!」なんて、カウンターのほうへ言うじゃありませんか。「この爺、やりかねないな」と思ったものですから(笑)、「およしなさいまし。そこから七色の虹が出て、もう片方の目も潰れてしまいますよ」って言ってやったんです。当時、江戸川さんは片方の目を患ってらしたから。それで「おもしろいことを言う子だね。いくつだい。16歳? すごいね」なんてやりとりがあって、ご贔屓にしてくださるようになったんです。

—— 乱歩としても、当意即妙な返しをされたと喜んだのではないでしょうか。
当時は、文化人だけじゃなくて、どんな人でも、洒落が通じる人、洒落た会話をする人が多かった。それが普通でしたね。

—— ブランスウィックでの出会いがきっかけで、乱歩との交流がはじまった。乱歩の家にも行かれたことがあったとか。
ええ。池袋のね。洋館の応接間に、江戸川さんが使ってらした立派なデスクがありますでしょう。すてきでね。16歳で初めて伺ったときに一目で気に入っちゃって、「このデスクがほしい」って言ったんです。そうしたら怒られました(笑)。
—— 乱歩が1933年に三越につくらせた、愛用の机だったようですから(笑)。
それで、銀座7丁目に銀巴里ってシャンソン喫茶がありまして、当時、原孝太郎と東京六重奏団ってタンゴバンドが評判だったんです。アルゼンチンタンゴじゃなくてヨーロッパタンゴ。彼らが演奏した二葉あき子さんの『水色のワルツ』が流行って、クローズアップされたところなんですけど。そこのテストに合格して専属歌手になりましてね。それを勘三郎さんに話したら、江戸川さんをまたそこに連れて見えたの。そのときにも、いろいろ褒めてくだすって、しばらくはそれくらいのお付き合いだったと思います。

—— 乱歩が美輪さんのいらっしゃるお店に通うような。
ええ。それから、シャンソン歌手の戸川昌子が、銀巴里で私の後輩だったんですけれど、探偵小説を書いていて、江戸川乱歩賞をとりましてね。お母さんが一人付き添って受賞パーティーに行くというので、他に誰もいないんじゃ可哀想だからって、私も一緒について行ったんです。頼まれて一曲歌いまして。それで、江戸川さんに「しばらく」ってご挨拶したら、「おお、君だったのか、やっぱり」なんておっしゃったのを覚えています。ひさしぶりにいろいろと実のない話をして、お別れしたんですけれど。その後、銀巴里へも2、3度みえましたね。

三島由紀夫脚色の『黒蜥蜴』

—— 美輪さんと乱歩のつながりといえば、やはり三島由紀夫が脚色した『黒蜥蜴』の上演を重ねられたことが大きいと思います。
そうですね。私がやるようになったのも不思議な話なんですけど。1967年に、寺山修司が私にあてて『毛皮のマリー』って芝居を書いてくれたんです。アートシアター新宿文化という映画館でしたので、映画が終わる夜10時過ぎに開演して、12時頃に終わるわけです。それでも入りきらなかったお客様で新宿の大通りが埋め尽くされるくらいの大当たりをとりましてね。

—— 当時、寺山さんの天井桟敷に美輪さんは欠かせない存在でした。
そこは地下にもアンダーグラウンド蠍座という劇場があって、同じときに三島由紀夫さんの『三原色』(堂本正樹演出)って芝居をやってたんですね。ある日、三島さんが上がってきて「俺の『黒蜥蜴』をやってくれないか」っておっしゃるんです。でも、私は「だって、あれは水谷八重子さんに書いてあげたものでしょ。私は遠慮したいわ。水谷さんに悪いから」って断ったの。私、水谷さんの娘の水谷良重(現・二代目八重子)と友達だったものですから、よく紀尾井町のお宅に遊びに行ったんです。それで、水谷さんはよく知ってたので。

—— 『黒蜥蜴』は1962年に産経ホールで初演されています。
ええ。水谷さんが黒蜥蜴で、芥川比呂志さんが相手役の明智小五郎。芥川さんも、芥川龍之介の息子さんでしょう。いろんなお話をしてくだすった、おもしろい人でした。で、その初演を観に行ったら、私が頭に描いていたのとはずいぶん違うなと思ったんです。原作も読んでいましたからね。

—— どんな違いだったんでしょうか。
観終わって楽屋へ行ったら、水谷さんが「こんな病的な不健康な女は、私、理解できないのよ。私は健康な女だから」って言われたんです。「これはむしろ、あなたがやったほうがいいんじゃないの?」って。

—— 八重子さんが、美輪さんに。
そう。だから「私が不健康だという意味ですか?」って聞いたら、「だって、そうでしょ?」ですって(笑)。変な会話でしょう。

—— お二人が楽屋でそんなやりとりをされていたのは、興味深いですね。
なんとも適当な黒蜥蜴でね(笑)。病める感じの、退廃的な大正ロマンの雰囲気がなかったんです。それは水谷さん、ご自分でも感じてらしたんでしょう。だからおっしゃったのね。そういうふうに、私に。ただ、そのときには、まさか本当に自分がやることになるとは思いもしませんでしたけれど。

三島戯曲のせりふを語ること

—— その数年後に三島さんから直接依頼を受けられた。
ええ。先ほども申しましたように、水谷さんに悪いからとお断わりしたんです。三島さんは普段、1度断られた話はされない方なんですが、それからも2度、3度と頼みにいらっしゃるので、根負けしましてね。それで『黒蜥蜴』をやることになったんです。

—— 三島さんとしては、どうしても美輪さんに黒蜥蜴を演じてほしかったと。
三島さん、それまでにいろいろな芝居をお書きになって、文学座なんかでやってらしたんですよ。でも、いずれも評判がよくなかった。失敗作が多かったんです。それで「俺は悔しい」っておっしゃるのね。三島さんの戯曲は、表現が文学的で、よく咀嚼しないと難しいんです。

—— 三島さんの書かれるせりふは絢爛ですが、実際に語るには難解な印象です。
そういうせりふが多いんですよ。私が『毛皮のマリー』をやったとき、寺山修司が書いたものを自分で解釈して組み立てたんですが、三島さんは「それがいいんだ」と。ご自分の書かれるせりふはレトリックや装飾が多いことをおわかりになった上で、それを日常会話のように自然に話せる役者が必要だとおっしゃる。それが私だというんですね。

—— 水谷八重子さんの初演は1回きり。美輪さんが再演されたのは、1968年4月の東横劇場でした。
三島さんは大喜びでね。ただ、最初にやったときの相手役が、私は反対だったんですが、新東宝にいらした天知茂さん。世間の評判はよかったものの、自分としてはあまり満足できるものではなかったので、そのあと次から次と相手役を代えて何回かやったんです。そうして続けているうちに、大道具や小道具が『黒蜥蜴』としては気に入らなくて、自分で選んだり、つくらせたりして、しまいには背景まで自分で描くようになっちゃって(笑)。おかげさまで『黒蜥蜴』は何十年もやりつづけられるような舞台になったんです。

—— 『黒蜥蜴』という作品は、美輪さんの上演なくして、ここまで大きくはならなかったかもしれません。乱歩自身、三島さんの脚色を褒めていますね。
「三島くんが脚色をして、自分はそれを許可した。人手に渡ったら、その人のものだから、僕は関係ないよ」なんておっしゃっていたそうですけれど。江戸川さんは「三島くんってきれいな人だね」なんて言ってましたよ(笑)。お二人は古い友達でしたから。三島さん、こめかみのあたりに産毛がきれいにたくわえられて、それはきれいだったんです。

—— 乱歩は1965年に亡くなっていますので、美輪さんの『黒蜥蜴』には間に合わなかった。
江戸川さんに見ていただきたかったけれど……残念でしたね。

理想とする明智小五郎

—— 美輪さんが『黒蜥蜴』を上演されるたび、天知さんを筆頭に、明智役を代えられていたとのことでしたが……。
天知茂さんは、いい顔をしてらっしゃったけれど、私が考える明智小五郎とは、ちょっと容貌が合わなかったんです。それ以降、いろいろな相手役で、ほんとうに何人も代わりました。詳しく覚えてないくらい(笑)。だけど、なかなか細かいニュアンスがわからない人が多くて。難しかったですね。

—— 美輪さんの理想としての明智小五郎を探していた。
そうですね。あるとき、初演で明智小五郎をなさった芥川比呂志さんから電話がかかってきちゃってね。「明宏、出てこい!」っておっしゃるので、何事だろうと思って、指定された青山のクラブへ行ったんですよ。そうしたら「明宏、何だ、おまえは。俺は明智小五郎なのに、どうしてあんなやつらを使うんだ」ですって。自分の役をとられたのがご不満だったらしくて(笑)。「明智小五郎のせりふはこう言うんだ」なんて、まだ覚えてらして、ひとしきり全部聞かされましたよ(笑)。

—— そんなことが。美輪さんは明智役として、芥川さんをご指名になろうというお気持ちは……。
なかったんです。芥川さんは、ちょっと痩形で、ちゃんとした顔をしてらしたんだけど、やっぱり明智小五郎の容貌のイメージと合わなかったものですから。

—— 非常に公演回数が多かった『黒蜥蜴』ですが、その中で、美輪さんがイメージされる理想の明智に出会うことは難しかったという印象でしょうか。
そうですね。いまテレビを見てると、きれいな顔をした男の子は掃いて捨てるほど出てるでしょう。昔はそんなことがなかったんです。とにかく戦争のせいもあったんでしょうけれど、世の中に合わせて人の顔ってできるんでしょうね。戦争中や敗戦後は、やっぱりみなさん、「戦う人」の顔であって、平和な時代の明智小五郎の顔じゃなかった。

—— 昭和の初め、モダニズムの華やかな時代を生きていた青年。
そういうことです。岡譲司さんとか、加山雄三さんのお父さんの上原謙さんとか、ああいう整った顔がほしかったんですね。

黒蜥蜴とはどんな人物か

—— 1968年から2015年まで、本当に長く『黒蜥蜴』を上演し続けてこられて、最終的には演出も含めて、美輪さんがひとつの総合的な作品につくりあげられたと思いますが。
伝説みたいになってるらしくて、若い人から「見たい」ってファンレターがいっぱい来るんですよ。人をいくつだと思ってるんでしょうね(笑)。

—— 観客としては、そこを越えたところで拝見したいという思いは強いだろうと想像します。唯一無二の劇世界だと思いますので。
『黒蜥蜴』をやるには、リアルなせりふはリアルに、歌い上げるところは歌わなきゃダメですし、そのためには音域が広くなければいけません。立ち居振る舞いからして難しいかもしれませんね。たとえば、京マチ子さんが主演された映画(井上梅次監督、大映、1962年)では、突如としてタイツ姿で踊り出すでしょう。あの方は大阪松竹少女歌劇団の出身ですから、そうやって踊りを入れたんでしょうけど、そういう女じゃありませんからね、黒蜥蜴は。当時、映画を観て「ああ、残念なことだな」と思いました。

—— 美輪さんも『黒蜥蜴』を映画化(松竹、1968年)されましたね。
作品が赤字ばかりで全然お客が入らなくて、東映をクビになった深作欣二という監督がいたので、私が松竹へ呼んだんです。話をしてみたら、ルイ・アラゴンの詩をフランス語で諳んじたりしておもしろいので、「彼でいこう」と決めて映画をつくったんですけど、どうも私の思ったとおりのものができなくて。あれは私の失敗作だと思っています。
—— しいていえば、どんなところが失敗だったと思われますか。
やっぱり、まず美術ですね。私は小道具にしても、本物の骨董品や何かを使いたかったんですが、当時の松竹には予算がなくて、そこがうまくいかなかった。たとえば、最後に黒蜥蜴が毒を飲んで死ぬシーンで、ベッドのところに安っぽい布が吊るされていたりして、そういう細々したところをちゃんとつくれないのが嫌だって言ったんです。

—— 美輪さんのめざすディテールにならなかった。
そうですね。それが大切なんですけど。

—— 乱歩がうみだし、三島が新しく命を吹きこんだ「黒蜥蜴」という存在じたいが謎に包まれていますが、美輪さんは黒蜥蜴を、どういう人物だと思われますか。
私が女になったような女性でしょうね(笑)。

—— なるほど。非常に端的な(笑)。上演を続けられる中で、黒蜥蜴や作品に対するイメージに変化はありましたか。
いいえ。昔から読んでいた本の中の——つまり、江戸川乱歩の世界にどっぷり漬かった時期に感じた、その雰囲気をうまく出したいと思って、ずっとやってきただけです。江戸川さんの小説と三島さんの戯曲は、もちろん違う部分はありますけれど、似ているところもありますよね。両方のいいところを、自分のなかで融合させながらつくったんです。

—— 最後に、美輪さんにとっての江戸川乱歩はどのような存在でしたか。
後世に残るべき天才の一人だと思いますよ。ほんとうに。そういう方とご縁をいただけたのは、私にとって幸いなことでしたね。

2023年11月1日
写真:御堂義乘
聞き手・文:後藤隆基(大衆文化研究センター助教)

※記事の内容は取材時点のものであり、最新の情報とは異なる場合があります。

プロフィール

PROFILE

美輪 明宏(みわ・あきひろ)

1935年、長崎県生まれ。16歳でプロの歌手となり、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」を拠点に活動。57年「メケメケ」が大ヒットし、その美貌やファッションも注目を集める。日本におけるシンガーソングライターの元祖として「ヨイトマケの唄」ほか多数の曲を自作。演劇活動も展開し、寺山修司作『青森県のせむし男』『毛皮のマリー』、江戸川乱歩の小説を三島由紀夫が脚色した『黒蜥蜴』などに主演して国内外で高く評価され、再演を重ねた。コンサート、舞台、映画、テレビ、講演、著作など多方面で活躍。

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