漆芸家・室瀬春二の仕事と乱歩との交流

室瀬和美(漆芸家)、 室瀬智彌(漆芸家)、 平井憲太郎(乱歩令孫)

2024/01/16

トピックス

OVERVIEW

旧江戸川乱歩邸の洋館の2階。主はほとんど上がることがなかった和室の片隅に、1台の座卓が置いてある。平井憲太郎さんに伺うと、かつて近くに住んでいた漆芸家、室瀬春二氏の作だという。春二氏は蒔絵の人間国宝、室瀬和美氏のお父様にあたり、そして和美氏のご子息智彌氏も漆芸家。うるし三代——。1台の座卓からはじまる、漆芸家と探偵小説家との交流の物語を紐解いていく。

同じ年に池袋へやってきた漆芸家と小説家

室瀬和美氏

—— 室瀬春二さんのお住まいは、ご近所だったとか。

和美 輪島(石川県)の出なんですが、昭和9(1934)年に東京に出てきて、それ以来ずっと池袋に住んでました。

—— 乱歩が池袋に越してきたのとちょうど同じ年ですね。

和美 池袋に住んでから乱歩さんと知り合ったんでしょうね。どなたかが紹介してくれたのかな。

平井 その時期だと、たぶん町会も一緒だったと思います。池袋3丁目。

和美 池袋3丁目って意外と広いんですよね。

平井 だから、何らかの形で交流はあったと思うんです。

和美 きっとそうですね。うちはバス通りを渡って、洞雲寺というお寺のすぐ傍でした。散歩コースだし、私も子どものときは、神学院のグラウンドで遊んでました。この近辺が遊び場だったんです。

室瀬智彌氏

—— 春二さんと乱歩の交流について、以前から平井さんはご存じでしたか。

平井 まったく知らなくて。2002年頃かな。たまたま智彌君と人を通じて知り合ったんです。当時、祖父の家や蔵を立教に渡す前後だったので、蔵の整理をしてたら、すてきな漆のものがあるなと初めて発見して。よく見たら「室瀬春二」って名刺が入ってた。

和美 なるほど。

平井 ちょうど智彌君から、漆のお仕事をなさってると聞いたので、「ひょっとして関係ある人?」って(笑)。

智彌 それで「祖父です」ということになりまして。父に伝えたら「そうだよ」と。昔、交流があったと知って、びっくりしたんです。

—— 乱歩の孫である平井さんと、春二さんの孫である智彌さんが出会われた。

和美 そんなところで結びつくなんて思ってもいませんでしたから、私も驚きました。

1台の座卓からはじまる物語

平井憲太郎さん

—— 春二さんやその作品について、平井さんは智彌さんと会ってから改めて知ったという感じでしょうか。

平井 祖父が漆の作品を買ってるなんて知りませんでしたけど、座卓があったことは覚えていて。専門家の方に頼んでつくってもらったという話は祖父から聞いてたんです。けっこう自慢してました。ただ、小学生でしたから、どういう由来かは当然知る由もなく。

和美 その座卓が最初に頼まれた物かもしれません。

平井 昭和32、3年かな。洋館の2階の和室ができるときにお願いしたと思うんですけど。

和美 当時は貧乏でしたから、注文をもらえるなんて、もう喜んで持ってきたはず(笑)。私が父にくっついて一緒にお邪魔したのは、小学生の夏休みだった気がします。2階の和室に上がって、窓のところか……廊下だったかな。そこに座卓を置いた記憶があります。
—— それは、座卓を納めにいらしたときの。

和美 まだ小さかったので、詳しくは覚えていません。

—— 乱歩には会われたんでしょうか。

和美 ええ。すごく優しいおじいちゃんでした(笑)。子どもにとってみれば「おじいちゃん」ですからね。
智彌 自分が読んでいたものとそれを書いた本人ということはつながったんですか。

和美 いやいや、全然。「これあげるよ」って、本をもらったときに「うわ、すごい」と思っただけ(笑)。その場でさらさらっとサインしてくれて。うちはきょうだいが5人いたので5冊、全員分の名前も書いてくださった。それが一番印象に残ってますね。すごく優しい人だった。今でもその本は残っています。

座卓

—— 非常に立派な座卓ですね。

和美 これは、色漆をただ塗ったのではなく、乾漆粉を使ってますね。漆を何回か塗り重ねて、乾かしてから砕いて粉にしたものが蒔いてある。だから丈夫なんです。普通に塗ってしまうと、擦ったりしたときにすぐ傷が入るんだけど。そこは父親も工夫して、乱歩さんが使いやすいようにやったと思います。

智彌 色漆の粉も自分でつくってますよね。

和美 全部手づくりだね。「潤色(うるみいろ)」というんですが、本朱って朱の顔料と松煙の黒を混ぜて色をつくるんです。濃いめにするか、明るめにするかは作家の感覚しだい。それを粉にしていくのは、非常に大変な作業なんですね。

智彌 まずガラス板みたいなものに漆を塗って、それを剥がしてから粉に砕く。

和美 ガラスには漆がくっつかないから、ガラスに全面的に2度くらい塗る。で、それが乾いたら剥がす。水に漬けると、ガラスだから剥がれるので。それを薬研で全部粉にして……。私もよく手伝いました。

智彌 で、粉にしたのを篩いにかけて粒を揃えて、それを均等になるように蒔くわけですよね。

和美 その上から、同じ色の漆をまた塗って、研いで、平らにするんです。そうすると、粉の粒子が硬いので、普通に塗るより傷つきにくい。でも、色漆の粉を、これだけの大きさの座卓の全面に均等に蒔くのは大変です。これはかなり手間暇かけた座卓ですね。

漆芸家・室瀬春二の世界

あじさい文 漆丸額盆(平井家蔵)

—— 乱歩が注文した春二さんの他の作品についても伺えればと思いますが、これは「漆丸額盆」と箱書きがありまして、紫陽花をあしらったきれいなお盆です。

和美 実際に使うんじゃなくて、たぶん額立てに飾るためにつくった盆だと思います。戦争の前後は、金を買える経済状況ではなかったので、金は必要最小限のところで使って、あとは、先ほどお話しした、乾漆粉という色漆を上手に使っていたんですね。父親だけじゃなくて、当時の漆の作家はほとんど、代替可能な材料を探して、それをいかにうまく使うかをベースにした表現を模索していました。

—— 材料を工夫して、とにかく作品をつくっていく。

和美 ええ。そういう思いが強い。この盆も乾漆粉ですね。色漆を使うことで、むしろ色彩的にも華やかになっています。春二の材料や道具って、それこそ乱歩さんじゃないけど、箱の中に山積みになっていて、いろんな色の乾漆粉をつくるんですよ。百やそこらじゃ終わらないくらいの種類の色を混ぜては、それを粉にしていって。この盆の紫陽花なら、ちょっと青みがかった黄色のものを蒔いたり、白い漆を使ったり。銀も少し蒔いてる。この縁の部分を「つば」っていうんですけど、つばのところに筋を2本入れるだけで、大変な手間なんですよね。でも、いいアクセントになるんです。

—— 白漆の「飾小筥」も非常に美しいです。

和美 オハグロトンボは盛り上げています。

智彌 盛り上がってます。漆の、天面の繊細さと側面の力強さのコントラストが、すごく効いてる。トンボのところがぺったりしてたら、ちょっと弱いですから。

とんぼ乃図 飾小筥(平井家蔵)

和美 素材の使い方が上手。こういう画面のなかで、日本画のような雰囲気をどう表現していくか。蒔いて絵にするから「蒔絵」なんだけど、父親の場合は、蒔絵の技術と、最後に刃物で彫ってアクセントを付ける「沈金」という技術と、このふたつを巧みに使って表現していました。その代表的な作品が、この「飾小筥」ですね。下の波のところを最後に彫っていくんだけど、順番に濃い青い漆を塗って、その上に徐々に淡い白と青を混ぜてブルーにしていきながら……たぶん10回前後は塗ってると思います。それで、最後に白を塗るんです。それを磨いて仕上げてから波線を刃物で彫っていくと、彫り口から、その下に塗った色漆の断層が見えてくる。そういう技法を使ってます。

—— 非常に手間のかかる、複雑なお仕事に思えます。
和美 ほんとうに巧みな仕事。まさに「刃物で絵を描く」という感じですね。これは我々にはできない。我々は「筆で描く」ことを教わってるので、刃物で模様をつくっていくというのは、春二さん独特の世界です。

金地沈金能面 漆手釦(平井家蔵)

—— 時代のというよりも、作家としての。

和美 そうです。だから、色漆という素材を、どう生かして表現していくかということに加えて、その技をうまく組み合わせることで、全然違うバリエーションをつくっていく。今の作家はこんなことやらないですよ。やれないというか。

智彌 わが家にも祖父の作品は何点か残ってるんですが、現代にはない無骨さだったり、繊細なんだけれど、繊細さと無骨さが同居してるような……あの時代特有の厳しさといいますか、求道的な雰囲気を感じます。

和美 厳しいよね。

智彌 ほんとうに厳しいです。仕事の内容としては。でも、小さく収まってない。荒っぽいところは意図的に荒っぽかったりするんです。これ(飾小筥)の波模様なんか、一刀で彫っていくので、刃物の勢いで全部決まってしまう。その線の1本1本の厳しさ。絶対に後戻りできない。祖父はもともと彫るほうからキャリアをスタートしてるので、筆を持つより刃物を持つほうが得意だったでしょうし、基礎を訓練されているからこそできる表現だと思いますね。

「作家」同士の共鳴する時間

—— 春二さんと乱歩は、どのように交流を育まれていたのでしょうか。

和美 たぶん乱歩さんと同じくらいの時期に、父親も狭心症をやって倒れたんです。

平井 昭和30年代?

和美 私が小学校4年生のときだから、昭和35(1960)年かな。そこから3年は寝込んでしまって。今なら狭心症なんてすぐに治るけど、当時はいい薬がなかったから、完全に回復するまで4、5年かかった。中学2年生のときに少しずつ戻ってきて、仕事を手伝うようになったんです。それ以降の作品はまったく雰囲気が違うので、これらはすべて倒れる前の仕事ですね。

平井 祖父も昭和30年代後半に体調を悪くしました。

和美 近い時期ですよね。だから、もしかすると、お互いに体を悪くしたこともあって、交流が途絶えたのかもしれません。
—— 改めて智彌さんがみる春二さんの作品は、どんな印象ですか。

智彌 独特ですよね。時代を感じる部分もありますし、華やかって感じでもない。

和美 そう。渋いよね。

智彌 作品としては渋いのが多いんですけど。独自の美意識が見えるな、と。

和美 名前がなくても春二さんの作品ってわかるからおもしろいよね。やっぱり「作家」ってすごいと思う。

平井 「作家」と呼べるのは、そういう人たちなんでしょうね。

和美 名前があるからその人を特定するんじゃなくて、物を見れば「この人の作品だ」ってわかるのが、作家の仕事。個性って必ず出てくるんです。そういうところを気に入ってくれて、乱歩さんは父を呼んでくれたんじゃないかな。納めてすぐに帰ればいいのに、1時間や2時間、ずっと話してた。私は小さかったから時間を持て余してね。「そっちで遊んで来い」とか言われて(笑)。2人でいろんな話をしてたんだと思います。
平井 当時、こういうものに凝ってたんです。もとから嫌いではなかったはずですけど、資金的に余裕ができたのも大きいでしょうね。いちばん大きかったのが「少年探偵団」シリーズのお金(笑)。

和美 なるほど(笑)。

平井 だから、いろんな美術工芸品を買っていました。春二さんとのお付き合いも、たまたまご近所だったから始まったのかもしれませんね。池袋の作家のものを普通の人が買うなんて、とっかかりは少ないと思うから。漆なら輪島とかにいくじゃないですか。

和美 そうですね。あと、当時の池袋から千早町界隈にかけて、池袋モンパルナスじゃないけど、美術に携わる人がたくさんいて、漆をやってる人もいたんです。その中で、乱歩さんがなぜか春二さんを好いてくれたのは、きっと気が合ったんでしょう。他の作家でも構わなかったはずなので。

平井 たしかに。思いきりのよさみたいなところは、話が合ったかもしれない。

和美 そんな気がします。分野を問わず、いわゆるプロの姿勢が好きだったんでしょうね。ものづくり同士で気が合って、会話が弾んだから、何時間も帰らないで、ずっといたんだと思う。普通、納めたら長居しないで、そのまま帰ってくればいいんだから(笑)。

平井 お互いに、ですよね。作家も話し相手がほしいと思うんです。孤独な人同士ですもんね。だから、息が合う人をいつも探してるんじゃないかな。

和美 でも、そこでほんとうに共鳴できる人って、意外といないんです。乱歩さんも執筆される仲間は大勢いたでしょうけれど、親しく付き合ってる方は数少ないと思うし。

平井 それはそうですね。

和美 でも、乱歩さんが漆のものをこれだけ好いてくださっていたのは驚きです。座卓のイメージしかなかったので。

うるし三代、つながる縁

—— 乱歩が春二さんと交流を持って、ある意味では支えていた部分もあったと思いますが、そのお孫さん同士がこうして……。

平井 付き合いがあるのも不思議だよね。

和美 ありがたいです。ご縁を感じます。それに、こういう時代のものを、きちっと次の世代へ残していただけるのは、すごく大事なこと。

智彌 7歳くらいのときに祖父は亡くなっているので、それなりに物がわかった状態で対話をした記憶がないんです。

平井 僕も祖父とは同じような関係でした。小学生の孫にとっては、やっぱり「お祖父ちゃん」ですよね。
智彌 ええ。ただ、物が残っていることで感じるものがあります。平井さんとお会いした頃は、この仕事をするつもりはなくて、違うことをやろうと思ってたんです。それが結果的に同じ仕事をすることになった。そうすると、祖父の作品を見たときに、その人となりとか、その熱量までも感じられるのがおもしろいというか。

和美 作品って、模様なんかなくても、ちゃんとメッセージ性が出てくるから。

平井 だいぶ残ってるんですか、春二さんの作品は。

和美 そんなに残ってません。それこそ生活費になってしまったので。

智彌 ほんとに数点です。

和美 それも晩年のだけで。若いときのものは我々が食べちゃいました(笑)。

平井 お米になっちゃった(笑)。
和美 全部、作品は買っていただいて、それが生活費になった。昭和20年代とか30年代は、日展で特選をとると、その副賞で家族7人、半年はご飯食べられましたから。今はひと月も食べられない。それだけ、昔は評価を知ってたんです。

平井 ちゃんと買う人がいたんですね。

和美 最終的に買ってくれる人がいるから成り立ってる。そうでなきゃ、自分たちが仕事に没頭できませんから。そういう意味では、いま日本の文化はつらいところにあります。

平井 こういうのを持ってるのが、楽しくていいことだって広めれられればね。

和美 ほんとうにそう思う。やっぱり息子たちの世代が、作品を買ってもらいながら育っていくような社会の風潮がつくれるといいんです。そうでないと、一生懸命つくっても、生活ができなければ離れていってしまう。春二さんの時代は、いろんなところにスポンサーがいましたから。つくるほうもそれは大変だったけど、買ってくれる人、お金を出してくれる人がいた時代ですね。
平井 いい趣味だと思いますけどね。飾ってよし、使ってよし。とくに漆に関しては、年月が経っても当時のまま生き続ける。

和美 そうです。漆の作品なんて、大小取り混ぜても一生かかって1,000点はできない。多くても数百点だよね。

智彌 そうですね。

和美 だから、数百点つくって、数百人が1人1点ずつ買ってもらえたらいいんです。スポンサーが100人いたら、絶対にみんな食べていける。見て、愛でて、使って楽しい文化を、日本はもう一度ちゃんと戻してもらいたい。そういう意味では、乱歩さんも春二さんも、ほんとうに純粋に生きられた時代の人だと改めて思いますね。

旧江戸川乱歩邸応接間/2023年7月25日
聞き手・文:後藤隆基(大衆文化研究センター助教)
写真撮影:末永望夢(大衆文化研究センター)

室瀬和美(むろせ・かずみ)

1950年、東京都生まれ。漆芸家。父は漆芸家の室瀬春二。76年、東京藝術大学大学院研究科漆芸専攻修了。国内外の展覧会に作品を発表するとともに漆芸文化財保存に携わり、金比羅宮天井画復元、琉球古楽器復元など失われた技法の復活につとめ、正倉院宝物の分析でも功績を残す。91年、目白漆芸文化財研究所開設。96年、国宝「梅蒔絵手箱」(三嶋大社蔵)復元模造制作 (~98年)。2008年、重要無形文化財「蒔絵」保持者(人間国宝)認定、紫綬褒章受章。21年、旭日小綬章受章。著書に『漆の文化』(角川選書)、『室瀬和美作品集』(新潮社図書編集室)。

室瀬智彌(むろせ・ともや)

1982年、東京都生まれ。漆芸家。目白漆芸文化財研究所代表。父は室瀬和美。2000~01年、国際ロータリー青少年交換プログラムにてフィンランドへ留学。06年、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。08年、石川県立輪島漆芸技術研修所専修科卒業。漆芸家・小森邦衞氏に師事。13年、フィンランド・ヘルシンキにて「Urushi by Tokanokai展」開催。17年、第34回日本伝統漆芸展新人賞、第64回日本伝統工芸展新人賞受賞。

平井憲太郎(ひらい・けんたろう)

1950年東京都豊島区生まれ。株式会社エリエイ代表取締役。日本鉄道模型の会理事長。としまユネスコ協会代表理事。公益財団法人としま未来文化財団評議員。幼時から鉄道、鉄道模型を趣味とし、立教高校在学中の『鉄道ジャーナル』編集アルバイトをきっかけに鉄道趣味書出版の世界に入り、68年友人と共に写真集『煙』を出版。立教大学卒業後、株式会社エリエイに鉄道出版部門を立ち上げ、74年より鉄道模型月刊誌『とれいん』を発刊。

※記事の内容は取材時点のものであり、最新の情報とは異なる場合があります。

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