ゼブラフィッシュもうつ状態になるって本当ですか?

理学部生命理学科 樋口 麻衣子 助教

2018/05/18

研究活動と教授陣

OVERVIEW

ずらりと並んだ小型水槽で泳いでいるのは、青と薄黄色のストライプが美しい体長5センチ足らずの魚たち。ゼブラフィッシュと呼ばれるインド原産の淡水魚だ。みな元気よく泳ぎ回っている。

「でもゼブラフィッシュって、ストレスに長くさらされていると“うつ”になるんですよ」

ゼブラフィッシュを使ってストレスと精神疾患の関係を研究している樋口麻衣子先生はこう話し始めた。

「自分の天敵である肉食魚と一緒に飼育されていると、だんだん水槽の下の方でしか泳がなくなり、食も細くなってしまうんです」

元気がないのは別の理由という可能性はないのだろうか?

「この状態になった個体では、ストレスを受けた時に分泌されるホルモンとしてよく知られている『コルチゾール』の濃度が高くなることもわかっています」

しかも、と樋口先生は言葉を続けた。

「人間の抗うつ剤が効くんです」

ゼブラフィッシュは新しい血管が伸びていく様子などをリアルタイムに観察できる。

うつ状態の脳の様子を リアルタイムで観察できるモデル生物です。

着任してまだ数か月。今は本格的な実験の準備を進めている。

ゼブラフィッシュはもともと、発生学や遺伝学の分野で研究に使われてきたモデル生物だ。多産で世代交代期間が短いという遺伝学に適した特徴を持つこと、さらに体外で受精・発生し、その発生が早く、胚が透明で観察しやすいという発生学に適した特徴も備えているため、重宝されてきた。

「さらに近年、ゼブラフィッシュの脳神経系の基本構造が、ヒトを含めた哺乳類の脳神経系と類似していることが明らかにされ、記憶や睡眠、ストレスへの応答など複雑な脳機能について理解するためにゼブラフィッシュが用いられるようになってきています。」

体が透明なので、体内で特定の分子が光るように遺伝子を操作しておけば、その光を追うことで、脳の中や血管などで何が起きているかをつぶさに、しかもリアルタイムで見ることができる。

「たとえば、『いま、脳のどの部分が活性化しているか』を見るには、カルシウム・イメージング法という方法を使います」

ゼブラフィッシュの稚魚の脳を撮影すると、脳のあちこちで小さな光の粒がキラキラと瞬いては消えていくのが見える。

「光るのは神経細胞に刺激が入った場所。つまり、集中的に光ったところが脳が活性化した場所ということです」

この方法なら、健康な魚とうつ状態の魚で脳の働きにどのような違いが起きているかを見比べることができる。また、健康な魚にストレスを与えた時や、うつ状態の魚に人間の抗うつ剤を与えた時に脳神経の活動がどう変化するかを見れば、ストレスが脳神経系にどのような影響を与えるかがわかってくるはずだ。

これまでのさまざまな研究によって、人間のうつ状態も脳神経系の異常と強い関連があることが示唆されている。ゼブラフィッシュでその具体的なメカニズムがわかれば、その予防法や治療法の開発に貢献するだけでなく、心理学の研究者にとっても力強い助けになるだろう。

精神疾患の発症につながる原因を、 母親のストレスから追跡します。

「ストレスにより体内のコルチゾールの濃度が高くなるという話をしましたが、ストレスがかかったとき、我々の体内では他にもいろいろなことが起きています。この研究では、コルチゾール以外の原因も探ろうとしています」

たとえば、ストレスは体内に炎症反応を起こし、それが脳神経系に悪影響を及ぼしているのではないかという仮説がある。となれば、炎症が起きた時に体内で分泌される物質をゼブラフィッシュに与える研究を行なうことでその仮説の検証ができるだろう。

「原因となっているものを突き止めるだけでなく、それが脳神経系にどのような形で影響を及ぼしているのかも解明したいと思っています。また、このプロジェクトでは、心理学部と連携・協力して研究を進めているため、コルチゾールや炎症関連分子に限らず、心理学部から原因として新たな可能性が呈示されたら、それについても検証したいですね」

もう一つ、テーマとしているのは、妊娠中の母親が受けたストレスと子どもの精神疾患との関係を解明すること。

妊娠中の母親が強いストレスを受けると、その子どもの精神疾患(自閉症スペクトラム障害やうつなど)の発症率が高くなる、という報告がなされ、胎内環境が精神疾患発症の要因の1つとして考えられるようになって来た。しかし、母親のストレスがどのようなメカニズムで子どもの脳神経系に影響を及ぼすのかはまだ明らかになっていない。哺乳類の胎児は母体の中で成長するため、脳が発達していく様子をリアルタイムで見ることが難しい、というのがこの研究を進める上で大きな問題の1つとなっている。

その点、卵で生まれ、当面は透明なまま成長していくゼブラフィッシュは格好のモデル生物となる。

「母体にストレスを与えたり、卵に原因因子となりそうなコルチゾールや炎症関連分子を注入したりして、脳神経系の発達への影響を見ていきたいと思っています」

無類の猫好き。研究室には加湿器、時計、カレンダーなど数多くの猫グッズが並ぶ。

生命の不思議に魅せられ、 工学から生命科学へ転身しました。

意外なことに、樋口先生の大学院修士課程時代の研究テーマは遺伝子操作に用いられるツールの作成。工学の研究だ。しかしやっているうちに、操作するツールよりも操作される生命の方に興味が移った。

「生物って、誰が指示するわけでもなく一つ一つの細胞が完璧な体を作り上げて、見事なシステムで動いていますよね。そのことへの驚きが工学から生命科学に舵を切るきっかけになりました」

生命の神秘を解き明かそうとする理学的な基礎研究が樋口先生の拠点。基礎研究と社会還元できる成果を目指す応用研究との間には大きなギャップがあると言われるが、樋口先生はその溝を、ゼブラフィッシュの力を借りて軽々と越えていく。心理学部との融合研究が本格化すれば、今度は理学と心理学の間を飛び越え、さらにスケールを広げていくだろう。

プロフィール

Profile

樋口 麻衣子

理学部生命理学科助教

2003年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了後、東京大学分子細胞生物学研究所博士研究員、助教を経て12~13年アメリカのカリフォルニア大学サンフランシスコ校、ドイツのマックスプランク研究所にて博士研究員。14年東京大学大学院薬学系研究科特任助教。17年11月より現職。大学院修士課程までは遺伝子の切断活性をもつ金属錯体開発を専門としていたが、博士課程に進学する際に、がん細胞の浸潤・転移や血管新生など細胞運動のメカニズムを探る研究へと軸足を移し、原癌遺伝子Aktががん細胞の運動性を高めることががん悪性化の一因となることを解明。現在はゼブラフィッシュをモデルに用いて細胞運動のメカニズムを解明するべく研究を行っている。

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