連携講座「池袋学」|トキワ荘の時代~『漫画』から『マンガ』へ~

「池袋学」運営事務局

2014/07/09

イベントレポート

OVERVIEW

東京芸術劇場×立教大学主催 連携講座 「池袋学」2014年度<春季>

日時 2014年5月24日(土)14:00~16:00
会場 東京芸術劇場5階シンフォニースペース
講演者 丸山 昭 氏(編集者)
 

レポート

東京芸術劇場と立教大学が連携し、今年(2014年)からスタートした公開講座「池袋学」の2回目、元講談社編集者の丸山昭氏による「トキワ荘の時代~『漫画』から『マンガ』へ~」を聴講しました。会場の東京芸術劇場シンフォニースペースには客席正面に巨大なスクリーンが設けられ、トキワ荘の室内の様子やふすまに描かれた住人達の寄せ描きなど当時の写真が大写しで紹介されました。
トキワ荘は、豊島区椎名町5丁目2253番地(完成当時の住所)にあった木造2階建てのアパートで、1952年(昭和27年)から1982年(昭和57年)までの間、数多くの漫画家を輩出しました。

漫画家は、手塚治虫を筆頭に、寺田ヒロオ、藤子不二雄(藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄)、鈴木伸一、つのだじろう、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、園山俊二……ら、日本のマンガ文化を代表する顔ぶれで、現在のクールジャパンの先駆け、ルーツとも言える人たちです。

講師の丸山昭氏は、1953年(昭和28年)に講談社に入社し、『少年倶楽部』や『少女クラブ』を担当したことからトキワ荘に足しげく通い、編集者の立場で伝説の漫画家たちとの交流が始まったとのことで、さまざまな個性がいろんなエピソードを通して語られ、60年前の若き漫画家たちの日常の様子が再現されました。

トキワ荘の謎

なぜ、トキワ荘の住人がすべて、一人残らず有名になったのか? この答えは実に単純明快です。1947年(昭和22年)に創刊された『漫画少年』(学童社)に全国の若き漫画家の卵達が投稿するページがありました。その中でも才能が認められ雑誌に連載が決まると、出版社が彼らを地方から上京させ、下宿先として提供されたのがトキワ荘だったのです。

当日の資料には、石森章太郎=宮城、手塚治虫=兵庫、寺田ヒロオ=新潟、藤子不二雄=富山(二人とも)、水野英子=山口、よこたとくお=福島……等とあり、全国から漫画家の精鋭が集まっていたことが分かります。また、リーダー格の寺田ヒロオが「新漫画党」を結成した際(1954年)、メンバーの年齢は、総裁の寺田ヒロオ=23才、藤子不二雄(A=20才、F=21才)、石ノ森章太郎=16才、赤塚不二夫=19才、つのだじろう=18才、園山俊二=19才…と、その若さに改めて驚きます。

余談として、この雑誌に投稿していたメンバーで、漫画家にはなれなかったのですが、後にほかの分野で力を発揮した人々ということで、横尾忠則、筒井康隆、和田誠、篠山紀信、黒田征太郎、平井和正、眉村卓……らの名前が挙げられました。マンガの草創期には、かくも多彩な才能が湧き出ていたのです。

「漫画」から「マンガ」へ

今年の4月に京都精華大学の学長に漫画家の竹宮惠子さんが就任しました。いまや全国の大学で漫画を授業で取り上げない所はないと言われるほどです。丸山氏は、「漫画」とはギャグや風刺を使って他愛のないことで笑わせることが目的であるのに対して、「マンガ」はユーモアの要素を持ちつつ、ストーリーや情報を伝えるのが目的だと定義されました。

「マンガ」は、単に笑いを誘うだけの「漫画」を超えて、ストーリーの力で悲しみや恐怖、愛情までをも表現し、歴史や思想、人々の暮らし、経済…まで扱う領域へと広がってゆきました。

悪書追放の時代

順風満帆のように見える漫画の歴史も、1950年代の半ば頃には苦難の時期を迎えました。「漫画は子どもの精神的発育を阻害する」「漫画は悪だ」「漫画を掲載した図書は悪書であり追放すべきだ」という声が突如として高まり、全国に広まったのです。教育学者や児童文学者、PTAや子供を守る母親の会などが漫画はけしからんと主張し、これにマスコミが乗り、政治家や行政、警察までもが同調して、漫画を「売らない、買わない、読ませない」という不買運動にまで発展しました。

ついには小学校の校庭に漫画を集め、火をかけて燃やしてしまうということも起こったそうです。秦の始皇帝の焚書坑儒やナチスのヒトラー、魔女狩りにも匹敵する愚行と思われます。この時代は、漫画家と名乗れない時代、親からは袋叩きに遭い、勘当もされるため、おおっぴらには言えない時代でした。

手塚治虫も、子どもの教育を考える会などに呼ばれてさんざん吊るし上げられたそうで、「漫画のどこが悪いというのではなく、漫画だからいけないと言われる」と寂しそうだったといいます。ある時、旧帝大の物理学の先生が、人工衛星に人が乗るなどというようなばかげた事は、子どもに見せるべきではない、全くもってけしからん、と言われたそうですが、その2年後にソ連のスプートニクが飛んだそうです。

そのようなわけで、トキワ荘の2階はオアシスでした。外からは受け入れてもらえず、親からは袋叩きにされ、揚げ句は勘当され、自分が漫画家だということをおおっぴらには言えない時代の中で、水滸伝の梁山泊のように、漫画を支えあった仲間がそこにいたのでした。

※記事の内容は取材時点のものであり、最新の情報とは異なる場合がありますのでご注意ください。

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