立教と聖路加のつながり—築地から世界へ—

立教学院展示館

2018/01/17

キリスト教とチャペル

OVERVIEW

現在、池袋と新座にキャンパスを持つ立教大学ですが、その発祥の地は、当時、外国人が住むことのできる数少ない場所のひとつ——「築地」でした。今では、立教ゆかりのものは残っていませんが、聖路加国際大学の敷地には、「立教学院発祥の地」の記念碑が据えられ、立教と築地の関係を現在に伝えています。

(左)聖路加国際大学 (右)財団法人立教学院の理事。左上がトイスラー 『立教大学新聞』1931(昭和6)年9月30日[立教大学池袋図書館所蔵]

立教は、米国聖公会の宣教師、チャニング・M・ウィリアムズ主教によって、1874(明治7)年に創立されましたが、聖路加国際大学の前身、聖路加病院も、同じ米国聖公会の宣教医師、ルドルフ・B・トイスラー博士によって、1901(明治34)年に創立されました。

立教と聖路加は、ともに築地で生まれた米国聖公会の機関ということもあり、その関係性には密接なものがありました。例えば、聖路加病院が開設された築地居留地37番は、ウィリアムズが私財を投じて購入した土地で、病院開設前は、立教の校舎(当時は、立教大学校)が建っていた場所でした。居留地37番を後にした立教は、居留地57~60番へと移転しますが、その場所こそ、記念碑が据えられている、現在の聖路加国際大学の敷地なのです。

また、人の繋がりもその関係の深さを表しています。例えば、立教と聖路加の理事会メンバーの約半数が兼務で、トイスラーも、1927(昭和2)年から、亡くなる1934(昭和9)年まで立教の経営法人の理事を務めていました。

(左)「立教学院発祥の地」の碑 (右)ルドルフ・B・トイスラー博士 [ポール・ラッシュ記念館所蔵]

こうした両者の密接な関係性を背景として、立教に医学部を設置しようという構想が、たびたび試みられていました。戦時下には、立教と聖路加を合併して、立教大学に医学部を設置する計画が進められました。文部省の内諾を得るところまでいきましたが、最終的には、病院を管轄する厚生省の反対などもあり、計画は挫折してしまいました。また、戦後の学制改革による新制大学の設置(1949年)に際しても、医学部の開設が決定され、理学部がその前段階教育を担うものとされていました。しかし、肝心の聖路加の病院施設は、GHQによる接収(1956年まで)を受けていたこともあり、実現には至りませんでした。

立教と聖路加の関係を象徴する人物に、ポール・F・ラッシュがいます。「アメリカンフットボールの父」「清里の父」として知られるラッシュですが、戦前は、立教大学の教授でもありました。しかし、1928(昭和3)年から31(昭和6)年の間は、聖路加のトイスラーへ「貸し出され」ていました。それは、関東大震災によって被災した聖路加の再建資金を集めるためでした。ラッシュは、トイスラーのもとで、多くのことを学んだと言われています。ラッシュが事あるごとに口にした言葉、「Do your best」も、トイスラーの言葉から生まれたものでした。

(左)ポール・F・ラッシュ (右)ポール・ラッシュの構想した「日本聖公会教育財団」 THE EPISCOPAL CHURCH IN JAPAN [ポール・ラッシュ記念館所蔵]

戦争により、一時日本を離れていたラッシュでしたが、戦後はGHQの一員として再来日し、立教の戦後復興にも大きな役割を果たしました。先ほど触れた戦後の医学部計画は、大学の総合大学化を目指したものですが、同時に、立教と聖路加を中軸に、聖公会の全教育・医療機関を統合しよういう、ラッシュの描いた壮大な構想がベースとなっていたのでした。

このラッシュの構想が実現することはありませんでしたが、現在、立教大学は、10学部27学科を擁する総合大学へと発展し、聖路加も、聖路加国際病院と聖路加看護大学が一体となり、聖路加国際大学へと飛躍を遂げました。

そして、立教大学も、聖路加国際大学も、世界の約120大学とともに「世界聖公会大学連合」(CUAC)に加盟し、「アングリカン・コミュニオン」(世界の聖公会)の広がりの中でつながっています。

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