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WEB法学周辺は、立教大学法学部発行の冊子『法学周辺』掲載の教員自己紹介、学生へのメッセージ、法学部で学ぶためのアドバイス、学部の新しい取り組みなどのコンテンツを中心に、本学部からさまざまな発信を行うスペースです。

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法学周辺

ライデン大学とケンブリッジ大学での研究

法学部政治学科教授
松田 宏一郎 Matsuda Koichiro

2015年度秋学期から2016年度春学期まで、一年間の海外研究の機会をいただき、一ヶ月をオランダのライデン大学で、その後の期間を英国のケンブリッジ大学で研究をおこないました。以前の長期海外研究でもほとんどの期間をケンブリッジで過ごしましたし、ライデンにも二ケ月程度滞在したことがあります。またどちらの大学にも、短期で訪問したことが何度かあるので、その点では、なじみのある場所です。知人も何人かいます。

私の専門領域は、近世、近代の日本政治思想です。ライデンやケンブリッジにいかなければ利用できない史料があるわけではありません。私にとって、これらの大学で研究させてもらう意味は、まず第一にそこに集まる優秀な研究者との交流の機会が多いこと、第二に、図書館、特に近年ではオンラインデータベースが充実していて、時間や手間をかけずに必要な史料や研究書、論文などが読めること、第三に居住の場所と大学施設が近接していることにあります。

第一についていえば、ライデン大学でもケンブリッジ大学でも、学期中に数多くの研究会(通常は seminar と呼ぶ)が開かれていて、私の場合ですと、政治思想、日本研究、中国研究の研究会を中心にあちこち参加していました。また、日本でいうシンポジウムにあたるのでしょうか、通常はただconference と呼ぶ、複数の発表者を招聘し2日程度でおこなう、やや大きめの規模の研究会も頻繁にあります。招聘された研究者がおこなう特別講義もあります。日本でも近年は学際的かつ国際的な共同研究会が盛んになりましたが、ライデンやケンブリッジでは、それが日常的にあります。

ライデン大学はヨーロッパでもアジア研究の分野で優れた成果をあげていることがよく知られていますが、以前から親しくしているキリ・パラモア先生や W. ボート先生といった、私の専門領域と重なる近世日本儒学の研究者の方々と、気軽に会ってアイデア交換をしていました。ケンブリッジ大学では、ヨーロッパ政治思想や政治理論、また日本史、中国史の研究者と会っていることが多かったかと思います。

インプットだけでなくアウトプットの機会もあります。ライデンにある国立民族学博物館の学芸員の方と一緒に特別講義をし、ちょうど徳川政権の宗教政策をテーマにしましたので、博物館が所蔵しているキリシタン関連の史料も用いて、ヴィジュアル的にも興味をひきやすい講義ができたかと思います。それからヨーロッパにいれば気軽に移動できるということから、プラハのカレル大学に招かれて5日間の特別講義をおこなう機会をいただきました。プラハの時は、近代中国で society を「群」と訳す例があることについて説明していたら、カレル大学の学生に先回りされてそれは『荀子』から採ったのではないかといわれ、チェコの学生の熱心さに感心したのが印象として残っています。

今回の長期海外研究の主目的は、著作を一つまとめることと、執筆の約束をしているいくつかの論文を仕上げることでしたので、上記のようなイベントや交流以外の時間は、ほとんど図書館で原稿を書いていました。ライデン大学はオンラインデータベースが多数契約されていて、特に中国語、英語の必要な研究書、論文の多くは自分のラップトップで読むことができ、それらを利用した執筆作業も簡単でした。またケンブリッジは、オンラインも相当なものですが、やはり蔵書が膨大ですので、ちょっと気になることがあれば書架に本をとりにいって、自分の作業机に積み上げておきました。ただし、ケンブリッジでは、19世紀後半から20世紀前半の法学理論分野のドイツ語とフランス語の蔵書が少なく、この分野については立教大学の方がずっと上です。日本の法学・政治学が伝統的に独仏の影響が強かったこと、英国では、独仏の法学・政治学がそれほど研究されていないことをあらためて実感しました。

ケンブリッジ大学図書館の利用システムは独特で、ほとんどの20世紀以降の図書は開架書庫にあり、取り出して、リザーブ用のしおりをはさんでおくと、そのまま自分が作業している机においておけます。必要がなくなれば、しおりをとって机の隅にでもつんでおけば、片付けてくれます。また最近、コピーのシステムが新しくなり、ネット上のアカウントにあらかじめコピー料金を必要な額だけ預けておくと、それを使って、館内のコピー機から直接 pdf に変換したファイルを自分宛にe メールで送ることができます(しかも紙にプリントするより安い)。このpdfをメールするシステムはライデン大学図書館も同じでした。以前はケンブリッジにいくと、けっこうな分量のコピーを郵便で日本に送りましたが、その手間が不要になりました。

職住接近についていえば、多くの研究者が大学から遠くないところに住んでいるので、お互いの家に食事やお茶に家族で招いたり、またケンブリッジの場合はいわゆるカレッジ(コレジの方が音が近い気がします)で一緒に食事をしたりということが簡単にできます。私は1998年に Clare Hall というカレッジの visiting fellow になって以来、そのカレッジの施設を使ったり、大学のメンバーとしてのいろいろな手続きをしてもらう終身権利を与えられています(life member という)。1960年代にできたいわゆる modern なカレッジですので、中世からある有名なカレッジのような風格はありませんが、気軽に人を招待して食事もできます。このような空間的近さから生まれる心理的近さ、研究者仲間という感覚は、他の場所では得がたいものです。カレッジの食事は、すでに人がいる場所の隣の席にすわる、つまり知らない人とわざわざ隣に座って食べるという慣例のようなものがあり(近年、それが失われたと嘆く人もいます)、それが思わぬ興味深い学問的会話のきっかけになることもあります。コーパス・クリスティ・カレッジ に、B.クシュナー先生(現代日本史)に招かれていったときに、対面側にいた人と何となく話し始めたら、ケンブリッジ大学の霊長類研究者で、京都大学に何度もいったことがあるという話題から、日本語の「レイチョールイ」という語の語源は何かという話になり、私が「万物之霊」といった言い方なら『書経』にあるのは知っているが、primatology の訳語が近代日本でどうできたのかは調べるといって、食後にすぐ図書館で中国・台湾や日本の書誌のデータベースなどを調べて(これもケンブリッジの図書館ですぐできます)、ざっとした説明をメールで送ったら、さらに入り組んだ質問がでて、しばらくこの話題でやりとりが続いたことがあります。

このような環境のおかげで、だいたい予定通り、『擬制の論理 自由の不安』(慶應義塾大学出版会)を英国滞在中に刊行、それから書き下ろしの原稿から韓国語訳された福澤諭吉の政治思想についての単著の完成原稿を編集者に送り(2017年1月刊行)、イギリスとアメリカで出版されるいくつかの研究論文集に載せる担当章として、徳川政権の宗教政策、近世近代の思想統制と言論空間、明治知識人のマキャベリ理解、といったテーマの論文を仕上げ(出版は2017年中の予定)、そして近世の法思想に対する荻生徂徠の思想の果たした役割についての日本語の雑誌論文をだいたい書き終った(『思想』2016年12月)というところで、長期海外研究の期間が終わりになりました。たとえ講義や会議がなくても、日本にいたらこれほど集中して執筆はできなかったと思います。この場を借りて、ライデンのパラモア先生、ケンブリッジのクシュナー先生に感謝したいと思います。

次はこの研究で得たものを立教大学での講義にどう組み込んでいくかが課題です。

「寄り道」本の思い出
―研究者になる前後のはなし

法学部国際ビジネス法学科 教授
髙橋 美加 Takahashi Mika

何かエッセイを、というお話をいただいて、本に関する内容かなと、つらつらと自宅の本棚を見たが、雑多としかいいようがない状態にため息が出た。まもなく研究休暇をいただくが、手始めに本棚の整理をするべきだろう。どうも自分には寄り道癖のようなものがあり、研究書のふりをして並んでいる本の中には、実は、本当にしなければならない勉強から逸れて買いこんでしまったものがかなり紛れ込んでいる。そもそも最初の寄り道本はなんだっけと思い返しているうち、学生時代から研究者の道に入った頃のジタバタっぷりを思い出した。今回は全く異なるジャンルから、しかしそれぞれに私を支えてくれた本を紹介する。

岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』(ちくま学芸文庫・1993年)
ノルベルト・オーラー『中世の旅』(法政大学出版局・1989年)

高校時代に亡くなった母方の祖父は、明治生まれの家父長制の権化で男尊女卑的な発言も多い人だったが、自らは大学に行けなかったことを非常に悔いており、孫達の学費の援助を惜しまなかった。病床にあった祖父を見舞った時、彼に「法学部などやめておけ、奇妙な理屈をこねる人間になりたいのか」というような趣旨のことを言われたと、強烈に覚えている。長年商社に勤務していたから法律に全く無縁であったとは思わないが、彼の働き盛りの時代(1960年代か)における商社マンの認識では、法学とはそのような評価だったのかもしれない。ちょうど川島武宜『日本人の法意識』(岩波新書・1967年)の世界とも言える。ともあれ私は、ティーンエイジャーらしい反発心から法学部進学を決意したのだった。

法学部生でも経済の基礎は知っておくべきだ、とかいう先輩か誰かの言に従って背伸びしてとった少人数授業で、岩井克人先生の『貨幣論』(筑摩書房・1993年、ちくま学芸文庫・1998年)を読んだ。マルクスもろくに読んでない学生にとってかなり辛かった記憶しかない。ともかく、あっという間について行けなくなった私はせめてもの抵抗として、同先生のもう少し軽めの本書『ヴェニスの商人の資本論』に「寄り道」をした。このエッセイ(といって差し支えないだろう)はシェイクスピアの有名な戯曲「ヴェニスの商人」について、登場場面ごとに登場人物の役割を分析し、この戯曲が異なるグループ(キリスト教徒・ユダヤ人・異邦の女達)の間の交換の物語であり、その媒介の役割を引き受けた者はいわば貨幣であり、そのような異なる価値体系の差異を媒介して利潤を生み出すことこそ資本主義であると読み解いてみせる、という内容である。彼独特の貨幣論をアナロジーとして用いているわけで、ドロップアウト寸前の学生でも一応聞きかじった内容を元にしているわけであるから、なんだか知的な気分が味わえた、というのが正直な感想だった気がする。

ところで「ヴェニスの商人」といえば、人肉裁判シーンが有名である。本書においてこの場面は、「証文」に基づく等価関係(ユダヤ教徒の世界)と兄弟盟約的人間関係(キリスト教徒の世界)との対立構造において、(それが本書の特徴だが)法学博士に変装した男装のポーシャがその対立を媒介することから「貨幣」の役割をするものとして分析されている。岩井先生の主張の全体からすれば必ずしも本筋とは言えないが、駆け出しの法学部生からみれば、高利貸しのシャイロックによる「証文どおり」の等価交換要求に対して、ポーシャが肉1ポンドを取るのは構わないが血を一滴も流してはならないと述べて言い負かす場面の解説は衝撃的だった。ポーシャによる「媒介」は、慈悲の心を持った話し合いによる解決を要求したアントーニオ側の主張を通したのではなく、あくまでシャイロックの提供する論理構造に乗りながら、「証文どおり」という言葉を、発言者であるシャイロックの意図からも独立して「言葉どおり」解釈してみせるというものであり、それこそが「法による解決」だという説明である。裁判に敗れたシャイロックの「これが法というものですか」というセリフが胸に迫る。

私が祖父の言葉を思い出したのは言うまでもない。海外勤務が長く、語学の堪能な1960年代の商社マンは、兄弟盟約的な紐帯の世界に生きていて法的手段による解決を好まなかったのか、それとも発言者の意図すら超越して純粋に言葉の解釈のみを抽象的に詰める「法学」にどこかで痛めつけられたのか。そのどちらの経験もあったのかもしれなかった。ほとんどまともに話すことのなかった祖父が何を思ってああいう発言をしたのか、ちゃんと聞けば良かったと、あのとき初めて後悔したのだった。

そんなことがあったせいか、なんとなく国際取引の勉強をしてみたいという気持ちを持って、研究の世界に入った。蛇足ながら、「商法」がカバーする範囲は広い。膨大な会社法は別の法典として独立したが、現在の商法典の中には他に総則、商行為、保険法(こちらも今は独立)海商法があり、証券取引法(金融商品取引法)や各種金融法も併せて研究対象とされる。海商法は、実は立教では講義対象科目ではないが、商法の中でも特に歴史のある分野である。海上企業にかかる法で、海上運送法に関連する内容の他、船舶金融や担保の執行なども含まれ、また、国内の法令のみならず国際条約も多く、「国際取引」を勉強する上で、海商分野は必須と言える。ちなみに、今年(2018年)5月、商行為法の運送法分野と海商法の改正がついに国会を通った。六法の中でも明治期以来ずっと置き去りにされていた分野の一つで、改正はそれなりのニュースだったはずだが、地味な内容というか、マニアックな世界というか、一般にはあまり報道されなかった。

学生時代、その海商法を勉強する機会はほとんどなかった。しかし私の指導教授は「海」を専門にしておられ、大学院演習として国際海上物品運送法の演習を開講されたので、嬉々としてこれに参加した。まず、イギリスの教科書を買った。Scrutton on Charterparties and Bills of Lading(20th ed. Sweet & Maxwell, 1996)が、まだガラガラの共同研究室の本棚に置かれた時は、なんとなく誇らしく、感慨深かった(装丁もお値段も非常に立派だった)。社会人入学で大学院に来ていた船会社の人とコンテナヤードの見学に行き、停泊中のオイルタンカーに乗せてもらった。

ただしそこから先は本当にジタバタした。演習で私の担当した報告は「堪航能力担保義務」。「堪航能力」とは読んで字のごとく船が航海に堪える能力のことをいい、船舶の構造や艤装・人員配置まで含めて、出航段階で航行能力に瑕疵がある場合、運送人/船舶所有者が荷物の損傷や延着の責任を負う義務である。歴史的には無過失責任とされ、その起源は紀元前3世紀のロード海法に遡るされるかなり特殊な義務である(なお今年の商法改正で商法典の中の堪航能力担保義務も過失責任として規定された!)。張り切ってピカピカの教科書を読み、英国の判例を読み、国際条約を調べたわけだが、分からないことだらけで歯が立たない。卑近な例を挙げるならば、判例一つとっても、どこかの船倉やエンジンバルブの不具合が原始的瑕疵なのか後発的瑕疵なのかという事実認定が延々と続くわけで、これはかなり辛かった。まったく本筋でないと思いながらも、池田勝『船体各部名称図』(海文堂出版・1979年)まで買い込んだ(今も研究室にある)。

演習は乗り切っても付け焼き刃にすぎず、とにかく船についても船旅についても、物流についても何も知らず、場当たり的に情報をかき集めるだけの勉強は砂を噛むような感覚だった(今でもジタバタしている)。なにか参考になるものはないかと書店を彷徨い、全く予定と違うものを購入する「寄り道」癖が発揮されて出会ったのが、本書、ノルベルト・オーラーの『中世の旅』だった。

本書は研究書である。著者はフライブルク大学などで歴史学の教鞭をとり、後にジャーナリストになったとのことだが、様々な文献をもとに、中世ヨーロッパの旅の様子をかなり具体的に再現する。2部構成で、前半部分では各文献に現れる中世の旅行について、要素ごとに、例えば陸路や海路などの手段、それにかかる準備、食料の確保と持参方法、宿泊方法、病気や外敵との戦いなどについて解説する。それらがまたいちいち具体的―たとえば陸路を移動するときの持ち物はどんな感じだったか、宿泊施設はどんなところかなど―で、興味深い。後半部分は著名な旅行記を元にした「証言」であり、例えばマルコ・ポーロやイヴン・バットゥータ、そしてコロンブスのような、一度は読んだはずの内容について、ほぼ時系列でおさらいできる。島国の中だけの移動であった我が国の中の旅とは異なり、国(政治体制)・民族・宗教などが複雑に絡み合った中での移動には不条理も多く、なんとも過酷だ。当然商業の旅にも目が行く。財の移動をになう商人はいつも攻撃の対象であったようだ。宗教者からは精神的に、為政者からは財産的に、盗賊からは物理的に。商人達が財(や命)が奪われる事態に懸命に抵抗し、また交易の拠点でいかに快適に過ごすかに注力していたことがわかり、また商人の法が教会法でも国家権力でもない「慣習法」である事情が垣間見えたりする。商法が学問的に高尚な感じにならないのはこのあたりが原因か……。

この本を読んだところで、海商法の知識不足を補うことにはならなかった。結局現在の法制度は、産業革命以降、蒸気船ができて、鉄道ができて、飛行機ができてからのルールなのである。しかし、これらの発明の前に綿々と続く苦難の歴史があり、その世界と現在が細々とつながっている。海商法を勉強していると時々ひょっこり顔を出してくる中世に、もう驚くことはない。それから、この本を読むと自分も旅に出かけたくなる。

最近、どこかの新聞の社説で、社会自体が「株式会社化している」と書かれているのを読んだ。その趣旨は、短期的利益追求型になっているのだということのようだ。別に株式会社法は短期主義(shorttermism)を推し進めているわけではないのだが、株主利益の最大化云々が諸悪の根源のように思われている気がする。確かに書店を歩いていて、短期利益追求型の本が多い気はした。「話題の本!」の書棚を見ると、変な焦燥感に駆られる。そういう時、「寄り道」本を探し始める。そういうことができる書店や図書館が近くにある環境に、とても感謝している。

講義・ゼミ雑感

法学部国際ビジネス法学科 准教授
長谷川 遼 Hasegawa Ryo

皆さん、こんにちは。法学部国際ビジネス法学科教員の長谷川遼です。専門は知的財産法で、同名の講義やゼミを担当しています。オムニバス形式の国際ビジネス法1A や(旧)現代企業法の授業で見たという学生もいるかもしれません。さて、今回新たに始まる「エッセイ」のコーナーへの執筆依頼を受けました。「学生の皆さんに教員やその研究・教育を身近に感じてもらおう」という趣旨の企画なのだと推察するのですが、元々面白い話ができるタイプではないうえ、「法学教室」の巻頭言のように学生の興味をひく小話ができる程の知識経験を持ち合わせてもおらず、正直途方に暮れています……(実際、現在原稿の締め切りを徒過しています!ごめんなさい!!)。けれども、この企画は持ち回りで執筆することになっており、どう足掻いても逃げられないのです!というわけで、面白くはありませんが、担当している授業やゼミについて、立教大学の教員となってからの日々を思い返しつつ、少しお話したいと思います。

私が立教大学法学部に着任したのは2014年度になります。それまでは学生に教えた経験がなかったため、初年度の講義やゼミではとても緊張したのを覚えています。もちろん、⚕年目の今でも「慣れる」ということはなく、試行錯誤の連続なのですが……。

最初の頃の講義では、扱う内容の選択や試験の難易度、採点、成績評価等々におおいに悩まされました。「あれもこれも紹介せねば……!」と躍起になって、内容的にだいぶぎゅうぎゅう詰めにしてしまい、必然的に喋り方も相当な早口になってしまいました。「今でもめっちゃ早口じゃん!」という怨嗟の声が学生から聞こえてきそうですが(!)、これでも少しは改善できた(学生の手元に資料があって早口でもいい場合とそうでない場合を分けるようになった)と思っています……たぶん。また、現在は細かいところは教科書に委ねて、扱う内容を大幅に絞り、著作権法や特許法の大まかな構造を確実に理解してもらえるように心がけています(なので教科書を使った復習をぜひともお願いします!)。まぁ日々改善ということで、気になったことは(深く傷つかない程度にオブラートに包んで)遠慮せずに伝えてください。

試験に関しては、論述問題の採点にとても苦労しました。有難いことではありますが、知的財産法の受講者数がこんなに多いとは思っていませんでした。そして、基準にブレを来さずに数百人の答案を採点するというのは、なかなか大変なのです。一気呵成にやらないとダメなんですね。私が学生だった頃には、こんな苦労は想像もしませんでした。思い返すと、随分と汚い字で答案を書き殴り、そうでなくても難儀な採点作業に余計な負荷をかけてしまったように思います。当時の先生方には悪いことをしたなぁ……と反省しきりです。というわけで、採点は学生の皆さんが思っているより大変なので、判読困難だったり意味不明瞭だったりする答案は、ぜひとも避けてもらいたい。切実にお願いします!一方で、筋道の美しい答案を見つけると嬉しくなりますね。講義に要した労が報われる瞬間です。

そして、これまた悩ましいのが成績評価。初年度はかなり厳しく判定してしまったようで、次の年度は履修者が激減してしまいました。私が学生だった頃も逆評定なるものが出回っていて、「○○先生は仏、××先生は大鬼」などと学生間で情報を共有していましたが、立教の学生のレスポンスの速さには驚かされました。反動で(日和ったわけではない)その年度の評価は少し甘めになったのですが、その次の年度にはすかさず受講生が激増していました……。なんと逞しい……。

試験については想定していなかったことがもう一つ。それは答案に色々と事情を並べて単位を懇願する類の余事記載が僅かながら見受けられたことです。着任初年度は若干心を揺さぶられそうになりましたが(もちろん評価に影響はしていません!)、今では完全に冷え切った氷の心で採点しているので、こういう記載は私には一切効きません!絶対にやめてください!!お手紙もダメです!!!

さて、授業以上にトライ&エラーが続いているのがゼミ(演習)です。以前着任の際の自己紹介でもお話ししましたが、私は学生時代、山口厚先生の刑法ゼミに参加したことをきっかけに、法学の学問的な面白さや、法学的議論の醍醐味を知ることができました。そんなわけで、学生には、法学的思考を巡らせたり議論を戦わせたりすることの楽しさを、ゼミを通して知ってもらいたいと考えています。また、ご存知の方も多いと思いますが、本学法学部では、現在の知的財産法学の第一人者である上野達弘先生が、ディベート形式の著作権法の演習を担当されていて、名物ゼミとなっています。私も見学させていただいたことが何度もあるのですが、協力して勝利を目指す学生達の熱意でゼミが成立していることにとても感心しました。私もそんな活気のあるゼミを目指しています。

では、私のゼミはどんな様子なのかというと、対照的にオーソドックスな報告+議論の形をとっています。ただ、その報告と議論の仕方については色々と変遷を辿ってきました。最初は知財絡みのテーマであれば何でもOK ということにしたのですが、知的財産法についての事前知識が乏しい学生もいる中で自由論題としたことは、報告者にも議論にも(ひいては私にも)混乱を来してしまいました。その後は、「不正競争防止法(含パブリシティ権)+著作権法」と「商標法+特許法」を1年ごとに交互に扱うこととして、指定する裁判例やテーマを手掛かりに報告してもらうことにしています。また、報告する裁判例についても、以前は複数指定していたのですが、それでは報告が裁判例の事案と判決の紹介に終始してしまうことから、指定裁判例を一つに絞って、そこから学説や類似裁判例の調査、自身の見解といったところまで報告内容が広がるように、工夫しています(この辺の塩梅は今でもなかなか難しいのですが……)。なお、報告者は当初各回1人だったのですが、負担が大きかったことと他の学生と協力して調査してもらいたいという思いから3人に変更しました。ところが今度は手持ち無沙汰気味の報告者が出てしまったため、現在は2人で報告してもらっています。こうした変遷は、合宿の反省会等でのゼミ生達との議論をもとにした、試行錯誤の軌跡でもあります。

一方でそれ以外の報告・議論のスタイルは各報告者に任せています。かつては、報告者がまとまった発表をして論点を提示した後に全体で議論をするというパターンがほとんどだったのですが、発言者に偏りが出てしまうという問題があったうえ、議論が途切れたところで私が報告者や参加者に差し向ける質問への対応が大変だったようで(終盤になると学生が「当てられまい」と私から目を逸らすのです……悲しい)、昨年度からはある報告者の発案で報告後のグループディスカッションが導入されるようになりました。論点を絞ったうえでグループディスカッションのための時間を取るため、議論の深まりには制約が出ますが、すべてのゼミ生が主体的に関われるという点で、大きなメリットがあります。なにより、ぐっとゼミ生間の距離が近くなった気がしていて、大学におけるゼミの副次的役割としてのコミュニティ形成にも寄与しているように感じています。

最近では、グループディスカッション形式になってから、私がツッコミを入れることが少なくなり楽をしていることを見抜いたらしいゼミ生の発案で、「私+ゼミ長vs.他のゼミ生グループ」という形で立場を分けた上で討論するなどという変わり種形式もありました。以前は私が何か発言すると、多くの学生がメモを取ることに集中して、疑問を呈したり反論を考えたりしようとする学生が少ないことを残念に思っていたのですが、「せっかくのゼミなんだから教員相手にももっと議論しよう!」と訴え続けたことや、グループディスカッションで議論に参加することへの耐性や意欲が生まれたことが奏功したのか、徐々に自由な雰囲気が醸成されてきたようです(毎回この形式というのは勘弁してもらいたいですが……)。

一方で改善すべき点としては、もう少し議論の質が上がるように、参加者全員の事前調査を促す工夫が必要かなと思っています。漏れ聞くところによると、学生の間にはいわゆるガチゼミとゆるゼミ(どこかの漫画のタイトルかな?)という区別があり、私のゼミはどちらかと言えばゆるい方に分類されているらしいので、もうちょっと「ガチ度」を上げたいところです……。

なお、ゼミ生の選抜に際しては、知財法に関する関心事項等を書いてもらうレポートを判断材料の一つにしているのですが、どうやら私がアニメや漫画が好きだとかかやのん(茅野愛衣さん)のファンだとかいった噂(真実)が広まったためか(なぜなんだ)、レポートで自身の好きな作品等に言及する学生が散見されます。もちろん書いてもらって構わないのですが、当然のこととして、「アニメや漫画が好き」ということを選考の条件にはしていませんので、その点はどうぞご安心ください!多様なバックグラウンドや知識・関心を持った学生が集まることを期待しています。近頃、法学部では演習履修者が減少傾向にあるようですが、せっかく大学に入ったのですから、ゼミを経験せずに卒業してしまうのはもったいないですよ!

ここまで立教大学に着任してからの4年半弱を振り返りつつ、自身の講義やゼミに関して感じていることを、まとまりなくお話してきました。ただ、改めて書いてみると、日頃こうした率直な感想はゼミ生ぐらいにしか伝えてないなぁとも感じまして、今回のような形で広く学生の皆さんに知ってもらうことは、教員・学生間のコミュニケーションを図るうえで意味のあることなのではないかと思えてきました。などと、面白い小話ができなかったことへの自己正当化を済ませたところで、本稿を終えたいと思います。皆さんと、講義やゼミでお会いできるのを楽しみにしています!

国際政治学と私

法学部政治学科 教授
竹中 千春 Takenaka Chiharu

国際政治学との出会い

立教大学でアジア政治論、そして国際政治という科目を担当して10年が経つ。研究者にもいろいろな人がいて、予め頭の中で考えたことを書き出してきちんと講義できる人もいるが、私自身は文章を綴り、人と話をしながら、ようやく考えをまとめるタイプである。そのため、授業やゼミで答えのない問いをぶつけてしまい、「いきなり話が飛ぶ」と叱られたこともある。その意味で、これまで一緒に考えてくれた学生の皆さんには、心から感謝している。

さらに、立教大学での2008-19年は、国際政治の大変な激動期だった。グローバルな市場経済とアメリカの覇権が動揺し、驚くべきことが次々と起こった。したがって、想定していなかった出来事を、授業で取り上げざるをえない。リーマンショック、東日本大震災と原発事故、アラブの春とシリア内戦、移民・難民危機、BREXIT、トランプ政権誕生と枚挙にいとまがない。ただしそれは、国際政治学がスリル満点だということも意味している。

振り返ってみると、この分野を専攻した理由は、筆者の子ども時代にある。戦後生まれで高度成長期に育った私は、「戦争を知らない子どもたち」と言われた世代に属している。しかし、テレビに報道される世の中は、子どもの目にも平和ではなかった。ベトナム戦争、安保闘争、連合赤軍派の浅間山荘事件、よど号ハイジャック事件。沖縄返還で佐藤栄作首相がノーベル平和賞を受けたときには、悪い冗談だと感じたものだ。平和憲法や日本の民主主義を学校で学んでも、権力者が支配し、政治は腐敗し、人間の社会は戦争や弾圧に溢れているように見えた。と同時に、ベトナムの共産主義勢力が世界最強の米軍に勝って独立と統一を果たしたように、正義の暴力が民族解放や革命を実現するという思想も魅力を発揮していた。

このように頭の中を多くの矛盾が渦巻いていたが、大学に入り、やがて国際政治学に出会った。大学3年生の冬、東京大学法学部の坂本義和先生の授業である。国際的なものに惹かれたのは、小学生のころテレビ番組の『兼高かおる世界の旅』に憧れていたからかもしれない。だが、やはりそれだけではない。戦後日本の若者として平和と民主主義を大事だと思い、戦争も原爆投下も繰り返してはならないと信じていた。次々と難問をぶつけてくる坂本先生の授業は、生意気で真面目な大学生の正義感と好奇心をともに満足させてくれるものだった。

その後、わがままな私はスタンダードな国際政治学を修めることをせず、興味の赴くまま、かなり迷走した。インドを研究し、サバルタン研究という南アジアの民衆史に学び、ジェンダー研究を齧り、紆余曲折の末ようやく辿りついたのが、『世界はなぜ仲良くできないの?暴力の連鎖を解くために』(CCC メディアハウス、2004年、Kindle 版)である。九・一一事件とアフガン戦争、そしてイラク戦争という事態の展開に衝撃を受け、「暴力の連鎖」を分析した。その後、立教大学に着任してまとめたのが、『盗賊のインド史―帝国・国家・無法者』(有志舎、2010年)と『ガンディー平和を紡ぐ人』(岩波新書、2018年)である。以下では、これらの著作で扱ったテーマ、すなわち、誰が暴力を振るうのか、誰が暴力を止めるのかという問題について、授業を聞いてくださった方々への感謝を込めて、簡単に紹介したい。

盗賊の女王プーラン・デーヴィー、銃を持って戦う人

デリー大学に留学した1980-81年は、ちょうど「盗賊の女王」が耳目を集めたときだった。警察や他の盗賊団と戦いながらジャングルを駆け回り、盗賊団を率いたプーラン・デーヴィーである。日の浅い留学生には、首都の近くでなぜ盗賊団が出没しているのか、まるで理解できなかった。彼女は83年インディラ・ガンディー首相に投降し、11年間の受刑生活を送った。再び表舞台に現れたのは、96年総選挙のときである。故郷のウッタル・プラデーシュ州で社会党から立候補し、初勝利して国会議員となった。2年後の98年総選挙には敗北したものの、99年総選挙で見事に返り咲き、国会に戻った。

当時のインドは変動の渦の中にあった。1991年末に社会主義から市場経済への転換を決め、92年末に大規模な反ムスリム暴動が起こり、98年にはヒンドゥー至上主義のインド人民党政権が成立し、核実験と核保有を実施した。翌年カシミールで「カルギル戦争」が起こり、パキスタン側の支援するイスラーム武装勢力と戦ったインド軍が勝利した。そうした「暴力の政治」の季節に、議員となったプーラン・デーヴィーに2000年と01年に続けてインタビューできたのは、類まれな幸運だった。彼女の家と議員の事務所を訪ね、故郷の村でお母さんとも出会えた。乱世を戦い抜いたプーランには、言うに言われぬ貫禄と温かさがあり、案外気があった。

少女プーランはなぜ盗賊になったか。私とほぼ同世代の彼女は、ジャムナ川沿いの農村で、カーストの低い貧しい家庭の次女に生まれた。幼い頃から弟や妹を世話し、地主や商人の家で働き、お腹を空かせた女の子だった。学校に行ったこともなく、読み書きもできず、当然、学校で習うようなインドの歴史も知らなかった。11歳で嫁がされ、性暴力や虐待を受けて命からがら逃げ出した。だが、「出戻り」は許されない。仕返しに盗賊団に拉致されて殺されかけるが、首領の愛人になって生き残った。負けず嫌いのプーランはここで諦めない。やがて盗賊として頭角を現し、暴行を繰り返す首領を裏切って逃げ出し、同じカースト出身の恋人と自分の一団を組んだ。こうした彼女の人生に、貧困、カースト差別、児童虐待と性暴力、武装、復讐という「暴力の連鎖」が明確に読み取れる。

それでは、なぜプーランが国会議員になったか。イギリスの社会史家E・J・ホブズボームは『盗賊(Bandits)』(『反抗の原初的形態―千年王国主義と社会運動』青木保訳、中央公論社、1971年)において、民衆の慕う義賊が誕生する過程を分析した。市場経済や近代国家が浸透して農村の伝統社会が揺るがされると、農民は新しい形の地税や地代、物価高、借金などに苦しめられ、不満や怒りを抱く。だからこそ、地主・金貸し・役人・警官などの「敵」を倒し、彼らの財産を奪って農民たちに分配する首領が現れると、英雄として崇められる、と。投降するプーランを一目拝もうと、何千人もの農民が繰り出したが、農民政党の指導者が、票田となる農民層にこれほど人気のある彼女をほっておくわけがない。まさに、現代インドの民主主義の妙味である。

このように、武装して戦う農民の世界にも固有の正義が存在し、独自の「民衆の政治」が展開する。2009年、内戦後のネパールで、国王軍と戦ったマオイストの戦士たちに出会ったことがある。農民だった彼らがなぜ銃を持ったかと尋ねると、「銃を持てば強くなる、地主も言うことを聞く」、という答えが返ってきた。力がモノを言う世界では、銃と暴力が自由をもたらす。少女プーランも強い意志と銃の力で生き延びた。しかし、私が二度目のインタビューをした数か月後、彼女はヒンドゥー右翼の青年に襲撃され、銃殺された。平和な世界で民衆の代表となったプーランだったが、再び闇の世界に引き戻されたのであった。

マハートマ・ガンディー、平和を紡ぐ人

もう一人、筆者が関心を持ち続けたインド人が、マハートマ・ガンディーである。マハートマは大聖人という尊称で、彼は、植民地インドのナショナリズムが高揚した第一次世界大戦中から第二次世界大戦後、広汎な民衆を率いてインドを独立に導いた人として知られている。1930年の「塩の行進」の写真は有名だが、法律家やジャーナリストのようなエリートだけでなく、経済的な苦境にあえぐ農民や労働者が、マハートマに従って「スワラージ(自治・独立)」を掲げる運動に加わり、大英帝国を根底から揺るがしたのである。

彼の名は、モーハンダース・カラムチャンド・ガンディーという。1869年にグジャラート地方のポールバンダルの藩王国に生まれ、後にラージコットの藩王国で育った。祖父も父も藩王に仕えて政務や財務を取り仕切るのが家業で、モーハンダースはインド流の政治を見ながら大きくなった。末っ子として家族や召使にかわいがられ、藩王の建てた新しいハイスクールに通い、ロンドンに3年間も私費留学し、イギリスの法廷弁護士の資格を得て帰国した。お母さん子のモーハンダースは、英語を話す、若きインド人紳士に変貌したのである。

しかし、イギリスからの帰国後は、妻子がいるのに仕事のない状態が続いた。肩身の狭い失業者である。思い余って23歳のとき南アフリカに出稼ぎに行った。当時の南アフリカでは、イギリスが帝国主義的な進出を加速し、農場や鉱山の労働力として、インドから多くの移民を招き入れていた。人種差別にさらされ、債務奴隷のような労働を課されても、インド人が職を求めてやってくる。そうした移民の社会で、英語が読める知識人で弁護士でもあるガンディーは、若いながらも皆の頼りにされて帰国できなくなり、瞬く間に移民の権利を擁護する指導者へと成長した。

しがらみのない外国で、ガンディーはのびのびと挑戦した。『インディアン・オピニオン』という新聞を発行し、「サッティヤーグラハ(真理の堅持)」と名付けた非暴力不服従運動を考案し、後にアーシュラムとなる共同農場を設立し、ナショナリズム論としての『インドの自治(Hind Swaraj)』を出版して母国でベストセラーになった。このように、ガンディーの思想と運動、ひいてはインド・ナショナリズムの原型の一つが、南アフリカの移民社会という、遠く離れた外国で創造されたのである。第一次世界大戦中の1915年、ガンディーは22年間を過ごした南アフリカを後にしてインドに戻ったが、すでに45歳になっていた。これ以後が、母国でのマハートマとしての歩みとなる。

もう一枚、ガンディーの写真を挙げるとすると、1946年ベンガル東部のノアカリで杖を突きながら歩む彼を撮影したものであろう。燃え盛る宗教暴動を鎮め、「暴力の連鎖」を止めるためのサッティヤーグラハを行い、武器を振り上げる男たちを前に、マハートマは命がけで平和を説いた。しかし、平和は持続しなかった。インドとパキスタンの分離独立より半年後の首都デリーで、夕べの祈りのためビルラー邸の庭園に出たとき、ヒンドゥー至上主義者の男性ゴードセーに銃弾を撃ち込まれ、ガンディーは78歳の生涯を閉じた。

21世紀の平和をつくるのは誰か

ここまで見てきて、20世紀のインドに生きながら、プーランとガンディーの人生はまるで違うと思われたかもしれない。一方は暴力を行使し、他方は非暴力を堅持したように。けれども、興味深いことに、両人にはたくさんの共通点がある。

第1に、どちらも政府に睨まれ、警察に追われ、投獄された犯罪者であった。武装盗賊のプーランは農民を弾圧する地主たちを守る政府と法に挑んだが、ガンディーは自治を奪う帝国主義的な国家と法を不当なものと見なし、非暴力・非協力の市民的不服従を実施した。二人とも法を犯し、「無法者」として「国家の敵」となったのである。第2に、両人とも貧しい農民に絶大な人気を博した。デーヴィーは力強い「女神」を意味する。農民出身の彼女が盗賊の頭に出世すると、女神のごとく喝采を浴びた。他方、都会っ子でイギリス帰りのガンディーは、スーツ姿の弁護士業を辞め、民衆とともに共同農場で暮らし、山羊を飼い、糸を紡いだ。だからこそ、農民たちが彼に従い、「ラーマ神様万歳、ガンディー様万歳」と叫んだのである。

第3に、どちらも正義を掲げて国家権力や支配階級と戦い、民衆を救う「英雄」の役割を担った。第4に、二人とも後年には「国家の敵」から国家の政治指導者へと変身した。プーランの場合、インディラ・ガンディーの独裁政権を選挙で打倒した1977年の民衆革命後、貧しい農民も自らの代表を議会に送り出す時代となり、彼女が議員に選出される運びとなった。ガンディーは、大統領や首相にはならなかったが、独立インドの「国民の父」として尊敬された。

第5に、二人とも、民衆の望みは働いてまっとうな暮らしをすることだと強く信じていたことである。プーランが筆者に力説したのは、農村の近くに工場を建てて村人に仕事を与えること、子どもが教育を受けること、女性がエンパワーすることだった。もちろん、マハートマは、誰もが働き、誰もが幸せに生きることのできる、より良い社会への変革に生涯を捧げた。第6に、二人とも、古くからインド社会に残るカーストや宗教の差別を乗り越えようとしたが、それゆえに、ヒンドゥー至上主義を掲げる暗殺者に銃撃され、暴力的な死に見舞われることになった。

以上のように、プーランとガンディーを通して見る世界は、欧米諸国をモデルとした従来の政治学の議論とは懸け離れていて、簡単には理論化できない。無法の世界と合法の世界。民衆の政治とエリートの政治。母語の政治と英語の政治。暴力の政治と非暴力の政治。二人とも対照的な世界を行き来しつつ、独特な人生を歩み、民衆とともにインドの歴史を動かし、最後に非業の死を遂げた。あまりにも特異な生涯ではあったが、この二人を理解せずして、インドの民主主義や国民国家のあり方を生き生きと捉えることはできないだろう。

さて、グローバリゼーションに突き動かされる21世紀の世界は、一つになるどころか、むしろ多次元的に分裂し、テロリズムと対テロ戦争、マイノリティ弾圧、移民迫害など、「暴力の政治」が展開している。世界の屋根の一画をなすカシミールでは、インドとパキスタン、そして武装勢力が争い、核戦争すら憂慮されている。複雑に引き裂かれる世界で、誰が暴力を振るうのか。誰が暴力を止め、平和をつくるのか。そして、私たち自身は、平和をつくる主体でありえるか。プーランとガンディーの物語を振り返り、インドの民主主義や国際社会の動きを追いかけながら、来年度の国際政治の授業をどのように展開するか、無い知恵を絞っている。

自己紹介

法学部法学科 准教授
岡野 誠樹 Okano Nobuki

はじめまして。2018年9月に赴任した岡野誠樹です。憲法を担当しています。どうぞよろしくお願いします。

〆切に尻を押されながら、この原稿を書いている1月中旬の時点で、私にとって初めての講義であった憲法B(統治)も最終盤に差し掛かっています。この4ヶ月強、新鮮な、しかし慣れが助けてはくれない点でキツい経験が多かったですが、心残りといえば、まだ学生の皆さんと直接対話する機会をそれほど持てていないことです。そんな中で、この自己紹介もまた一つ独り相撲を重ねること必定ですが、しばしお付き合いいただければ幸いです。

とは申したものの、さて、何を書いたものか。大学、あるいはロースクールを出てからの、さほど長くない年月を振り返っても、すぐと含蓄ある話が引き出せるわけではなし。無理をして誇張と脚色の過ぎる代物を拵えるのも本意ではありません。どうせ独り相撲と割り切って、多少はストックがあるからと専門の話を始めるのも、少し憚られるところです…。こう悩んだ挙句、最近数ヶ月講義を担当していて、自分が法律学に触れ始めた頃を断片的に思い返した回想を、徒然なるままに書き連ねることにしてみようと、このような考えに至りました。

今では憲法学者の端くれである私ですが、大学2年で講義を受けるまで、憲法含め実定法学にはまるで不案内でした。ではそれ以前にどうやって進路を選択したのかと問われれば、情けないですが、法学部は「潰しがきく」という言説に乗っかったというのが実情です。むしろ元来は歴史が好きでしたので、「潰しがきく」という表現に、好きな本を読んでいても怒られないことだという牽強付会の解釈を施した、といったところ。吉野作造や丸山眞男も法学部の先生であった、という認識は、幾らか影響があったかもしれません。ともあれそんな有様で、実定法学との邂逅を迎えたのでした。

しかし、法学徒は六法を携行するものだと言われれば、そこは素直に従うようなやや盲目的な生真面目さもあった私は、しばしば聞かれるような抵抗感、法学アレルギーをさほど自覚しないままに、実定法を勉強し始めたように記憶しています(ロースクール修了までそれで逃げ切ることはできませんでしたが)。先ほど触れたように大学2年で初めて専門の講義を受けましたが、そのうち憲法の授業のたしか初回で、「さしあたり、芦部先生の『憲法』が教科書ということになりますが、全体像は早めに頭に入れるとよいので、これは5月の連休くらいまでには通読しておいてください」と先生がおっしゃったもので、実際に芦部憲法(芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店))を1ヶ月ほどでともかく1回読んだりもしました。

ただ、解らないことは多かったです。学食の片隅などで、友人たちとあーでもない、こーでもないと頭をひねったのは懐かしく思い出されますが、そうしたからといって疑問が氷解したわけではありません。一例を引けば、芦部憲法の制度的保障の記述には、本当に苦しめられました(最新の6版では86-87頁、当時私が使っていた4版では84-85頁)。

こう振り返ってみて不思議なのが、憲法については、当時何を悩んだか比較的明瞭に覚えていることです。友人たちと交わした議論では、刑法が素材に挙がることがとりわけ多く、だいぶ差があって民法、憲法と続いたのであって、憲法の比重はさほど大きかったわけではありません。そして、当時解らなかったことは山ほどあり、何かについて悩んだことだけは覚えているけれども、具体的に何に悩んだか、その多くを私は忘れてしまったのに、憲法に関しては思い出せる部分が少なくない。当時においては、私の憲法に対する関心が特に強かったわけではないので、不思議なものだと感ぜられるのです。

そう感ずるにつけ、学部時代以来尊敬している民訴の先生から、ある酒席で言われた次の一言が想起されます。「私が何で民訴を研究する道に入ったかといえば、民訴が一番解らなかったからだ。」これは、私についても、mutatis mutandis に当てはまるように思われます。憲法を専攻するという選択をした後で、正にその先生と学部の図書室で偶々すれ違って、「ところで岡野君、何で憲法なの?」と尋ねられたとき、瞬間、上の一言をオウム返ししたい衝動を覚えながら、それはせず、結果お茶を濁すような応答だけで終わってしまったのは、少し苦い思い出ですが。

もちろん、現時点で、憲法学者としての私のアイデンティティを構成している問いは、往時解らなかった疑問群と、さしあたり独立です。ただ、その両者は、どこで接続するか分からない。数年、あるいは(私の経験を大きく超えますが)数十年を経て、まったく意想外のところで繋がりがみえるかもしれない。それが、疑問を忘れないでいることから生じる、大きな果実でしょう。

そして、この疑問を忘れないでいるということの大切さは、何も学者に限った話では全然ないというのが、この欄の読者へのメッセージだということになります。もちろん、時には解らない点を一先ず措いて、ともかく先に進むのでなければ、学習が覚束ないというのも事実です。いちいち突っかかっていたら、際限がないという場合もあるかもしれません。それでも、大学で学ぶに際しては、疑問をもつこと、その疑問を極力忘れないことを、とりわけ大切にしてほしい、切にそのように思います。

最後に、実際に疑問を忘れず問い続けた先達の証言を、若干長くなりますが引用することをお許しいただければと思います。

「抵抗権の問題は、実をいうと、私がはじめて憲法あるいは、ひろく法というべきかもしれないについての研究に手をつけて以来、三〇年以上にわたって、私の頭にこびりついてはなれない問題、しかも、考えれば考えるほど分らなくなる問題、そして、いったん自分なりに解決できたと思っても、もういちど考えなおしてみるとすぐにその解決が少しも解決になっていないと気がついてがっかりする問題のひとつ……というよりはむしろ、随一である。」

「人権について考察するこの機会を利用して、この宿題の一部にもふれて見たわけであるが、結局、問題は依然として、解決されずにとどまっているようである。しかし、さらに考えてみると、通常の意味におけるような「解決」がこの問題についてはたして可能かどうか、がそもそも疑問とされなくてはならないのではないかとおもわれる。問題は、終局において、実定法秩序とこれによって義務づけられる各個人の「内の声」ないしは「良心」との矛盾・衝突である。そして、どういう場合に、後者の名において前者に「抵抗」することが許されるか、については、せいぜい多かれ少なかれ抽象的な基準を立てることができるだけで、それ以上に出て、個々の具体的場合に役立つような基準を設けることは、とうていできないようである。」

「結局のところ、問題は、さきにのべたように、各個人が、具体的な場合について、対決し、解決するよりしかたがないもののようである。個々に提起された具体的な問題に直面した各人が、まったく個人的に、もっぱら彼みずからの全責任において、それに対する答えを決定しなくてはならないもののようである。」

(宮沢俊義『憲法Ⅱ〔新版〕』(有斐閣、1971年)172-175頁)

宮沢俊義については、本誌前号の神橋教授のエッセイが扱っています。上に引いた法律学全集の『憲法Ⅱ』は、彼の著作の中でも最も広く読まれたものの一つです。引用は、その中でも特に名高い抵抗権の節からですが、できれば多くの方に原文に当たっていただきたい。私にとっては、これも大学2年の夏に図書館の窓辺の席で読んで以来、それこそ「頭にこびりついてはなれない」パッセージです。

そこで宮沢が問うているごとき、触発力のある問い、本当に忘れることのできない問いというのは、実際には限られています。私の微力さを痛感せずにはいられないところです。しかしそれでも、何か一つでも学生の皆さんの関心を惹きつける問いを発することができれば、そのようにして立教大学に貢献していくことができれば、というように努力目標を定めて、拙い自己紹介を終えることとします。

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