立教大学 公開講演会 共に世界へ チームで挑むパラリンピック 講師 尾崎 峰穂氏(パラリンピアン)、中田 崇志氏(伴走者) 日時 2018年11月24日(土)13:30~15:30 会場 池袋キャンパス 12号館1階 8101教室 主催 しょうがい学生支援室 後援 立教大学 東京オリンピック・パラリンピックプロジェクト サポート体制 手話通訳、文字通訳等 本公演は、司会・受付・誘導・文字通訳など学生スタッフを中心に運営しました。 島村(司会)/皆さま、こんにちは。本日は週末のお忙しい中、講演会へ足をお運びいただき、ありがとうございます。 青木(司会)/ただいまより、2018年度立教大学しょうがい学生支援室講演会を開会いたします。 今年の講演会は、「共に世界へ!~チームで挑むパラリンピック~」という演題でお話をしていただきます。 本日、司会を務めさせていただきますのは、立教大学コミュニティ福祉学部コミュニティ政策学科1年の青木と、 島村(司会)/同じく、経済学部経済学科1年の島村です。本日はこの2名で進行していきます。短い時間ではございますが、 青木・島村(司会)/どうぞよろしくお願いいたします。 ●写真 マイクを持って話している司会の青木君(左)と島村くん(右) 青木(司会)/開会に当たって、本公演会の説明及び諸注意などをお話させていただきます。講演会を主催するしょうがい学生支援室は、2011年の開設以来、毎年公開講演会を開催しております。今回が8回目の講演会です。毎年、さまざまな方をお迎えし、しょうがいと向き合いながら生き生きと活動をされている魅力的なお話を伺っております。  また、本講演会は立教大学の東京オリンピック・パラリンピックプロジェクトが展開する7大学連携スポーツリベラルアーツ講座のプログラムとしても位置づけられております。7大学とは、神田外語大学、慶應義塾大学、上智大学、筑波大学、東京大学、早稲田大学と立教大学です。本日は、3日間の講座の最終日として、「21世紀におけるスポーツの多様性」という全体テーマのもと、本学で講座が行われております。本日の講演会により、ご参加の皆さまがしょうがい者スポーツを身近に感じ、パラリンピックへの関心が一層高まる機会になれば幸いです。 島村(司会)/続きまして、開会に先立ち、皆さまにお願いしたいことがございます。本公演会では、車いすを使用している方、視覚しょうがいや聴覚しょうがいのある方々のために移動サポート、手話通訳、文字通訳をご用意しております。その他、受付などの運営全般を私たち立教大学の学生たちが中心となって行っております。至らない点も多いかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。講演会中に何かございましたら、お気軽に近くのスタッフまでお声がけください。 そして、本日の講演会の様子を、記録として写真撮影並びにビデオ撮影させていただきたいと思います。写真に関しましては、本学のホームページやしょうがい学生支援室のFacebookなどに掲載する予定でございます。もし何か不都合のある方がいらっしゃいましたら、スタッフまでお申し出ください。また、来場の皆さまによる撮影ならびに録音はご遠慮いただきますよう、お願いいたします。 青木(司会)/さて、いよいよ講演に移らせていただきます。今からお話しいただくのは、尾崎峰穂さまと中田崇志さまです。お二人のプロフィールを紹介させていただきます。  尾崎さまは、18歳のときに原因不明の視神経萎縮で失明されました。その後、都立文京盲学校にて陸上競技と出会います。そして、1984年のニューヨーク・パラリンピックに出場し、走り幅跳びで世界新記録を マークして優勝されました。今までに7度のパラリンピックに出場し、なんと、金メダル5個、銀メダル1個、銅メダル5個を獲得されていらっしゃいます。 島村(司会)/続いて、中田崇志さまのプロフィールをご紹介します。中田さまは、23歳のときに視覚しょうがい者ランナーの伴走と出会い、翌年2004年のアテネ・パラリンピックにて高橋勇市選手とともにマラソンで金メダルを獲得されました。さらに、2012年のロンドン・パラリンピックでは和田伸也選手とともに5,000メートルトラックで銅メダルを獲得されました。中田さまご自身の競技では、デュアスロン世界選手権に出場されていて、現在も現役の伴走者としてご活躍中です。  お二方のお話を通して、個人競技である陸上競技にチームで挑むとはどういうことなのか、パラリンピックの面白さとは何なのかなど、今まで知らなかった世界に気づくきっかけにしていただけると幸いです。  それでは、講演者のお二方、どうぞよろしくお願いいたします。 ■講演 尾崎 峰穂氏 尾崎/尾崎峰穂といいます。よろしくお願いします。  今、私の状態は、手を目に当てると真っ暗になってしまいますが、それをちょっと外すと明かりを感じるかなというぐらいの見え方なので、そんなに物体を見分ける力はないです。本来ならいつも体育館でマットを敷いてもらって5メートルぐらいのジャンプを見せてから話し出すのですが、今日は言葉の説明だけでお願いします。 ●写真 会場後方より見た会場の全景。来場者の方々を後ろから撮影。会場前方にあるスクリーン前に立つ尾崎峰穂氏。  生い立ちから話していこうと思うんですが、私は小さいころから、とても走り回る子で、家はお菓子屋さんをやっていまして、小学校に入る前に、もうすごく激しく走り回るので、何かもうちょっと落ち着きのあるスポーツをやらせようと父親が思って、まず、柔道を4年間、幼稚園から小学校2年までやって、それから、少年野球。これは足が速くてセンターで、1番バッターで、楽しくやっていました。中学は、今度はバレーボールをやってみました。背は小さいんだけれども、アタッカーとして、順調に来ました。高校もそのバレーの推薦で私立の世田谷学園というところに入りました。高校3年の春に、かけていた眼鏡、目はちょっと遠視と乱視が強かったのでかけていて、それほどは支障なくスポーツをやっていたんですけれども、その眼鏡を壊して、眼鏡屋さんにつくり直しにいったんです。そうしたら、右のほうは普通に0.7、8見えていて、左は何も見えない、霧の中みたいな状態で、見えませんと言ったら、眼鏡屋のお姉さんは、「前回つくっているときに、やっぱり0.7、8、ここに記録があるので見えるはずですよ」と言うのですが、見えないんです。「じゃあ、大学病院にでも行って、眼科に行って、目を治してからもう一回眼鏡を作り直しに来てください」と言われました。私は新宿に住んでいまして、近くの東京医大という大きな病院に行きました。そうしたら、「ああ、これは何かちょっとした炎症でしょう。じゃあ、目薬つけたり」なんて言っているうちに、そのときの昔の視力表でいう、今は「C」の形のどっちが開いているか、なんていうふうですけれども、昔は、「じゃあ、上から読んでいってください」と言われて、「こ、し、に、と、り、て、つ、く」とだんだん文字が小さくなっていくのを読んでいくのですが、しょっちゅう通っているので、もう視力表を覚えてしまっているんですね。「こ、し、に、と、り、て、つ、く」、右のいいほうの目が、行くたびに徐々に徐々に悪くなって、悪いほう、治療している目は一向に変わらず、医者の考えとしては、いろいろな検査をやった結果、目の奥に何か炎症があるんじゃないか、球後視神経炎という診断になって、じゃあ、目の奥に注射をしてみよう、脊髄からビタミン剤を入れて頭のほうに関係しないかなど、いろいろありとあらゆる眼科的な治療をしました。けれども、さっき言った、どこまで読めるか、右のいいほうの目が今度だんだん落ちてきて、「こ、し、に」の「に」なんだけれども「に」に見えないんです。だんだん視力が落ちていく。そのときは本当に恐怖でした。最終的には、神経が交差している視交叉というところにくも膜というのがあって、それが癒着して神経を圧迫しているんじゃないかということになって、今度は眼科じゃなくて脳外科に回されて、じゃあ、そのくも膜を剥がす手術をしましょうということになりました。もしかしたら見えるかもしれないし、どうなるかわからない。おでこの上をずっと切って、へこんでしまって、耳の上まで全部、開頭手術をして、手術が終わってベッドに行って、次の日気がついて、眼帯を両目にしていてどれだけ見えるようになったかと思って、開けたときには、両方とも明かりがなくて、あれ、もしかしたらこれは失敗したのかなと。看護婦さんは「まだやったばかりですから、腫れているし、もうちょっと日にちが経ってくると変わってきますよ」。そんなもんかなと思い、1週間たったら、何となくぼやんと明かりが見えて、もう1週間たったら、ちょっとだけ揺れるのがわかって、次の1週間で、目の前で、ああ、2本かな。だけれども、そのあと1週間たっても、見え方は変わらず、手術の前は0.04ぐらいの視力はあったものの、悪くなってしまいました。病院では、何か近くのリハビリとか、今度は点字をやったほうがいいと言われ、これ以上、病院ではやることはないと言われて、病院をあとにしたときには、もう何をしたらいいんだろう、これじゃあどうにもならないと思いました。母親とうちに帰って、もう何も無気力で、やる気がしない。どこかに、壁に当たろうと思っても壁がどこだかわからない。自分のうちでわからないのでは、18、19で目が見えなくなったら、食べる物もおいしくない、死んだほうがいいな、ましだなと。3日間飲まず食わずでいました。そうだ、何か目が見えなくても、昔のステレオがあるから、少しいじってみようとラジオをつけたら、しょうがい者、二十歳前後向けの集団職業就職相談会があると。もう19になるから、そういう道があるのかなと思って親と一緒に行ってみると、そこの先生には、「きみは高校3年の春で中退していて、まだ卒業していないから、そうだな、まずは職業というより盲学校に行きなさい」と言われて、えっ、盲学校っていやです、まだほんのちょっと見えてきたし、見えないところなんて、どんなところかわからないですし、いやですよ、と言いました。「いや、今きみが考えているほど、そんなに変なところでもないので、見学だけでもいいから行ってみなさい」と言われて、盲学校に行ってみました。ちょうど昼で給食の時間で、文京盲学校というところは、自分たちで廊下を、給食を持って運んで、自分たちでよそっている、そういうところを見ていたら、あれ、不思議だな、なんでこんなにまっすぐ歩けるんだろうなって思ってみたり、午後の点字の時間で、国語の時間になったら、「はい、きみ、読んでみて」なんていったら、「今回、この問題に関して」とすらすら点字を読むので、本当に読んでいるのかな、なんであんなに速いのかなって、またびっくりしてみたり。午後のクラブ活動は、柔道部と音楽のバンドをやっているところを見たら、一生懸命、運動をやって、何ら変わりなく、組んで柔道をやっているし、音もすごく上手に演奏している。もしかしてあきらめた人生、ここに通ったらまた何かが希望を持って始まるかなと思って、そこに入学をしてみることにして、行ってみなさいと言った先生に言いました。けれども、「きみきみ、そんなに簡単に行くと言ったって、まだ見えなくなったばかりのあなたには、難しいんだよ」、えっ、何でですか。「まず、一人で杖をついて通えなくちゃいけない。あとは、勉強するためには点字をやらなくちゃいけない」。ああ、点字ですね。触ってもブツブツというだけで、点字は何もわからないし。白い杖ついて歩くのいやだな、なんて思っていたぐらいだし。「じゃあ、だめだ」って言われて、1年近く、リハビリセンターで訓練をして、やっと盲学校に入りました。 ●写真 スクリーンの前に立ち講演している尾崎氏  入ったときに、すぐに担任の先生から「もう申し込みを締め切っちゃうんだけど、東京都のスポーツ大会があるよ。出てみない?」と言われました。いやいや、先生、命がけで学校に来て怖いのに、運動どころじゃないですよと答えると、「きみ、運動やっていたらしいから、出るだけでもいいから。怖いんだったら、怖くない、危なくない、こんな種目はどう?」、何がありますかと聞くと、「立ち幅跳び、その場で立って一歩を飛ぶ距離を測る。もう1種目は、ボール投げ、ソフトボール投げ。その場でボールを投げて、投げた遠投の距離を測る」と言われました。ああ、それだったら危なくないかなと申し込んでみますと言って、何も練習しないで都大会にその2種目で出たら、当時の都大会の新記録、2種目で優勝しました。そのときの気持ちは、ああ、しょうがい者の大会だから勝てるのは当たり前だしって思うのと、その逆、正反対で、今まで運動なんかもうあきらめていたのに、死にそう、もう死んじゃうってずっと思っていたのが、学校に通って運動ができたって、すごく相反する気持ちが心の中を舞っていました。 ■パラリンピック  都大会で優勝したために、今度は1983年の国体、当時、群馬の「あかぎ国体」というのに選ばれて、同じ2種目で、立ち幅跳びで2メーター83跳んで、ソフトボール投げが79メーターかな、投げて優勝して、今度は日本新だったので、そのまま順調に、2、3カ月後に、「今度は1984年のパラリンピックにきみは選ばれたよ。だけれども、遠いし、どうだ?」と言われました。同じ種目でずっと順調にきているんでぜひやってみますと言いました。  強化合宿があって、日本の選ばれた人たちが集まり種目を決めるときに、「きみは何の種目?」、僕は立ち幅跳びとソフトボール投げです。「えっ、陸上には立ち幅跳びなんていう種目はないんだよ。もしジャンプ系なら走り幅跳び、三段跳び、走り高跳び、この3つかな。投げるほうは、やり投げ、円盤投げ、砲丸投げ、この3つかな」と言われました。みんなやったことがないんです。まして走り幅跳びなんて、立ち幅跳びで怖くなかったからやったものの、走り幅跳びなんてとんでもないです、怖くてだめです。「じゃあきみ、せっかくニューヨーク大会に選ばれているのに、やめるか」、じゃあ、1、2歩だけ助走して跳ぶとか、そんなのでもいいですか。「いや、勝てないかもしれないけど、それはまあ、いろいろ練習してみてからだな」と言われて、立ち幅跳びができるので、一歩後ろに下がって跳んでみたら、2、30センチ距離が伸びて、2歩、3歩、4歩と後ろにしていくごとに距離がどんどん伸びていって、へえ、これは面白い。6歩、7歩とすると、今度はずれてしまって、砂場の横に飛び出して、おしりをついてしまうときがあって、これは痛い、ちょっと怖いなと思い、また立ち幅跳びの1歩に戻して、何度も何度も練習しました。「どうせ出るならば、いろいろな種目をやってみろ」と言われて、ボール投げ、やり投げ、円盤投げ、100メートル、三段跳び、と5種目にエントリーしました。3カ月みっちり練習して、学校の短い助走と砂場の練習場所では11歩までで助走を走るまでにはいかなかったんですけれども。一番長い距離で31メートルで跳んでいましたが、そのときには11歩、17メートルの助走がやっとできるようになって、ニューヨークの大会に臨みました。  ニューヨークの大会に行くと、いろいろな国の選手がいて、いろいろな言葉が飛び交っていて、怖じ気づいちゃうなとも思いました。15人の幅跳びの選手がエントリーしていて、この走り幅跳びは、最初に3本跳んで、一番いい記録のベスト8の8人がもう3本跳べる。それで、記録を争うっていうルールになっているんですね。  1本目を跳んだら、6メーター11で、自分は5メーター80しか跳べなかったので、やったーって喜んでいたところ、一周して15人跳び終わってみると、スペイン、ユーゴスラビア、アメリカ、フランス、ドイツと、みんな6メーター11、15、28、かなり上の数字の人が5、6人いて、これはまだまだだな、と思いました。自分では5メーター台が一気に6メーター台になったから喜んではいたものの、もう1本跳ぶと、6メーター41跳んだんです、今度はいきなり。当時の世界記録が6メーター40で、やったーと思ったら、その頃はまだのんびりしていたのか、1回メジャーで測ったら、これは世界記録が出たと。金の違うスケールを持ってくるといって、事務所に行ってなかなか帰ってこないで30分も待って、ああ、これもパラリンピックか、こんな世界の大会でのんびりしているのかなと思いながら、測ってみたら、やっぱり6メーター41で、かなりの大人数の人を抜いて1番になった。次に、ユーゴスラビアの選手が同じ記録6メーター41跳んだんです。記録が同じときには、セカンド記録といって、2つ目の記録をどっちがいいか比較するんですね。そうすると、ユーゴスラビアの選手が、次の記録は6メーター39だったんで、まだこれは2位で負けていて、4本目、5本目でユーゴスラビアの選手が6メーター45を跳んで、また差が開きました。今のところ2位だけれども、どうしたらいいのかなとよく考えて、どういうジャンプをしよう、助走を速くしよう、なんて考えました。全員の競技が終わって、6メーター45が、ユーゴスラビアの選手。私が6メーター41。3位は6メーター38ぐらいで、2位以上なんだけれども、落ち着いて、ピットに立って、風を見た瞬間に、すごい追い風が来たので、もう集中しないで飛び出して行っちゃって、どうしよう、数が数えられないと思って、この辺かなと思って踏み切って、高く上に跳び上がればいいや、一押しされたつもりでビューンと行って着地をしたら、おしりをついてしまったんですね。ああ、これで6メーター45のユーゴスラビアの選手にかなわなかったかなと、ショボショボと監督のもとに戻っていったときに、いろいろな国の人が握手しに来たり頭をたたきに来て、何だろうと思ったら、「6ポイント48」。えっ、だめかなと思ったおしりをついたジャンプが、最後に一騎打ちになっていたユーゴスラビアの選手を3センチ上回ったんだと初めてわかって。今までやってきた、立ち幅跳びだったからできたものが、走り幅跳びだと怖い、絶対に無理だ、恐怖だと思ったものが、その瞬間、不可能が可能になった。自分の中ではそう思って、もう嬉しくてたまらず、ましてや、世界の表彰台です。今でこそ危ないから表彰台に段をつけていないかもしれないですけれども、1位は結構高いところに乗るんですね。今は車いすや何かで、みんな同じぐらい、ほんのちょっとしか変わらないんですけれども。高い段に、2位3位も上がって、ユーゴスラビアの選手と並んだんです。あれ、この人、198センチっていうから、私よりもっと高くて、ああ、これがもし見えていたら怖じ気づいちゃったな、なんて思ったりして握手した覚えがあります。そして何万人も入っているスタジアム全体に「君が代」が流れて、これまでいろいろなときに流れても、なんとも思わなかったのに、自分の取った金メダルで「君が代」が流れている。すごい低音がグーンと響いて、これには感動して。また、もしできたら続けていきたいなと思ったのがその表彰台で、ニューヨークでした。その4年後も選ばれて、ソウルは今度は幅跳びで金、三段跳びで金、やり投げで銅。どんどん、どんどん面白くなって、バルセロナでも幅跳びで金。その当時、一番いい記録は7メーター14まで跳べるようになりました。 ●写真 分かり易く説明する尾崎氏 ■スランプ  それからちょっと、ここでスランプのときの話をします。これだけ競技をやっていくと、いやだな、スランプだな、記録が伸びないなっていうときに、こんなふうに思うようになったんです。幅跳びって、通常、平らなところを走ってきて、沈み込んで、その分、ボーンと高く伸び上がる。この沈み込みがなければ、大きく伸び上がれない。今はスランプだとしたら、沈み込んで充電をいっぱいして、このあと伸び上がる期間にしよう。今は基礎をよく考えて、もっと大きい跳躍ができるように、もっと大きいいいことがあるように、そのときを待とうと思えるようになってから、また少しいろいろなことが前向きに変われるようになりました。  アトランタのときには、練習のしすぎで、足の親指の付け根がおかしくなって、最終的には通風っていう診断をもらってしまったんです。走ることができなくなったんですが、やり投げはそんなに助走はしないので、そっちを目指して、やり投げで金メダルが取れて、4大会連続でメダルをつなぐことができて、このときは、また違う思いでの金メダルでした。  ここまで話していると、いいこと、挑戦してすごいなということしか伝わっていないので、マラソンの話をしてみようかな。短距離は強かった。でも、マラソンは、苦しいだけでやっぱりなかなか大変で、練習しても記録は出ない。フルマラソンっていう42キロを7回も走ったんですけれども、これはやっぱり難しいものの1つでした。 ■今後に向けて  7回の大会を通じて、ここまでモチベーションを保ってやってこられたのは、もちろん最高峰のパラリンピックに出るっていうのがあったんですけれども。あと、体を動かすことによって、何かもうちょっと速く走ってみたい、跳んでみたいと思う。結果が出ると、また自分の記録を追い越す。これはきっといい方向の連続で、何かつかめたんです。結果が出ると、またやりたくなる。やると記録に挑戦。そのモチベーションでずっと7回やってこられたのかなと思います。  今は、先月国体に行って、投げるほうでは金メダルをとれましたけれども、一緒にいた後輩たちに「投げ方を教えて」なんて言われて、そういう選手のなかには2020目指している人たちもいまして、何らかの形で携わって教えられたらいいなと思います。  視覚しょうがいだと何が難しいのかというと、例えば投げるのなんて、こんな感じ、なんて言って、見せたら通じるのが、見えないと、カク、カク、カクって(途中で止めながらやり投げをする動作)投げ方を示せない。一瞬の動作で投げるもので、それが伝わらないのです。何が難しいかっていうことを言葉で伝えることは、私にできるかなと思って、今、一生懸命取り組んでいます。2020は何らかの形で携わって、コーチしていきたいなと思っています。 ■視覚しょうがいについて  あと、皆さんにちょっとだけこうしてもらえたらということがあります。例えば、視覚しょうがい者がやっぱり一番難しいのは、歩行なんです。もし道で歩いていて、「お手伝いしましょうか?」と言われたら、じゃあ、ひじを貸してくださいと言って、(白杖をつき中田氏のひじを持ち実際に数歩歩行)こんなふうにひじを借りて、半歩前に歩いてもらうと、怖くはないんですね。こうやって手を引っ張っちゃうと怖くなるのでそうではなく、「お手伝いしましょうか、ひじ貸しましょうか」、っていう方法、これがすごく自然な歩き方なんです。そうすると、前の人が段差で階段上ったとしても、一歩先に上がるので、とても歩きやすいんです。  あとは、食事や場所を説え明するときに、クロックポジションといって、時計の針をイメージしてもらって「1時の方向に何がありますよ」、「11時の方向には何が見えてきましたよ」というかたちで話していただくと、とてもわかりやすいです。  食事なんかは、6時の方向には何がある、9時の方向にこういうおかずが、なんて言うと、すごくイメージができるので、とてもありがたいです。そんなところかな。 ●写真 オセロを触って説明している尾崎氏  そうそう、これも挑戦しました。さっきここでオセロをやっていただきましたけれども、視覚しょうがい者用で、黒の面がザラザラして白の面がスベスベしているオセロがあるんですね。手で触ってできるんです。どこまでできるかな、なんて思って挑戦しました。世界大会に出てみて、最後はイギリスのロンドンの大会、1998年マインドスポーツオリンピアードという名前ですが、これに参加しまして、3位までには数十万円の旅費が出たんですけれども、4位で残念でした。運動と、このオセロも、今後もやっていきたいと思います。  今日はこんなところで、あとは質問を後ほど受けたいと思います。ご清聴ありがとうございました。 ■講演 中田 崇志氏  中田/では、ここから、伴走者の中田崇志です。今日はよろしくお願いいたします。  これから先に自己紹介をしたいと思います。  私は、写真でうっすら写っているんですけれども、横にいる高橋勇市さんと一緒に2004年のアテネのパラリンピックで金メダルを取っています。そのあと、2006年、世界選手権でも金メダルを取りました。  私は、実は尾崎さんと一緒にこうやって講演するのは初めてです。なぜか。私は長距離の伴走者です。尾崎さんは短距離です。競技自体には実はあまり接点はないんですけれども、このアテネのパラリンピックのとき同部屋だったんです。もう本当にいろいろなことを、パラリンピックについても教えてもらいましたし、あとはオセロについても、もう毎日鍛えられました。時間があるたびにオセロで、非常に疲れるんですけれども、何回か、本当にたまに勝てるようになって褒められたのがうれしくて、一生懸命頑張った結果、今だいぶ強くなりました。  オセロも同じだなと思ったのですが、やっぱり指導力なんだなというのをすごく感じました。何回かやって負けているうちに、こうやったら勝てる、こうやるのが定石だというのを教えてもらったんですね。それはすごくパラリンピックに挑戦する私たちにとっても、そういった今まで学んできた人の力というのはやっぱり大きいんだなというふうに思っています。  私は、一度伴走を辞めました。その後、2011年から和田伸也選手というもう一人の選手と一緒に走り始めました。2012年のロンドンのパラリンピックでは5000メートルのトラックの長距離で、日本人8名でメダルを獲得しました。その後、リオにも出場したんですけれども、5位という結果でした。  伴走についてなんですけれども、全盲の選手と伴走の選手は、この1本の、こういったロープで結ばれています。今、スライド上は、私が持っているロープの形とちょっと違います。1本の丸い輪っかです。以前はこの形状でした。長さは1メートル以内だったら、もっと短くても良くて、もう手と手の甲がくっつくぐらい短くてもよかったんですね。でも、今年からルールが変わって、形状としては、手錠のような形です。実際に手首に入れる選手もいます。握るのがいやだという選手は手を通します。通さずに持つ選手もいます。そういうような感じで、間の距離何センチ以上取るというようなルールに変わっています。  というのも、当然、ロープが短くなると、引っ張っているかどうかの判定がしにくいというのがあるんですね。ということで、不正を防ぐ、平等にするという考え方のもと、こういったルール改正も行われています。  他にも幾つかルールがあって、例えば、伴走者が先にゴールラインを越えると失格なんですね。これは結構ある事例です。競技のときに、どうしても伴走者も勝ちたくて、気が焦っていると少し出てしまったり、あとは、もうゴールだよと言った途端に、選手がふっとゴールラインの前で力を緩めて、それによって伴走者が先にラインを割ったり、そういったことで、結構、失格事例というのは多いです。なので、そういったところも気を配りながら伴走しています。 ■ロンドン・パラリンピック   これはロンドン・パラリンピック5000メートルで銅メダルを取ったときのものです。オレンジ色の「ビブス」を付けるのが伴走者です。全盲のレースなので、全部ペアになっています。まわりの選手、まわりのライバルの選手がどこにいるのか。今、ケニアの選手がどこにいて、何番手なのか。スタートのポイントも、今日はここから行こう、そういったことを話します。ここはラスト150メートルで、ここで勝負だ、並ぶぞ、今抜いたぞ、振り向きながら、もう大丈夫だ、これ勝ったぞという話をしながらスパートをしています。ゴールのラインも和田さんが先にゴールする。もう最後の直線で「勝ったぞ」と言ったのは、油断ではなく、和田選手は、力むと少しスピードが落ちてしまう。なので、ここはもうリラックスしてもらって、一番伸びやかな走りをしてほしいという思いで最後は声をかけていました。 ■伴走を始めたきっかけ  私が伴走を始めたのは、この「アテネ・パラリンピックを目指しています」という言葉がきっかけです。2003年に『ランナーズ』というランニングの雑誌に投稿があったんですね。ちょっと小さい字で書いてあるんですけれども、高橋勇市さんが書いています。これを読んで、パラリンピックに行くのに伴走者を探している、という記事を投稿しなくてはいけない。なんとか全力を本番で尽くしたいという気持ちが伝わってきました。  これは私の息子です。今日来ているんですけれども、これは息子の運動会の写真です。やっぱり真剣に一生懸命走っているんですね。それは昔からやっぱり私たちというのは、子どものころ全力で走るということがまず楽しいですし、運動会でもやっぱり勝負するというのも楽しいんですね。  でも、速く走れる伴走者がいないと全力を出せないというのは、想像したときに、自分が練習してきて本番で力を出せないのは非常につらいなというのをすごく思いました。なので、そこがきっかけです。  トレーニングのときは、伴走者は複数でOKです。選手1人に対して、どんどん走ってきて、疲れれば、次の伴走者を用意しておいて、どんどん交換していけば、選手は全力を尽くせます。ただ、パラリンピックなどのレースになるとルールがあります。5000メートル以上だと2人まで。それより短い1500メートルは1人で伴走しなきゃいけないということになっているんですね。となると、マラソンも最大で2人です。そうすると、やっぱり速く走れる伴走者が必要なんですね。ということで、私はやることにしました。 ●写真 スクリーンの前に立ち、講演している中田氏  今、一緒に走っているのが和田伸也選手です。高校時代ラグビー部でした。なので、やはり尾崎さんと同じで見えていたんですね。和田さんの場合は病名も分かっていて、病気で、どんどん、どんどん視力が落ちていきました。大学の在学中、皆さんの年齢の頃に視力がゼロになっていきました。  和田さんと話すと、例えば、安室奈美恵さんの顔を知っているんですね。そういうイメージです。結構、最近まで見えていたんですね。なので、今の安室さんの顔は分からないんですけれども、当時の顔はもちろん知っていますし、野球で言うと、私たちの世代でも落合選手とか、そういった選手の顔は知っています。見えていて、見えなくなっていく。見えなくなった中で、もう一度走り始めるまでにはやはり時間はすごくかかります。  今日は、大きく4つの話、「共に世界へ」ということで4つの話をしたいと思います。真の目標を明確にする。あとは、スペシャリストの力を借りる。役割分担を明確にする。声かけで選手を支える。こういったことをしていますという話を、今日私からお伝えしたいと思っています。 ■視覚しょうがいとは何か  ちょっとその前に、視覚しょうがいについて少しだけお時間を。先ほど尾崎さんが持っていた白杖、盲人安全杖といいます。安全の確保をします。トントントンとついて、自分の足下を確認する。これはよく、当然ご存じだとは思うんですね。もう1個が、周囲への注意喚起という機能があります。それは、持っていることを皆さんが見たときに、この方は視覚しょうがいなんだということがわかると思うんですね。他にも、結構、音を出している方もいらっしゃいます。それはやはり最近歩きスマホをしている人もいますので、音を出してアピールをしている。ただ、歩きスマホをした上にヘッドホンで音を聞かれると、正直もうぶつかります。  この白杖というのは非常に大事な機能を持っているんですけれども、なかなか生活していくのに、やはり歩行で非常に苦労されているというのは、選手からもよく聞くところです。折りたたみができるというのは、先ほど尾崎さんの持っているもので見せていただいたところだと思います。  街中で、白杖を待っている人が全員、全盲ではなくて。今スライドに映しているんですけれども、富士山が細くなったと思います。真ん中の部分しか見えない。こういった視野の狭い方もいますし、他にも、富士山の真ん中が見えなくなりました。皆さんの見えている部分で、真ん中だけが見えなくなるという方も視覚しょうがいの方の中にいらっしゃいます。  昔から人の目はしっかりと見て話しましょうというのを言われていることが多かったと思うんですね。ただ、真ん中が見えない場合には、目と目を合わせることは難しいです。どうするかというと、顔を少しそらして、見えている部分で見ている。そういった方もいるということを知っていただけるといいかなと思います。  もちろんそれだけではなくて、手を筒にして目に当てていただくとわかると思うんですけれども、本当に細くしか見えないという方もいます。中には、今スライドの富士山の頂上部分だけが見えているんですけれども、そこの部分もかすんでいるという人もいます。パラリンピックで、今、活躍している選手の中でこういう選手はすごく多いです。弱視で、これで一人でフルマラソンを走っています。  ただ、普段の練習も一人で走るので、横から来るものに非常に弱いんですね。それで事故になったりすることもあります。  見え方というのは、一人一人違います。いろいろな方がいるということがあります。なぜ見えなくなったかという理由です。尾崎さん、和田さんのように、病気の他にもあると思います。ちょっと想像していただいて。大きく3つあります。  この3つですね。生まれつき、あと病気、あとは事故とか怪我、そういったものがあります。この中で少し違うなというふうに一緒に生活して思うのが、生まれつき見えない方々です。尾崎さんの場合は赤と言ったら、色が想像できると思います。ただ、生まれつき見えない方の場合は、赤という色を見たことがありませんし、洋服のコーディネートをしようと思ったときに、何色がどういうふうに合うかというのがわからないので、説明するのは非常に難しいと思います。  不思議だなと思われるのが、ガラスです。触ったときに、物がある。でも、向こう側が見えているんだよという話をしたときに、すごく不思議だなということを言われました。 ●写真 スクリーンの前に座り、講演している中田氏  こういうように、違いがあります。ほかにも違いがあって、生まれつきの選手と駅まで行くと、初めての駅なのに、改札口で、「もうここまでで大丈夫です」と言われます。えっ、階段とか、どうなっているか分からないよねと言ったら、「音と空気の流れで分かる」と言われて、でも、心配なので見ていると、本当に白杖だけついて、点字ブロックとかを使いながらうまく行くんですね。他にも、家に来たときに、「ここの部屋は角部屋ですね」と音で察知したり、階段を下りるときに掃除している人がいたら、スーッとよけていくんですね。そういったところが、やはり生まれつきの方のすごいなというところです。 ■新たな発見  今、画面に平らな1枚の紙に立方体を書いた絵があると思います。これは何かというと、生まれつきの視覚しょうがいの選手に、遠征中、立体を平面に書けるんだよという話をしました。そうしたら、「えっ、そんなことができるの」というのが、その選手の発見でした。書き方を教えるよ、と。私も、言葉で伝える技術を身につけたいから、触れないで言葉だけで説明すると言ったんですね。まず、遠近法の説明からします。手前のものは大きいんだよ。奥の方が小さくなるんだよ。だから、遠くの山は小さく、私たちには見えている。そういった話から、面が何面見える、点が何点見える。そういったことを言いながら、選手に穴を開けてもらったんですね。ここが、見えている点だ、そこをあとは線で結べばいいんだ。それででき上がったのがこの絵です。こういうように、いろいろな発見が私たちの中でありました。  選手から遠征中に良かったと言われたのは、「そういう身振り手振りってあったんですか」と言われたこともあります。選手も仕事をしているんですけれども、こちらへどうぞと言ったときに、今まで立って普通に言っていたそうです。でも、そのときにこういうジェスチャーでやるとすごくいいよという話をすると、「こうやってこちらへどうぞってやるんですね」と知ったと。  反対に教えてもらうこともあります。海外遠征に行ったときに、選手が、自動販売機があると言ったら触りたいと言うんですね。国によって違うんだ、そうかそうかと思って触ってもらうと、「この点字、日本の点字です」と言われました。私たちから見ると、点字、もちろん私は分からないので、見ても分からないんですね。触っても分からないです。でも、外国に行って日本の点字が打ってあった。つまりそこの国の方々は、視覚しょうがいの方が分からない。そういった問題が潜んでいるなということを私は選手に、そういったところから教えてもらいました。  日本の今の自動販売機がどうなのかというのは、もしかしたら調べてみると外国から輸入したものがあった。そのときにどういった点字があるのか、もちろん私は分からないんですけれども、そういったところにより生活しやすくなるポイントがあるんだなというのを教えてもらいました。  本題に入る前にもう少し続きます。 ■たくさんの伴走者が必要  私、和田さんの伴走者をしています。伴走者は私一人ではありませんということをお伝えしたいです。たくさんの伴走者が和田さんの周りにいます。できるだけ和田さんのトレーニングを全部埋めたいんですね。埋めたくて、埋めたくていろいろな伴走者に声をかけて、和田さんは練習しています。伴走者にも色があります。短い距離をダッシュできる伴走者もいれば、ゆっくりしか走れない伴走者もいます。でも、ゆっくりでもすごく楽しいお話をしてくれる人もいます。私のように、和田さんに対して非常に厳しく、一緒に走る伴走者もいます。いろいろな伴走者が必要なんですね。本当にゆっくりのジョギングをする伴走者もいますし、そういう練習もしています。ちょっと走るのは自信がなくても、選手にとっては、伴走者がいないと一歩も走れないんですね。なので、ぜひ走っていただきたいなというふうに思います。  もちろん伴走者が見つからない日というのもあって、地方であったり、盲学校の中では、こういった広場で一人で走れる工夫をしてあります。真ん中からロープが引っ張ってあるんですね。これを円周走といいます。ロープを持ってぐるぐる、ぐるぐる走っていれば、どこかに行くこともないですし、自分一人で走ることができます。ただ、ここをぐるぐる、ぐるぐるずっと走っていると、当然ながら、あれ、今、どこを走っていたかな、何周走ったかなというのが分からなくなるんですね。帰ろうと思うんだけれども、広場の出口はどっちだったかなというのがわからなくなるんですね。ただ、こういったものは工夫で解決ができます。一つラジオを置いておくんですね。そうすると音が聞こえて、こっちの音のほうが出口だな。ラジオの音の前を何回通ったから、今、何周走ったんだなというのが分かるようになっています。こういう工夫をして選手はトレーニングをしています。  世の中に工夫はほかにもあって、今、スライドにクロネコヤマトの不在者連絡票を表示していますが、ここにも工夫があります。実は上のほうに、矢印で書いているんですけれども、紙の上、ギザギザの切り込みが入っています。これは何かというと、猫の耳の形をしているんですね。なので、この不在者票が入っていて、この切り込みを知っている人は、触ったときに、ヤマトの不在者票なんだなというのがわかります。さっき、尾崎さんと話したんですけれども、尾崎さんはこれは知らなかったそうです。そういうことで、全員が知っているわけじゃないんですけれども、それを知っていると、一人暮らしをしていても受け取れます。こういうのを知っていて、裏側にQRコードがあることを教えてもらうそうです。そうすると、スマートフォンを取り出して、当ててそのまま再配達できるんですね。  全盲の方でもスマートフォンを使えます。今、映像を流しているんですけれども、スマートフォンでLINEをやっています。音はイヤホンで聞いています。こういった形で、触ったものを読み上げてスマートフォンも操作することができます。こういうことをしながら、皆さん生活もしたり、競技をしたりしています。  最後、本題に入る前に1つ余談なんですけれども、家の中でよく電気をつけているか、消しているかという質問を皆さんに聞くことがあります。全盲の人が家で電気をつけているか、つけていないかです。小学校で聞くと、だいたいほぼ全員に近いんですけれども、つけていないというところに手を挙げるんですね。一日中電気を消している。尾崎さんは、家では電気をつけていますか。 尾崎/つけていますね。やっぱり家族と一緒にいるので、電気をつけていないことでいないと判断されたり、つけていないとおかしいよ、ということを言われるので。自分はやっぱり一緒に生活するなか、つけていないとおかしいということでつけています。 中田/なるほど。実は打ち合わせなく今、聞いたんですけれども、私はこの話で全く同じことをほかの先生から聞きました。電気を消していると、やっぱり不思議に思われたり、宅配便の人が帰っちゃったりするというのを聞きました。いつの間にか不在者票が入っていたということもあるそうです。一人暮らしのときでも、やっぱり光がわかると方向がわかるから、そのときもつけていたということもおっしゃっていました。  パソコンは、ディスプレイを切るとすごく電池が長持ち、ノートパソコンはすごく長持ちするんだということも聞きました。  ちょっと、私の持ち時間をだいぶ使ってしまったんですけれども、「共に世界へ」ということで、私の得意な駆け足でいきたいと思います。 ●写真 立って話している中田氏と座って中田氏の話を聞いている尾崎氏 ■目標とは何か  まず、目標です。私たちはなぜ走っているかなんです。選手にも目標があれば、伴走者にも目標があるんですね。いつどういう大会でどうなりたいか。皆さん、ここに親子で来ている方もいますし、先生もいますし、これからお父さんお母さんになる方もいると思います。そのときに、自分の目標と子どもの目標というのがあると思うんですね。私には、息子がいます。息子の目標を息子なりに持っていると思います。私はこうなってほしい、みたいなのもあったりします。それが、すり合わないというのは非常に不幸になるんですね。目標にしていないものを押しつけても、うまく前に進まないんですね。だから、選手には必ず、新しく組む選手、次に目標にするときには必ずここのすり合わせをしています。そうじゃないと、いつまでたってもぶつかり合っちゃうんですね。選手の目標というのは、選手の心の中にあるので、やっぱり聞かないとわからないです。なので、粘り強く聞いていく。2人の目標が合わない、そういったことはよくあることなので、そこは別に恐れる必要はないんですね。合わなかったときに、じゃあなんで合わないのかという話をするというのが大事だと思っています。  私たちは、ロンドンのパラリンピックの前にペアになりました。ロンドン・パラリンピックが近いので、もう2人ともロンドン・パラリンピックしか見ていないです。でも、種目が2つありました。5000メートル、全盲だけの種目です。マラソン、全盲と弱視で一緒に同じメダルを争うもの。この2つがありました。目標も、優勝もあれば、3位以内のメダルもあるし、入賞という8位以内もあるし、自己ベスト更新というのもあると思うんですね。  では、和田選手は何を目標にしたかというと、マラソンで入賞だったり自己ベストを更新したいというのが目標でした。自分は市民ランナーと一緒に走ってきたんですと。そういった人たちに恩返しをしたい。自分を育ててくれたマラソンで、こういった目標にしたいんだというふうに言っていたんですね。ただ、私はもう和田さんと組むときから、心はもう決まっていました。5000メートルでメダルを取ることしか考えていなかったんですね、会った瞬間に。私、数年間は伴走をしていなかったんです。でも、強い選手がいるというので1回一緒に走りました。走ったその日に、もう1回伴走しようという気持ちになったんですね。和田選手とだったら5000メートルでメダルが取れるかもしれないと思ったから、伴走に復活しました。  私、高橋さんと金メダルを取って、そのときに知ったんです。メダルを取らないと、日本に帰ってきたときに祝福はしてもらえません。4位、5位、も素晴らしいし、自己ベストというのは素晴らしいんですけれども、帰ってきたときに言われるのは、「お疲れさま、よく頑張ったね」、なぐさめに近いんですね。自分たちでいくら頑張ったと思っても、世の中はそう見てくれないんですね。メダルを取るかどうか、これは厳しい世界だなというのは、やっぱりすごく思いました。  なので、決して福祉の延長の大会ではなくて、本当に勝負の世界なんですね。やっぱり皆さんにも、何だかんだ期待もされますし、私たちも取りたいんですね。目標が最初、違ったんだけれども、粘り強く、粘り強く選手の目標をどんどん、どんどん、どんどん、私のほうにすり寄せてもらったんですね。なぜ取らなくてはいけないのか。なぜこの私の目標があるのかというのを伝えて、伝わり切ったなというふうに思いました。  本当にメダルを獲得できたというのは良かったですし、そのあと、最終日にあったマラソンで、実は和田さんは入賞もできて、和田さん自身も、当初の目標もクリアできましたねという感じで、すごくいい大会でした。ぜひ目標というのは大事にしていくといいかなというふうに思います。皆さんも自分の目標というのがあると思うんですけれども、まわりから何か違うことを言われたときに、その人の思いもくみ取ってもらえると、すごくいい力を借りられると思います。 ●写真 講演者の話を聞いている参加者の様子 ■周りから受ける影響  この力を借りるというのが2つ目の話です。やっぱり周りにいる人というのは、いろいろな分野のスペシャリストがいると思います。私たちも、選手と伴走者だけではなくて、トレーナーの人がいたり、強化スタッフがいたり、栄養士、心理、ドクターとか。記録の面からこういうふうに走るといいと言ってくれたり。いろいろなスペシャリストがいるんですね。そういった人たちの力を借りることで、本当にチーム力として世界で戦えます。例えば栄養士さんだったら、こういうふうに栄養をとっていくと回復していくという、やっぱり定石があるんですね。  ここでちょっと思い出したんですけれども、栄養士さんで私すごくお世話になっている方が立教大学出身なんですね。息子が生まれて、どうやったら息子の体が強くなるか聞いたときに、とにかくやっぱりスープだと言われて、今もスープを朝、昼、晩とできるだけちゃんととるようにしてもらっています。  こういうふうに、やっぱりいろいろなスペシャリストの話からゴールへの最短距離というのが見つかってくると思います。  ちょっと変わったところで、メーカーについて話したいなと思うんですけれども、2012年と2016年で、私、持っている時計が違うんですね。今している時計も違います。やっぱりこういった技術の進歩というのもあって、メーカー名は言わないんですけれども、最近GPSの時計というのがあります。その結果です。私のスマートフォンでも確認できます。和田さんがどこを走ったのかも分かります。何月何日にどういったコースを走って、気温がどうだった、天気がどうだった、風向きがどうだったというのが全てわかります。本当に和田さんが走ったのかも分かります。今日やりましたと言われて、やっていなかったら分かります。  他にも、スピード、心拍数、歩幅。他にも、1分間のピッチ。1分間に何歩で走ったか。上下度、どれぐらい跳んだか、走りながら跳んでいるかというのもわかります。左右のバランスも分かります。右足のほうが強く長く蹴っているとか、そういったデータもとれるんですね。  そうすると、和田さんは大阪にいるんですけれども、どういうふうに走ったのかというのが分かるんですね。今までは、400メートルを何秒で走ったというデータしか分からなかったのが、今日は歩幅が狭いですね、伴走者がちょっと小柄な人だったんですかと、だから、スピードが出なかったんですねというのも分かります。他にも、今日は暑かった、寒かった、風が強かった、というのが分かるんですね。こういったデータを使いながら選手を強化しています。  私は、色々なそういった新しいものも取り入れるし、色々な人の力を借りています。私は伴走者としてスペシャリストだというふうに思ってやっているんですけれども、他にも、今話したような新しいものを取り入れたり、市民ランナーのトレーニング、このスペシャリストでもあります。  何かというと、例えば、和田さん、今もう40歳を過ぎました。実業団のような監督さん、コーチが和田さんを指導しても難しいんですね。なぜ難しいかというと、40を過ぎた実業団の選手がいないからなんです。それぐらいになると、もう引退しています。年齢を重ねたときに、どれぐらいの疲労感が出て、どれぐらいの回復時間が必要なのか、そういったものの情報がないんですね。ただ、私も仕事をしています。仕事の後の疲労感も分かりますし、色々な人のデータを蓄積して、和田さんにはここでやったらこれぐらいの疲労が残るから、こういう練習をすればいいというようなことの取り組みができるというスペシャリストとしてやっています。 ■それぞれの役割  また、似たような話ですけれども、皆さんの目標に向かって、周りに自分より得意な分野の人がいたら、その力を借りていただけるといいかなと思っています。そうすることで、チーム力というのはすごく高まっていきます。  実際レースをするときには、私は、役割分担、選手との役割分担をきっちり分けています。選手は力を出し切ること、これは当然です。選手が頑張るしかないです。私は、方向を伝えること。これは私がやらないといけないです。選手はできないです。こうやって分けていきます。では、ペースの配分だったり、例えば、スパートのタイミングはどっちがやるかというのは、実はペアによって違うんですね。私と和田さんの場合は、こう分けています。ペース配分は私がやります。位置取りも私がやります。スパートのタイミング、これも私がやります。全部、私がやります。和田さんのやることは、力を出し切ることだけです。  これはなぜかというと、和田さんと話した中で、どっちが得意かといったときに、私に任せてくれているんですね。私を信頼してくれています。その代わり、レースで失敗したときに、やっぱりどっちが悪かったかも分かります。でも、それが大事なんですね。曖昧にしていると、次、修正するのはどっちかというのが分からないんですね。  一度、私の1周目のペース配分がちょっと早くて、和田さんが後半、失速したことがあります。そのときは、和田さんは、「いやいや、私の役割だった力を出し切るのができなかったんです」と言ってくれるんですけれども、そのときに、いや、どう見ても横で見ていて和田さんは力を出し切っていましたよと。じゃあ、1周目、2周目のタイムを見ますけれども、1周目速くないですかと。これは私がやったんですよねというような話をして、ここは私が直すべきだったんですという話をしました。こうやって、2人で責任を分けるというのがすごく大事でした。なので、うまくいったときには、やっぱり2人で一緒に喜べます。 ●写真 伴走する時のロープを持って説明する中田氏 ■勝負強さとは何か  最後です。私の役割としては、やっぱり選手を声掛けで支えることです。声の抑揚を付けたり、見えた時にただ「前の選手が見えました」じゃなくて、ラストで、もうちょっと近づいてから言ったほうがいいかなとか、感情を入れて言おうかなとか、後半になったら、和田さんの奥さんが応援している話をしようかなとか、スタート前から、そういうストーリーを考えて走っています。やっぱり選手側の気持ちを考えて、どういう声掛けをしたら頑張っていけるのかなというのを日ごろの生活から考えています。  勝負強さというのがあると思うんですね。これは皆さんもそうだと思うんですけれども、周りに勝負強い人、そうでもない人、いろいろいると思います。これって、例えば、4人、全く走る力が同じランナーがいたときに、ゴールが一緒になるかというと、ならないです。走力の他に、戦術もあります。でも、戦術が同じでも、結局、勝負強さが大事なんですね。それが結果につながります。  では、勝負強さというのは何かというと、これというのは、いかにプラス思考にできるかなんですね。一緒に勝負していて、苦しいなと思ったときに、「よし、ここでもう少し頑張れば、相手がもっと苦しくなるだろう。よし、頑張ろう」と思えるか、苦しいなと思ったときに、「向こう、もしかしたら余裕があるんじゃないかな」というふうに思うのでは、そこからの頑張りがすごく変わってくるんですね。  すごく思うのが、高橋勇市選手というのはやっぱり金メダルを取る人だなと思いました。常にプラス思考なんですね。もうそれはだめでしょうと思っても、「いや、私できるんです」というふうに心の底から言ってくるんですね。やっぱりそこがすごいです。だから、高橋さんと一緒にいて私はすごく楽しいですし、やっぱり金メダルを取る人というのはそうなんだなと思います。  他にもやっぱりプラス思考が強いなと思ったことがあります。私は東京学芸大学出身なんですけれども、陸上部にいました。卒業してから後輩たちとの合宿に行ったんですね。初めて顔を合わせる学生たちでした。でも、生活していくうちに、女子の選手で、この子、勝負強いだろうなと思ったんですね。合宿5日間ぐらいで、最終日に集合しました。解散のときに「先輩から一言ありますか」と言われたので、私が、皆さんの中で勝負強いって思っている人がいますかと聞いたときに、50人ぐらいいた中で、その女の子は手を挙げたんですね。私はびっくりしたと同時に、ああ、やっぱり挙げたかと思いました。その子は、いつも明るいんですよ。合宿というのは、毎日毎日どんどん、どんどん疲れていくので、気持ちが落ちてくる中で、まわりを盛り上げよう、プラス思考にしていこうという思いがすごく強い子だったんですね。その子はまだそのときはあんまり強くなかったんです。でも、プラス思考で自分は勝負強いと思っているだろうなと思ったんですね。数年後、陸上の日本選手権、テレビを付けていたら、その子が決勝まできたんです。本当にびっくりしました。レース展開も800メートルで、最後、本当に厳しい競り合いの勝負になったんですね。それを見たときに勝てるというふうに私は思いました。その選手がやっぱり最後は競り勝って、日本選手権で勝ちました。そういった普段からのこのプラス志向の強さというのが大事なんだなと思いました。  だから、伴走するときは、選手の心を守るような伴走をします。どんなにきつい場面でもプラス思考にもっていけるように声をかけていくんですね。一方で、それだけではないです。攻める声がけもします。他のライバル選手をマイナス思考するんですね。具体的には、前を追いかけている、マラソンで追いかけているときに、声のボリュームを大きくして、メーター数を変えていくんですね。小さい声で30メーターから読んでいって、20メーター、10メーターというふうにやっていくと、距離がほとんど縮まっていないのに、前を走っている全盲の選手からすると、音が大きくなって距離が近くなっているわけですね。そうすると、追い詰められている感は少しずつ出てくるんですね。追い詰められると、人間心理として、このまま終盤で抜かれるかもしれない、となって、固くなったり恐怖心が出ます。そうすると、今まで追いついていなかったものが急に追いつくんですね。前の全盲の選手にも伴走者がついていて、「いや、追いついてきていないよ」と言うと思うんですね。でも、選手としては、やっぱり事実として声が迫ってきているというのはすごく恐怖感になる。それは選手も言っています。そういったようなことをして、いかにマイナス思考にするかということもしています。  先日のアジア大会で、私たちはメダルを取りました。ライバル選手に前に出てもらいたいときに何をするかというと、やっぱり声を使ったり、演技をしていくんですね。そのときには、和田さんに少し苦しいような雰囲気を出してもらいました。私は、その合図も、ここでやってほしいというのを言いました。私が、和田さん、ここは粘るところだ、頑張れという、すごく応援をしている感じを出します。そうすると、他の選手たちは、ここが和田選手を振り落とすポイントだというふうに勘違いするんですね。前に出てきて勝負をかけてくる。そうしたときに、私たちは後ろにつく。後ろにつくと長距離というのは楽なんですね。後ろについても私はずっと、和田さん、ここ頑張れ、頑張れというのを、もう熱狂実況中継みたいな感じでやっているんですね。そうすると、前の選手もここが勝負で引き離そうと思って力を使う。そういったようなことをレース中にやっています。あるときに、急に私たちが元気になったりして揺さぶっていく。そういったことをやるのが私たちのこの伴走です。 ●写真  立って話をしている中田氏と座って話を聞いている尾崎氏  普段も、努力を継続していくのというのは選手もつらいんですね。なので、和田さんには、身近な目標、次はこういう目標でというのをクリアして前向きになってほしいし、私も結果を出して、私も頑張っているというのを見せようとすることが、今やっていることです。そうやって2020年に向けて、私たちは一緒に前に進んで行っています。  最後になりますけれども、この4つ。目標を明確にしたり、みんなの力を借りたり、得意なところを得意な人がやる。私は選手の声掛けをしながら、2020年に向けて頑張っていきたいと思います。  これで私の話はおしまいになります。このあと、少し尾崎さんと、これは初めてのトークになるんですけれども、ぜひ私と尾崎さんに質問があったら、質問もあわせていただきながら、少し皆さんとパラリンピックについてお話したいなと思いますので、よろしくお願いします。ご清聴ありがとうございました。 ■尾崎氏・中田氏トークセッション 中田/では、このまま進めたいと思うんですけれども、質疑応答を先にやらずに、私からもちょっと尾崎さんの話を聞きたいと思います。私は尾崎さんの話を聞いたのは初めてで、すごくやっぱり面白いなと思いました。尾崎さんに私が聞きたいなと思ったのが、他にスポーツだったり、マラソンをやったという話で、もう少し何か、どういったことをやってきたのかというのは。 尾崎/私が苦手なのはサッカー。それ以外ほとんど全部何でもできる気でいて、ボールはバレーボールをやったし、柔道もやってみた。あとは、スキー。スキーなんていうのは、目が見えなくて滑るのには、前の人が後ろでストックをカツン、カツンとやってくれて、あとは右、左という声で。陸上をやっていて足が強かったから、落っこちていくだけで、これは楽しいなと思いましたね。 中田/スキーもやっていたんですね。 尾崎/あとは自転車。前乗りの人がいて、2ついすがあって2人で漕ぐんですけれども、これは2人で力を合わせてバンク。こんなにすごい競輪のあのバンクを、こんなになって(身体を傾けて)走るのも、これもスリルがあって面白かった。 中田/そうなんですね。 尾崎/あとは何だろう。水泳、卓球。目の見えない卓球は、ネットの下を転がすんですね。アイマスクをして、鈴が入っていて、コロコロと、ちょっと違うんですね。 中田/そうですか。それは国体とかではやっているんですか。 尾崎/それもあります。 中田/そうですか、では、パラリンピックにはないけれども、国体にはある。 尾崎/日本が先立ってやっていて、今、世界にそれを共通のスポーツとして声をかけているところみたいですね。 中田/そうですか。そうやって今後のパラリンピック競技の中に入っていく可能性も出していくということですね。 尾崎/そうですね。 中田/なるほど。私のまわりでも、しょうがいのある方でセーリングをやっている方が同じ会社にいて、でも、セーリングは今度外れるみたいですね。 尾崎/そうですか。 中田/そうなんですよね。なので、入ったり入れなかったりと。尾崎さんの種目でなくなった種目もあるんですか。 尾崎/実は私のやり投げの種目はあるものの、私が出る一番見えない「ブラインド1」というクラスの種目。 中田/全盲ですね。 尾崎/無くなってしまったので、先ほど中田さんが言ったロンドンは、本当は選ばれていたのに参加することができなくて、もし出るならば、B2、B3という見えるクラスの人と勝負しなくちゃいけなかったので。 中田/弱視ですね。 尾崎/結果的に出られなかったです。そういう無くなり方がありましたね。 中田/やっぱり前回チャンピオンでも、種目が無くなったり、競技自体がなくなるということがあるんですね。 尾崎/そうですね。 中田/なるほど。いろいろ皆さんにご質問いただきたいなと思っていて、いろいろなキーワードがあると思うんですけれども、もういきなりですが、質問を何か尾崎さんに聞いてみたいとか私に聞いてみたいとかがあれば、すぐお答えします。どうぞ。 ●写真 トークセッションしている尾崎氏と中田氏 ■質疑応答 参加者A(本学大学院生)/本日は貴重お話をありがとうございました。  2点質問があるのですけれども、1点は中田さんに質問があります。見えていても、あえて伝えないことというのはあるのかなということが1点。お二人にお答えいただきたいのが、伴走とか、あとはコーラーとか、そういうものを続ければ続けていくほど一心同体になっていくような感覚なのか、もしくは、お互い感覚はばらばらでも、言葉で言わなくても体で感じていくような、そういう感覚なのか、それ以外の感覚なのか、わからないんですけれども。 ●写真 質問している参加者A  中田/わかりました。ありがとうございます。じゃあ、先に私が。私は見えているものを伝えないということはあります。それは嘘ではないので、私の中ではOKのルールにしています。違うことを伝える、嘘を伝えるということはしないんですね。一度でもそれをやると、選手から信頼されないです。ただ、見えていて言うか言わないかは、そこは判断になってくるので、言わないはあります。なので、途中のタイムも、ここは読まないほうがいいと思ったら時計を自分で確認はしているけれども、言わないというのはあります。逆に言われたら困るので、スタート前にスタッフに私たちの場合は言わないでくれ、というのをあらかじめ打ち合わせをしたりすることもあります。  感覚的なところでいうと、やっぱりやっているうちに、選手の癖が分かってきます。ちょっと選手がきついなと思ったら、腕がちょっと上がってくるような癖があって、ロープの張り方がちょっと変わってくるんですね。選手の腕の振る位置が高くなったら、緊張感が出てきたなというのも分かるんですね。なのでそういった感覚というのが、色々な選手と走っていると、やっているうちに選手の特徴というのが私は分かってくる感じがします。そんなところです。 尾崎/さっき「コーラー」という言葉が出ましたが、私は鈴の音とか手をたたいてもらい、その音を聞きながらまっすぐ走っていくんです。だけれども、例えば、私がよく練習するスポーツセンターは、大きな建物があるので、音が反響して、ちょっと跳ね返される、左のほうに寄ってしまう音の鳴り方をするのです。ですから、左に寄っていかないように、右寄りに手をたたいてもらってちょうどまっすぐになるとか、そういう工夫をすることがあったりします。走り幅跳びの場合にはずっと音を聞いていられるんですけど、やり投げは、シドニーのときに本番に手をたたいたり、ピットの中で音を出しては駄目だと言われて、手をたたいたらどきなさいと言われました。そう言われるのは分かっていて、今度は釣りざおを使い真ん中で音を出せるように、シャンシャンシャンとやると、真ん中で音が出たんです。けれども、審判がそれも駄目だと言ったので、「なぜだ、人がいないだろう」と思ったのですが、それは「透明のバリアを張ってあるものと考えてほしい。あなただけがそういうことをやるのはずるい」と言われて、なるほどなと思いました。ですから、音は真ん中で聞いたらどいてもらい、やり投げの場合はそこをイメージして行くしかないんです。それは練習あるのみということになります。 中田/なるほど。ありがとうございます。他に質問あれば。はい、どうぞ。 参加者B/スキーやマラソンといった伴走者が必要な競技で、選手がメダルを獲得した場合に、伴走者の方も同じメダルをもらえるのでしょうか。 中田/はい。今のルールで、最近はもらえるようになってきました。ちょうど今、メダルを持ってきているんですけれども、ロンドンのパラリンピックからもらえるようになりました。ただ私は、実はもらっていないんですね。なぜかというと、そこのルールがよく不思議だと言われるんですけれども、伴走者が1人だけだったらもらえるというルールなんです。でも私、実は5000メートル、スタートからゴールまで一人で走っているんですね。それでももらえなかった理由は、予備の伴走者を登録しているともらえないというのがあるんですね。なので、本当に私一人だけの伴走者の登録で、当日も本当に一人で走るともらえるんですね。でも、それはすごくリスクがあって、やりたくないんですね、伴走者としては。さっきスライドにあったように、たくさんの伴走者で支えているので、自分が欲しいというのとはまたちょっと違っています。  ちょうど今アジア大会でもらったメダルはあるんですけれども、このときは純粋に日本から伴走者は1人しか派遣しませんというもので、登録も1人だったのでもらうことができました。このようになっています。コーラーの人たちはどうなんですか。 尾崎/コーラーはもらえないですね。 中田/コーラーは一人でも関係ないですものね。なるほど。 尾崎/ましてや、私が長年ずっとやってきているパートナーは、ほとんど一緒にパラリンピックに行ったことがないです。ですから、自分たちの役員とかコーチの中でその場で一緒に練習して、初めてのコーラーというかたちです。本当は一緒に行きたいな、ずっと一緒にやってきたコーラーなのになというのはずっと感じていました。 中田/そうですか、なるほど。私たちの場合は、ずっとやってきたペアで行けるので。  すごくたくさんお話をしたいんですけれども、皆さんのお帰りの時間があるので、最後に私たちからちょっと一言お伝えしたいと思います。先に私からでいいですか、尾崎さん。 ●写真 参加者Bの質問に答えている中田氏とその話を聞いている尾崎氏 ■2020東京に向けて 中田/2020年に向けて、和田さんと一緒にメダルを取りたいと思っています。ぜひ、皆さん、ボランティアや、いろいろな形で2020年に関わってきていただけると嬉しいなというふうに思います。私からはこれで以上です。ありがとうございます。 尾崎/私は北京の2008年が最後でしたけれども、そのときには中国の8万人スタジアムが全部、上の方まで埋まっているという状況でした。それはCGかと聞いたら、「そうじゃない、本当に来ているんだよ」と言われて、中国の人になぜこんなに来るのと聞いたら、「自分のところでやっているんだから、見に行くのは当たり前、見に行きたいから来ているんだよ」と。日本もそのときが来たら、全部埋まるかなと思っているのが1つあります。 ●写真 2020東京に向けて話している尾崎氏    もう1つは、パラリンピックというのは、切断のレベルが何種類もあったり、視覚しょうがいも何種類もあったりすると、ここで金メダル、あれ、また金メダル、となるかもしれません。それぞれの見方があるので、ネットで調べてでも、ちょっとクラス分けとかも分かった上で見ると、また全然違うパラリンピックの見方ができると思うので、ほんのちょっとだけ興味を持ってテレビや会場に行っていただければいいかなと思います。ありがとうございました。 青木(司会)/尾崎様、中田様、ありがとうございました。また、ご質問をいただいた皆さま、ありがとうございました。他にご質問のある方もいらっしゃるとは思いますが、時間の都合がありますので、このあたりで終了とさせていただきます。  実は足の速いお二方のあとに言うのは大変恐縮なのですが、私も多少ランニングをしております。今回のお話を聞いて、伴走はコミュニケーションとか信頼が大切であるということにとても共感を覚えました。また、得意なところは得意な人がやるという考え方は、伴走のみならず社会に生かせること。例えば、ボランティア活動は、健常者、しょうがい者関係なく、得意な人が得意な分野をやるというようなことに通じるのではないかなというふうに感じました。また、まわりの方々を主体的に巻き込んで頼る力の大切さというのも、今回、学ぶことができたなというふうに思います。ありがとうございました。 島村(司会)/アスリートとしてオリンピックを目指していく上で、体験であったり苦労などをお聞きする中で、アスリートの方々がいろいろなことを考えているなということを私は感じました。また、白杖であったり、視覚しょうがい者と関わることでどのような発見があったかなども教えていただき、皆さまが視覚しょうがい者について知ることができるよいきっかけになったのではないかとも感じました。  それでは、講演してくださったお二人にもう一度拍手をお願いいたします。ありがとうございました。  それでは、閉会の挨拶をしょうがい学生支援室長、法学部政治学科の小川先生にお願いしたいと思います。小川先生、お願いします。 ■閉会の挨拶 小川/本日はお集まりいただき、ありがとうございます。しょうがい学生支援室長の小川と申します。2020年オリンピック・パラリンピックを前に、本日尾崎峰穂さん、中田崇志さんをお迎えして講演会を開催することができ大変幸いでした。  立教大学は、しょうがい者支援ネットワークとして、全学で身体や発達精神しょうがいの学生の学修や進路の支援をしています。ただ、私は日頃法学部の教員をしておりますので、一流の本物のアスリートの方々とお会いすることは全く無くて、先ほど初めて本物のメダルというものを拝見して興奮しました。  尾崎さんからは、これほど多くの競技で日本と世界の目標・記録に立ち向かわれている、その挑戦を生で伺うことができ、圧倒されました。オセロでも世界レベルに行かれているのは驚きでした。 ●写真 マイクを持ち閉会の挨拶をする小川氏  英語でパス・ファインダーという言葉があります。まさに尾崎さんはパス、道を見出し、たくさんの若い人々に力を与えてこられました。そのことを実感させられるお話でした。また、中田崇志さんは、ご自身がモデルになられた『伴走者』という小説があります。そこに描かれたしょうがい者アスリートとの真剣勝負のストイックな関係にガツンと打たれた気持ちだったんですが、今日の中田さんのお話は大変にこやかで、明快で、これもアスリートだからこその1つのお顔だなと感じました。先日たまたまニュージーランドとノルウェーから大学にゲストを招いたのですが、今度伴走者とお会いするんだと言いましたら、一緒に走るマラソンのロープの色は決まっているのか?と話に食いついてきまして、世界中で関心が持たれているんだなと再認識いたしました。  本日の講演会では、司会の青木くん、島村くんをはじめ、本学のしょうがい学生、サポート学生の諸君が運営に携わってくれました。誰もが誰かとチームになれる、目標を言い合おうというメッセージをいただいた、すばらしい講演会だったと思います。  本日は尾崎さん、中田さん、長時間にわたり務めていただいた手話通訳の方、お集まりの皆さま、どうもありがとうございました。以上で閉会とさせていただきます。 島村(司会)/小川先生、どうもありがとうございました。最後に事務連絡がございます。まず、7大学連携スポーツリベラルアーツ講座に参加されている方は、この後午前中の講座と同じ8201教室に移動していただきますよう、よろしくお願いいたします。  次に、アンケート記入のお願いです。講演会が始まる前にアンケートをお配りしてあると思うので、アンケートの回答をよろしくお願いします。今日の講演を聞いて感じたことなど、何でもいいので、お気軽にお書きくださればと思います。用紙に記入していただいた方は、会場を出たところにアンケート回収箱がございますので、そちらに入れてください。また、用紙のQRコードを読み取って、ウェブでの回答もできますので、ぜひご協力をお願いいたします。アンケート用紙がない方はいらっしゃいませんか。もしいらっしゃいましたら、お近くの学生スタッフまでお声掛けください。  これをもちまして講演会を終了させていただきます。皆さま、お気をつけてお帰りください。どうもありがとうございました。      ●写真 尾崎氏が獲得したメダルの数々