P1 立教大学 公開講演会 「心のバリアフリーを目指して-目が見えなくなって気づいたこと-」 日時 2011年11月29日(火)17:00~18:30 会場 新座キャンパス 7号館3階 アカデミックホール 講師 宮川 豊史氏(1995年本学法学部卒 東久留米市市議会議員) 主催 しょうがい学生支援室 協力 身体しょうがいしゃ(学生・教職員)支援ネットワーク 対象 本学学生、本学大学院生、教職員、一般 佐伯/ 本日は講演会「心のバリアフリーを目指して-目が見えなくなって気付いたこと-」にご参加いただき、誠にありがとうございます。講演会の司会を務めさせていただきます、立教大学しょうがい学生支援室の佐伯と申します。どうぞよろしくお願いいたします。  講演会に先立ち、配布資料と会場に関するご説明をいたします。まず、本講演会中に使用する配布資料は特にございません。講演会終了後にご記入いただきたいアンケート用紙と、参考として「しょうがい学生支援GUIDE BOOK」、同しおり、そして本学実施のプログラム、「実践!バリアフリー講座」と「だれでも楽しい映画会」のチラシを配布させていただきました。  本日は、聴覚にしょうがいのある方への情報サポートとして、前方の座席にてパソコンによるノートテイクを行っております。講演会でお話しいただく言葉、会場のざわめきなどを文字にして伝えるサポートです。担当していただいているのは、実際に本学の授業の際にノートテイクを担当しているコミュニティ福祉学部と現代心理学部の学生お二人です。どうぞよろしくお願いいたします。  また、本講演会中、スタッフが写真撮影、ビデオ撮影を行います。これは講演会の実施を報告するためのものとして使用する予定ですので、ご了解ください。 さて、今回の講演会を主催いたします「しょうがい学生支援室」は、今年2011年4月に立教大学に開設されました。本学はこれまでも「身体しょうがいしゃ(学生・教職員)支援ネットワーク」という全学組織で、しょうがいのある学生、あるいは教職員の支援を行ってきております。そこに新たにしょうがい学生支援室を立ち上げて、よりきめ細やかな支援をさまざまな関係者とともに行っていく体制をつくりました。しょうがい学生支援室は個々の支援を行うのみならず、今回のような講演会、プログラム等を通じて、しょうがいに対する理解、支援に関する啓発をミッションとして行ってまいります。具体的な活動内容については、お手元のガイドブックやしおりなどをご参照いただければ幸いです。 それでは、お待たせいたしました。講演会に移りたいと思います。講師に宮川豊史さんをお迎えいたしました。宮川さんは1988年、立教高校、現在の立教新座高校在学中に視力を失いました。その後、本学法学部に入学され、学生生活をお過ごしになられました。卒業後、クリーブランド大学へ編入学され2002年に卒業。現在は東久留米市議会議員を務めていらっしゃいます。宮川さんの経験されたこと、そこから感じられたことを中心に、本日はお話しいただきます。  それでは宮川さん、どうぞよろしくお願いいたします。 ●写真 情報保障(パソコンテイク)の手元の一部とノートパソコンの画面、黒い背景に白い文字。 P2 ■目が見えなくなって 宮川/ 皆さん、こんにちは。宮川豊史といいます。僕は1972年、昭和47年生まれなので、今38歳です。僕が立教高校を卒業して立教大学の法学部に入ったのは1991年ですから、今からちょうど20年前ということになります。自分が学んだ高校のキャンパス、そしてまた、新座のキャンパスに戻ってきて、立教の後輩の皆さんの前でこうやって話す機会を頂けて、とても嬉しく思います。  まず最初に、今日僕が皆さんに話したいこと、伝えたいこと、その結論を最初に言っておこうかなと思います。今日は「心のバリアフリーを目指して」というタイトルが付いていますけれども、しょうがいを持つということは特別なことではないということです。いつでも誰にでも起こり得る可能性がある。もしくは、みんなのまわりの家族や友達も、いつ、しょうがいを持つかもしれないということです。だからといって、それを不安に思ったり悲しんだり、そして心配する必要はないと。しょうがいがあっても、しょうがいがない人と同じように生活することができる、そして人生を楽しむことができるということを、僕の話を通じて知ってもらえたら嬉しいなと思っています。  今日は、福祉について勉強する学生さんが多くいると思うんですけれども、誰かのために福祉を勉強するということではなくて、結局はそれが自分自身に返ってくることなんですよね。皆さんが仮にそういうしょうがいを持つ立場になっても、そして皆さんのまわりの家族がこういったしょうがいを持つ立場になったとしても、みんなが安心して暮らせる社会をつくる。そのためによりよい福祉のシステムをつくっていくと。そのためにしょうがいを持つことに対するさまざまな偏見、そして固定観念、こういった心のバリアをなくしていってもらえたらなと思います。それが、僕が皆さんに伝えたいことです。 ●写真 講演している宮川氏のアップ。 宮川/ 僕は今日こうやって、ちょっと壇上から皆さんにお話ししますけれども、僕自身は決して何か特別なことを成し遂げたわけではなく、ごくごく普通の人間です。乙武さんのように皆さんが感動するような本を書いてベストセラーになったわけでもないですし、パラリンピックで金メダルを取ったこともありません。そして盲人のピアニスト、辻井伸行さんのように素晴らしい才能があるわけでもなく、本当にみんなと同じ、ごくごく普通の人間です。ただ、みんなとちょっと違うところ、それが、ある日突然、目が見えなくなったということです。  僕の目が見えなくなったのは1988年、立教高校に入学した後の1年生のときでした。高校に入るときは、まだ普通に目が見えていました。ですから、今日も久しぶりにこの新座に来たんですけれども、立教の校舎ですとか、チャペルですとか、まわりの緑、こういったものは、まだ見たときの記憶が残っています。ただ、僕が高校時代は、ここにはこの大学のキャンパスはまだなくてグラウンドだったんですけれどもね。高校に入るときは本当に普通の学生として入って、部活もバスケットボール部に入りました。  バスケットボールは、1990年ごろからマイケル・ジョーダンとか、あと『スラムダンク』とかで、すごく日本でも人気が出たんですけれども、僕がバスケをやっていた頃はまだそんな人気はなくて、大体高校でバスケをする人はもう既に経験者でしたね。そんな中に、僕は初心者でバスケ部に入ったものですから、部では一番下手でした。身長も一応170センチはあるんですが、バスケ部では一番小さかったので、毎日バスケの練習ばかりをしていました。本当にずっとスポーツばかりをやっているスポーツ少年だったわけですけれども、8月の夏の合宿のときでした。そのときは朝6時から夜9時まで、ずっとバスケばかりやっていて、今はどうか分からないんですけど、本当に当時はそれが当たり前の時代でした。その練習の途中で、何かちょっと目がかすんできたんですよね。それで、あれ、おかしいなと思ったんですが、まあ毎日バスケばかりやっているから P3  疲れているんだろうなと思って、ほったらかしにしていたんですよね。それで、しばらくたっても全然良くならないので、これはおかしいなと思って医者に行ったら、白内障と網膜剥離と診断されました。  それで、即ドクターストップがかかってバスケができなくなってしまったんです。それが8月の頃の話で、それから少しずつ、だんだん見えなくなってきて、その年の12月にはもう目が見えなくなっていました。年が明けて1989年1月になって、昭和という時代が終わって平成に替わったわけで、ですから、僕の見えていた頃は昭和の時代とともに終わるかたちとなりました。  今日来ている学生さんの多くは、たぶん平成生まれなのではないかなと思うんですけれども、みんなが目が見えている時代、見てきた時代っていうのは僕が見えていない世界であって、逆にみんなが生まれる前の世界を僕が見えていたのかなと思って、ちょっと不思議な感じがします。今年は平成23年ということですから、僕の目が見えなくなって23年ということになります。  目が見えなくなって、僕はとりあえず3カ月ほど学校を休みました。それで、毎日家にずっといたわけですけれども、今でいうと引きこもりになるんですかね。当時、そういう意識は、僕はなかったですが、目が見えなくなってずっと家にいました。家で何をしていたかというと、テレビやラジオを聴いていました。「目が見えない人でもテレビ見るの?」って思う人もいるかもしれませんけど、結構、音だけでもテレビって楽しめるんですよ。いろいろドラマとかバラエティー番組とか、そういうのを聴いたり。あとラジオなんですが、その時ちょうどFM NACK5とかJ-WAVE、当時はFMジャパンといって、それが開局したとき、ずっと音楽を流していたんですよ。当時、開局したての頃はラジオ局がまだ番組がちゃんとしてなかったので、ちょうど音楽ばかりかかっていて、そこでそういった音楽を聴いて、それなりに退屈しないで過ごしていました。  3カ月ぐらい過ぎたときに、ある日ふと「もう一度学校に行きたいな」と思いました。本当に、特にきっかけがあったわけではないんですけれども、3カ月ずっと家の中にいたわけですから、学校に行きたいという気持ちが不思議と、自然と湧き上がってきました。そこから立教高校との話し合いが始まりました。僕のほうはもう一度立教に通いたいと学校にお願いしたんですけれども、立教高校側からは最初は断られました。そして、盲学校に転校することを勧められました。  まあ、目が見えない人は、そういった目が見えない人のための学校があるわけですから、立教高校側が、そういった学校のほうがサポートもしっかりしているからいいだろうと思う気持ちも分からないではありませんし、また、見えない学生がもし何かの事故に遭ったら、やはり学校側は責任が取れないという立場もよく分かることです。ただ僕はもう一度立教高校へ通わせてほしいとお願いを続けました。当時まだ16歳ですから、そんなに深い考えがあったわけじゃないんですよ。ただ、何かもう1回、学校に通いたいなと思っただけなんです。  それで、その思いを伝えると、学校側はいろいろ心配するわけです。まず親に頼んで学校の送り迎えは車で親がしてくれることとなり、それで、特別な支援は何も要らないと伝えました。何かあったときもこっちが責任をしっかり取るということで改めて学校にお願いしたところ、立教高校側が受け入れてくれました。そこで立教高校が受け入れてくれたことは本当に感謝していますし、今思うとよく決定してくれたなと思うわけです。どうやって決定したかということは、校長先生や先生の皆さんがどういう話し合いをされたか分からないんですが、これまで目が見えない人を受け入れていない高校が受け入れたということは本当にすごいことだと思うんで、今でも立教高校には感謝しています。同じ高校にそのまま通えたということが、その後の僕の人生にとってもすごく大きなことだったと思います。  よく「目が見えなくなってショックでしたか」と聞かれるんですけれども、同じ高校に通えたということで、僕のショックはだいぶ和らいだのではないかなと思います。というのも、同じ学校に通うということは友達も同じということですよね。同じ学校、そして同じ先生、そして、まわりの友達も同じと。目が見えなくても、目が見えていた頃と同じような学校生活が送れる、そういうことで見えなくなったショックが少なくなったのではないかなと思います。 P4 ●写真 会場後方から見た会場の前方4、5列。前方には舞台中央で机を前に立って講演している宮川氏、背後に文字だけのスクリーン。 宮川/ これが、もし盲学校に行くといったら、学校も替わって、先生も替わる、まわりの友達も誰もいなくなると。そういった状態になると、自分は目が見えなくなったからこういうふうになってしまったんだ、みたいに、もしかしたらもっと悩んだり落ち込んだりショックを受けていたかもしれないと思います。  そこで、ちょっとみんなにも一つ考えてほしいなと思うんですけれども、これまでみんなが小学校、中学校、高校と過ごしてきて、まわりにそういったしょうがいを持つ友達はいましたか。あまり、いたという人はいないんではないかと思うんですね。というのはなぜかというと、やはりしょうがいを持つ子どもはみんなとは別の学校に通うことが多いわけです。これはいろいろな意見があります。別々に通ったほうがいいという意見もあれば、やはりしょうがいがあってもみんなと同じ学校に通うべきだという意見、両方あります。目が見えない人が、例えば目が見える人と同じ学校に通うと、勉強についていけなくなるとか、みんなの遊びに入れてもらえないとかで、傷ついたりつらい思いをするから分けたほうがいいんだと。そういう考えも一理あるとは思います。  ただ、僕はそういう考えは持っていなくて、結局大人になったら見えない人も見える人と同じ社会で生活するわけですよね。だったら子どもの頃から、いろいろとつらいことや大変なことはあるかもしれないけれども、見える人も見えない人も同じ学校で勉強したほうがいいんではないかなと思うんです。大人になってから、「見える人と同じように仲良くしろ」といきなり言われても、それもまた酷な話でしょうから、やはり子どもの頃から、見える人も見えない人も同じような環境で勉強できたほうがいいように思います。それに、実際僕自身が高校でそういう経験ができたということは、本当に今思うとよかったなと思っています。  やはり、かごの中の鳥というのは、それで本当に鳥が幸せかということだと思うんですね。かごの中だと確かに安全かもしれないけれども、鳥であれば自分の翼で空を飛びたいと思うのが当然だと思いますし、それは人間も同じですよね。人である以上、やはり何かしら生きがいを持って、みんなと同じ社会で生きていきたいと思うのが人だと思うので、そういった部分でも、しょうがいがあるとかないとか、そういうことを考えず、同じ人として同じ社会で生きていけるような、そういうかたちになることがいいのではないかなと思います。  それで、高校2年生から、僕の目が見えなくなってからの新しい生活が始まったわけなんですけれども、初めは授業中、ただもう座っているだけでしたね。本当に、先生が言うことはほとんど理解していなかったんではないかなと思います。突然、それでも先生から当てられたりして、どきどきしていたことを覚えています。ですが、その授業が終わった後、休み時間に友達と話すのがとても楽しかったので、毎日学校に通いました。  僕に限らず、多くの人はそうじゃないかなと思うんですけれども、やはり授業だけじゃなくて、休み時間に友達と会えるからとか、話すのが楽しいから学校に通うっていう人も多いのではないかと思います。僕もそういったことで、目は全く見えなくなったけれども、その学校に友達がいて友達と話すことが楽しいということで、見えなくなってからの学校生活のスタートを切ることができました。  ただ、4月、5月と最初はそれでよかったんですけれども、6月になると今度はテストが待っているわけです。そのテストをどうやって受けたかというと、先生が口頭試問をしてくれました。みんなとは別の部屋で、一問一答みたいな形で先生が言ったのを僕が答えるというかたちでやってもらったので、見えなくても試験を受けることができました。そういった口頭試問をやっていただけたということは本当にありがたかったですし、それなりの結果が出せたので、自分自身もほっとしました。目が見えなくなって P5  最初の試験も何とかこなせたのでほっとしたんですけれども、ただ、その後ちょっと残念なことがありまして、その試験の結果が正式に認められなかったんですね。なぜかというと、みんなは筆記試験でやって、僕はそれとは違う口頭試問だったから、あくまでも仮の成績で正式の成績ではないということになりました。ですから、僕の成績はそこでがくっと落ちたわけです。  立教高校から立教大学に進むためには、高校時代の成績がすごく大切なんですね。1個でも49点以下だと大学へ行けないんです。実際、高校から大学へ進む学生は当時7割ぐらいですね。だから、残念ながらその時点で僕は成績ががたっと落ちたので、ああ、もうこれは大学は無理だなってあきらめました。  そもそも目が見えなくなった直後は、大学どころか高校も卒業できるかなと思ったので、あらためて、そこまでショックではなかったんですが、ただ高校ぐらいは卒業したいなと思って、そのまま学校に通うことを希望しました。  それで、学校生活もだいぶ慣れてから点字の勉強を始めました。今日も、点字を持ってきましたが、皆さん、点字を見たことはありますか。これが点字ですが、1マスが六つの点でできています。サイコロの6をイメージしてもらえると分かりやすいんですけれども、それに1、2、3、4、5、6という点があって、その点の並び替えで1マスの文字を表します。これは左から右へ触って読む感じですが、これを高校2年の8月ぐらいから勉強したんです。これ、打つほうはそんなに難しくないんですね。みんなもちょっと勉強すればすぐ打てるようになると思うんです。ただ、これを指で触って読めるようになるのは大体半年から1年かかります。僕も最初に点字を触ったときは、もう全く分かりませんでした。だけれども、大体半年から1年ぐらいかけて、そういった練習をして点字を読めるようになりました。  僕の場合は高校で点字ができたのでまだよかったんですけれども、やはり大人になってから、年を取ってから目が見えなくなった人は、なかなかこの点字を覚えるのが難しいようです。ですから、一般に、大体目が見えない人の10人に1人ぐらいしか点字が読めないんではないかと言われています。それでも点字は、目が見えない人にとっては自分一人で読める文字なので大事なんですが、実際はなかなか難しいということを知っておいてください。  この点字の勉強をしながら、今度は学校にも通って、3年生になってから歩行訓練を始めることになりました。歩行訓練、目が見えなくても1人で歩くための訓練なんですけれども、この訓練を受けるきっかけになったのが、2年の終わりで成績が出たんですよね。さっき言っていた仮の成績だと言ったものが、2年の終わった段階で正式に認められたんです。これは本当に僕もびっくり、嬉しいほうのびっくりで、それで2年の終わった段階で、このままだと大学に行けそうだよという話になったんですね。そこで初めて、ああ、立教大学に行って勉強できるんだと思いましたし、そのための訓練をしていかなければいけないなという気持ちになりました。それで、高校の3年が始まりました。  今日、こういう白いつえを持ってきていますけれども、これ、白いつえ、「白杖(はくじょう)」といいます。白い杖と書いて白杖っていいますけれども、これを持って歩く訓練をし始めました。「あれ、何で盲導犬じゃないの?」と思う人もいるかもしれないんですが、盲導犬はやはりトレーニングに大体2年ぐらいかかるんですね。だから、数がすごく少ないんです。目が見えない人の1,000人に1人ぐらいじゃないかと言われています。ですから、僕が最初に歩行訓練を受けた先生は、盲導犬は頼らず、白いつえを持って一人で歩く訓練をするようにということを言ってくれました。そのおかげで、今もこの白いつえで一人で歩けるようになったので、そのときの先生にもすごく感謝しています。 ●写真 檀上の宮川氏が白杖を右手で持ち上げて参加者に見せている。 P6 宮川/ これが白いつえですけれども、もう1本こっちにあります。結構ぼろぼろになっているんですよね。よく曲がってしまい、曲がっては戻し、曲がっては戻しみたいな感じなんです。なぜ曲がるかというと、僕がつえを振り回すから曲がるんではなくて、歩いている人がぶつかってくるんです。みんなも駅で点字ブロックを見ると思うんですけれども、点字ブロックは2種類あるんですよね。真っすぐ線状のと、あと点状と。点になっている点字ブロックは、「ここで止まれ」というサインなんです。ですから、駅のホームの端とか、階段のところとかにあったりするんですね。あと、線状になっているのは、「ここは進んでください」というサインなので、ずっと道を誘導するようなかたちで敷き詰められています。今度ぜひ、帰りにでも見てもらえたらなと思います。  その点字ブロックの上をつえでたどって歩いているんですけれども、そこに人がぶつかってくるんですよ。特にここ2、3年、人とぶつかることが増えてきました。僕は見えないので、はっきりしたことは分からないんですけれども、おそらく携帯を使って歩いていると思うんですね。それで、そのまま真っすぐどーんとぶつかってくるという感じで。心当たりのある人も多いんではないかと思うんですけど、一番たちが悪いのは、携帯を見ながら点字ブロックの真上を歩いてくるんですよ。みんなも想像してほしいんですけど、要は、携帯を使って下を向きますよね。そのときは視線に点字ブロックが入るわけです。そのままずっとそれをたどって歩くという人も結構多いんですよね。これはぜひやめてほしいと思っているんです。本当に最近、急激に増えましたね、携帯をいじりながら歩く人が。そうして、この間なんかは池袋の地下道で1日に3回ぐらいぶつかったことがありましたよ。だから、そういうのもぜひ気を付けてほしいなと思います。  こういったつえを持って歩く訓練を高校時代にすることができて、高校2年、3年で、少しずつ見えない生活に慣れる訓練を受けていくことができました。それで大学に進むことになります。では、このつえを皆さんに回してみましょうか。どうぞ。  ここまでで何か聞いてみたいなってことはありますか。あまり目が見えない人と直接話す機会とかはないと思うんですけれども、見えない人について聞いてみたいことがあれば、質問をここで受けてみようかなと思います。何か、どなたかありますか。ついでに点字も回しましょうか。これが普通の点字の雑誌で、これが点字のカレンダーです。はい、回してください。 ●写真 参加者の学生が真剣な表情で回ってきた白杖を見ている。 佐伯/ 宮川さん、こちらにご質問の方がいらっしゃいます。 宮川/ はい、どうぞ。 一般参加者A/ こんにちは、初めまして。私は宮川さんと同い年で、一般として参加しています。私も中途で車いすになったんですけれども、私の場合は短大を卒業する頃からだんだん歩けなくなってきたという状態なんです。宮川さんはやはり学生時代真っただ中で見えないという状況になったときに、友達との関係で悩んだりとかということはなかったのかなと思って。私は結構そこでつらい、つらいというか、みんなについて行けないとか、みんなに迷惑をかけてしまうのではないかとかいう思いで、なかなか友達との間に壁をつくってしまって、今も抜けきっていないところがあるんです。そのあたりはどうだったのかなと気になりました。 宮川/ 友達についてなんですけれども、高校の僕の友達は、たぶん最初はびっくりしたんだと思うんですね、いきなり目が見えなくなって。戸惑ったのではないかと思うんですけれども、でも、本当によくサポートしてくれましたし、実際、勉強どうこうというよりも毎日おしゃべりをしました。僕はそのとき野球が大好きだったんですが、毎日友達と野球とか、くだらない話ばかりしていて、そういう話をする相手になってくれる友達がいてくれたことが、そのまま高校に毎日楽しく通えた理由なのかなと思います。 P7  だから、そういった友達がいたことは、すごくありがたいと思っています。  ただ、目が見えなくなって一番つらいことは何かということなんですが、実は自分が見えなくなったことではないです。自分が大変なのは自分で頑張れば何とかなりますよね。でも、それよりも、これまでの友達に「見えなくなったよ」というのを伝えたときの相手の悲しいリアクション、これがやはり一番つらいです。それで、今質問にありました友達関係で、僕は高校の友達とはそうやってうまくいったんですけれども、小学校、中学校の友達とはそれで連絡が途絶えてしまいました。というのは、僕のほうからはやはり言えなかったですよね。やはり、見えなくなったよと言ったときの相手の悲しい反応というのは、なかなかこっちがつらいので。親戚とかもいろいろありましたけど、それがやはり一番つらかったですよね。  今思うと、それまでの友達にも普通に、そんなに気にしないで言えばよかったなと思うかもしれないけれども、当時の僕にはそれができなかったです。そのために、小学校、中学校までの友達とは連絡が絶えてしまいました。だから、高校の友達が本当によくしてくれたのはありがたいけれども、すべてがうまくはいかなかったのは自分自身、仕方ないことだなと思っています。皆さんにはぜひ、小学校とか中学校の頃の友達というのは本当に大切にしてほしいなと思います。大人になってみると分かります。やはり、そういったときの友達というのは、なかなか大人になるとできないんですよ。社会に出ると仕事が中心になってしまいますから、仕事の付き合いになってしまうので。ですから、そういう友達との関係では、しょうがいがあると本当に難しくなるけれども、そういう壁もなくしていけるような社会になると一番いいなと思っています。  この後、そういう心のバリアフリーと何で自分が思うようになったかという話につなげていきたいと思うので、また後ほど、話をさせてください。  もうすぐ成人式の人とかもいると思うんですけれども、今まで連絡が途絶えた人とも、そういうきっかけでもう一回、連絡を取るのも僕はいいんではないかなと思っています。 ■立教大学における学生生活 宮川/ では続いて、今度は立教大学に入ってからのお話をしたいと思います。高校にいるときに、大学は学生もいっぱいいるし、クラスもいろいろなクラスがあるし、高校のときみたいに親切な対応をしてもらえないよというふうに言われていたので、最初はドキドキしながら大学に進みました。ですけれども、実際通ったら全くそんなことはなかったですね。大学の先生、そして職員の皆さんには本当に親切に対応してもらいました。  正直言うと、当時は今ほどしょうがいを持つ学生に対するサポートのシステムがしっかりとはしていなかったんです。ただ、その辺は、やはり皆さん、何か臨機応変に対応していただいたので、すごく僕は助かりましたし、まず困ったことがあったら僕はすぐ先生なり、もしくは職員の人に言うようにしていました。実際それが対応できるかできないかは分からなかったですけれども、こっちからそういう信号を出すことで、大学側の人たちも対応することができたのかなと思います。  この点、しょうがいを持つ立場だと、なかなかほかの人の迷惑になるとか、言いづらいとかいうのはあるかもしれないんですけれども、取りあえずしょうがいを持つ、持たないは関係ないんですよ。大学という場所は、学生が困っていたらそれをサポートする。そのために先生も職員の皆さんもいるわけですから、僕はどんどんどんどんみんな、言ってもいいんではないかなと思います。  僕はほかの人より必要以上に言っていたかもしれませんけれども、困ったときは常に学生部へ行っていたぐらい、本当に、何かあったらそういった職員の人にお願いをしていました。そういったつながりっていうのが、やはり大事なんだろうなと。お互いが、お互い、何を考えているか分からないという状態じゃなくて、常にコミュニケーションを取る、キャッチボールするというのが大事なように感じました。  それで、大学の講義ですが、正直言うと大学の講義の方が僕にとっては楽でしたね。90分間1コマ、先生がずっとしゃべっていてくれるわけですね。それを聴いていれば理解はできるわけです。高校のときとかは途中で問題を解くとか、先生から当てられるとか、 P8  そういうドキドキがあったので。それで、大学の授業は思ったよりもすんなりと受けられました。もともと聴くことが中心のスタイルなので、本当に先生の話というのは、聴いていて、聴けば理解できるような講義スタイルだったのでよかったです。  では、試験はどうやって受けていたかというと、基本は、目が見えない人は点字で試験を受けるんです。ただ、問題を点訳したり、僕が答えた解答を点訳したりすると時間がかかってしまうんですよね。だから、すぐ対応することが難しい。ましてや、大学のテストってほとんど論文試験ですよね。ですから、かなり長い文章を書くことになるので口頭試問も難しい。そこで、僕はかなり特殊なケースではないかと思うんですけれども、まず先生が問題をテープに吹き込んでくれました。それを僕が別室の会場で聴いて、点字で解答を打ちます。時間は普通の人の1.5倍もらいました。当時は100分の試験時間で、150分だったんですが。それで、150分間書いた後に、今度は自分で書いたもの、大体点字の時点で10倍ぐらいになりますが、それを自分で読んで、テープに吹き込んで先生に返すというスタイルにしました。そうすることで、その日に先生はもう僕の解答用紙をもらえる。その後、先生がどうやって採点していたかは分からないんですけれども、どうやら先生自身がテープを聴いて文字に起こしてくれていたようです。先生がそこまでしてくれるなんて本当にありがたいことです。そういった対応も大学側が本当に配慮してくれて、することができました。 ●写真 講演している宮川氏、宮川氏の背後のスクリーンには、講演会のテーマ・講師名・開催日時・場所などが書かれたスライドが映っている。会場前方に4名の参加者が後ろ姿で写っている。車いすの参加者もいる。 宮川/ あとはゼミですね。皆さんもゼミを取っている方、もういるかもしれないんですけれども、ゼミになると今度は本を読まなければいけないんですよね。普段、目が見えない人が本を読むときは、点字で読む人と、あとテープなどの音声で読む人の二つのパターンがありますが、点字で読むよりも耳で聴いたほうが圧倒的に速いです。点字は結構時間がかかります。それで、僕は本を読むときはテープで聴くようにしています。高田馬場に日本点字図書館というところがあります。そこに見えない人のための点字図書や録音図書が置いてあって、それを借りることができます。  大体有名な本は図書館にあるんですけれども、大学のゼミで使うような本は、やはりなかなかないんですよね。それで、どうしたかっていうと、そのゼミを取っている同じ学生、先輩や同級生に頼みました。僕が所属していたゼミは1週間に1冊読むというような、かなりハードなゼミだったんですね。そうすると、やはりボランティアの人に頼んで受け取るというのではもう間に合わないんですよ。ですので、結局同じゼミを取る学生は本を読むわけですよね、だったらそれをテープに吹き込んでほしいということで、毎回毎回、順番にみんなに頼んでテープに吹き込んでもらいました。ゼミの仲間、そして先輩まで協力してくれて、そういった皆さんの協力で本が読めて、すごく助かりました。  しょうがいを持つ学生の支援体制を整えるということも重要なんですが、ただ、そういったシステムだけではなくて、まわりのみんなも手助けできるような、そしてそういうことを頼めるような雰囲気づくりというのもとても大事なことです。あと、ゼミの中でそういった話、なかなか頼むほうも頼みづらいかもしれないけれども、そういうことを言えて僕はよかったなと思います。その人その人に合ったサポートシステムがあるので、どういうやり方が一番いいということにはならないですけれども、僕はこういうやり方で何とかゼミを過ごすことができました。  あとは、レポートですね、書くほうです。今は目が見えなくなった人のほとんどは、コンピューターを使って文章を書いています。皆さんも見たことがあるかもしれないんですが、コンピューターはみんなが使っているものと同じもので、そこに画面を読み上げる音声ソフトというのをインストールすると、その音声が画面を読んでくれるんですね。そうすることで、 P9  見えない人でも文章を読み書きできます。その音声ソフトは文章を打つと、キーボードを押すとキーを読んでくれるんですけれども、漢字変換のときは、その漢字も説明してくれるんですね。「立教」と打って変換すると、「立つ」という字に「教える」みたいな感じで。こういったコンピューターが今は普通に普及しているので、目が見えない人にとっての勉強環境が整ってきていると思うんですけれども、残念ながら、その音声のソフトができたのは僕が大学4年生のときなんですよね。それで、それまでは平仮名で自分でコンピューターに音声なしで打って、それを家族や友達に後で変換してもらっていました。これも友達の助けで何とかなったんですけれども、そういった、ちょうどコンピューターの技術が出始めた頃だったので、多少は苦労しました。その点も今の時代はだんだん解決されてきてよかったなと思います。  サークルも、演劇と、あと軽音楽部に入って活動することができて、学生生活としては、勉強もみんなと同じようにできたし、サークル活動もみんなと同じようにできたので、とても充実はしていました。ですが、最後、4年生になっての就職活動で最初の大きな壁にぶつかりました。  やはり、しょうがいがあると、そしてさらに目が見えないというしょうがいがあると、就職は厳しかったですね。ただ僕としては、目が見えないから、見えない人ができる仕事の就職活動ではなくて、目が見えなくてもほかの人と同じような就職活動をしてみたかったんです。それで、採用されなければしようがないと思って、思い切って就職活動をしました。目が見えないことの厳しさと、あと今も就職活動は非常に厳しいとは思うんですが、当時もちょうど1994、5年ぐらいはバブルがはじけた後で、急激に雇用がなくなったときでもあったんですね。それで、残念ながら就職活動を成功させることはできませんでした。それはそれで、もう仕方ないことだと思っています。  では、その後、卒業後にどうしたかというと、あんま・マッサージ・指圧の学校に行くことにしました。それは、所沢に国立障害者リハビリテーションセンターという、目が見えない人のためのあんま・マッサージ・指圧、そういった資格を取る学校があるんですね。そこで3年間通うと、国家試験を受けて資格がもらえます。目が見えない人に対して、そういった保障されたリハビリテーションの場所があるので、そこで今できることをやろうということで、卒業後はその資格を取ることに決めました。  大学4年間の話は以上で、もう一回ここでちょっと休憩して、ここで、僕の大学時代の話についていろいろ質問があれば1回受けたいと思うんですが、いかがでしょうか。 学生A/私は法学部ということで、直接の後輩に当たると思うのですが、勉強の面についてお聞かせください。宮川さんは法学部のテスト、論文試験がすごくたくさん多かったと思うんですが、普段の授業でも聴く、聴いて勉強していったということで、テスト前の勉強はどのようになさっていましたか。 宮川/授業は許可を得て全部テープに録音していました。今、ノートテイクのボランティアの方が頑張っていますけれども、授業を聴きながら、書く、ノートを取るということは、おそらく目が見える皆さんでも大変なことだと思うんですね。しかも90分ですから。ずっと書き続けるのは大変だと思うんで。それで僕は、もう始めからノートを取ることはしないでテープに録音しました。それで、その録音したテープを聴いて勉強して試験を受けました。 ●写真 座っている学生の参加者2名の後ろ姿。1名がマイクを持ち質問している。 宮川/ 一つ、ちょっと話していなかったのが、対面朗読というシステムがあって、授業以外にやはり教科書とかを読まなければいけないということがありますよね。そのときは、その対面朗読という制度を使いました。これは僕が大学2年のときに、最初は池袋キャンパス5号館の上に対面朗読室ができました。僕が4年生の途中、もう卒業する半年前に、7号館に P10  すごく立派な対面朗読室ができて、僕は卒業ぎりぎりで何とか間に合って使えてよかったんですけれども。そこで必要な資料とか、あと教科書とかをボランティアの人に読んでもらいました。  ただ、基本は授業を録音したテープ、これをもう一回聴くと、やはり先生というのは、試験に出したいところには力が入っているんですよ、説明に。でしょう? だから、2回とか3回聴くと、ああ、もうここが試験に出るなみたいなのが、ちょっと分かってきて、それで勉強したんです。ですから、皆さんも授業は出たほうがいいですよ。後でノートを見るよりも、やはり大事なところは先生も力が入っているんですよ。  こんな感じでいいですか。他にあれば、何でも聞いてください。 一般参加者B/大学事務職員の者で、本日は講演を聴かせてもらいに参加させていただきました。今、対面朗読室がキャンパスにあったというお話だったんですが、そちらは宮川さんが在学される前からあって、使われていたということなんでしょうか。 宮川/できたのは、僕が2年生のときでしたね。今はもう立教は普通にやっていると思うんですけど、当時はまだなかったところを僕がお願いして、大学が対応してくれたというかたちですかね。だから、最初は空いている部屋を対面朗読室にしたという感じなんですかね。大体僕が2年、3年と使っていくうちに、正式にきちんとした対面朗読室を整備しようということになって新しい対面朗読室ができました。ここにもあるんですよね。すみません、新座キャンパスは分からないんですが、後で職員の方に聞いてみるといいと思います。今は、池袋キャンパスにはそういった部屋があります。そういう制度も僕が在学中にできました。  ほかに何かあれば。 佐伯/ 佐伯です。今のお話の中に出ましたが、新座キャンパスには図書館の中に対面朗読室が、正式な場所として設置されています。 宮川/ ですから、最初に池袋キャンパスができて、当然こっちにも整備されたというかたちかなと思います。 一般参加者C/ 今年、立教大学を卒業した社会人1年目です。西武線の池袋駅で今、働いているんですが、もしかすると宮川さんにお会いしたことがあるかもしれないんですが……。 宮川/ いつも使っています。 一般参加者C/ ありがとうございます。質問ですが、お話の中で、大学を卒業した後にリハビリセンターのほうでマッサージや指圧の勉強をされていたということなんですが、その前に就職活動をされていたということで、もし差し支えなければ、宮川さんはできたらこんなことをしたかったとか、就職活動、どういったことを夢に思っていたとか、どういう仕事をしたかったというのがあったら教えてほしいです。 宮川/ ありがとうございます。よく聞いていただきましたという感じですね。実は、これも見えるとか見えないとかは関係なくて、子どもの頃からテレビの仕事をしたかったんですよ。やはりこう、人を楽しませるのが好きというんですか、みんなが喜んでもらえるような番組を作りたいという希望がありました。それで、実際自分がマスコミに就職活動するときも、見える人だけでも厳しいわけですよ。だけれども、見えないからといってそれをあきらめるんではなくて、一応チャレンジしてみようとテレビ局に就職活動しました。  が、見事に駄目でしたね。ある有名なテレビ局は、目が見えない人が何で来るんだ的な、そういう対応をされまして、ちょっと悔しい思いをしたんです。でも僕なりのメッセージは伝えてきたので、見えない人でもテレビを見ることは現実で、むしろ音ってすごく大事だと思いませんか?テレビの。今日は、聞こえない学生さんも参加されていますけれども、やはり映像だけでは伝わらないものがあるわけですよ。僕は、残念ながら映像は見ることができないので、音の部分で力を入れたことができるんではないかと思ってテレビ局に挑戦したんです。まあ残念ながら駄目だったということなんですね。そういうことです。  就職活動はかなり厳しかったです。ただ、それはもうそれで、もう、そこでがっかりしてもしようがないんで、とにかく次のステップということで、あんま・はり・きゅうの道を選びました。またちょっと詳しく、何かの機会に話せればと思います。 P11 ■心のバリアフリーをもって 宮川/ 時間の関係で、では次のテーマに移っていいですかね。もう一つ、次はアメリカ留学について話したいと思います。僕が最初にアメリカについて興味を持ったのは、立教大学1年のときでした。ある日、立教のキャンパスを僕が白いつえを持って一人で歩いていたんですね。11月の終わり頃でしたから、ちょうど20年前の今頃です。それで、突然、謎のアメリカ人が話しかけてきたんです。これは本当に謎だったんですが、なぜ僕に話しかけてきたかは今も分かりません。なんだけれども、話しかけてきた。多分、僕がつえを持って一人でゆっくり歩いているから、何か興味を持って話してきたのかなと思うんですけれども、そういうことがありました。それが初めてで、ちょくちょく会うようになったんです。2、3回会っていくうちにいろいろ話すことになって、どうやら彼はデイリー・ヨミウリの新聞記者で、ちょうど日本に来たとのことでした。どうやら立教の近くのビジネスホテルにずっと住んでいるみたいで、散歩をするために立教へ来ていたんだと。  立教はチャペルもありますし、散歩するには景色がいいから、あとアメリカを懐かしむ気持ちでもあったんですかね。それで、ちょくちょく立教で会って話すようになりました。彼は英語しかしゃべれないので、僕も当時英語をしゃべれたとはとても思えないんですけれども、何か普通にしゃべっていくうちに仲良くなりました。  一緒にカフェテリアに行ってカレーを食べるとか、話した内容は本当にくだらないことばかりで、もうふざけたことばかり言う、ジョークばかり言うような典型的なアメリカ人でした。彼はダニエル・ブルームといって、ダンと呼び、彼は僕のことを豊史だからトヨと呼んでいたんですが、そうやって話しているときに突然、「トヨ、おまえの夢は何だ」、「What’s your dream?」と聞いてきたんですよ。そのとき、僕はどきっとしたんです。目が見えなくなって大学1年までの3年間、夢なんて全く考えてなかったんですよね。とにかく毎日の生活が精いっぱいで、目が見えなくなった生活に慣れていく、そして学校のことだけで精いっぱいだったので、将来の夢とかは全く考えてなかったんです。 ●写真 パソコンテイクをしている2名の学生の様子。真剣な表情で文字を打ち込んでいる。 宮川/ それで、いきなり夢は何だと聞かれて、びっくりして。普段からふざけたことを話していたので、僕は半分冗談で、野球が好きだったので、「じゃあ、ベースボールコメンテーター」って言ったんです。正しい英語はベースボールアナリストっていうんですが、そのとき知らなかったので、そう言ったんです。そしたら向こうが真に受けて、「ああ、いいね。トヨはいいベースボールコメンテーターになれるよ」って言い出したんですよ。それで、逆に僕はちょっと、「いやいやいや、無理だよ」と言って、「That’s impossible」と言ったんですが、「そんなことはないよ」と言い出して、「何で駄目なんだ」と向こうが聞いてきたんですね。それで、「いや、目が見えないのに野球解説は無理でしょう」みたいなことを言ったら、ダンが「いや、そんなことはないぞ、アメリカに来りゃ夢、かなう」みたいに言ったんです、“If you come to the United States, you can make your dream comes true.”みたいな感じで言ったんですよ。  そのとき僕は衝撃を受けた。夢は、信じればかなうということはよく聞きますけれども、現実は違いますよね。信じていても夢はかなわないし、野球選手になりたいと思っていて、みんながなれるわけではないし、アイドルになりたいと思ってなれる人の方が少ないではないですか。だから、夢というのは信じたってかなうわけではないんだけれども、でも、そう分かっていながら、アメリカに来れば夢がかなうということを平気で言ってのける。アメリカ人とは何なんだろうなと、そこで思いました。おそらく、僕たち日本人が海外に行っても、海外の人に「日本に来れば夢がかなうよ」なんて言えないですよね。ですから、そういうことを言えるアメリカ人とは一体 P12  何なんだろうなというのが、僕の最初のアメリカに対する印象です。  それで、いつの日かアメリカに行きたいなと思っていたら、意外と早くそれが訪れました。それが大学3年のときでした。そのときに、アメリカのミシガン州で「日米青少年草の根会議」というのが開かれることになって、立教からも1人、代表を選ぶということになったんですね。その話を聞いた瞬間に、ああ、よし、応募しようと思って応募しました。それでレポートとか、面接とかがあったんですけれども、受かるとか受からないとかは関係なく、取りあえずは応募しようとして応募したら、結果、その選考の中で僕が1位になったんですね。やったーと喜んだんですけれども、そう簡単にはいかなくて、これは推薦の順番であって、立教としては僕を推してくれるけれども、アメリカ側が、目が見えない学生を受け入れてくれるか分からないから、一応仮の結果だと。だから、もしかしたら2位の人になるかもしれないということになったんですね。  僕はどきどきしながら結果を待っていたんです。でも、アメリカの人たちが、目が見えない学生を受け入れないわけないですよね。それで、目が見えないことは全く問題にならずに、その会議に参加することができました。それは3日間の会議で、通訳もついたため、本当に自由に向こうの学生と意見交換できて、すごく良かったんです。向こうの先生の話の中でちょっと印象に残ったのが、「一般にアメリカ人は走りだしてから考える。日本人は考えてから走りだす」という話をしたんですね。それを聞いた瞬間に、ああ、僕はまず走りだしたからアメリカに来られたのかなと思ったんですよ。  そこはそう思ったんですけれども、僕がちょっと衝撃を受けたのは、その後の言葉として、そのアメリカの先生が、「これはどっちが正しい、どっちが間違っているとかではない。自分はどっちが適しているのか。それを自分で判断することが大事だ」ということを話したんですね。それで、ああ、こういうのがアメリカの教育なのかなと僕は思いました。日本というのはどうしても、ついつい正しい答えを求めてしまう。そして、決まった答えを覚えようとしてしまうんですけれども、アメリカの人はそういうのを自分たちで考えさせるということをよくしますね。自分で判断して考える。そういうような話をされて、それが、すごく僕が印象に残ったアメリカの先生の話でした。  それからもう一つ、日本の人の話もあって、その人は「違う国の人が交流をすれば、そこに摩擦が生じるのはしようがない、当然のことだ。交流をしなければ摩擦さえ起こらなくなる。だから、交流して摩擦をするということは、ある意味必要だ」と言いました。そして、紙やすりの話をして、「紙やすりは、最初は木の表面も紙やすりもざらざらだけれども、こうやって摩擦を起こして削っていくことによって、お互いつるつるになっていく。国際交流もそういうもんだ」という話をしてくれました。それもすごく印象に残っています。  それからもう一つ、その会議の最後のパーティーで、ちょっと僕はピアノを弾いたんですね。とてもうまくはないんです。本当に下手なんですけれども、アメリカの曲をちょっと弾いてみたんですが、そしたらその後、みんな声をかけてくるんですよ。知っている人、知らない人、関係なく。それで、声をかけられた瞬間、僕は一瞬「誰?」と思うんですけれども、向こうは関係ないですよね。ピアノを演奏した僕に、知っているとか知らないという壁がなく、誰にでも声をかけてくるみたいな感じで声をかけてきました。そうやってしゃべっている瞬間、一瞬なんですけれども、「自分って本当に目が見えないのかな」みたいな、そんな錯覚を受けるぐらいみんなから普通に接してもらえたんです。それが本当に不思議な感覚で、こういう感覚って何なんだろうなと思って、もう一回アメリカに来てみたいなと思いました。アメリカで、本当に留学してみたいなという気持ちをそこで抱きました。  立教を卒業して、先ほど言ったあんま・マッサージの資格を取って、そのときまだ25歳だったものですから、やはりまだ自分としては、若いうちに、若いうちにしかできないことをやりたいと、もう一回アメリカに行ってみたいと思いました。さらにプラスして、一般にしょうがいを持つ人にとって、日本よりアメリカやヨーロッパ、欧米のほうが住みやすいと言われるけれども、実際のところどうなのかということを自分自身で体験してみたくて、そこでアメリカに行くことを決意しました。 P13  今回は本当に独りのアメリカ留学だったので、最初はとても大変でした。というのも、少しは英語を勉強して行きますけれども、やはり実際向こうで普通にみんなが話す英語というのはものすごく速くて聴きとれない。それで、こっちがしゃべっても、やはり正確に発音しないと通じないんですよ。ましてや見えない。はっきり言うと、もう見えない、聞こえない、しゃべれないような三重苦ですよね。こういうところだから正直に言いますが、最初の3日間、実は部屋にずっと閉じこもっていたんですよ。何もすることがなく。着いたばかりで、どうしていいか分からなくてね。それで3日間、部屋にいました。  ただ、大学の寮だったんですけれども、食事には行かなければいけないので食事には行ったんですが、そのカフェに行くのもやはり一苦労でしたね。部屋から歩いて、場所がちょっと複雑で、また分かりづらいカフェだったんです。それで、3日間ぐらい部屋に閉じこもりきりだったんですが、その次の日、正確に言うと2日後から学校が始まることになっていたんですね。ですから、その前の日に、ちょっと学校を下見に行こうと。もう、ここは思い切って行くしかないと思って、そこで独りでバスに乗って学校へ行きました。  ちょっとその寮と学校が離れていたんです、大体立教の新座と池袋キャンパスみたいな感じでね、それくらいの距離があったんです。ですから、バスに乗って独りで行って、ちょうどまた学校もバス停から降りて5、6分歩くような感じでした。最初は本当に独りでどうしようと思ったんですけれども、不思議とそういうときには誰かが声をかけてくれるもので、突然、天の声ではないですが、上から声がしたんです。目は見えないんですが、声で相手の身長が分かるんですよね。ものすごい上から声がしたので、おそらく2メートルぐらいの人だと思うんですが、そういう人が声をかけてきてくれました。おそらく、見えている人から見たら、ものすごく怖い人だったんではないかなと僕は思いますが、ただもうそんなの関係ないからね、僕は見えないので。  それで、「どうしたんだ」みたいな感じで声をかけてきたから、いや、これこれ、こういうところへ行きたいんだよと言ったら、“OK, Come on”みたいな感じで連れていってくれました。全く見も知らぬ人ですし、おそらくもう二度と会うことはない人なんでしょうが、そういった人の手助けっていうのは本当に今も忘れませんね。そういった人のおかげで、自分は見えなくてもアメリカに来られたのであって、アメリカでも生活できているんだなと思って感謝しているんです。  そして、学校に行きました。学校に着いたら、今度は「バーバラに会え」というメッセージが来ていたんですよ。「Meet Barbara」、それだけなんです。バーバラというのは日本で言えばアキコさんとかノリコさんみたいなもんですから、日本では考えられないですね、フルネームではないわけです。それで、次なる難関は、そのバーバラをどうやって探そうかなということでした。普通はもうちょっと何か、部署の名前とかフルネームとかを書いてほしかったんですが、本当にファーストネームしか書いていなくて、どうやって向こうの人に声をかけようかずっと悩んでいました。学校へ行って、僕が、「バーバラに会えって、こういうメッセージが来たんだけど」と言ったら、「ああ、オーケー」みたいな感じで、すぐバーバラが出てきたんですね。  ここが、まず最初のカルチャーショックというか、とにかくファーストネームで気軽に呼び合ってしまうんです。語学学校だったんですが、そのバーバラという人は、その語学学校ではどうやら一番偉い女性だったらしいです。でも、そういう人でもいきなり行って「バーバラ」、向こうも「ハイ、トヨ」みたいな感じで呼んでくるような、そういうところは、やはり日本には絶対ないですよね。いきなり先生のことをファーストネームなんか呼べないし、知っている人同士でも、やっぱり1歳年上だったりとか1歳年下とか、先輩後輩でどうしても話し方を変えたりとか、たまにちょっと壁を感じたりとか、そういったのが全然ないのがアメリカなんだな、みたいなことを最初の印象で受けました。  最初の3日間、部屋に閉じこもりきりだったということを言いましたが、何でかというと、要は何もないわけですよ。布団もなければラジカセとかコンピューターも持っていってなかったですから。だから、あとはバーバラに頼んで、買い物のサポートとか、学校の授業の計画とかを話して、そこから何か急にふっといろいろなことが進みだしたなと思いました。 P14  その最初の3日間と、プラスその学校に行くまでのことは今でも忘れないですね。どん底からスタートした留学だったので、一つ一つできること、やることが、何かすごく楽しくなってきたんですよ。何もできないところから始まったので。もちろん目が見えないので、見える人に比べればできないことははるかに多いんだけれども、でも、実際見えない立場になると、できること一つ一つが、もうどんどんどんどんありがたく楽しくなってきて、アメリカでの生活も、最初はどん底だったけれども、何とかスタートすることができました。  その後、大学にも入りました。向こうの大学は、まず、一つ日本と違うのは、学期の制度の違いですよね。日本は、比較的1年を通して授業が続くではないですか。向こうはそうではないんですよね。1学期で1回授業が終わる。それで、クオーター制とセメスター制と2種類があるんですが、クオーター制は春夏秋冬の年4回、つまり3カ月が1学期。セメスター制は、春夏秋ですね、4カ月でみっちりやる感じになっています。  その1学期で授業が終わるから、日本みたいにいっぺんに10科目とか15科目とか、取る必要はないんですよ。1学期で大体3科目から5科目ぐらい集中して、それで週2回とか3回、授業があります。ですから、どちらかというと高校の授業に似ているんですけれども、出ると「次までにここまで本を読んできてね」と言われるわけです。そうして2日後にまた授業ですから、3科目とか5科目ぐらいしか取っていなくても、本当に遊ぶ時間はなかったです。もう毎日勉強していないと授業についていけない。これがアメリカの大学です。  二つ目の特徴は、授業内容はほとんどディスカッションです。ゼミみたいなものです。専門のすべての授業は全部ゼミみたいなもので、授業が始まる、それでいきなり先生が話しかけて、学生側に振るわけですよね、「どうだった?」と。だから、そこが本当に日本のスタイルと違うなと。だから、こっちからどんどんしゃべっていかないと、そういった授業の輪に入っていけないわけですよ。そういう学生に、僕は日本人だからとか、目が見えないとかは関係ないわけです。「おまえも話せ」みたいな感じでね。それで、誰かが話している途中で割り込むのをアメリカ人はすごく嫌います。“Don't interrupt me.”。だから、誰かが話しているときはちゃんと聞くという体制を整えるんですね。ですが、本当に自分からどんどん、どんどんみんなが話すというのがアメリカのスタイル。そうやって主張しなければいけない。  あともう一つ、プレゼンテーションですね。ここで自分をアピールするというんですかね、それが評価の対象になるんです。もちろん、僕もやらされましたけどね。とにかく、ものを書く能力よりも、やはり人前で自分をアピールする能力というのが高くないと、向こうの授業ではついていけないんだなと感じました。  三つ目の特徴は年齢ですね。日本はどうしても高校を出たら大学みたいな、そういう流れになっていますが、アメリカは、行きたくなったときに行くのが大学みたいな感じだったので、年齢層は本当に幅広かったです。30代、40代、50代、60代、70代まで本当にいろいろな人がいて。僕は25歳でアメリカ留学しましたけれども、僕でも若いぐらいでした。平均すると30歳ぐらい。やはりそうするといろいろな考えの人がいて、いろいろなそれまでの仕事経験があったり、いろいろな経験があった上での議論になるから、本当に幅が広がるなと思いました。その三つが大きな大学の特徴かなと思います。  そして、しょうがいを持つ立場とすれば、どの大学も必ずそういったしょうがいを持つ学生をサポートするオフィスがあります。今回、こちらの新座キャンパスも「しょうがい学生支援室」というのが、今年からできて、大変素晴らしいことだと思うんですけれども、そういった場所は僕が留学したときから、もうアメリカではどこでもちゃんと整備されています。ただ、本人の自主性に任されるんですよね。その人がどんなサポートをしてほしいかは自分で言わないと、向こうは何も対応はしません。ですが、言ったことは大体対応してくれます。  1回、試験で「トヨ、試験時間、何分欲しい?」と言ってきたんですよ。僕は日本で、さっきも言ったように1.5倍だったので、だから、あれ、1.5倍くらいじゃないの?みたいなことを言ったんですよ。そしたら、向こうは「いや、何時間でもいいよ」と言ってくれました。その辺がアメリカ的といいますか、マニュアルどおりの対応をしないんですよね。 P15  なぜかというと、やはり、その人がしょうがいを持っていることが試験を受ける上でどのくらい障壁になるかは、その人でないと分からないこと。だから、人によってはみんなと同じ試験を受けるためには2時間かかる人もいるかもしれないし、3倍の3時間要る人もいるかもしれない。ただ、それはもう自己申告になるんですよ。ですから、僕も、じゃあ2倍と言って、2倍もらってしまって、ちょっと何か後ろめたい気持ちはありました。、でも、そういった姿勢というのはすごく、僕自身、ああ、すごいことだなと感じました。  そうやって何とかアメリカで勉強することができました。留学する前に持っていたテーマである、実際しょうがいを持つ人にとって、日本よりアメリカの方が暮らしやすいのかということについてですが、正直言ってハード面では、もう日本もアメリカも違いはないと思います。むしろ目が見えない人にとっては、日本のほうが、こういった点字ブロックとか音響信号とかは多いぐらいです。だけれども、なぜアメリカの方が暮らしやすいと感じるかというと、それはやはり、そういう「心」の部分になってくるのではないかと思います。  日本人もアメリカ人も、心の優しさに変わりはありません。心の優しさ、親切の気持ちというのは人種なんて関係がないわけですから。ただ問題は、そういった優しさを表に出しやすい環境にあるかどうかだと思うんですね。日本だと、相手に親切にしたいと思っても戸惑ったりためらったり、相手に迷惑になるのではないかなと思ったりしてしまうわけですよ。困っている人を見かけたりしても、声をかけていいのかなとか、ちょっと恥ずかしいかなと。しかし、アメリカっていうのはそういうのが全くないよね。さっきも話したように、そもそも走りだしてから考えるような人たちですから。だから、まず、思ったらすぐ声をかける、そういった心の壁というのは全くないように感じました。  しょうがいを持つ立場として、おそらくほとんどの人が持つ悩みだと思うんですけれども、「一人で外を歩くとみんなに迷惑をかけてしまうのではないかな」と思う人が多いと思うんです。しかし、アメリカではそういうことは全くないですよね。しょうがいがあっても堂々とみんな歩いているし、別に恥ずかしいなんて思っていたのは、おそらく誰もいないくらい。それで、そういうのをみんなで受けとめる環境ができているのかなと。やはり、そもそもしょうがいを持っているからとか持っていないからとか、そういう観点で人を見ていないなという感じを受けました。ですから、しょうがいがあろうとなかろうと、まずみんな同じ人間なんですよね。それで、同じ人間であれば困っているときは助ける。助けるとは、そういう助けを求めることも決して恥ずかしいことでも何でもないよ、みたいな雰囲気があったわけです。  ですから、ハード面は日本もアメリカも変わらないわけですが、みんなのしょうがいに対する意識さえ変われば、そういった心のバリアーさえなくなれば、日本ももっともっと暮らしやすい社会になるのではないかなとすごく感じました。まずそういう中から「心のバリアフリー」というテーマを感じるようになりました。 ●写真 会場後方から見た会場全景。多数の参加者の中に、車いすの参加者も複数いる。 宮川/ 実際、車いすの人にとっては、アメリカのほうがやはり移動しやすいと思うんですよ。道幅も広いですし、スロープもちゃんとありますし。ただ、やはりそれを見守るまわりの意識が、僕はすごく大事だなと思うんですね。一度こういうことがあったんですけれども、アメリカのバスには車いすが乗れるリフトが付いているんですね。それで、車いすの人が来たら1回運転手さんは降りて、車いすの人をリフトに乗せて、バスに乗せるみたいな感じなんですよ。場合によっては2、3分かかるんですね。ですが、アメリカのバスの中でそれに文句を言う人は一人もいません。これと同じことを日本でやったら、やはり文句が出るだろうなと思いましたね。やはり日本は、 P16  何だかんだ言って分刻みで動いているではないですか。ですから、そういった遅れとかを何かみんなが認めない、許さない、みたいな、そういう雰囲気だと、やはり車いすを利用する方も、ちょっと後ろめたさを感じてしまうわけです。ですから、さっきも言ったように、やはりハードの問題ではないのではないかな。どんなにハードが進んでも、それをしょうがいを持つ人がもっと自由に使える、何の戸惑いもなく使えるような環境ができて初めて、本当にしょうがいがあっても暮らしやすい社会になるのではないかなと感じました。  そして、アメリカで4年間留学をして29歳。その後どうしようか、アメリカでそのまま残ろうか、それとも日本に帰ろうか、僕は悩みました。それでいろいろ考えて、自分が目が見えなくなってから、その29歳までをちょっと振り返ってみたんですね。目が見えなくなって、これまでの約15年間、何だかんだ言って楽しかったんですよね。見えなくなったけれども、いろいろな経験ができた。大学にも行けたし、サークル活動もできたし、留学もできたと。そういういろいろな経験ができたことは、今まで僕を支えてくれた周りの人たちのおかげだと思いました。数え切れないほど多くの人の手助けを受けたと思うんです。さっきも言ったアメリカ、最初のバスを降りたときに声をかけた見知らぬ人とか、本当にいろいろな人の手助けがあったからそれまでの自分の人生が送れたと思いました。だから、今度は自分がそれをみんなにお返ししようと、社会に恩返しする番だと思って、せっかくアメリカで勉強したんだから、それを日本に持って帰って、それを生かすことがみんなのためになるし、みんなへの恩返しになると思い、帰国を決意しました。  本当に、しょうがいがあるとかないとかが、今思うと、そういう幸せの条件ではないんだなというふうに感じます。しょうがいがあってもなくても、そういうことは関係なく、みんなが楽しく過ごせる、幸せな生活ができるように、そういう社会をつくることが結局はみんなのためになるのではないかと思うようになりました。  結局、何かの条件が満たされれば幸せのランプが点くわけではないですよね。ここから以上が幸せな人で、ここから以下は不幸せな人だというわけではないわけで、あくまでも、その人の心が幸せかどうかを決めるのではないかなと僕は思っています。そして、そういう心のバリアーが多い人ほど結局は自分を苦しめて、幸せに感じないのではないか。それで、心のバリアーをなくせばなくすほど幸せを感じることができると、僕は今までの自分の経験を通して感じました。  もう一つだけ、数年前に会った人たちのことを話したいんですが、僕は東横線を横浜から乗って渋谷に向かったんですね。そのときに、横浜から渋谷まで大体30分かかるんですが、まあ、30分ぐらい立っていてもいいやと思って乗ったんです。そのときに、ある若い男の子が声をかけてくれました。「ここ、空いてるよ、座んな」みたいな感じで。で、僕は全く見えなかったんですが、結構派手なお兄ちゃんだったようですね、話していくうちに分かったんです。でも、声をかけていすに座らせてくれたんです。その若い兄ちゃんが僕に言ったのは、「こういうのって偽善者っぽくて嫌なんですよね」と。というのは、やはりまわりの目ですよね。だから、自分がいい人ぶるのが嫌、いい人ぶるように見られるのが嫌だということらしいです。こういうのもやはり日本人特有の心のバリアーなのかなと思いましたね。やっぱりいいことをしたいんだけれども、何かそういう、いい人ぶる自分に思われるのが嫌だ、みたいな。  そこで僕は、いや、そんなことないよと。きみが声をかけてくれたおかげで僕は座れたじゃない、助かったと。それで、おそらく君が僕の立場になれば、嬉しいと思うと思うよと言ったんですよね。結局はそこだと思うんですよね。相手の立場に立って、嬉しいと思うことをすればいいと思うし、相手が嫌だと思うことは、しなければいいのではないかと。福祉というのはそういうところから始まると思うんです。やはり、自分をその立場に置き換えて考えることで、問題解決につながっていくのかなと。  最近どうしても、あまりいいニュースがない世の中ですし、ネット社会になって、ネットの掲示板では悪口とかも平気で書ける世の中になりました。けれども、結局、人からやられて嫌なことは自分もしないことが、僕は大事なことだと思うし、逆に自分がやってほしいことを相手にすることが大事なことだと思っています。「ネットの掲示板は、ああやって書くことで P17  ストレス発散しているんだからいいんだ」みたいなことを言う人がいるんですけれども、でも、どんな匿名を使っても、どんなに名前を隠しても、人の悪口を書いたことを自分の心は知っているわけですよ。そういうのは必ず自分に積み重なって自分自身を苦しめるのではないかなと思うので、僕はそうやって相手の立場に立って考えることというのはすごく大切にしてほしいし、その際に、やはりいろいろな偏見が人間には出てくるんですね。そういった心のバリアーをなくして、本当に相手の立場に立ってものを考えることで、いろいろな問題解決につながるのではないかなと思います。  最初に、心のバリアフリーというテーマは決してしょうがいを持つ人のためのテーマじゃないんだよ、みんなの幸せのためのテーマだよと言ったのはそういうことで、結局みんな同じ優しさを心に持っているわけです。それを心のバリアーで閉じ込めておくよりも、みんなが自分の優しさをどんどん表へ出していけば、そういういろいろな優しさとか親切心が連鎖して、どんどん広がって大きくなっていくと、そのための心のバリアフリーということを僕は大事だなと思っています。  すみません、時間の関係で、なかなか十分皆さんが知りたいことを話せない部分もあったかもしれませんけれども、可能な限り質問にも答えたいと思います。以上で僕の話は終わります。ありがとうございました。 ●写真 学生1名がマイクを持ち立って質問している。 佐伯/ 宮川さん、ありがとうございました。  それでは、今会場に30名ぐらいの方がお聞きになっていらっしゃいます。一つ二つぐらいぜひご質問、あるいはご意見・ご感想をいただければと思います。どなたかいらっしゃいますでしょうか。 一般参加者D/ 今日は貴重なお話をありがとうございました。  私は生まれつき脳性まひで、車いすに乗って生活をしています。外に出るときは電動車いすに乗って活動しています。お話の中で、宮川さんが目が見えなくなったときに、戸惑いとか、これからどうしようとかというのはありましたか。  あと、最後の留学の話で、アメリカは走りだしてから考える、日本は考えてから走りだすという言葉を話されましたけど、そうなんだなと思いました。自分もなかなかずっと、学校は養護学校に行って、分けられた中で生きてきて、いざ高校を卒業したときに、やはり何か社会は違うなと。  あと、5年くらい前に立教大学の新座キャンパスで、学生をやっていたときがあって、まだその頃はこういうしょうがい学生の支援とかがないときでした。あるときに大学の事務の方から呼ばれて、呼ばれたから、「何かやらかしましたか」と聞いたら、「いや、車いすの人が授業に出ているのが初めてだから、先生たちも知りたいから、ここで話を聞かせて」と言われました。そのときに、まだまだ社会や大学の中で車いすの人はまだ無理なのかなと。今はもうだんだんこういうものもできて、当たり前というか、なりつつあると思いました。以上です。 宮川/ 質問、ありがとうございます。体にしょうがいがあること、これはもう避けられない。けれども、そういう生活する上でとか、勉強する上で、それがしょうがいになっちゃいけないわけですよね。だから、そのためにいろいろなサポートのシステムが必要だと思うわけです、僕も。  僕も今、話をして、いろいろ壁にぶつかることもありました。だけれども、とにかく自分から、まずその壁にぶつかっていかないと、やはりまわりの人の手助けも受けることはできないわけです。その壁の前に立ち止まっていては自分も何もできないし、まわりも手助けしようにも手助けできないわけですから。障がいがある中で、本当に誰もが悩むことだと思うんですけれども、まず1歩を踏み出すこと、そこから始めるしかないのかなと。そうすれば、必ず誰かが見ています。誰かサポートしてくれる人がいると僕は信じていますので、本当に大変だとは思うんですけれども、 P18  まず一歩、踏み出すところから始めてほしいなと思います。 佐伯/ ありがとうございます。もし、ありましたら、もう一つぐらい。 学生B/ 立教大学4年です。今日はお話をありがとうございました。  私の母も実は盲学校の中等部を出ていて、普通高校に進学したんですが、そのときに母が言っていたのは、盲学校とか、そういう特別支援学校では3年間、普通の中学校でやるところを2年間分とか1年間分しかできないと言っていました。それでその進学する普通高校で学びたくても進学するということができないと言っていて、もし、宮川さんは議員もやっていらっしゃるので、教育的なことをちょっとお聞きしたいなと思って質問します。特別支援学校の教育とか、そのしょうがいを持つ人の教育というのはどうあるべきかなというのをぜひ、少し教えていただければと思います。 宮川/ 僕は、しょうがいがある子どももそうでない子どもも同じ学校で勉強すべきだという考えですが、これははっきり言って意見が真っ二つです。そういった、やはり見えない人、聞こえない人、もしくはそれ以外のさまざまなしょうがいの人に応じた特別支援学校が必要だという意見も強くありますし、実際そういう学校も多いんですよね。ですから、これはもう本当に真っ二つです。  それで、さっきも言ったように、でも、結局は大人になれば同じ社会になるわけです。だったら子どものうちから、どんなつらいこと、大変なことがあっても、同じ環境で生活することが、その子どもにとっていいのではないかと思うんですね。確かに、しょうがいを持つ子を守りたいという気持ちから特別支援学校が必要だという考えも一理はあるんです。勉強のペースもちょっと遅めにするわけですよね、しょうがいを持つ人に合わせて。ですが、ほかの人と同じ環境で子どものころから過ごすということのほうが、僕は勉強することよりももっと大事なのではないかと思う。  おそらく今、福祉を勉強している人も、そういったテーマで勉強する人もいるのではないかと思うんですよね。これは本当にみんなと一緒に、これからもまた考えていきたいなと思っています。 ●写真 電動車いす利用の参加者が質問している様子。 佐伯/ ありがとうございました。この後も宮川さんのお許しのある限り、おそらく個別にご質問、ご相談を受け付けさせていただけると思いますので、ございましたらお声かけをいただきたいと思います。  それでは、以上で宮川豊史さんをお迎えしての講演会を終了いたします。宮川さんへ、最後に盛大な拍手をお願いいたします。  本日は、ご来場いただき誠にありがとうございました。お足元に気をつけてお帰りください。ありがとうございました。 以上