2008年度
連続公開シンポジウム
未来の声を聴こう

〇年代に入り、思想や評論の流れは、先ほどの宮台氏・東氏路線に大きく傾いてきたように見えます。グローバル資本主義の浸透、インターネットや携帯電話の普及によって「二層構造」が実感されるようになったためでしょう。
〇年代の課題は、この「二層構造」が前提。下部構造である政治=システムに求められるのは、多様なコミュニティ、物語を許容するシステム設計だけに限られます。
一方、文学=実存の課題は、物語の選択が完全に自由であるという状況の中で、いくつの物語に、どんな角度から、どれほど深くアクセスするか。つまり自分の選ぶ物語にどうコミットするかという態度の問題です。
この時代を体現する作品は『DEATH NOTE デスノート』です。主人公にとって、父親=社会や既存のルールが信じられないという95年的な問題は織り込み済み。だから、価値観やルールはゲームの勝者が暫定的に決めるもの、勝者が入れ替わればルールも変わるのが当然という割り切った世界観を持っています。ゲームに参加してその結果を引き受けるという発想は、グローバル資本主義の自己決定・自己責任のルールそのものと言えます。
また、90年代前半までのマンガやアニメのストーリーは、主人公が徐々に強い敵を倒していく「トーナメント形式」が主流。これは明らかに、近代的な価値のツリー構造の比喩です。それに対し、『デスノート』は最初から同等の力を持つプレーヤーたちが戦う「バトルロワイヤル形式」。複数の小さな物語同士の相互作用によってのみ、暫定的に価値が設定され、更新され続ける社会の在り方を象徴的に表しています。
もう一つ、〇年代を代表する想像力は、『ウォーターボーイズ』をはじめとするアルタミラピクチャーズ系の映画とそのコピー的作品群です。そこに描かれるのは、コミュニケーションの自己目的化です。かつての青春ものと異なり、挑戦・達成といったモチーフは希薄で、若者たちはゆるい人間関係に支えられた日常そのものを楽しみます。
また、『あずまんが大王』に始まる空気系のマンガ作品には、やはり若者社会の特徴である「自己目的化したコミュニケーションの連鎖」が描かれています。そこでは、自己のキャラクターを他人に承認してもらい、それによってアイデンティティを獲得するための、ゲーム的コミュニケーションが繰り広げられます。
この形式については携帯電話のメール交換を思い出すと分かりやすいと思います。
携帯電話のメール交換、特に中高生のそれは具体的な中身を伴った文章はあまり送信されず、今何を食べたとか、今朝は寒いとか、ほぼ無内容なやりとりが大きなウェートを占めます。ここで交わされているのは、いわば「あなたは私のことを気にかけていますよ」というサインです。このメール交換において、もはや内容はどうでもよく、重要なのは送ったメールに返信が来ることだけです。
つまり、コミュニケーションが自己目的化している。
社会学者の北田暁大さんは、これを「つながりの社会性」と呼びました。こうして考えてみると、現代社会はつながりの社会性によって承認を獲得する社会だと言えますし、アルタミラピクチャーズ系、空気系はこうした自己目的化したコミュニケーションの連鎖が覆う現代社会を極めて直接的に反映した物語形式と言えます。

実はこれらの作品の世界観と『デスノート』の世界観は、基本的には共通していると言えます。前者、つまりアルタミラピクチャーズ系、空気系がその中での理想的な人間関係を描いているのに対し、後者のバトルロワイヤル的人間関係は、現実を表すものということができるのです。
これらの想像力においてはエヴァンゲリオン系に存在した、大人が導いてくれないという絶望は完全に消え去って、子どもだけのコミュニケーションの連鎖が理想化されて描かれます。終わりなき日常=ループをネガティブなものにしていた大きな物語が失効したという喪失感は、時代の進行によって消え去り小さな物語の乱立する時代に最初から生まれた世代は、その「冷たいけれど自由な社会」をそれなりに楽しんでいるといえるでしょう。
どちらにせよ、ここで描かれているのは小さな物語、コミュニティが無限に乱立し、連鎖する世界において、人々が自己決定した物語にアクセスするという世界観です。ポイントは、小さな物語や共同体は常に複数存在しているということでしょう。
例えば『木更津キャッツアイ』や『時をかける少女』などの作品では、基本的にアルタミラピクチャーズ系、空気系的な世界観がじわじわと主人公の死や、絶対的な別れに侵食されていきます。これは多分、自己目的化するコミュニケーション=小さな物語へのアクセスが不可避であることと、同時にその小さな物語が有限であり、私たちは否応なく複数の着地点、複数の物語に向き合わなければならないことを同時に示した結果そうなっているのだと思います。このあたりに〇年代の想像力の臨界点が見えるように私は思います。
日本では、純文学、演劇といった近代的表現形態より、アニメ、テレビ番組など、表現としての統一性があまりない「ジャンクな」分野が発達する傾向が強い。これは、日本という近代国家が他の国に対して後進性を有している大文字の分、ポスト・モダン状況が徹底しやすいのだという解釈もあります。
従って、今後海外で、社会の流動化やフラット化が進めば、文化に関して日本と同様な状況が生まれてくる可能性も考えられます。その時は、日本から批評や思想を輸出することもあり得る。表現についても、政治的ダイナミズムのような無いものねだりをするのではなく、自己目的化したコミュニケーションの連鎖を描くような日本的想像力を追究していくべきではないかと思います。
※2009年11月28日に行われた講演を基に、要約、加筆・訂正の上掲載しています。