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コミュニケーションをデザインするという発想

  私は大学で教えるようになる以前から、一般の方に対し、言語やコミュニケーションに関する問題への関心を持ってもらうため、演劇を取り入れたワークショップを国内外で続けています。

 その中で最もよく使うのは、列車でたまたま乗り合わせた相手に「旅行ですか?」と話しかけるという設定。簡単に思えるこの一言ですが、高校生などはなかなかうまく言えません。「初対面の人に話しかけた経験がないから」と彼らは言います。

  しかしこれは、若者に限ったことではなさそうです。私の調べたところでは、同様な状況で「自分から話しかける」という日本人は1割程に過ぎません。

  これに対してたとえばアメリカ人は、旅行者にもうるさいほど話しかけてきます。でも、それゆえに彼らのコミュニケーション能力が日本人より高いとは言い切れません。開拓時代からの歴史が浅い多民族国家ゆえに、自分が敵意のない安全な人間であることを言葉でアピールしなければならない、そんな文化的背景があるのです。また、敬語の発達している日本語や朝鮮語は、相手の年齢や立場によって言葉遣いを選ばなければならず、初対面では話しかけにくいという事情もあります。

  ただ、日本人でも「場合によっては自分から話しかける」という人は少なくありません。その「場合」とは結局、「話しかけやすい相手かどうか」ということのようです。

  だとすると、もし芝居の中に先の「旅行ですか?」のセリフが出てきたら、それにリアリティを与えるのは発言者の演技だけではない。実は、相手側の「話しかけやすさ」の演技が大きなカギを握っているということになります。……それを演じる役者は大変ですけれど。

  これは、近年の新しいコミュニケーション教育の考え方につながります。話し手・発信者の能力だけでなく、受け手も含む環境全体に着目する――私が現在所属している大阪大学の「コミュニケーションデザイン・センター」は、まさにこうした研究を行っているところなのです。たとえば、病院で医者と患者の望ましい関係を作るために、医者の話し方はもとより、診察室のイスの配置、壁紙の色、待合室からの距離などをトータルに「デザイン」していくのです。

  進んだ企業にも、こうした考え方を採り入れてもらうことで、会議のやり方をいろいろ工夫しています。発言できない社員の力不足をただ責めるのではなく、各々が発言しやすい環境作りを試みようというわけです。

  もちろん、どんな場でも発言できる力を養うことも大切。しかし、こうした発想の転換は、ニートや引きこもりの対策にも一役買うのではないでしょうか。

演劇がもつコンテクスト共有のノウハウ

 言葉によるコミュニケーションにおいて重要なのは、「コンテクスト(文脈)」の共有です。

 たとえば『ロミオとジュリエット』という演劇には、有名なバルコニーのシーンがあります。しかし当時のイギリスで、バルコニーのある家がどれほどの金持ちだったか、そのような家同士の仲違いがどれほど深刻だったかという背景を知らなければ、「どうしてあなたはロミオなの?」というセリフに込められたジュリエットの絶望を理解することはできません。日常の会話の中でも、話し手の立場、性格、場の状況など、背景をちゃんと把握していないと、発せられた言葉の真のメッセージを受け取りそこねる恐れがあるのです。

 ここでは「コンテクスト」の意味をもっと広げて、個々人の体験にもとづく言葉遣いの個性全体を指すものとして考えていきましょう。

 例をあげると、かつて私は高校生向けの芝居の中に、「マクドナルドに寄って行こう」というセリフを書いたのですが、学生たちはこれが言いづらいと言う。そこで初めて、彼らが同じ店を「マック」と呼んでいること、私はそれをうっかり忘れ、自分のコンテクストを押し付けようとしていたことに気づきました。

 ちなみに、これが関西なら「マクド」となるのはご存知の通りですが、鳥取県などは大変です。交通網の関係で関西文化圏から関東文化圏に移りつつあるこの地では、25歳以上は「マクド」、その歳未満は「マック」と呼ぶ人に分かれてしまうようです(笑)。

 このように、人々は地域ごと、世代ごと、さらには生まれ育った家庭ごとに、それぞれ異なるコンテクストを持って生きています。そうした人間同士が、たとえば結婚や就職を機に、一つの家庭、あるいは職場で、密接なコミュニケーションをとりつつ、協力していかなければならなくなる。そこでは、コンテクストのすり合わせという作業が不可欠となります。

 しかしこれは、なかなか時間がかかります。言語はもともと自己中心的な性格を持っているので、先ほどの私のように、つい自分のコンテクストを押し付けてしまいがちなのです。

 実は、芝居づくりのプロセスとは、このコンテクストのすり合わせにほかなりません。なにせ、別々のコンテクストをもつ劇作家、演出家、役者が集まって、一つの世界を共有しなければならないのですから。そして演劇においては、その作業を、限られた稽古期間の中でやりとげる必要があります。そのためのノウハウを、演劇は持っている。この点で、演劇はコミュニケーション教育に大きく貢献できるのではないかと、私は考えています。

異文化共生のカギは「協調性」より「社交性」

 成長型の社会では、人々が共通の「幸せ」を求めて同じ方向に進んでいくので、コンテクストのすり合わせも比較的容易です。そのため、かつての日本においてコミュニケーションの理想は、互いに心から分かり合い、協調することでした。

 しかし、成熟型社会に移行しつつある現在の日本では、人々の価値観はバラバラで、分かり合うことはきわめて難しいです。

 日本人同士ですらそうなのに、今や世界は多文化共生の時代です。先ほどの関東と関西の違いどころではない、まるで異なるコンテクストをもつ外国人たちと、私たちはうまくやっていかなければなりません。

 でもはたして、たとえばイスラム圏の人々の文化を本当に理解し、彼らとコンテクストを共有して「協調」することができるのでしょうか。残念ながら、おそらくそれは無理です。ではどうすればよいでしょうか。

 日本人は今、コミュニケーションに対する考え方を、根本的に転換することを迫られているのではないかと私は思います。「分かり合うことを目指す」といえば、確かに聞こえはいい。でも、その裏に隠れているのは、それができない相手は排除してしまおうという発想です。これでは、異文化との共生などできるはずがない。

 これから大切なのは、むしろお互い分かり合えないことを前提にしつつ、その上で、何とか相手と折り合いをつける道を探ることなのではないでしょうか。そしてそこでは、従来とは質の違うコミュニケーション能力が求められるのではないでしょうか。

 これは「協調性」から「社交性」への転換です。日本人は「社交性」というと、うわべだけの付き合いという悪いイメージをいだきがちです。でもそろそろ、その考えは改めた方がいい。なぜかというと、「社交性」はグローバル化、そして多文化共生の時代に不可欠な資質だと思うからです。

 ちなみに、演劇人などというものは、小学生のころから通信簿に「協調性がない」と書かれていたような連中ばかりです(笑)。彼らが集まって、楽屋では互いにソッポを向いていたとしても、舞台上では完璧なコミュニケーションをとってみせる。そこで発揮されているのは「社交性」にほかなりません。ここにも演劇の可能性があるような気がします。

 さて、そもそも日本人は、多文化共生社会に対する認識が非常に遅れています。たとえばわが国では、「少子化問題」といいます。でも事の本質は、高齢化社会を支える生産性をどう確保するかという「労働力問題」ですよね。だとすれば、外国人労働者を受け入れれば解決できるはずなのですが、日本人に根強い「純血主義」ゆえに、なるべくそれは避けたいという意見が出てきます。だから「少子化」に問題をすり替え、根本的な対策を先送りしようとしているのです。

 確かに日本の場合、島国という地理的条件、日本語という特殊な言語が防波堤となり、外国からの人材の流入、それに伴う異文化の流入のペースは、これまでのところ非常に遅かった。しかし、それは着実に進行しています。もし将来これが加速し、多くの外国人が一気に全国へと散らばったら、異文化への免疫がない地方都市は、間違いなく大混乱に陥るでしょう。国際社会のルールが変わり、「純血主義」がもはや通用しなくなっていることに早く気づいて、まだ余裕のある今のうちに、きちんと準備しておかなければなりません。

 中でも急務なのは、教育の整備。むろん、単なる語学教育では不十分です。異文化を知り、自国文化を知って、そのコンテクストの違いをきちんと認識する。その上に立って、それぞれの文化を担う者同士が協力し合うための「グローバル・コミュニケーション・スキル」を身につけさせることが重要なのです。

 その意味で、立教大学がこの時期に「異文化コミュニケーション学部」を新設される意義は非常に大きいのではないでしょうか。その成果に期待するとともに、私も演劇がその伝統の中で育んできた知恵を提供しつつ、何かの形でご協力できればと考えております。

質疑応答

聴衆A 私は自分と意見の違う人ときちんと議論できず、感情的になるか、黙り込んでしまうのですが。

平田 西洋には対論(ディベート)の伝統があり、そこでは互いに議論を尽くした上で、優劣の判定は第三者に委ねます。日本人はつい相手を説得しようと懸命になってしまうのですが、それは本来非常に難しい。第三者を巻き込む知恵には学べるところがあるかと思います。ただ、日本では国会ですら対論はできていませんけどね(笑)。

聴衆B 私は社交性はあると思うのですが、深い関係がなかなか築けなくて……。

平田 関係が深いか浅いかは相対的なもの。相手は深いと感じているかも知れず、あまり悩む必要はありません。

 演劇でよく使う「ペルソナ」という言葉には、「仮面」と「人格」の2つの意味があります。「仮面」、すなわち人がその時々に演じる立場・役割の総体こそが「人格」であり、「本当の自分」などというものは、もともと存在しないのです。

 だから、演じることや、演じているという意識にひるむ必要はない。大切なことは、自分はいつでも変われる、そして、自分が変わることで相手や環境も変えられると信じること。そうすれば、他人とも自分の望む関係ができていくのではないでしょうか。

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