立教大学には今年度、二つの新学部が誕生した。その一つが新座キャンパスの「現代心理学部」だ。そしてそこには、「映像身体学科」が「心理学科」とともに設置された。聞きなれない名を持つこの学科は、どんな内容で、何を目指すのか。ユニークな顔ぶれが揃った同学科の教員たちによる公開シンポジウムの内容を採録する。 |
映像身体学科で何を学んでいくのか

前田英樹
前田 映像論と身体論は、わが国の大学に最も欠けている研究分野ですが、両者を並行して扱う学科となると世界にも類例がありません。しかし、私たちのすべての感覚、思考、行動のベースとなる「身体」にかかわる「知」を総合し、その延長線上に、20世紀に誕生した新しい知覚・認知の手段である「映像」を位置づけて研究することは、現代の「人間」を理解する上できわめて有効かつ有意義であると、私は考えています。
この新たな学問領域「映像身体学」を、ともに創っていくスタッフとして、身体表現の専門家、映像作家、研究者と、多彩なメンバーにお集まりいただきました。それもあえて、各分野でひたむきに技術を追求されている職人的な方ではなく、常に自分の仕事を客観的に考察し続けているような方々を選んだつもりです。幸い、期待以上の布陣で新学科をスタートさせることができました。
今日はそのうちの7名にお話を伺います。まず、それぞれ映像身体学をどうとらえ、ここで何をしようと考えていらっしゃるかをお願いします。
万田 「映像・身体」と分かれていればイメージしやすいのですが、「映像身体」と一語になると、一体ここでは何を研究すればいいのかわからなくなりました。
僕は現場の人間で、映像学とか身体性とか、抽象的な考えをまとめるのは得意ではありません。そこで、考えるのは学生にまかせ、僕は問題提起だけしていこうと考えました。
ただ一方で、映像表現は本来、方向性を持たないもの、したがって学問、アカデミズムとはそぐわない、時には反発・逆行するものではないかとも思うんです。だから僕の授業では、あまりアカデミックにならない形で映像を扱っていきたい。
たとえば今、話している僕の映像が、同時に後ろのモニターに大きく映っていますね。では僕自身とこの映像の関係、両者をつないでいるもの、へだてているものは何なのか。
そんなことを、だれかの映像作品の断片を見たり、自分たちで作品を作ったりする中で学生と一緒に考えていこうと思っています。

篠崎誠
篠崎 中学生のころにカメラを回し始めてもう四半世紀、いまだに僕自身、映画とは何なのか、確信がもてた試しがありません。しかし、映画を作るためには必然的に、様々なことを学び、考えなければならない。脚本を書き、役者やスタッフに指示するために、たとえば作品の背景となる史実などを必死に勉強するわけです。監督は、前田さんの言われた「職人」ではいられません。そして僕は、この仕事のおかげでかろうじて社会とつながって生きてこられたような気がします。
ですからここでの授業も、作品づくりをベースにします。そこには否応なく何らかの思想が入ってくる、それについて学生とともに考えていきたいのです。
具体的には、公開中の作品の作り手を招いて話を聞く。あるいは、一つのシナリオでチームごとに作品を作ってもらう。それも、全員が交代で監督をするという条件をつけ、内容も、サイレント、音楽ビデオと、変化をもたせていく予定です。
佐藤 30年間テレビ番組の制作に携わってきて、技術が進み番組数も膨大に増えたここ10年ほど、実はテレビ番組を作ることへの熱意を感じられなくなっていました。その理由を自分の中で整理できずにいたところ、前田先生とお会いする機会を得たんです。現代思想の専門家であり新陰流の剣術家でもある先生に、私は以前から 大変興味をひかれていました。そして直接お話しする中で「映像と身体は分かちがたく存在しているのではないか」という問題提起をいただいた。その時、映像と、それを撮る私(身体)との関係の中に、何か新しい原理のようなものが見えてくるのではないかと感じました。そして、そこに気づいた自分にどんな映像が撮れるかを考え始めました。
今、現代心理学部での講義も、そんな自分を前提に、「見る」ことを深 く掘り下げてみたい。半年を経て、「見えているものを疑ってみよう」「見えないものを撮ってみよう」という逆説的な二つのテーマに、方向性が固まりつつあるところです。

勅使川原三郎
勅使川原 もともと絵画、彫刻など視覚的表現にひかれていたのですが、ある時、自分自身の体を媒体として直接的に表現しようと決意しました。すると、「見る」ことがとても身体的なものに感じられ、「映像」への興味も高まりました。それで、撮るように踊りたい、踊るように撮りたいと。
僕は、自分が踊るのではなく、自分を躍らせているのだと思っています。だから、踊る自分を、目だけでなくすべての感覚を使って第三者的に「見て」います。そこに客観性が生まれるのです。
一方、具体的な表現には技術が必要です。ところが身体というものは、いびつで不確かで扱いにくい。その不確かなものを不確かなまま提示することが身体表現だと考えてはいるけれど、もちろん訓練は不可欠。それには時間がかかります。
ですからここでは、自分の体を感じることから始めます。まずイメージ抜きで、ついでイメージしながら。そうして、踊れる体に何が必要かを知るのです。
鈴木 4年前から文学部で「身体」のクラスを持っていますが、初めて学生にセリフを読ませた時、声の出ない人が多いのに驚きました。調べてみると、呼吸が浅い。それで、「体を耕す」というテーマを設けたんです。
人間の体は、その精妙なメカニズムを考えると、やはり小宇宙だと思う。しかも、胎児は生物の進化をすべて追体験する、つまり私たちの体にその記憶が残っているのだとか。
「耕す」とは、そのような体をもう一度見直すことです。意識して呼吸してみる。立つこと、歩くこと、見ること、聞くこと、そうした基本的な動作や機能をきちんと確認していく。すると、感受性も変わってくる。そして、ダンサーとしても役者としても通用する体の基礎ができていくと考えています。
来年度からこの学科に移っても、内容は基本的に変えない予定です。私が劇団で訓練を受けたころの断片的なノウハウを、ここで私なりに体系化していけたらいいなと思っています。

森秀樹
森 専門は中国哲学で、興味の中心は身体の方にあります。映像はその身体を拡張し、変形し、あるいは奥へと遡行する手だての一つであるというのが、今の私のとらえ方です。
身体は、たとえば病気の時など、「私」に反抗して、「他者性」を発揮する。自分であると同時に他者である、この二重性が私たちの苦しみの一因だとすれば、それをこえて自由になる方法はないか。これが、私の個人的な身体論の出発点です。
この学科でも、一つは、スポーツや音楽の体験の中で、体の自然な動きに意識がのって一つになる感覚について考えてみたい。また、身体の他者性の延長として、実際の他者と、互いに触れ合う皮膚感覚を通して共生する道を追求することが、映像身体学科なら可能なのではないかと。さらに、中国の道教に見られるような、身体が他者の先にある社会、大地、宇宙へと拡張していくイメージ(「ちぢみ志向」の日本人はむしろ逆です)を学生たちに訴えられたらと考えています。

田崎英明
田崎 私たちが身体を持つとはどういうことか。私がここにいれば、その空間は他人が占めることはできません。だから極端な場合、ナチスによって貨車に無理やり詰め込まれたユダヤ人のように、圧死してしまうことすらあります。つまり身体は、時に持て余してしまう存在なのです。
こうした身体を忘れてしまえば、情報や思想がネットの中を軽やかに飛び交うメディア社会を、もろ手をあげて礼賛することもできます。しかし、モニターの前には、ゴロっとした身体がある。それは、すでにメディアに接続されて変容しつつあるけれど、ディスクの中身のように用意に消去することはできず、超高速のメディアとは別の時間の中で動いているのです。この不器用な身体に目を向けずに、メディアを論じることはできないはずですが、現代思想はまだ十分そこに踏み込んでいません。私が来年度から担当する「身体社会論」の中で、一つの課題にしていきたいと思っています。
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表現のための技術は教えられるか

鈴木理江子
前田 皆さんは、それぞれの分野で、独自技法・技術をお持ちですが、そのすべてを大学の4年間で教えることは、勅使川原さんもおっしゃったように不可能でしょう。では、大学では何を、どの程度まで教えられるとお考えですか。
鈴木 演劇で言うと、技術というより技術以前のことが大切だと思います。
たとえば、学生に「悲しい」というセリフを言わせると、どうしても表情や抑揚で「悲しい」を説明してしまう。ことばで悲しいと言っているのだから説明はいらないし、場合によっては本当に悲しいとは限らないのに。ですから、説明しないこと、さらには、人前で何もしないでいることは、実はたいへん難しい、一種の技術なんです。
もう一つ、少し似ていますが、ウソをつかないこと、言えないことを言わずにいることも、私はよく学生たちに教えています。
万田 映画については、機器の扱い方、撮影・証明・録音・編集などの基本的な技術は教えられますよね。ただ、表現にかかわる技術は4年間では難しい。

万田邦敏
僕自身は、ある日突然「表現」と出会った、つまり、自分が何かを表現している、あるいは人の作品に何かが表現されていることに気づいたんです。おそらく、多くの映画・映像作品を見、撮り、語った経験、そして映画とは無関係な経験も含め、その総体が「表現」にたどりついたということなのでしょう。
だから僕にできるのは、自分の体験の中で表現との出会いにつながったのではと思うことを、具体的に学生にやらせてみること。それがいつか、彼らもそれぞれの表現に結びついてくれればと思います。
佐藤 僕は表現の技術は教えられると思いたい。必要なのは、表現に至る思考のメソッドを確立することだと考えます。
アメリカの映画専門大学のやり方を調べてみると、メソッドという発想で表現に到達できると確信している気がします。しかしわが国の映画界では、人材育成が難しいと言いつつ、教育方法を工夫しようという動きは、今までほとんどありませんでした。
もちろん、表現者はそれぞれ価値観が違いますから、一つのメソッドをまとめ上げるのは容易ではないでしょう。楽器の「スズキメソッド」のように、何人もの人が作って最も有効なものが生き残るのかもしれない。僕は、自らに対する注意深さを養いながら、大胆な構想力を得ることがベースになると思います。

佐藤一彦
篠崎 いわばバッティングコーチのように、こういう絵が撮りたければフレームをこうする、といった技術は、メソッドとして教えられるのかもしれない。
ただ、たとえば女性は少し上から撮ると美しく見えるといったノウハウも、あくまで一般的な傾向を言っているだけであって、実際には人によって、あるいは背景や物語によっても違ってきます。
ジャン・ルノワール監督が、「映画は地域的なものにとどまればとどまるほど、普遍的になる」と言っているように、一般化できない個別なものをとことん追求して、その結果思いもかけないものに出会うことが大事だと、僕は思うんです。もちろん、僕も教える方法をいろいろ試したいとは思いますが。
勅使川原 表現は、矛盾する力が働き合うところに生まれるのだということを、皆さんのお話を伺っていて感じました。
重力がある、呼吸しないと苦しい、といった、判断の余地を与えない絶対的な条件がある。そしてメソッドはそうした絶対的なものを基点に組み立てられるはずです。一方、表現において大切なのは判断し、アレンジすること、そして個別性です。だから、絶対的なメソッドをふまえた上で、いかに自在性を獲得するか、それが知恵なのです。
このように矛盾するものをかかえることは、実は私たちが生きることの本質でもあります。そこに直接触れることで、言葉で言い切れないものがたまっていく、それが表現につながるのだと思います。
前田 間もなく私たちは共同で本を書きます。それをお読みくだされば、このような多様なメンバーがなぜ協力できるのか、そして何を語ろうとしているのか、おわかりいただけると思います。
本日は興味深いお話をありがとうございました。

当日のシンポジウム映像を映像身体学科1期生が撮影しました |
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