寄稿
オーベルジュ 楓乃木 主人
小畑 吉太朗氏
卒業40年「大学4年間の迷走」
私の大学生活は60年安保と学園紛争の間の、比較的平穏な時代であった。
入学式の当日、黒の学生服を着、製帽をかぶって式に臨む。式後、教室に移動、文学部G組、担任は林先生。クラスの名簿を見ていた先生が「関君はどこですか」と最初に問いかけた。女子学生が席を立った。「君は関君の娘さんか!」と目を潤ませ見つめた。彼女の父親は学徒動員で召集され、最初の神風特攻隊で出撃し戦死した関大尉、林先生の学生時代の親友であった。
教室から外に出るとクラブ勧誘の行列。さっそく、山岳部を訪ねる、これは親の猛反対で断念。当時大学山岳部の遭難が頻繁に起こっていた事による。この後、クラスの太田君に誘われ硬式テニス部に入部、春の一部二部入れ替え戦で明治大学に破れ二部に転落したことが原因で新入部員全員坊主になる事を強制される。これに反発して退部。次に、ふらっと入ったのはダンス部。ここでは、今も付き合いが続いている友がいる。社会学部の久保君、経済学部の山本君両名。ダンスは六大学の競技等に出場するまでには達せず、一通りの踊りをマスターしたのみであった。その後、社会学部の賀来先生の主導で能楽研究会が発足、さっそく入会、謡の練習を始める。同期の法学部高橋(旧姓)さんは卒業後も続け能を演じたと聞いている。
学業に目を転じると、博物館講座は4年間楽しく学んだ唯一の分野だった。受講生は各大学から来ており、中川先生、岡本先生、民俗学の宮本先生のユーモア溢れる講義は楽しく受講できた。実習や調査にも毎年参加し古墳の調査や発掘も行った。夕食時のエピソードも沢山あり笑い声が絶えなかった。卒業後も研究室を度々訪ねていたが、岡本先生は横須賀の研究施設に、中川先生は病気で新潟に帰り疎遠となってしまった。昔の古い木造の研究室は無くなり新しい建物に立て替わっていることと思うが、あの古い階段式円形教室が懐かしい。
大学4年間の迷走(卒業後も迷走)、この源は、私の生まれに原因がある。代々養子の続いた我が家に90年振りに私が生まれ、家を継ぐべく育てられた。いつかは田舎に帰らなければならないという切断不可能な回路が張り巡らされていた。今は40年間留守にしていた生まれ故郷に根を下ろし、「オーベルジュ楓乃木」を経営、迷うことなく宿屋の主人に納まっている。
最後に、妻は(64年日文卒)憧れのミツチェル育ち。中川先生に結婚の報告に行った際の言葉「君より成績は良いし、それに先輩、一生尻にしかれっぱなしだ」そのおかげで幅広く校友との繋がりが出来感謝している。
(1966年文学部史学科卒)
-題字は本人直筆-


