寄稿
酉福ギャラリー店主
青山 光雅氏
自由・平等・博愛
立教には12年在籍した。中学3年、高校3年、それに大学の文学部に4年、大学院2年だ。本当にお世話になった。当時名前は「保」といっていたが、いまでは「光雅」となった。名前を変えただけでなく、これまで仕事も変え、妻も変え、住む国も変えた。変化の多い生き方を選んできた。
中学に入ってすぐに新聞部に入った。部員は私をいれて2名だった。すぐに廃部となった。高校では柔道部に所属した。大学では水上スキー部に入部した。全国大会で優勝したが、3年の時に退部。というようにあまり勉強をした覚えがなかった。それで大学3年の時にある事件をきっかけに勉強することになった。人よりもだいぶ遅れていたので、なかなか追いつかないと思い、二日で8時間寝ることにし、あとの時間を勉強にあてた。昔の仲間は私が何か気が触れたのではないかと心配したほどだった。
フランス文学とフランス語を勉強した。当時の立教仏文科はクラスも20人ほど。家族的な雰囲気で学生と教師が一体となってなにか新しいものを作ろうという意気込みがあった。先生方も老荘青と揃っていた。だから自分も一生懸命に勉強した。楽しかった。研究室にも入り浸り学究的な空気を吸いつつフランス的に生活をした。つまり自由に学び、だれとでも仲良く平等に、そして博愛を貫くようにと。いってみれば我儘に生きようとしたのだ。すぐにしっぺ返しとも言うべき事態に遭遇し、そうした生活は泡と消えた。
学園紛争が始まった。不幸な出来事であったが、お陰で社会人となった。短期間であったが、あの自由な空気を吸ったことが後で役に立つことになるのだが。社会人になったが、大嫌いだった英語の仕事に就くことになったのは何故か。「君はフランス語ができるから英語もできるはずだ、共に横文字ではないか」と上司に言われた。おまけにアメリカにも派遣された。人生とはままならないものだ。その嫌いな英語を使いつつ都合25年ほどアメリカに居てしまった。でも、いつもフランス語を思い出しつつ英語を喋るという人生を送り、いまでは日本語も使う。自分がアメリカで生活できるとは思っていなかったが、立教で自由な空気を吸ったことが良かったのだろう。
今は美術関係の仕事に勤しんでいるが、それが大いに役に立った。「何を学ぶかというよりも如何に学ぶか」ということが大切だと思っている。
(1967年文学部仏文科卒)
-題字は本人直筆-


