(掲載日2007.07.13)
6月4日、阿部嘉昭先生の担当する現代社会講義1に参加した。この授業はサブカルチャーの中でも漫画に注目し、授業の中で先生が学生に対してスクリーンを使いながら漫画を見せる形式で授業を進めるという他ではあまり見られない方法を取り入れている。この日は、漫画における「女性の視点からの性」、「男性の視点からの性」の移り変わりを年代順に追った。また、講義では女性の視点からの性の例として志村貴子の『どうにかなる日々』を取り上げ、彼女が作中で使用している映画の技法を取り上げたり、1つ1つのコマに着目して、そのコマが何を物語っているのかを学生に考えさせたりしていた。
普段から身の回りにあるために、ついつい疑問を抱くことなく通り過ぎてしまいがちな漫画。そしてサブカルチャー。「学生たちは批判しなくなっている。」そう阿部先生は言う。この授業はそんな私たちの緩んだ考え方を治すきっかけを与えてくれる。そして漫画をはじめ、様々なカルチャーについて教えてくれる、私たちの生活と密着した情報提供型講義であると思う。早口になりながらも決して自分のペースを崩さず、たえず学生に話しかける先生。そんな講義に、一人一人が先生と近い距離で話しているかのような錯覚を覚える。立教大学で教鞭をとって8年目。大学時代より演劇を始め、その後様々な編集プロダクションを経て、現在は評論家として活躍中の阿部嘉昭先生。今回は、資本の力によって変化をとげる文化と大学生の関係についてお話を伺った。
「立教大学に言われたからだよね。もちろん。でも、君たち学生の周りにサブ・カルチャーがあふれているわけで、やっぱりそういったものに一番興味を持つのは大学生なんじゃないかな。旧来の文学部は、文学研究とか語学習得を目標に授業を展開してきたわけだけど、それでは今の時代には通用しなくなっている。だって、たった四年間で言語を完璧に習得することって、ほとんど不可能なわけでしょ。でも、だからといって文学部の人間が社会に必要ないかというと、そうではない。世の中は文学部的な感性がないと回らないから、文学部の人間は社会に必要なわけで。特に立教の文学部の場合、クリエイティブな子が集まっていると思うんだ。それと情報感度が高くて情報処理に長けている子が集まっていると思う。そういう子たちに必要なのは、身の回りにあるものをきちんと考えることが出来るようになること。つまり情報処理能力を高めるということだね。だから、彼らの身の回りにあるサブ・カルチャーを扱うんだ。あと、もう1つ理由をあげるとすると、それは文学の価値の低下にあると思う。学生の間でハイ・カルチャーとサブカルチャーの違いが無くなってしまっているんだよね。夏目漱石がおたくの読みものだと思われたりするのが、まさにそれ。だからそういった学生の変化に対応するために組まれたカリキュラムだからサブ・カルチャーを扱うんだ。」
「そうだよね。ただ今の社会の基盤はやっぱり経済で、だから経済学部とか法学部だと企業の課した課題や企業の体制に順応できるイメージがあるから就職も出来るんだよね。でも、文学部は違うわけ。言い方が悪いけど順応性がないというか適応能力がないと見られがち。実際に文学部の子は就職が厳しいじゃない。しかも今の時代、文学にだけ詳しいとかアニメだけとか、一つの分野だけ詳しいからといって採用してもらえるわけではないしね。」
「そうではないよ。知らなくても調べればいいのだから。これを私たちはレファレンス能力と言っています。だから文学部の生徒にはレファレンス能力だったり、情報処理能力だったりを教えることで他学部との差別化をはかっているんだよ。」
漫画を使っての授業風景
「例えばだけど昔は、街の出版社とかだと変人ばかりを採用してたんだよ。でも、今は違うでしょ。出版社の仕事をどれだけスマートにこなせるか。そういうサラリーマンタイプの人間が求められている。そして、そのバブル期の採用の仕方が今日まで続いていて、結局本当におもしろいものが無くなっている。おもしろくない人が作るものが、おもしろいわけがない。そのうえ資本の力が強いから、おもしろいものはあるのに市場に出てこないで消えていく。それでトップ10に入るような商品だけがどんどん売れる構造が出来てしまっていると言えるね。漫画も同じことが言えるんだよね。資本の力が強くなったために、分析する必要のない、というか分析しても仕方のない漫画が増えたと思う。もちろん僕の授業ではそういう漫画は取り扱わないけれど、それは我々の読解能力の低下にもつながるし漫画の質も下がることになるんだ。ほら、漫画って絵だけどアニメーションなんだよね。読み飛ばすことができるでしょ。読み飛ばしても人の想像力で自然と頭の中で映像化されているよね。これが日本の漫画が世界に評価される理由だったんだよ。でもそういった、素晴らしい漫画が世に出にくくなってきている。売れるものが楽しくなくなってきている。要するに僕たちは結局のところ資本の力に操られているんだよね。そして、この傾向が続くと文化は滅びてしまうと思うよ。しかも、分析する価値のあるものが世の中から消えていくわけだから、それに合わせて僕らの読解力も低下していく。どうしてサブカルチャーを扱うかの話につながるけど、だからこそ僕たちは情報感度を高めなくちゃいけない。市場に出回っている漫画はつまらないと気づく力を身につけなきゃいけなくなってきていると思うね。」
「もちろんだね。1990年まで日本はミニシアターブームが到来していて、学生はこぞってミニシアターに映画を観に行っていたよ。それも楽しいものだけじゃなくて読解困難なものも全部。昔の学生はおもしろい映画を観に行くんじゃなくて、面白い監督の作品を観に行っていたってこと。でも、今は違うよね。その結果、ブームが去るとミニシアターはどんどん潰れていってしまった。良いものが観られる所が潰れるってことは良い作品が観られなくなる。つまり良い作品を見せる所が無くなるから、良い作品をつくることが出来なってしまったんだね。漫画と同じでやはりここでも私たちは資本の力に操られてしまっている。これを専門家は帝国と言ったり、ネオ・リベラリズムやポピュリズムと言ったりしています。でもこれって考えてみると、すごく貧しいことだよね。例えばハンバーガーが好きだからと言って毎日食べていたら体に悪い。でも体に悪い以上に自分がハンバーガーしか買えない、自分が貧しい存在であることを忘れてしまう。そういう変化が私たちには起こっているんだ。」
「差異が大きくなっているんじゃないかな。一見みんなが同じものを好きになるという傾向から差異が小さくなっているように見えるけれど、実際には差異は大きくなっている。誰もが違うものがすき。まさに、蛸壺状態だね。自分の興味のあるものにしか興味がなくて他人の興味にまで興味を持たない子が増えていると思う。実際に友達と興味が同じであることって少ないんじゃないか。」
「例えばだけど昔は経済学部だとか文学部とか関係無しに色々な話ができたよ。サークルでお酒を飲んでいたりして誰かが1つの話題を提供すると、みんながそれについてあーだ、こーだと意見していた。そして、そういう知識はみんな先輩とか友達から教えてもらってくるんだよね。昔は人から教えてもらうことが本当にたくさんあったね。しかも、その当時の学生は議論的で好戦的、そして啓蒙的だった。今の学生を見ているとまったく違うよね。まず、今の学生は先輩から学ぶものが少ないと思う。言い方を変えれば先輩が後輩に知識を渡せなくなってきている。そして議論的に話せる子が極端に少ない。
授業にしてもそうだけど、7~8年前の学生はむこうから僕にぶら下がってきた。でも今はその数も減ってしまったね。僕は意地悪だから映画が好きな子には音楽の話を、音楽が好きな子には映画の話をするんだ。そうやって生徒に新しい興味や知識を与える。そういった昔でいう先輩の役目を僕はしていると思う。教師から盗めるものは盗んでほしい。本当にそう思うよ。」
「それはやっぱり個性とパワー、そして信念を持つことじゃない。立教の学生は、みんな優しいし素直だし、素晴らしい生徒がそろっていると思います。僕は他にもいくつかの大学で教えているのだけれど、他大学と比べた時に立教の学生は今挙げた三点で劣ると思う。“三年、三割退社”という言葉を最近よく耳にするよね。これは立教生にも言えることなんだ。どうしても立教の学生はさっき挙げた三点が弱いために、自分の将来設計を立てるのが遅くなる。そして学生は、その人生設計が曖昧な状態で就職活動に入って内定をもらった企業に就職するものだから、途中で自分の仕事に疑問がわいたり飽きてしまって退社するというパターンが最近はよく見られるね。僕の場合、高校生になってから異常なぐらい本を読んだり音楽を聴いたりしてきた。それが僕のスタートラインだったんだよね。思い出してみれば、高校生ぐらいの自分は企業に雇われる大人になりたくないという思いがあって、色々と回り道もしたけれど、結局僕は教師になった。企業には雇われずに好きなことが出来ているわけだ。これって高校生のときに思っていた夢を叶えたってことじゃないかな。こうやって早いうちから人生設計をたてて、それなりの準備をすることは自分の夢をかなえることに近づくと思うよ。だから僕がよく言うのは、三年生になったら自分が将来就きたいと思ってる仕事とかスキルアップになるバイトにつけっていうこと。要するに早く人生設計をたててスタートラインに立てってことだよ。一度人生設計を立てたら、強い意志を持って努力すべきなんだと思うよ。もっと、自分の人生に対して危機感を持つべきだよね。」