表紙 立教大学 公開講演会 「自分の意志で、動き出す。-頸髄損傷の僕の大学生活とキャリアデザイン-」 日時 2013年9月6日(土)17:00~18:30 会場 新座キャンパス 7号館3階 アカデミックホール 講師 中村 周平 氏(NPOゆに元職員、立命館大学・大学院修了) 主催 立教大学しょうがい学生支援室          共催 立教大学キャリアセンター 情報保障 学生スタッフによる手話通訳・パソコンテイク この講演会は、司会・受付・誘導・移動サポート・写真撮影など学生スタッフを中心に運営しました。 P1 ●写真 司会の学生2名が並んで立ち、右側の学生が手話で司会をしている。その背後にスクリーンがある。 司会/ 皆さん、こんにちは。本日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。本日の講演会の司会を担当させていただきます、立教大学のAと申します。同じく、司会を担当させていただきます、Bと申します。よろしくお願い致します。 ■講演会のサポート体制 司会/ 最初に、サポート体制について説明させていただきます。講演会に移らせていただく前に皆様にご理解いただきたい点がございます。この講演会では、車いすの方々、聴覚にしょうがいをお持ちの方々のために、移動サポート、手話通訳、パソコンテイクを準備しております。その他、受付、案内など、私達、立教大学の学生が準備をしております。  では、講演会に先立ちまして、新座キャンパス事務部長の阿久津さんからご挨拶をいただきたいと思います。よろしくお願い致します。 阿久津/ 皆さん、こんにちは。新座キャンパス事務部長の阿久津と申します。本日は、土曜の午後にも関わらず、このような多数の方にお集まりいただきましたことに感謝を申し上げます。開会にあたりまして、一言ご挨拶させていただきます。  立教大学のしょうがいを持つ学生への支援には、長い歴史があります。20年ほど前より、学内にしょうがい学生を支援するネットワークを組織して、各部署で連携して支援にあたってきました。そして、2年前の2011年に、本日主催致します、しょうがい学生支援室ができました。しょうがい学生支援室の設置によって、支援の体制がより充実するとともに、幾つもの新しいプログラムが展開できるようになりました。この講演会もその1つです。しょうがい学生支援室主催の講演会は、今回が4回目になります。 本日の講演会はキャリアセンターとの共催で「自分の意志で、動き出す。-頸髄損傷の僕の大学生活とキャリアデザイン‐」と題しまして、「NPOゆに」元職員の中村周平さんにお話しいただきます。  立教大学は、キャリアを仕事、職業を含めた、自立した個人としての自分らしい人生のあり方ととらえています。今回のご講演は、この自立した個人について私達にさまざまな気づきを与えてくれるだろうと期待しています。  最後になりますが、本日の講演会では、学生スタッフが手話通訳、パソコンテイクに加えまして、司会、誘導、移動サポートなどの運営全般を担っていることをご紹介させていただきます。この講演会が、学生スタッフを含め、ここに集う皆さんたちにとって実り深いものになりますことを祈念いたしまして、開会の挨拶に代えさせていただきます。<拍手> ●写真 開会の挨拶をしている阿久津氏と、その右奥に立って手話通訳をしている学生。 司会/ 阿久津さん、ありがとうございました。  続きまして、本日の講演会の講師を紹介させていただきます。本日の講演会の講師は中村周平さんです。中村さんは、高校時代、ラグビーの試合中に起こった事故で頸髄を損傷されました。その後、立命館大学を卒業され、立命館大学大学院に進学されました。また、社会福祉士の資格をお持ちでいらっしゃいます。しょうがい学生支援の進んだ関西でもまだ大学としての支援制度のない時に入学され、大学 P2  2回生の時にしょうがい学生支援室が設立されました。そのため、大学の制度がある時とない時両方の大学生活を経験されています。  大学院修了後は、しょうがい学生支援を行うNPOに勤務されました。現在はその経験を生かして、新たなNPOの設立を準備されています。私も含め、皆さんの中には「失敗したくないからやめておく」。そんな経験をお持ちの方もいるのではないでしょうか。今回は、できることよりもやりたいこと、周囲に働きかけて動いていくことをテーマとしてお話しいただきたいと思います。この講演会で自分のキャリアを切り開いていくためのヒントをいただけたらと思います。それでは、中村さん、よろしくお願い致します。 中村/ 皆さん、こんにちは。先ほど紹介していただきました、京都から来ました中村周平と申します。まずは、今日このような大変貴重な機会をいただき、立教大学のしょうがい学生支援室をはじめ、関係者の方々にはお礼申し上げます。ありがとうございます。  今日は、「自分の意志で、動き出す。―頸髄損傷の僕と大学生活とキャリアデザイン―」というテーマでお話をさせていただきます。まず、自分が話させていただくにあたり、今日はスライドを立教大学の○○くんが代わりにめくってくれます。よろしくお願いします。  今日は自分自身の大学生活の失敗談について、皆さんにお話を聞いていただこうと思います。失敗で終わらずに、自分自身がなぜ次のステップに進むことができたのか、いろいろな人に助けていただいたことがあるのですけれども、その部分をお話しできればと思っています。 ■自己紹介・しょうがいについて 中村/ まず、簡単に自分のプロフィールですが、非常に薄っぺらいプロフィールになっております(笑)。京都から27歳のA型の男が来たとご了解いただければと思います。  一緒に暮らしている家族は祖父と犬のムックンです。うちの2トップです。  自分自身はスポーツ観戦が大好きです。今日も阪神タイガースの膝掛けを使っていて、アウェイの関東で阪神をアピールできればと思っていたんですが…(笑)。野球も大好きなんですけれども、何よりラグビーが好きです。 ●写真 講演中の中村氏のアップ。そのすぐそばに講演のパワーポイントを操作するサポートを行う学生の姿がある。中村氏は電動車いすを利用し、ワイシャツにピンマイクを付けている。 中村/ 今から見ていただく動画は、自分が中学校3年生の時のラグビーの部の決勝の映像です。青のユニホーム、今からボールを投げ入れるのが13年前の僕です。ラインアウトというプレーでボールを投げ入れて。ああ、もうここから、僕はたぶん見られなくなってしまうので。悲しい話なんですけれども。中学校でラグビーというスポーツに出会いました。見たことのないボール、全く分からないルール。本当に最初は戸惑いばかりだったんですが、気づいたら、中学校3年間、ラグビー漬けになっていました。本当に中学校3年間、ほとんどラグビーの記憶しか残っていないです。  そんな充実した中学校生活も、実は高校でラグビーを続ける気はあまりありませんでした。というのも、僕はたいしたプレイヤーでもなく、体も大きくなく、高校で続けるか悩んだのですが、やはりラグビーがやめられなくて。高校でもやりたい。大学にも進学したいという思いも持っていたので、地元の私立高校が自分の目標を叶えてくれるのではないかという思いで進学しました。本当に勉強と部活の両立は大変だったんですけれども、ここでも本当にいいチームメイトに恵まれて、すばらしい高校生活を送ることができました。   P3  そんな中、事故が起きました。練習中、他のプレイヤーが自分の首の上に倒れてきて、ボキッと、本当にリアルに首の骨の折れる音が聞こえました。その時、自分自身が負ったしょうがいというのが、頸髄損傷というしょうがいです。  皆さんの背骨の中には、脊髄と呼ばれる太い神経の束が通っています。その働きは簡単に分けて3つあります。運動神経、知覚神経、自律神経。脊髄を痛めてしまうことで、この3つの働きにしょうがいが起きます。運動神経は、頭で考えた運動の神経を末端の神経に伝えるためのもので、そこの神経が傷ついてしまうと、それ以上命令が行かないんですね。手を動かそうと思っても動かなくなったり、動きが悪くなったりします。知覚神経、これは、例えば指先で感じた冷たさを脳へ伝えてくれるのですが、これを伝えてくれる脊髄の部分が傷ついてしまっているために、僕自身、冷たさ、熱さ、痛さというのは全く感じない体になっています。  最後、自律神経。簡単にいってしまうと、頭で考えなくても普段、体がやってくれている働きです。たぶん、皆さんは今日めちゃくちゃ暑くて、外から来られた時に汗をかかれたと思うんですね。それは、体が暑いという刺激を受けて、これ以上、熱が高くなったら危ないという体の命令で汗腺が開いて汗が出て、それの気化熱で体温を下げるという、本当にすばらしい体の働きです。僕の場合はこの自律神経を傷めてしまっているために、夏は全く汗をかかないですね。だから、どんどん、どんどん体温が上がっていってしまって、熱中症に近い症状が出てしまいます。冬はその逆ですね。体温を上げてくれる働きを全くしてくれていないので、冬はネックウォーマー、膝掛け、熱いお茶。もう本当に体を温めるものなら何でも持っていきます。  僕自身は、上から4番目、C4という骨が前に飛び出てしまったので、中の神経を傷つけてしまいました。頸髄損傷といっても、十人十色の頸髄損傷があります。損傷した骨の箇所だけではなくて、損傷のレベル、術後のケアも大きな違いが出てきます。今日させていただくお話は、頸髄損傷全般ではなく、中村周平というひとりの頸髄損傷者のお話と思っていただければ幸いです。  事故当初、やはりラグビーはあまり見られなかったです。こんな危険なスポーツがあっていいのかなと思う時もありました。ただ、10年たって思うことは、「ああ、自分はやっぱりラグビーが好きなんやな」ということです。今でも試合を観れば胸が熱くなりますし、後輩の応援には毎年行きたいと思っています。だからこそ、ラグビーというスポーツが誰にとっても安全で親しみやすいスポーツであることを心から願っています。 ■事故から高校への復学・復学後 ●写真 講演のパワーポイントとパソコンテイクの文字が写っているスクリーンの横に立って手話通訳を行う学生。 中村/ グラウンドからそのまま救急車で搬送されて、そのまま半年間、入院していました。本来であれば、専門的なリハビリが行える病院へ転院ということになるのですが、自分の場合は受け入れる先の病院がなくどうするか家族と話し合いました。そして、家に帰って在宅生活を送ろうということを家族と決めました。ただ、家族も全く介護に慣れず、自分自身もまだ自分の体が受け入れられていない状態で、家に帰った時は本当に大変でした。介護に慣れない家族に強く当たってしまったことを強く覚えています。  そんな時に自分の助けになってくださったのが、ヘルパーの皆さんでした。2003年に始まった支援費制度を使って、自宅での入浴や食事やベッドへの移動といった、本当に生活のあらゆる場面でサポートしてくれる方が家に来て、家族の生活を支えてくれました。ただ、最初は本当に入浴だけとか、移動だけとか、 P4  ピンポイントでしかお願いできていなかったんですね。というのも、やはり家族以外の赤の他人が家の中にいるということを、最初はなかなか受け入れられず、正直、すごく抵抗があったのを覚えています。「しょうがいを負ってしまって変わってしまった生活を、自分達でなんとか支えていけないか。」そういった思いを持って関わってくださったヘルパーの皆さんの思いが、抵抗を少しずつ和らげていってくれました。少しずつ支援に入っていただく時間が増えていく中で、24時間ずっと一緒だった両親が少しずつ自分から離れていけるようになっていきました。ヘルパーの皆さんは、今では一緒にご飯を食べに行ったり、たまに飲みに行ったり、本当に家族に近い存在として過ごしていただいています。  事故から1年半後、休学している高校へ戻るかどうかの話し合いを家族としました。当初、本当に悩みました。うちの高校はものすごい坂の上にあります。間違って落ちたら、本当にグッバイです。校舎もバリアフリーにはほど遠く、校舎の間にも段差があり、まず、下駄箱にも入ることが不可能だったと思います。何より、自分自身、しょうがいを負った状態で高校に復学することに、全然前向きになれませんでした。でも、頑張って2年間通った高校を、このまま卒業証書だけもらって卒業して、ほんまにええんかな。絶対に後悔すると思いました。それなら、やはり高校に戻ろうということで、高校側と話し合いを行いました。  課題は本当にたくさんありました。通学の問題、校舎のハード面の問題、授業の問題。ただ、その一つ一つをお願いしていったところ、本当に高校の先生方、学校が丁寧に対応してくださり、通学には介護タクシーを利用したり、エレベーターやスロープといった施設面のバリアフリーの検討もしてくださいました。また、一番難しかった授業も自分は少しパソコンが使えたので、一問一答の問題形式になっている授業に振り替えていただくなど、自分がなんとか高校に通える方法をとってくださいました。そして、週にたった2時間だけですが高校に復学することができました。 ■大学進学を考える ●写真 スクリーンを挟んで、左側の舞台上に、講演中の中村氏とパワーポイントの操作のサポートの学生、右側の舞台上に、立って手話通訳をしている学生。 中村/ 復学したのが高校3年生。当然、進路の話からは逃げられませんでした。復学も悩んでいたので、進路については全く考えていなかったというか、思いもよらなかったというか、本当に復学してから初めて気づいたような感じでしたね。先生から、「おまえ、この先どうすんねん」という話をされても、自分の体のことだったり、やっと安定してきた生活リズムの中で、またそのリズムを変えることで増えるだろうヘルパーさんへの負担だったり、いろいろなことが不安として出てきました。そして何より、自分自身「大学へ通う」というイメージができなかったんですね。車いすでどうやって大学に通うねん。その不安を払拭することができませんでした。  進学、進路について自問自答を繰り返す中で「ああ、俺、そういえば中学校の時大学で福祉の勉強をしたいと思っていたな。」それを思い出したんですね。けがをする前まで持っていた目標を、車いすになってしまった、しょうがいを負ってしまったからという理由であきらめてしまうのは、もったいないんちゃうんかなと。すごく悩んだ部分ではあったんですが、家族やヘルパーさん達はその思いを少しずつ話していったところ、本当に背中をポンと押してくれました。  進学をするにあたり先生方と話し合う中で、いろいろな課題が浮き彫りになってきました。それは、まず自宅から、最短で4年間、最長で8年間、通うための距離的な問題。そして、学内にヘルパーの方が P5  入っていただけないということで、入学後の支援はどうするかの問題。そして3つ目は、自分の学びたい福祉の分野があるかということでした。 ●写真 会場後方から見た会場の前方。座席はほぼ埋まっている。 中村/ 実は、僕はけがをする前から福祉という分野に興味を持っていました。僕が中2の時、祖母が癌で亡くなりました。祖母は石川で育ち、大阪で半世紀を過ごし、最後は京都の知らない病院で亡くなりました。中学生ながらに「ばあちゃんかわいそうやな。どうせやったら、自分の死にたいところで死ねたらええんちゃうかな。」そういう思いを持っていました。当時、介護保険というのが始まろうとしていました。「もしかして、福祉という分野で自分のやりたいことが何か実現できるんちゃうんかな。それを大学で学びたいな。」本当に子ども心だったんですが、そんなことをいっていたのを覚えています。  事故に遭ってから、それまで支える立場で何か福祉に関わろうと思っていたところから、支えられる立場でこれから考えていかなければならない。立場は違うかもしれんけど、でも、福祉を学ぶことは絶対に自分の将来に役に立つから、進学する時に福祉という分野を考えました。  実は全国障害学生支援センターというところが、1990年代半ばから大学にアンケートを実施した資料を公表されているのですが、自分達も高校の先生方もなかなかその情報に行き当たることができなくて、当時、本当に先生方と一緒にたくさんの大学を回りました。  そんな中、立命館大学が、自分の希望する条件に最も合うのではということになりました。でも、学内の支援は、自分が入る数年前に車いすの方が入られたことをきっかけに作られた学生の自主的なボランティア団体である支援以外は存在していないことがわかりました。「大学としての支援制度がない中でほんまに大学生活を送れるんかな。」またその中で悩むようになりました。  最終的に立命館大学に行こうと思ったきっかけは2つありました。1つは、入試課の職員の方の激励でした。大学にうかがった時「うちの大学は決してしょうがい学生支援で先進的な大学とはいえません。だからこそ、これから発展していく伸びしろがあると思っています。だから、ぜひうちに入って大学を変えていってください。」ということをおっしゃってくださいました。思ってもみない言葉だったので、すごく心に響いたのを覚えています。何より、やはり実際にしょうがいのある学生さんが通っている。そして、それを実際にサポートしている学生さんの存在がある。それが自分にとってすごく自信につながりました。 ●写真 パソコンテイクをしている6名の学生。3人づつ2列に分かれて座っている。 ■受験 中村/ 1年間休学していたので、ほとんど勉強はしていませんでした。本当にお恥ずかしい話ですが、受験するにはかなり厳しいものがあったと思っています。「ダメもとで、もしあかんかったら来年受けたらええんちゃうかな。」そういう気持ちで受験しようと思いました。できれば事故前に自分自身が積み上げてきた頑張りを見てほしいなと思って、AO入試、自己推薦を P6  希望しました。小論文による一次試験の後、二次試験は面接でした。人見知りが激しく、面接は自分の中で一番の課題だったのですが、高校の先生方が面接に学校長や事務長を呼んできたりと、ああだ、こうだと指摘をしてくださって「なんやねん、そんなこと言わんでええやんけ」と心の中で思っていました。でも、実際にそこで質問してくださったことが、本番の試験で出てきて「先生ありがとう」と思いました。本当に多くの方に協力していただき、幸運にも立命館大学に合格することができました。 ■「入学すること」と「通うこと」の違い 中村/ 大学に入ってみて、まず一番感じた率直な思いというのは、入る時もほんまに大変だったんですけれども、「継続して通う」ということがさらに大変だなということでした。車いす対応の机は、大学の中で1つの建物の中の2つの教室にしかありませんでした。通路で授業を受けたことを今でも覚えています。突然、教室変更があって、その日、大学に行ったら2階の教室を指示されたんですけれども、その建物にエレベーターがついていなくて、学部事務室中、大騒ぎになっていました。その時、何よりやはり大学にしょうがい学生が通う基盤ができていないことを痛感しました。先ほど少し触れましたが、学内にヘルパーの方が入ることは制度的に禁止されています。長期通年にわたる通学、通勤に対しては、現在も今のところ使用することができない状態になっています。  そんな中、僕の生活を支えてくださったのが、先ほどもいった学生の自主的なボランティア団体、“さぽーと.net”と、基礎演習という1回生の小集団ゼミの友人でした。本当に献身的にすべての講義に入ってくださったのを覚えています。 ■トイレの問題と向き合う 中村/ 1つだけどうしてもお願いできないことがありました。それは、いわゆるトイレの問題です。僕は頸髄損傷よって、排泄にもしょうがいがあります。大学に行くまでは、家で家族にいわゆるカテーテルを尿道から入れてもらって、それで排尿行為を行っていました。このカテーテルを入れる行為は医療行為に当たるので家族以外がする場合は、ドクターや看護士といった医療関係者の方に限られています。「大学ではどうしよう?」頭の中に自分のまわりにオカンがうろうろしているのがイメージできました。「これは絶対に嫌やな。」二十歳の男として、オカンが大学でうろうろうするなんて考えたくない。入学前の話し合いで、学校内に保健センターという診療所があることを知り、そこのドクターや看護士の方に直接、お願いにうかがいました。だめかなという思いもちょっとあったのですが、意外にも「ああ、ええよ。ここでやったらええやん」といってくださったのがすごくうれしかったです。  4限以降、保健センターが開いていなかったというデメリットもあったのですが、それは週の講義数を減らしたり、5限目の授業を極力履修しないということでなんとかカバーすることができました。  2回生に上がった時に、また問題が発生したんですね。その1つ目が、自分が行く曜日と、あれだけ優しかったドクターの出勤日が合わなくなってしまったこと。2つ目が、やはり2回生以降、卒業するためには5限以降の講義も履修しなければならないということでした。解決策の1つとして、また家族が大学に戻るということも考えたのですが、他の手立てはないか。いろいろな方法を探しました。ヘルパーの方、同じしょうがいを持たれている先輩の方、いろいろな方に相談に行きました。 ●写真 立って手話通訳を行う学生のアップ。 中村/ そんな中、留置カテーテルという方法を使われている P7  方がいて、その方法なら自分でも使えるのではないかということになりました。留置カテーテルというのは、膀胱の中に管を入れた後、その中で小さな風船を膨らませます。バルーンカテーテルというのですが、カテーテルを入れっぱなしの状態にすることができるので、メリットとしては、看護師やドクターの方がいなくても、貯めたパックから尿をとってもらうことで誰にでもお願いできるということ。デメリットは、カテーテルを入れっぱなしにするので、尿路感染、細菌感染によって熱が出てしまったりということ。リスクもあるしいろいろ考えたのですがやはり「自分は家族に大学に戻ってほしくない、これからも大学にも通い続けたい。」決してベストではなかったですけれども、自分にとってその時に一番ベターな選択肢を選ぶことになりました。  トイレについては、それまでは本当に家族かドクターの人にしかしてもらえないという思いを持っていました。やはりトイレのことですし、「友だちに頼むのはダメなんかな」と思っていました。ある日、留置カテーテルに変えてから、どうしても保健センターに時間的に行くことができなくて、サポートに入ってくれていた学生さんに「ごめん、どうしてもちょっと保健センター行けへんし、トイレ手伝ってもらっていい?」といってみたんですね。最初断られるかなと思っていたんですけど、「ああ、ええよ」と、本当にパッパッパッと僕のトイレをとってくれて、その帰り際に、たぶん向こうも僕に気を遣ってくれたと思うんですけれども「こんなんでよかったら、いつでもいってや」と。すごくさりげなくいってくれて、自分で勝手にいろいろなことを決めつけていたなと思ったんです。確かにトイレのことは難しいことですし、誰にでもお願いできることではないと思います。ただ、最初から「これは友だちだし無理かな」とか、「これはちょっとやりたくないし、無理かな」という決めつけごとは、あまりよくないのではないかなと。もしかしたら、自分が思っている以上に、まわりの人は自分のことを見てくれているのではないかな。そう思うようになりました。 ■学生有志のサポートの限界と支援室設立 中村/ いろいろな課題と一つ一つ向き合っていきながら、大学生活1年が過ぎようとした時、授業のサポートで問題が発生しました。僕は知らなかったのですが、実は僕の講義にサポートに入っている学生さんが自分の講義を休んで入っていたということが分かったんですね。しかも、週に1回とか2回ではなくて、本当に聞いた時にすごくびっくりするぐらいの量でした。僕は大学に通いたくて、サポートに来てもらって、なんとか大学に通えて。でも、そのために自分でない人が大学生活を送れていない。講義をとれていない。俺は何のために大学に来ているのかなと、すごく悩みました。  このままではいけない。学生の有志だけに頼っていては、やはりしょうがいのある学生が大学に通うことは難しい。他の学生さんにも迷惑がかかってしまう。しょうがいがあっても、他の学生さんと同じように大学に通いたい。この思いに共感してくれた多くの人たちと一緒に、専門の部署を作ってくれるよう大学に声を上げていきました。当時、立命館にしょうがい学生がたくさん増えてきていて、この声にすごく共感して、一緒に多くの人達が戦ってくれたこと。学生だけではなくて、職員や教員の方にも自分達の思いに共感してくれる方々がいました。本当にすごくいいタイミングで大学に声を上げられたと思っています。  僕が入学した2005年から1年半後、立命館大学に障害学生支援室という部署が設置されました。  支援室ができてから、1コマの授業でポイントテイクといわれている代筆と、身体介助の学生2名を派遣していただいていました。その他に、パソコンで見るためにテキストや文献をPDF化するという授業支援も受けていました。回生が上がるごとに、読まなければならない文献、テキストなどが増え、それまで本のページは学生さんやヘルパーさんにめくってもらっていました。でも、やはり自分のタイミングでめくりたいという思いもありましたし、連続でいうのも申しわけないな、とすごくしんどさを感じ始めて P8  いるところでした。このPDF化は、パソコンを自分で操作して本当に自分の読みたい時に読みたいものを読めるということで、大学卒業後もすごくかけがえのないアイテムとして現在も使っています。 ■大学での学び ‐人との関わりの中で‐ 中村/ 大学では本当にいろいろな人との関わりの中でたくさんのことを学ばせていただきました。まず、大変驚いたのは、大学の教員の方でした。本当に研究者っぽい先生の講義は、聞いていて、もう気づいたら昇天してしまっていることもすごく多かったんですけれども…(笑)。  自治会にも参加させていただきました。本当にできることはすごく少なくて、自分がいていいのかなと思う時もあったんですけれども、自治会のエンター団というところのメンバーが、僕が一緒に参加できるようにいろいろ考えてくれて、大学生活の中で「俺は学生をやっているな」と思ったのはこの時が一番大きかったなと思っています。  そしてやはり、大学生活で一番関わりが多かったのは、サポートに関わってくれた学生さんとの出会いでした。僕が大切にしていたのは、「支援する・支援される」の関係で絶対に終わりたくないということでした。高校時代、復学した時にまわりの人たちは自分をすごく気にかけてくれて、声をかけようとしてくれていました。でも、自分は、声をかけてもらっても「どう話したらいいんやろ。1回生下やし、どうすればいいんやろう。」そんな感じで壁を作ってしまって、結局、復学してから1年間、ラグビー部のマネジャーを除いて一言もしゃべることができずに、自分の中ですごく悔いが残りました。だから、大学では絶対にそんなことはしたくないなと思いました。自分から壁を作ってしまうと、たぶん間違った先入観を相手に与えてしまうと思います。その先入観は、いつの間にか偏見というものに形を変えて「これって聞いていいのかな」とか、「これって聞かない方がいいんや」「デリケートなことやし、自分は関わらないほうがいいんのかも」という、コミュニケーションがとりづらい状況が生まれてしまうと思うんですね。僕は相手のことを少しでも知りたいと思いますし、できれば自分のことを少しでも知ってほしい。そうすることで、そういったコミュニケーションのとりにくい関係というのは、少しずつなくしていけるのではないかなと思うようになりました。それに加えて、個人的には、今日サポート入ってくれた子、めっちゃかわいい子やし、これから大学で挨拶できたらいいなと…(笑)。ごめんなさい、ちょっと下心が大きかったですね。でも、本当に、こいつめっちゃ気合うし、これから一緒に飲みに行ける関係になれたらいいかな。そんなことを大切にしていました。お互いに知ることで、信頼関係を築いていくことの大切さをここで学ばせてもらいました。 ■大学での転機 -社会福祉士施設実習- 中村/ 大学生活で一番大きな学びにつながったのは社会福祉士資格取得のための実習でした。大学に入って「自分が学んできたものを何か形にしたいな」と思っていました。1回生のころから、ガイダンスなどで社会福祉士という資格の存在を知って、大学生活の1つの目標にしようと思いました。実習先は福祉事務所などに実習に行ける相談分野というのを希望しました。実習担当の先生が1回生から知り合いだったことや、自分の生活の中で福祉事務所というのはすごく密接に関わっていたので希望しました。でも、その実習ゼミで友達がどんどん実習先が決まっていく中、自分は全然実習先が決まりませんでした。やっぱりしょうがいがあると実習に行くのは難しいのかなと自分自身でも思っていたんですけれども…。後日、その実習担当の先生が、当時の僕の現状を少しでも変えたいという思いを持って奮闘されていたというのを、知ることになりました。  当時の中村周平という人間は、今のように電動車いすを使ったり、自分でパソコンを操作してパワーポイントを作ったり、そんなことは実は全くしていない超ダメ人間でした。けがをした当初は、自分が今までしていたこと…ご飯を食べたり、服を着替えたり、誰かに助けてもらうことにすごく違和感がありました。ヘルパーさんに来ていただき生活を支援して P9  いただく中で、いつの間にかそういう自分が当たり前になっていました。車いすを押してもらうのも、ノートをとってもらうのも当たり前だ、みたいな。いつの間にか自分の中で気持ちがそんなふうに切り替わってしまっていたんですね。 ●写真 後方から見た会場の全景。電動車いす利用の参加者も複数いる。 中村/ 電動車いすも何度か練習はしていたんですが、突然道路に飛び出してしまったり、隣にいた人をタイヤで巻き込んでしまいそうになったり。こんな怖い思いするぐらいだったら、俺は押してもらったほうがいいんちゃうかな。そんな安易な理由から、電動車いすのトレーニングも放棄していました。今思うとほんまにおかしな話なんですけれども、当時は、これでいいんやと思っていました。  最終的に決まった実習先は、更生相談所と今回お話しさせていただく障害者スポーツセンターというところでした。実習先の僕の担当の方は、僕と同じ車いすユーザーの方だったんですね。オリエンテーションが始まった時、衝撃的でした。「自分のできることをまず探してこな、あかんで。そうじゃないと実習始めへんから」と。何か固いもので後頭部をどつかれたような衝撃が走ったのを覚えています。これまで自分が「これでいいんや」と思っていたものをすべて否定されてしまったような感じで、すごくショックだったのを覚えています。  実はバランサーという腕に付ける補装具をもっていたんですが使っていませんでした。埃をかぶっているこいつを家から引きずり出して、本当によろよろ運転で自分で車いすを操作して大学に行ったり、トレーニングを続けてはいたんですが、結局、自分のできることを見つけられないまま実習がスタートしてしまいました。  実習がスタートしてすごく大きかったのは、その実習先の車いすユーザーの方と時間を共有できたことでした。その方は、本当にしょうがいのない職員の方と同じように出勤されて、同じように机を並べて、本当に同じように働かれていました。自分のできること、自分に与えられた仕事は必ずやり遂げる。自分でできないこと、例えば、重たい車いすのバッテリーを交換したり、どうしても持てない荷物だけは人に頼む。それ以外は絶対に自分でやりきるというスタンスを徹底されていたんですね。それを見て、できることを精いっぱいやってみて、あかんかった時に初めて人に何かお願いすることの大切さを痛感しました。  実習を行う上では、その方だけではなくて、同じ実習ゼミの先生や同期のみんなからも大きな学びをいただきました。当初、障害学生支援室からサポーターを派遣するという案も出ていたのですが、実習ゼミの先生からストップがかかりました。後で聞いた話ですが「このまま実習に入ってもうたら、こいつはこのまま、何も変わらへんまま卒業して、ほんまあかんようになってしまう」というのをすごく思われていたそうです。  先生から「実習ゼミのみんなに実習のサポートをお願いしてみたらどうや」という提案がありいわれるがまま、同じゼミの仲間にお願いをしたんですけれども、自分の心の中では「支援室から来てもらったほうが、安定したサポートをしてもらえるし、なぜこんなこといわれたんやろう。」頭の中にいろいろなクエスチョンが浮かんでいました。  本当に今考えると、当時の自分はほんまアホやったなと思います。たぶん、「おまえちゃんとせえや」ってどこかでどつかれていても、おかしくなかったんちゃうかなと思うんですけど、実習ゼミの先生も、友人も、どつくことなく、本当に僕を温かい目で見守ってくれていました。僕のお願いを快く聞いてくれて、ゼミの仲間が自分達も実習で忙しかったにも関わらず、その合間を縫って24日間の実習すべて、 P10  ボランティアでサポートに入ってくれました。  その実習のサポートも1つの鉄則がありました。それは、床ずれ予防の除圧と、食事の時のサポート以外、中村から言われるまで絶対にサポートしてはいけないこと。見ていて、絶対にできると思ったこともサポートしてはいけないということが決まりでした。僕の実習では、落ちている卓球ボールを車いすで拾ったり、テニスボールを拾ったり、散らかっている車いすを車いすで片づける。今考えたら、よく分からない内容でもあったんですけれども、たぶんその時、実習先の担当の方、実習ゼミの先生が僕に伝えたかったことは、「まず何ができるかを自分で考えることが大切。その中からやはり自分のできないことをお願いすることの大切さ」だったんだと思います。僕はゼミのみんなのおかげで、実習でそれを実践することができました。 ■実習後の考え方の変化 中村/ 実習後、ほっとしたというより、これまでの自分を本当に恥じました。それまで持っていた「全部誰かにやってもらえばいいんだ」という何の裏づけもない自信は、ぼろぼろに跡形もなく消え去っていきました。  でも、そのおかげで本当に目が覚めました。日常生活でも、大学生活でも、自分のできることはまずやってみよう。そう思えるようになりました。レポートも、発表のレジュメも、補助具を使って絶対に自分でパソコンで打てるところまでは必ず打つようにしました。すみません、これは動画がちょっと映らないのですけれども…僕がスマートフォンを使っているところの動画です。  これは、左手でカレーを食べているところの動画です。それまですべて介助で食事をしてもらっていました。ちょっと左手が動いたのですけれども、最初は全く使っていなくて、ただ、まずやってみようと思って、左手にフォークを固定してもらって、僕の手を持って介助してもらうことから始めました。カレーがその辺に飛び散るとか、大変なことはいっぱいあったんですけれども、続けていくうちに何とかフォークを口に運ぶことができるようになりました。電動車いすも、本当に最初は立命館大学の壁を削りまくって、今でもたぶん自分がどこを通ったかわかるぐらい、傷がまだいっぱい残っていると思うんですけど(笑)。徐々にうまくなっていって、最終的には、友だちと飲んで酔っ払ってもそのまま家に帰れるぐらいまでは何とか運転できるようになっていました。日常生活の中で、自分から何か考えて動き出すということをこの実習で教えていただきました。 ■進路 ‐就活と修士論文執筆‐ 中村/ 卒業後の進路と、現在についてお話しさせていただければと思います。  そんな学びの深い実習が3回生にあった中、就活という大きなイベントが動き出していたんですね。当時は、単位を取るのもカツカツ。これは、講義と一緒に就活なんか絶対できひんと思っていました。内心は、へとへとで気が狂いそうな友だちをまわりで見ていて「俺にはこれは絶対できひんな」と。今思えば就活からも将来からも逃げる口実を作っていたのではないかと思います。もうちょっと学生として考えたいな。そんなあやふやな気持ちで大学院に進学しました。進学すれば、もう1年考えられるのではないかな。でも、そのゆっくり考えられるはずの時間はあっという間に過ぎていて、気がついたら思い切り流されていました。大学の講義と修論の作成だけでなく、自分には通院やトレーニングもありました。その中で、友達が「エントリーシートってどうやって書いたらいいんかな」とか「SPIめっちゃ頑張ってんねん」とか、そんなことがどこか遠くに聞こえてきました。「このままだと自分だけ取り残されてまうわ、絶対いややな。」どこから手つけていいか分からへんけど、とりあえず始めようと就活をスタートしました。  結局のところ、どこへ行っても、何をいってもうまくいかなかったというのが感想です。まず誰かに相談に乗ってもらおうと思い、しょうがいのある学生の相談に専門的に乗ってくれるところに行きました。 P11  そこで「きみ、できること限られているのに、ここに何を期待して来たん?ちゃんと自分のこと考えなあかんで」。本当に門前払いに近い状態でした。その後、大学のキャリアセンターに相談しに行ったんですが、この門前払いを食らった機関のチラシをいただいて終わってしまうということになりました。 ●写真 横からみたパソコンテイクをする学生3名の手元。その奥に立って手話通訳をしている学生の姿がある。 中村/ 当時は、なぜそんなことを言われなければならないのか、というのが、自分の中で理解ができていない状態でした。「ああ、俺って、できることってほんまに少ないんかな。世の中でほんまに役に立てること、ないんじゃないかな」と。就活に失敗していると、本当にどんどんそんなふうに思えてきました。就活を始めて半年ぐらいが経過して、できることがなくなって就活をいったんストップすることになりました。今思うと、自分の就活は始まっていなかった。本当に始まりすらなかったように思っています。  その反面、修士論文に集中することができました。修士論文では、スポーツ理論をテーマに扱っていて自分の過去と向き合う機会がすごくあったんですね。「そういえば、俺はラグビーはこんな理由で始めたんやな」とか、「俺、大学で福祉を学びたかったな」とか。なぜ大学に来たのか、なぜ福祉を勉強したかったのかが、まさか修論から思い出されるとは思いもしませんでした。  その時思ったのは、就活するスタートの入り方が間違っていたなという思いでした。僕は、自分のできることから就活をスタートしていたんですが、それだと本当に入り口が狭まってしまって、最終的に自分のできることがなかった場合に、本当に苦しむことになります。僕は福祉を勉強したいと思って大学に入って、それを将来の仕事にもつなげていきたいという思いを持っていたはずなのに、それが就活で流されて、そういう気持ちを忘れてしまっていたように思います。「やりたいことは何か」を考えることを、放棄していたなと思うようになりました。どうせなら、自分の強み。これまでに経験したことを生かせる強みを何か仕事に結びつけられないかなと考えていくようになりました。  「自分の強みは何なのか。」そう考えた時に、高校に復学する時も、大学に入る時も、めっちゃ大変やったな。大学も、行けるか分からへんかったけど、いっぱいいろんな人に助けてもらって、ほんまに大学生活送ることができたな。ヘルパーさんとも、ほんまにいっぱいけんかしたし、いっぱい衝突したし、でも、それでいっぱいいろんなことに気づかせてもたえたな。いろいろな経験や失敗から学んだことを、やっぱりそれが一番自分の強みだと思いました。そして、それを自分の仕事に生かせないかな。  同時期に、自分の先輩と後輩がしょうがい学生支援を理念に掲げたNPO法人を立ち上げると耳にしました。ここやったら、自分のやりたいことが生かせるんちゃうかな。頑張れるんちゃうかな。入らせてもらえるかも何のあてもなかったんですけれども、相談しに行ったところ、快く受け入れてもらうことができました。いろいろ迷いながらの部分に出口が見えてきた瞬間でした。 ■仕事で大切にしていること 中村/ 今僕が、自分の中で大切にしていることが3つあります。1つ目は、これまでの自分の思い、反省を生かすということです。自分の強みは、たくさん失敗したこと。そして、それを失敗で終わらせずに次に進めたことでした。たくさん衝突もしました。その衝突からたくさんのこと、価値観の違う人からいろいろなことを学ばせてもらうことができました。正直、ヘルパーさんとの別れも多かったんですが、別れ際に、大切なものを伝えてくれていました。よく、 P12  「3K」とか「7K」という言葉を福祉業界では使いますが、本当にそれを理由にやめていってしまったヘルパーさんがいました。その方からは、しょうがい当事者から見えない支援者の人たちの大変さを知ることができました。すごくお世話になったにも関わらず、つまらないことでけんか別れになったヘルパーの方からは、しょうがいを超えてお互いの意見をぶつけ合うことの大切さを教えてもらいました。立命館で、大学に制度としての支援を求めた出来事もすごく大きかったです。これを絶対に自分の何かに生かしていきたいと思いました。 ●写真 講演中の中村氏のアップ。 中村/ 2つ目は、そこから学んだ、利用者と介助者の双方の立場で考えていくことを大切にしたいと思っていました。しょうがい者福祉という言葉を聞くと、まず「しょうがい当事者」が頭に浮かぶと思います。支援というものを考えた時に、そこに存在するのは当事者だけということは絶対にあり得ないと思っています。身体介助やノートテイクなど、障害当事者の反対側には必ず支援者の方がいます。その方たちの存在があって初めて、支援というものが成り立つのではないでしょうか。  だからこそ、この人達が続けていける環境を作っていきたいと思いました。例えば、今日来てくださっているヘルパーの方は、実は最近、子どもが生まれて、幸せの真っただ中なのですけれども、彼がこれから、この3K、7Kといわれるヘルパーの仕事を本当に続けていってもらえるか、すごく不安があります。そういった労働環境を、当事者の目線でも考えていくこと。そういう人たちが気持ちよく働ける場というのを、当事者も作っていけるのではないかなと。それを考えていくことが、当事者と介助者の信頼関係につながるのではないかと思っています。  そして、3つ目は、未来をともに描いていくということです。「支援」を考えた時に、どうしても今の目の前の抱えている課題に向き合ってしまうことはよくあると思います。確かに、日々の支援を充実させていくというのは不可欠なものです。でも、人は社会的にも、精神的にも成長していきます。「俺は3年後、どこに行っているかな。5年後、俺はどんなふうになっていたいかな。10年後、俺はこんなふうになっていたい。」今を考えるのももちろん大切なことですが、将来のことを考えながら支援していくことも大切なことではないでしょうか。  僕がこういう思いに至ったのには、自分に関わってくれた方々の存在が大きかったです。日常生活でも、大学生活でも、「僕がこれからどうなっていきたいか」という視点を持って皆さんサポートしてくれていました。現在、自分自身は一人暮らし…実をいうと祖父との二人暮らしです。これを実現できたことは、「一人暮らしを考えたい」という思いを持って誰かに相談した時に、皆さんがそういった視点を持ってくださったからこそ、次の行動というステップに移った時に、一人暮らしのアドバイスであったり、1週間連続で泊まりのサポートに入っていただいたり、両親がいなくても、これから生きていけるすべを僕と一緒に考えていってくれたんだと感じています。  では、なぜ職場をやめたんだという話になるんですが、あまり前の職場の悪口をいうのはよくないと思うのですごく難しいんですけれども…。そこでは自分のこれからをともに描いていくことができないなと思い、昨年末にそこを退職することになりました。 ■これからの自分 中村/ 辞めてしまったら、本当にニートになってしまうので、これからいろいろなことを考えていきたいと準備を進めています。1つは、「自分自身のビジョンを P13  実現できる場を作る」ということです。当事者と介助者の間には、やはり「支援する・される」という関係がどうしてもあると思いますし、決してそれが間違っているわけではないと思います。でも、それが際立ち過ぎると、かつての自分のように支援者の上に乗っかっただけのモンスターしょうがい者みたいなものも生まれてしまいますし、その逆もまたしかりです。それを防ぐためには、やはりお互いの信頼関係というのを常に考えていく必要があると思っています。この人だから命を預けられる。この職場だったら安心して働ける。お互いが信頼できる場というのを考えていきたいと思っています。  そしてもう1つは、これから自分が支援する立場に立った時に真のニーズに応えていきたいと思っています。これまでの自分は、自分の経験だけに基づいて相手のニーズを考えていました。でも、これからはそれだけでは見えてこないことがたくさんあると思っています。さまざまな人とつながって、新しい情報や知識を身につけたいと思っています。そこから見えてくる新しい、本当に意味のある真のニーズに応えていける、そんなチームをこれから作っていきたいなと思っています。仕事をやめて本当にまだ半年ほどなのですけれども、今そういう思いを持っています。 ■僕にとっての「キャリアデザイン」 中村/ 自分は今、完全にニートですし、大学で何かキャリアを描いたなんて、本当にすごくおこがましいことではあるのですけれども、今回は「キャリアデザイン」というテーマなので最後にそれを述べさせてこうと思います。  大学という場では、留学もできますし、オフィスのスキルアップもできます。また、教職課程など、実習が必要な資格取得については、本当に適した場所だなと思います。「資格はどれだけ持っていても荷物にならへんで」というのは、僕の先輩からの言葉でした。履歴書に書けるスキルや資格というのは、キャリアデザインを考える上で大切なことだと思っています。ただ、僕自身はそれだけがキャリアデザインではないのなという思いも持っています。  今、しょうがい者の制度や環境というのは少しずつ変わりつつあると思っています。しょうがい者の権利条約や障害者差別解消法。この中には「合理的配慮」という文言が含まれています。これまで、大学に行きたくても、どんなに勉強しても大学に入れなかった、人らしい生き方さえできなかった。本当にそういった先輩方の生活は、想像できないぐらい厳しいものがあったのではないかと思っています。そういった合理的配慮という文言が含まれたのは、たぶんその先輩方の執念によるものではないかなと僕は思います。  法制度が進んでいく中で、日常生活の中で、大学生活の中で、就活で、いろいろな場面でいろいろな変化が起きてくるのではないかなと思います。ただ、そこで大切なのは、その制度によって生まれてくる変化を自分がどう生かしていくか。その時自分が周囲とどういった関係を作っていくか。こういうことも大事ではないかと思っています。それは、決してしょうがい当事者一人だけでは作っていけないと思いますし、もし無理に作っていこうと思えば、本当に大学に入った当初の自分のようなモンスターみたいなものがこれからどんどん生まれていってしまうと思います。やはり当事者と支援者の相互の関係、相互理解。そして、やはりお互いを信頼し合うという関係が大切ではないでしょうか。自分とは違う立場の人達。それは、しょうがいのある、ないもそうですし、価値観の問題もそうです。そういった人達と、今ぶつかっている壁、今ぶつかっている問題を一緒に考えていく。そして、一緒に乗り越えていく。そういったことを学んでいくことも、大学におけるキャリアデザインではないかと自分は思っています。僕は大学生活の中で、そういったものをたくさんの方に学ばせていただきました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。  かなり時間をオーバーしてしまいました。本当につたない話を最後までお聞きいただき、ありがとうございます。  最後に、今日この講演をさせていただくにあたりまして、 P14  本当に立教大学のしょうがい学生支援室のメンバーの皆さんが、終日、自分たちの休みをなくして企画運営にあたってくださいました。今日のパソコンテイク、手話通訳、会場設営、本当にいろいろなところでいろいろな方達の支えがなければ、この講演会はたぶんできなかったと、ここでしゃべらせているやつが偉そうにいうのも失礼な話なのですけれども、思っています。僕は言葉だけでしかお礼は言えないのですけれども、会場の皆さんのお力を借りまして、皆さんに最後、拍手で感謝の気持ちを送らせていただければと思っています。会場の皆さんご協力いただければ幸いです。今日は皆さん、本当にありがとうございました。<拍手>  ご静聴ありがとうございました。<拍手> ■質疑応答 司会/ 中村さん、ありがとうございました。私も聴覚しょうがいがあって、いろいろな人たちの支えをもらっていますが、本当に支援をしてくれている人達との関係を大切にしていきたいと思っています。本当にありがたいと思っています。  では、次に質疑応答に入りたいと思います。発言される際には、所属、学生の方は大学名、学部、学年、名前をよろしくお願いします。また、スムーズな情報保障のために、ゆっくりはっきりと発言をお願い致します。また、聴覚しょうがいをお持ちの方が理解しやすいように、ステージの方まで来ていただけると幸いです。車いすの方は、席までマイクをお持ちします。では、質疑応答に入りたいと思います。ご質問のある方はいらっしゃいますか。 一般参加者A(車いすユーザー)/ 今日のいろいろなお話、本当に私と同じしょうがいなので、昔のことを思い出すような感じでした。これはちょっと聞き逃したかもしれないのですが、これから一人暮らしを始めるということでよかったですかね。 中村/ ありがとうございます。一人暮らしを3年ほど前から模索しまして、今は完全な一人暮らしではないんですが、自分の祖父と手の掛かる犬と一緒に暮らしています。 一般参加者A/ 一人暮らしを模索中ということなんですが、一人暮らしをしたら、こんなことをしたいなとか、こんな障害があるとか、何か具体的に例がありましたら、教えていただきたいと思います。 ●写真 会場後方から見た、満員の会場全景。 中村/ ありがとうございます。まず、一人暮らしをしたいと思ったきっかけが、けがをして家に帰った後に、おかんがインフルエンザでぶっ倒れて、父が仕事でどうしても家を空けなければならないという事態が起こったんですね。その時に、夜は誰が見んねんという話になって、その時初めてヘルパーの方に宿泊というサポートで入っていただきました。その時に「ああ、これはまずい。このまま両親に頼っていたら、ほんまにあかんようになってまうかな」と、心のどこかで思い始めました。その後、いろいろなことを経験していく中で、自分には自分の生活がある。やはり両親には両親の生活があるなと思うようになりました。おやじはおやじですし、おかんはおかんですし。やはりちゃんとした距離を置けることが、たぶん僕と両親にとって一番いい関係を築いていけると思いましたし、自分自身が両親に何かしたいなということは答えにくいこともあるんですけれども、こんなことをいうのは憚られますが、その時まで迷惑をかけないように、もし両親が亡くなった時に、必ず兄と葬式で送り出してあげたいというのは、すごく強く思っていることです。それが今の自分の目標です。 一般参加者A(車いすユーザー)/ ありがとうございます。私も全く同感でして、当たり前の話なんですけれども、一人暮らし17年目なんですが、やはり P15  両親が、年をとっていく。その時に、同じようなしょうがい者の面倒を見るというのはすごく大変なことなのね。家族の生活もあるし、親の生活もあるし。やはり迷惑をかけたくないというのもあって、それが僕の一人暮らしを始めたきっかけなんですが。ありがとうございました。 中村/ありがとうございました。ぜひまた一人暮らしのいろいろなご意見など、大先輩としてお話を聞かせていただければと思います。 司会/ありがとうございました。他に質問のある方はいらっしゃいますか。 一般参加者B(車いすユーザー)/ 大変貴重な話をありがとうございました。今日は会場に多くの若い学生さんに来ていただいていると思うんですが、大学生活を通して、院も含めて学んでいく中で学んできたこと、それで自分の強みに変わってきたことを、ぜひ聞かせていただければなと思います。 中村/ ありがとうございます。大学生活での強み。まず、自分の中で大学に行って一番、よかったというのは、自分らしさを取り戻せたかなと。本当に周囲の人に頼りっきりになってしまったダメな自分もいたことは確かなんですけれども、高校の時に一言もしゃべらずに学校へ行って帰るという、本当に寂しい高校生活を1年送ってしまって、集団にいることがすごくつらかった時期がありました。大学に入っていろいろな先輩方にしごいていただいて、同級生に、本当に大学で楽しい思いをさせてもらって、後輩にいびられて…(笑)。そういう大学生活を送らせてもらったのが、強みではないかもしれませんけれども、大学の中で一番学べたことです。一人一人と当たり前にコミュニケーションをとれたり、いろいろなことができるというのが、すごく大きかったかなと思います。ありがとうございます。 司会/ ありがとうございました。 一般参加者C/ こんにちは。他の大学の職員をしております。しょうがいを持った学生さんが復学してきました。本当に今日のお話よかったです。ありがとうございます。お聞きしたいのは、支援室がある時と、ない時の違い。そこのところをもう少し聞かせていただきたいなと思います。 中村/ ありがとうございます。支援室がなかった時というのが、入学した当初のところでして、その時、立命館は“さぽーと.net”という学生の自主的なボランティア団体がありました。僕が入る2年前に車いすの方が入られたことでできた団体なのですが、本当に親身になって、最初はたぶん学内のサポート体制をどうやって整えていくか、すごく苦労されたと思うんですけれども、その中で役割を決められて、ただのボランティアではなくて、大学とこれからどう考えていくかというのを常に模索していた団体だと思います。当時のことを思い出すと、僕のサポートに入ってくれた人が自分の講義に出席できないということが起きてしまったり、大変なこともあった反面、学生の中で結束してサポート等を通して、いろいろなことを学ばせてもらえたかなという思いはあります。支援室ができてからは、一つ一つ手続きが、大学の責任になりましたので、サポート体制は、確かに支援室がない時と比べても安定したと思います。明日のサポートが決まってないけど誰が入る?どうする?という話は、ほとんどしなくなったと思います。  そういったよかったところもありつつ、やはり自分自身が大切にしているコミュニケーションの部分。支援室ができてからは初めに顔合わせをするとはいっても自分が全く知らない人もサポートに入るようになったので、サポートしてもらう時に、どうやってコミュニケーションをとっていくか。その学生さんと、どうやって継続的に関係を作っていくかというのは、すごく悩む部分も多かったです。でもその中で新しい関わり方を見つけられたかなと思っています。  だから、本当に支援室がある、ない、どっちがいいかというのはすごく難しい問題で、全部メリット、デメリットがあると思います。ただ僕の場合は、支援室ができたことは、やはり自分の学びにすごく大きくつながったと思っています。自分の大学生活の中ですごく大きなことだったと感じています。 一般参加者C/ ありがとうございました。うちの復学 P16  してきた学生にも、ぜひその気持ちを私達が伝えたいなと思います。 中村/ ありがとうございました。 司会/ 中村さん、ご質問されたみなさん、ありがとうございました。他にも質問がある方がいらっしゃるとは思うのですが、時間の都合上、これで終わりにしたいと思います。  最後に、閉会の挨拶をキャリアセンターの古瀬さんにお願いしたいと思います。古瀬さん、よろしくお願い致します。 古瀬/ 皆さん、こんにちは。キャリアセンターの古瀬と申します。中村さん、今日はすばらしいお話をどうもありがとうございました。 ●写真 舞台上左から、中村氏をサポートする学生、中村氏、閉会の挨拶をしているキャリアセンターの古瀬氏、手話通訳をする学生。 古瀬/ 今日は冒頭に事務部長の阿久津から、「立教大学は自立した個人を育てる」という話がありましたが、今日のお話の中でも自立というキーワードにつながるお話があったと思っています。私もノートにたくさんメモをさせていただきました。例えば、困難に直面した時に、逃げずに考え抜くということ、自分で友だちとの間に壁を作らずに、頼るべき時は頼るというお話、何かをやってみる時に「まずは自分でできることを考えて、自分でやってみる」ということ、とても自立という言葉に結びつくお話が多かったと思っています。また、今日の講演会のテーマでもある「周囲に働きかけていくということ」「仲間とともにやり遂げる」ということ。こちらもとても大切なことだと思います。  今日のこちらの講演会は、本学の学生が本当に何十人もサポートスタッフとして運営に携わってきてくれています。私自身、この講演会に参加したのは実は初めてなのですが、こんなにすばらしい講演会を学生自身の手で作りあげていくということは、立教大学のいいところだと思っております。  中村さんには、今日のこういったすばらしい講演会の機会をいただきまして、本当にありがとうございました。立教大学のメンバーを代表しまして、お礼を申し上げたいと思います。<拍手>  以上をもちまして、講演会終了の挨拶に代えさせていただきます。どうもありがとうございました。<拍手> 司会/ 古瀬さん、どうもありがとうございました。今回の講演会は、自分は本当にやりたいことをやっているのかということを振り返るいい機会になったと思います。僕自身、今、立教大学に通っていて、車いすだからといって避けていた教職やアルバイト、友だちとの遊びなども積極的に考えていきたいと思う講演会になりました。そして、自分は本当に恵まれている環境にあるなと思いました。僕は、乙武さんが通っていた都立高校に通い、また、しょうがい者支援室が確立されている立教大学に入って、すごく恵まれた環境で、それが普通だと思って生活してきましたが、もっと感謝しなければいけないことだと思い知らされる講演会になりました。 ●写真 司会の学生(車いす利用)と、その右側後方で手話通訳を行う学生。 司会/ 最後に、この講演会に、遠方にも関わらず、京都からいらしてくださった中村周平さんに大きな拍手をお願いします。<拍手>  2つほど事務連絡があります。1つ目が、アンケートに関するお知らせです。講演会が始まる前に資料を P17  お配りしたと思うのですが、その中にアンケートが入っていますので、記入をお願いいたします。今回の講演会を聞いて感じたこと、気になったこと、意見など何でもよいので書いていただければ幸いです。記入が終わりましたら、会場を出たところに回収箱がございますので、そちらに入れてください。アンケート用紙がない人はいらっしませんか。もしいらっしゃいましたら、お近くの学生スタッフにお知らせください。  そしてもう1つ、この後、中村さんとお話ししたい方もいらっしゃるかと思いますので、ロビーでお話しいただければと思います。  これをもちまして講演会を終了させていただきます。本日は本当にありがとうございました。お気を付けてお帰りください。<拍手> ●写真 講演会後の歓談の様子。 P18 当日の様子 ※写真が6枚ある。 ●最終ミーティングで流れを確認 ●案内・誘導 ●講師の中村さんをステージへ ●すべての挨拶には手話通訳をつけました ●受付 ●中村さんを囲んで 以上