P1 立教大学 公開講演会 「失敗いっぱい、幸せいっぱい-構音しょうがいのある私が海外へはばたいた-」 日時 2012年12月15日(土)13:00~15:30 会場 池袋キャンパス 5号館4階 5401教室 講師 稲原 美苗 氏(本学兼任講師、東京大学大学院総合文化研究科付属共生のための国際哲学研究センター(UTCP)上廣特任研究員) 司会A/ 皆さん、こんにちは。立教大学しょうがい学生支援室主催公開講演会「失敗いっぱい、幸せいっぱい-構音しょうがいのある私が海外へはばたいた-」に、ようこそお越しくださいました。 司会B/ まず、本日の講演についてご説明致します。講師の稲原美苗先生は、脳性まひによる構音しょうがいのため、発語に聞き取りづらい部分があり、一部に音声ソフトを使用します。前方向かって右手のパワーポイントの画面を字幕代わりに使わせて頂きます。 ●写真 司会の学生2名、AとBが並んで立っている。背後には黒板、その前にパソコンテイクのスクリーンが見える。 司会A/ 次に、各種サポートについてご説明致します。前方向かって左側のスクリーンは、聴覚しょうがいの方のための情報保障をパソコンによって行います。音声ソフトの字幕を<稲原>(カッコつきの稲原)、先生の声によるコメントを、稲原と表示します。車いすを利用されている方、視覚しょうがいのある方への移動サポート、筆記の困難な方への代筆のサポートも行いますので、必要な方は、「サポートスタッフ」のネームプレートを着けている学生に遠慮なくお申し付けください。また、途中で具合が悪くなったり、退出したい場合には、手をあげてスタッフにお知らせください。 写真、ビデオ撮影に関してお伝えします。写真やビデオは講演会の様子を収めて、しょうがい学生支援室のホームページや学内の冊子に使用することがあります。掲載に差しさわりのある方は事前にお申し出ください。 最後に、本日の講演会は、前半は稲原先生の講演、後半は参加者全員によるワークショップを行います。ワークショップのグループはあらかじめ決めさせて頂きました。受付で配付されたカードに記されたアルファベットがそれぞれの方のグループ名になります。また、名札には苗字ではなく、下のお名前か、ニックネームなど自由に記入してください。それでは、本日の講師である稲原美苗先生のご紹介をして頂きたいと思います。 司会B/ では、稲原先生のご紹介を致します。稲原先生は、オーストラリア国立ニューカッスル大学文学部社会学科を卒業後、同大学院に進学し、選ばれし者の称号である“hounors degree”を取得されました。その後、英国国立ハル大学大学院の哲学研究科博士課程を修了され、現在は東京大学大学院の上廣特任研究員と本学の講師を兼任されています。先生の専門は、身体論、フェミニスト理論、 P2  現象学、障害者の哲学です。 今日は、ご自宅がある青梅から1時間40分をかけて来て頂きました。  私は、今年の前期に履修した「しょうがいと人権」という講義で稲原先生と出会いました。講義は、先生いわく家政婦のミタのような話し方をする音声ソフトと先生自身の流暢な関西弁という二つの「声」を用いて行われました。この講義では、「できない」ことが「できる」ようになるということを学ばせて頂きました。本日は、稲原先生より「失敗いっぱい、幸せいっぱい-構音しょうがいのある私が海外へはばたいた-」というテーマでお話を伺います。勇気を出して一歩前へ出ることで、いっぱい幸せを感じられるヒントが見つかるかもしれません。次に、しょうがい学生支援室課長、原より一言ご挨拶致します。 原/ みなさん、こんにちは。しょうがい学生支援室の原と申します。開会にあたり一言ご挨拶をさせて頂きます。本日は土曜日の午後にもかかわらず、ご参集いただきましたこと感謝申し上げます。すでに今、学生からご紹介がありましたが、本日は立教大学しょうがい学生支援室主催、また国際センター・キャリアセンター共催の下、本学学生、教職員以外にも一般の方も対象とさせて頂きまして、「失敗いっぱい、幸せいっぱい―構音しょうがいのある私が海外へはばたいた」と題しまして、講師に東京大学大学院特任研究員また本学兼任講師でもいらっしゃいます稲原美苗先生をお迎えして、ご講演をお願いしております。ご自身の人生において、様々な人々との関わり、海外という進路の選択、そして現在研究者として活躍されている状況を踏まえて、勇気を出して一歩前に踏み出す事の大切さを教えて頂ける、そして新たな気づきをいただける内容であろうと楽しみにしております。  支援室の講演会は、今年は6月に続き2回目になります。前回に引き続き、今回も講演会には多くの学生が運営、進行に携わっております。進行の練習も一生懸命おこなっておりました。学生のみなさんにも一緒に講演会を作り上げて頂きましたこと、この場を借りて感謝いたしますと共に、来場の皆様方に対しては、万が一運営上至らない点がございましたら、ご容赦頂ければと思います。この講演会が有意義になりますことを祈念致しまして、開会の挨拶にかえさせて頂きます。本日は宜しくお願い致します。 司会B/ それでは大変お待たせ致しました。講演会を始めたいと思います。 先生の二つの「声」とチャーミングな笑顔と共にお聞きください。稲原先生よろしくお願い致します。 稲原/ 本日は、お忙しい中来て頂きましてありがとうございます。ほとんど音声ソフトを使わせて頂くんですけれども、時々このような声が入ります。よろしくお願い致します。あと、支援して頂いた学生の皆様、どうもありがとうございました。皆さんのお力のおかげで、講演会を行わせて頂くことになりました。感謝しております。 ●写真 教卓の上にノートパソコンを置き、座って講演している稲原氏。稲原氏の左右にスクリーンの一部が見える。 ■この講演について  普段の大学の授業では、ぶっちゃけた話があまりできませんが、この講演では私のありのままをお話したいと思います。私自身が経験したことを基に、人生をステップアップさせるコツについて、お話しようと思います。 ■この講演会の特色・目標  この講演で話を聞きます。ワークショップでゆっくり考え、お互いの意見交換をします。この会場に来た時と、本日のプログラムを終えてこの会場を P3  出る時とで、考え方が変わっていることが重要。少しでも「変わる」ということを目標にします。 ●イラスト 概念図。「ゆっくり考える」「聞く」「変わる」の3つが相互作用している図。 ■私のおいたち(私のしょうがい)  私は未熟児として、大阪府茨木市で生まれました。医師は身体の小さかった私を保育器に入れました。しかし、保育器中が低酸素状態だったため、大脳基底核を損傷してしまうことになり、その結果、アテトーゼ型の脳性まひを発症しました。アテトーゼ型の主な特徴として、不随意運動があることがあげられます。私の意志に基づかないで、身体が勝手気ままに動いてしまいます。他の特徴として、姿勢反射の(消失)異常が挙げられます。あまり医学的なことは知りませんが、全身の知覚により、私たちは身体の位置、姿勢や運動において平衡感覚が働き、全身の筋肉を反射的に適度に緊張させる機能を持っています。しかし、私の場合、姿勢反射に異常があるために、まっすぐ前を向くという単純な動作ができません。身体の緊張度も自分ではコントロールできないのです。しょうがいの程度が軽度ですので、大体の生活上必要な動作はできますが、首から上の部分の筋緊張がありますので、痛みを感じることが多くなります。首から上と書いたので、想像できるかもしれませんが、私が最も困ることは、声を出せないことがあったり、上手く発音・発語できなかったりすること。つまり、言語(構音)しょうがいがあることです。発声時の運動機能しょうがい・筋緊張があり、全身の硬直状態をコントロールできません。例えば、突然、電話のベルが鳴ります。受話器を取る前、緊張度が高まり、私の身体は硬直し始めます。携帯電話等で、相手が誰だか分かると、硬直が治まりますが、相手が誰だか分からない場合、筋緊張が酷くなり、発音・発語が上手くできなくなります。身体的な現象と心理的な現象が複雑に交じり、相互で影響し合って、この声が上手く出せない状況に直面しているのです。 ■産まれた時から試練の連続  私に脳性まひがあると診断されたのは、生後8カ月でした。首が座らず、せっかく飲んだミルクはほとんど吐き出したそうです。嚥下力が弱かったのです。私は母を苦しめました。母はとても落ちこんだそうです。「もう一度この子をおなかの中に入れて、産み直したい!」と何度も思ったそうです。しかし、皆さんもご存知のように、時間は一方通行で、そんなことできるわけがありません。 ■母の決意  母は考え方を変えました。くよくよしていても、仕方がない!前向きに考えよう!!って。後ろ向きに考えても、時間は前にしか進まないのだから…と思ったに違いありません。母にとって、私がしょうがいをもって生まれてきたことはとても大きな挫折だったと思います。でも、それを乗り越えて私を育ててくれました。 ■「命まで奪おうとせんから…」  これは母が良く私に言っていた言葉です。逆境にいても、命さえあれば、何とかなる!という意味だと思います。「命まで奪おうとせんから、精いっぱい頑張っておいで!失敗しても良いから、とにかくその場に行って、楽しんでおいで…」と、言われて育ちました。無理は禁物ですが、逆境に立ち向かうには力が必要です。命は力の源ですし、命もいつか途絶えてしまう脆弱性を持っています。命を大切にするということは、自分を大切にすることに繋がると思います。 P4 ■母が心掛けていたことは…  「楽しむ」ということです。何でも楽しまなきゃ損ですからね。これは阿波踊り精神を受け継いでいるのかもしれません。(母は徳島出身です。)阿波踊りのよしこの(歌詞):「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々…」 ■リハビリのために習い始めたエレクトーン  6歳になった頃にエレクトーンを習い始めました。最初は指のリハビリのために始めたのですが、徐々に音楽が好きになっていきました。エレクトーンは私の心境を表現する声にもなりました。中学校卒業まで続けて、その後、シンセサイザーやキーボードへと興味が移り、作曲をし始めました(楽譜通り指が動かなくなったことが一番大きな理由です)。 ■小学校への入学通知書が来なかった  幼稚園での生活も終わりに近づいてきた頃、周りの友達には「小学校への入学通知書」が届いていました。しかし、私には届かなかったのです(養護学校へ入学することになっていたそうです)。母と一緒に教育委員会へ行き、普通教育を受けさせてもらうようにお願いしました。この経験から、学校で普通並みに出来なかったら、養護学校へ送られると、勝手に思い込んでいました。 ■小学校では…  地域でずっと一緒に育った友達が周りにいたので、特に問題はありませんでした。しかし、勉強面でとても苦労しました。まず、ひらがな、国語の音読。黒板の文字を時間内で写しきれませんでした。漢字になるとますます書き難くなりました。勉強ができないと、養護学校に送られると勝手に思い込んでいたので、かなり頑張っていました。 ■紆余曲折があり…  詳細を語ると、長くなりますので、ここは省かせて頂きます。転校やいじめの経験があり、本当に辛い日々を過ごしていました。中学生になって、最初はいじめられましたが、先生方の配慮があり、徐々に状況は改善されていきました。 ■高校入試・・・大きな挫折  中学校の生活も少しずつ向上し、高校入試を考える時期になりました。私はこれから情報科社会になるし手に職を付けておけば、きっと役に立つと思って、創立3年目の県立高校の「情報科」を推薦入試で受けることを決めました。中学校側は推薦してくれたのですが、入試前に高校側から「受験しないでほしい」という通知が来ました。中学校に高校の先生が私の姿を見に来ていたそうですが、私は全く気づきませんでした。私の手の動きを見て判断されたのでしょう(エレクトーンを演奏できたのですから、パソコンのキーボードの操作はできました)。 ■一般入試で…  中学校の担任の先生から、家の近くの高校に行くように勧められていました。でも、苛めっ子から離れるためにどうしても少し遠くの高校へ行きたいという理由でその高校にこだわり、一般入試で「普通科」に受かって、入学しました。小学校・中学校とあまり良い思い出も無かったし、どうしても新しい世界に行きたかったというのが私の本音でした(この頃から、外国に行きたいという気持ちが芽生えました。―作曲家になりたいという夢がありました)。 ■恩師との運命的な出会い  先生と初めて出会ったのは、高校1年生の4月でした。月日が流れた今もずっと覚えています。当時の私はあまり自信のない高校生で、学校も人間も社会も、そして自分も好きではありませんでした。入学者のオリエンテーションで知り合った友達2人から棒術同好会に一緒に入会しようと誘われてしまいました。最初聞いたときは、「ええ、そんなん私みたいなん絶対入れてくれへんわ。無理無理。体育会系やん。私は遠慮しとくわー」と答え、その日は何もなく、帰宅しました。 ■実はその前日に…  本当は作曲家になりたかったのです。でも父から P5  ずっと「音楽では食べていけない」と言われていたし、私もそう思ってしまっていたので、音楽家になることをあっさりと諦めました。文章書くのは嫌いじゃないし、喋るより書くほうが好きだという理由から、新聞記者になろうと考えていました。本当は軽音楽部に入りたかったのだけど、創立3年目の学校には軽音楽部がなかったのです。自分で始めるのも面倒ですし、ふらふらした気持ちでした。新聞部も第一候補ではありませんでした。つまり、いつもやりたいこととしょうがいとの狭間で妥協することが多かったのです。 ■棒術とは…  樫の木でできた、長さ六尺(約180㎝)の棒を使用する武術です。とは言っても、私がやっていた棒術は、棒の技だけではありません。空手のような突きや蹴り、柔道のような投げ技、合気道のような関節技などを含む総合武術・武道でした。  ※棒術には色々な流派があります。先生が早稲田大学出身者だったこともあって、私が稽古していたものは早大棒術会のものです。 稲原/ このような稽古をしていたんですけど。これは棒をもった稽古ですね。素手での稽古もありました。。 ●スライド 棒術の稽古風景 ■先生との最初の会話  私:「あのぉー、身体にしょうがいがあるんですけどぉー、入部なんてできませんよね…?」 先生:ちょっと私を見つめて、「うん。いけるよ。大丈夫!じゃあ今日の放課後からね…」 あらら、思ってもみなかった展開になっちゃった!入部してしまいました。えええ! ちょっと、どねんしようー。うそでしょー!!! ■棒術の稽古は…  とてもハードでした。体育の授業でも、できないことはやらせてもらえなかった私が、いきなり自分の身長より長い棒(かなり重かった)を持ち、広い運動場を走り回り、大声で気合を入れました。自分ができないと思っていたことができるように少しずつ変わっていくことがとても嬉しかったし自分でも驚きました。 ■「お前は続けるの!」  私を誘ってくれた友達2人は1年の夏休み前に退部してしまい、3年生の先輩(男性2人)と私だけになってしまいました。私も退部届を出しに行ったら、先生が「退部届は受け取らないから…おまえは続けるの!続ける意味があるんだから、続けなさい!」って言われて。驚きました。その退部届はずっと鞄の中に入っていましたが、高校3年間棒術を続けました。しょうがい者を引き受ける先生や学校がまだ少なかった時代でしたので、私は本当に不思議でした。いつもなら、母親と2人で頭を下げて「入れて下さい」とお願いするような立場だったのに棒術はすんなり入れてくれて、やめさせてくれなかったのです。 ■棒術から学んだこと…  高校生だったこともあって、あまり難しいことは理解していなかったけれど、棒術は遠く前方を見据え、まっすぐ前に進むことを私に教えてくれました。つまり、自分を信じること、信じた道はまっすぐに生きること、転んでも前へ行くこと!を教えてもらいました。この後、何度も転ぶのですが、そのたびに起き上がります。 ■今思うと…  先生のお気持ちがどうであったか私には分かりませんが、しょうがいと共に生きていかなければならない私には色々な試練が待っているのだから、「前へ進むための精神力をつけろ!」と考えてくれていたのでは P6  ないのかなと思います。「転んでも良いから、前へ進め!」と先生が口癖のように言っていました。3年間続けて、精神的に強くなれたと思います。 ■マラソン大会に出なくて良い?!  校内マラソン大会があると聞き、張り切って練習をしていました。他の種目は全くダメでしたが、マラソンだけは好きでした。ところが、「稲原は出場しなくて良い!」と言われました。高校にはしょうがいをもっていた先輩が2人いました。2人とも足が不自由な方でした。ここにいる皆さんもご存じのように、私は足は不自由ではありません。走れます。がっかりしていると、職員会議で先生が話して下さったんでしょう。「稲原は走れます!」って。それで出ることになりました。しょうがいを一括りに考える典型的な例です。 ■やっぱり作曲家になりたい!  高校卒業する前に、進路を選ばないといけません。一度諦めていたのですが、棒術を続けたことによって自分を信じてみたくなりました。色々な場所にデモテープを作って出していました。「作曲家になりたい!そして、アメリカで音楽工学と作曲を勉強したい!」という気持ちが出てきました。最初は両親が応援してくれていたのですが、実際に色々動き始めると、反対されました。高校3年の2学期の終わりに父が「留学は20歳になって、法的に責任を取れるようになってからだ!」と言い始めたのです。 ■2年間英語を習得することに…  日本の大学に入るための受験勉強をほとんどしていなかったこともあり、どうしても留学したかったこともあって、日本の大学には進学せずにアメリカの大学の日本校に行くことにしました。父がアメリカ以外の国を選べと言い、オーストラリアかカナダという選択肢を出してくれました。単純な私は、暖かい国の方が良いだろうと思って、オーストラリアを選んだのです。 ■どうするねん! ビザが取れへん!  半年間お試し期間ということで、英語学校に入り、大学の寮で実際に生活をしてみました。とても楽しかったのです。半年間の英語コースにはビザが要りませんでしたが、正規の学部入学の際は3年間の学生ビザが必要でした。(現在は半年間のコースでもビザが必要になっていると思います。)しかし、「ありえへん」ことが起こりました。ビザを取得するにあたって、オーストラリア大使館指定の病院での健康診断が必要で、その診断書が誤診だったためにビザの申請が保留のままになり、新学期になってもオーストラリアに行けなかったのです。 ■私、オーストラリアに行かれへんの?  オーストラリア大使館から連絡があって、健康診断で問題があったため、ビザを渡せませんという通知が来て、驚きました。そこで、グーッと落ち込みましたが、オーストラリアに半年住んで、何も問題がなかったのですから、どうして今になって問題が出てくるのか疑問でした。後で理由が分かるのですが、私の健診断をした病院が「左半身不随」と誤診したために、オーストラリアの長期滞在許可が下りなかったのです(私は左利きですからね。左半身が動かないわけがありません)。 ■納得するまでとことんやる!  「私、オーストラリアに行かれへんの?」っと、がっかりしていましたが、落ち込んでいる暇なんてありませんでした。そこで諦めずに踏みとどまったのです。オーストラリア大使館から納得する答えを頂けなかったので、自分で理由を確かめたいと思いました。オーストラリア大使館に何度も手紙やファックスを送りました。全部合わせると30通ぐらいやり取りがあったと思います。大学とも交渉しなければなりませんでした(当時、インターネットがありませんでした。この経験から英語を習得したと言っても過言ではありません)。 ■すると…返事が来ました  キャンベラにあるオーストラリアの保健省から P7  連絡があり、「私が一人で動ける姿をビデオに撮って送って欲しい。そして、もう一度違う病院に行き、指定された医師と相談してほしい」と言われました。父に私の姿をビデオに撮ってもらい、オーストラリア大使館から指定されたベルギー人の医師を訪ねて、神戸へ行きました。ベルギー人の医師に「どうしても留学したいのです。助けてください」と訴えました。診断書を書き換えることはできないけど、意見書は出せると言ってくれて、ビデオを添えた意見書をキャンベラに送りました。 稲原/ この時、両親はもう「あきらめろ」って言うてたんです。そんなビザとれへん国なんて行くなって言われたんですけど、もうどうしても我慢できなくて、神戸の病院だったんですけど、その一番偉い院長先生がベルギー人のクリスチャンの方だったので、その方にお願いして、全部英語で喋って、何とかわかって頂きました。 ●写真 会場後方から見た、ほぼ満員の客席。会場は参加者1人に1つ机がある、スクールタイプの教室。 ■ビザが下りましたが…  それから3週間後にビザが下りました。ところが、新学期は既に始まっていましたし、アカデミックアドバイザーからは、「6週間遅れてコースを始めても、絶対にパスできない(留年する)から、来年度から始めたほうが良い」と言われていました。しかし、1年後また状況が変わって、ビザが下りなかったら…という思いから、大学側に事情を話して、なんとか社会学科の1年次に入れてもらうことにしました。 ■実際は…  現実はそんなに甘くはありませんでした。正規学部生として入学したものの、会話で使っているような英語ではなく、分からない用語が沢山出てくる学術英語を理解する必要がありました。私のように6週間遅れてきた留学生に聞き取れるはずがなかったのです。前期は必死に頑張りましたが通年科目の社会学以外、履修登録を取り消したり、成績(出席点と試験の点数)が足りずに落としてしまいました。前期の成績を見て、「もう無理かもしれない」と思いました。逃げ出したくなりました。必死に勉強したけれど、このままではどうすることもできないと思いました。 ■周囲の力が加わると…  そういう時こそ、踏みとどまって努力することで、思いもよらなかったことが起きて、状況が劇的に改善します。寮の友達が、順番に勉強をみてくれたのです。(家庭教師みたいなものです。)そして、ある友達が、「しょうがい学生支援室」のことを教えてくれて、早速そこに行ってみると、ノートテイク等の支援を受けれるようになり、テスト時間の延長も申請できました。このおかげで「できない学生」から少しずつ「できる学生」へと変わっていきました。 ■しょうがい学生支援室とチャペランシー  私は主にノートテイクと試験時間延長の支援を受けていましたが、その他にも色々な支援を受けることができます。 ・IT支援(PCの支援カスタマイズ等) ・モビリティーバス(キャンパス内の移動) ・カウンセリングサービス(学内のチャペルと一緒に支援を行っている場合もあります) ・パーキング・サポート ・図書館内のサポート 等 稲原/ このサポートがあったから、かなり成績上がりました。もし、サポートがなかったらどうだったんかっていうと、きっともうやめてたと思います。それ位厳しかったんです。それから、教会―カトリックとか聖公会とか・・・それぞれに神父さんとか牧師さんがいらっしゃいますね。私は P8  クリスチャンではないのによく通ってたんです。牧師さんの話を聞くことによって、精神状態が軽くなったんです。もし誰も聞いてくれなかったら、生活が難しかったと思います。 ■留学経験から「何事も決して諦めない」ということを学びました  誰かが「あなたにはそれは無理でしょう」と言ってもそれは必ずしも達成できないというわけではありません。また、あなたが「無理」と思っていることでも、あなたの中の価値観では、そうであって、現実はそうではありません。決めつけずに、人と繋がっていれば、必ず「可能」になります。2・3年生で、成績は徐々に上がっていきました。そして、大学院へ進学するように勧められました。 ■大学院に入ったものの…  指導教官の体調や状況が悪化し、彼女から指導を受ける回数が減りました。博士課程の研究は思うように進みませんでした。しかし、大学で教える機会や多くの学会で発表する機会など得ました。そのおかげで、他の院生や研究者と交流する機会が増え、「指導教官を変えたほうが良い」というアドバイスをもらいました。ずーっと一人で考えていました。考えても解決しないのです。相手がいることで、私一人の考え方を変えても、何の意味も持ちません。 ■この頃、MLで運命の人に出会いました  インターネットが普及し始めて、メールを頻繁に使うようになりました。学会(障害学)のメーリングリストにも参加することになり、情報を得る手段が増え始めていました。忘れもしない1998年12月9日、MLにマイケルからのメッセージが入りました。社会学系が強かったMLに哲学的な質問が投げかけられました。しかも、私が研究していた哲学者に関する質問が投げかけられていました。私は彼に直接メールを送信することにしました。その日から彼と私の文通が始まりました。当時、私はオーストラリア人男性とお付き合いしていましたが、なかなか結婚を言い出してくれない彼にイライラしていました。 ■博士課程も上手くいかない、プロポーズもされない  指導教員の指導なしで論文のドラフトを仕上げてみたものの、やっぱりダメでした。論文として完成しないまま放置していました。博士課程を始めて5年が経過していました。6年間付き合っていた元彼からもプロポーズされないまま。それまで「与えられる運命」みたいなものを信じていたのですが、そんなものを待っていたら、どっちも上手くいかなくなります。そこで考えました。誰かに私の人生を委ねても、何も良いことがない! ■帰国を決意  「もうやるだけやった!」と私は自分自身に言えました。しかし、博士論文を完成させることができなかった私。ここで、それまで生きてきた人生の中で最大の挫折を味わいました。自分を情けなく思いました。6年間の恋愛関係にも終止符を打ち、全てを白紙に戻す覚悟を決めました。2003年の秋、帰国しました。 ■一度就職し、再度博士号に挑戦!  経済的に自立しないといけないと思って、職を探しまわりました。私は30歳になっており、なかなか就職がありませんでした。沢山の会社の面接を受けましたが、ほとんどダメでした。唯一、決まった就職先は地方の短大の専任講師でした。色々なことに挑戦しましたが、どうしても博士号が取りたいという気持ちが強く残りました。母や周りの人々には「どうしてそこまでして博士号に拘るのか」ということを分かってもらえませんでしたが、1年間、貯金し、何とか学費分ほどになりました。その頃メル友だったマイケルに相談し、彼の大学へ進むことに…。編入申請をし、それをパスしたのを確認してから、短大に辞表を提出しました。 ■2度目の挑戦!  2004年の4月に渡英し、マイケルのアパートに P9  居候しながら、イギリスの大学院に通い始めました。最初は半年間の予定で、指導を受けてから、帰国し、日本で論文を仕上げようと思っていました。しかし、先生の勧めもあり、イギリスに残ることにしました。マイケルと私の関係も徐々に深いものへと進展していきました。イギリス滞在を延長しました。 その後、ゼロから博士論文を書き直し、2年間で博士号を取ることができました。その頃、マイケルと一緒にずーっと過ごそうという思いが強くなりました。  ■オーストラリアとイギリス  オーストラリアの時は、経済的に恵まれていましたがイギリスに行ったときは、本当に苦労しました。恵まれていた時には無かったハングリー精神みたいなのが出てきて、「これだけ払ったし、私の時間も費やしたのだから、絶対に博士論文を終わらせてやる!」と、強く思いました。博士になるということは、私にとって、一つの目標でしたし、研究分野のエキスパートになりたいと思っていました(「博士が偉い」とか思っていませんよ。その知識をいかに社会に還元していけるかが大切ですから…)。 ■博士号取得と結婚をほぼ同時に…  マイケルはまだ博士課程の学生でしたが、一緒に住むために結婚を決意しました。私の学生ビザが切れる頃になっており、その後のことを考えると、結婚という方法しか考えられませんでした。ところが、イギリスの移民法が、イギリス人配偶者に定職があり、税金を納めていること等の条件がありました。私は、きっとマイケルはどこかに就職してくれるだろうと、信じて結婚しました(ここで色々なことを考え込んでいたら、結婚していませんでしたね)。ところが、マイケルがウツ傾向に陥り、なかなか博士論文を終らせないで、ぼーっとし始めました。これでは結婚した意味がありません。この頃の私は、日本・イギリス間を行ったり来たりしており、定住できませんでした。 ■しかし、悪循環からなかなか抜け出せない  やっとの思いで配偶者ビザ(2年間)を取って、イギリスに戻ったのですが、状況は一向に変わりませんでした。彼は博士号を取りましたが、景気の悪化がますます進み、彼に就職はありませんでした。マイケル側の親戚はこのままイギリスでのんびりとして暮らすのが良いと思っていたのですが、私はそうは思っていなかったのです。私のビザの条件が曖昧だったので、イギリスのしょうがい者支援が全く受けられない状況でした。私が面接に行くと、「永住資格をお持ちですか?」と訊かれて、「No」と答えると、そこから前へ進めませんでした。 ■この時ばかりは母も…  母は私の結婚を反対しませんでしたが、就職の無い不安定な結婚生活のことをあまり良くは思ってくれませんでした。「あんた、このままで本当に良いの?あんなに頑張って博士号を取って、このままのんびりしていて良いの。あんたはずーっと不可能なことを可能にしてきたやんか。頑張れる時に頑張りなさい。応援してあげるから。帰っておいで!早く何とかしないと、2人とも沈没するで!」と、言いました。自分なりに考えた結果、このままイギリスで住めないと判断しました。マイケルをイギリスに残して、帰国しました(「もうダメかもしれない」って思いました。マイケルと別れないとダメなのかもしれないって…。何度も離婚を考えました)。 ■帰国に向けて…大きな賭け  帰国する前に、一か八かで学会で知り合ったイギリス人の先生にメールを出してみました。学会の懇親会で、先生が「日本で講演をするんだよ」と言っていたので、彼の日本の知り合いを紹介してもらえないかと尋ねてみました。すると、「君の力になりたい。君の分野に関係している研究者と東京で知り合えたから、その人を紹介してあげよう!」と言って下さって、立教大学の河野哲也先生と知り合えました。この出会いが私の人生を大きく P10  変えていきます。 ■「運命を変える出会い」  帰国してすぐに全てが解決したわけではありませんでしたが、2年前のちょうど今頃でした。帰国して2日後に立教のキャンパスに来て、河野先生と初めてお会いしました。日本の状況を知らなかった私に、色々教えて下さいました。学会に入会し、論文を発表するように勧めてくださいました。その後、色々な場所で発表し、論文を出版し、翻訳も手がけて、新しい人々にも出会うことができました。今の職場(UTCP)でプロジェクト・コーディネーターをしている石原孝二先生とも出会いました。イギリスの親戚からは「鬼嫁」だと思われていましたが、私は自分を信じてみることにしました。私の母は、「納得するまでやってごらん。それでだめなら、またそこで考えれば良いから」と言って、いつも陰で応援してくれていました。 ■「出戻り娘の決意」  とにかく40歳の誕生日まで頑張ってみよう。それでだめなら、翻訳会社を自分で始めよう!母には言えませんでしたが、私の中でひそかに決意していたことが「絶対に夫を呼びよせてみせる!」でした。イギリスから帰国してから、東北で大地震が起こり、色々なことを考えさせられました。ますます、マイケルを呼び寄せることが難しくなったのは想像できるのではないでしょうか。頑張っていれば、周囲の人々が認めてくれます。立教での兼任講師の話を頂き、今年の4月から徳島から毎週夜行バスで通う生活が始まりました(実際に通ったのは2か月です)。 ■東京に出入りすることで…  多くの人々に知り合う機会も多くなりました。そして、東京大学で研究員の募集の情報を頂きました。絶対に無理だと思っていたので、受けない方向で考えていましたが、今の職場のボスに、「ダメで元々なら、受けてみなさい!」と言われ、受けました。ちょうど40歳になる1か月前に、研究職に就くことになりました。私一人の力で、ここまで来たわけではないことが分かって頂けると思うのですが、いつ、誰に、どこで出会うかということが、人生の進路を変えていきます。 ■もうひとつ忘れてはいけないのは…  立教大学の「しょうがい学生支援室」の皆さまにお会いできたのも、私の人生を変えるきっかけになりました。授業での音声ソフトの使用をできるように支援して下さったから、教えることが可能になり、今、様々なところで講演や講義を受け持つことができています。有難うございます。最初の第一歩を踏み出すきっかけを与えてもらえたことに、感謝しております。 ●写真 パソコンテイクをする学生の後ろから見たパソコンの画面。 ■マイケル呼び寄せ大作戦!  仕事が決まり、早速マイケルに電話しました。「自分のお部屋をもてることになったから、東京で私と住みたいですか?」 彼の答えは「Yes」でした。2人で住める広さのお部屋を借りるためには青梅まで行かないと、経済的に厳しかったので、青梅にしました(青梅には友達が住んでいるので、安心できるという理由もあります)。そして、マイケルの在留許可を得るための書類を集めました。母も「自分の力でやるんなら、認めるよ!」と言ってくれたので、嬉しかったです。 ■「軌道にのってから夫を呼べば…」  と、いう意見も周りからあったことは確かです。しかし、私の中では別居生活に限界を感じていましたし、いつになったら軌道にのれるのか分かりません。完全に軌道にのるのを待っていると10年かかる可能性もあるのです。マイケルと相談した結果、日本で「お二人様生活」を始めてみて、一緒に P11  軌道にのっていくことに…。「マイケルを守ったる!」という気持ちが私に出てきて、それが大きな力になります。マイケルも、私が働いている姿を見て、「ぼくも頑張ろう!」と思えるようです。 ■お二人様生活を始めて…  色々あります。つい先日もマイケルが階段から転げ落ちて、大けがをし、私はパニックになりました。面倒なことも倍増します。しかし、それを一つひとつ乗り越えていくうちに、少しずつ自分たちだけの軌道を見つけて、そこで生活できるようになると、私は思います。もちろん、これからも試練に立ち向かうことになると思います。幸せなことも2倍に増えました。一緒に美味しいものを食べて、哲学を考えて、一緒に出掛けて、一緒に微笑んで…。 ■私から皆さんに伝えたいこと…  一度きりの人生を精いっぱい生きて下さい。人との繋がりの大切さを忘れないでください。生きていると誰だって、「もうダメだ!」「諦めよう!」「最初からやめておけばよかった」と自分の可能性を信じられなくなってしまう時ってあります。しかし、そういう時にこそ、諦めずに続けていれば、あり得ないことが起こって(不思議な引力を感じて)、事態が急に好転します。 ■自分の可能性を信じられなくなる時は、誰にでもあります  そんな時こそ、あなたが成長し、何か(夢や成功)を掴むためのチャンスになります。今までのあなたは、そのことに気付かず、それを「諦めろ!」のサインだと思い込んでしまいます。本当は、夢への扉を開ける鍵を与えてくれているだけなのに。扉はノックしないと開いてくれませんからね。1度ノックしてダメなら、もう一度ノックしてみましょう。そのうちその扉の鍵をゲットできます! ■R.A.ハインライン『夏への扉』より  「ドアというドアをためせば、そのうちのひとつは夏へとつながっている…」 “If you just try all the doors, one of them is bound to be the Door into Summer” from The Door into Summer 前を向いて、進みましょう!ご清聴有難うございました。 稲原/ これで最後なのですけど、私はSF小説が大好きで、よく読むんです。今迄で一番良かったSF小説がハインラインの『夏への扉』っていう小説なんですね。その引用があって、その引用を今日持ってきました。 『ドアというドアをためせば、そのうちのひとつは明日へとつながっている』って、本当にそうだと思うんです。私、諦めなくてノックしまくったんです。片っ端からノックしたんです。くじけそうな時もノックしまくりました。中には冷たい人もいましたけど、その中で、あったかい人にも会えるわけです。なので、諦めないでノックし続けることが大事だと思います。 マイケル/ “If you just try all the doors, one of them is bound to be the Door into Summer” from The Door into Summer 稲原/ Thank you! という事で前を向いて進みましょう。有難うございました。 司会A/ 稲原先生ありがとうございました。それでは、この後5分間休憩に入りたいと思います。5分後にこの教室に戻ってくるようにしてください。あと休憩中に机と椅子を移動して、グループワークの準備を致します。お疲れ様でした。 P12 -ワークショップ- ●スライド コンセプト WHO(対象)どんな人が?:大学生 一般人 WHAT(ゴール)何を目指すのか?:失敗・挫折から立ち直るのに必要なものは何? WHEN(時間)どれくらいで?:20分 HOW(方法)どうやって?:ワークショップによって、グループごとの気づきをまとめる 司会A/ では、これからワークショップを始めたいと思います。まず最初にワークショップの説明をします。コンセプトとしては、このような感じになっております。  まず、ワークショップを行うにあたって、いくつか共有したい約束事がございます。まず1個め、5W1H。いつ、どこで、だれが、なにを、どうしたがわかるように話しましょう。二つめは相手の話を丁寧に聞きましょう。三つめ、私が~だと思うというように、自分の意見に責任を持ちましょう。四つめ、楽しみましょう。  まず、お一人につき、1枚紙が配られていると思いますが、そこにご自身の体験や考えを簡潔に書いてください。ポイントは二つあります。一つめ、失敗や挫折をした体験を一つだけ書いてください。二つめ、それを乗り越えるきっかけになったことを一つだけあげてください。  その後グループワークを行います。ご自身の内容発表、質問などでお互いに意見を交わしあって、各グループで意見をまとめてください。時間配分はスライドのようになっております。 最後に各グループの意見を発表し、質問等をして全体で話し合います。このワークショップで、自分にはない、またあらためて納得した考え方や感じ方を掴んでいただければ幸いです。では始めましょう。 ●スライド 時間配分 Work1 セルフワーク 自分の体験を書く:5分 Work2 グループワーク 互いに見せ合い、話合う:10分 Work3 グループワーク グループの意見をまとめる:5分 合計 20分 稲原/ かけましたでしょうか?どうですか書けましたか?それじゃぁ、お互いに見せ合って話し合てみてください。10分間でお願いします。 <グループワーク> 稲原/ あのすみません。お話し中、すごく申し訳ないんですけど、各グループで1人代表者を決めて頂きたいと思うんですけど、スタッフの方が緑の紙を回収しますので、前のOHCの方で見せますので、よろしいでしょうか?誰かひとり、代表者決めてください。 稲原/ A班の方からお願いします。 A班/ こんにちは。Aグループでは、3人いたんですけども、3人の話から共通して、挫折とか失敗みたいな事から立ち直れるものは何かというと事を考えてみました。一つめは、周囲の人の理解や助言というものは、かかせないものなんじゃないかなと思いました。例えば、自分がうまく発音できない言葉があった時に、周りの人がそれを理解してくれたりとか、こういう風にしてみたらどう?とアドバイスをもらえるだけで、自分の気持ちも楽になるし、発音できるようになるかもしれないという、とても欠かせないことだと思いました。 P13  2つめは考え方を変えるっていう事なんですけれども、ずっといろいろな事をやってきて、失敗した事とか、つらい事ってあると思うんですけれども、その考え方を前向きに捉えるように変えていくって事は、かかせない事だと思います。私自身の失敗した経験としては、中学受験に失敗して、志望校に全然ひっかからないで、全然希望の学校じゃない学校に行った時に、悲しいとかつらいだけで終わるんではなくて、そこから自分がどういう風になれるかとか、その中で影響を受けてきたものっていうのが、今につながっていると思うし、今、考えてみると中学失敗したっていうのは良かった事なんじゃないかなとかと思える位な所にあるので、考え方を切り替えるってことが大切な事だと思いました。以上です。 B班/ 説明致します。人が困った時ですね、誰かそばにいて手を差し伸べてくれる人がいればですね、何とかその困難を乗り越えられる事ができると。1人では弱いんですね。WEAKですね。仲間がいれば困難を乗り越えることができるという事ですね。人は逆境により強くなるんじゃないかなと。私も勤めていた会社が倒産してですね。仕事がなくなってね。一瞬目の前がぱぁーって真っ暗になっちゃってね。どうしようかと慌てる訳ですね。それで自分を自己否定的にみてね。ネガティブにみて、もうだめだなと思う。そういう時に、手を差し伸べてくれる人間がいたんですね。それで立ち直ってきた経験があるんですよね。私が言いたいのはですね、立ち直った経験がある。それが大事じゃないのかなと私は思うんですね。簡単ですが、終わらせて頂きます。 CD班/ CとDが合併した班です。私たちの班で、乗り越えるために必要だっていうのが大きく3つ意見が出て、一番大事なのは、気持ちを切り替えていくこと。この前向きにというのは、前の2班の方もおっしゃっていましたが、自分の今いる状況を前向きに捉えて進んでいく。それが一番大事だと思います。自分がそうやって前向きに進んでいく事ができるようになるために、上と下の時間を・・・。まず人にはそれぞれ自分のペースがあると思うので、自分のペース、自分に時間をゆっくりあてて、自分と向きあうこと。そしてもう一つは、下の周りの方の言葉。これも前の2班の方がおっしゃっていましたが、周りの方の暖かい言葉、声援・応援などで、自分の中に新しい考えが生まれる。これによって、気持ちを前向きに切り替えていくことができて、何かあっても乗り越えていく事ができるのではないかという風にまとまりました。以上です。 EF班/ EF班では、4人の経験と立ち直りの方法から、これまでの方もおっしゃっていたんですけど、人との関係がすごく大切だなとみんな思っていて、人との関係の中で、新しい出会い、今までの人との出会いを大切にして、且つ自分らしくいること。自分の存在をそのまま受け入れようというのがきっかけになったなという話になりました。ありがとうございます。 G班/ みなさん、こんにちは。私は留学生です。実は皆さんがおっしゃる事は、本当にすごくうらやましいです。自分は失敗の経験がないんですが、今までの自分の人生はうまくいきました。それが一番大きな失敗点です。Gグループのディスカッションでは、一番大切なのは、自分の前向な気持ち。失敗を必ず乗り越えるという意識を持って、更に家族や友達たからの応援も不可欠だと思います。最後は、皆さん今後失敗に遭遇した時には今日の先生の事を思い出して、いい生活を作りましょう。ありがとうございます。 P14 ●写真 グループワークの様子。各グループに分かれて話している。 稲原/ 皆さん、今日はありがとうございました。皆さん違う人生を歩まれて、違う失敗をしたと思うんですけれども、絶対に人とつながっていてください。人とつながることで人生は開いていきますし、変わってくることがあります。一人では絶対に生きていけません。特に障害を持っていると、皆さん障害者っていうくくり・・・ひとつに括りたがるんですけども、ここにいる3人をみてもらってもわかるんですけど、皆さん違いますね。マイケルも違うし、私も違うし、彼の障害も違う。違うという事をどうか忘れないでいただきたい。もし、人生でくじけそうなった時は、今日の私の経験をどうか少しでも思い出して下さい。本当に何回もどん底までいって、どん底まで行ったら、上がるしかないのです。どん底までいかないと、落ちるとこまで落ちてしまわないと、上に上がってこられないので、落ちることを恐れないでください。最後になりましたが、本当にスタッフのみんなありがとうございました。しょうがい学生支援室のスタッフの方々、このような機会をくださり、ありがとうございました。今後も、ますます頑張っていきたいと思いますので、よろしくお願い致します。ありがとうございました。 司会B/ 先生ありがとうございました。では、以上で、しょうがい学生支援室主催講演会を終了させていただきます。皆さんのお手元にアンケート用紙があるかと思いますが、ご記入いただけたら幸いです。尚、お書きいただいたアンケートはあちらの受付で回収致しますので、お帰りの際、そちらに提出するようお願い致します。本日はお忙しい中、お越しいただき誠にありがとうございました。気をつけてお帰りください。 以上