
フランス文学専修は5人の専任スタッフで構成されていますが、平均年齢が40代半ばと、非常に若いのが特長です。そして、それぞれが専門とする時代が、中世から17世紀ぐらいにかけては私、17・18世紀は桑瀬章二郎先生、19世紀が菅谷憲興先生、20世紀以降の思想が澤田直先生、20世紀以降の文学が一番若い坂本浩也先生、というふうに、時代順にほぼ切れ目なくつながっています。リレー式授業で文学史を講義するときなど、非常にバランスがとれていると思います。
また、教師の全員が、副専攻あるいは副々専攻というような、自分の専門の周囲に配置される分野を幅広くカバーできます。例えば、澤田先生だったらサルトルが専門ですが、それ以外の現代思想も当然扱えるし、ポルトガルの詩人まで訳してしまう。私なら、フランソワ・ラブレーが専門ですが、悪魔や魔女裁判についても講義できなくはない。他の先生方も全く同じで、要するに「間口が広い」のです。
自画自賛を恐れずに言えば、専門の周辺に広がる幅広い知識を持った先生ばかりという点では、理想的だと思います。スタッフのこの陣容は、東大の本郷にも負けていないと我々は自負しています。まあ、向こうが負けたと思っているかどうかは甚だ疑問ではありますが(呵々大笑)。
私の研究分野に関して言うと、フランス・ルネサンス期(16世紀)の文学・思想、中でもフランソワ・ラブレーという作家が専門です。加えて、ラブレーの作品にも少なからず登場する「悪魔や魔女」についても研究しています。ゼミでは、ラブレーの作品を半年に1冊ずつ取り上げて読んでいますが、学生たちは、「大学らしい授業だった」、「知的な好奇心が満たされた」、そんな感想を書いてくれます。
一見すると、無意味な文字列にすぎない、まったく訳のわからないような古い文学作品でも、丁寧に解説を加えていくと、無味乾燥に映った文字の羅列の間から、スッーと意味が立ち上がってきて、パッと時代背景とつながる ― そんな知的興奮を学生たちが感じられるよう、私なりに工夫して授業を行っています。
仏文専修を選ぶかどうか迷っている人にぜひ申し上げたいのは、フランス語に関しては、学生のほぼ全員が初心者だということです。みんな一緒に、アルファベ(ット)のABC(アーベーセー)から始めますから、その点は何も心配ありません。入学して以降、最初の2年間はフランス語の修得に明け暮れます。そうすると、だいたい3年生か4年生で、よくがんばる学生は仏検で2級ぐらいまではいく。2級ですと、辞書を片手にフランス語で文学作品を何とか読めるくらいにはなります。本当にフランス語を身につけたければ、最低限それぐらいのレベルまではマスターする必要がありますね(本当は準1級レベルに到達して卒業して欲しいのですが)。
語学のほかに、入門演習という授業についても強調しておきたいのですが、これは1年生全員が必修で、フランス(文化)とは何か、フランス語圏とは何か、といった基礎的な知識を学んだり、文学のプロたちによる作品のシャープな分析法などについて学んだりします。私の場合は、今年は童話作家ペロー、グリム、パジーレの童話集を比較しながら、童話の背後に何が見えてくるか、という授業をやりました。
学生は、やはり最初は、童話なんて子供の読み物ではないか、一体そんなものの何が面白いのだろうと思うわけですが、最後に感想を書かせると、「こんなに奥深いものだとは思わなかった」と必ず感嘆してくれます。実際、民話学、民族学、歴史学、社会学、文化人類学、精神分析学などの知見に照らし合わせながら読み込むと、童話の行間にすら、思いもよらない宝物がいくつも隠されているのが見えてきます。入門演習は、語学漬けにされている1年生には、唯一文化的な香りの濃厚な授業だということで、非常に好評です。
いまこの時代にフランス文学を勉強することの意義を挙げるとするなら、一見何の意味もないような、そして何の役にも立ちそうにない事柄に、4年間かけて一所懸命取り組む営為が、実は将来非常に役に立つ、ということを認識できる点にある、ということだと思います。
とにかく、まったく未知かつ異質な思考法を学ぶ訳ですから、役に立たないわけがない。新鮮な目で世界を再解釈する姿勢を獲得しようと努めるわけですから、無意味な筈がないのです。出来合いの知識や常識に安住することの危険を学ぶわけですから、本当の成長に繋がらないわけがない。
フランス語を勉強して、フランス語でものを読んで、フランス的な思惟の精髄に触れること、その過程を経て、様々な知識や新たなものの見方を学ぶこと、これが重要です。
な〜に、知識自体は、実は全部忘れてもいいんですよ。全て忘れたあとに残るものが教養だとよくいわれますが、そういう経験をすることが非常に大切なんです。日本語や英語以外の言語、あるいはそれ以外の言語とその文化を学ぶということは、他者を理解するという観点からのみならず、英語一辺倒に起因する情報の偏りを修正する、という観点からも、非常に重要なことだと考えています。
英語のみによる情報は、やはり圧倒的に「米国より」のものが多いのですよ。米国や英語そのものを否定する気は全くありません。アメリカの文化や文学にも、素晴らしい成果は数多く見出せます(当たり前ですが)。しかし、アメリカの価値観が強く刻印された英語、およびそれを媒介として伝播していく一方的な情報を、その他の様々な言語の習得を通して、相対化していく見識と技術とを、日本人はぜひ身に付ける必要があります。
立教の仏文の場合、どちらかといえば、語学よりも思想などを学びたいというような学生が多いですね。大学に入る前から非常に読書量が多い人も、少数派ではありますが、確実に存在します。それも、普通の人があまり読まない本がなぜか多い。
現代思想や、マルキ・ド・サド、作家で批評家のモーリス・ブランショ、あるいはリュース・イリガライというフェミニストが好きだとか、そういう「毒っけ」のある面白い学生がいる率が、我が立教仏文には非常に高い。教師からすれば、そういう学生と話すのはやっぱり楽しいですよ。まあ、個人的には、イリガライはヨミガライ(ヨミヅライ)などと、オヤジぎゃくで片付けたくなるくらい、私は現代思想には懐疑的な方ですが、そもそも、つい最近まで(そして最近でもまだ)、主としてドイツ語圏の、カント、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、ハイデッガー、ベンヤミンなどなど、その時代時代の「現代思想」は持て囃され、しかも、実り多い結果に繋がってもいるわけですから、そうした流行にしびれることは、特に「若気の至り」が許される大学生にとっては、貴重な体験だと思います。
自分も本当はよく分かっていない「思想」に、一次的に洗脳される時期があってもいいと思いますよ。まあ、個人的には、そこからの「脱却」も考えておいた方がいいとは思いますが。
これからの学生には、まずはフランス語を一所懸命身につけること、それから本をたくさん読むこと、非常にシンプルですが、この2つを期待します。
立教の仏文の教員は、一方でフランス語を勉強しなさいと口を酸っぱくして説きながら、他方で本をたくさん読めと、非常に多くを求めるんです。語学フリークであるだけでは困るし、フランス語の習得を諦めて、翻訳ばかり読んでいても困る。ちょっと欲張りですけれど、学生時代にはぜひ、語学と読書の両立を目指して欲しいですね。
学生時代は、知的に欲張りでいられる贅沢な時期です。知的領域でいくら「おかわり」をしても、誰も文句を言いません。また、知的世界では、「本命の恋人」は多ければ多いほどよい。もちろん、生涯の友人を得ること、社会的な経験を積むこと、身を焦がすような恋をすること、などなども大切でしょう。しかし、何と言っても知的世界での「栄養摂取」と「情熱恋愛」においても、是非貪欲であって欲しいと思います。