祖父、江戸川乱歩が自動車の騒音に耐えかねて、わずか1年ほどしか住まわなかった芝車町の家から静穏な池袋に移ってきたのは1934年、本人が間もなく40歳を迎えようという時のことである。
それまで46回も引っ越しを繰り返し、定住ということを拒否していたかのような祖父だったが、増えすぎた家財や書籍で引っ越そうにもできなかったのか、土蔵という収納スペースが魅力だったのか、それとも池袋という土地が気に入ったのか、本当の理由は解らないとはいえ、以後一転して1965年に亡くなるまで、ここを動くことはなかった。
私は1950年の生まれだが、その少し前に、父が立教大学に職を得、後に私が立教小学校に入学することになって、家族が池袋に居住する必然性が高まったことも池袋に住み続けた理由の一つかもしれない。
そのころ、立教の敷地のうち、当家に隣接した部分にはほとんど建物はなかった。家の西側は新学院グラウンド(私は祖父からあそこには神学院があったから神学院グラウンドだと聞いていた。現在は立教池袋中高等学校)、東側は戦争で消失した池袋第五小学校だった空き地で、立教が焼け残ったプールを使用していた。そして南側は馬術部の馬場だった。我が家にもそして立教にも塀らしい塀の無かった時代だから、馬術部の馬小屋に遊びに行って藁を刻んでまぐさを作ったり、飼い葉桶にそれを入れたりさせてもらったことを覚えている。
当時の祖父は六十歳前後という元気な時代で、しょっちゅう出かけていたし、来客も本当に多かった。祖母は接待ということが得意ではなく、そういう面は嫁である私の母が担当していたが、10人ぐらいまとめての客人をしばしばもてなすとなると、とても一人でこなせることではなく、お手伝いさんが住み込みで働いていた。
現在、立教学院内郵便局のところからよく見えるクリーム色の建物は、この頃(1956年)に建築したものである。この家はもともと借家だったのだが、第二次大戦後家主から買い取ることになり、その結果自由に増改築できるようになったので、本人念願の洋館造りを建築したのだろう。フランスの作家シムノンが来日して、自宅を訪問するかもしれない、という噂を聞いてあわてて作った、という話も聞いたことはあるが、本当のところはよくわからない。しかし、祖父本人がプランを作り、出入りの大工に作らせたこの建物は、まさに夢の実現だったことは間違いない。
立教大学が大きく変化し始めたのも、この時代のことであった。まずタッカーホールが建設され、しばらくして1959年には池袋第五小学校の跡地に五号館が、馬場も移転してその跡に六号館が建設された。
(雑誌「立教」第187号掲載)
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蔵の中で執筆中の乱歩氏


乱歩邸の応接間


乱歩邸の庭にあるオブジェ
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