旧江戸川乱歩邸は、立教大学の北側の敷地のさらに北側に隣接して在る。
境界近くにある五階建ての研究棟(六号館)からのぞくと、乱歩邸の有名な土蔵や洋館が間近に見下ろせるような位置関係にある。
ところがそんなすぐ近くにありながら、長い間乱歩邸は、われわれ六号館の住人にとっても、近寄りがたい、一種のベールにおおわれた存在だった。たまに同僚や学生と噂をすることはあっても、そこに大切に保存されてあるはずの旧蔵書や諸資料と、将来何らかの関わりが生じようなどとは想像もしなかったのだ。
乱歩が没したのが昭和40年だから、その後ずいぶん長い間、そうした状態は続いたことになる。しかし、作家の仕事がさまざまな角度から研究され、しかるべき評価を受け、その結果として広く長く読み継がれていくためには、諸資料や旧蔵書の保存と公開が不可欠であることは多くの前例の示すところであり、乱歩の場合も、いずれはそうしたレールにのせていくのが望ましいことに変わりはなかった。
そんななかで、近年になってようやく保存・公開計画が現実化し、当初は豊島区がその任にあたる方向で話が進んでいたが、財政難から頓挫し、わが立教大学にお鉢がまわってきた。具体的に言うと、2001年秋から2002年初めにかけて、旧邸と旧蔵書・諸資料を立教大学が一括して引き受ける話がまとまり、同年2月にはその第一陣として乱歩旧蔵の近世資料が搬出され、目録作成に向けての作業が開始された。その後、2003年4月には土蔵が豊島区指定有形文化財の指定をうけ、6月からは土蔵内の近代関係の旧蔵書の整理も始まっている。またこれと並行して、自筆原稿とか書簡といった寄託資料の整理も始まっているが、こっちのほうはまだ当分終わりそうにない。いっぽう、これらと同等かそれ以上に重要なのが、乱歩邸やその敷地の処遇だが、こちらのほうは現在鋭意検討中だ。
以上が、乱歩邸・乱歩資料と立教大学との関係のあらましだが、実はこうなるのが必然なほどに、乱歩と立教大学とは不思議な縁で強く結ばれていたのである。乱歩の長男の平井隆太郎氏が立教大学で教鞭をとられたこともそのひとつだが、何よりも、乱歩が昭和9年7月に池袋のこの地に転居してきたことから、その不思議な縁はスタートしている。
昭和九年といえば、東京が15区8郡制から35区3郡制に切り替わった(昭和7年10月)直後であり、それまでは北豊島郡に属していた池袋が、新たに設置された豊島区の一部となったばかりの頃だった。その頃を回想した乱歩のいくつかの文章によれば、立教大学や乱歩の家の周辺には原っぱや畑・田圃が多くあり、住宅地としての発展はまだ緒に付いたばかりだった。
(雑誌「立教」第186号掲載)
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土蔵外観(修復前)


6号館から見た土蔵 |