カンタベリー大主教メッセージ

今日における聖公会の大学の使命 - 名誉博士授与記念講演 -

名誉博士学位授与式・記念講演

日時 2009年9月21日(月)16:00~17:30
場所 立教学院諸聖徒礼拝堂(池袋キャンパス チャペル)

講演内容

第104代カンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズ師
第104代カンタベリー大主教
ローワン・ウィリアムズ師

本日この立教大学で歓迎いただき、名誉博士号を授与されましたこと、大変光栄に思っております。この大学の輝かしい歴史と今日の姿は、チャニング・ウィリアムズ主教の創立のヴィジョンと、彼の後継者となった方々が保ち、また発展させてきた一貫した方向性というものへの、類まれな証でありましょう。立教大学は、その特性を今もって保持しております。私が読みました限りでの立教大学の創立の精神、運営の精神は、キリスト教の大学、聖公会の大学が、今日のようにその言語と行動がますます世俗化している多元的社会において、特別に有している極めて重要な手がかりを示しております。

キリスト教の教義では、人間は神の似姿に従って造られたと考えられておりますが、そのことは、人間は神の理性的な性質のようなものを分かち持っている、というように通常理解されています。しかし、このような用語を今日使いますと、とたんに誤った印象を与えてしまいます。私たちは「理性」というものを、諸問題を論じたり試したりする方法、それは通常そうすることによって、私たちをめぐる世界をより良く操作することに関することだと理解しています。宗教的信仰というのは、このような議論のためのものではないので、信仰と理性は敵同士である、あるいは、それぞれ働きの場が違うのだと容易に結論付けがちです。ヨーロッパでは中世の初期に、すでに聖ベルナルドとピーター・アベラールの間に論争が生じ、このような不毛な対立の徴候がありました。聖ベルナルドは、アベラールに対し次のような不満を表明しています。アベラールは、信仰というものは、討論が完了してしまったあとで、ひとつの知的な見解、あるいは知的な想像物として登場してくるもののように考えており、理性というのはせいぜい根拠を整理し、適切な議論と不適切な議論を区別するかを教えるだけだと考えていると。聖ベルナルド自身は、理性というものを、それによって私たちが秩序があり、相互連関する世界という神のヴィジョンを分かち合う在り方として、以前からの豊かな理解を主張しています。神は、議論にたけており、充分に吟味された結論を導くが故に理性的だ、などと言うことはできないでしょう。神学者たちが神は理性的だと言う時、それはこういう意味で言っています。つまり、神はご自身、首尾一貫しておられ、ご自身の存在の豊かさの中から、驚くほどの、そして見事な多様性を持ち、しかもその中にも一貫性を持った世界を創造されたのであると。

多分この点から、大学のようなキリスト教の教育機関における理性について、検討を始める必要があるでしょう。“合理的な”あるいは“理性的な”人間とは、この理解に従えば、私たちを囲む受動的な宇宙をまず支配して操作することを求める人間なのではなく、現実というもののリズムと諸相を発見し、それらをさらに充分に理解できる道筋を求めようとする人間のことです。確かに、このように考えること、つまり、私たちが敵対するより、その中で働くべき現実の姿に向おうとする考え方の方が便利でしょう。けれども、最初の問いかけがいつも「このことの有用性、あるいは利点は何だろうか」というものであったとしたら、私たちは、手近な実用的な問いかけの外側にあるすべての物事をいつも無視することになってしまうでしょう。この問いかけは、偉大な発見を生み出した精神ではありませんし、偉大な人間を生み出すことになった精神でもないでしょう。あらかじめ重要な問いかけが何かを前提とせず、むしろある程度の驚きと不確かさに身をゆだねつつ、みずからの心と精神を、みずからを囲む流れと複雑さによって形造られることを許すことのできる学徒と研究者こそ、必ずや革新的また創造的な洞察に至ることができるでありましょう。

このようにキリスト教の学問の府の中心的任務は、その学生がこのように創造的になれるよう余裕と自由を許容することです。“自由”こそ、この大学が大切に考えている言葉であると理解しております。高等教育を受けられなかった人々に、その道を備える自由。勉強の分野とコースの幅広い選択をすることのできる自由。同時に求め探究する自由。これこそが、神の似姿をもった人間に私たちが関わっていることを示している自由が意味するものです。これをいくらでも神学的に説明することができますが、その本当の意味を伝えることができるのは、個人的であれ共同的であれ、この教義をどのような行動と施策によって受肉させることができるかを、私たちが示してこそできるのです。黙想的で創造的自由こそ、人間の使命と能力にとって最も特徴的なものであると本当に信じているならば、どのような行為が一番適切かを示さなければなりません。短期的な成果と学問の極めて狭い機能的モデルがもてはやされるという状況(日本ばかりでなく、経済的先進国世界すべてについて言っているつもりですが)の中では、これは強力な対抗文化的証となるでしょう。これらの諸原則を重んじる大学はあらゆる方法での自由をもたらす機関となるでしょう。これからのお話の中で、いくつかの方法を示すことができればと思っております。

以上のような問いを現状に照らしてみますと、もうひとつ基本的な指摘が必要です。すでに申し上げたように、理性についての伝統的なキリスト教の説明は、現実の諸相とリズムに適切に呼応するものでなければなりません。聖ベルナルドと彼に代表される伝統、つまり、理性的であることの究極の検証は、あなたの宇宙における位置というものをあなたが了解したかどうかということにあります。理性的である人間は、どのように人間が天使と動物の間に立っているか、人間が神のご意志との関連の中で、どのようにその心を特別な方法で用いようと命じられているかを、把握しているはずです。神の似姿に属する創造性というものは、神に造られたものとして適応している生き様の“創造”のうちに表れるべきものです。――謙遜で、心遣いが細やかで、適切な選択ができ、忍耐強く一貫性を持ったひとつの自己、ひとつの魂として成長できることなど、です。

そのような枠組みの中で、理性的でない致命的なことというのは、あなたが何者であるのか了解できないこと、たとえば、自分を天使もしくは動物であると思ってしまうことや、あなたのいのちが、神のご計画やめぐみから孤立しているかのように考えてしまうことです。真実というのは、ここで理性的というのは、固有であること、現実すなわち神の現実、世界の現実との関係を自覚していることであり、もしそうであるなら、理性的な人間のための教育とは、関係の中での教育ということになります。

これは、歴史的なキリスト教の普遍的遺産の一部ですが、アングリカン教会形成期の著作家は、理性のこのような関係性を表わす面を、特別熱心に評価していると思います。リチャード・フッカーは16世紀の終りに書いているのですが、その当時の政治的論争また教会政治上の論争に際して、最初の原則にもどりつつ次の点を指摘しています。神のみ業と神の本質はつながっており、宇宙は神の知恵にその基礎をもつという考え方、――このことから私たちの理性の成熟は、神の美と調和に現れた開かれた神の性質へと向う成長であるに違いない、ということを指摘しています。その数年後、詩人であるジョン・ダンは、理性を古代の用語である「総督」と呼び、すなわち、神の主権の私たちの内なる代理人という意味で用い、私たちの混乱と苦難は私たちの神との関係の破れと、この神の主権が妥協させられた結果であると言い、それによって、私たち人間は、私たちの本来の人間性を封じ込める破壊的諸力に対して無防備にされているのだと述べています。ここで適切に理解されている理性とは、私たちの本来の尊敬に満ちた在り方をおとしめ、傷つけているものから、私たちを救い出すべきものとされています。ヨーロッパの知性の世界に働く多くの力が、より非人格的で機能的な理性観に傾いていった時代にあっても、多くのアングリカン関係者の偉大な精神は、理性というものを神との正しい関係ということと切り離して考えることは意味が無いという確信をしっかりと持ち続けていました。

第104代カンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズ師

理性的な人間の成長とは、正しい関係を可能にする人間の精神と心と想像力の成長であります。従ってキリスト教、特に聖公会の大学は、他者との関係、環境全体との関係、神の究極の真理との関係を反省する機会を供することになります。学生たちに社会における自分たちの居場所と潜在力を理解させるようにします。もう少し挑発的な言い方をすれば(他の所でもそうしたことがあるのですが)、大学は、学生に対して学問と政治的解放の関係付けを明らかにし、ひとつの政治制度を押しつけるのではなく、理性的な人間の責務とは、社会生活を共に営み、政策を分かち合う言語をもって、ひとりの市民として人間の創造性を発揮してゆくことだということを、気付かせてゆきます。学生たちが議論とその根拠を検証する技術を身につけるに従って、また、学生たちが様々な分野の学問と研究をマスターしてゆくに従って、彼らは、このような技能が如何にして自分たちの社会のニーズと指導者の主張を判断する上で、助けになるようになるかを考える時間と励ましが必要になるでしょう。理性的であるとは、社会全体の福祉のために、そうすることが必ずしも明らかではなかったり、歓迎されもしないような問いかけや可能性に着目して、公共の社会に対して積極的かつ批判的なアプローチをすることであります。理性的な教養ある人間は、普通の意味での政治的活動家である必要は無く、常に問いを発し、市民であることの中に向き合うことに希望を持って関わる必要があります。

公共の分野、また政治的分野を合理的に考えてゆくための教育は、人と人との関係の成熟した自覚、すなわち正義と慈しみ、和解そして人と人との間における人間としての成長が、どうずれば理性をもった生活の一部となってゆくかという自覚と切り離すことはできません。キリスト教の教育機関とは、すべての人が同じひとつの道徳や秩序のパターンに導き入れられる場というわけではなく、正義と慈しみと相互性が目に見える形にされるような生き方に、いつも人々が挑戦を受けているような場であります。少なくとも、これらのことは、人間にとって可能であるということを誰も忘れてはならないし、これらの事が、永続的な人間の福祉にとって中心的なことであると何人も忘れてはならないということです。チャニング・ウィリアムズ主教の格言であった「道を伝えて己を伝えず」はまさにこのことに符合することです。そこには、権威主義的な方針や世間と迎合しようとする試みなどみじんも無く、それで何かを目に見える形にしようとする、人々を招き、可能であることを示しているひとつの在り方としての教育の中に、ある道義的風土が存在しています。

そして、これこそ、他の人々と共にある在り方ばかりか、世界の中にあって在るべき方向であります。今日、私たちの環境に対する責任ほど極めて緊急な道徳的課題はありません。もし私たちが真に理性的な人間性を形造ろうと求めているなら、これまで20世紀の間、生産と消費の慣習の中で合理的とされてきたものを大いに疑問視する必要があります。これはただ如何にして私たちが破滅を避けるかというような、もちろん、そのことも深刻ではありますが、それほど単純なことではありません。私たちが住んでいるこの世界とどのような関係を持てば、調和的であり適切であるのか、またどのような関係を持てば、創造主の特質の目的に沿った方法で、物質的環境を尊重することになるのかということに関わることです。キリスト教の教育機関は、エコロジーへの責任に関わるそれ自身の方針を絶えず自己検証してゆかなければなりません。それと同時に、教育機関は、もう一度申しますが、この世界と基本的に平和を保つような生き方のスタイルのために何が可能であるのか、人々が目にする事ができるような場でなければなりません。立教大学は、物質的見返りや、ただ学生を就職市場に備えるだけとすることや、また異常なまでに競争的な学習慣習に応えようとするなどの狭い関心事とは、意図的に一線を画した立場をこれまでとってきました。今現在の時点で、昨年来の金融危機の高まりの中で、世界中の人々がどのような行動がいのちを新たにし、また保全できるのか問うていますし、私たちは強欲で、個人主義的で、自己中心的で異常な在りようというのを見ることになりました。かつてないほど、私たちには、他の可能性へととびらを開くような教育実践と教育共同体が求められております。

私たちの時代がどれほど世俗的に思えようとも、資源消費的な習慣や異常な金銭取引の破滅的な結果は、人々をもう一度、自分たちの生活の中に神聖なるものの要素が必要であるということを認めさせることになりました。それは、人々には美しいもの、良くわからないもの、悲劇的なもの、そして、私たちがコントロールする力のないすべてのものに対して、心から応答する自由が必要なのだという意味なのです。この種のことを、物質世界全般と私たちの関係の中で理解することを助けるひとつの場こそ、真実の希望のある場所です。この大学の歴史の中で、ライフスナイダー主教が精神的教育にプライオリティーを置いたということは、この点を強調していることです。教育機関の営み全体が、あらゆる現実がその根源と意義の基盤として関連している最終的な課題へと道備えを行わない限りは、他のあらゆる教育を行っていく本質的な理由は何もないでしょう。キリスト者にとって、また、他の宗教を信じる人々と同じように、私たちがあらゆるものの根源と正しい関係を持っている時こそが、私たちがお互い、また世界と如何に関わるべきかを学ぶ時なのです。神と関係を結ぶことは、次の事実を私たちが徹底して受け入れることを要求されます。すなわち私たちは依存的な存在であること、私たちが測り知ることのできない神秘の淵にいつも立っていること、私たちのいのちの真実の方向は、私たちが検証もせず勝手に思い込んでいることが示すようなものでは必ずしもないこと。――これらを受け入れることを要求されます。神と関係を結ぶということは私たちのうちに、沈黙と聞くという習慣、みずからが喜んで問い問われるという習慣を生み出します。特にキリスト者にとって神と関係を結ぶということは、神の子の役割へと成長して、成熟へと召され、依存と創造性が相分かれることなくともに在る、という生活へと呼び出されることを意味します。キリストの生き方を映す生き方へと成熟することへと召され、キリスト者は、失敗の可能性と、知ることのできない現実があることを絶えず自覚するという深い謙虚さをもって、また、神は一人ひとりの人間を絶えることのない愛情あふれる尊敬をもって、一人ひとりを育て完成させる願いをもって、ご覧になっているのだという信頼に基づいて、自由と尊厳と大切さの思いをもって生きることを求める存在です。このことから、全倫理の体系、すなわち、人間同士と物質世界と現実主義への忍耐強い尊敬の念、そして、シニシズムや絶望へと簡単に行き着いてしまうことなく、しかもすべては一時的なものだというセンスとがもたらされるのです。

宗教的なものに基礎をおく教育こそ、極めて「理性的な」教育であるというのは以上のような意味からです。その教育が、この現実の世界に私たちが住まう上での必要なわざを伝えてくれます。少々変に聞こえるかも知れません。「現実の世界に住まう」とは、人々が冷たい競争と不信と期待の薄いこの世を正当化しようとする時によく用いる表現です。しかし私たちをめぐる現実はただ脅威と不確実性に満ち、他者がいつも不安の源であるようなそんな単純な世界ではありません。現実は、家族から社会に至る人間の共同体をとおしてまた物質的経過をとおして私たちを育て、また生き生きとさせる場でもあります。どんなに私たちが、私たちの置かれた状況の危うさ(家族と社会の脆弱さ、人間関係のもたらす危うさを含めて)を指摘したとしても、私たちは、ただ恐れを糧とするだけでは生きてゆけません。私たちは、信頼の中へと歩み出さなければなりません。そうでなければ、物理的に、感情的にまた精神的に飢えてしまいます。恐らく理性的である教育というのは、リスクという避け得ない性質と私たちの環境に信頼するという中での教育ということになるでしょう。

講演の様子

ヨーロッパでは、盛んに「信仰に基づいた」教育、また「信仰学校」等々について論じられています。この表現から大抵の人々が聞きとることは、ある決められた宗教的諸原則における教育ということでしょう。しかし、そういうことを言っているのではありません。確かに宗教に基盤を持つ学校・大学は教義上守るべきことを持っているでしょう。申し上げたように、私たちは神の似姿によって造られているという信仰は明快で特定な教義ですし、神ご自身が造られたその似姿に関与され、その像をイエスの生と死と復活において何の見返りも求めず、回復されようとしたのだと物語りつつ、キリスト教の信条は、そのような信仰が意味するところを簡潔に述べています。けれども、キリスト教教育機関を特徴づけているものは、その教育共同体のスタイルとエトス(特質)の中にその教義がどのように作用しているか、ということなのではありません。もし、その教育機関の全体的な在り様が、常に信頼するに足る、最終的実在は存在するのであるからリスクをおかす価値のあるものだというメッセージを発信しているなら、それこそ、教義の意味が明らかにされていることです。「信仰に基づいた」教育とは、諸々の関係を作り出しそれを保ってゆくために、行動を起こし、発見し、創造する勇気をもって現実主義に徹しつつ、なおすべては一時的なものだという認識を混在させる中での教育ということになります。

悲しいことですが、今日の文化状況の中では、宗教的信仰というのは理性的ではなく、つまり、理性的ということを根拠とその検討というように捉えているので、信仰というのは、結局関係性を打ち壊し、暴力を生み出すことになるというふうに信じている人々がたくさん居ります。しかし20世紀を冷静に見返してみるなら、世俗的な思考の合理性も、普遍的な理解と和解を保証するものではないことが分かります。私たちに核兵器と地球規模の金融崩壊をもたらした合理性というものは、いくつかの鋭い問いを提起しています。やんわりと表現しますと、このような合理性は、何かしら理性という理念そのものに対する反感、そして科学に対して、また普遍的価値その他諸々に対しての反感と関連があるようです。最近ローマ教皇が何度か論じているように、相対主義と多元主義に陥ってしまう傾向は理性の勝利ではなくて敗北です。教皇が言うように、宗教的信仰は合理性を放り出して勝利を得るのではなくて、理念を再獲得してそれをもう一度古来からの基礎の上にすえることをすべきでしょう。私たちの出発点に戻るなら、キリスト者にとっては、理性的な人間という考え方は人間は単なる本能ではなくて現実的で知的な行動をすることのできる神の似姿のうちにあるという確信と、しっかり結びついているということです。そして、知的な行動とは、私たちが周りの宇宙と、特に大切なのはその宇宙に一貫性と調和を与えている神の知恵との関連の中で、どこに位置しているのかという自覚に根ざした行動のことです。このことが認められるなら、その他の認識はついて来るでしょう。つまり、科学的方法の可能性と重要性の認識、批判的で柔軟な政治の認識、いかに不完全であろうとも真実に近い自己認識の可能性などです。その意味では、ダーウィン、マルクス、フロイト等すべてがキリスト教神学に多くを負っていると言えましょう。それぞれ各人は、人間の複雑さについての異なった分解を行いながら、結局みずからが止まっている木の枝をみずから切ってしまうことになるのでしょう。しかし、彼らがもたらした洞察は、神の知恵への信頼と神が創り給う似姿という定めによって構成されている知性の世界に、その居場所を見出すことでしょう。

人間的動機と思考を、物質的であれ、心理的であれ、ある決定論的パターンに要約してしまうことが、解放と成熟のしるしだとするのは、近代の知的営為の最も危険な愚かしいドグマです。しかも悲劇はこういう見解に対するある種の近代の宗教性からの反応が、やはり危険な次のようなドグマであったということです。すなわちそのドグマはダーウィン、マルクス、フロイトさらには彼らの数多くの追従者らの批判的かつ懐疑的科学は、信仰の破壊者であるのだから、卑しめられるべきであり拒絶されるべきであるといいます。この両方に見られる知的暴挙に応えて、「キリスト教ヒューマニズム」としばしば呼ばれるものが果たすべき強力な役割があります。これは、良くそう考えられるように、人間の自己が善であることとか、人間の想像力の素晴らしさを何となく承認する思想というようなことではありません。キリスト教ヒューマニズムとは、そのような諸々の幻想を打ち破って、人間に関わる悲劇と未解決の問題に正直に直面しようとするひとつの在り方です。それは、神が人間をそのように扱われたが故に、人間の変わることのない十全の価値を認めているという点で、極めて「人間主義的」です。しかし、キリスト教ヒュ-マニズムは、神が人間をそのように扱って下さったということに基づいているので、私たちが思いがけなく真実の表現を示すことができるような包括的で完全に自由で、超越的な実在を訴え語っています。キリスト教ヒューマニズムは、人間の絶対的価値は自明のこととするいわゆるヒューマニズムと、またそのような主張は連帯を欲する感情の強い表現以外の何ものでもないとする相対主義、その両方に挑戦するものです。キリスト教ヒューマニズムは、人間全体にとって善なるものは、すべての人々の思いと心がひとつにされる、あるひとつの普遍的な運命であることを意味しています。さらに、それは、根本的には非暴力のヒューマニズムであり、ひとりの人間、ひとつの共同体、ひとつの文明にとって善であることは、他者にとっての善なるものと統合されるべきであるとの主張をもって、常に和解の基盤を求めてゆくものです。人と人との間の交わり、共同体同士、あるいは民族的グループや国家間の正義と平和は、このような普遍主義の実りです。

これこそまさに、“合理的”な世界であり、これは神の似姿に従って造られた人々にふさわしい家です。今日の世界にあるキリスト教学校・大学は、信頼と、神と世界とを関係づける能力と、人間家族の将来は分裂ではなくひとつにされてゆくべきであるとの確信、これらをはぐくみつつ、あらゆる社会の健全さのために欠くことのできない役割を持っています。キリスト教教育機関は、どんな世俗的な合理性でもそうするであるような、知的探求と知的革新を為すことができる、真実に理性的な人間を社会に提示してゆくのです。同時に、その理性的人間は、理性とは、尊敬の念、癒し、謙遜、そして最終的には愛に関わるものだという、もうひとつの本質的な洞察をつけ加えることになるでしょう。大学は愛を教えることはできません。愛をはぐくむあらゆることを押さえつけてしまうような教育機関(そういう所が世界にはいくつかあるのですが)、それらは人間にとって脅威です。教育とは感情的にも知的にも成熟した自己の成長に適切に関わることですし、理性的な人間を育てるということは、少くとも、次のことを指し示す必要があります。つまり、愛が意味することとは(仏教徒である人々は愛が意味するすべてがいわゆる愛と呼ばれているのかどうかと鋭く問うていますが)、それが感性の過ぎゆく一状態というのではなく、思考及びみずからを関係づける行為の全体的次元なのではないかということを示す必要があります。こういう場所がこのような次元のように、永続的にしかも控え目にキリスト教信仰に深く立つ大学が差し出すことのできる大きな賜物を有している場所なのです。そういう場においては、大学はその希望とヴィジョンを愛の究極的定義――すなわち、私たちが愛の自己規定と呼ぶもの、神が自己を無として人間の形を取り、私たちが神の似姿を回復することができた――そういう愛の究極的定義に委ねることになります。恐らく皆さんは、今まで申し上げた、かなり多くの知的神秘性をともなった荒削りな神学論義と、キリスト教の主張と他の宗教の主張との関連で起こってくるさらなる問題点を含めた、神学の周囲に展開される敬虔な想いとの間に、かなりのギャップを感じられることでしょう。また、このような神学的論議と、高等教育機関を運営してゆく毎日のビジネス、たとえば、お金の工面、教科の計画、入学者獲得の方策などとの間に、ギャップを感じられることでしょう。にも関わらず、立教大学設立の当初から、これらのことは、全く別の世界の事柄だとは見なされてきませんでした。そしてもし、大学というものが、それぞれの社会の分かち合われるべき善のために働くなら、そしてある程度そうしなければならないのですが、そうであるなら、何が善であり、どこにその基盤を求めるべきかについて、明快で革新的な感覚を働かせることが肝要なことであるはずです。そういう意味で、私たちは、この大学で、善なるもののヴィジョンに形と存在を与えるために、これまでに為されてきたことを感謝をもって受け取ろうではありませんか。そして、その未来を、理性的確信をもって神の手に委ねてゆきましょう。

(翻訳:植田仁太郎東京教区主教・本学院理事)

理念

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