新入生の皆さんへ

立教大学総長 吉岡 知哉
2011年4月

立教大学総長 吉岡 知哉
新入生の皆さん
入学おめでとうございます。
 
立教大学はこの春、4,617名の学部生と、535名の大学院生を迎え入れました。新しく立教大学の一員となられた皆さんを、私たちは心から歓迎いたします。
 
毎年4月に、大学は新入生を迎え入れます。学生にとって一生に一度の入学式は、大学という共同体にとっては、年に一度、「始まり」の時を意識し、自分たちの原点を確認する、「再生」の儀式です。この季節は、それゆえに、春という名にふさわしい、軽い興奮を伴ったものとして私には感じられます。
けれども2011年の春を、私たちは、いつもと同じようには迎えることができませんでした。3月11日に発生した東日本大震災と津波、それに伴う福島第一原発事故の深刻化という事態のなかで、立教大学は卒業式と入学式を中止し、新年度の授業開始自体を、ひと月遅らせざるを得なかったのです。
この決定を下すにあたっては、強い余震の多発、計画停電と交通機関の混乱、原発事故の推移等を総合的に判断しました。その際には、学生の安全を第一に考えて、一カ所に多数の人間が同時に集まる事態を避け、電力や燃料、生活必需品が不足している被災地と被災者の方々への負荷をできるだけ軽減するよう配慮しました。
しかし、新しい年度の初めに、新入生の皆さんに直接お話しする機会をもてなかったことを、私は心から残念に思っています。

今回の東日本大震災は、巨大な自然災害であるだけでなく、人間と自然の関係、文明社会と科学技術のあり方を根底から揺るがす出来事です。私たちの社会は、一瞬にして一万数千人の同朋を失い、今なお十数万人の方が、過酷な避難生活を余儀なくされています。現在も終息の展望が見えない原発事故は、人類の文明が生み出した最先端の科学技術が、人間の統御能力を超えるさまを、私たちの眼前に示しています。
大学は、文明社会の発展に大きな役割を果たしてきました。とりわけ19世紀以降の科学技術の進歩は、大学という研究・教育機関の存在なしには成り立たなかったでしょう。
その意味で、今回の大震災と原発事故は、大学にとっても、自らの存在意義にかかわる大きな出来事でした。私自身、研究教育に携わる大学人として、この状況に真摯に向き合わなければならないと考えています。

皆さんが入学された立教大学は、137年前、1874年に、アメリカ聖公会の宣教師であるチャニング・ムーア・ウィリアムズ主教が、東京の築地に作った、「立教学校」という小さな私塾をその起源としています。当初わずか数人で始められた立教学校では、聖書と英学の勉強がなされたといわれています。

東京六大学を初め、現在まで続くいくつもの大学が、やはり同じ時期にその礎を築いています。この時期は、明治維新を経て、日本が近代国家への歩みを始めた時期にあたります。国家運営のための官僚と、殖産興業を担う技術者の育成を目的として設立された、東京帝国大学はもちろん、福沢諭吉の慶應義塾、大隈重信の東京専門学校、明治法律学校、法政大学の元となる東京法学社、中央大学の前身である英吉利法律学校など、多くの学校が、実学と立身出世を掲げ、近代国家と産業社会の担い手の育成を目指したのです。
その中で、立教大学は、創設のときから、ヨーロッパの伝統に根差すリベラルアーツを中心とする人間教育に力を入れてきました。近代的大学の枠組みに沿ったこれらの大学と並べてみると、立教大学は、やや異質な存在なのです。
近代的な知の体系、近代社会の仕組みの限界は、久しい昔からさまざまに指摘されてきました。グローバル化が進み、インターネットが世界の情報を一瞬に結びつける現代にあって、これまでの思考の枠組みが現実に追いつかなくなっていることは明らかです。近年、「教養」の重要性が強調されるようになっているのも、このような時代状況を反映していると言うことができますが、近代の大学の中にあって、立教大学が教養教育の伝統を保ち続けてきたことを、立教生として知っておいていただきたいと思います。

新入生の皆さん。
皆さんはこの困難な時期に、このような伝統を持つ立教大学に入学されました。立教大学の一員となった皆さんに、私は、ぜひ真剣に勉強してほしいと願っています。
では、勉強する、学ぶとはどういうことでしょうか。
もちろん、これまで知らなかった新しい知識を身につけることが重要であることは言うまでもありません。これから皆さんが大学で学ぶさまざまな知識は、高校までに学んできたことと比べると、確かにずっと高度なものであると言うことができるでしょう。
しかし、大学で学ぶことの意義は、高度で新しい知識の獲得に尽きるものではありません。学ぶ過程で知識の獲得は絶対に必要ですが、知識を獲得したからといって、学んだことにはならないのです。
これまでの学校生活で、面白かった授業、わくわくした授業を思い出してみてください。その時私たちは、授業に取り込まれてしまい、いわば我を忘れるという感覚を持ったのではないでしょうか。
「学ぶ」という言葉は、「真似(まね)ぶ」、まねをするという言葉と同じ語源をもっていると言われます。まねをすることで、「私は、私ではない私」になります。つまり私たちは、学ぶときに、現に今ある私の外に出て、他者のまなざしを持つことになるのです。
あるいはこのように述べた方が正確かもしれません。あらかじめ確固とした私が先にあるのではなくて、私は学ぶことによって、他者のまなざしを持ち、そのまなざしを通じて、私を発見するのです。
学ぶこと、勉強することとは、私が私ではない他者になること、私のなかに他者を育てることです。私の中に他者がいることによって、私は、私以外の人々の、喜びや哀しみに共感することができるようになるのです。

読書が大切だと言われるのも、同じ理由からだと言うことができるでしょう。読まれなければ、書物はただ紙のうえにインクの点と線が書かれているだけのものです。私たちは、文字から文字、ことばからことばへと辿りながら、書物の世界に足を踏み入れていきます。わくわくする授業と同じく、素晴らしい書物を読んでいるとき、私たちは読んでいる自分と書物の世界との区別を忘れてしまいます。読書を通じて、私は私から抜け出してもう一つの世界を経験し、それによって、私の中の他者を育てるのです。

自分の中に他者を持つこと。他者のまなざしで自分を見ること。複数のまなざしで世界を見ること。これらのことができることこそが、「教養」という名で呼ばれるものです。「教養」とは、知識の集積を超えて、他者に深く共感する力なのです。
同時に、このように考えてくると、「学ぶ」という営みは、授業や読書に限られないことがわかります。スポーツであれ音楽であれ、我を忘れるほど何かに熱中することで、私たちは多くのことを学ぶことができるでしょう。

リベラルアーツの伝統をはぐくんできた立教大学は、「学び」のための多様な機会を作り出してきました。立教大学で真剣に学ぶことで、皆さんはこれからの人生を生きていく確かな「自信と誇り」を身につけるに違いありません。

新入生の皆さん。
これからの学生生活を存分に楽しんでください。
改めてお祝いを申し上げます。

入学おめでとうございます。
「自由の学府」へようこそ。

理念

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