
2011年10月23日
立教大学総長 吉岡 知哉
皆さん、こんにちは。
4月からの新しい生活はいかがでしょうか。
この春、卒業式は3月24日、25日に予定されていましたが、震災直後の混乱の中で中止せざるを得ませんでした。インターネットでメッセージの映像配信を行いましたが、皆さんを送り出す式典を行うことができなかったことを、私たちは今でもとても残念に思っています。本日、このような形で皆さんに直接話をする機会を得たことを、大変うれしく思っています。
3月11日の東日本大震災から7ヶ月あまり、4月からの新学期を、ひと月遅らせて開始した立教大学も、夏休みを経て、現在は平常通り、後期の授業を展開しています。
東日本大震災と原発事故、そしてその後の社会の状況は、私たちに、自然と文明の関係、科学技術や情報革命の進歩の意味、政治社会のあり方など、根源的な問題を突きつけました。しかし、実はそれらの問題の多くは、以前から指摘され続けてきたものであり、3.11によって生じたというよりも、既にあったものがあらわになったと言うべきなのです。
このような諸問題に、知性の府である大学がこれまで十分に対応できていなかったことは明らかです。また、3.11以後の多くの学者や専門家、あるいは著名大学出身の政治家たちの言動は、日本の高等教育に対する信頼を深く傷つけました。これまでも述べてきたことですが、このような事態を、私は大学人として、深刻に受け止めなければならないと考えています。
私たちが現在生きている社会は、「3.11以後」であるのと同時に、「9.11以後」、あるいは「リーマンショック以後」でもあります。現在直面している、情報テクノロジーの高度化やグローバリゼーションの進展といった「21世紀的問題」に対して、私たちは、その変化の速度に対応し得るだけの能力と同時に、知識や技術が「人類の現在と未来」に対して持つ意味について、問いを発する力を持たなければなりません。それは、研究者の倫理であると同時に、市民一人ひとりが身につけるべき叡智です。
震災直後からの状況は、さまざまな情報や意見が錯綜する中で、自分で考え判断することの大切さを浮き彫りにしました。近年、特にその重要性が指摘される「教養」あるいは「リベラルアーツ」は、そのための基礎をなす知の体系に他なりません。
立教大学は、創立当初から、この意味での「リベラルアーツ」を大切にしてきました。もちろん、「リベラルアーツ」の内容は時代とともに変わります。現代の「リベラルアーツ」は、専門的な知識と切り離しては存在し得ません。立教大学では「専門性にたつ教養人」という言い方をしていますが、卒業生の皆さんがそれぞれの出身学部で学んだ知識は、教養を支える中心部分を形作っています。皆さん自身がどれだけ自覚されているかはわかりませんが、立教大学で学んだことで、皆さんは現代社会を生きていくための基本的な能力は既に十分身につけているのです。
新しい社会生活を始めて半年。皆さんは今、その新しさに慣れることで懸命だろうと思います。経験したことのない環境の中で、学生時代とは質においても量においても異なるさまざまな知識を、身につける努力をされているに違いありません。そんな今の皆さんにとって、「リベラルアーツ」とか「教養」とかは、あまりピンと来ないでしょうし、それは当然のことだと思います。けれども、立教大学での学生生活の間に、「リベラルアーツ」の思想は、皆さんの思考方法や振る舞い方の中に、深く刻まれていることは間違いありません。
私は初めに、今日このような形でこの3月に卒業された皆さんにお会いできたことの喜びを述べました。しかし同時に、気持ちのどこかで、既に立教大学を後にして、自分の道を歩み始めている皆さんに、いわば背中から声をかけることに対するためらいがあることも事実です。立教大学のことはさらりと忘れてしまっていい。少なくとも今は、自分の現在に集中してほしい。そのようにも思うのです。
それでも皆さんは、いつか何かの時に、自分が立教で身につけた、かけがえのないものを、発見することになるでしょう。そんな時、肩越しに後ろを振り返ってみてください。
皆さんの活躍に心から期待しています。どうぞ凛と胸を張って、自らの歩みを進めてください。